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No.b1fha602
作成 2003.11
●1933年1月に誕生したヒトラー政権は、ナチス親衛隊(SS)の整備と並行して、国内治安維持を名目に警察組織の一本化をめざし、州ごとにある警察をナチスの管轄下におく方針を決定した。
そして1933年4月26日には、ベルリンに「ゲシュタポ(秘密国家警察)」の本部を設置していっそう取り締まりを強化した(初代局長はルドルフ・ディールス)。
ナチスのナンバー2だった
ヘルマン・ゲーリング国家元帥
1933年、ヒトラー政権誕生にともない
無任所相に就任し、プロイセン州内相も兼ねた。
この「内相職」を得たことによって全国のほとんどの
警察権を手中に収め、SSや在郷軍人組織「鉄兜団」の
メンバーを補助警察として採用、警察のナチ化に努めた。
同年4月10日にプロイセン州首相に任命され、4月末
には「ゲシュタポ」を創設。翌月には航空相、林野・
狩猟庁長官となり、さらに大きな権力を握った。
(その後、経済相や国家元帥などを歴任)。
●この「ゲシュタポ」は、ナチス幹部のヘルマン・ゲーリングが実権をもっていたプロイセンの政治警察機構を導入したものである。
ゲーリングが長官になるつもりでいたが、ヒトラーはこれを認めず、以前から警察の全国統一を主張していたハインリヒ・ヒムラーを親衛隊(SS)の長官(総司令官)のまま警察長官に任命した。
ちなみに「ゲシュタポ」という名は、郵便局員が配達の際に「秘密国家警察(Geheime Staatspolizei)」を省略して呼んだのが広まったという。
親衛隊の長官(総司令官)
ハインリヒ・ヒムラー
●警察長官に就任したヒムラーは、さっそく警察権限の強化に乗り出し、就任3年後の1936年6月17日、ついに全ドイツ警察の一本化に成功。ドイツに初めて実現した統一警察である。
ヒムラーはなおSS長官のポストにあり、以後、警察は事実上、SSの権限のもとに置かれる。ヒムラーが全国の警察の指揮・命令権を掌握したことは、一般刑事警察をも支配できることになる。したがって、この時点でヒムラーは「SS」「ゲシュタポ」「一般刑事警察」すべてを支配下におき、ドイツ国民と反対勢力をほぼ完全に近い形で封殺する体制を確立したことになったのである。
●このあとナチス・ドイツはしだいに戦時体制を強めていくが、ナチス政権はさらに治安機構を強化するため、1939年9月27日、ベルリン・ポツダム広場付近に「国家保安本部(RSHA)」を設置した。
※ この「RSHA」は、国家公安本部、帝国治安本部、ライヒ公安本部、帝国保安中央局という複数の訳語がある。
国家保安本部(RSHA)
●この「RSHA」は、従来からある「SS保安諜報部(SD=反ナチ勢力摘発機関)」「ゲシュタポ」「一般刑事警察」を総合的に指揮・運用できる機関である。
ドイツ国民の指導と取り締まり、ユダヤ人対策、占領地住民や反ナチス抵抗運動などへの対策を検討、指令を出すのが任務だった。
ナチス体制の治安の総本山にあたる。
●ヒトラーは、SDの部長を務めていたラインハルト・ハイドリヒSS大将を「RSHA」の長官に任命、要員にSD3万人、ゲシュタポ5万人、一般刑事警察1万5000人を配置した。
SAに始まったナチス政権の武装エリート集団の指揮命令系統は、この「国家保安本部(RSHA)」の設置によって一元化し、以後、ナチス戦争犯罪の計画と具体的指令は、ここから発令されることになった。
ラインハルト・ハイドリヒSS大将
※ ヒムラーに次ぐSSナンバー2で1939年に
「国家保安本部(RSHA)」長官に就任
●この「RSHA」は7つの部局によって構成されていた。
第1局は人事局で、第2局は総務・経理部。
第3局はSDの国内局で、ドイツ国内(占領地域含む)での諜報と防諜を担当した(局長はオットー・オーレンドルフSS中将)。
オットー・オーレンドルフ
●第4局は秘密警察「ゲシュタポ」である。
「ゲシュタポ」は警察領域における執行権(逮捕を行う権利)を有する捜査機関で、体制敵の捜索及びそれに対する弾圧の権限を有した。局長はハインリッヒ・ミュラーSS中将で、彼は大戦終結後、南米に亡命したとされ、今に至るもその消息は不明である。
「ゲシュタポ」の局長
ハインリッヒ・ミュラー
●第5局は刑事警察局「クリポ」である。
刑事事件を扱う部署で、ごく普通の警察と同じ業務をしているが、「アインザッツグルッペン」(詳細は後述)を指揮し、占領地区におけるユダヤ人狩りや物資や金品の掠奪を行った。
局長はアルトゥール・ネーベSS中将で、良心の呵責からか後に反ナチ運動に関わるようになり、1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件後、計画に関わったとして処刑された。
