No.a1f1103

作成 1997.5

イスラエル共和国の建国史

 

 


●1791年
 「自由・平等・博愛」を掲げるフランス議会が、ユダヤ人に平等の権利を認め、ナポレオンがゲットーを解体し始める。
 解放されたユダヤ人たちは一世代のうちに、政治家、将軍、前衛的な知識人・芸術家となる。

●1798年
 ナポレオン、パレスチナ侵攻に失敗。

●1839年
 オスマン・トルコ帝国、ユダヤ人に市民権を与える。

●1850年
 イギリスのユダヤ人モンテフィオーレ卿、エルサレム城外のユダヤ人定住地に援助を与える。

●1856年
 イギリスにユダヤ大学が創立される。

●1881年
 ロシアで「ポグロム」と呼ばれるユダヤ人大虐殺事件が波状的に発生。ユダヤ人十数万人が犠牲になる。

●1882年
 平等と自由を求める「ホバベイ・ジオン」や「ビールー」という団体に組織されたユダヤ移民の第一波がパレスチナに到着。

●1891年
 モスクワとペテルスブルグからユダヤ人追放。
 ユダヤ人モレヒバが「シオンを愛する人々」を創立。

●1892年
 「シオンを愛する人々」の理論的指導者ピンスケル、「自力解放」に共鳴して、パレスチナに最初のユダヤ人コロニーを成立させる。

●1894年
 フランスで“ユダヤ禍”を宣伝した「ドレフュス事件」発生。

●1896年
 「ドレフュス事件」にショックを受けたテオドール・ヘルツルが『ユダヤ人国家』を出版。政治的シオニズム運動の始まり。

●1897年8月
 テオドール・ヘルツル、スイスのバーゼルにて「第1回シオニスト会議」を開催。この会議で「シオニズムはユダヤ民族のためにパレスチナの地に公法で認められた郷土を建設することを目的とする」という「バーゼル綱領」が採択される。

●1901年
 「ユダヤ国民基金」が誕生。パレスチナの土地を買い求め、ユダヤ人移民に貸し与えた。その土地をパレスチナ人に貸与することは禁止された。

●1903年
 イギリス政府はユダヤ人の民族的郷土を創設するため、ウガンダの領土を充てることを第6回シオニスト会議で提案。会議は賛成295票、反対175票でこの「ウガンダ案」を受諾した。

●1904年
 第7回シオニスト会議、「ウガンダ案」で紛糾し、この案を白紙撤回する。

●1905年
 ユダヤ移民の第二波、主にロシアより到着。

●1909年
 ユダヤ人最初の町「テルアビブ」が創設される。

●1910年
 最初のキブツ(共産村)である「デガニア」がガリラヤ地方にできる。

●1914年
 第一次世界大戦の勃発。

●1915年
 大英帝国がトルコ支配下のアラブ人に「アラブ国家樹立」を約束する(フセイン・マクマホン往復書簡)。

●1916年5月
 大英帝国が戦後の中東をフランスとロシアで山分けするための秘密条約(サイクス・ピコ条約)に調印。
      6月
 イギリス情報部員ローレンスの指導下に「アラブの反乱」が起きる。

●1917年11月
 大英帝国がユダヤ人大富豪家のライオネル・ロスチャイルド卿に「ユダヤ国家樹立」を約束する書簡(バルフォア宣言)が取り交わされる。
      12月
 イギリス軍、エルサレムに入城し、オスマン・トルコ帝国による約400年のパレスチナ支配を終結させる。

●1918年11月
 第一次世界大戦終了。

●1919年1月
 「ワイツマン・ファイサル協定」がパリ平和会議で結ばれる。アラブ代表ファイサル、バルフォア宣言を了解。

 第三波ユダヤ移民、戦時中断のあと到着し、9万人に達する。アラブ人の反英・反ユダヤ闘争開始。


●1920年
 サンレモ平和会議において、イギリスとフランスの間に委任統治領に関する協定が成立し、パレスチナはイギリスに委ねられる。また、トルコとの平和条約「セーヴル条約」に「バルフォア宣言」を挿入することが決まる。
 ユダヤ地下軍事組織「ハガナ」設立。

