No.b1fha613

作成 2002.5

 

アーリア人増殖のためのSS機関

「レーベンスボルン (生命の泉協会)」

 

●ナチス体制下ではSS(ナチス親衛隊)を中心として「ゆりかごの数が柩(ひつぎ)の数を常に上回る時にのみ輝かしい将来がある」と考えられ、出産が奨励された。また「ドイツ女性はすべて花嫁になれるとは限らないが、母親ならば全員がなれる」ともいわれた。

 


ヒトラーは女性の役割について、きわめて保守的な考えを持っており、
「女性の本分は主婦と母親にある」と考えていた。そのため、男子の場合は
未来の戦士の養成に主眼が置かれていたのに対し、女子の場合は
単に未来の母親を育てることのみが強調された。

 

●1935年12月、ナチス・ドイツの首都ベルリンに「レーベンスボルン(生命の泉協会)」が設立された。協会長にはSS全国指導者個人幕僚本部のマックス・ゾルマンSS大佐が就任した。

「レーベンスボルン」はSS隊員と関係をもった未婚の女性が出産する施設で、生まれる子供は人種・遺伝的に問題がないとされた。これは人種政策が極端な形で現れたものであった。

 


ナチス親衛隊(SS)の隊員たち

 

●SS将校団は隊員およびドイツ国民の模範として、人種・遺伝的に健全な結婚(24歳までに結婚し、30歳までに子供を作る)によって少なくとも4人の子供をもうける義務があり、それがうまくいかない場合は「レーベンスボルン」から養子を迎えるべきであるとされた。

また、「レーベンスボルン」は寄付で運営されることになっており、独身のSS将校は必ず寄付をしなければならなかった。

 


「レーベンスボルン」の行事に参加するSS隊員と
「ドイツ少女同盟(BDM)」所属のドイツ人女性

 

●SS長官ヒムラーはSS隊員の結婚について、「できるだけ早く結婚して多くの子をつくるべきであり、数が増えれば育種失敗作も増えるであろうが、人数が少ないよりはよい」と述べ、出産を奨励するために「ドイツ母親名誉十字章」を制定した。

4人の子供を出産すると銅章、6人で銀章、8人で金章が授与された。金章受章者は自由にヒトラーに面会できたと言われている。

 


(左)SS長官(総司令官)ハインリヒ・ヒムラー
(右)模範的な母親に授与された「ドイツ母親名誉十字章」

 

●なお、「レーベンスボルン」には専用の戸籍登録所があり、私生児を出産する場合でも秘密が守られたという。

 


「レーベンスボルン」の産院



「レーベンスボルン」で生まれた赤ん坊に対して行われた命名式
(洗礼式)の様子。命名するのはSSの将校である。

「レーベンスボルン」は1935年にテスト的に設立され、
1938年にミュンヘンで裁判所に正式に登録された。SSの
一部をなし、SS長官ヒムラーに直属するものになった。組織の
目的はSS隊員にできるだけ多くの子供を持たせること、良き血
の母親と子供を助けて未来のエリートを育てることであった。

※ このSSによって運営されていた「レーベンスボルン」は
人種的エリートとされたSS隊員の人口増加と純血性の
確保を目的にした特殊な福祉施設であった。

 

●ヒムラーは東部進出への熱意がヒトラーに認められて、1939年に「ドイツ民族強化全国委員(RKF)」に任命された。これを受けて「ドイツ民族強化全国委員本部」と「海外同胞福祉本部」が設立された。

これらの機関は「SS人種・移住本部」と連携して植民活動にあたった。具体的には、「SS人種・移住本部」が東部植民に関する人種・遺伝学的調査を担当し、「ドイツ民族強化全国委員本部」が植民者の配置・募集を、「海外同胞福祉本部」が交通・運輸を担当した。

ドイツ国内では「レーベンスボルン」を運営、国外では植民を推進し、人種的エリートであるSSを中心にして、ヨーロッパ全体を支配する、というのがヒムラーの目指すところであった。1942年にヒムラーに提出された「東部総合計画」によれば、バルト海沿岸からポーランド全域がゲルマン化される予定であったという。

 


左は1942年にSSが400万枚作成したパンフレット
※「ウンターメンシュ(劣等人種)」という表現が記載されている

 

●「レーベンスボルン」は1939年には、戦死したSS隊員の子供とその母親を保護すると宣言。女性は子供をはらむと身二つになるまで「レーベンスボルン」の手厚い保護を受けた。子供は生まれると同時に、その後は国家が養育するので母親から引き離され、「子供の家」に送られた。

