No.a4fhb711

作成 1998.2

 

第二次世界大戦後の
スターリンの反ユダヤ政策

 

 

●第二次世界大戦後のスターリン体制最後の数年間(1948〜1953年)は、ユダヤ人にとって暗黒期であった。

この時期に生じた「反ユダヤ的事件」は以下の通りである。


◎秘密警察によるS・ミカエルの暗殺。ミカエルはユダヤ国立劇場の演出家ならびにユダヤ反ファシスト委員会の議長を勤めていた。

◎1930年代及び大戦中に設立された全てのユダヤ人文化協会・団体の廃止。

◎1949年からのソビエト新聞・雑誌による公然とした反ユダヤ宣言。特にユダヤ人の世界市民的な面が攻撃された。すなわち「母国をもたない根なし草」、反逆分子、など。西側陣営に対する教育の要素が強い。

◎ユダヤ反ファシスト委員会の廃止。ユダヤ人作家、芸術家などが逮捕もしくは殺された。

◎クリミア事件。スランスキー裁判。いずれもユダヤ人が罰せられた。「ドレフュス事件」に匹敵する。

◎ユダヤ人医師陰謀事件。スターリンの権力闘争に利用された事件。事件後、数千のユダヤ人が職を追われた。

◎ユダヤ人とイスラエル、アメリカとをソ連の共通の敵とする大衆宣伝開始。

 

●以上のように、反ユダヤ主義は、第1にスターリン独裁の主要な道具として、第2に、冷戦期における対西側政策の一環として利用された。ユダヤ人は革命期のみならず、この期においても再び「犠牲の羊」とされた。

スターリンの死後、1956年2月、第2回党大会において、フルシチョフはいわゆるスターリン批判を開始する。しかし、この際、スターリンの行なった反ユダヤ政策については全く触れなかった。


●フルシチョフの反ユダヤ政策は、スターリンほど強いものではない。だが、ユダヤ人を「経済的犯罪者」(資本家)として描き、スターリン同様の大衆宣伝を行なった。この宣伝は、1961年から1964年まで、保安警察によって行なわれた。

この時期には、シオニズムとイスラエル共和国とを告発するだけでなく、ユダヤ教そのものをも、歴史的にも文化的にも有害な宗教として告発する本、パンフレットも現われた。これらの印刷物には、しばしば露骨な反ユダヤ的漫画が描かれていた。



●この時期の民衆による反ユダヤ運動としては、以下のものをあげることができる。


◎シナゴーグ放火。ユダヤ墓地の管理人の殺害──モスクワに近いマラホフカにて。

◎反ユダヤ的ポスターの配布──1959年、ユダヤ暦の新年。

◎シナゴーグ放火──1962年、グルジアとツハカヤ。

◎反ユダヤ的暴動と血の中傷事件──1962年、タシケントとツハルツボ。

◎血の中傷事件──1963年、ヴィリナ。

◎共産党指導による血の中傷事件その他の反ユダヤ的印刷物──1961年8月9日、ブイナクスクとダゲスタンの地方紙において。数日後に謝罪文掲載。

 

●ソ連国内の知識階級は、このような風潮に対して批判的ではあったが、それほど強く反対するものではなかった。それは、ナチスのホロコーストと帝政期の反ユダヤ主義を攻撃したエフトシェンコの『バービヤール』が1961年に『文学新聞』に掲載された時、即座に厳しい批判が体制側の文学批評家からなされたことからも明らかである。

この時期にはまた、ユダヤ人に対する種々の差別政策が実施されていった。列挙すると以下のようになる。


◎外務機関からのユダヤ人締め出し。

◎軍の指導者層からのユダヤ人締め出し。

◎政府、党、司法などの指導者クラスからのユダヤ人締め出し。

◎主要都市の教育機関へのユダヤ人入学制限。


●フルシチョフからコスイギン=ブレジネフ体制になり、ユダヤ人の状況はいくらか改善された。ユダヤ教批判の一環をなしたシナゴーグに対する攻撃もしだいに緩和されるようになった。ユダヤ人はナチス・ドイツによるホロコーストの犠牲者だとする表現も、さらに、反ユダヤ主義を社会悪の一つとして告発する内容も、コスイギンの声明の中にみられた。同じ内容は、1965年の主要な新聞にもみることができる。


●しかし、1967年6月のイスラエルとアラブ諸国との「6日戦争」(第三次中東戦争)後、再び、反ユダヤ宣伝が始められた。その目的は、イスラエル共和国とシオニズムを非難するところにあった。ユダヤ教を古代からの非難すべき宗教としてとり扱う反ユダヤ主義も、さまざまな印刷物に表現された。

この宣伝においては、シオニズムは、帝国主義の手先として、諸国を隷属化し、搾取し社会主義を妨害するものとされている。またイスラエル共和国は、アラブ諸国を侵略することによってそのような帝国主義を中東にもたらすものとされている。



●結局、ソ連は第二次世界大戦後、ユダヤ人を差別し続けた。

スターリン時代からソ連崩壊にいたるまで、ソ連の上級官僚に任命されたユダヤ人は皆無に近い。教育でも就職でも、ユダヤ人は常に差別されてきた。ブレジネフ時代にユダヤ人にもたらされた恩恵といえば、ただ1つ、出国の機会だった。


●『赤の広場』などの著書で知られる旧ソ連生まれのユダヤ人エフ・ニエズナンスキーは、1986年に日本の雑誌『中央公論社』の対談で、ソ連の「ユダヤ人問題」について次のように語っている。(なお、彼はモスクワ大学を出て25年間にわたり司法界で活躍したが、1977年に旧西ドイツに亡命した人物である)。

「革命の時には、ユダヤ人はかなり多くの人たちが功績を立てたので、スターリン独裁が確立されるまでは政治の世界でも活躍の場を持っていた。1930年代には党の地方委員会にもユダヤ人がいたことがある。ところがスターリン独裁が確立した後の状況では、ユダヤ人問題はちょっと特別な社会の病理現象といった感じで受け止められるようになってきて、結局、スターリン時代の後は政治の檜舞台からユダヤ人は一掃されたと言ってよい。」



●また、大阪市立大学名誉教授の平井友義氏は、スターリンの反ユダヤ政策について次のように述べている。

「スターリンの『外国人嫌い』はよく知られているが、戦争中は連合国との協力のために、それは抑えられていた。しかし、戦争が終わり戦時同盟が敵対関係に変わると、スターリンはやがて『コスモタリズム』、『外国への跪拝(きはい)』に反対する徹底的なキャンペーンを組織するようになった。その標的は国内のユダヤ人であった。スターリンは戦後の国民生活の辛苦、経済的困難の責任を転嫁すべき『敵』を必要としていた。

スターリンの孤独と不安と猜疑心は、ついにユダヤ人に対する『大粛清』という狂気すれすれのシナリオに行き着くのである。これが1953年1月、党機関紙『プラウダ』に発表された『クレムリン医師団陰謀事件』の背景であった。ユダヤ人医師たちが中心となって、ソ連指導者の毒殺を計画したというのである。

こうして、ソ連のユダヤ人をシベリアや中央アジアに強制移住させる計画が実行に移されそうになったまさにそのとき、3月5日、スターリンは病死した。ソ連は重苦しく垂れこめていたスターリン主義の暗雲を、やっとくぐり抜けることができた。しかし、ソ連国民を待つ前途は決して平坦ではなかった。」

 

 

 


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