No.a4fha401

作成 1998.1

 

クリミア半島の
ハザール人と黒死病

 

 

■■クリミア半島のハザール人


●ハザール王国は極めて国際的な国であった。ハザール王国は近隣諸国と盛んに交易を行い、ハザール商人は中継貿易をしていた。7世紀末にハザール王国に併合されたクリミア半島の港町カッファ(現フェオドシア)は、交易の拠点として特に重要な都市であった。ここを拠点にして、ハザール商人はイタリアのジェノバやベネチアにも進出していった。

11世紀から16世紀にかけてジェノバやベネチアの商人たちは、クリミア半島のことを「ハザリャ」とか「ガザリア」と呼んでいたが、これは「ハザール」に由来している。また、ジェノバとベネチアの商人のほとんどはユダヤ人であった。

 


10世紀初頭のハザール王国

 

●1243年、ハザール王国の首都だった場所に「キプチャク汗国」が誕生したが、ハザール人の一部は、王国崩壊後もクリミア半島に残り続けた。ハザール王国の交易の拠点として特に重要な都市であったカッファは、依然としてジェノバやベネチアと交易を続けた。そして、外部からの侵略に備えて厳重に防備を固めるようになった。


●1346年、「キプチャク汗国」がクリミア半島に攻め込んできた。モンゴル軍はカッファの城塞を包囲した。軍勢を率いるのはキプチャク汗国の皇帝ジャニベグ・ハン。この城塞を陥落させて、ユダヤ商人の富を奪い去ろうと決然と攻撃を仕掛けてきたのである。

しかし、ハザール王国最後の都市ともいえるカッファは難攻不落で、数週間が過ぎてもモンゴル軍が目的を達成する見込みはほとんどなかった。皇帝ジャニベグ・ハンはこのまま攻撃を続けるべきか、それとも潔く撤退するか迷い始めた。


●そうこうするうちに、腺ペストが、衛生施設の整ってない混み合った都市に住む人間たちのあいだに発生した。いまやこの病気にモンゴル軍もかかりはじめた。皇帝ジャニベグ・ハンはハザール・ユダヤ人をいぶりだすために、まったく悪魔のような計画を考えついた。カタパルト(大型のパチンコのような武器)にペストで死んだ兵士の死体をのせて、城壁ごしにカッファの町へ投げ込んだのである。

ペストは防衛側にも瞬く間に発生し、居住区の半分以上のハザール・ユダヤ人が死んだ。生き残った者たちは船へと退却し、ペスト菌をともなって西側諸国へ向け船出した。

 

■■「黒死病」の蔓延でヨーロッパの全人口の4分の1が死んだ


●ペスト菌の感染したユダヤ人の商船の最初の寄港地はコンスタンチノープルであった。この人口100万の都市はすぐにペストが蔓延し、2ヶ月以内に3分の1の住民が死んだ。

ユダヤ人の商船が次に上陸したのはシチリアだった。ここでもその恐ろしい積荷が非ユダヤ人のあいだに死をまき散らした。次はサルジニア、そしてジェノバだった。

最後にユダヤ人の商船はマルセイユの埠頭に着いた。生き残ったユダヤ商人たちは、多くのヨーロッパの都市に設けられていたユダヤ居住区に足を運んだ。彼らが行くところ全てで、多くの人々がペストのために死んだ。


●非ユダヤ人はすぐに、この「黒死病」がユダヤ人がいるところにのみ発生することに気がついた。しかし、ユダヤ商人がクリミア半島からこの病気を運び込んだとは思いもおよばなかった。

最初に思いついたことは、ユダヤ人が井戸に毒を入れたというものだった。なぜなら、当時よく知られていた毒に犯されたのと似た症状が、ペストにかかった犠牲者たちにあらわれたからだ。犠牲者はひどい痛みを訴え、血を吐いて、2日以内に死んだ。死体は即座に黒く変色し、それが猛毒の存在を示唆していた。

ある噂が、非ユダヤ人の間に広まった。ユダヤ人の支配者たちの秘密会議「サンヘドリン」(ユダヤ最高法院)がスペインのトレドで開かれ、井戸に毒を投げこんで非ユダヤ人を根絶せよとの命令を下したというものだった。不幸なことに、この噂には根拠があった。というのも、ユダヤ人がペストを広めたと非難されないように、ペストで死んだユダヤ人犠牲者の死体を井戸に捨てて、すばやく処分していたからである。このためにもちろん、井戸水を使う数百人の人びとが感染したのであった。


