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No.a4fha403
作成 1998.1
●1992年10月号の月刊『Bart』(集英社)に「ハザール王国」発掘に関する記事が載っていた。もっとも「ハザール王国」の発掘に関しては朝日新聞などをはじめとする主要メディアでも報道されており(TV特集もあったので)珍しいことではないが。
この『Bart』での特集の大事な箇所をピックアップして大ざっぱに内容を紹介したいと思う。
1992年に発見されたハザール王国の首都イティルの遺跡
●この特集(全5ページ)は報道写真家の広河隆一氏によって書かれたもので、タイトルは「ユダヤ民族の歴史を変える大発見か!? カスピ海に沈む謎のユダヤ王国を発掘した」となっており、
その下に小文字で「カスピ海に浮かぶ小島でユダヤ民族・伝説の巨大王国“ハザール”の都イティルの遺跡発掘に成功した。海中に沈んだかつての都は、民族の由来そのものが、そしてその受難の歴史が大きな誤解に発していた可能性を物語る。はたしてナチスに殺された人々はどこからやってきたのか? そしてイスラエルはどこに建国されるべきだったのか?」と書かれている。
●広河氏によると「ハザール王国」発掘プロジェクトは、彼がロシア南部のダゲスタン共和国で「ハザール王国」の遺跡の取材をしていた1991年の9月に持ち上がったという。そして1992年の4月に、ダゲスタン大学歴史学部長のマゴメドフ教授とハザールに関するデータを洗い直し、首都イティルの位置を予測したという。
●広河氏は語る。
「……アルアブバフから360kmのところにイティルがあるはずだった。しかしそこには、ヴォルガ川の河口デルタ地帯はない。イティル探しは行き詰まった。しかしもうひとつの研究が活路を開いた。カスピ海の水位の変化に関する研究報告が見つかったのだ。それによるとカスピ海は不思議な水位の上下を繰り返していることが分かった。この報告が正しいとすると、イティルがあったとき、カスピ海の水面は今よりも10m低かったことになる。〈中略〉そうするとカスピ海の水位の上昇により、かつてヴォルガ川の河口近くにあったイティルは、13世紀頃カスピ海に没し始め、つい最近、水位の下降とともに再び姿を現している可能性がある」
「これまで200年間も幻のイティルを探していた人々が成功しなかったのは、現在のヴォルガ川の河岸を探していたためだったのだ。私たちは地図の上に、マハチカラから240kmの線を描いた。その地点の地図の上には、見えるか見えない小島があった。チスターヤバンカ島である。ここにイティルがあると私たちはにらんだ」
◆
●1992年7月14日、広河氏とマゴメドフ教授ら一行は首都イティルがあるとにらんだ「チスターヤバンカ島」を目指してマハチカラ港を出港。彼らはそこでにらんだ通りのものを発見したという。
「上陸したところは土手のようになっていた。なんとこの細い部分しか水の上に残っていない。衛星写真や地図に記載されているのより遥かに小さい。カスピ海の水位は再び上昇を始めていたのだ。しかし、この土手にのぼってピンときた。同じ幅と高さで長く続いている。今まで幾つか見たハザールの防壁と酷似しているのだ」
「16日から北と南の土手で発掘を開始した。北のほうを調べに行くと、マゴメドフ教授が大声で呼ぶ。彼が指す方向には間違いなくクルガン(古墳)群が丸い頭を見せている。それは東の防壁の外にあり、数はちょっと見ただけでも数百はある」
◆
●興奮に包まれる彼らはすぐさまヘリコプターを呼んで、空からの調査を開始したという。
「防壁は明らかに人間の手で作られた多角形を見せ、特に南部は複雑な形になっていた。王宮の部分かもしれない。とにかく大発見だ。この段階でイティルはほぼ見つかったと確信した」
●翌17日、彼らは防壁の発掘を開始した。が、湧き出る水に妨げられて掘り進めなかったという。
「もうそろそろ防壁の基盤に出合うと思う頃、念のためシャベルを打ち込んだら、すぶずぶと根元まで埋まっていった。みんなは絶望的な目でそれを見た。私は中止を提案する教授と対立した。マゴメドフ教授はチスターヤバンカがイティルであるということが分かったから、目的は達したと言う。私はそれは確率が高いものの、まだ仮説に過ぎない。仮説を実証するのが考古学者ではないのかと反発した」