●1921年
 イギリスはアブドゥラーを「トランスヨルダン」の首長とする(第一次パレスチナ分割)。アラブの暴動が繰り返される(ヤッフォ、エルサレム、テルアビブ、ハイファへと拡がる)。

●1922年7月
 国際連盟(1920年1月に成立)がイギリスのパレスチナ支配を正式に承認。イギリスは全パレスチナの77%を占めるヨルダン川東岸のパレスチナを、イギリスの傀儡アブドゥラ王(現フセイン国王の祖父)に与え、トラスヨルダンと名付けた。
 また、イギリスはパレスチナへの移民を1年間に7万人と制限したが、これにユダヤ人は激しく反発。この移民制限が、結果的にやがて台頭してきたナチス・ドイツにユダヤ人の大量虐殺を許す原因になった。

●1929年
 ユダヤ人のパレスチナ入植を進めるため、現地での警備から世界的な農業輸出、ニューヨークでの資金調達までを行う「ユダヤ機関(JAFI)」という強力な組織が作られ、これが臨時政府として最大の役割を担うことになる。

 エルサレムの「嘆きの壁」にユダヤ人移民がZion主義の旗を飾ったことに端を発して、アラブ人とユダヤ人の大規模な衝突が起こる。衝突は他の地域にも飛び火し、10日間のうちにユダヤ人133人、アラブ人116人の死者が出る。そのユダヤ人の死者の最大のものは、ヘブロンに長く住んできたユダヤ教徒67人に対する殺戮だった。
(アラブとユダヤの本格的な抗争の始まり)


●1933年1月
 ドイツでナチスが政権を握る。

●1936年4月
 「アラブ高等委員会」が設立され、アラブ人の独立を求める反英ゼネストを指導。このゼネストは6カ月続いた(世界最長のゼネスト)。
 アメリカに「世界ユダヤ人会議」が設立される。
      8月
 軍事活動を伴うアラブの激しい反シオニズム運動「アラブの大蜂起」が発生(〜1939年8月)。アラブはユダヤ共同体をテロ攻撃し、ユダヤ人517人惨殺さる。
 イギリス政府、農村部での統治能力を失う。

●1937年
 イギリスは「アラブ高等委員会」を非合法化したが、パレスチナの騒乱状態は拡大。
 この頃、パレスチナ支配に手を焼くイギリスを尻目に、アメリカの「スタンダード社」や「テキサコ社」は、バーレーン、クウェート、サウジアラビアに油田を発見。中東に足場を築きつつあった。

●1938年
 秘密移民組織「アリヤB」機関が組織される。この機関の任務は、イギリスの移民制限(1年間に7万人まで)の監視の目をくぐり、諸外国のユダヤ人たちをパレスチナへ密かに入国させることにあった。この機関はイスラエル建国後、解散。
      11月9日
 ドイツ全土でユダヤ人迫害開始(「水晶の夜」)

●1939年5月
 イギリス、ユダヤ人側とアラブ人側の代表者を招き、和平会談を開催。しかしアラブ人側はパレスチナ全土にわたるパレスチナ・アラブ独立国を主張し、ユダヤ人側との全面対立に終わった。
 イギリス、パレスチナ独立国家樹立を約束する白書を提出し、アラブ側に歩み寄りの意を示す。しかしアラブ側はこれを拒絶。また、この白書はバルフォア宣言を白紙撤回する内容を持っていたため、ユダヤ人側はこれをイギリスの裏切りと見た。シオニズム運動の中で反英活動が活発化し、テロも頻発するようになる。

      9月
 第二次世界大戦勃発。ヨーロッパで本格的なユダヤ人虐殺(ホロコースト)が開始される。パレスチナのユダヤ人は連合国側についてナチス・ドイツと戦う(〜1945年)。 アラブ人の蜂起は沈静化し、下火になった。パレスチナ人は方向を見失い、アラブ最高委員会の指導者アミーン・アル・フセイニーはベルリンに亡命し、「敵の敵は味方」という論理で、イギリスの敵であるナチスを支援。しかし、ナチスの敗北とともに、フセイニーの指導力も名声も地に落ちることとなる。


●1942年5月
 アメリカのシオニスト大会、「ビルトモア綱領」を採択し、これが世界シオニズム運動の公式綱領として採択された。これは全パレスチナをユダヤ国家として独立させることを宣言し、移民と土地取得の自由を求めていた。
 この大会の決定は、ユダヤ人が自分たちの後ろ楯として、イギリスからアメリカに乗り換え始めたことを意味した。

