ヘブライの館2|総合案内所|休憩室 |
No.a1f1401
作成 1996.12
●元イスラエル首相レヴィ・エシュコルは、1969年、ダヴァールの会見で以下のような見解を述べていた。
「パレスチナ人とは何か? 私がここへ来たとき、わずか25万人の非ユダヤ人、それも主にアラブ人とベドウィンしかいなかった。この地は、十分開発されていないというより、砂漠といったほうがよかった。何もなかった。連中が我々からこの地を取り上げることに興味を持ち出したのは、ただ、我々がこの砂漠に花を開かせ、植民するようになってからだ」
●つい最近まで、世界の大部分の人は、少しも疑問を抱かず、ゴルダ・メイア首相の次のような発言を受け入れてきた。
「どうして我々は、自分たちの占領した土地を返還できようか? それを返還するにも、受け取る人間がいないではないか。パレスチナ人などというものはいなかった。パレスチナにあたかも自らをパレスチナ国民とみなす人間がいて、我々がやってきて彼らを放り出し、彼らから国を取り上げた、ということではなかった。
そもそも、『パレスチナ人』などというものは存在しなかったのだ」
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●今日、パレスチナ人の運命が、相も変わらず中東紛争の核心を成しているにもかかわらず、多くの理由によって、彼らが問題の本当の焦点になることはもちろん、これらの人々の存在そのものが無視されてきた。客観的な観察者たちも横道にそらされてしまった。というのは、多くのユダヤ避難民たちがヒトラーの地獄を逃れてパレスチナに安住の地を求めてやって来た事情を少しでも知ったりすると、彼らはおおいに心を動かさずにはいられなかったからである。
新国家形成に見せたユダヤ人たちの大きな成果は、当然なことに大変な称賛を博した。しかし、ヨーロッパのユダヤ人たちの苦境はそれとして、生き残りの犠牲者たちの国家があたかも真空状態の中に作られたかのように見なすべきではないだろう。
●パレスチナに「先住民」が住んでいるという発見は、初期のユダヤ人入植者たちにはひどいショックとして迎えられた。“シオニズムの父”テオドール・ヘルツルの親密な仲間で、第1回シオニスト会議の「バーゼル綱領」を起草したマクス・ノルダウは、1897年のある日、泣きながらヘルツルの所へやって来て次のように訴えたという。
「しかし、パレスチナにはアラブ人たちがいる。私はそんなことを知らなかった!」
●エイモス・エロンは著書『イスラエル人/建国者たちと息子たち』の中で、シオニストの入植者たちの非現実性を次のように指摘している。
「復古主義の運動ほど、自己中心的なものはない。何十年もの間、シオニスト指導者たちは、アラブ人を見ていながら同時に見ないという、奇妙な薄明の世界へ足を踏み入れてきた。彼らの態度は盲目と幼稚さの、希望的観測と押し付けがましい善意との一体となったものであり、また、しばしば国際的な出来事の一要因であり、ときにはその理由でもあるあの無知そのものであった。この無知というものがなかったら、ほとんどのシオニスト指導者たちは、初めから彼らの事業にあえてとりかかろうとはしなかったであろう。」
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●伝統的にパレスチナと呼ばれるこの土地の歴史は、Zion主義を掲げる人々がやって来るまで、ほとんど全面的にアラブ的な性格を帯びていた。しかも、彼らの先祖がパレスチナを最初に征服したのは紀元前13世紀頃であり、パレスチナ人のほうが彼ら以上に古くからパレスチナに定住していたのである。
ちなみに、「パレスチナ(Palestine)」という名称は「フィリスティア(Philistia)」という言葉に由来し、これは聖書に登場するペリシテ人あるいは“海の民”と呼ばれる人々で、彼らは南海岸一帯を占拠していたのである。
●この地域の人類学的調査に基づいて学者たちは、パレスチナ人たちは、ユダヤ人の先祖たちがパレスチナに定住する以前の時代に、様々な人種が混ざりあって形成されたグループであることを発見している。紀元前4000年から900年までの間、この地で優勢だった人種グループはカナン人である。エリコ、メギド、ベト・シヤンといった町は、青銅器時代初期のパレスチナ文明のセンターであったが、この時代の中期に、パレスチナ人とフェニキア人との間の結び付きが発展したのである。
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●結論から言えば、パレスチナはユダヤ人のみの故郷ではないのである。
シオニストたちはユダヤ教を否定したら、パレスチナに国をつくることを正当化できないということをよく知っている。『旧約聖書』の中で神がユダヤ人を選んで、カナンの地(パレスチナ)を与えたからこそ、この地に「戻った」と言えるわけである。その根本のユダヤ教を否定したらどうなるのだろう。単に昔住んでいたという理由だけで、他人の地に押しかけて、土地を奪ったことになってしまう。
●皮肉なことに、『旧約聖書』の「ヨシュア記」には、モーセの後継者たちが、いかに古代パレスチナ人を虐殺してカナンの地を奪い取ったかが記されているのだが、既にこの当時から、パレスチナ問題の“原型”が存在していたことが伺えるのである。
■追加情報:アーノルド・トインビー博士による批判
●第二次世界大戦中、ドイツで公然と行われたユダヤ人迫害に関して、ヨーロッパの国々もアメリカも、長い間沈黙を守った。第二次世界大戦中、アメリカはユダヤ人に対する入国査証の発給を非常に制限し、ほとんどシャットアウトの政策であった。
しかし、戦後、イスラエルが建国されると、アメリカはイスラエルに対外援助の3分の1に当たる年間30億ドル以上のカネ(無償援助)を送り、武器弾薬を送った。アメリカのバックアップがあって、イスラエルはかろうじて国家として成り立ってきたのである。
●イギリスの有名な世界的歴史学者アーノルド・トインビー博士は、アメリカの判断は間違いだったと言っている。
何故、間違いかというと、確かに歴史的にいえば、イスラエルはユダヤの土地である。だからこれをユダヤに返すことは、自然であるように見える。しかし、2500年間アラブの人々が住んだのだから、それを2500年経って取り上げるのは不自然である。ユダヤ人は一人残らず全部がいなくなったのではなく、嫌気がさして脱出した人もいただろうし、ユダヤ人同士の競争で追放された人もいるだろう。
とにかく、アラブの人々が2500年間も住んでいるのだから、そこに来て、アメリカが武力で駆逐し、強制的にユダヤに戻したことについては納得しかねるものがある。アメリカがもしもそれだけの情熱があるのならば、アメリカ国内でユダヤ人に土地をやったらよかったではないか。そうすれば、このような国際紛争の種は蒔かれないで済んだであろう、とトインビー博士は言っている。
イギリスの歴史学者
アーノルド・トインビー
(1889~1975年)
※ 20世紀最大の歴史家の一人である
●さすがにアーノルド・トインビーは歴史学者らしく、長い歴史の目でみるとアメリカのやったことは間違いであったと言っている。
アメリカは幸い、日本の面積の25倍という広大な土地があるのだから、その一部をユダヤ人にやって、そこにキミたちの国を作りたまえといえば、ユダヤ人はもっと今より幸せだった。アラブと戦争をしないで済んだし、アメリカ国内にはユダヤの友達が沢山いるのだから、さぞ立派なイスラエルが出来たであろう、というわけだ。
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