ヘブライの館2|総合案内所|休憩室 |
No.a6fhb804
作成 2003.4
●第二次世界大戦中、ウクライナではユダヤ人虐殺(ポグロム)が公然と行われたが、それは東欧諸国全般に共通する現象といえるものであった。北はリトアニアから南はクリミヤまでのナチス・ドイツ占領下のソビエト・ロシアでは、ユダヤ人殺戮のためにさまざまな形のナチスヘの協力が見られた。
それと共に、ソ連治下でくすぶっていた極右系のナショナリストのグループは、ナチスの方法手段をそのまま導入してユダヤ人迫害にあたった。
バルト三国と東欧諸国(1939年)
●リトアニアのグループなどは、ドイツ軍が攻め込んで来る前にいち早く、独自のポグロムを始めていた。これらの地域では警察のみならず一般庶民も、ユダヤ殺害のためなら互いの境界を越えてまで協力を惜しまなかった、と言われている。
リトアニアで殺されたユダヤ人の数は20万で、生きながらえたユダヤ人はわずか1割だけであった。
ユダヤ人を撲殺するリトアニア人たち
●こういった厳しい状況の中で、リトアニアの日本領事・杉原千畝氏は、ポーランドから逃れてきたユダヤ人に日本通過査証(ビザ)を発給し、6000人の命を救ったのである。彼に助けられたユダヤ人は、日本を通過して他の国に渡っていったが、神戸に住み着いた者もいた。
※ 1985年に杉原千畝氏は、イスラエルの公的機関「ヤド・バシェム」から表彰され、「諸国民の中の正義の人賞」を受賞した(翌年に彼は亡くなった)。
6000人のユダヤ人を救った
リトアニアの日本領事・杉原千畝
ビザを求めて日本領事館の前に並ぶユダヤ難民(1940年)
●リトアニア生まれのユダヤ人であるソリー・ガノールは、少年時代にナチスの迫害にあい、「ダッハウ収容所」に収容されたが、アメリカの「日系人部隊」によって救出された。彼はこの時の体験を、著書『日本人に救われたユダヤ人の手記』(講談社)にまとめている。
(左)リトアニア生まれのユダヤ人ソリー・ガノール
(右)彼の著書『日本人に救われたユダヤ人の手記』(講談社)
●彼はナチスが迫ってくる頃、全く偶然、杉原千畝氏に出会い、杉原夫婦を自宅に招いたという。そして、杉原千畝氏から早期の脱出をアドバイスされるが、決断が遅れ機を逃してしまい、このことはまさに一生悔やまれたという。
その後、彼は各地を転々としたあと、「ダッハウ収容所」に収容され、1945年5月2日にアメリカの「日系人部隊」によって救出されたという。
ミュンヘン郊外にある「ダッハウ収容所」
「ダッハウ収容所」は、ナチスが一番最初に作った
収容所である。戦争が始まるより6年も前(1933年)、
ナチスの政敵や同性愛者、売春婦など「非社会的」
とされた人々を収容するために建設された。
●彼は本の中で次のように記している。
「リトアニアの臨時の首都カウナスのユダヤ人たちに、わずかな希望を差し伸べてくれた当局者がひとりいた。日本領事館の領事代理、杉原千畝氏である。杉原氏は自分のキャリア、自分の名誉、おそらくは自分の生命さえ危険にさらして、6000人をこえるユダヤ人を救ったのである。
第二次世界大戦初頭の2年間についての私の記憶では、杉原氏は暗黒の中の一条の光にほかならなかった。杉原氏こそは、きたるべき恐ろしい日々の間ずっと、私にとって、ひとつの変わらぬインスピレーションであり続けたのである。
この杉原氏の姿を最後に目にしてから5年もたったのち、しかも、私がホロコーストの世界から解放されたまさにその瞬間、杉原氏と同じ日本人の顔が目の前にあった。何と不思議で、何と素晴らしいめぐりあわせだろうか。
杉原氏のまなざし、杉原氏の笑顔に通じる何かが、死の淵から私を連れ戻してくれた、そのGI(米軍兵士)の温顔に見てとれたのだ。雪野原から私をかかえ起こしてくれたのは、『ニセイ』と呼ばれるアメリカの日系二世だったのである。1945年5月2日のことであった。」
「ダッハウ収容所」を解放した第522野戦砲兵大隊の
兵士たち(全員、アメリカの日系二世である)
左から、キヨシ・岡野伍長、ジェームズ・倉田中尉、
