No.A7F_hb_pythagoras
作成 1997.12
「ピタゴラス教団」の謎
古代ギリシアの偉大な哲学者ピタゴラス。
今日の数学・音楽・天文学の基本的な体系は、
全て彼から始まる。彼は有名な「ピタゴラスの定理」
によって科学史上に偉大な足跡を残すが、彼の哲学の
根底にあったのは「神秘主義的哲学」であった。
そして、彼が組織した「ピタゴラス教団」は
当時は秘密結社ともいえる存在だった。
■■第1章:「ピタゴラス教団」の誕生
■ピタゴラスの誕生とエジプトでの密儀参入
ピタゴラスは180センチを超える長身と、活力に満ちた完璧な肉体を持ち、威厳に溢れる人物だった。そして常に穏やかで落ち着いた気質を保ち、喜怒哀楽の感情を露骨に表すことはなかった。その言葉は簡潔にして含蓄があり、まるで神託のようであったという。
ピタゴラスは紀元前580年頃にフェニキアのシドンで生まれた人だが、その生い立ちは明らかではない。宝石細工師であった両親が、生まれたその子についての神託を受けたところ、「美と知恵にかけて万人に抜きんでた存在となり、人類に多大な貢献をするだろう」と予言されたという。
さらにピタゴラスは、若い頃から各地を旅し、ゾロアスター教に触れ、エジプトで密儀参入して宇宙の真理を体得したとされている。彼は「宇宙は数に支配されている」と唱え、特に数の神秘を説いた。現代、この流れをくむ占数術は「秘教占数術(ピタゴラス占数術)」と呼ばれている。
ピタゴラスは180センチを超える長身と、活力に満ちた
完璧な肉体を持ち、威厳に溢れる人物だったという。
彼は「宇宙は数に支配されている」と唱えた。
■“魔術師”としてのエピソード
ちなみに、ピタゴラスには“魔術師”としてのエピソードも残されている。彼は動物とも自由に話ができたというし、ある年のオリンピック競技の最中に空を飛ぶ鷲を口笛ひとつで舞い下りさせたといわれている。
またアプリアという地方では、暴れ熊をおとなしくさせ、その場から退散させたという逸話も残っている。また透視術や瞬間移動の秘術にも通じており、遠く離れた2つの地点に同時に姿を現わすような離れ業も簡単にやってのけたとも伝えられている。
■「ピタゴラス教団」の誕生
この謎に満ちたピタゴラスは、40歳を過ぎた頃に南イタリアのクロトナに移り住み、真理を探究する弟子たちとともに小さな集団をつくった。これがピタゴラス教団の始まりである。
当時、ピタゴラスの魅力は絶大だったようで、彼の講演を聞いた聴衆600人がその場で家族を捨て、教団に走ったという記録もあるほどである。
ピタゴラスは言う。
「私は人の心の弦を鳴らすことができるのだ」
↑ピタゴラス教団のシンボルマーク
5つの頂点につけた5つの文字を並べると
「健康」という言葉になる。心身ともに
健康な人間の集まりを意味した。
■■第2章:ピタゴラス教団に入団した弟子たち
■入団希望者は最初に資格審査を受けなければならなかった
ピタゴラス教団は神秘主義的な側面をもち、当時は秘密結社ともいえるものであった。
ピタゴラス教団の入団を希望する者は、最初に資格審査を受けなければならなかった。どのくらい真剣に道を求めているか、どのくらい純粋であるか、真理と調和を体得する力量を持っているか、などが考慮された。そのために観相学、すなわち人相占いが用いられたともいわれている。
そして審査にパスした者だけが、まずは聴聞生として入団を許された。
■顕教面の弟子と3つの段階を通過した秘教面の弟子がいた
聴聞生となった者は2年から5年の間、「沈黙」を守り、文字どおり先達の教えを聴いて理解することだけが課せられた。
その後、聴聞生は学問生となり、晴れて正式なメンバーとして迎え入れられるわけだが、正式なメンバーになるには特別な入団式を必要とし、「密儀参入の儀式」的な3段階の位階があったのである。
第1段階は「アテマティコス」(学修者)と呼ばれ、数学と幾何学に熟達することを求められた。第2段階は「テオレティコス」(観照者)で、この学問の現象的な応用を扱った。第3段階は「エレクトゥス」(光輝者)で、完全な啓示の中に進み、その光に同化しうる志願者に対してのみ、この称号が与えられたのであった。
