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No.a6fhe512
作成 2002.5
●林房雄氏は著書『大東亜戦争肯定論』(夏目書房)の中で、次のように述べている。参考までに紹介しておきたい。
(この本の著者・林房雄氏は、明治36年に大分で生まれ、大正12年に東京帝国大学法学部政治学科に入学。昭和2年に「前衛芸術家同盟」を結成し、機関誌「前衛」を創刊。『大東亜戦争肯定論』の初版は昭和39年出版で、昭和50年に死去した)。
※ 以下の文章は『大東亜戦争肯定論』林房雄著(夏目書房)
P174~175、182~185 から抜粋したものです
■「天皇制ファシズム」という俗論
いわゆる進歩的学者諸氏の著書を読んでいると、「天皇制ファシズム」「軍部ファシズム」「右翼ファシスト」などという用語がふんだんに出てくる。日本にもムッソリーニ・ヒトラー流のファシズムが存在していたこと、その主力は軍部と右翼であり、その頂点に天皇が位し、日本国民をあざむき、強制して「無謀な戦争」に巻きこんだということを、これらの進歩人諸氏は先験的に信じこんでいるようだ。
たいへんおかしな話だと私は考える。イタリアにおいてムッソリーニの政党が、ドイツにおいてヒトラーの政党がそれぞれ政権を獲得していわゆる全体主義国家をつくり、日本がこれと三国同盟を結び、「大東亜戦争」を遂行したことは事実である。だから、日本もイタリア・ドイツと同じファシズム国家であったという論理はきわめて俗耳に入りやすい。
と言っても、進歩的学者諸氏がこの俗説の発明者であるとは私は思わない。発明者はアメリカ、イギリス、ソ連を始めとする当時の連合国側であり、第二次世界大戦は彼らによって「ファシズムと民主主義の戦争」だと規定され、後者の当然な勝利によって終結したと説明され、理論づけられた。日本の進歩学者諸氏はこの連合国側の俗耳に入りやすい戦争スローガンをそのまま受入れただけであって、要するに、優秀な俗耳の持主であったということになる。
戦争における同盟が同一の一または近似した一政治的軍事的利害によって結ばれることは古代からの戦争史の通則であるが、必ずしも同盟国の政治体制が同質であることを必要としない。古代にさかのぼるまでもなく、第二次世界大戦における連合国側はすべて同質のデモクラシー国家であったかどうか。アメリカとイギリス、イギリスとフランス、フランスとオランダ、さらにこれら諸国とソ連または当時の中華民国の政治体制との差異を思い起こしていただくだけで、説明は不要であろう。彼らは「ファシズム対デモクラシー」のスローガンによって、連合してそれぞれ自国の利益を守っただけである。
日本がもし当時のムッソリーニまたはヒトラー流の「ファシズム国家」であったならば、話は簡単である。こんな長々しい「論文」を書くかわりに、進歩人諸君とともに日本の敗戦と日本ファシズムの壊滅を祝し、デモクラシー万歳をとなえれば、それですむ。
だが、調べれば調べるほど、この万歳は簡単にとなえられないことがわかってきた。頭山満と内田良平がムッソリーニに似ていないように、東条英機も石原莞爾もヒトラーには似ていない。5・15と2・26の青年将校たちはナチの突撃隊員とは全くちがう。
学者なら、まずこの差異から研究を始めるべきである。戦勝諸国からの舶来品にちがいない「天皇制ファシズム」「軍部ファシズム」「右翼ファシスト」などの用語を、自分の頭脳で再検討することなしに、その著書の中に用いることは、慎重なるべき学者の態度ではない。
■丸山真男教授の「学説」
しかし、進歩学者諸氏の研究によれば、日本の右翼はすべてファシストだということになっている。果たしてそうであるかどうか、この点に関して、まず博学な丸山真男教授の講義を拝聴することにしよう。
教授は人も知る如く、「日本ファシズム」の先駆的研究者であり、一般にドイツでも日本でもファシストは「無法者」であり、無法者とは特定の社会の反逆者・寄生者の二重性格をもっているという学説をその主著『現代政治の思想と行動』の中で発表している。〈中略〉
丸山氏はアメリカン・デモクラシーとソ連コムミュニズムを同等に聖化し、東京裁判における検察官側の反ファシズム理論を、ほとんどそのまま受け入れて「日本ファシズム」の実在を論証するための労作を発表したが、この努力は空しかったようだ。
私は氏の『現代政治の思想と行動』を熟読したが、この労作が証明するものは、著者の意図とは逆に、日本にはファシズムは存在しなかったということだけである。日本にはルイ王朝風の絶対主義やナポレオン三世流のボナパルティズムが存在しなかった如く、ムッソリーニ流のファシズムもヒトラー流のナチズムも存在しなかった。明治憲法はワイマール憲法ではない。ヒトラーの党はワイマール憲法を否定破壊することによって新政権とナチス体制をつくったが、日本ではそんな大政変はおこらなかった。
ただ明治以来何とも正体の知れない「右翼」という「暗黒な勢力」があった。それは一度も政権を奪取することなく、しかも軍部を動かし軍部と結んで「満州事変」と「日支事変」をおこし、ついに大東亜戦争を開始した。「この点ファシズムに似ているようで似ていないが、似ていないようで似ている」という、わかったみたいでわからない論証が丸山学説である。
■日本の右翼運動の実態
日本の右翼運動をファシズムだと最初に規定したのはどこの誰であるか、私は知らない。だが、どう考えてみても、これはむりな試みだ。少なくとも学問的だとは言えない。
