No.a4fha203

作成 1998.1

 

ハザール王国に対する
欧米歴史学者の評価

 

 

●カール大帝が西ローマ帝国皇帝として戴冠した頃(800年)、ヨーロッパの東の境界地帯であるコーカサスとボルガ川の間は、ハザール王国によって支配されていた。その勢力の絶頂期は7世紀から10世紀にかけてであり、それは中世ヨーロッパの運命、その結果としての近代ヨーロッパの運命をも左右する重要な役目を果たしたのだった。

欧米の歴史学者はキリスト教側からの視点で、このハザール王国が果たした役割を高く評価している。(アラブの歴史学者だったら、イスラム教側からの視点で、また違った評価を下すであろう)。


●ハザール史の指導的権威であるコロンビア大学のダンロップ教授は、次のように述べる。

「ハザール国は……アラブの進軍の前線を横切るような位置にあった。モハメッドの死(632年)の数年後、カリフの軍は2つの帝国を残骸と化して嵐のように通り抜け、すべてを奪い去り、コーカサスの大障壁に達した。この障壁を越せば西ヨーロッパヘの道が開けている。にもかかわらず、このコーカサスの地で組織的な兵力がアラブ人を迎え撃ち、彼らの長征がこの方向へ伸びるのを防いだのである。100年以上も続いたアラブ人とハザール人の戦いはほとんど知られていないが、このような歴史的重要性を持つのである。

カール・マルテルに率いられたフランク人はツールの平野でアラブ人の侵攻の潮流を変えた(732年のトゥール・ポワティエ間の戦い)。同じ頃、ヨーロッパに対する東からの脅威もそれに劣らず大きかったが、勝ち誇るイスラム教徒はハザール王国の軍に押し止められた。コーカサスの北方にいたハザール人の存在がなければ、東方におけるヨーロッパ文化の砦であるビザンチンはアラブ人に包囲され、キリスト教国とイスラム教国の歴史は今日我々が知っているものとは大きく違っていただろう。それにはほとんど疑いの余地はない」


●旧ソ連の考古学者で歴史学者のアルタモノフもダンロップ教授と同じ見解を示している。イスラム勢力の侵攻を防いだハザール王国は、結果的に、ボルガ川、ダニューブ川、そして東ヨーロッパそのものへの東の出入口を守った、と。

「9世紀に至るまで黒海の北、隣接する草原地帯とドニエプル川の森林地帯でハザール王国にかなう者はなかった。1世紀半にわたってハザール王国は東ヨーロッパ南半分の並ぶ者なき王者であり、アジアからヨーロッパへ通じるウラル=カスピ海の出入口を守る強力な砦となっていた。その期間、彼らは東からの遊牧民の猛襲を押し戻していたのである」

「ハザール王国は東ヨーロッパ最初の封建的国家で、ビザンチン帝国やアラブ・イスラム教国にも匹敵する。ビザンチン帝国が耐えられたのは、コーカサスへのアラブの潮流をそらせた強力なハザール王国の攻撃あってのことである」


●旧ソ連アカデミー考古学研究所スラブ・ロシア考古学部門部長のプリェートニェヴァ博士も同じ見解を示している。

「ハザール王国は、ヨーロッパ東部諸国の歴史に大いなる役割を演じた。アラブの侵略を守る盾の役割である。盾といっても単なる盾ではない。他国の民なら、名を耳にしただけでも震え上がる猛将が率いる、無敵のアラブ軍の攻撃を何度も何度も撃退した盾である」

「ハザール王国の役割は、ビザンチン帝国にとってもかけがえないものであった。ハザール王国と戦争を遂行するため、アラブ軍はその大勢力を、ビザンチン帝国との国境から常に遠ざけざるを得なかったのである。ハザール対アラブ戦役が続行される間は、ビザンチン帝国側は、アラブ側に対し、ある程度であるとしても、軍事上の優位を保持し続けたのである。カリフ神権体制国の北辺を侵すようにハザール王国をけしかけたのは、ほかならぬビザンチン帝国であり、それも一度にとどまらなかったことは疑いを入れない」


●オックスフォード大学のロシア史の教授ドミートリ・オボレンスキーも次のように述べている。

「北に向かったアラブ人の侵略に対してコーカサスの前線を守りきったことが、ハザール人の世界史への大きな貢献である」

 

 

 


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