No.a4fhb712

作成 1998.2

 

「ビロビジャン計画」と「イスラエル移住計画」

 

 

■■極東に作られた「ユダヤ人自治州」=ビロビジャン共和国


●現在、ユダヤ人の国イスラエルならいざ知らず、世界にイーディッシュ語(アシュケナジー系ユダヤ人の使用言語)を公用語として認めている国がある。しかも、この国は日本からもかなり近い、といえば人は驚くであろうか。

旧ソ連の「ビロビジャン共和国」はそのような国だ。

中東にイスラエルが建国される以前から、既に“ユダヤ人の国”は存在していたのだ。

 

 

●1920年代のソ連では、各地に自治共和国や自治州など民族の自治行政単位が次々と創設された。ソ連国内にはあまたの民族が共存していたが、そこでのユダヤ人と他民族との違いは、ユダヤ人だけが土地を持っていない、ということであった。ソ連政府は、ユダヤ人に土地を与えるプランを練り、1928年3月に「ビロビジャン計画」を決定した。

ビロビジャンは、極東地方(ロシア・中国国境を流れるアムール川支流域)の町で、ここにユダヤ人の自治領を設け、将来はソビエト連邦を構成する一共和国となるとされた。 計画から6年後の1934年5月、ビロビジャンは正式に「ユダヤ人自治州」となった。

(※ 当初は黒海沿岸のクリミア半島の一部が入植地の候補に上がったものの、1927年にその案は破棄され、代わってソ満国境のビロビジャンが入植地に急浮上した直接の契機は、「満州からの脅威」に備える国防的配慮ともいわれている)。

 


「ユダヤ人自治州」=ビロビジャン共和国(黄色に塗られた地域↑)



ハバロフスクのすぐそばである。日本から近い。

 

●ソ連政府は外国の政治的同情と経済援助を受けられることを期待し、「ユダヤ人の歴史上初めて自分の故郷の建設、自らの民族国家の成就への燃えるような要望が満たされた」とぶちあげた。

こうして「ビロビジャン計画」が大々的に宣伝されると、入植者が殺到した。「ビロビジャン計画」に熱狂した者が、ポーランドやアルゼンチン、アメリカからさえもやってきた。

だが、それもはじめのうちだけだった。なにしろ寒い気候、たくさんの雨、たくさんの虫、それに家は木を切り倒して建てなければならないということで、そこから撤退する者もたくさんいた。

 


ビロビジャンの入植者たち

「ビロビジャン計画」に熱狂した者が、ポーランドや
アルゼンチン、アメリカからさえもやってきた。
 しかし失望して去っていく人が多かった…。

 

●1939年の国勢調査によれば、ユダヤ人自治州の人口10万9000人のうち、基幹民族たるユダヤ人は1万7695人(16%)にすぎず、しかも大多数が都市部に集中していた。1928年から1937年までの10年間で、およそ4万3000人のユダヤ人がビロビジャンに移民しているが、その過半数は短期間で立ち去ったことがわかる。

ビロビジャンではユダヤ文化が繁栄したが、自由に発展を許されたわけではなく、1937〜38年の大粛清やスターリン晩年期などにしばしば「民族的偏向」の咎めを受け、弾圧された。

 


ヨシフ・スターリン

 

●「ビロビジャン計画」は都市生活者であるユダヤ人を農民に変えようとするものでもあったが、ロシアに住むユダヤ人の大多数は受けいれず、結局、予定されたユダヤ人口に達しないまま、この計画は頓挫してしまった。フルシチョフは後に、このプランが御破算になった原因として、ユダヤ人は農耕に適さず、集団生活を厭う個人主義者ばかりだからだ、と言った。


●一応、現在もこの「ユダヤ人自治州」=ビロビジャン共和国は、ロシア連邦極東地方に残る唯一の自治州として存在する。面積は3万6000平方キロで、1995年現在の州人口は21万2000人。そのうちユダヤ人は7000人以下しかいないという。

1994年に、NHKの衛星放送でビロビジャンの様子が4回にわたって報告されたが、それによると、経済状態は相当悪いらしく、ユダヤ人が、列車で次々とこの町を離れているという。

 


ビロビジャン駅(1994年)

 



 

