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作成 1998.2
サン・ジェルマン伯爵
彼は生没年不詳で、その生涯のほとんどは
神秘のベールに隠されたままである。
彼の正体をめぐって様々な説が
唱えられている。
■■第1章:パリ社交界に現われた謎の紳士
■サン・ジェルマン伯爵は実在の人物である
様々な伝説に彩られているサン・ジェルマン伯爵──。
彼はあまりにも謎に包まれた存在であるがゆえに、いわゆる“表の歴史”の中では紹介されることの少ない人物だが、実際に存在した人物であり、彼に関する多くの記録が残されている。(一説にはポルトガル系ユダヤ人とも、ルーマニア王家に縁の人物とも言われている)。
“陰謀”研究家の中には、サン・ジェルマン伯爵は秘密結社「イルミナティ」のリーダーだったと主張する者がいるが、今日では不死の人として、神秘思想家から並々ならぬ敬愛を集めている。マダム・ブラバッキーの創設した「神智学協会」では、サン・ジェルマン伯爵を「大尊師」として崇め奉っている。
いったい、サン・ジェルマン伯爵の魅力はどこにあるのだろう?
■作曲家ジャン・フィリップ・ラモーの証言
サン・ジェルマン伯爵が初めて歴史の中に登場してくるのは1710年である。この時、フランスの有名な作曲家ジャン・フィリップ・ラモーが、サン・ジェルマン伯爵に会った時の記録を残している。ジャン・フィリップ・ラモーは近代和声学の基礎を作った作曲家で、オペラ、カンタータなどの多くの作品を残した権威ある人物だ。
「サン・ジェルマン伯爵というのは不思議な人物だ。50歳ぐらいに見えたが、あるいはもっと若いかも知れないし、逆にもっともっと年をとっているのかも知れない。恐ろしく話題が豊富で、ついつい話にひきこまれていく。彼と話しているとなんだか時間を超越した世界に生きているような気がしてくる……」
まだこの頃のサン・ジェルマン伯爵は、人前に出ることは少なかったので、彼の知名度も高くはなかったようだ。ところがそれから40年後の1750年頃、サン・ジェルマン伯爵はパリの社交界に華々しく出現し、謎の人物として上流社会の人々の注目を集めるのだ。作曲家ラモーが会った時に、この伯爵が50歳だったとすると、その40年後の1750年には90歳という老人であるはずだ。ところが、中年の男ざかりとして登場してくるのである。
■ジェルジ伯爵夫人の証言
この時の証人はいくらもいるが、フランスの貴婦人ジェルジ伯爵夫人もそのうちの1人であった。彼女は作曲家ラモーと同じ年の1710年に、ベネチアでたしかにサン・ジェルマン伯爵に会ったと証言した。
「そのときあの方は、45歳から50歳の間ぐらいでした。サン・ジェルマン伯爵にちがいありません」
それから40年ほども後に、パリのポンパドール公爵夫人のパーティーで、再びサン・ジェルマン伯爵に会って、彼女は腰を抜かすほど驚いたという。同じ人間が、少しも年をとらないで、再び目の前に姿を現したからだ。
「まあ、あなたは私がベネチアにいたころお会いした方にそっくりですわ。でも、もう40年も前のこと……。人違いかしら?」
サン・ジェルマン伯爵は彼女にこう答えたそうである。
「奥様、私は確かに40年ほど前にベネチアでお目にかかった、あのサン・ジェルマンですよ。誓って本当です。あなたは当時まだうら若く、ご主人はイタリア大使であられましたね」
「ええ。しかしその方は、確か、今のあなたと同じぐらいの年齢に見えましたけど……」
「私は変わらないように見えるでしょうが、実は非常に年をとっているのです……」
■カサノバの証言
世界史に残る『回想録』の著者であり、希代のプレイボーイとして多くの女性と浮き名を流したことでも有名なカサノバも、サン・ジェルマン伯爵に直接会って会話を交わした人物である。彼は次のような体験談を残している。
「昼食会にジェルジ伯爵夫人が、有名なサン・ジェルマン伯爵を連れてきた。この男は、せっかくのご馳走に見向きもせず、のべつまくなしにしゃべっていた。でも少しもわずらわしいとは思わず、私たちはその話にひきこまれてしまった。彼は非常に物知りで、どの国の言葉も知っていた。そして大音楽家であると同時に、大化学者でもあると思えた。
