No.a3fhb120

作成  

 

イギリスのユダヤ人
マーカス・サミュエルと日本


〜 「ロイヤル・ダッチ・シェル」誕生秘話 〜

 

 

●19世紀のイギリスに、下層階級の上くらいに属する生活をしていたユダヤ人の一家があった。この一家は、東ヨーロッパのポグロム(ユダヤ人迫害)を逃れて移住してきた。両親は、車に雑貨品を積んで売って歩く、引き売りの街頭商人として暮しを立てていた。

子どもが11人おり、その10番目の息子は、大変頭がよく活力に満ちあふれていた。しかし、学校では成績が非常に悪く、どの学校に行っても、悪い点ばかりとっていた。といって、彼は頭が悪いというわけではなく、学校の授業システムにうまく合わなかったからである。

 

 

●この息子が高校を卒業したとき、父親は彼に、極東へ行く船の三等船室の片道切符を一枚、お祝いとして贈った。

そのとき父親は、息子に2つの条件をつけた。1つは、金曜日のサバス(安息日)が始まる前に、必ず母親に手紙を書くことだった。というのは、母親を安心させるためである。2つ目は、父親自身、年をとってきたし、また10人の兄弟姉妹がいるのだから、一家のビジネスに役立つことを、旅行中に考えてほしいということだった。


この息子は、1871年、18歳でロンドンからひとり船に乗り、インド、シャム、シンガポールを通って、極東に向かった。彼は途中、どこにも降りず、船の終点である横浜まで、まっすぐやってきた。

彼は、懐(ふところ)に入れた5ポンド以外には、何も持っていなかった。5ポンドといえば、およそ今日の5万円かそこらのカネである。日本には、もちろん知人もいないし、住む家もなかった。また、この時代には、日本にいる外国人といっても、おそらく横浜、東京あたりで数百人にすぎなかった。

 

 

●彼は湘南の海岸に行き、つぶれそうな無人小屋にもぐり込んで、初めの数日を過ごした。そこで彼が不思議に思ったのは、毎日、日本の漁師たちがやってきて、波打ち際で砂を掘っている姿だった。よく観察していると、彼らは砂の中から貝を集めていた。手に取ってみるとその貝は大変美しかった。

彼は、こうした貝をいろいろに細工したり加工すれば、ボタンやタバコのケースなど、美しい商品ができるのではないかと考えた。

そこで彼は、自分でもせっせと貝を拾い始めた。その貝を加工して父親のもとに送ると、父親は手押し車に乗せて、ロンドンの町を売り歩いた。

当時のロンドンでは、これは大変珍しがられ、飛ぶように売れた

 


貝がらの作品

ロンドンでは、これは大変
珍しがられ、飛ぶように売れた

 

●やがて父親は手押し車の引き売りをやめて、小さな一軒の商店を開くことができた。この商店が2階建てになり、次には3階建てになり、そして最初はロンドンの下町であるイーストエンドにあった店舗を、ウエストエンドへ移すなど、この貝がらをもとにした商売は、どんどん発展していった。

そのあいだにも日本にいた彼の息子は、かなりのカネをためることができた。

この青年の名前はマーカス・サミュエル、ヘブライ語の名前がモルデカイであった。

 


マーカス・サミュエル
(1853〜1927年)

日本の海岸で拾った貝がらの
商売で大成功をおさめた

 

●サミュエルは1876年(23歳の時)に、横浜で「マーカス・サミュエル商会」を創業し、日本の雑貨類をイギリスへ輸出した。

輸出だけでなく、日本に工業製品を輸入したり、日本の石炭をマレー半島へ、日本の米をインドへ売るなど、アジアを相手にして、商売を大きく広げていった。



●ところで、この時代、世界中のビジネスマンのあいだで一番話題になっていたのが、石油だった。ちょうど内燃機関が登場し、石油の需要が急増しつつあった。ロックフェラーが石油王となったきっかけも、この時代だったし、ロシアの皇帝もシベリアで石油を探させていた。

貝がらの商売で大成功をおさめたサミュエルも、この石油の採掘に目をつけ、1万ポンドを充てる計画を立てた。彼自身、石油についての知識は何もなかったが、人にいろいろ相談したりして、インドネシアあたりだったら石油が出るのではないかと考え、インドネシアで石油を探させた。

これが、勘がよかったのか、幸運であったのか、とにかくうまく石油を掘り当てることができた


●当時のインドネシアは、石油を暖房のために使う必要もないし、また暗くなってからも活動するといった生活を送っていたわけではなかったので、石油の売り先はどこか他に求めなければならなかった。

そこで彼は、「ライジング・サン石油株式会社」をつくって、日本に石油を売り込み始めた。このころ日本において、ケロシン油で暖房したり、あるいは照明したりすることは革命的なことだった。

この商売もまた非常に成功した。



●石油をインドネシアから日本までどのように運ぶかということは、頭の痛い問題だった。初めのうちは2ガロン缶で運んでいたが、原油を運ぶと船を汚すために、後で洗うのが大変だった。それに火も出やすいということで、船会社が運ぶのをいやがったし、運賃がべらぼうに高かった。

そこでサミュエルは造船の専門家を招いて、世界で初めてのタンカー船をデザインした

そして彼は、世界初の「タンカー王」となった。

※ サミュエルの新造タンカー「ミュレックス号」がスエズ運河を通過し、シンガポールに航路をとったのは、1892年8月23日のことであった。(「ミュレックス」は「アッキ貝」の意)。