※ 第4局ゲシュタポ、第5局クリポを総称して、保安警察「ジポ」と称される。
「クリポ」の局長
アルトゥール・ネーベ
●第6局はSDの外国局である。
ドイツ国外における情報収集活動を担当し、敵対国や中立国、あるいは同盟国内における諜報活動や外国における特殊作戦などの任務を取り扱った(局長はヴァルター・シェレンベルクSS少将)。
●第7局は思想調査局で、ユダヤ教、教会、自由主義、マルクス主義、フリーメイソンなど、体制敵のイデオロギーを研究した。
◆
●「RSHA」は1941年5月、かの悪名高い「アインザッツグルッペン(SS特別行動部隊)」を組織した。
「アインザッツグルッペン」のAからDまでの4個部隊は、東方占領地(ポーランド、バルト三国、ウクライナ、ロシアなど)での反ドイツ分子やユダヤ人、ジプシー(ロマ)、共産主義者を山奥の村々にまで踏み入って虐殺し、物資や金品の掠奪を行った。「アインザッツグルッペン」は奇襲効果を上げるため、前進する陸軍部隊の前衛のすぐ後方について行動した。
また、戦闘中にドイツ軍がソ連軍に押され、陣形が崩れてドイツ軍部隊が後方に下がる先に立ちはだかり、敵前逃亡とみなして多くのドイツ軍兵士を殺害し、再び前進させるために兵士たちをけしかけるなど、汚れ仕事全般を引き受けていた。
●この「アインザッツグルッペン」の指揮官には「RSHA」の所属者が充てられたが、大多数の隊員は武装SSと警察連隊、陸軍から補充された。
「アインザッツグルッペン」の作戦は、1942年夏頃には終わりを迎え、各部隊の上級指揮官たちは「RSHA」に復帰し、部隊は解体されて占領地区の保安警察・保安情報部本部に編入された。
アインザッツグルッペン(SS特別行動部隊)
※「アインザッツグルッペン」は警察の機動部隊で、
ゲシュタポやSD、ジポの要員からなり、治安平定の
ために東欧の占領地域で敵の検挙や処刑にあたった。
主に標的としたのは、反ドイツ分子やユダヤ人、
ロマ、共産党幹部、知識人だった。
※ 別名「移動虐殺部隊」とも呼ばれる「アインザッツグルッペン」は
主要なAからDまでの4個部隊を中心に行動した。彼らの虐殺行為の多くは
集団処刑(銃殺)という形で行われ、遺体は集団墓地や穴に投げ込まれた。
アインザッツグルッペンに殺害された東欧のユダヤ人の数は約120万人
と推定されている。ちなみにアインザッツグルッペンは複数表記で、
単数形はアインザッツグルッペ(EINSATZGRUPPE)となる。
◆特別行動部隊A……司令官フランツ・シュターレッカー(兵力1000名)──北方軍集団に配属。東プロイセンから出撃し、リトアニア、ラトビア、エストニア、さらにレニングラードへと前進を続けた。◆特別行動部隊B……司令官アルトゥール・ネーベ(兵力655名)──中央軍集団に配属。ポーランド総督領北部から出撃し、白ロシアを主作戦地域として、ミンスク、スモレンスク、さらにモスクワへ向かった。
◆特別行動部隊C……司令官オットー・ラッシュ(兵力700名)──南方軍集団に配属。シュレジェンから出撃し、北部ウクライナを作戦地域としてロヴノ、キエフ、クルスク、ハリコフと前進した。
◆特別行動部隊D……司令官オットー・オーレンドルフ(兵力600名)──南方軍集団第11軍に配属。ルーマニアから出撃し、南ウクライナとクリミア半島を作戦地域としてオデッサ、ニコライェフ、さらにクリミア半島へと向かった。
左から、「特別行動部隊A」の司令官フランツ・シュターレッカー、
「特別行動部隊B」の司令官アルトゥール・ネーベ、「特別行動部隊C」の司令官
オットー・ラッシュ、「特別行動部隊D」の司令官オットー・オーレンドルフ
●1942年、ラインハルト・ハイドリヒがプラハで暗殺されると、ヒムラーが一時、「RSHA」の長官を兼任したが、1943年以降はSSの法律顧問であるエルンスト・カルテンブルンナー博士(SS大将)が長官となった。
エルンスト・カルテンブルンナー
198cmの巨漢であり、顔のあざが
特徴だった。酒を飲むと荒れるため、周囲
の者達は彼を不愉快な男だと感じていたという。
彼は20歳で法律学と政治経済学の博士号を取得し、
1930年にナチ党に入党して「法律顧問」として活動。
1943年にハイドリヒの後継として「RSHA」長官に就任。
戦後の「ニュルンベルク裁判」で死刑判決を受け、死体は火葬
された。彼の最後の言葉は「ドイツに幸あれ!」だったという。
空襲で破壊された国家保安本部の建物(1945年)
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