No.A7X_ha_rose

 作成 1998.2

 

「薔薇十字団」の謎

 

薔薇が象徴的に描かれた
薔薇十字文書『至高善』の扉絵

(上の字は「薔薇は蜜を蜂に与える」と訳せる)

 

■■第1章:人々を熱狂させた「薔薇十字団」の登場


ドイツで噂になっていた「薔薇十字団」がパリにも出現?


30年戦争という混迷の時代に突入した1623年のパリの街で、不思議な事件が起きた。「薔薇十字団長老会議長」という署名の入ったポスターが、一夜にしてパリの街中の壁に貼り出されたのである。そのポスターには次のような意味不明の言葉が記されていた。

「我ら薔薇十字団の筆頭協会の代表は、賢者が帰依する、いと高き者の恩寵により、目に見える姿と目に見えない姿で、当市内に滞在している。われらは、本も記号も用いることなく滞在しようとする国々の言葉を自在に操る方法を教え導き、我々の同胞である人類を死のあやまちから救い出そうとするものである。──薔薇十字団長老会議長」

パリ市民は、この宣告文を読むや、今ドイツで噂になっている「薔薇十字団」のメンバーが、このパリにも出現したことを確信し、歓喜した。その反響があまりにも大きかったため、大がかりな捜査が行われたが、その首謀者は特定されないまま、この奇怪な事件は迷宮入りとなってしまう。

 


1623年にパリの街中の壁に貼り出された
薔薇十字団員への大会出席を招請するポスター

(貼り出したのが誰だったかは全く分からなかった)

 

「秘密結社」というと、一般的には強大な権力によって、政治や歴史を裏から操る闇のネットワーク、フリーメイソンの陰謀説に代表されるきわめて政治色の強いグループという印象があるかもしれない。しかし、本来の「秘密結社」とは、もっと宗教的なもので、神という至高の存在の本質を探るために組織された学術的な研究グループ的性格を持っていた。

薔薇十字団とは、まさにこうした本来的な意味での秘密結社の代表と考えられるが、17世紀の初頭、歴史の表舞台に姿を現したのは、たった数年だったのだ。しかし、この謎の結社の存在は世界中に知れわたり、今日にいたるまで、その教祖C・R・Cとともに神秘のべールに覆われたままなのである。

 

ドイツで謎の「薔薇十字文書」が相次いで出版され大きな反響を呼ぶ


もともと、ヨーロッパにおける薔薇十字団の話は、ポスター事件をさかのぼる数年前の1614年、ドイツのカッセルで出版された1冊の書物に始まる。そのタイトルは『世界の普遍的改革』で、出版人も著者名も記されていない奇妙な書物だったが、その付録として刊行された『薔薇十字団の伝説』(ファーマ・フラテルニタティス)こそ、この謎の結社を世に知らしめた最初の文書であった。

 


1614年にドイツのカッセルで
出版された『薔薇十字団の伝説』の表紙

(薔薇十字団の存在を世に知らしめた最初の文書だった)

 

記録によれば、この正式出版の前の1610年ごろから、すでにこの本の原本となる写本がヨーロッパの各地に出回っていたことがわかっている。ただし、その著者はどこの誰とも知れなかったし、そこに書き連ねられた夢とも現実ともつかない物語も、かなり奇怪な内容だった。

例えば、人類を死や病といった苦しみから永遠に解放する(つまり不老不死の実現)ために、ここ120年の間、世界各地で活動を続けてきた秘密の組織「薔薇十字団」という秘密結社の存在や、それを組織したという創始者R・CあるいはC・R・Cと呼ばれる人物の生涯が克明に記されているのだ。

実に謎めいていて、一見するとおとぎ話のような話だが、そこに主張される文脈には、一貫性があったし、そのころあらゆる意味で形骸化し、新鮮さをなくしていた体制権力としてのキリスト教に対抗するだけの斬新な思想も含まれていたために、民衆はそのわずか数ページにも満たない小冊子を真実として熱狂的に受け入れたのだった。

そして翌年1615年には同じカッセルで、『薔薇十字団の信条』(コンフェッシオ・フラテルニタティス)が出版される。

それはドイツ語ではなく、ラテン語によって書かれ、内容は『薔薇十字団の伝説』によって宣言された教皇制の打破による世界改革をさらに強調するものだった。すでにこのころには、その存在はまたたく間にドイツ各地に広がっていた。

そして、この秘密組織の存在を決定的にする第3の文書がその翌年1616年、今度はシュトラスブルクで出版される。『化学の結婚』という書物がそれである。

そこには深遠な錬金術思想が描かれており、ここに登場するクリスチャン・ローゼンクロイツこそ、先の2つの文書に描かれていた秘密組織の匿名の創始者C・R・Cであると考えられ、誰もがそれを疑わなかった。

 


(左)1616年に刊行された『化学の結婚』
(右)この『化学の結婚』の著者だといわれている
ヨーハン・ヴァレンティン・アンドレーエ

※『化学の結婚』は薔薇十字団の基本文書の一つで、
その難解な記述は同胞でなければ理解できなかったという

 

薔薇十字団が登場した頃の時代背景 ─ ヨーロッパは混迷を極めていた


薔薇十字団の実態が、錬金術や魔術といった神秘学をその根幹にし、そのことによって神々と人類の待ち望む理想の世界を実現しようとするグループであることが、おぼろげながらわかってきた。

その性格のため、おそらく16世紀頃に活動を開始していたと思われる薔薇十字団の起源としては、いくつかの秘密結社が取り沙汰されている。

そのひとつが、ヨーロッパ各地を遍歴し、独自の「自然哲学」で神を冒涜したとして教会の異端審問にかけられ、たびたび投獄された“錬金術師”ハインリクス・コルネリウス・アグリッパの組織「黄金十字団」である。