二親の最良の遺伝子を受け継ぐ子供たちは将来ドイツを担うエリートになるはずであった。7歳になると「レーベンスボルン」と緊密に協力する「国民学校」に入学した。


●1944年になると、「レーベンスボルン」の産院は13ヶ所に増えた。

「レーベンスボルン」で“生産”された子供たちは約4万人と推定されている。

 


ナチス政権下のドイツの子供たち

※ ナチスは政権につくとすぐに、公立学校を支配下におさめ、
「国民学校」とした。それまでの教科書は破棄され、新しいものが提供された。
カリキュラムも徹底的に変えられ、新しい科目が2つ加わった。「人種学」と「優生学」である。

人種学の授業では「アーリア人種こそが優秀人種であり、ヨーロッパを支配することになっているのだ」
と教えられた。優生学の授業では「アーリア人種は健康なアーリア人種とのみ結婚すべきものであり、
非アーリア人種と結婚して血を混ぜてはならない」と教えられた。また生徒たちは「ユダヤ人は
ドイツに対する脅威であるだけでなく、世界平和に対する脅威でもある」と教えられた。

 

●ところで、子供を組織的に“生産・飼育”してみたところで、時間がなんといっても10ヶ月以上もかかり、ナチ幹部たちはもどかしさを感じていた。

そのため、ヒムラーはもっと手っ取り早い方法を考えるようになる。

1940年5月にヒムラーは、東方の子供たちを毎年人種選別する計画を立て、1941年の後半から、占領地区で「アーリア的」な子供を探して誘拐することを開始したのであった。

その初めがルーマニア、バナトゥ地方の25人の子供たちで、彼らは「人種的ドイツ人移住センター」を経由し、ドイツの「ランゲンツェル城」に連れてこられた。着いてすぐ詳しい身体検査をされ、その後、優秀とみなされた、つまり「レーベンスボルン」が引き受ける子供と、「レーベンスボルン」が引き受けない、労働に回される子供とに分けられたのである。


●戦争中、ドイツに占領されたポーランド西部の町々ではナチスにより2歳から14歳までの少年少女が大勢さらわれたが、その数は20万人以上と言われている。

大変に特徴的だったのは、その子供たちがみな青い目で金髪であったことである。彼らは名前をドイツ名に変えられ、修正された出生証明書とともに、選ばれた家族の元に送られた。子供の多くは本来の家族の元に帰されることはなく、さらに彼らは自らがポーランド人であることも知らなかった。(このため、戦後になると両親とも不明の孤児が多数出現するという悲惨な事態を招いた)。



●このような悲劇を体験した1人に、ポーランド生まれのアロイズィ・トヴァルデツキがいる。

 


(左)アロイズィ・トヴァルデツキ(ポーランド人)
(右)彼の著書『ぼくはナチにさらわれた』(共同通信社)

彼はポーランドに帰国後、ワルシャワ大学ほかを卒業。
大学の助手、通訳などを経て、現在、会社社長。

 

●彼が自らの体験をつづった本『ぼくはナチにさらわれた』によれば、彼はポーランドで4歳の時にナチスにさらわれ、ドイツの孤児院を経て、子供のいないドイツ人の家庭に養子にもらわれたという。そしてそこでドイツ人として育てられ、ナチス礼賛の少年として成長したという。

しかし、戦後11歳になった時に、自分がポーランド人のさらわれてきた子供だったと知り、大きなショックを受けたという。

彼はその当時の気持ちを、こう記している。

「『僕がドイツ人じゃない。ドイツ人じゃないだって。僕は……ポラッケ(ポーランド人の蔑称)だっていうのか。馬鹿馬鹿しい。ふざけた話だ。あり得ないじゃないか、僕が──ポーランド人だなんて、はっはっはっ』〈中略〉

私はポーランド人を他のどんな民族よりも下等なものと考えていました。だいいち、我が英雄的な“兵士たち”(ドイツ軍人)にあっては、彼らはたちどころに叩きのめされた負け犬です。〈中略〉

とにかくこの忘れがたい瞬間を私は深い衝撃で受け止め、言いようのない嫌悪感を感じながら、その一方でなぜかこの写真の女性(実の母親)の顔に引き付けられ、心臓が苦しいように打つのでした。」



