No.a1f1402

作成 1996.12

 

イスラエル共和国建国によって

破壊されたパレスチナの村々

 

●イスラエル建国神話の一つに次のようなものがある。

「パレスチナ人たちはその土地を所有していたが、長い間、それに対して何もしなかった。彼らはほとんど土地を開拓せず、ただわずかなみすぼらしい農場があるだけだった。我々はそれらの土地を合法的に買収し、今日イスラエルで見ることのできるあらゆるもの、例えば、村や町、都市、農場など、これらは全てユダヤ人が、もっぱら1948年以降に造りあげたものである云々」


●確かにイスラエルが建国される以前の時期は、ユダヤ人のパレスチナ流入は「土地の買収」を通じて行われた。「ユダヤ機関(JAFI)」をはじめとするシオニスト組織は、世界のユダヤ人から寄付を募り、その資金をパレスチナでの土地の購入にあてていた。パレスチナに土地を所有する不在地主たちはZion主義者に土地を売却し、パレスチナ人の政治家や有力者たちの中には、口ではシオニズムに反対しながらも、実際には金のために土地を手放した者もいたのである。


●しかし、かの“神話”は果たして本当のことを全て物語っているだろうか? 真相を探る者は、ユダヤ人が引き継ぐ以前から、パレスチナは時代とこの地域の文化に合わせて開発されてきた、という事実にぶつかるだろう。

そして、イスラエル共和国が建国されると、状況は急激に悪化し、ユダヤ人の入植活動は強硬なものになり、パレスチナにもともとあった数多くのアラブ人の村々が強引に奪われていったという事実にもぶつかるだろう。


●1948年にイスラエル共和国が建国される以前、パレスチナの15の地区に475の村があった(これはかなりの数の移動するアラブ部族の居住地区は含まれていない。それは村とは見なされなかった)のだが、1948年以降、385を下回らない村、つまり、もとあった村の4分の3が、イスラエル当局によって完全に破壊され、わずか90の村が残っただけである。

そして、特に重要な点は、パレスチナの村々が破壊されたのは、戦争によるものではなく、1948年の第1次中東戦争が終わってしばらくたってから、本格的に開始されたという事実である。また、パレスチナ住民の追放と村の破壊は、驚くことに、現在まで延々と続いているという事実である。


●ナチの強制収容所の生き残りであり、人権と公民権のための「イスラエル連盟」を組織したイスラエル・シャハク博士は、1973年の報告書『イスラエルで破壊されたアラブの村』の中で、次のようなことを語っている。

「1948年以前の、イスラエル国家内のアラブ人居住区に関する真実は、イスラエル人の生活の中で最も固く守られている秘密の一つである。書籍であれパンフレットであれ、どんな出版物も、その数なり位置などを知らせてはくれない。これは意図があってのことで、そうすれば公的に受け入れられている“神話”、すなわち、ユダヤ人は誰もいない土地に入植したのだ、という作り話を学校で教えられるし、訪問者にも語ることができるからだ。」


●彼の報告書によると、例えば、31の村があったラムレー地区のように、多くの地区でアラブ人居住区がイスラエル人によってとり払われてしまった。エルサレム郊外のヤッファ地区では、ただヤッファ市だけが残った。破壊された385の村々のほとんど全ては、墓地や墓石まで含めて文字通り、ブルドーザーで根こそぎにされてしまったという。

これでは、通りがかりの訪問者が「そこは全くの砂漠だった」と聞かされても、信じるしかないだろう。


●この進め方には、いつも同じパターンが適用されている。ある日、安全のためとか公共物建築のためとか戦争の危険があるとかいって、パレスチナ人村民の一時退避が命令される。そして村民がそこを離れたあと、その村の土地は没収され、ユダヤ人入植地(多くの場合キブツ)に与えられるのである。

これには、次のような法律が用いられた。まず「不在者財産没収法」(1950年)がある。この法律は、1948年11月29日の国連分割決議の日から、翌48年9月1日までに、一度でも自分の居住地を離れた者(不在者)に適用される。戦火が近づいたために近隣の村に一時避難した者、イスラエル軍の命令で村を立ち退いた者、土地・家屋が自分の所有物だという証明書がない者、そしてその期間、村や町を出なかったと証明できない者は、この法律の適用を受け、家屋や財産は没収された。イスラムの財産(ワクフ)も没収された。イスラエルの占領した土地の中にあった370の村のうち300村が、この法律の適用を受けた。


