No.a4fha301

作成 1998.1

 

ユダヤ教に改宗したハザール王国

 

■国を挙げてユダヤ教に改宗


●ハザール王国がユダヤ教に改宗したのは、ハザールのオバデア王が国政改革に乗り出した時である。9世紀初頭(799~809年)の出来事であった。これによって世界史上、類を見ない「非ユダヤ人によるユダヤ教国家」が誕生したのである。


●ハンガリーの歴史学者アンタル・バルタ博士は、著書『8~9世紀のマジャール社会』でハザール人に数章をあてている。8~9世紀のほとんどの期間、マジャール人(ハンガリー人の祖)はハザール人に支配されていたからである。しかし、ユダヤ教への改宗には一節をあてているのみで、しかも困惑もあらわである。

「我々の探求は思想の歴史に関する問題には立ち入れないが、ハザール王国の国家宗教の問題には読者の注意を喚起しなければならない。社会の支配階級の公式宗教となったのはユダヤ教であった。いうまでもなく人種的にユダヤ人でない民族がユダヤ教を国家宗教として受け入れることは、興味ある考察の対象となりうる。しかし、我々は次のような所見を述べるにとどめたい。

この公式のユダヤ教への改宗は、ビザンチン帝国によるキリスト教伝道活動や東からのイスラム教の影響およびこれら二大勢力の政治的圧力をはねつけて行われた。しかも、その宗教はいかなる政治勢力の支持もなく、むしろほとんどすべての勢力から迫害されてきたというのだから、ハザール人に関心を持つ歴史学者すべてにとって驚きである。これは偶然の選択ではなく、むしろ王国が推し進めた独立独歩政策のあらわれと見なすべきである。」


●ところで、改宗ユダヤ教国家であるハザール王国には本物のユダヤ人は混じっていなかったのだろうか? 誰でも疑問に思う点だと思うが、当然、ハザール王国には地中海やオリエント出自のユダヤ人(オリジナル・ユダヤ人)が流入していたとみるべきだろう。しかし、それはごくごく少数の集団であったといえる。

彼らのうちの幾人かは、ハザール王国がユダヤ教に改宗する前から、その高い学識を買われて宮廷内で重用されていたようである。それは、ハザール王国がユダヤ教に改宗する前から、支配層の上層部は既にユダヤ教に親しんでおり、ブラン王とその臣下は8世紀前半に既にユダヤ教に改宗していたことからも分かる。これらの事情があって、ハザール王国は9世紀初頭に、ユダヤ教信仰を公式に受容するという極めて重大なる政治的決断を下したのであった。


●当時、ハザール王国と同盟関係にあったキリスト教国家ビザンチン帝国にとって、ハザール王国のユダヤ教化は、正直なところ、あまり面白い話ではなかったであろう。ユダヤ教よりもキリスト教を受容して欲しかったにちがいない。実際、このことに関する面白いエピソードが残されている。

860年、ユダヤ教に改宗したハザール王国にビザンチン帝国から「キリスト教布教特別使節団」が派遣された。使節団長はスラブ文字の創造者として名高いキュリロス(コンスタンティノス)であった。

『コンスタンティノス伝』には、まずハザールの使節団がやってきて、ユダヤ教徒とイスラム教徒と信仰上の論戦を行い、相手を論破できるようなキリスト教の説教師を自分たちのもとに派遣して欲しいと要請され、それに応える形で、ハザール王国への使節団の派遣がなされた、と記載されている。もし、キリスト教の布教使節が勝利した暁には、ハザール王国はキリスト教に改宗する、と約束したとされているのである。

さっそく使節団長キュリロスは、ハザール王国で開かれた論戦に参加した。キュリロスはキリスト用語を駆使して奮闘した。しかし、最終的にハザール王をキリスト教に改宗させることはできなかった。なぜなら論戦中、ラビ(ユダヤ教指導者)がうまく立ち回り、ユダヤ教が正しく崇高な教えであることをハザール王に納得させ、キリスト教、イスラム教双方に勝利する形になったからだという。

結局、キュリロスは、空しくビザンチン帝国に帰国することになったそうだ。

 

■ユダヤ教改宗が国内に及ぼした影響


●もともとハザール人はユダヤ教に改宗する前から、基本的に宗教に対して寛容であった。その点では彼らはビザンチン帝国や初期のイスラムより寛大で開けていたともいえる。一方で、彼らは昔からの野蛮な儀式(シャーマニズム)をいくらか引き継いでいたともいわれている。

ハザール王国の首都イティルには、ハザール人以外の民族で、イスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒、そして異教徒がいたという。そして、キリスト教会、ユダヤ教会、イスラム寺院・イスラム教学院が建てられ、礼拝など日常の活動を営み、その上、町の近郊の聖樹のもとでは、シャーマニズムの交霊儀式が開かれ、人を集めていたという。また、信じる宗教にふさわしい裁判官が裁判を行ったという。


●「アラブのヘロトドス」として知られ、『金鉱と貴石の草地』の著者である歴史学者アル・マスディは、945年頃のハザール王国の様子について、次のように書いている。

「ハザール王国の首都イティルにはイスラム教徒、ユダヤ教徒、そして異教徒がいる。ユダヤ教徒というのは王と従者とハザール人である。ハザール人の王は既にハルン・アルラシドがカリフの時代にユダヤ教徒になっており、イスラム国およびギリシア人の国(ビザンチン帝国)から来たユダヤ人もここに集まっている。」

「ハザール王国の首都イティルには7人の裁判官がいる慣わしだった。ユダヤ教徒ハザール人のために2人、イスラム教徒のために2人で、彼らはトーラーによって裁いた。キリスト教徒にも2人いて、聖書によって裁いた。サクアリバやルスや他の異教徒のために1人いて、異教の法によって裁いた。……(ハザール王の)町には多くのイスラム教徒、商人、手工芸者がいたが、彼らは王の与える正義と安全を求めてこの国に来たのである。王宮より高くそびえる尖塔のある中心モスクや、そのまわりにいくつかモスクがあり、子供達がコーランを学ぶ学校もあった。」


●しかし、ハザール王国のユダヤ教への改宗は、次第に悪い結果を生み出していった。もともとハザール王国は、人種的に異なる種族が混ざり合ったモザイク国家である。ハザール王国のユダヤ教への改宗は、国を統一するどころか、なんとかハザール人によって統括されていた国内の微妙なバランスを崩すことになっていった。

ハザール人の貴族同士の間では、ユダヤ教を受容する王国中心部のグループと、首都とは没交渉に近い地方在住のグループ(その中にはキリスト教徒もイスラム教徒もいた)の対立が目立つようになった。そしてしばらくすると内乱の火の手が上がり、権力側が勝利すると、反乱者の一部は皆殺しにされ、一部は逃れてマジャール人(ハンガリー人の祖)やルス人と合流した。


●ハザール王国はそれまでの宗教に対する寛容さを捨て、キリスト教徒のみならず、ハザール王国東部・南部の諸都市のことごとくに住み着くようになってきたイスラム教徒に対して、厳しい態度で挑むようになった。

こうしてハザール王国が宗教的寛容さを失えば失うほど、ハザール王は属国や貢納民のみならず、自国民に対する権威を急速に失っていき、国全体が弱体化していったのであった。

 

 


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