●1945年3月
 イギリス政府の後押しで「アラブ連盟」成立。

●1945年8月
 第二次世界大戦終了。ナチスによるユダヤ人虐殺のことが明るみに出るにつれ、世界中の国々はユダヤ人が国を持つ権利を認めるようになる。

●1946年5月
 第二次大戦後パレスチナを調査していた英米委員会は、パレスチナを国連信託統治下に置くという和平案を提出。
 この頃すでにユダヤ人の国家基盤は労働総同盟やユダヤ基金、ユダヤ機関を中心に、ほぼ完成していた。
      6月
 ユダヤ人の独立を嫌うイギリス政府、エルサレムのユダヤ機関事務所を急襲。機密文書を押収し、2500名のユダヤ人を逮捕。ユダヤ地下闘争組織「イルグン」のメンバー7人を処刑。
      7月
 「イルグン」、警告を発した後、イギリス軍司令部所在のキング・ダビデ・ホテルを報復爆破。
      9月
 イギリス政府はもう一度、問題解決の主導権獲得を試みるため、和平会議を呼びかける。しかし、ユダヤ人側は出席を拒否。パレスチナは騒乱状態となる。

●1947年2月
 イギリスは結局、この問題の解決能力がないことを認め、深刻化するパレスチナ問題を国連に付託する。
      7月
 イギリス艦隊は、4530人のユダヤ移民を満載した秘密移民船「エクソダス1947」号を捕まえ、フランスに追い返し、ドイツのイギリス隔離地区に収容する。
 しかしこの模様は逐一ラジオで全世界に伝えられ、ユダヤ人への熱い同情を集め、国連パレスチナ分割決議への心情的な推進力となった。
      9月
 「国連パレスチナ特別委員会」がパレスチナ分割を多数意見として勧告。
      11月29日
 国連総会でパレスチナ分割が確認される。

●1948年1月
 アラブ解放軍の第一弾、シリア及びヨルダンより、パレスチナ進撃。
      4月9日
 ベギン率いる「イルグン」とシャミル率いる「シュテルン」の両ユダヤ人テロ組織が、中立を表明していたデイル・ヤシン村を総攻撃。無抵抗の住民254人が虐殺され、生き残った者は血だらけの服のままエルサレムで「勝利の行進」をさせられた(悪名高い「デイル・ヤシン事件」)
 中立の村でさえこんな目に合うと知った他の村々は、ユダヤ移民の凶暴さにパニックに陥った。
      4月13日
 エルサレムのスコーパス山病院へ向かうユダヤ側の病院職員が、「デイル・ヤシン」と叫ぶアラブ人グループの報復テロに合い、40人惨殺される。
      5月12日
 進攻したアラブ軍によって、ユダヤ人移民200人の住むクファル・エチオンが全滅。

 アイン・アッゼイトネ村では、37人の少年がユダヤ人の軍隊に引き立てられたまま消えた。サフサの村では4人の少女がユダヤ人に強姦され、70人が目隠しされて射殺された。ドワイマ村では女子供を含む80〜100人が、ユダヤ人にこん棒で頭を割られて処刑された。

      5月14日
 イギリスの高等弁務官がパレスチナを去り、イギリスによるパレスチナ支配が終結。この日、ベン・グリオンの臨時政府が「イスラエル共和国誕生」を宣言。

      5月15日
 アラブ6カ国軍(エジプト・トランスヨルダン・シリア・イラク・レバノン・サウジアラビア)がイスラエルへ侵攻開始。以降8カ月間戦闘続く(第一次中東戦争)。

      5月17日
 米ソ両国がイスラエルを承認。


●1949年1月〜7月
 イスラエルは、エジプト、レバノン、トランスヨルダン、シリアと個々に休戦協定に調印(イスラエル側の勝利)。イラクは拒否。
 ヨルダン、休戦協定に違反して東エルサレムのユダヤ教聖地への立ち入りをイスラエル市民に禁ずる(〜1967年)。
      5月14日
 イスラエル、国連の正式加盟国となる。

 

この年表の続きは「イスラエル共和国の発展史」

 


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