●土地没収の2番目の法律は、イギリス政府が主としてユダヤ人テロリストを対象に作った「緊急法(防衛法)」(1945年)であるが、パレスチナにいたユダヤ人弁護士が「ナチスの法より悪質」と非難したいわれを持っている。かつて反対した弁護士の中に、のちのイスラエル法務大臣が含まれているのは皮肉なことであるが。

この「緊急法」の109条には「軍司令官」は命令によって、ある市民の特定の地域における居住を禁じることができる(追放)」とあり、また112条は「軍司令官は、市民の国外追放、財産没収、帰国禁止を命令することができる」、そして119条は「軍司令官は、市民の家屋を没収、あるいは破壊することができる」とある。


●最も適用されたのが125条で、これは「閉鎖地域」と呼ばれ、「軍司令官は、ある地域の閉鎖を命令することができる。この地域に入ること、あるいはそこから出ることは禁止される」というものである。

この125条の場合、閉鎖地域の境界は一般に明らかにされない。だから人々はこの法を守りようがなく、知らずに法を犯すわけである。これは主として、パレスチナ人が自分の村に戻ろうとするときに適用され、14の村の土地が閉鎖、没収された。


●適用の象徴的な例は、バルアム村に対してのものである。この村は第1次中東戦争では中立を保っていたが、125条によって「閉鎖地域」と宣告された。これを不服とした住民が、1953年にイスラエル最高裁判所に訴えると、裁判所は、彼らの帰村は認められるべきである、との判決を下した。

しかし、この判決に対し、軍当局は乱暴な対応に出た。イスラエル軍の歩兵と爆撃機は、1953年9月16日、人一人いない村を攻撃し、爆破した。爆撃は全村が焼けて廃墟になるまで続けられた。そして、この村の土地は近くのユダヤ人入植地に与えられた。

村を破壊された住民たちは、近くのグーシュ・ラハブ村で掘立て小屋の生活をするはめになり、政府の補償金を断り、祖国の中の難民として生活している。


●最近では125条は、ガリラヤ地方のデイル・アル・アサド村、ビマ村、ナハフ村に適用され、村々の耕地のほとんどが没収され、村民1万人は一日にして日雇い労働者となった。そして没収された土地の上には、ユダヤ人の近代的な町カルミエールが建設された。


●イスラエル政府は、この悪質な「緊急法」をさらに強化するために、1949年に新しい条項を盛り込んだ。「安全地域」もその1つであり、これは、ある地域を安全上必要と宣言したら、住民は2週間以内に立ち退かなければならない、というものである。

ガリラヤ地方北部のパレスチナ人キリスト教徒村イクリットは、1948年10月31日、イスラエル軍に占拠された。村民は2週間だけ村を離れるように命令され、当座の食糧だけを持って立ち退いた。しかしいつまでも帰村が許されず、村民はイスラエル最高裁に訴え、帰村は正当との判決を得る。

が、その後村民が村に戻ろうとした時、この「安全地帯」条項が適用され、村民がもう一度裁判所に訴えた直後の1951年12月25日のクリスマスの日、村は爆破されたのである。土地は近くの2つのユダヤ人入植地に分け与えられた。


●そのほか1948年10月15日に施行された「未耕作地開拓のための緊急条項」というものがある。これは放置されている土地を耕作する意志のある者の手に移すための条項だが、他の法律と組み合わされて用いられた。つまり、ある地域を「安全地域」なり「閉鎖地域」と宣言して、出入りを禁止すると、そこが“未耕作地”となる。そのあとこの法律を適用して没収し、耕す意志のある者、つまり近くのユダヤ人入植村に渡すわけである。

キブツ(イスラエル共産村)では今でも「人の住まない荒れ地を緑にしたのは我々だ」と言ったり、「アラブ人は怠け者だ」と言っているが、その背景にはこうした法律があるのである。しかしイスラエルの一般のユダヤ人は、これらの法律の存在を知らないという。


