No.a4fhb713

作成 1998.2

 

スターリンによるウクライナ人大虐殺「ホロドモール」の悲劇

 

~ホロコーストと並ぶ世紀の大虐殺の実態について~

 

■「ソ連邦の穀倉」と呼ばれていたウクライナで起きた悲劇


●革命後のソ連政府は、農民をうまくコントロールするために農民を集団化したが、この農場集団化政策に対して最も頑強に抵抗したのがウクライナ人であった。


●スターリンはウクライナの民族主義者、インテリ、集団化政策の反対者、そして彼の権力にとって脅威であると見放した者は誰でも抹殺した。

豊かな土壌に恵まれたウクライナではあるが、課せられた収穫高の達成は困難で、さらに当局による厳しい食糧調達に耐えられず、不満を表明する動きが現われた。また、農村部は民族主義者達の溜まり場であるとして目をつけられていた。

真っ先に教育のある地方エリートが攻撃目標となり、何百人もの作家や学者たちが告白を強要され、監獄や収容所へ送られた。独立ウクライナ教会の関係者も同様に弾圧の対象となった。

 


ソ連のヨシフ・スターリン(1879~1953年)

 

●当局の政策を批判したかどで100万人のウクライナ人が粛清され、1000万人がシベリアのタイガでの森林伐採、極寒地での白海運河建設の為に連れ去られたという。

※ スタニッツァ・ボルタフスカヤという人口4万人の村は、食糧調達に応じる事が出来ず、村の住民が丸ごと追い立てられた。男子は白海運河建設へ、女子はウラルのステップ地帯に送られ、離散を余儀なくされたのであった。

 

■人為的大飢饉による「ホロドモール」と呼ばれる大虐殺の始まり


●さらに恐ろしいことに、スターリン政権は彼らを完全屈服させるために、1932年から1933年にかけて、ウクライナに人為的大飢饉を起こすという大掛かりな作戦を実行。ウクライナ国境を封鎖し、農民から家畜、収穫物、穀物、その他の食糧を取り上げてしまったのだ。

 


都市部から共産党のメンバーが見張りに送り込まれ、ウクライナの
農民から強制的に没収した農産物は政府の倉庫に運び込まれた

 

●農家には食糧が届かず、村から移動することすら禁じられた。中には農村を逃げ出そうとして捕まって殺された者も出た。農産物は人民に属するものとされ、パンの取り引きや調達不達成、落ち穂拾いまでもが見つかると「人民の財産を収奪した」という罪状で罰せられた。

※ 1932年12月に「国内パスポート制度」が作られ、食べ物のないウクライナから住人たちが出入りできないようになった。また、自分たちの食べ物を確保すること自体が犯罪とされ、たとえ10gの穀物でも盗んだ者は誰でも10年の懲役刑に処せられた。

 


(左)ウクライナ北東部のハリコフで栄養失調で痩せた少女
(中)草さえ生えなくなった土地で飢えで亡くなった女性の死体
(右)階段の途中で力尽きて倒れ込んでしまった若い女性(生死は不明)


栄養失調に陥った子供たちは満足な医療も受けられないまま息を引き取っていった

 

■ウクライナで繰り広げられた凄惨な地獄絵図


●食糧を没収された農民たちはジャガイモで飢えをしのぎ、鳥や犬や猫、どんぐりやイラ草まで食べた。遂に人々は病死した馬や人間の死体を掘り起こして食べるに至り、その結果病死していった。

通りには死体が転がり、所々に山積みされ、死臭が漂った。

※ ここから先は閲覧注意な画像が出てくるのでご注意下さい。

 


ハリコフの街のいたるところには人間や動物の死体が転がり、強烈な死臭を放っていたが、
死体を運ぶ人がいなかったので、死体はそのまま何週間も路上に放置されたという


農民たちはろくに食事もできないまま労働することを余儀なくされ、次々に命を落としていった

 

●このようにして世界史上最大規模の悲劇=ホロドモールの悲劇が起こったのである。

※「ホロドモール」とはウクライナ語で「飢饉(ホロド)」で「苦死(モール)」させることを意味する。オスマン帝国のアルメニア人虐殺(犠牲者は100万人以上)や、ナチス・ドイツが行ったユダヤ人に対するホロコースト(犠牲者は600万人)などと並んで、20世紀最大の悲劇の1つとされている。

 


