No.b1fha601

作成 2003.9

 

ナチスの突撃隊(SA)と親衛隊(SS)

 

 

第1章
「突撃隊(SA)」とレーム
第2章
「突撃隊」と「ドイツ国防軍」の対立
第3章
「親衛隊(SS)」とヒムラー
第4章
「武装親衛隊」の誕生

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■■第1章:「突撃隊(SA)」とレーム


●ナチスの「突撃隊」(SA=Sturmabteilung)は、1921年、勢力拡大のため活発に街頭活動をしていたナチ党と党員を防衛する目的で結成された組織で、隊員には退役軍人や兵士などがなっていたが、後に一般の若者や失業者も参加した。

ヒトラーの政権獲得のために、SAは街頭での共産主義者との闘いや示威行進などを通じて大いに貢献し、制服である褐色のシャツ姿は市民に恐怖感を与える存在だった。

 

  
(左)ナチス突撃隊 (右)突撃隊のシンボルマーク

突撃隊はイタリアのムッソリーニ率いるファシスト党の
武装行動隊(黒シャツ隊)を模して結成された

 

突撃隊(SA)は、初めヘルマン・ゲーリングが指揮していたが、彼が政権中枢に移ったあとは元陸軍大尉のエルンスト・レームが司令官になった。

SAは無制限に隊員の受け入れを行ったため、最盛期には300万人前後に達し、「ドイツ国防軍」(10万人)をしのぐ勢力(大軍団)に膨れ上がった。

もはやヒトラーの統率が効かなくなっていた。

 

 
エルンスト・レーム(1887〜1934年)

レームはヒトラーの最も古くからの同志で、
ヒトラーと肩を並べるほどの実力を持っていた。
レームはヒトラーに向かって「ドゥ(おまえ)」と
呼ぶことが許されていた唯一のナチ党員であった。

 

●野心を燃やすレームは、SAに「ドイツ国防軍」を編入させ、新しい軍事組織の設置を企図した。

しかし、「ドイツ国防軍」はこれに激しく反発、対立した。

 

  
SA(突撃隊)とレーム司令官

SAは当初は左翼勢力の妨害に実力で対抗する組織であったが、
段々とレームの私兵化していき、ナチ党の中で大きな存在となった。
「第2革命」を主張するレームは、自ら率いるSAが「ドイツ国防軍」に取って
代わる勢力(新・正規軍)になるよう画策していたため、国防軍の将校たちは、
自分たちがSAに飲み込まれるのではないかと危機感を募らせていた。

 

 


 

■■第2章:「突撃隊」と「ドイツ国防軍」の対立 ─ 「レーム事件」へ


●参考までに「ドイツ国防軍」について、東京医科歯科大学教授(独語)の鈴木直氏はこう述べている。

ドイツ国防軍はプロイセン以来、貴族やユンカー(東部ドイツの土地貴族)出身の誇り高い職業軍人の集団だった。国防軍の将軍たちの名前を見るとやたらに『フォン』という貴族の称号が目につく。ナチ首脳のゲッベルス、ボルマン、ヒムラーなどが、会計士、郵便局員、教育監督など小市民階級の出身者だったのとは好対照だ。

だから大半の国防軍将校たちは、成り上がりの大衆扇動家ヒトラーとナチスを軽蔑し、毛嫌いしていた。

それでも国防軍は、屈辱的なヴェルサイユ体制とそれを受諾したワイマール共和国を打倒し、ドイツの再軍備を実現するために、この天才扇動家を利用しようとした。用が済めば、伍長上がりの男など、いつでも排除できると高をくくっていたのだ。

他方、ヒトラーもまた、政権基盤の強化や戦争遂行のためには、国防軍の協力が欠かせないことを知っていた。しかしプロイセン陸軍の伝統を引くエリート軍人たちは、粗暴な街頭宣伝や破壊活動を繰り広げるナチの私的軍事組織SA(突撃隊)を危険視していたのである」

