No.a4fha204

作成 1998.1

 

高水準の文化・経済活動を展開していた
ハザール王国

 

 

●ハザール王国は非常に国際的な国であり、文明世界から少しも隔離されていなかった。あらゆる文化的、宗教的影響に対して開かれていた。ハザール王国は近隣諸国に比べて驚くほど近代的な国家であった。それは家の造作から刑の執行に至るあらゆるレベルに見受けられた。

例えば、当時のブルガール人は、王を含めて未だに天幕に住んでいたが、ハザール王はレンガで造られた城に住み、彼の婦人たちは「チークの屋根の宮殿」に住んでいたといわれる。ハザール人以外のイスラム教徒はモスクをいくつか持ち、そのうち一つの尖塔は王城より高くそびえていたといわれる。


●ハザール王国の文化水準は高かった。美術や工芸、衣装の分野も含めて栄えていた。ハザール人は主な媒介者となって、東欧の半野蛮的部族の間に、ペルシアとビザンチンの美術を広めたのであった。

ソ連の考古学者バデルは、ペルシア様式の銀器が北方に広まったことについて、ハザール王国が果たした役割を強調している。スウェーデンの考古学者T・J・アルネは、スウェーデンで発見された装飾皿、止め金、締め具などササン朝式やビザンチンの影響を受けたものは、ハザール王国内からその影響下にある地域で作られたと言っている。


●発掘によって明らかになったことだが、8〜9世紀にかけて、ハザール人は手のこんだ要塞をいくつも連らねて王国を囲み、広い草原に面した北方の前線を守っていた。これらの要塞は、おおよそ半円の弧を描いてクリミア(ここはハザール人が一時支配していた)からドネツ川とドン川の下流を横切り、ボルガ川に達していた。南側はコーカサス山脈で守られていた。西側は黒海に、東側は「ハザールの海」──カスピ海に守られていたのである。


●ハザール王家の財産の主たる収入は、外国との貿易によるものだった。ハザール王国の住民は農業や漁業に力をいれる一方、近隣諸国と盛んに交易を行い、ハザールの商人は中継貿易をしていた。いくつもの大規模な交易キャラバンが中央アジアとボルガ・ウラル地帯の間を定期的に往復していた。

ハザール王国の商品は、バクダッドでも見られ、ハザール商人がコンスタンチノープル、アレクサンドリアやもっと遠くサマラやフェルガナでも見られたという。ハザール王国は南方から、またビザンチン帝国から実に様々な製品を輸入し、特に、近西アジアやエジプトの諸都市から運ばれてくるビーズ、ガラス玉まはけ口は、全国津々浦々にわたっていたという。


●ハザール王家の財産は、貿易以外に、様々な徴税によって潤っていた。広大無辺のドン川沿い草原に横たわるハザール王国を横切って、アジア諸国ならびにビザンチン帝国とスラブ族ならびにバルト・フィン族を結ぶ通商路が、いくつも通っていたが、ハザール王国は、その通商路を通過する隊商から「通行税」を徴収していたのである。

またタマン半島・クリミア半島の町々の活発な商業活動は、ハザール王国の管理下にあり、外からやってくる商人からも、内に住む土地の商人からも「関税」を徴収していた。

さらにハザール王国が近隣民族から徴収するところの「貢税」もあった。ハザール王国存続の初期(アラブ戦役まで)貢税を課せられていたのは、北コーカサスの山岳民族、アラン族、ボスポラの定住民であった。ハザール王国に敗北したブルガール種族連合も、また、なんらかの従属的位置にたたされていた。さらにその後、北方および北西のポリャネ族、セヴェリャネ族、ヴァティチ族などのスラブ諸族も貢税を課せられるようになった。

 

 

 


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