彼は女たちに好かれた。というのも洗練された物腰で、なかなかの美男子でもあり、しかも女たちの肌を美しくするおしろいとかオーデコロンを与えたからである。それらの高価な織り物は、女たちをこの上なく喜ばせた。彼は、私の度肝を抜くようなことを口にした。例えばダイヤを溶かして、それから最も美しい透明度をもつダイヤを1ダースくらい作ってみせる、などと言うのだ。
あるいはまた、自分はやりたいことは何でもできる、とも言った。特殊な秘薬のおかげで、自分は何も食べる必要がないし、ほんとうは自分は300歳だと言うにいたっては、この男はなんという厚かましい山師だろうと私は思ったものだ。それでいて少しも不愉快な気分にはさせられなかった。何ごとにも非凡な才能をもった不思議な驚くべき男だ。」
■莫大な財産の持ち主であったサン・ジェルマン伯爵
サン・ジェルマン伯爵の名はたちまちパリの社交界に知れわたった。彼の館には、多くの貴族、芸術家、インテリたちが見学に訪れ、また彼自身も招かれるままに各所のサロンに出入りし、巧みな話術、機知、博識をもって人々を魅了していった。そして多くの人々の興味は、特に彼の持つ宝石や金にあった。彼は莫大な富の持ち主だとみなされていた。
当時の記録にはこう記されている。
「その男が持っている貴金属や宝石類の質の高さ、数の多さなどから推測できる彼の莫大な財産について、ヴェルサイユ宮殿にまで噂が広まった。が、一体彼がどこからきたかについては、誰も知ることができなかった。」
先のカサノバは、ある日、サン・ジェルマン伯爵の実験室に招かれ、銅貨を盤のようなものの上に置くようにいわれたという。その盤は、彼がそれまで見たことのない金属でできていたが、サン・ジェルマン伯爵が何か細工をすると突然パッと炎があがり、火がおさまると銅貨は金になっていたという。ダイヤモンド作りに関しても、同様のエピソードが伝えられている。
もっとも今となっては、こうした話の真偽を確かめる術は何もない。サン・ジェルマン伯爵が、何か手品をやったのではないかと疑うこともできる。しかし彼が大変な金持ちであったことは確かなようで、その衣服は、いつもいくつもの宝石や金で飾られていたという。しかもその出所がわからない。真珠もつくったという話さえある。
結局、人々は「サン・ジェルマン伯爵は、錬金術師が求めてやまない『賢者の石』という秘密の石を発見したのだろう」と言いあうようになり、彼自身もそれをあえて否定しなかったのである。
しかし製法や実験の重要な部分は、たとえ国王やポンパドール夫人でも教えてもらうことができなかった。国王が手ほどきされたのは、絹や革の染め物技術などの類いだった。もっともこの技術は非常に高度なもので、サン・ジェルマン伯爵の錬金術を疑っている人も、彼が有能な化学者であったことは認めている。
■パリ社交界でひときわ異彩を放っていたサン・ジェルマン伯爵
当時のフランスは、ルイ15世の時代で、国王の愛人だったポンパドール夫人のサロンなどには、貴族と芸術家などが出入りし華麗な社交場になっていた。サン・ジェルマン伯爵はそうした人々の間でも、ひときわ異彩を放っていた。誰もが彼の話には耳を傾け、彼はいつも一座の中心になった。
当時の文人ヴォルテールも、「サン・ジェルマンという男は、すべてを知っている男……」と驚き、感心している。ヴォルテールといえば、詩人、劇作家、哲学者、歴史家として全ヨーロッパの知識人が敬意をはらったほどの人物だ。そのヴォルテールにこう言わせているほどだから、サン・ジェルマン伯爵がただものではなかったという想像はつく。
それにしても、この異常な人物は謎に包まれていた。フランスに来る前は、ウィーンの宮廷にいたらしいといわれていたが、その素性を知る者はだれもいなかった。とにかくいつの頃からかパリに現れ、社交界の有名人になっていたわけだ。国王ルイ15世の信任を得て、政治的な秘密工作にも従事していたといわれている。
どう考えてもホラ話としか思えないような話でも、サン・ジェルマン伯爵が話すとホラ話ではなくなる。ホラ話にしてはスケールが大きすぎ、また歴史的な事実に近いものが多かった。
たとえば、「私は今から200年以上も前に、スペイン国王フェルディナンド5世の大臣をしたこともあってね」と言い、相手が信じようとしないのを見ると、当時の極秘の公文書を取り出して見せたという。
200年前どころではない。彼の体験談はさらにもっと以前にもさかのぼることもしばしばだった。