 


第三帝国の軍旗

 

●SAの拡大による国防軍との深刻な摩擦が権力基盤の危機を招くと判断したヒトラーは、SAを党の統制下におく方針を固め、なお独走の懸念があるSAを排除する決意を固めた。

それを実行したのが「血の粛清」である。


1934年6月30日、ヒトラーはゲーリング、ヒムラーの協力により、ミュンヘンの保養クラブで会合していたレームらSA幹部らを急襲、逮捕、ただちに情け容赦なく処刑した。容疑は「外国勢力と結託して党の転覆をはかった反逆罪」だったが、もちろんデッチあげの事実。このほかに同性愛を問われた幹部もいた。

処刑には裁判手続きが省かれたが、これは「国家緊急防衛措置」として合法化された。

 

 
(左)エルンスト・レーム (右)アドルフ・ヒトラー

ヒトラーが古くからの側近であるレームを
殺したのは、SA(突撃隊)が大きくなりすぎた上、
レームがSAを独立勢力のように考えて、ヒトラーの
指揮に応じない可能性があったためである。

※ ヒトラーはSA幹部の粛清により、
 国防軍との関係を修復した。

 

●粛清の対象はSAだけにとどまらず、シュライヒャーなどの反ナチの保守派、シュトラッサーなどの党内の左派勢力など合わせて数十人から数百人が殺害された。

「長いナイフの夜」と呼ばれるこの「レーム事件」は7月2日まで続いたが、男色・酒乱・ゴロツキなど評判の悪かったSA幹部の粛清に市民の反応は冷静で、ニュースはおおむね好感をもって伝えられたという。


●この件に関して、お茶の水女子大学教授の山本秀行氏は、著書『ナチズムの時代』(山川出版社)の中でこう述べている。

「(ヒトラー時代の)人々のナチズムについての記憶を分析していくと、個々の不満がナチ体制そのものへの批判へと全面化しないメカニズムや、回路のようなものが浮かび上がってくる。そうしたメカニズムの1つが、『ヒトラー神話』である。

ヒトラー崇拝は、ナチスが政権をとる前から見られたが、これが国民に定着するきっかけとなったのが、1934年6月のレーム事件であった。この事件は、ヒトラーがナチ革命の継続を唱えるレームら突撃隊の幹部と政敵を粛清したものであった。大量殺人にもかかわらず、国民はヒトラーの断固たる措置を歓迎し、ヒトラーの威信はかえって高まっている

ナチ組織の腐敗、幹部の目にあまる増長ぶりに、国民はそうした幹部をヒトラーが押さえつけてくれることを期待したのである。言ってみればナチ党への不満が、逆にヒトラーの人気を押し上げているのである。

宣伝相ゲッベルスは、ヒトラーを清潔な政治家、党利党略をこえて国民全体のことを考える人物として演出した。しかしヒトラーの人気は、そうしたプロパガンダのせいだけではなかった。人々は、清潔なヒトラーを引き合いに出すことによって、腐敗した幹部を批判したのである。民衆もまた、演出されたイメージを利用し、また自分たちの願望や期待をヒトラーに投射することで、『ヒトラー神話』の成長に関わっている。

『ヒトラー神話』は、人々の不満や批判を吸収することで、ナチ体制の安全弁の役割を果たしていたのである。」

 

  
(左)『ナチス突撃隊』桧山良昭著(祥伝社)は、
ヒトラーの権力掌握に貢献したSA(突撃隊)の悲劇を
描いた作品である。(中央)戯曲『わが友ヒットラー』は、
三島由紀夫が「長いナイフの夜」を描いた作品である。
(右)映画『地獄に堕ちた勇者ども』はイタリアの巨匠
ルキノ・ビスコンティ監督の傑作で、この映画の
クライマックスの1つである「長いナイフの夜」
のシーンは凄惨で迫力がある↓