また、錬金術師ストゥデイオンによってニュールンベルクで結成された「福音十字団」がそのルーツだというものから、化学者であり、高名な医者でもあったパラケルススこそがその創立者であるとする説まで様々にいわれてきたが、肝心の、薔薇十字文書には、そうした推論を裏づける記述は一切ない。ごく限られたメンバーによって厳格な運営がなされていると書かれているにすぎないのである。

こうした、薔薇十字文書がドイツでかなりの反響をもって受け入れられたことは、この組織と、これらの出版物に唱えられた宣言を誉め称える本や、頭から否定する告発本や研究書の類いが相次いで出版されたことからも推し測ることができる。

この時代は、ご存じのようにルターによる「プロテスタント運動」、一般大衆の覚醒による「農民一揆」、そしてペストや梅毒などの「疫病の流行」など、ヨーロッパは動乱の渦中にあった。特に薔薇十字文書が発表された当時のドイツは30年戦争のさなかにあったのだが、30年戦争とは、旧来の教えであるカトリックと新教であるプロテスタントとの威信をかけた最後の宗教戦争であった。

時はまさに混迷を極め、人々は信じるに足る確かな価値観をひたすら求め、苦悩していた時代である。カトリックの普遍主義も新教徒のナショナリズムも、いずれもマイナスにしか機能せず、知識人は深い思想的混乱の淵をさまよっていた。

そうした時代を背景に、突如としてこれまでのどの価値観とも違う全く新しい教えが名乗りを挙げたわけである。そしてこの革新思想に賛同し、自らもこの秘密組織の結社員となることを画策する人たちも現われたのであったが、この薔薇十字思想はまたたくまにドイツ本国を離れて国際的にヨーロッパ各国に波及していった。

 

あっという間に歴史の表舞台から消えてしまった薔薇十字団


だが、一瞬その存在をかいま見せただけだった薔薇十字団の全貌はついに見えないまま、『薔薇十字団の名声』の出版から数十年を経た1648年以降、二度とその直接的な証左を見せずに、歴史の表舞台から消えてしまう……。

また、16世紀後半になると、薔薇十字思想を含めた魔術的ルネサンスに対する反動として、それまでヨーロッパ各地で繰り広げられていた「魔女狩り」などがさらに盛んになり、“異端思想”に対する激しい非難が巻き起こったのであった。

いったい薔薇十字団はどこへ消えてしまったのだろうか? 噂とともに現われ噂とともに姿を消した薔薇十字団はフィクションだったのだろうか?

しかし当時の人々には、薔薇十字団は全く跡形もなくなったのではなく、消滅したと信じられてもいなかった。人々はむしろ、薔薇十字の結社員たちは30年戦争の惨禍からヨーロッパを救うために遠いオリエントからやって来た賢者たちで、混乱が収拾されると同時に役目を終えて再び東方の故郷に帰っていったのだ、と考えていた。そういう噂がまことしやかに流布されたのである。

今でも多くの人々が薔薇十字団は確かに実在し、今も世界の各地にその支部が息づいていると信じている。ある者は中央アジアの奥地にその拠点を移したといい、また、オーストリアのカールヌバートにあるというものや、マダガスカル諸島のひとつモーリスに移住したとする具体的な情報から、今は「ボヘミヤ団」という秘密学派に姿を変え、ドイツのシユヴァルツヴァルトに存在するとする説までさまざまな噂が後を絶たない。

また、薔薇十字団が消えると同時に近代フリーメイソンが誕生していることから、薔薇十字団はフリーメイソンに姿を変えたと主張する者もいる。フリーメイソンの儀礼や綱領のなかに、数えきれないほどの薔薇十字思想が含まれていることも大きな根拠の1つになっている。しかし、当館はこの説に関しては否定的である。フリーメイソンと薔薇十字団はメンバー間の交流はあったとしても、組織としては直接何の関係もないと思われる。

まあいずれにせよ、薔薇十字団が、後のヨーロッパ文学や音楽に多大な影響を与える一方、西欧オカルティズムにとって、密教的な源流となる巨大な存在であったことは間違いない。言いかえれば、薔薇十字思想の存在そのものが、今日の西洋神秘学を成立させていると断じることもできるだろう。

 

この薔薇の十字は「ヘルメス薔薇十字」または
「錬金術薔薇十字」と呼ばれているもので、古くから
伝えられている錬金術的象徴である。小宇宙と大宇宙
のシンボルが複雑に組み合わされており、仏教に
おけるマンダラのようなものとなっている。

 

 


 

■■第2章:「薔薇十字」の名称の由来と古代エジプト神秘学団の謎


薔薇十字の象徴はキリスト教以前のものである


ここで、「薔薇十字」という名称の由来について触れておきたい。これについては、研究家たちの間で様々な意見が出されている。

最も多い意見としては、インドやペルシアを原産地とする薔薇はアレキサンドリア文化、つまり東方の秘伝的知識を象徴し、十字架は西方のキリスト教的世界を象徴している、というものである。つまり、十字の交叉点に薔薇の花を配した「薔薇の十字架」は、クリスチャン・ローゼンクロイツが統合した東西の叡智を表している、というものだ。

しかし、十字架をそのまま“キリスト教の象徴”として結びつけるのは間違っていると言わざるをえない。なぜなら、「薔薇の十字架」は、キリスト教が発生する遥か昔、古代エジプトのイクナトン王の時代に使用されていたものが遺跡から発見されているためだ。つまり、十字架はキリスト教の専売特許ではないし、「薔薇の十字架」もキリスト教とは直接関係のないルーツ(古い歴史)を持っているのである。薔薇十字の象徴は、キリスト教発祥の1300年以上も前から存在していたことが判明しているのである。