日本の右翼運動の歴史はファシズムとナチズムより遥かに古い。幕末維新の時代を省略しても、ムッソリーニとヒトラーの運動よりも約半世紀ほど昔から始まっている。北一輝の『国体論及び純正社会主義』は1906年(明治39年)に書かれているし、内田良平の黒竜会創立は1900年(明治33年)であり、明治10年に創立された平岡浩太郎、頭山満の玄洋社が自由民権主義から「大アジア主義」に転向したのは1887年(明治20年)である。樽井藤吉の『大東合邦論』の原稿はすでに明治18年に出来ていた。
これに対し、ヒトラーの政権獲得は1933年(昭和8年)であり、ムッソリーニのローマ進撃はこれに先立つわずか10年の1922年(大正11年)であった。
年代的に見ても、日本右翼運動はムッソリーニ、ヒトラーの運動よりもはるかに古く、明らかに異質のものであり、したがって、彼らの思想とも無関係であったと見るのが正当な解釈であろう。
もちろん、その後、昭和年代に入って、日本は日独伊の枢軸同盟を結んで世界大戦に参加した。その前後にムッソリーニ、ヒトラーの思想と政権奪取が日本の右翼と「青年将校」たちに強力な影響を与えたことは疑えない。中野正剛氏の「東方会」がナチスばりの制服を着ていたことは、私もこの目で見ている。戦争中の帝国ホテルでの何かの会合で、ヒトラー服の正剛氏にだしぬけに右手をあげたナチス式の挨拶をされ、大いに戸まどい、答え方を知らなかったことを思い出す。私はそのころ、すでに「全体主義」や「地政学」などというナチス用語を使い『牧場物語』という国家社会主義的小説を書いたりしていたが、日本にナチス直訳の運動が成功するとは思っていなかった。
当時の日本には、倒さねばならぬ社会民主主義政府もワイマール憲法もなかった。中野正剛氏の顔と姿がひどく子供じみて見え、なんだか気のどくになり「中野さん、その制服運動は、日本ではだめですね」と直言したことを思い出す。ヒトラー・ユーゲントが日本に来た時、私は雑誌社から特派されて軽井沢まで出かけたが、彼らを褒める報告は書けなかった。軽井沢のホテルでユーゲント諸君とビールを飲みながら、彼らの派手な制服が日本訪問のために特別に調製されたものであり、見事な合唱と行進も訓練されたものであることを知って、改造社の『文芸』に書いた私のリポートはヒトラーのナチズムをからかったものにならざるを得なかった。どこかちがう、たしかにちがうというのが私の直感であった。
日本にはムッソリーニ流のファシズムはなかった。ヒトラー流のナチズムもなかった。ただ百年の歴史を持つ右翼運動があった。大東亜戦争中にナチズムの直訳的輸入の試みはあったが、これは日本に根をおろさなかった。たとえ長い時間をかけても、移植は成功しなかったであろう。
イタリアのファッショ党もドイツのナチス党も最初から政権の奪取を目的とする政党であったが、日本の右翼運動は政権を奪取するために政党を組織したことはない。北一輝と大川周明の出現は政党化の可能性を示したように見えたが、全右翼を統一することはできなかった。右翼はいつも在野の浪人団として政治の裏側と陰で動いていた。積極的な破壊行動に出る場合も「我々は古屋敷を打ちこわすだけだ。新しい家の建築は他の者がやってくれる」という若い吉田松陰と全く同じ言葉を吐くのが常であった。
右翼の大同団結は幾度か試みられたが、必ず失敗して、四分五裂または一人一党の原型にかえってしまう。「政治理論と実行綱領」がないからだと若い右翼人たちはそのたびに嘆いたが、それがないところに、つくろうとしても作り得ないところに、日本右翼の性格と宿命があったのだ。彼らは本人が望むと否とにかかわらず、常に陰の献策者であった。
採用し得べき政策は政府または政党が採用してしまう。しかも、その献策たるや、常に献策者が意識しているいないにかかわらず、「東亜百年戦争」の見地からする主戦論であるから、小休止的平和の永続を願う政府及び政党とはしばしば衝突する。彼らは脅迫し、時には暗殺した。彼らの暗殺方法は「一人一殺主義」であり、ナチス流の大量虐殺ではない。脅迫と暗殺行動は秘密保持を必要とする。統一ある説得的な理論や投票による民衆の支持を必要としない。右翼の大同団結が必ず失敗する原因の一つは、この点にもあった。
日本右翼論については、まだまだ書くべきことは多いが、ここで一応筆をとめる。ただ、次のことだけを言っておこう。
政権奪取を目的としないファシズムはあり得ない。にもかかわらず、「日本の右翼は政権を奪取することなく政府を脅迫しつつ天皇制『ファシズム』なる日本独特の政治形態を完成し、独伊と同盟して、世界の民主主義国に挑戦した。故に日本もまた独伊とともにファシズム国家であった」というのが戦勝民主主義諸国の論理であり、それに追随した進歩学者諸氏の論理であった。ばかげた理屈である。第一次世界大戦では日本は民主主義諸国側にたった。その時の日本は「天皇制デモクラシー国家」であったというのか。
近ごろになって、若い学者たちのあいだに「日本にはファシズムはなかった」という研究と論証が始まっているようだ。まだ始まったばかりであるから、私はまだそれらの論文をくわしく読んでいないが、喜ばしい傾向だと思っている。諸氏の研究の結論が左に傾こうが右に傾こうがすこしもかまわない。肝要なことは、あやまった先入見を脱して、歴史の真実に一歩でも近く近接することである。
※ 以上、林房雄著『大東亜戦争肯定論』(夏目書房)より
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