●この本を翻訳した足達和子さんは、「レーベンスボルン」の実態について次のように記している。

「『レーベンスボルン』の会員になれるのは、男は親衛隊員などの高級将校、女はアーリア人種としての特徴が祖父母の代まで認められた遺伝的資質の優れた者で、のちに枠が拡げられ、ドイツ人でなくてもナチの基準に合えば入れるようになります。大切なのは目の色、髪の毛の色、そしてことに頭の形で、例えば丸い頭の者は全くチャンスがないのでした。〈中略〉

『レーベンスボルン』で生まれた子供たちはエリートになるはず。国の将来を担う人に育つ予定でした。二親の最も優れた遺伝子を受け継ぎ、生まれたときにすでにスーパー人種であるはずです。

実際にそうなったでしょうか?

戦後の調査では驚いたことにそのほとんどに知能や体力の点での後退が見られる……。3歳でまだ歩けない子、まだしゃべれない子、かなりの損傷を持った子供もいるのでした。

ドイツがたとえ戦争に勝っていたとしても、この、子供の『生産』ないしは『飼育』は間もなく中止されたことでしょう。ナチの目論見(もくろみ)がこんなに外れるのでは子供たちを結局どこかの『収容所』で“抹殺”しなくてはならなくなるからです。母胎はこの上なく異常な状況に置かれました。そして出生後も“ヒトラーの子供たち”は『愛』のない養育を受けたのです。

一方、さらってきた子供たちはどうだったでしょうか?

小さいとき青い目で金髪で典型的な北欧タイプの顔立ちをしていた子供たちでも、その後全然違うタイプの顔になり、目や髪の毛の色も濃くなった人がずいぶんいます。また幼いときドイツ語に無理矢理変わらされ、そのために思考に困難を生ずることがありました。大きくなり、ドイツ人ではなかったと分かった子供たちはまた母国語の勉強のし直しで、結局本書の著者のように大学まで行けた子供は数としては少数です。心に深い傷を負った例はことに多いのでした。」



●このように、「レーベンスボルン」のプロジェクトは、理想と現実の間に大きなギャップが存在していたのであるが、ヒムラーが予定していた計画によると、1980年までにドイツは1億2000万人の“純血のドイツ人たち”の国になり、他民族の誘拐してくる子供たちについては「記録を保管する棚」があと600追加されるはずであったという。

足達和子さんによると、戦後のドイツでは、「レーベンスボルン」の擁護者と糾弾者との間で、かなり長く激烈な闘いが展開されたという。擁護者たちが「あれこそ理想的な福祉施設だった、それを非難するとはドイツの顔に泥を塗る気か」と主張するのに対して、糾弾者たちは事実を明らかにしてこそ今後の平和のためであるとし、本や雑誌、そして映画も作ったという。


●ちなみに、作家の皆川博子さんが書いた幻想ミステリー『死の泉』(早川書房)は、第二次世界大戦下のドイツで「レーベンスボルン」を舞台に繰り広げられる狂気を描いた作品である。この作品は、1997年の「週刊文春ミステリー・ベスト10」の第1位に選ばれ、「第32回吉川英治文学賞」を受賞している。

興味のある方は一読を。

 


『死の泉』
皆川博子著(早川書房)

 

※ この『死の泉』には、次のような一文がある。参考までに紹介しておきたい↓

「あそこは、レーベンスボルンの施設だったの。北欧系の金髪碧眼の娘を、占領地区とか、方々から狩り集めて、SSの将校の相手をさせていたのよ。政府がやってる淫売屋よ。そして、妊娠したら、ここのような産院の設備のあるレーベンスボルンに送って、金髪の子供を産ませるの。〈中略〉黒い瞳と髪の子供が産まれると、処理されるって……。」

「放置すれば頭脳はソ連に連れ去られる。だから、アメリカ政府は、表向きはナチを糾弾しながら、裏では手厚い保護を与えざるを得なかったのだ。特別措置をとって、ドイツの科学者をアメリカ本国に送り込んだ。『オーバーキャスト作戦』というのだ。」(※ この作戦は、のちに『ペーパークリップ作戦』と改称される)。

 

 


 


↑「レーベンスボルン計画」を描いた日本未公開映画(2000年制作・チェコ)

https://www.youtube.com/watch?v=_jo18J3AoQw

 



── 当館作成の関連ファイル ──

ナチスの突撃隊(SA)と親衛隊(SS) 

ドイツの少年・少女たちと「ヒトラー・ユーゲント」 

ナチスとアメリカの「優生思想」のつながり 

 


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