基本的に弟子たちは、顕教面の弟子「エクソテリコイ」と、3つの段階を通過した秘教面の弟子「エソテリコイ」に分けられていた。
■■第3章:ピタゴラスの教え
■数によって宇宙、森羅万象を解釈する
ピタゴラスの教えには2つの柱があった。1つは「数によって宇宙、森羅万象を解釈する」こと、もう1つは「魂の遍歴(輪廻)に基づいた道徳生活の営み」というものであった。
ピタゴラス教団では、あらゆる芸術と学問の三位一体的な基礎として「秘教的数学、音楽、天文学」の基本的原理の伝授を目的としていた。そして、知識とは精神作用から生じる果実で、知恵とは万物の原理・原因を理解することであると定義していた。
ピタゴラス教団は、魂を清めるための方法として音楽を重視し、音の階調を熱心に研究したが、これは同時に数の比例の研究でもあり、さらに天体の階調の研究でもあって、音階の比の案出をはじめ、有名なピタゴラスの定理などの幾何学上の諸発見、宇宙の中心火の存在、大地の球形、月の反射といった天文学説などがピタゴラスに帰せられている。
(左)ピタゴラスは人々に真理を教える手段として数学と音楽を重視した。
そのために様々な楽器を演奏しているピタゴラスの絵が残されている。
(右)ピタゴラスの思想に基づいて描かれた「世界の音楽」の
象徴図形(音階と関連づけて宇宙が示されている)。
■クセノファネスが伝える逸話
プラトン以前の哲学者の中で、特にピタゴラスは西洋哲学の基礎となる考えを多く生み出していたが、プラトンの言葉だと思われていても、もともとはピタゴラスの考えであるものが多い。例えば、「人は前世で知っていた多くのことを現世でも覚えている」、「数学的な秩序は自然界を支配する」などである。
あるとき、小犬が叩かれている最中に通りかかったピタゴラスは、哀れを催して、次のような言葉を口にしたという。
「よしたまえ、打ってはいけない。これは友人の魂なのだから。泣くのを聞いて、私はそれを知ったのだ」
クセノファネスが伝えるこうした逸話は、その魂説の最古の証言として知られている。
■ピタゴラスの信条を詩の形で成文化した「黄金詩篇」の内容
ピタゴラスの信条を詩の形で成文化したものとして、「黄金詩篇」と呼ばれるものがある。
この「黄金詩篇」の内容は以下のようなものであった。
<<ピタゴラスの「黄金詩篇」の内容>>
まず不滅の神に対して汝の勤めを果たすべし
親御と近親者を敬い
徳において第一の者を友となし
彼の話に注意深く耳を傾けるべし
ささいな欠点で友を力に任せて捨てるな
怒り、怠惰、贅沢は避けよ
邪悪なものを慎め
しかし己を最も恐れるべし
肝に命じよ、人は皆死ぬべく定められている
富はそれを得た時と同じように速やかに失われる
苦しみは、神のおぼし召しによってもたらされるので、喜んで受けよ
だが、一切の気苦労を除くように努め
正しい者がいつも最高の利益を得るとは限らないことを思え
人の甘い言葉に惑わされるな
荒々しい脅迫に恐れをなして正しい覚悟を捨てるな
もし何かをしようとするなら、まずよく考えよ
後で悔やむようなことはしてはならぬ
まず自分に向いている事を学ぶようにせよ
運動と食事に節制を心掛け
平静な落ち着きの中に己を保つべし
虚栄心がもたらす浪費を戒め
浅ましくなってもいけない
何事も中庸が最善である
例の日記(自省の日記)を3回繰り返すまでは
夜、目を閉じて休んではならない
どんな過ちを犯したか、何をしたか、何をしていないか
このように初めから終わりまで総括を行い
悪行のためには悲しみ、善行を喜べ
恐れることはない、人はもともと天上の種族である
神聖な自然により何を抱擁すべきかを教えられ、
それを追求すれば、魂を肉体の汚れから守ることになる
控えよ、理性を用いて心のたづなを引け
そうすれば天上へと昇り、肉体からは自由になる
そなたは死を免れた聖人であり、もはや滅びることはない
■■第4章:ピタゴラス教団内での規律
■ピタゴラス教団の弟子たちの1日
ピタゴラス教団での1日の始まりは森の散歩で幕を開けた。
それは魂を鎮めて、学問や真理に対しての観想能力を鋭敏にさせるためであった。
次にグループ研究の時間があり、その後に競争やレスリングなどで運動し、肉体の世話をした。
そして軽い昼食。原則として菜食中心であったという。