「バビロニアにいたころには、ネブカドネザル大王が建設したバビロンの都にもよく行きましたよ。実際、あれは壮麗この上ない都だった……」
「イエスにも会った。あるときイエスは水を酒に変えた。人々は驚き、カナの婚礼の奇跡として後世に知られるようになったわけだが……」といった調子である。
そして人々が、「するとあなたは不死の身なのですか?」と真顔で迫ると、返事をする代わりに謎めいた微笑で応えたという。
■恐ろしいほど博識多才だったサン・ジェルマン伯爵
いったい彼は正気だったのか? しかし頭がおかしかったとすれば、あのカサノバやヴォルテールが感心したり、国王ルイ15世が秘密の使命を与えたりするはずもない。といって、単なる山師にしては、彼はあまりにも博識であり、その多方面にわたる能力は非凡すぎるように思える。
例えば彼は、フランス語はもちろん、英語も、ドイツ語も、スペイン語、ポルトガル語、ロシア語なども、まるで母国語のように自由自在に使えた。そればかりか、カトリック教会の聖職者か専門の学者ぐらいしか知らないヘブライ語も知っていた。さらにアラビア語、ペルシア語、中国語、サンスクリット語などにも精通していた。
楽器にしても、クラブサン(バロック時代に頻繁に活躍した鍵盤楽器)やバイオリンなど弾くのは朝飯前だし、発明されてまもないピアノもうまく弾きこなしたという。1745年にサン・ジェルマン伯爵と面会した作家ホーレス・ウォルポールは、「彼は不死身ですべてを知っている男だ。それだけでなく、音楽家としての才能も抜群で、歌がとてもうまく、バイオリンの名手であり、作曲も行った」と記録している。
絵の才能も驚くべきほどで、本職の画家が教えを請うこともあったといわれている。そして彼の邸宅には、錬金術の実験室があったことはカサノバが招かれて見ているほか、作曲家ジャン・フィリップ・ラモーによれば邸内には「開かずの間」があって、ブーンという奇妙な音がしていたという。また、理解しにくいことには、サン・ジェルマン伯爵より後の時代に発明された蒸気船、汽車、飛行機などについて、彼は見てきたように詳しく語ったという。
また、化学の分野にも造詣が深く、ルイ15世所有のダイヤモンドの傷を、ある化学的方法で取り除いたことも有名で、サン・ジェルマン伯爵の化学知識は同時代の水準を遥かに超えていたといわれている(錬金術にも精通していた可能性が高い)。
■若さの秘訣は不老不死の霊薬か?
冒頭で紹介したように、1710年にサン・ジェルマン伯爵を目撃したジャン・フィリップ・ラモーや、ジェルジ伯爵夫人の証言が本当なら、パリ社交界に現われたサン・ジェルマン伯爵は90歳ぐらいの老人でなければならない。ところが不思議なことに、見た目には依然として40~50歳の容姿だったのである。
ここで人々の心にハタッと思いあたるものがあった。というのは、サン・ジェルマン伯爵がフランスに来て10年もたつというのに、いまだに彼が食事をとっているところを、誰も見ていないのだ。サロンの晩餐会に招いても断るし、たとえ出席してもいっさい食事をしない。酒も飲まない。
東洋の行者は徹底した菜食と断食によって肉体の浄化を計るというから、それをまねて肉食中心のフランス料理を嫌い、一人こっそり食事をしているのだろうとも考えられたが、それだけで老化を防げるとも思えなかった。
あるとき、カサノバがサン・ジェルマン伯爵を晩餐に招待したところ、自分が未知の人たちと一緒に食事している場面を見られたくないし、自分が食べるのは、ただ丸薬とカラスムギだけだ、と謎めいたことを言って招待を断ったのである。
そこで人々は、サン・ジェルマン伯爵は、若返り、あるいは不老不死の霊薬を持っているのだろうと噂しあった。若返りや不老不死の霊薬は、当時、錬金術と並んで王侯貴族の関心事であり、とりわけ前者は、永遠の若さと美貌を求める社交界の女性たちのあこがれの的だった。
これについてはポンパドール夫人もなみなみならぬ興味を示したらしく、あるときサン・ジェルマン伯爵に、本当は何歳なのか問いただした。しかし彼は言葉を濁して答えず、ポンパドール夫人が霊薬を所望すると、「陛下やあなたに怪しげな薬をさしあげるなんて、恐ろしくてとてもできません」と断ったという。そしてその代わりに、大変効果のあるしわ防止の化粧水を作ってやったという。