著名なフランスの秘密的伝統主義者ルネ・ゲノンなどは、キリストが十字架の上で死んだから十字架がキリスト教のシンボルになったのではなく、もともと十字架が極めて重要なシンボルであったからこそ、キリストは十字架の上で処刑されたのだ、と言っている。また、別の研究家によると、原始キリスト教団のメンバーが、古代エジプトで使われていた十字のシンボルを採用したということである。

 


(左)「人智学協会」を創設したルドルフ・シュタイナー
(右)自らの著作の中で薔薇十字団員であることを告白
したロバート・フラッド(薔薇十字団の教義を
体系化して壮大な集成を作り上げた)

 

なお、「薔薇十字」は、人智学の創始者ルドルフ・シュタイナーによれば、十字架は肉体を、薔薇は魂を意味しており、薔薇十字団から伝えられる叡智が、十字架から薔薇を解き放って自由にするためのものだという。自由になった薔薇(魂)は、高次の世界へと上昇できるという。

また、薔薇十字思想の流れを汲むロバート・フラッドの意見では、十字は救世主の叡智、完全な知識を意味し、薔薇は純潔と禁欲を意味する。そしてその結合が錬金術的な宇宙創造を象徴しているという。

 

薔薇十字とエッセネ派


「薔薇十字」に関して、ある高名な神秘思想家は次のように語っている。

「……たくさんのグループが、仕事を続けてきた。そして、多くは今なお働いている。たとえば、薔薇十字団は西洋における秘教のグループだった。それは何世紀にもわたって仕事を続けてきた。実のところ、薔薇十字団はキリスト教系のグループではない。キリスト教成立よりもさらに古い歴史をもっている。薔薇十字団は“バラ色の十字(Rosy Cross)”という秘教グループに属しているのだから。

“十字”というシンボルは、キリスト教が創造したものではない。それはキリスト教よりも古い起源を持っている。イエス自身、エッセネ派として知られる秘教グループによってイニシエートされていた。だから、キリスト教の祝祭日は、イースターやクリスマスを含むどれもが、キリスト教以前のものだ。つまり、キリスト教は古代の伝統を吸収しただけなのだ。

イエス自身、ある秘教グループの一員として、後に彼が大衆に伝えようとした多くのことを伝授された。このグループは、イエスのために下地を準備しようとしたが、間に合わなかった。結局、それはうまく機能することができなかったのだ。

われわれは皆、洗礼者ヨハネがイエスの前にやってきたのを知っている。彼はイエスを待つ30~40年の間、ただひとつの教えだけを言い続けた。『私はただの先駆けだ、まことの人はまだやってきていない。私は、ただ土台を用意するために来ただけだ。まことの人がやってくれば、私は消える』と。

ヨハネは、40年間、ヨルダン川のほとりにとどまり、人々に洗礼をほどこした。やがて、きたるべき〈まことの人〉の名において、彼はあらゆる人に洗礼をほどこし、あらゆる人をイニシエートしていた。そして、誰もがこう尋ねるのだった。『誰が、来ることになっているのですか?』

国中が、やってくる人のことで騒然としていた。その人の名は、洗礼者ヨハネにすら知られてはいなかった。彼もまた、待たねばならなかったのだ。洗礼者ヨハネはエッセネ派に属していた。そして、イエスもまた、その過去生で、エッセネ派グループに入門した重要メンバーのひとりだった。

時は至り、ついにイエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けるためにやってきた。そして、洗礼者ヨハネは、イエスが洗礼を受けた日から、姿を消してしまった。その日、彼はヨルダン川でイエスを洗礼すると、まもなく立ち去り、二度と姿を現さなかったのだ。そのため、人々の間で〈まことの人〉がやってきたといううわさが広まった。それは、40年間絶え間なく、洗礼者ヨハネが、人々に語り続けていたことなのだ。まことの人がやってきたとき、『私は彼を最後に洗礼し終えたあと、姿を消す』と。

そして洗礼者は消えた。つまり、洗礼はキリスト教に先行するものなのだ。まず洗礼があり、それからキリスト教が始まった。そして、この洗礼者ヨハネも特殊な秘教グループ“エッセネ派”に属していたのだ」

 

古代エジプトに存在した神秘学団の謎

 


(左)エジプトのギザの大ピラミッド
(右)神秘思想家のG・I・グルジェフ

(彼は世界各地の秘教グループに通じていた)

 

独特の超人思想で知られている神秘思想家のグルジェフは、古代エジプトとキリスト教の秘められた関係について、次のような興味深い事柄を語っている。

キリスト教会とキリスト教の礼拝形態は、教会の神父によってつくられたのではない。すべて、既にできあがったものをエジプトからとりいれたのだ。それも我々の知っているエジプトからだけではなく、我々の知らないエジプトからもだ。この後者のエジプトは、前者と同じところにずっと以前に存在していた。歴史の時間の中ではそのほんのわずかな部分が生き残ったにすぎず、そのうえそのわずかな部分は秘密裡に実に巧みに隠されてきたので、我々はどこに隠されているかさえ知らない。」