 
映画 『地獄に堕ちた勇者ども』(1969年制作)

休暇中のSA幹部たちが羽を伸ばしていた保養地を
SS部隊が朝早くに急襲して無慈悲に銃を乱射するシーン↑

 

●「レーム事件」(長いナイフの夜)を題材にした戯曲『わが友ヒットラー』(新潮社)を書いた三島由紀夫は、巻末の「自作解題」でこう述べている。

「『わが友ヒットラー』は、アラン・ブロックの『アドルフ・ヒトラー』を読むうちに、1934年のレーム事件に甚だ興味をおぼえ、この本を材料にして組み立てた芝居である。

〈中略〉 

粛清後、ヒトラーが不眠症にかかり、心労の果てにやつれたというのは実話のようで、まだ『人間的な』ヒトラーがヒトラーの中に生きていた時期の物語である。

国家総動員体制の確立には、極左のみならず極右も斬らねばならぬというのは、政治的鉄則であるように思われる。そして一時的に中道政治を装って、国民を安心させて、一気にベルト・コンベアーに載せてしまうのである。何事にも無計画的、行きあたりばったりな日本は、左翼弾圧からはじめて、昭和11年の2・26事件の処刑にいたるまで、極左極右を斬るのにほぼ10年を要した。それをヒトラーは一夜でやってのけたのである。

是非善悪はともかくヒトラーの政治的天才をこの事件はよく証明している。

〈中略〉

ずいぶんいろんな人に、『お前はそんなにヒトラーが好きなのか』ときかれたが、ヒトラーの芝居を書いたからとて、ヒトラーが好きになる義理はあるまい。正直のところ、私はヒトラーという人物には怖ろしい興味を感ずるが、好きか嫌いかときかれれば、嫌いと答える他はない。

ヒトラーは政治的天才であったが、英雄ではなかった。

英雄というものに必須な、爽やかさ、晴れやかさが、彼には徹底的に欠けていた。ヒトラーは、20世紀そのもののように暗い……」

 


三島由紀夫

 

●作家の柘植久慶氏は「レーム事件」について、著書『ヒトラーの戦場』(集英社)の中で次のように述べている。

少し長くなるが参考までに紹介しておきたい。


「エルンスト・レームはナチ党(NSDAP)でただ一人、ヒトラーと『俺』『おまえ』で話し合える人物だった。初期の〈ドイツ労働者党〉時代から、腹を割って話のできる数少ない親友として知られる。

ところがレームの思想は、ヒトラーを含めた他のナチ党の幹部たちと、同床異夢の感じが残されていた。

レームの主張は今や共産主義者を打倒し『第1の革命』が成ったから、『第2の革命』として貴族、財閥、それにユンカーを倒すべきというものだ。

このレームの思想は、彼が極貧階層からのし上がった陸軍将校という点を忘れてはならない。彼はその成長の過程にあって、貴族や財閥を憎悪の対象として考え続けた。だからナチ党に在っても革命主義を徹底して貫くべきと、強い信念を有していたのだ。しかも250万の突撃隊を、ドイツ国防軍に代わるものとする考えを抱いている。当然、その暁に軍の頂点に立つのはレーム自身だ。

ヒトラーは困惑する。

もしレームの思想を実行させたとしたら、ドイツは再び大混乱に陥る。そうなれば共産主義者も息を吹き返すに違いない。それにヒトラー自身、革命主義者でなかった。加えて彼にはドイツ国防軍が必要だった。何故なら街頭での戦いでなく、本格的な野戦を展開する場合、職業軍人に無視されたら戦争はできないのだ。