■サン・ジェルマン伯爵にまつわるその他の不思議な話
サン・ジェルマン伯爵については、これまでに述べてきた話以外にも、多くの不思議な逸話が残されている。以下、それらを列記してみよう。
◆彼は右手と左手が同じように使え、両方の手で別々に文字を書いて重ねると、ピッタリ合った。◆たいへんなダイヤモンドの蒐集家で、指輪はもちろんのこと、鎖つき腕時計や嗅ぎ煙草入れ、靴の留め金にさえダイヤモンドをつけていた。
◆亜麻糸を使って絹のような布を織る工場をベニスにもっていた。その技術は彼が開発したもので、そこでは100人ほどの労働者が働いていた。
◆世にも稀な才能をもつ画家で、宝石のもつ輝きをカンバスに描く能力においては定評があった。驚くほど明るい色を出すことができたが、それは絵具に真珠を混ぜたためだといわれている。
◆いつも40~50歳に見えたがシワはまったくなく、肉体の衰えも感じさせなかった。その態度は気品があり、威厳もあったがそれは人を畏れさせるものではなく、思わずかしずいてしまうといったタイプのものであった。礼儀正しく、洗練された人物であった。
◆人から何かを尋ねられる前に、相手の質問を見ぬく力をもっていた。またテレパシーによって、遠い街や国で自分が必要とされているときは、それを感知することができた。
◆東洋の秘教の原理に完全に精通していて、瞑想と集中を実践しており、数回にわたってヒンドゥー教徒のような姿勢で座禅を組んだ。あるいは、ヒマラヤ山脈の中心に隠遁所をもっていて、ときおり世間を離れてそこで暮らした。インドには修行のため85年間とどまっていた。
などなど、彼に関する話題を捜すと枚挙にいとまがないのである。
■■第2章:サン・ジェルマン伯爵とフランス革命
■ヨーロッパ各国を遍歴
サン・ジェルマン伯爵の評判が高まる一方、これを快く思わない人々の動きも活発化した。特に大臣連中は、国王が政治経済のことまでサン・ジェルマン伯爵に相談するようになったのをおもしろく思わなかった。
やがてサン・ジェルマン伯爵は、ルイ15世宮廷内の保守派の陰謀によって、フランスを追放されることになった。そしてイギリス、オランダ、ロシアなどを遍歴したが、ロシアでは、1762年にクーデターを起こしたオルコフ将軍を助けて将軍の地位につき、ヴェルダン伯爵と名乗って活躍したのであった。
そして1774年、ルイ15世が死去すると再びフランスに現れ、新しく即位したルイ16世と王妃マリー・アントワネットに面会している。が、驚いたことに、あれから十数年が過ぎたというのに容貌はもとのままで、老けこんだ様子は全く認められなかったという。
このとき彼は、「政治のカジの取り方にはくれぐれも注意してくださるように。さもないと、やがて恐ろしい破局が訪れます」と、国王と王妃に忠告したといわれる。
しかし、ルイ16世もマリー・アントワネットも忠告には従わなかった。サン・ジェルマン伯爵は王座と王族を救うための忠告をいくつも行ったが、結果は逆効果であった。サン・ジェルマン伯爵は、自分が強く忠告をすればするほど、それが利敵行為とみなされることを知ってフランスを離れた。フランスを離れるときに、あらゆる国境に追手が迫ったが、彼は難なく逃れることができたのである。
■1784年2月27日にドイツで病死?
フランスを去ったサン・ジェルマン伯爵が次に現れたのはドイツだった。
彼はそこでカッセル伯爵の客となり、ともに神秘主義の研究に没頭した。しかし城の湿った一室にとじこもった研究生活がわざわいしたのか、やがて健康を害して病没した。死因はリューマチと鬱病であったという。
ドイツのエッケルンフェルデの教会の古い戸籍簿に、次のような記録が残っている。
「世にいうサン・ジェルマン伯爵、あるいはヴェルダン伯爵。1784年2月27日死去。3月2日埋葬。その他の事項不明。一個人として当教会に埋葬」
最初にパリに現れたときにも、サン・ジェルマン伯爵の素性は誰も知らなかったが、彼の死亡の記録にも、生まれた年や出身地のことは一切書かれていないところを見ると、やはり分からずじまいだったのだろう。
しかし、サン・ジェルマン伯爵についての、信じられないような話は、これで終わりを告げたわけではなかった。不死身の男として、まだまだ続くのである……。
■死んだはずのサン・ジェルマン伯爵が革命直前のパリに出現!