■■ソ連のユダヤ人の「イスラエル移住計画」


●イスラエル共和国は、1967年6月の「6日戦争」(第三次中東戦争)以来、ヨルダン川西岸およびガザ地区を占領し続けている。その結果多くのパレスチナ人たちを国内に抱えるようになり、イスラエルの指導者たちは、数十年後にパレスチナ人たちのほうがユダヤ人よりも多くなるのではないかと懸念し始めた。

 


ソ連の軍高官と秘密会議を開いて、
ソ連のユダヤ人をイスラエルに移住させる
計画を立てたシャロン国防相

 

●そこで、イスラエルのシャロン国防相は、ソ連の軍高官と密かに接触。1981年に開かれたイスラエルとソ連の秘密会議で、アラブ人口とユダヤ人口の逆転を防ぐため、ソ連からの出国ユダヤ人たちを住まわせようという計画が立てられた。

ソ連政府は120万人にのぼるロシア系ユダヤ人を送り出して、1989年から2010年の間にイスラエルの西岸地区へ移民させることに同意した。


●1989年12月、マルタ島で米ソ首脳会談が行われた。このマルタ会談では、ゴルバチョフ元大統領が東欧の民主化を保証する代わりに、ブッシュ大統領はソ連に「最恵国待遇」を与え、対ソ経済協力を約束した。そのとき、アメリカ側が出した条件が、ソ連からの出国の自由化。つまり、ソ連にいるユダヤ人の国外移住に制限を加えないというものだった。アメリカ内で強力な勢力を有するシオニスト・ユダヤ人たちの要求を代弁したのである。

このマルタ会談により、ソ連の自由化は急速に進み、実質の伴わない民主化から、ソ連邦はついに崩壊。その結果、ロシア系ユダヤ人のイスラエルヘの移民は急増する。ちなみにこの時、ゴルバチョフは、「自分は、(エジプトからイスラエル民族を解放した)モーセになったような気分だ」と語っている。

 


1989年、マルタ島で米ソ首脳会談をした
ブッシュとゴルバチョフ

 

●1989年1月、ソ連の国勢調査によれば、ユダヤ人の人口は145万人であったが、7万人が年末までに出国移住し、そのうちの6万人がアメリカへ移住した。1990年から1993年の間に、58万人のユダヤ人がソ連を去り、その80%はイスラエルへ移住した。これは1993年までに、ソ連のユダヤ人のなんと45%が出国移住したことを意味している。

その後の移住者は減少したが、およそ54万人のユダヤ人が1989年から1997年の間にソ連からイスラエルへ移住し、1971年から1989年の間にソ連から移住していた15万人のユダヤ人に加わった。ソ連に残ったユダヤ人は、そのほとんどがロシアとウクライナに居住し、その数はロシアに34万人、ウクライナに16万人である。グルジア、リトアニア、ベラルーシおよび中央アジア諸国のユダヤ人口は急激に減少した。

 


出国を求めるロシア系ユダヤ人

 

●このように、1980年代後半から1990年代半ばまでに、膨大な数のユダヤ人が他のどの国よりもソ連からイスラエルへ移住したのである。もちろんこれは、イスラエル政府やシオニスト組織(メイア・カハネのJDLなど)による積極的な働きかけがあったためであることは言うまでもない。ソ連国内にはユダヤ機関の事務所が19ヶ所作られ、ユダヤ人移民送り出し活動を支えた。


●しかし、ソ連からイスラエルに来て、イスラエルに失望するユダヤ人が少なくない。イスラエルではロシア系ユダヤ人の増加で、住宅不足が起き、都市においては家賃は倍以上にはね上がり、数ヶ月分の前払いをしなければ出て行くことを要求する家主が現れている。

また、当然、失業率は高くなり、かつてはアラブ人の仕事だった道路掃除や建設現場などの肉体労働にロシア系ユダヤ人の医者や学者が従事している。NHKでも元ソ連のオーケストラの指揮者が街頭で楽器演奏をして、その日の糧を得ている様子をテレビ報道したほどである。中にはホームレスになる人も出ているという。

 


ロシア系ユダヤ人の入植地 (イスラエル)

 

●ロシア系ユダヤ移民の急増で、アラブ人は職を追われ、新たなユダヤ・アラブの対立が生まれている。

現在も、イスラエル政府は積極的な「入植政策」を行っているが、増え続けるロシア系ユダヤ人のために占領地に鉄筋コンクリートの頑丈な住宅を増築して、パレスチナ問題を一層解決困難な状態に導いてしまっている。

 

 

 


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