No.a1f1404

作成 1996.12

 

イスラエルの現実に失望した

ユダヤ人による反シオニズム運動

 

●イスラエル共和国内には「マツペン」と呼ばれる組織があったが、この組織は1962年にイスラエル共産党を出た人々を中心に結成されたもので、シオニズムに反対するイスラエルの左翼組織として、やがて海外でも名を広めた。

「パレスチナ人とイスラエルのユダヤ人のシオニズムからの解放は、小さな地域からの解放からは達成できない、全アラブの課題である」という彼らの分析は、アラブ諸国の解放運動に大きな影響を与え、海外支部は各国の解放運動の人々の交流の場となっていった。


●このマツペンのメンバーのほとんどは、イスラエルのユダヤ人であるが、パレスチナ人の活動家も参加していた。マツペンは、シオニズムが西欧植民地主義の後ろ楯でユダヤ人だけのための国家建設を目指したため、必然的にパレスチナ人に対する差別を生み出したと批判。「ユダヤ人とパレスチナ人の共存できる社会の建設」をスローガンにして、1967年の第3次中東戦争以降は、占領地の即時返還を求めて活動していた。

彼らのデモは群衆に蹴散らかされ、占領反対の意見広告は各新聞から掲載を拒否されたものの、マツペンの理論にはパレスチナ人との共存の可能性があった。


●しかし、マツペンは1972年に分裂を始め、ダイナミズムを失っていった。その一番の原因は、パレスチナ人との共同の闘いを具体的に作り上げることに失敗したことにあるという。元マツペンのエウド・エンギルは次のように語る。

「我々は進歩リストという運動を作った。しかしこれからは何も生まれなかった。目的は共存なのに、組織内ではユダヤ人とパレスチナ人はバラバラだった。そして選挙で3000のユダヤ人票と2万のパレスチナ人票を集めたが、パレスチナ人は、こんなに得票に差があるのに、なぜユダヤ人とパレスチナ人の資金割りを同じにしなければならないのだと抗議し、対立した。そして進歩リストは崩壊した。後にユダヤ人がPLOとの共闘を申し入れたときも、彼らは自分たちだけでやりたいと言ったのだ」


●マツペンの分派の一つは激しいやり方で“共存”を追求した。ダウド・トゥルキというキリスト教徒のパレスチナ人と、ウディ・ヤディブというイスラエル軍落下傘部隊の将校は、1972年のマツペン分裂とともに地下戦線の活動に入り、本気で「パレスチナ・ユダヤ革命軍」を作ろうとした。

このユダヤ将校ヤディブはパレスチナ・ゲリラ組織と接触するために、キプロスを経てシリアに入り、武器と資金の調達を要請した。しかし会見は不成功だった。彼はイスラエルに戻ったところを逮捕された。一説には、手引きした人間がイスラエルの情報機関の人間だったと言われている。

結局、「パレスチナ・ユダヤ革命軍」構想は頓挫し、ユダヤ将校ヤブィブとパレスチナ人トゥルキの2人は「国家反逆罪」で告訴され、17年の実刑判決を受けたわけだが、これはイスラエル史上初めて、ユダヤ人とパレスチナ人に同じ量刑が言い渡されたケースであるという。



●さて話が変わるが、1961年にアメリカからイスラエル共和国に移住したジャック・バーンスタインというアシュケナジー系ユダヤ人は、イスラエル共和国で生活を始めた時から、何か否定できない大きな違和感・失望感を抱くこととなったという。

彼がイスラエル共和国で見出した真実は、イスラエル共和国が「迫害されるユダヤ人のための宗教的避難地」などではなく、狂信的かつ急進的なシオニストの“警察国家”であり、威圧的な人種差別主義者の縄張り以外のなにものでもないということであったという。

落胆と失望にさい悩まされた彼は6年半の滞在ののち、アメリカに戻り(1967年12月)、『人種差別主義的マルクス主義的イスラエルにおける一アメリカ・ユダヤ人の生活』(1984年)、『中東に突き刺さったトゲ、さらばイスラエル』(1985年)というユダヤ内部からの“告発の書”を公刊した。

※ ちなみに彼はイスラエル滞在中に、イラクから来たスファラディ系ユダヤ人の女性と結婚した。


●彼は「アメリカの福祉と平和のために、アメリカはイスラエル共和国の無神論的マルクス主義的指導者たちを支持することを中止しなければならない。さもなければ、さらに破滅的な結果がアメリカに襲いかかるだろう」との結論に達したという。

現在、彼はシオニストたちがアメリカに敵対的で、アメリカの奴隷化を企図しているという立場から、「親アメリカ・ユダヤ協会」というアメリカを愛する人達による組織を創設し、反シオニズム運動を展開している。



●ところで、初期のシオニストの中に、ユダヤ人の良心を燃え立たせようと試みた人々がいたことも見逃すことはできない。

その中の一人が、ヘブライ大学初代学長のユダ・マグネス博士である。博士は、アラブ人とユダヤ人の友好を目指す「イフド運動」の実現に協力したが、イスラエル建国に先立つ激しい対立の間、アラブ・ユダヤの両民族の“共存”を大胆に支持して、彼は次のように述べていたのである。

「我々は唯一のこと、すなわちアラブ人たちのことを除いて、全てのことを考慮してきたように思う。……しかし、ユダヤ人たちが、自分たちの直面する最も重要な問題として、アラブ人問題を念頭に入れるべき時がやって来た。もし我々がこの生活圏に住むことを望むのであれば、我々はアラブ人と一緒に住まなければならない」

 

 


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