ドイツ国防軍の根幹はプロイセン軍人である。その将校団の中核はプロイセンの土地貴族〈ユンカー〉出身者だった。彼らを一掃した国防軍など存在せぬに等しい。

将校団とレームの突撃隊の対立は、すでに10年以上の歴史を持っていた。両者の和解や妥協点など全く考えられない。そうなると問題はどちらを残すかだった。

〈中略〉

レーム粛清事件に関して、多くの書物がヒトラー批判をしている。だがスターリンが行ったトゥハチェフスキー元帥以下、赤軍将校3万人の大粛清と比べたら、100分の1程度のものだ。

戦勝国側だったお蔭でスターリンの大粛清は看過されたわけだが、このあたりは戦後の連合国の実情をよく物語っている。

いずれにせよレーム粛清の際に注目されるのは、ヒトラーが自ら乗りこんだ点だ。普通はこうした役割は他人にやらせるものだが、一国の最高権力者(実質上の)が自分自身で決着をつけたことは特筆に値しよう。反面としてそれだけレームの存在が大きかったとも言える。他の人間ではレームを押えられないとヒトラー自身も考えていたのではないか。

かくして積年の課題となっていた突撃隊に関する悩みが、ここに氷解した恰好となる。国防軍との関係に横たわっていた障害は、すべて除去されたのだった。」

 

 


 

■■第3章:「親衛隊(SS)」とヒムラー


「レーム事件」でSAは党内実権を失い、代わって「親衛隊」(SS=Schutzstaffel)が台頭した。

 


ヒトラーの身辺警護をする親衛隊(SS)

 

親衛隊(SS)は、もともとはヒトラーの身辺警護を任務として1925年に創設された党内組織(SAの下部組織)だった。

「レーム事件」で実績を上げたSSは、1934年7月20日にSAから独立してヒトラー直属の機関となった。

※ 発足時わずか200人そこそこだったSSの隊員は、1932年末までに約5万人に増加、その1年後には約20万人に膨れ上がり、ハインリッヒ・ヒムラーの指導の下で大幅に増強された。「レーム事件」後、SAは一気に権力を失ったが、党内ヒエラルキーのバランス維持のため、第三帝国が崩壊するまでSAはナチ党の組織として存続した。

 


ハインリッヒ・ヒムラー

「レーム事件」で粛清を実行したのは
主にヒムラー率いる親衛隊(SS)であった。
彼らはレームほかSA内の敵対分子とその他
潜在的な敵性分子をも一挙に除去することに成功し、
SAは一気に権力を失った。「レーム事件」で執行部隊と
しての役割を果たしたSSはSAから独立し、ナチ党の
軍事部門としての地位を確固たるものとした。

 

●SSは軍隊とほぼ同じ組織で、管区、連隊の下に小隊、班をおき、将校を中核にして下士官と兵で編制され、戦争開始時には約24万人に膨れ上がっていた。

しかし、SSの主目的は戦闘ではなく、ナチスの組織防衛を重点においた党の“私兵”的性格が強く、ドイツ国防軍は距離を置いてみていた。SSはまた隊内に「保安諜報部」(SD=Sicherheitsdienst)を設け、党内外の反ナチス的人物の監視と摘発を任務としていた。

 

 
(左)ルーン文字で表記したSSのマーク (右)SSの旗とヒムラー

 

●SS隊員の資格要件は、ドイツが誇りとするアーリア人で志操堅固な者であり、入隊時には血統、家庭環境、教育程度などが厳密に調査された。

具体的にはSSの志願者は、3世代にわたって純血アーリア人であることを証明しなければならなかった。そして身体の比率の基準は、身長170センチ以上であること。それ以下である場合、身体の他の部分との調和によって考慮された。

また、勝手な結婚は許されず、「SS文書局」に許可申請とともに婚約者の健康診断書、父母の経歴近親者の精神病歴の有無などの記録提出が義務づけられていた。審査に合格すると、本人同士の結婚誓約書を出すという手順が踏まれた。

ちなみに、SS内部での大罪は「ホモ行為」で、この罪を犯した者は、刑に服さなければならないが、何らかの形で死はまぬがれなかった。

 


SS入隊のための身体検査の様子

 