●1953年、2人のユダヤ人が殺された報復に、イスラエル軍はヨルダンのキビア村を襲撃し、無抵抗の住民50人を殺害した。指揮を取ったのは、のちのイスラエルの国防相でレバノン戦争の責任者シャロンである。


●1956年、カセム村の村民は、外出禁止令を申し渡された。命令発効のたった30分前である。多くの村民は遠く働きに行っていて、30分以内に村に戻れないことは明らかだった。命令を受けたイスラエル兵は、「女、子供はどうするのか」と質問した。上官は「哀れみをかけるな」と言った。こうして、仕事から次々と帰村した村民47人が、待ち伏せされ、並ばれて処刑されたのである。最後に死んだのは、トラックに乗っていた女性14人を含む17人である。

イスラエルでこの事件の報道管制を敷いている間に、ヨーロッパにこのニュースが伝わり、政府は事件を隠しおおせなくなった。責任者たちは裁判にかけられた。しかし次々と減刑され、判決から1年半で、全員が釈放される。しかもその1人は市役所のアラブ課の責任者として迎えられたのである。最高責任者は「単なる技術上の過失」を犯したとして、実に10円にも満たない形式だけの罰金で釈放された。


●1943年にイギリスが施行した「公益のための土地取得法」も適用された。政府の建物を建てるという理由で、ナザレの広大な土地が没収され、そこにユダヤ人だけ住める街、アッパー・ナザレが建てられた。

これ以外にも、村民を車に乗せて国境まで連れて行き、銃で銃殺した例は枚挙にいとまがない。1949年のアナン村、クファル・ヤシフ村、1950年のマジュダル村の人々、そして1959年には多数のベドウィンが、ヨルダンやエジプトに追放されている。

こうして取得された土地は、全てユダヤ国民基金の手に移され、そこからユダヤ人入植者に渡された。土地が政府のものなら、その土地は国民であるユダヤ人とパレスチナ人のために用いなければならないが、ユダヤ国民基金のものなら、ユダヤ人のためだけに用いることができるからである。


●1973年4月、ナブルス東南6マイルのところにある小さなパレスチナ人の村、アクラバで、4000人の農民たちが自分たちの土地を売ることを拒絶したとき、イスラエル当局は凄まじい行動を起こした。

彼らはバイパー機でアクラバ村上空を飛行し、村の小麦畑にあろうことか枯葉剤を撒き散らし、一夜にして全ての小麦をダメにしてしまったのである。彼らは厚かましくもこの過激な行動を素直に認め、それはただ「イスラエル軍が立ち入るなといった土地で頑固に農耕を続けている村民たちに教訓を与える」ためだとの声明を出していた。


●また、パレスチナ人のゲリラ活動が活発になり始めると、イスラエル政府はこれらゲリラ活動に厳罰で対処していったのだが、1人のゲリラが出たら、彼の家族の住む家を爆破し、やがて付近の住居全部をダイナマイトとブルドーザーで破壊していった。ナチスの用いたような「共同懲罰刑」を課したのである。

ヒルフール市では一度に30軒の家が破壊された。やがてガザのキャンプでは、イスラエル軍のパトロールが行いやすいようにと、家々を破壊して道路が広げられることになった。子供のデモも容赦なかった。デモ規制による死者が増え、ヨルダンへの追放、逮捕、拷問が伝えられるようになった。

そのほか、ヨルダン川を渡って戻ってこようとしたパレスチナ難民が、女・子供の区別なく、警告なしに次々と殺害されていったこともイスラエルで暴露された。


●イスラエルの歴史は、隠されている。そして人々はそれを知っているけれども、口をつぐんでいる。それに言及すれば、自分がそこに住む正当性がなくなるからだ。最初のうちイスラエル政府のやり方に抗議していた人々も、やがて沈黙していった。むしろ左派に属する人ほどその傾向が強い。最近では極右の人は堂々と言うようである。

「なるほど、俺たちは不正を犯した。しかしそれがどうだっていうんだ。ここは神が俺たちに与えた土地なのだ……」

 

 


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