米日共同で「原爆展」開こう

 



(左)スタンフォード大学のバートン・バーンスタイン教授
(右)1995年2月8日『朝日新聞』

 

--------------【上の記事の内容】---------------


米スミソニアン協会が退役軍人団体や議会の圧力に屈し、「原爆展」では米国の公式の歴史観のみが語られることになった。展示室には広島への原爆投下機B29「エノラ・ゲイ」だけが置かれる。その威圧的な存在は、1945年8月6日の原爆投下に何の疑問も抱かせず、見る人の気持ちを鼓舞するだろう。

退役軍人団体や議会は、原爆展から最近の学問的成果の多くを故意に排除し、証拠となる文書さえ無関係と規定した。この論争は「文化」をめぐる戦いでもあり、政治的圧力が真剣な歴史の探求、多くの疑問に対する解釈や分析を踏みにじった。

広島、長崎への原爆投下に関し、思慮深く、歴史的な示唆に富んだ展示とはどんな内容だろうか。それはまずアジアでの戦争の勃発、日本軍の侵略、アジアでの残虐行為、米の対日石油禁輸、不調に終わった1941年の米日交渉、真珠湾攻撃と続く歴史の実証的な展示から始めなければならない。

展示は米日両国がお互いを人種的に排斥しあったことの実態、太平洋での戦争が著しく残虐に戦われた理由、戦時下の米国人は日本人を通常の人間以下とみなしていたことも明らかにする必要がある。

展示での重要課題のひとつは、なぜ都市や非戦闘員が狙われ、ルーズベルト大統領が戦争前に非戦闘員は攻撃しないとした約束が反故(ほご)にされたかだ。ドイツ諸都市への猛爆や1945年3月の東京大空襲が、日本の都市への原爆攻撃を自然な成り行きとし、不幸なことに受け入れやすくしたように思える。

日本側の問題としては、1945年段階の政府の意思決定過程に注目しなくてはならない。軍部と和平派の対立、昭和天皇の容易ならざる立場、さらに1945年半ばまで続いた、ソ連の中立を保たせるために、ソ連を仲介者と見立てるあいまいな和平の努力についてもだ。日本のモスクワ大使がソ連との和平交渉に難渋していたことにも触れるべきだ。

米側では、トルーマン大統領ら首脳が、1945年11月に予定された九州侵攻作戦の実施以前に、原爆投下なしに戦争終結が可能だったはずの総合的な戦術をなぜ追求しなかったかを検証すべきだ。

考え得るのは【1】米国の無条件降伏要求の中で天皇制の維持を明確にし日本の和平派の動きを探る 【2】ソ連参戦まで本土侵攻を待つ 【3】日本の海上封鎖と通常兵器での都市の爆撃を継続する──などだ。

また、米政府高官らが侵攻作戦なしで戦争終結を図ろうとしたことに加え、原爆投下をソ連への脅しとし、戦後、とくに東欧での対決に有利な材料と考えたことにも言及しておきたい。多くの歴史家は、ソ連への脅しは、トルーマン大統領の投下の決意を一層強めただけだと考えているが、これこそ投下の真の理由としている歴史家もいる。

展示には原爆の威力を示す爆死者、負傷者、放射能による後遺症、壊滅的な都市破壊など多くの資料が含まれなけれはならない。米国の科学者の間にあった投下賛成、反対の議論についても触れたい。さらに8月6日の広島への原爆投下後、日本政府内で起きた混乱、8日のソ連参戦、そして降伏直前でさえ、軍部の中には降伏を阻止する試みがあったことも紹介すべきだろう。

展示はしかし、広島、長崎の惨状や8月15日の降伏で終わってはならない。

原爆後遺症に苦しみ、時には日本の社会からさえも排除されていると感じた被爆者や、莫大な費用が投じられた戦後の危険な核軍拡競争にも視点を広げなければならない。

こうした原爆展の立案、展示台本の作成、資料の選択は米日両国から専門家が集まり、共同の野心的な事業として実施すべきだ。歴史家はお互いの母国の感情を害する歴史作りに携わる危険さえあるが、この作業だけが公正かつ誠実で実りのある歴史を追究する道であり、この努力こそが歴史的に未解決の第二次世界大戦の多くの問題について両国が合意する助けになる。

戦後、こうした問題は周期的に噴出してきた。これを避けることは許されない。共同作業の過程とその結果は、互いに痛みを伴う厳しいものだろうが、究極的には解決への道筋を見いだせるはずだ。


米スタンフォード大教授・歴史学=投稿


1995年2月8日『朝日新聞』

 

 


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