 骨と皮ばかりにやせ細ってしまったホロドモールの犠牲者たち↑

※ このような画像を見ているとあたかもナチス強制収容所の
地獄絵図を見ているかのような錯覚に陥ってしまう


飢えや病気で亡くなった人々の死体を積み上げて集団墓地へ運ぶ男たち↑

※ 人々の一部は、死んだ家族の肉を食べてかろうじて生き延び、
2500人以上が共食いの刑で有罪判決を受けたという

 

■ソ連による隠蔽工作と国際社会からの批判


●ソ連にとってウクライナから収穫される小麦の輸出は貴重な外貨獲得手段だった。深刻な飢饉が発生してもウクライナの小麦は徴発され、輸出に回され続けたため、それが更なる食糧不足を招くことになった。

 


ウクライナでホロドモールの悲劇が起きた地域(1932~33年)

※ 黒く塗られたエリアが最も悲惨な飢饉が起きた場所である



(左)亡命中のウクライナ人によって発行されたリーフレット
(右)ホロドモールを伝える『シカゴ・アメリカン』の記事

 

●イギリス、カナダ、スイス、オランダなどは、国際連盟や国際赤十字を通じて人為的なウクライナ飢饉に手を打つようソ連政府に要請が行われた。

しかし、ソ連政府は頑として飢饉の存在を認めず、存在しない飢饉への救済は不要という一点張りだった。政府が飢饉を認めるという事は、ウクライナ農民に譲歩するということであり、また5ヵ年計画の成功を宣伝し、国際連盟加盟、西欧諸国との不可侵条約締結等、外交的に認められようとしていたソ連としては飢饉を認めるわけにはいかず、国際政治の場での名誉失墜は何としてでも避けねばならぬと考えていたのである。

 


大飢饉につながる政策を主導した
ラーザリ・カガノビッチとスターリン

※ ウクライナ生まれのユダヤ人であるカガノビッチは
スターリンの腹心として経済政策の多くを監督した。頑強な
無神論者として知られ、ロシア正教の「救世主ハリストス大聖堂」の
爆破をはじめ、数多くのキリスト教会や歴史的建造物の破壊活動を主導し、
ウクライナにおいては悪名高い人為的大飢饉「ホロドモール」を引き起こした
責任者としても知られる。また、1930年代後半のスターリンの「大粛清」に
おいても中心的な役割を果たし、180を超える粛清リストに個人的に署名して
数万人を死に追いやったとされる。彼はスターリンの命令を実行する上で、
その冷酷無比ゆえに「鉄のラーザリ」というあだ名で呼ばれていた。

 

●飢饉の被害にあった領域はウクライナに限らず、カザフスタンやベラルーシ、コーカサス、シベリア西部、ヨーロッパ・ロシアの幾つかの地域にまで及んだが、ソ連邦の穀倉を担っていたウクライナが被った被害は甚大であった。

このホロコーストと並ぶ世紀の大虐殺「ホロドモール」により、最終的に700万以上のウクライナ人が餓死した。これは全ウクライナ人口の2割が殺されたことを意味した。

ソ連政府はこの事件をずっと否定し隠蔽し続け、世界に公式に認知されるのはずっとあと1970年代以降である。

 


ホロドモールによるウクライナの人口減少を示した地図

※ 地図上の赤い地域では25%の人口が失われ、濃いオレンジ色の地域でも
 20%以上の人口が失われた(実に人口の5人に1人以上が餓死した計算になる)



現在のウクライナの地図(1991年に旧ソ連から独立)


※ 追記:

●2006年11月、ついにウクライナ議会がこの事件を「旧ソ連によるウクライナ人に対するジェノサイド」と認定した。ホロドモールについてはこの本がかなり詳しいのでオススメです↓

 


『悲しみの収穫 ウクライナ大飢饉 ─ スターリンの農業集団化と飢饉テロ』

ロバート・コンクエスト著(恵雅堂出版)

※ 上の帯より⇒「餓死者700万人以上、1933年の
ヨーロッパの穀倉地帯 ウクライナを襲った20世紀最大の悲劇

ヒトラーのホロコーストを上回るスターリンのウクライナ農民大虐殺──
中国、カンボジア、北朝鮮へと続く飢饉テロの原型──の全貌を初めて世界に
 知らしめ、 ソ連崩壊を加速させたロバート・コンクエストの歴史的名著初邦訳!」



(左)首都キエフのミハイリフスカ広場に建てられたホロドモール慰霊碑
(右)ウクライナのアーティストが制作したホロドモールのポスター

 

 



── 当館作成の関連ファイル ──

ロシアとウクライナのユダヤ人の悲史 

元ソ連外交官が語る「ロシア-ユダヤ闘争史」の全貌

 


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