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作成 2005.7

 

平和郷であり、王道楽土だった満州国

 

 

1938年の台湾生まれで、「台湾ペンクラブ賞」受賞の経歴をもつ評論家・黄文雄氏は、著書『日中戦争 真実の歴史』(徳間書店)の中で次のように述べている。参考までに紹介しておきたい。

 

※以下の文章は、『日中戦争 真実の歴史』黄文雄著(徳間書店)
  P259〜263、P272 から抜粋したものです

 


 

■満州国は東亜大陸史上初の法治国家


満州事変という「侵略戦争」の結果生まれた満州国が、略奪と虐殺の大地だったという中国の歴史観ほどデタラメなものはないが、そのようなものを真に受ける戦後日本人も愚かであることこの上ない。

満州国は東亜大陸史上、あるいは人類史上において、まったく奇跡の国だった。なぜなら前近代的、というより原始的に近かったこの広大な荒蕪(こうぶ)の地において、きわめて短期間のうちに近代的な法治国家、平和国家、一大重工業国家として成長したからだ。もちろんこの国をそこまで育て上げたのは日本人である。

この地がもともと馬賊上がりの軍閥に支配され、住民は塗炭の苦しみに喘いでいたことはすでに述べた通りだが、満州国が樹立されると、まず関東軍、そして新設の満州警察によって治安がもののみごとに確立された。満州事変の前年である1930年、満州の匪賊の数は奉天省3万人、吉林省1万人、熱河省1万4000人、黒龍江省6000人の計6万人に達し、そして事変後は、そこに敗残兵、逃亡兵が入り込み、軍備を充実させながら十数万にも膨れ上がったが、これを軍警が一体となって一掃したのである。

満州国に関しては関東軍の内面指導というものがあり、そのためこの国は傀儡国家、偽国家だとの見方が定着しているが、ひとり立ちできない国家を、他国が全面的に指導するという例はいくらでも見られることで、取り立てて問題にするようなことではない。それよりも日本人が全面的に国家指導を行ったことで、匪賊の消滅という中国近代史上の奇跡がもたらされたことに着目するべきだろう。

かくして治安が確立された満州では、近代的な法体系が持ち込まれ、東亜大陸史上初の法治社会が生まれ、社会は安定へと向かったのである。

これを指導した日本人は、対ソ国家防衛の必要性から、次から次へと法律を制定した。ここでは人治社会の前近代的な法律は徹底的に廃止され、1934年に執政溥儀が帝位に就き、君主制に移行すると、憲法に相当する組織法が制定された。

もちろん近代司法制度の確立も急がれ、最高法院の下に6つの高等法院、その下に29の地方法院、さらにその下に129の区法院が設置された。司法と行政を兼ねていた司法公署、兼理司法県公署は廃止され、三権分立が達成された。裁判官の増員と教育も図られ、日本人も満州国官吏として裁判官、警察官、刑務官が続々と満州入りした。日本人の裁判官の採用は、満州人裁判官の素質がまだ低く、厳正な裁判が望めないという判断からだった。1934年には司法部法学校(のちに国立新京法制大学に改編)が設置され、日満人の学生を収容するとともに、満州人司法官の再訓練も行い、賄賂の悪習を追放した。

 

■「王道楽土」という東亜新秩序の文明的意義


それまでの紊乱(びんらん)しきった政府財政も確立された。徴税機関の整備改善、専売機関の設置と整備、旧銀行の整理と「満州中央銀行」の設立、年度予算制の採用、滞納租税の減税、幣制の改善と貨幣の統一に関する法律制定など、近代的な措置が次々と打ち出され、大きな成果をもたらした。

ことに中国経済史の観点から、難関と見られていた貨幣の統一は、「満州中央銀行」のなみなみならない努力によって、わずか2年で達成されたのだった。この「満州中央銀行券」は終戦後に同銀行が廃止された後もなお2年以上流通していた。その信頼性は、世界金融史上、まったく類例を見ないものだった。

満州の総面積は約110万平方キロで、ほぼドイツとフランスを合わせた広さであり、現在の日本の領土の約3倍である。日本人はこの広大な国土において、鉄道、道路、港湾、空港といった交通網の他、上下水道、治山治水、電力供給などの都市計画にまで及ぶ国土開発計画を打ち立て、それを実行した。国土開発に専念したか、あるいはそれを一切怠り住民略奪に専念したかが、満州国政府と満州軍閥政府の最大の相違点である。

軍閥時代には財政予算のほとんどが軍備や内戦に消え、インフラ整備といえば何もなく、せいぜい張学良時代に数軒のダンスホールが建設されただけだった。ところが満州国時代になると、日本の優秀な人材を招聘(しょうへい)し、新都市・新国都の建設と、既成都市の改修が行われた。新京は実に先進的な100万人都市として建設された。路面はすべて舗装され、東京にもなかった下水道が敷かれ、水洗便所が使用された。

満州国民政部と関東軍、満鉄によって立案された第一期の大都市建設計画は、首都である新京(現・長春)、奉天(現・瀋陽)、ハルビンにおいて、第二期は吉林、チチハル、承徳、営口、錦州、牡丹口、北安鎮、四平街の8都市において実施され、そして1942年末までには109の都市を建設する計画だった。このようにして満州の荒野では、次から次へと美しい近代的な都市が生み出されていった。

また産業の面では、それまでは鍋釜しか製造できなかった満州が、自動車や飛行機まで製造する一大近代産業国家、一大重工業国家となったことは特筆に価する。1936年に決定された満州国産業開発5カ年計画では、総電力257万キロワットが目標に掲げられたが、潜在的発電力としては750万〜1000万キロワットが可能と推定された。これに対して1928年の中国の総発電力は38万キロワットにすぎない。終戦後の1947年における総発電力は100万7000キロワットだったが、もちろん多くは満州に集中していた。

民政の面で特筆すべきは教育の普及とともに風土病の駆逐が上げられるだろう。中国と同様満州も、もともとは不衛生な土地であり、各種の風土病、伝染病が蔓延していたが、日本人の指導でそれらの撲滅が図られた。

このようにして満州の人々は、それまで夢にも思わなかったような近代文明に浴することになったのである。そこはまさに政府から、あるいは軍閥、匪賊から搾取、略奪を受けることのない、そして生命、財産が確実に保護される平和郷であり、王道楽土だった。

これが日本が建設しようとした新秩序の文明的な意義である。日本人はこれを誇りにせず、いったい何を誇ろうというのだろうか。


〈中略〉

 

■平和な桃源郷を目指して年間100万人を超える人々がなだれ込んできた


満州国建国以降、ここへは年間100万人を超える人々がなだれ込んでいる。つまり長城以南の略奪、虐殺、貧窮に満ちた大地を逃れ、この平和な桃源郷を目指したのである。このため満州国の人口は、1932年の建国当時に3000万人だったものが、終戦時の1945年には4500万人にまで膨れ上がっていた(満州国の国務院総務長官だった星野直樹の著書『見果てぬ夢』には5000万人まで増えたと記述されている)。

もし今日の中国人が言うように、当時の満州が略奪と虐殺の地獄だったなら、絶対にこのような現象は見られなかったはずである。

同じように支那事変中の日本の占領地にも、多くの人々が避難先から戻り、あるいは新たに流れ込んできたのだった。日本の占領地は、のちに南京政府の統治に委ねられたが、そこでも重慶政府や延安政府が宣伝したような地獄どころか、それらの支配地よりもはるかに治安が確立され、医療、衛生も改善され、金融(物価)も安定していたのである。

 

以上、黄文雄著『日中戦争 真実の歴史』(徳間書店)より

 

 

 


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