ミナベ・平崎一等兵、シャーキー・小林一等兵
●ソリー・ガノールを救出したのは、クラレンス・松村という名前の日系二世だったという。彼は次のように記している。
「日系二世兵士はクラレンス・松村という名前であった。アメリカ軍の第522野戦砲兵大隊に属していた。大隊から小隊まで日系二世だけで編成した連隊規模の第100・第442統合戦闘団の一大隊である。彼らはイタリア、フランス、そしてドイツと、凄惨な戦場を転戦した。この戦闘団は、その従軍期間から計算すると、大戦中のどのアメリカ軍部隊よりも多くの死傷者を出し、より多くの戦功賞を得ていた。」
(左)「日系人部隊」によって解放された「ダッハウ収容所」のユダヤ人たち
(右)ソリー・ガノールを救出した日系二世のクラレンス・松村軍曹
●ところで、第二次世界大戦中、自由と民主主義の国、アメリカ合衆国にも「強制収容所」があった。それも日本人と日系人専用のもので、約12万人もの民間人が財産と市民権を奪われて、カリフォルニア州からルイジアナ州までに広がる10数ヶ所の強制収容所に収容されたのである。
このアメリカの日系人に対する強制政策の裏には、白人の有色人種に対する人種的偏見や差別意識があったことは明らかである。(この時期、同じ敵国であったドイツ系・イタリア系のアメリカ人は「お構いなし」の状態だった)。
●このことについて、ソリー・ガノールは次のように記している。
「私の身のうえを思うと、いまひとつ見落としにできない運命の皮肉がある。松村ほかの日系人たちが、アメリカのために戦い、生命を落としつつあるというのに、祖国アメリカでは彼らの家族の多くが抑留所に押し込められていたことである。住居や事業から切り離され、人里離れた土地に作られ、タール紙を張りめぐらせたバラックでの生活に追いやられていた。
アメリカ政府は『再配置収容所』と呼んだが、『強制収容所』の別名にすぎなかった。」
アメリカに作られた日系人強制収容所。人里離れたアメリカの砂漠の中に
建てられた、タール紙で造られたバラック小屋の列。約12万人もの
日系民間人が財産と市民権を奪われて収容された。
整理用名札をつけられ、
日系人強制収容所に送り込まれた少女
●47年後の1992年、ソリー・ガノールは自分を助けてくれた日系二世兵士たちと、エルサレムで再会を果たした。ナチ時代に生き延びたことも奇跡的だが、半世紀を経た後の再会も奇跡であった。
彼は次のように記している。
「1992年春、私は日系人部隊の兵士たちと再会した。クラレンス・松村と私の再会の物語は、羽根がはえて世界中に流れた。日系人部隊の存在も、彼らがドイツの収容所解放に果たした役割のことも、それまでほとんど知られていなかったのである。
このときからのち、私は、松村と彼の部隊にいた人たちと何度か会った。イスラエルで、ドイツで、そしてアメリカでも。彼らと過ごすことのできた時間、ことに松村との数時間は、感謝の念とともに思い浮かんでくる。しかし、その松村は1995年5月、消えがたい悲しみを私に残して他界してしまわれた。」
(左)1992年に日系人部隊の兵士たちと再会したソリー・ガノール(左から6人目)
(右)杉原千畝氏を称える「人道の丘公園」での平和記念式典(1994年)
(右から3人目がソリー・ガノールで、中央は杉原千畝氏の夫人)
●そして、彼は続けて次のように記している。
「会うたびに、救出してくれた人たちについての知識と理解は深まった。彼らに日系人収容所での体験があり、より広くはアメリカでの被差別体験があったからこそ、あの1945年春、松村と彼の戦友たちは、救出にあたった相手に対し、理解と同情の火花を特別に強く燃え上がらせたのではなかったろうか?
日系二世とユダヤ人の間には、何か特別なきずながあるのではないか? 私に答えは出せない。が、日系二世たちと日本人に対し、私が強い同胞感覚を抱いていることはたしかである。」
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