●多くの社会が反ユダヤの行動を起こした。ユダヤ人は逃げ回り、それでペストはさらに急速に広まった。

ナポリでは、怒った非ユダヤ人によって多数のユダヤ人が海へと追い立てられ、溺死した。彼らの死体はイタリアの海岸沿いに何マイルにもわたって打ち上げられた。そしてさらに人々に伝染した。

ユダヤ人の船荷はヨーロッパの海岸に沿って巡航したが、陸揚げを許されなかった。なぜなら、どの国もユダヤ人がこの疫病の運搬者だという警告を受けていたからだ。ユダヤ人が船で死ぬと、その死体は海に捨てられ、これもまた海岸に流れ着き、上陸を拒否したまさにその町に伝染するのであった。

 


ヨーロッパでのペスト大流行の経路 (1347年〜)

 

●イタリア、スペイン、フランスの各地で暴れ回った「黒死病」は、1349年にはオーストリア、ハンガリー、スイス、南ドイツ、オランダ、イギリスに拡大して、翌1350年にはスカンディナヴィア半島、バルト海沿岸にまで及んだ。こうして、ペストは50年間、衰えず猛威を振るったのであった。

この病気による死者は、当時の記録によれば3人に1人。あるいはヨーロッパの全人口の4分の1、2500万人だったといろいろ推計されている。

当時人口20万人だったパリでは、5万人が死んだので、死体がごろごろ放置されていたという。イギリスでは1400年には人口が1300年代の半分に減少するという深刻な影響を残している。


●このように、「黒死病」が最初に姿を現したのは、14世紀半ばのクリミア半島の港町カッファで、「黒死病」の伝染にはハザール・ユダヤ人(商人)が大きく関わっていたのである。しかしそれは、ユダヤ人たちの悪意によるものでも、入念に意図された陰謀でもなかった。全くの不慮の事故によるものであったのだ。

 

■■その後のクリミア半島 ─ 「クリミア汗国」とカライム人


●1430年頃、「キプチャク汗国」の分家が独立して「クリミア汗国」(首都ヤルタ)が誕生した。この「クリミア汗国」は黒海沿岸地帯を中心に支配し、黒海を隔てたオスマン・トルコ帝国とは対等な関係を主張した。

1475年、「クリミア汗国」の皇帝メングリ・ギレイはそれまで同盟関係にあったリトアニアとの関係をたち、オスマン・トルコ帝国の服属国となった。1482年春、彼はオスマン・トルコ帝国の支援のもとにリトアニア領南部に攻め込み、キエフとその周辺を占領し、激しい略奪と破壊ののちに退却した。かつてキエフ・ロシア国の首都だったキエフは、この攻撃で城砦も壊され、ほとんど無人の地と化した。キエフとその周辺(ウクライナ地域)は文字どおりの荒野となり、ポーランド人はこのあたりを「未開の広野」と呼んだという。


●15世紀から16世紀にかけて、このウクライナ地域で、ポーランドとリトアニアからの逃亡者によってコサック集団が形成された。そして、このウクライナ・コサックは「クリミア汗国」の領内をしばしば襲うようになる。特にウクライナ・コサックの襲撃目標となったのは「クリミア汗国」最大の貿易センターであったカッファであった。この遠征にはしばしばリトアニアの貴族も参加した。そのような貴族の1人、ドミトロ・ヴィシネヴェツキーは自らコサック軍団に身を投じ、これをきわめて統制のとれた軍事集団に組織するのに重要な役割をはたした。16世紀末から17世紀初頭にかけて、黒海沿岸のオスマン・トルコ帝国、「クリミア汗国」の支配下にあった港町で、コサック軍団の攻撃を受けなかった港はないといわれている。

結局、「クリミア汗国」は、1783年にロシアに滅ぼされて併合された。


●この間、クリミア半島はユダヤ教カライ派の中心地となり、クリミア半島に残り続けたユダヤ教カライ派のハザール・ユダヤ人たちは「カライム人」と呼ばれるようになる。彼らの中には、15世紀初めに「傭兵」としてクリミア半島からリトアニアに移住した者もいた。

18世紀以降、ロシアの支配下で、カライ派は生き残りのため、自分たちは「ユダヤ人」ではないと主張した。ナチスのソ連侵攻のさいには、占領地に多いカライ派の処遇に悩んだドイツ内務省が、著名なラビを尋問した。この3人のラビは頑として「カライ派の祖先はユダヤ人ではない」と証言し、カライ派を救ったが、3人とも強制収容所とワルシャワ・ゲットーで死んだ。

 

 

 


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