●SS隊員は褐色シャツに黒ネクタイ、黒上衣、黒ズボン、黒長靴……というように、全身を黒で染め上げていた。そしてドクロの記章をつけた帽子をかぶり、「神は我らとともにあり」とバックルに刻まれた帯革をつけ、ナチスのエリートとされていた。

また、銀製の頭蓋骨をかたどった印鑑付き指輪は、勤務3年以上の先任仕官に与えられ、短剣は、長官ハインリッヒ・ヒムラーが自分の結社の精華と考えた仕官に与えられた。短剣には「忠誠こそわが名誉」というSS隊員のモットー(標語)が刻まれていた。

 


 
SSに付けられたドクロの記章

 

●合格者が基礎訓練を終えると、見習い隊員となってヒトラーへの忠誠の宣誓を行う。これはヒトラーの誕生日の儀式で行われる。そのあと、ヒムラーによる「血と土の秘儀」に従って、「民族の純血と健全なる血統の存続が保証されない限り結婚はしない」という宣誓をする。宣誓は何千人の声がいっせいに繰り返した。

※ ちなみに、SS隊員の体(左わき下)には血液型をコード化した入れ墨があった。SS隊員は優秀な存在であり、万一の場合には他の兵士に優先して輸血を受ける権利がある、というナチス指導部の思想の為であった。

 

  
SS隊員は褐色シャツに黒ネクタイ、黒上衣、黒ズボン、
黒長靴……というように、全身を黒で染め上げていた

 

●ZDF(ドイツ公共放送局)の現代史局長であるグイド・クノップ(歴史学博士)はこう語っている。

「常に大衆の側にあった突撃隊とちがって、親衛隊ははじめから、どちらかというとエリート集団を自認していた。ドクロのマークを誇示した黒い帽子、黒いふちどりのあるカギ十字の腕章によって、親衛隊はニーベルンゲンの登場人物を思わせる一種のオーラを、意識して身につけていた」

 

 


 

■■第4章:「武装親衛隊」の誕生


●SSの発展にともない、「一般親衛隊(Allgemeine-SS)」とは別に、「武装親衛隊(Waffen-SS)」が誕生した。

「武装親衛隊」という名称は、第二次世界大戦勃発後に、戦闘に参加した親衛隊の武装組織の総称として使われるようになったものである。「武装親衛隊」は40個近い師団から成る精鋭部隊で、陸海空3軍と並ぶ「ドイツ第4の軍隊」といわれた。


●この「武装親衛隊」の入隊資格は、後に緩和され、ドイツ人だけでなく民族ドイツ人(1937年の時点でドイツ国籍を持たない、ドイツ以外の国に居住するドイツ人)や、さらにナチス・ドイツを支持する国や占領下からの志願兵、反スターリン派のロシア人などが加わるようになり、1944年には約90万人の規模に膨れ上がっていった。

※ 武装親衛隊の兵員の大半はドイツ人ではなく、ヨーロッパ各地から募集した外国人であった。

(この武装親衛隊の全貌については、長くなるので別のファイルで詳しく紹介したい)。

 


↑ヨーゼフ・ディートリヒSS大将の指揮下に、
ヒトラーの身辺警護に当たるために編成された
「アドルフ・ヒトラー親衛連隊」。1935年、ミュンヘンにて。
(後に武装SSの最精鋭部隊「第1SS装甲師団」へと発展する)

 

    ★一般SS=「Allgemeine-SS」(約20万人)

    ★武装SS=「Waffen-SS」(約90万人)

    ★SSドクロ部隊(約4万人)  …… 収容所管理部隊

    ★国家保安本部(約52万人) …… ゲシュタポ、犯罪警察、SS保安諜報部

 


 

 

─ 完 ─

 


 

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黒い騎士団「SS」とSS長官ヒムラーの野望


ナチス体制の治安の総本山「国家保安本部(RSHA)」


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