「この有史以前のエジプトはキリストが生まれる何千年も前からすでにキリスト教国であった、つまり、その宗教は真のキリスト教を構成しているのと同じ原理と観念とから成っていた、と聞くと多くの人は奇妙に思うかもしれない。この有史以前のエジプトには特殊なスクールが存在していて、それらは〈暗誦のスクール〉と呼ばれていた。これらのスクールではある決まった日に──毎日行うところもあったが──公開の暗誦がなされた。その暗誦には、そこで学びうる諸学の全コースが凝縮されていた。時にはこの暗誦は、一週間から一カ月にわたることもあった。
この暗語のおかげで、このコースを終えた人はスクールとのつながりも失わず、学んだことすべてを記憶にとどめることもできた。時には彼らはその暗誦を聞くためだけにはるばる遠方からやってきて、スクールとのつながりを強く感じて帰っていった。一年の内にはとりわけ完全な暗誦が行われる特別の日が何日かあり、その日には暗誦は特別の厳粛さをもって行われ、またこういった日そのものが象徴的な意味をもっていた。」

「こういった〈暗誦のスクール〉がキリスト教会のモデルとなった。だから、キリスト教会の礼拝形態は、ほとんど完全に、宇宙と人間を扱った知識体系の暗誦の過程を表わしているのだ。それゆえ、個々の祈り、讃美歌、応唱聖歌などはすべて、聖日やあらゆる宗教的シンボルと同様にこの暗誦の中では独自の意味をもっていた。ところが、その意味は遥か昔に忘れられてしまったのだ。

 


(左)イクナトン(アメンホテプ4世)の像
(彼の妻はエジプト3大美女の1人、ネフェルティティ)
(右)太陽で象徴される唯一神アトンを崇めるイクナトン夫妻

※ イクナトンは多神教を否定して大規模な宗教改革を実施した
(彼は世界史上初めて「一神教」を取り入れた人だと言われている)

 

このグルジェフが示唆した古代エジプトの神秘学団に関して、もう少し別の角度から掘り下げてみたいと思う。

とある情報によると、薔薇十字団のもともとのルーツは、紀元前1500年頃に古代エジプトのトトメス3世が設立した「秘密の学習塾」にあるとされている。(紀元前1489年4月に秘密の「神秘学団」を公式に設立させるための集会が開かれた)。この「秘密の学習塾」は大自然の神秘的で驚異的な法則と原理を学び、応用することに専念するためのものだったという。

トトメス3世は大自然の探求に専念したが、この「秘密の学習塾」が本格的に発展し始めたのは、約70年後にテーベの宮殿で生まれた彼の子孫のアメンホテプ4世の時だとされている。彼は若い時に「秘密の学習塾」に入門し、当時の最も啓発された人物に成長し、その秘奥教義に激励され、ついには古い宗教に基づいているアメンホテプの名前を「イクナトン」に変えてしまったとされる。

イクナトンは神秘学団のリーダーとして、古代エジプトに宗教と芸術と文化の改革をもたらし、当時の世界では多神教が一般に信じられていた時、世界で初めて「神」は唯一の存在であると声明して「一神教」を推進させたという。

この古代エジプトの神秘学団はどんどん発展していき、何世紀か後には古代ギリシアの哲学者たちがエジプトに渡り、この神秘学団に入門したという。しかし、ギリシアからの求道者全員が入門できたわけではなく、ターレスピタゴラスのような、ある種の適格者のみが、この英知の門前に歩み寄り、厳しい試練(入門儀式)を受けることが許され、その教義を彼ら自身の国で広めることが許されたという。

このようにして古代エジプトの秘教はエジプトからギリシアへ、そしてローマへと慎重に伝えられていき、西洋では“薔薇十字思想”として伝承され、中世においては当時の特殊事情のため、様々な名称の下に秘匿されたというわけである。

 


古代ギリシアの
ミレトス学派の始祖ターレス

7賢人の筆頭に挙げられる多才な人物であり、
エジプトから幾何学を取り入れた人物でもある



「ピタゴラスの定理」で有名なピタゴラス

エジプトやバビロニア、インドに赴いて神学を学び、
南イタリアに、オルフェウス教の流れをくむ教団を組織。
この「ピタゴラス教団」は神秘主義的な側面を持ち、
当時は秘密結社ともいえるものであった。

 

ちなみにモーセは、この古代エジプトの神秘学団で「一神教」の概念を修得し、エジプト脱出後にヘブライ人の宗教にこの一神教の概念を取り入れたとも言われている。しかしこの時、「一神教」の概念は歪められてしまったといわざるをえない。なぜなら、もともと古代エジプト神秘学団では、「唯一神」は人格化されたものではなく、太陽が唯一神の象徴として崇拝されていたのだ。それに対し、ヘブライ人の一神教の唯一神は、人格化された神「ヤハウェ」となってしまっている。

なお、初期の古代エジプト神秘学団のメンバーたちは、大ピラミッドの地下の密室で学習していたともいわれている。また有名なソロモン王の壮大な神殿「ソロモン神殿」の建設者に、神秘学団に所属するのアデプト(達人)や大家や教師たちが、その隠された英知の一部を与えたとも伝えられている。

 


(左)古代エジプトの壁画に描かれた「ホルスの目」
(右)古代エジプト人が身につけていた「ホルスの目」の腕輪

※「ホルスの目」は古代エジプト神秘学団が使用していたシンボルマークでもあった

 

 


 

■■第3章:19世紀の神秘主義の興隆と薔薇十字団の復興


「英国薔薇十字協会」、「黄金の夜明け団」など


ヨーロッパの19世紀は、科学主義が登場し、ロマン派が力を失っていくように見えながら、一方で神秘主義、オカルティズムが台頭しつつあった時代である。その代表に、ロシアのラスプーチンや、グルジェフ、後にルドルフ・シュタイナーに大きな影響を与え、近現代のオカルト史の源流「神智学協会」を設立したマダム・ブラバッキーなどがいる。

 