フランス革命が起こる少し前に、王妃マリー・アントワネットは1通の手紙を受け取ったが、それはサン・ジェルマン伯爵からの手紙──最後の忠告の手紙──だった。このとき伯爵は既に死んでいたはずである。手紙にはこう書かれていたという。
「これが最後の警告です。まだなんとか間に合いましょう。民衆の要求を聞き入れて、貴族たちを抑え、ルイ16世は退位されることです。…… あなた自身が強く力を尽くして対抗しなさい。それ以外の方策はもうありません。あなたは、もはや愛していない民衆から離れて、謀叛者たちに口実を与えないようにすべきです。ポリニャックやその同頬どもを見捨てなさい。彼らは、この前バスチーユの役人を殺した刺客たちにつけ狙われています。そして、いずれは殺される運命です」
しかし、マリー・アントワネットは、サン・ジェルマン伯爵のいうことを無視した。そして結局、国王と王妃は捕えられ、断頭台の露と消えてしまったのである。その運命をまるで知っていたかのような、サン・ジェルマン伯爵の警告だったのだ。
彼女は処刑直前の日記の中で、サン・ジェルマン伯爵の忠告に従わなかったことを悔いているが、そのときにはもう遅かったのである。
■マリー・アントワネットの侍女アデマール夫人による目撃談
手紙だけではない。サン・ジェルマン伯爵はドイツで死んだとされてからもその姿を目撃されているのである。ルイ16世とマリー・アントワネットが捕えられていた頃、マリー・アントワネットの侍女アデマール夫人はサン・ジェルマン伯爵から、次のような手紙を受け取った。
「すべては終わりです。あなたは、私が事態を別な局面に導こうといろいろ努力してきたことをご存じです。しかし、残念ながら人々は私の忠告には従いませんでした。そしてすべてがもう遅すぎます。私はもう一度あなたにお会いするでしょう。けれども、ここまで来てしまった以上、私は王も王妃も王族もお救いすることはできません。これから流される血を止めるチャンスは、すでに終わってしまいました……」
アデマール夫人は、サン・ジェルマン伯爵の使いだと名乗る男に導かれて、郊外の古い教会に行った。するとそこには、紛れもないあのサン・ジェルマン伯爵が待っていた。しかも、驚くことに全く歳をとっていない様子であった。
「だいぶ驚かれた様子ですな。しかし私は不死身ですよ。永遠に時間の中をさまよっているのです。私はちょうど今、日本から帰ったばかりです。国王と王妃は、残念ながら私の警告に耳を傾けてくれなかった。もうあの2人はおしまいです。しかしそれは、もはや私の責任ではない……」
時は1789年、ちょうどフランス革命が始まる直前であった。アデマール夫人は日記作者であるが、サン・ジェルマン伯爵には合計5回会ったという。これらの出会いについて、彼女は、「いつも言葉では語れない驚きがあった」といっている。
■その後のサン・ジェルマン伯爵の足取り
アデマール夫人に礼拝堂で会った後も、サン・ジェルマン伯爵はしばらくの間フランスにとどまり、フランス革命の様子をじっと見つめていたようだ。ギロチンによる死刑が行われたクレーヴ広場やパリの街中で、彼の姿は多くの人に目撃されている。
この他にも、彼が死んだとされる1784年以降に、サン・ジェルマン伯爵を目撃した人はいた。1788年にはベネチアで目撃されている。さらに1822年になって、これからインドに出かけるという直前のサン・ジェルマン伯爵に会ったという証人が現れている。
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ところで、サン・ジェルマン伯爵はフランス革命以降は、
フランスの政治に関与することを一切やめてしまったのであろうか?
それとも、影から関与し続けたのであろうか?
これに関して不思議なエピソードがある。
フランス革命を収束し、ヨーロッパの大半を支配した大英雄ナポレオンにまつわるものだが、
彼の活躍の背後にサン・ジェルマン伯爵の影がチラついているのである。
少し長くなるが、次章ではこのナポレオンにまつわる不思議な話を紹介したい。
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