No.a6fhc700

作成 1998.2

 

ナチス・ドイツの南極探検

 

●ヒトラーは早い段階から南極大陸に目をつけていたことで知られている。

当時、南極大陸は無主地(有効に支配する国が存在しない土地のこと)で世界のどの国も南極大陸に対して所有権を主張するものはなかった。1930年代後半まで実際に探険されたのは全大陸の15%に過ぎなかった。

 

 

1938年、「南極を獲得するぞ!」というヒトラーのかけ声とともに、ナチス・ドイツの南極探検が開始された。

ヒトラーは腹心のアルフレート・リッチャーに南極遠征を命じた。それを受けて、リッチャーは総勢57名(探検隊員33名と船員24名)の遠征隊を組織し、カタパルト船シュワーベンラント号で南極を目指した。

 


(左)ナチス・ドイツの南極遠征隊 (右)遠征隊の
隊長を務めたアルフレート・リッチャー



カタパルト船シュワーベンラント号

 

●1938年12月17日にハンブルクを出発した船が、南極クイーンモーランド沖に投錨したのは翌1939年1月19日のこと。

それから3週間にわたって、船から飛び立った水上機「パサート」「ボレアス」が、南極大陸を60平方キロの範囲にわたって飛び回り、1万枚以上の航空写真を撮影したのである。

 


シュワーベンラント号のカタパルトから飛び立つ
ナチス・ドイツの南極観測用の水上機



南極の氷原に着陸した水上機

南極大陸を60平方キロの範囲にわたって
飛び回り、1万枚以上の航空写真を撮影した

 

●調査対象となった南極クイーンモーランド西部にはカギ十字型の金属片が大量に散布され、20キロごとにナチス旗が投下された。

 


(左)1938年、南極にナチス・ドイツの旗を立てる遠征隊の科学者たち
(右)ナチス・ドイツの南極遠征隊に与えられたバッジのデザイン

 

●航空機から撮影した1万枚以上の写真をもとにして南極地図が作成されたが、ドイツ本国で詳細に分析したところ、1931年にノルウェー遠征隊が作成した「最も権威ある南極地図」が間違いだらけであることが明らかにされた。

 


リッチャー遠征隊の調査に
基づいて作成された南極の地図

 

また、リッチャー遠征隊の調査によって、当時としては驚くべき事実が明らかになった。

それまで南極は、高い山などない平らな氷のかたまりとしか考えられていなかった。唯一の山はロス地区にあるマウント・エレバスだけだと思われていた。しかし南極には4000m級のアルプスのような山々が山脈をなして存在していたのである。

また、内陸部には雪の降らない地帯があり、火山活動のために凍ることのない湖=「温水湖」がいくつかあった。隊員の一人はこの暖かい湖を泳いでみせたという。これら温水湖の周辺には植生があり、夏であれば人間が防寒服なしでも生活できることがわかったのである。そのうえ、湖水は飲料用に適していて、飲むと、とてもおいしかったという。

 


リッチャー遠征隊が撮影した南極の山々

南極には4000m級のアルプスのような山々が
山脈をなして存在していることが判明した

 

●このように、リッチャー遠征隊の南極探検は大きな成果を挙げたが、その後もヒトラーは毎年のように遠征隊を送り込み、南極大陸と周辺の島々に関する調査を続けた。

ヒトラーは調査区域を「ドイツ領土」とみなし、「ノイ・シュワーベンラント(新しいスウェイビア)」と名づけた。さらにこの「領土」を実効的に支配するため(実効的に支配していなければ国際法的に領土とは認められない)、軍事拠点の建設を企図したのだった。南極であれば各国の目も届かないから、秘密施設を設置するには絶好の場所だったのである。


●しかし、ヒトラーは結局、南極に秘密施設(基地)を設置することはなかったようだ。

(そもそもヒトラーは「ノイ・シュワーベンラント」に対して公式な領有宣言は行っていない、との説もある)。

 


リッチャーの南極探検後も、ヒトラーは毎年のように遠征隊を
送り込み、南極大陸と周辺の島々に関する調査を続けた。

しかし、この調査は極秘だったため、一般国民は
戦後までこの探検のことを知らなかった。



ヒトラーが「ドイツ領土」
とみなした南極大陸のエリア

「ノイ・シュワーベンラント」と名づけられた
(ナチスのマークの付いたエリア)



↑「ノイ・シュワーベンラント」の詳細地図
(1938~1939年)

↓この2枚の画像は上の地図の一部分を拡大したもの



↑ナチスの旗のマークが集中している南極大陸の「ミューリッヒ・ホフマン山脈」周辺の拡大図

 

 


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