●彼は自分のタンカーの一隻一隻に、日本の海岸で自分が拾った貝の名前をつけた。

彼自身、このことについては、次のように書き残している。

「自分は貧しいユダヤ人少年として、日本の海岸で一人貝を拾っていた過去を、けっして忘れない。あのおかげで、今日億万長者になることができた」

 


マーカス・サミュエル

1892年に石油業界に参入した彼は、
世界で初めてのタンカー船を生み出した。
当時の世界で最大のタンカー船隊の持ち主
となり、世界初の「タンカー王」になった。

 

1894年に「日清戦争」が勃発すると、サミュエルは日本軍に、食糧や、石油や、兵器や、軍需物質を供給して助けた。

そして戦後、日本が清国から台湾を割譲されて、台湾を領有するようになると、日本政府の求めに応じて、台湾の樟脳の開発を引き受けるかたわら、「アヘン公社」の経営に携わった。

日本が領有した台湾には、中国本土と同じように、アヘン中毒者が多かった。日本の総督府はアヘンを吸うことをすぐに禁じても、かえって密売市場が栄えて、治安が乱れると判断して、アヘンを販売する公社をつくって、徐々に中毒患者を減らすという現実的な施策をとった。

サミュエルは、これらの大きな功績によって、明治天皇から「勲一等旭日大綬章」という勲章を授けられている。

 


勲一等旭日大綬章

1894年に「日清戦争」が勃発すると、
サミュエルは日本軍に、食糧や、石油や、
兵器や、軍需物質を供給して助けた

 

●ところで、彼の石油の仕事が成功すればするほど、イギリス人の間から、ユダヤ人が石油業界で君臨していることに対して反発が強まり、ついにこの会社を売らなければならなくなった。というのは、当時イギリスは大海軍を擁していたが、その艦隊に、サミュエルが石油を供給していたからだ。

サミュエルは、会社を売らなければならなくなったとき、いくつかの条件を出した。その一つは少数株主たりといえども、必ず彼の血をひいた者が、役員として会社に入ること。さらに、この会社が続く限り、貝を商標とすることであった。

というのも、彼は常に自分の過去を記念したかったからである。この貝のマークをつけた石油会社こそ、今日、日本の津々浦々でもよく見られる「シェル石油」である。

 



1897年、サミュエルは「シェル運輸交易会社」を設立し、
本社を横浜の元町に置いた。彼は湘南海岸で自ら「貝(シェル)」
を拾った日々の原点に戻って、「シェル」と称したのだった。
こうして横浜が「シェル石油会社」の発祥の地となった。

1907年、オランダの「ロイヤル・ダッチ石油会社」と
イギリス資本の「シェル石油会社」が合併して、
「ロイヤル・ダッチ・シェル」が誕生した。

(※ このイギリス・オランダの2社の
合併を推進したのはイギリスの
 ロスチャイルド財閥だった)。

ちなみに、このイギリス=オランダ連合の
「ロイヤル・ダッチ・シェル」の子会社的存在が、
イギリスの「ブリティッシュ・ペトロリアム」
(英国石油:略称BP)である。




現在、シェルグループの
企業は145の国に広がり、全体で
 12万人以上の従業員がいる。

 

サミュエルは、イギリスに戻ると名士となった。そして1902年に、ロンドン市長になった。ユダヤ人として、5人目のロンドン市長である。

彼は就任式に、日本の林董(はやし ただす)駐英公使を招いて、パレードの馬車に同乗させた。

この年1月に「日英同盟」が結ばれたというものの、外国の外交官をたった一人だけ同乗させたのは、実に異例なことだった。この事実は、彼がいかに親日家だったかを示している。

(ちなみに、2台目の馬車には、サミュエルのファニー夫人と、林公使夫人が乗った)。

 


明治期の外交官、政治家
林董(はやし ただす)

駐英公使としてロンドンで「日英同盟」に調印した。


※ 「日英同盟」は、1902年1月30日に結ばれた日本とイギリス
との間の軍事同盟である。林董(はやし ただす)駐英公使と
イギリスのアーサー・ラウズダウン外相により調印された。

「日英同盟」は、戦前日本にとって最高の同盟関係
だったといえる。この同盟関係を守りきれなかった
ことが戦前日本の犯した最大の失敗だろう。


 

 

●サミュエルは1921年に男爵の爵位を授けられて、貴族に列した。その4年後には、子爵になった。

サミュエルは「どうして、それほどまでに、日本が好きなのか?」という質問に対して、次のように答えている。

「中国人には表裏があるが、日本人は正直だ。日本は安定しているが、中国は腐りきっている。日本人は約束を必ず守る。中国人はいつも変節を繰り返している。したがって日本には未来があるが、中国にはない」


●その後、ロンドンに、サミュエルの寄付によって「ベアステッド記念病院」が作られ、彼は気前のよい慈善家としても知られるようになったが、1927年に、74歳で生涯を閉じた。


※ 現在、「ロイヤル・ダッチ・シェル」はロスチャイルド系列企業群の中心になっている。

 

 

 


▲このページのTOPへ




 HOMEに戻るINDEXに戻る

Copyright (C) THE HEXAGON. All Rights Reserved.