午後は教団運営上の仕事や雑務をこなし、夕方ごろに再び散歩があったが、このときは学習したことを2人か3人で討論しながら行ったという。そして入浴後に10人ずつの集団で夕食をとり、夕食後に講義があったという。
その後、初心者は書物を読み、長老は読むべき書物の選択に時間を費やし、寝る前に、神への献酒の儀式と、ピタゴラスの信条を詩の形で成文化した「黄金詩篇」を、長老に続いて復唱したという。
■ピタゴラス的生活の実践
教団の3大原則は、「沈黙・秘密厳守・無条件の信仰」であり、教団内で最も重要とされたのは、ピタゴラス的生活の実践であった。この生活の中には、湿布薬・音楽による治療、肉食の害、友情の美徳、なども含まれていた。
また教団では全てが共有財産とみなされ、男女が平等に扱われていたというが、これを数学の研究の結果にも適用したため、今日の我々は、ピタゴラスの業績と他の門弟の業績を区別することが困難になってしまっている。
また、研究の結果の発表(一般公開)も厳しく禁止されていたのだが、ピタゴラスの死後、戒律がゆるめられ、フィロラオスが教義を残したので、その貴重な断片が今日まで伝えられているのである。
■象徴的な格言を用いた教育方法が好んで用いられた
ピタゴラス教団では、象徴的な格言を用いた教育方法が好んで用いられた。例えばその1つに、「床から起きるとき、シーツを巻き上げて体のあとを消せ」というものがある。これは、無知という睡眠状態から、叡知という覚醒状態に目覚めるときは、以前の暗闇にいたときの記憶を一切消しなさい、ということである。
さらに「ソラ豆を食べるな、あいまいに話をするな、指輪に神の像をつけるな、白い雄鶏を犠牲にするな……」といったものもあったが、もちろんこうした禁止事項も表面的にとらえるのではなく、象徴としてその中に隠された意味が重要であった。
■退団した弟子のために墓石が立てられた
「哲学者」という言葉は、初めてピタゴラスが作った言葉である。それ以前は、賢者は自らを「智者」すなわち“知っている者”と呼んでいたが、ピタゴラスはもっと謙虚に称するため自らを哲学者とし、それを“真理を発見しようと努めている人”と定義したのである。
ピタゴラス教団では、哲学は人間生活に必要不可欠なものと考えられた。理性の力による気高さを会得しない者は、生きていると認められなかった。
だから、もし弟子が、生来の頑迷さによって教団を脱退したり、また強制的に排除されると、その弟子のために墓石が立てられた。五感の奴隷と化した状態による生活を、ピタゴラス教団の人たちは「霊的死」と考えたからである。
■■第5章:ピタゴラスと「ピタゴラス教団」の最期
■民主派に襲撃されて多くの弟子が殺された
ピタゴラス教団は、発足当初から政治団体的な側面も強く持っていた。もともとピタゴラスは、若い頃、エジプトやバビロニアへの遊学から帰郷した際、故郷のポリス僭主の独裁に幻滅し、政治に強く目覚めていたのである。彼はピタゴラス教団を組織したときに、進む民主化に対する貴族主義的反動勢力を形成するため、当時の宗教復興運動に乗じて南イタリア一帯の諸都市の上流社会をとりこんだのであった。
ちょうどこの時代は、反動派と民主派の階級闘争が激化していた時で、後に、ピタゴラス教団があったクロトナでも民主主義派の蜂起があり、教団は襲撃されて多くの弟子が殺された。
ピタゴラスは逃れてメタポントスに移ったが、再び民主派の暴動にあい、ピタゴラスが85歳のとき、反対派の人に喉を切られて殺害されたといわれている。
■美人妻テアノと生き残った弟子たちの奮闘
ピタゴラスは60歳の時、世界最初の女流数学者といわれる教え子で美人のテアノと結婚し、7人の子供を残していたが、彼女は素晴らしく有能な女性で、ピタゴラスが暗殺されたのちも、教団を引き継いで布教に努めたという。
また、生き残った堅い結束で結ばれた弟子たちも、諸国に散ってピタゴラスの教えを広めようと努めた。しかし、四方八方から迫害されたため、教団は徐々に解体していったのである。
なお、ピタゴラスの死に関しても謎が多く、生き延びてどこかで天寿をまっとうしたという説もある。
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