(左)フランス神秘主義復興の基礎を築いたエリファス・レヴィ
(右)イギリスの小説家エドワード・ブルワー・リットン

 

この「神智学協会」の東洋的秘教重視に対抗する形で、カバラに代表される西洋的秘教を方法論とする結社が、同じ頃のイギリスに現れる。のちにフランス神秘主義復興の基礎を築いたエリファス・レヴィが参入していたともいわれている「英国薔薇十字協会」(1865年頃設立)がそれである。

その責任者の一人が、幻想小説『ザノー二』や『ポンペイ最後の日』『不思議な物語』の作者エドワード・ブルワー・リットンであった。日本では歴史作家として明治初期から紹介されてきた大作家である。

 


(左)英国薔薇十字協会の正装をしたウィン・ウェストコット
(中)英国薔薇十字協会の至高術士ロバート・ウッドマン
(右)儀式魔術の大家マクレガー・メイザース

 

この「英国薔薇十字協会」から枝分かれしたのが「黄金の夜明け団」(1888年設立)である。主導したのは英国薔薇十字協会幹部のウィン・ウェストコット、および同会至高術士ロバート・ウッドマン、そして儀式魔術の大家マクレガー・メイザースらである。

埋没した古代密儀を解読し、復活させることを目的とするその教団は、友人の牧師ウッドフォードからウェストコットが預かったドイツのある結社の入門札のメモである暗号文書と、首領からの手紙から始まったのだという。

が、これは教団創設にあたってのウェストコットによる作為的創作であり、ある種の権威づけにすぎなかった。事実、教団の拡張に満足したウェストコットにより2年後にはこの通信は打ち切られている。だが、別にもうひとりの「秘密の首領」が、今度はメイザースに書簡を送りはじめ、このことによりメイザースはたちまち教団の主導権を握る。

以後、「黄金の夜明け団」の活動は、その手紙の差し出し人でもある第2の「秘密の首領」の指示によって運営され、同時に高等魔術の伝達が開始されるという形式をとり、教団はより魔術色の強い結社に成長していく。

高等魔術の実践と秘教的能力や智恵の獲得をその目的とする「黄金の夜明け団」は、メイザースによって発掘され翻訳された『アブラメリン』をはじめとする数々の古代エジプト文献に加え、その徽章である「黄金の十字架」とヘブライ文字の刻まれた薔薇の花弁に象徴されるカバラ、エジプト神秘劇、キリスト教神秘思想、錬金術、薔薇十字思想の統合化による“魔術”のシステム化を確立した。

この「黄金の夜明け団」が他のオカルト結社と大きく異なる点は、その参入者の職業の多様さにある。医師、弁護士、俳優、詩人、作家、牧師、技師、職人、果てはインド太守までが団員名簿に名を連ねていた。

最初の参入者は、フランスの大哲学者アンリ・ベルグソンの妹モイナ・ベルグソンで、オスカー・ワイルド夫人、ケネス・マッケンジー未亡人も参入している。創設から2年で団員は100人を数え、ノーベル賞詩人のウィリアム・バトラー・イェイツや女優のフローレンス・ファーなどの有名人も入団した。

 


(左)「黄金の夜明け団」の主要メンバーとして活躍した
ノーベル賞詩人のウィリアム・バトラー・イェイツ
(右)「黄金の夜明け団」の薔薇十字徽章

 

1892年、メイザースは奥義の熟達者のみを選抜し、後に教団分裂のきっかけとなる新しい内部結社「ルビーの薔薇と金の十字架団」をパリに創設する。1898年には、ケンブリッジ大学の学生であったアレイスター・クロウリーが「黄金の夜明け団」に入団。このことをきっかけとして、以前から内紛状態にあった教団の亀裂は一層本格化した。

その打開策として錬金術研究家のアーサー・E・ウェイトやウィリアム・イェイツらが結束し、更なる独裁色を強めるメイザースをクロウリーとともに教団から追放(1900年4月)。1902年に団内改革が行われ、「黄金の夜明け団」は「暁の星」と改名された。しかし、トラブル続きで重要団員の退団が相次ぎ、教団は衰退の一途をたどった。

なお、教団を追放されたクロウリーは、1907年に自分の結社「銀の星(A∴A∴)」を創設した。彼は20世紀最大の魔術師とも言われるが、過激な性格と数々のスキャンダルで世間を騒がせたため、彼に対する評価は二分されている。

 


(左)魔術儀式を行う若き日のアレイスター・クロウリー
(右)「銀の星」における古代ギリシアの儀式の様子

 

「薔薇十字カバラ団」、「カトリック薔薇十字団」、「古代神秘薔薇十字団」など


以上のほかにも、薔薇十字の流れを汲む団体が多数出現した。

例えば1886年に、詩人にして作家スタニスラス・ド・ガイタ「薔薇十字カバラ団」を創設した。この教団はレベルに応じて宗教系私立大学のような学位を授与していた。習得する知識の範囲は薔薇十字団とカバラの歴史およびヘブライ語であった。この教団の指導部にはいろいろな意味でそうそうたる顔ぶれがそろっていた。ジェラール・アンコース博士はマルチニスト会の指導者で、ロシア皇帝ニコライ2世の顧問であった。ポール・アダンは題材豊富な小説家で、ガイタの影響のもとに『存在』『舞台装置で』『愛のパレード』のような秘教的で晦渋な小説を書いた。

 


(左)「薔薇十字カバラ団」を創設したスタニスラス・ド・ガイタ
(右)「カトリック薔薇十字団」を設立したジュゼファン・ペラダン

 