●その後、19日から広河氏一行は海中調査を開始。複数の発掘ポイントに鉄のパイプを打ち込んで、どの地点も水面から2m下で鉄パイプが動かなかったという。
「一番底から古いブドウの木が出てきた。現在のチスターヤバンカにはブドウはない。確かハザールの王からスペインのユダヤ人高官に当てた『ハザール書簡』に、イティルの町の中にはぶどう園があったと書かれていたのを思い出した。〈中略〉教授は北の発掘場所に続いて、南でも鉄パイプを打ち込み始めた。その結果は北と同じだった。2m下で鉄パイプが動かなくなったのだ。間違いなくそこに防壁の基部がある」
●無線装置の故障や気候の悪化もあり、広河氏らは22日にマハチカラへ撤退。しかし、そのままマハチカラでハザールの最古の都市と思われる「チリユルト」の古墳に向かい、馬具や土器やハザール人の骨の発掘に成功したという。
◆
●ところで首都イティル発掘中、かのマゴメドフ教授はテントの食堂に発掘協力者一同を集め、旧ソ連政府とお抱えの学者たちがハザール研究を軽視して、成果を握りつぶしてきたことを批判演説していたという。
これを受けて広河氏は語る。
「確かにロシアは、ロシア・キエフ公国に起源を求め、それ以前にハザール王国という文明国の影響を受けたことを認めたがらない」
「このハザールは世界史で果たした大きな役割にもかかわらず、ほとんど知られてこなかった。ビザンチンと同盟して、ペルシャやイスラム・アラブ軍の北進を妨げたのである。ハザールがなかったら、ヨーロッパはイスラム化され、ロシアもアメリカもイスラム国家になっていた可能性が高いという学者も多い」
「……しかしハザール王国の“ユダヤ人”はどこに消えたか。ダゲスタン共和国には今も多くのユダヤ人が住んでいる。彼らはコーカサス山脈の山間部に住むユダヤ人だったり、黒海のほとりからきたカライ派ユダヤ人の末裔だったりする。このカライ派ユダヤ人たちは明らかにハザールを祖先に持つ人々だと言われている。そして彼らはハザール崩壊後、リトアニアの傭兵になったり、ポーランドに向かった」
ダゲスタン共和国は北コーカサス東部(カスピ海西岸)に位置する小さな共和国である↑
※ 広河氏によれば、このダゲスタン共和国には今も多くのユダヤ人が住んでいるという
●さらに続けて彼はこう述べている。
「私はチェルノブイリの村でもユダヤ人の居住区の足跡を見たし、ウクライナ南部では熱狂的なハシディズムというユダヤ教徒の祭りに出合った。『屋根の上のヴァイオリン弾き』はこの辺りのユダヤ人居住区『シュテートル』を舞台にしたものだが、この居住形態はヨーロッパ南部の『ゲットー』という居住形態とは全く異なる。そしてこの『シュテートル』がハザールの居住区の形態だと指摘する人は多い」
「シュテートル」の風景
※「シュテートル」というのはイーディッシュ語で
「小さな都市」を意味し、住民の大部分がユダヤ人からなり、
農民を中心とする周辺の非ユダヤ人を相手に商工業を営んだユダヤ人の
小さな田舎町だった。この「シュテートル」と同じような集落が、ハザール王国
にも存在していた。ポーランドの歴史学者アダム・ヴェツラニは次のように語っている。
「我々ポーランドの学者たちの見解では、ポーランドにおける初期のユダヤ人集落はハザール
およびロシアからの移住民によって作られ、南・西ヨーロッパのユダヤ人からの影響より先
だったという点で一致している。〈中略〉また、最初期のユダヤ人の大部分は東部、つまり
ハザール起源であり、キエフ・ロシアはその後になるという点でも一致している」
※ 現在、東欧系ユダヤ人にとって「シュテートル」は思い出多き町、郷愁を
豊かにかりたてる世界を悲しく思い起こさせる言葉となっている。
●広河氏は最後に次のような言葉で締めくくっている。
「ところでハザール王国消滅後、しばらくして東欧のユダヤ人の人口が爆発的に増えたのはなぜかという謎がある。正統派の学者は否定するが、ハザールの移住民が流入したと考えなければ、この謎は解けないと考える人が意外と多いのだ。〈中略〉
現代ユダヤ人の主流をなすアシュケナジーと呼ばれるユダヤ人は、東欧系のユダヤ人が中心である。神が約束した地に戻ると言ってパレスチナにユダヤ人国家イスラエルを建国した人々も、ポーランドやロシアのユダヤ人たちだ。〈中略〉ハザールの遺跡には、現在に至る歴史の闇を照らす鍵が隠されていることだけは確かなようである」
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