1890年には、ガイタの朋友にしてキリスト教神秘主義者の作家ジュゼファン・ペラダンが、ガイタから離れて「カトリック薔薇十字団」を設立。彼の活動の中心は文学と芸術であった。彼は「あらゆる芸術は魔術である」をモットーに世紀末の芸術家たちを巻き込んで新しい魔術活動を展開していった。

1909年には、アメリカ人スペンサー・ルイス博士が合衆国を本拠とする「古代神秘薔薇十字団」(AMORC)を創設した。いかなる宗教的・政治的権威からも独立していることを主張し、自然の法則の調査・研究と人生への活用を目的とする、学術的色彩の濃い団体として発展していった。

1910年には、デンマーク人マックス・ハインデルがロスに「薔薇十字協会」を創設した。この協会での教えは、聖書、占星術、薔薇十字団の宇宙創成論に及んでいるが、活動の大半は病気治療にあてられているという。

なお、この他に“薔薇十字”と名乗る営利を目的としたグループや、または純粋に精神的な目的のために象徴的に“薔薇十字”を名乗っているグループが存在しており、さらに今後も、そのような擬似団体は増加すると予想されるので、注意されたい。

 

 


 

■■第4章:薔薇十字の超人 クリスチャン・ローゼンクロイツの謎


クリスチャン・ローゼンクロイツ


第1章で触れたが、薔薇十字団を世に知らしめた最初の文書は、1614年にドイツで刊行された『薔薇十字団の伝説』(ファーマ・フラテルニタティス)という謎の文書であった。

しかし、その内容は団の紹介というよりも、ひとりの人物の数奇な生涯を記すことに終始していたのである。その人物の名はC・R・C、すなわちクリスチャン・ローゼンクロイツ。1378年にドイツに生まれ、1484年に106歳で没したという薔薇十字団の教祖である。

 


薔薇十字団の教祖C・R・C、すなわち
クリスチャン・ローゼンクロイツを描いたとされる絵
(しかしこれが本当に本人なのかは諸説紛々である)

 

東方を遍歴し、賢者たちから授かったという彼の秘教的知識、そして彼の目指した崇高な目的に、当時の知識人たちは驚愕し、魅了された。そして誰もが薔薇十字団に興味を持ち、入団を希望したのだった。その熱狂ぶりは、まさにセンセーショナルなものだったといえるだろう。

 

真の知識と叡智を求めて東方の地を遍歴


『薔薇十字団の伝説』で描かれているクリスチャン・ローゼンクロイツの半生は次のようなものである。

彼は16歳の時、賢者の導きにより東方の地アラビアへ旅立ち、各地を遍歴した。そしてアラビアの賢者たちからオリエントの神秘学、医学や数学、物理、アラビア語を本格的に学び、彼はそこで実に短期間のうちにその奥義をマスターしてしまった。

しばらくして、世界に遍満する真理を解き明かした奥義書『Mの書』を賢者の一人から授けられた。彼はそこで、アラビア語で書かれた『Mの書』をラテン語に翻訳したが、これは後に薔薇十字団の活動の中核的バイブルとなった。

それから何年かして、数え切れないほどの奥義書や不可思議な道具を携えて、故郷のドイツに帰り、一軒の家を建てると、そこにこもって神秘思想の研究生活を始めた。

 

弟子とともに「聖霊の家」で奉仕活動


それから5年後、クリスチャン・ローゼンクロイツは3人の弟子を養成したが、全員、医学の知識を身につけていたので、助けを求めてやってくる病人を治療するようになった。彼らは病気に効く薬草も知っていたし、各人によって違う養生の仕方も心得ていたので、病人たちは奇跡的ともいえるスピードで治癒していった。
こうして病人の治療が彼らの重要な仕事の1つになった。もちろん、彼らは病人の治療を一切無料で行った。

その後も、彼らは熱心に働いたが、噂が噂を呼び、訪れる病人がどんどん増えていくと、今までの小さな家では間に合わなくなってしまったので、彼らは家を大きなものに建て替えた。彼らはその家を「聖霊の家」と名づけた。そして新たに4人の団員を迎え入れ、自分たちの仕事に誠心誠意打ち込んだ。
この7人の弟子とクリスチャン・ローゼンクロイツの計8人の活動が、薔薇十字団の始まりとされる。

その後、クリスチャン・ローゼンクロイツの指導により、弟子たちは世界各地に出かけて、善行を施すかたわら、自分たちが保有する秘義を、これはと思う人物にひそかに伝えるよう努力した。それは人目につかず、決して華々しい活動ではなかったが、確実に浸透して特に学問や芸術の分野で着々と成果をあげていった。

なお、この時、弟子たちの間でいくつかの約束事が出来あがったが、それは何百年もの時が経過しても、薔薇十字団員であることを証明する基準となるものであった。

この『薔薇十字団憲章』は、以下の6項目から成り立っていた。


【1】自らすすんで、無報酬で病人を治すことを名誉と考え、何事も公言しない。

【2】特別な習慣を身につけたり、特別な衣装を着たりはしない。その土地の習慣に合わせた格好をして生活する。

【3】毎年1回、特定の日に「聖霊の家」に集まる。もし出席できないときは手紙を出してそれに代える。

【4】死に臨んで、必ずひとり、後継者を決めること。

【5】今後「R・C」という文字が、団員の唯一の印・記号・符号となる。

【6】100年間は沈黙を守って、団の存在を世界から隠しておく。

 

謎に満ちた死と驚くべき予言


クリスチャン・ローゼンクロイツの死は非常に謎に満ちている。弟子たちの活動が軌道に乗り、薔薇十字団のひとつの形が出来上がると、クリスチャン・ローゼンクロイツはそろそろ自分はこの世から消えてもいいと思うようになった。この時代での自分の使命は終わり、為すべきことは果たしたと考えたからだ。

クリスチャン・ローゼンクロイツは、「私は120年後にもう一度よみがえるだろう」という謎の言葉を残して、1484年に106歳の生涯を閉じた。これが名高い“神秘的な死”あるいは“哲学的な死”といわれているものである。

6人の弟子はクリスチャン・ローゼンクロイツの指示通りに、彼の肉体を秘密の墓に安置した。そうして墓室は閉じられ、そこに至る扉は隠し扉として巧みにカモフラージュされた。6人はこの墓の存在を秘密にし、薔薇十字団員としての仕事を遂行していった。

それから100年以上の年月が流れた。6人の弟子も死に、彼らの教え子たちが薔薇十字の教義を受け継いでいた。薔薇十字の教えも文化の中に自然に溶け込み、ゆるやかに改革が続けられていた。もはやクリスチャン・ローゼンクロイツの秘密の墓について知る人は誰もいなくなった。

 


120年後に予言通り秘密の墓から甦った
クリスチャン・ローゼンクロイツを象徴的に描いた絵

 

歳月は流れて120年後の1604年、巧みにカムフラージュされていたクリスチャン・ローゼンクロイツの墓が偶然発見されるという出来事が起こった。埋葬室は7つの壁に囲まれた不思議な形の地下室であった。枢は部屋の中央に飾られた祭壇の下にあり、クリスチャン・ローゼンクロイツの遺体は信じがたいことに腐敗も白骨化もせず、羊皮紙の聖典を手に、まるで生けるがごとく艶やかな肌を保って横たわっていた。その予言の通り、彼は120年後によみがえったのである。

それだけではない。埋葬室には超古代の叡智をうかがわせる不可解な遺物が満ちあふれていた。たとえば、天井近くで輝く人工の光。窓のない地下室だから自然光は射し込まない。にもかかわらず、室内には明るい光が降り注いでいた。

さらには、現代の蓄音機やテープレコーダーを思わせる、音声を機械的に発生する装置も残されていた。ほかにも聖なる秘密の知識を満載した多数の書物、現代では製法もわからない秘薬、使用法不明の不可思議な形状の書械類なども納められていた──。


以上が、1614年にドイツで刊行された『薔薇十字団の伝説』(ファーマ・フラテルニタティス)という謎の文書に書かれている、クリスチャン・ローゼンクロイツの半生と、薔薇十字団創設の経過である。

 

世の大論争の中で団員が明かした衝撃的な情報


当時、一連の薔薇十字文書が公開されることで巻き起こった反響は凄まじいものがあった。多くの人が薔薇十字団に興味を持ち、どうすれば入団できるかを知りたがった。特に知識人に与えた衝撃は大きく、あの大哲学者デカルトさえ入団を切望してあらゆる手段を尽くして接触を試みたというエピソードも伝えられている。

 


フランスの哲学者デカルト

(彼は薔薇十字団への入団を切望したという)

 

また同時に、この組織とこれらの出版物に唱えられた宣言を誉め称える本や、頭から否定する告発本や研究書の類いが相次いで出版され、人々の間では、多くの論争が引き起こされた。かたや薔薇十字団に悪口雑言を浴びせかける人々、かたや薔薇十字団を擁護し論争を受けて立つ人々──。

薔薇十字思想に共鳴した人々は、何とかして薔薇十字団に入団したいと考え、「聖霊の家」を手を尽くして捜した。しかし誰もその家の場所は知らなかったし、団員の名前もわからないままであった。

しかしまったく謎のままだったわけではない。薔薇十字団についてのいくつかの情報は数名の人によって書かれている。その中のひとり、ジョン・ヘイドンという人物は、『暴かれた薔薇十字』という著作の中で、薔薇十字団について次のようなことを書いている。

「薔薇十字団員は天の周辺に住む神的な一団である。彼らは分身の術を備えていて、意のままに姿を変えて現れることができる。また彼らは自分の望む場所に移動することもできる。その他、薔薇十字団員は占星術によって地震を予知したり、都市の疫病の流行を遅らせたり、空中を歩いたり、どんな病気でも治すことができた」

ジョン・ヘイドンはヨーロッパ各地はもちろんのこと、アラビアやエジプト、ペルシアまで足を伸ばして旅行している。この間、各地で団員との接触があったと考えられるし、クリスチャン・ローゼンクロイツが彼を密かに導いた可能性もある。
というのは、ジョン・ヘイドンが出版した『天使 惑星 金属などで飾られた賢者の王冠 ─ 薔薇十字団の栄光』という本は、実はあの貴重な『Mの書』の英訳であるといわれているからだ。このことは、ジョン・ヘイドン自身がこの本の序文で明らかにしていることである。

ジョン・ヘイドンの記述にはさらに驚くべきこともある。たとえば薔薇十字団員は死んだ人を甦らせることもできるし、自分自身もまったく年をとらないで、若さを保ったまま400年以上も生きることができる。あるいは、ある予定の期間活動すると、不思議なガラスの容器の中に引きこもって何十年も休息をとり、また必要な時期にそこから出てくる、などなどである。

とても信じられないような話だが、当時の薔薇十字の擁護者たちはこれを信じていたし、その中にはフランシス・べ−コンパラケルススのような後世に名を残した人物もいたのだ。

 

ルドルフ・シュタイナーと薔薇十字


前章で薔薇十字の流れを汲む幾つかの団体を紹介したが、ルドルフ・シュタイナーが創設した「人智学協会」も薔薇十字の流れを汲んでいると言えるだろう。彼は1917年に薔薇十字文書『化学の結婚』の研究をミュンヘンで上梓したとき、薔薇十字のヨーハン・ヴァレンティン・アンドレーエという源泉に立ち戻っている。

 


「人智学協会」を創設した
ルドルフ・シュタイナー

 

ルドルフ・シュタイナーによれば、薔薇十字団員の主要な務めは、霊的生の最上圏に昇り、そこで得た知識の力を借りて、物質世界、とくに人間世界において積極的に活動することにあるという。

彼は、謎に包まれた薔薇十字団の教祖C・R・C、すなわちクリスチャン・ローゼンクロイツについて次のような説明をしている。

「クリスチャン・ローゼンクロイツという人間の姿をとって物資界に現れた高次の霊的存在は、神秘学がいうように『同じ体』の中で、何度も繰り返して薔薇十字の霊統の導師として働いている」

これは講演集『薔薇十字会の神智学』の中の言葉だが、ルドルフ・シュタイナーは折にふれ、クリスチャン・ローゼンクロイツについて言及しているのである。


次の言葉は、講演集『仏陀からキリストへ』の中で、ルドルフ・シュタイナーがクリスチャン・ローゼンクロイツについて説明したものである。

「地上の年代にして4世紀頃のこと。アストラル界の神殿に4人のマスターが集まった。マニ、スキティアノス、ゾロアスター、ブッダの4人だ。彼らは人類を導くために、ひとつの計画について話し合わなければならなかったのだ。それはアトランティス時代以後に現れた賢者たちの叡智の全てを、人類の未来に流し込むという大計画である。
マスターたちはそれぞれの立場から発言し、計画進行のカリキュラムを作っていった。そして得たひとつの結論、それは叡智の全てを薔薇十字団の秘義の中に託す、というものだった。つまり彼らは、薔薇十字団というひとつの秘教グループを作り、その活動によって叡智を少しずつ、その資格のある人物に伝えていこうとしたのである。
しかし、いくら神々の計画ができたからといっても、それを地上で実現していくのは肉体を持った人間である。人間はやはり自らの意志によって行動するので、神々が道を示そうとしても、人間のほうが聞こうとしなければ、神々の声は聞こえない。
そこで神々は、この計画があまり遅れないで進むようにと、ある人間の肉体に高次の霊を宿らせることにした。これがクリスチャン・ローゼンクロイツである。そしてその準備は彼が生まれる1世紀も前からなされていた。」

 

 


 

■■第5章:時空を超えた超人 サン・ジェルマン伯爵の謎


クリスチャン・ローゼンクロイツとサン・ジェルマン伯爵


前章からの続きになるが、クリスチャン・ローゼンクロイツがその後どうなったのかについては、ルドルフ・シュタイナーは次のような驚くべき発言をしている。これはシュタイナーがドイツのヌーシャーテルで行った「ローゼンクロイツの使命と仏陀の火星での役割」という講演の中で語ったものである。

「中世から近世にかけて、火星領域にある死者たちは険悪な状態に陥っていた。そのため、クリスチャン・ローゼンクロイツは最も親密な友である仏陀と話し合い、仏陀は平和の王子として戦いの星、火星に向かうことになった。そして1604年以降、仏陀は火星の贖主として、地上で薔薇十字的行法を修行する人々に力を送り与えている。
その後、クリスチャン・ローゼンクロイツは、サン・ジェルマン伯爵としてフランス革命に関与したりした……」

神智学の研究家であるE・フランシス・ユドニーもシュタイナーと同じような説を唱えている。

「サン・ジェルマン伯爵は様々な転生を繰り返し、それぞれの人生において厳しい修行を積んでいった。……クリスチャン・ローゼンクロイツとして生まれた魂は、ある時期まではローゼンクロイツとして過ごし、その役目が終わった後に“哲学的な死”を経ることで、サン・ジェルマン伯爵となったのである。」

 

謎に包まれたサン・ジェルマン伯爵の正体


一般に、サン・ジェルマン伯爵は不死の体を持ち、時間の中を旅行しながら歴史の転回点のいたるところに姿を見せていると言われている。そして、人類が間違った方向に進まないように裏から歴史に関与していたと言われている。

 


サン・ジェルマン伯爵

彼は生没年不詳で、その生涯のほとんどは
神秘のベールに隠されたままである。一説には、
彼は永遠の生命を持ち、「輪廻転生」を繰り返し、
古代の叡智を伝え続けているといわれている。

 

彼がフランス革命の少し前に、ルイ15世やルイ16世、マリー・アントワネット、その侍女のアデマール夫人に何度も会って忠告していたという話は、有名なのでご存じの方も多いだろう。その内容だが、ルイ15世とルイ16世には、薔薇十字団に入るように、という忠告をしている。

もしルイ15世がこの忠告にちゃんと従っていれば、フランス革命、なかでも1年間に1万人を処刑した恐怖政治は避けられたかもしれない。もっと穏やかな方法で、新しい政治改革ができたかもしれないのだ。

サン・ジェルマン伯爵は自ら、「自分はかつてエジプトのピラミッドの中で修行し、ヒマラヤに行って、全てを知っている聖者たちに会って多くのことを学んだ」と語り、秘教グループとの関わりを否定していなかった。

フリードリヒ大王をして、「決して死ぬことのない男……」と言わしめ、偉大な思想家ヴォルテールに、「すべてを知っている男……」と書かせた謎の人物、サン・ジェルマン伯爵。彼はルドルフ・シュタイナーが言及するように、クリスチャン・ローゼンクロイツが転生した存在なのだろうか。


※ サン・ジェルマン伯爵についてはこちらのファイルで詳しく紹介したいと思う。

 

 





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