No.a1f1806

作成 1997.1

 

「エンテベ空港奇襲作戦」とネタニヤフ兄弟の活躍

 

—1976年6月—

 

●1976年6月27日、テルアビブ発パリ行きの「エールフランス139便」が経由地アテネを飛び立った後、PFLPのゲリラ2人と「バーダー・マインホフ団」の流れを汲む旧西ドイツのゲリラ2人に乗っ取られた。

旅客機はハイジャック犯の指示に従い、北アフリカのリビアを経由して南下し、アフリカ東部の内陸国ウガンダの「エンテベ空港」に強制着陸させられた。

 


アフリカ東部のウガンダの「エンテベ空港」

 

●旅客機には乗員・乗客合わせて260人が乗っていた。これら人質のうち少なくとも83人がイスラエル国民だった。4人のハイジャック犯は空港で待ち構えていたPFLPのゲリラ3人と合流し、イスラエル国籍者とユダヤ人だけを人質として残し、他の乗客全員を釈放した。

ハイジャック犯は世界各地に収監されている50人以上の仲間の釈放を要求したが、イスラエル政府はこの要求に強い難色を示した。

 


(左)ウガンダの国旗 (右)イスラエルの国旗

 

●「親アラブ」で知られているウガンダのアミン大統領は、イスラエルとの友好関係を放棄してPFLPの協力要請を受け入れ、配下のウガンダ兵にハイジャック犯らを警護するよう命じた。

人質は飛行機から降ろされて、ターミナルビルへ移動させられた。

 


ウガンダの独裁者イディ・アミン大統領

彼はアドルフ・ヒトラーを尊敬し、
「アフリカで最も血にまみれた独裁者」と称され、
「食人大統領」とも呼ばれた。身長2mを超す巨漢で、アフリカの
ボクシングヘビー級チャンピオンになったこともある。

 

●事件発生から要求期限ぎりぎりとなった7日目(7月3日)、イスラエル政府は人質救出作戦の決行を決め、エリート特殊部隊をイスラエルから4000キロも離れたウガンダに派兵した。

そして夜間、管制塔の目を盗んで、4機の大型輸送機C-130を「エンテベ空港」に着陸させた。輸送機は100人以上の兵士、武器、野戦病院設備などを満載していた。

 


イスラエル軍の大型輸送機

 

●イスラエル軍は、アミン大統領が使っている黒塗りのメルセデス・リムジンそっくりの車まで用意していた。

※ この車はイスラエルからはるばる空輸された。

 

イスラエル軍によって持ち込まれた
黒いメルセデス。アミン大統領もしくは他の
高官が側近と共に乗り込んでいるように偽装された。
このメルセデスはイスラエルの民間人が所有する車で、
奇襲に使用するため黒のスプレーで塗装された。

※ 所有者は後日元の白色に戻して返却される
 条件を了承して軍に車を貸し出していた。

 

●そして深夜11時を過ぎた頃、この黒いメルセデスは、空港の旧乗客ターミナルに向かって運転された。アミン大統領が視察に訪れたと思ったウガンダ兵は、敬礼を持ってメルセデスを迎えた。

しかし、メルセデスの中から出てきたのはアミン大統領ではなく、消音銃で武装したイスラエル兵だった!

すぐさまガードの2人を射殺したイスラエル兵は、警備にあたっていたウガンダ兵を射殺しながら旧乗客ターミナルに突入し、ゲリラ7人全員を射殺した。


●この奇襲攻撃はわずか3分で終了し、人質は3人を残して全員無傷で解放された。

※ イスラエル軍の攻撃によって少なくとも20人のウガンダ兵が死亡した。イスラエル軍は人質救出後、追撃を避けるための予防措置として、空港にあったウガンダ空軍のミグ戦闘機11機を破壊した。

 


解放された102人の人質たち

人質のうち3人がイスラエル軍による誤射で死亡。
残った人質はナイロビの「ケニヤッタ空港」を
経由して無事イスラエルに運ばれた。

 

●しかし、イスラエル軍側も無傷では済まなかった。

この奇襲攻撃の作戦を指揮していたヨナタン・ネタニヤフ中佐が、管制塔を警備していたウガンダ兵に背中を撃たれて重傷を負い、イスラエルに戻る軍用機の中で死亡したのである。

彼がただ1人の“戦死者”だった。

※ また、この奇襲攻撃が始まる前に1人のユダヤ老婦人が体調不良のため、首都カンパラの病院に収容されていた。しかしイスラエル軍はこのことを事前に知らなかったため、この女性はそのまま病院に取り残されてしまい、後にウガンダ兵によって殺害された(この老婦人の遺体はアミン政権が崩壊した1979年になってようやくイスラエルへ返還された)。

 


ヨナタン・ネタニヤフ中佐

イスラエルの奇襲部隊を指揮し、殉死した

 

●これが有名な「エンテベ空港奇襲作戦」である。

世のカウンター・テロリスト観を一新するほどの衝撃を世界に与え、西側諸国は「対テロ人質救出作戦史上最も輝かしい成果」と称賛した。

この人質救出作戦は「オペレーション・エンテベ」または「オペレーション・サンダーボルト」と呼ばれているが、殉死したヨナタン・ネタニヤフ中佐にちなんで「オペレーション・ヨナタン」とも呼ばれている。


●この“奇跡の救出劇”はすぐに(3度も)映画化された。

 


『エンテベの勝利』(1976年制作)

↑事件後、ハリウッドが速攻で作った映画作品。
ユダヤ人俳優カーク・ダグラスをはじめ有名スター
が大勢出演した。日本では1週間の公開で、アラブ側の
抗議により上映が中止されたいわくつきの作品である。

※「エンテベ空港奇襲作戦」の映画化は「競作」となり、
同年に『特攻サンダーボルト作戦』(アメリカ)、翌年に
『サンダーボルト救出作戦』(イスラエル)が作られた。

 

●ちなみに殉死したヨナタン・ネタニヤフの実弟が、現在のイスラエル首相を務めているベンヤミン・ネタニヤフである。

彼も兄と同じエリート特殊部隊に所属していたのであった。

 


(左)ベンヤミン・ネタニヤフ (右)彼の著書
『テロリズムとはこう戦え』(ミルトス)

最愛の兄が戦死したエンテベ空港の
事件は、彼の対パレスチナ強硬姿勢の
 原点になったといわれている。

 

●ベンヤミン・ネタニヤフは、この事件のあった1976年以来、対テロリズム研究機関「ヨナタン研究所」(=兄ヨナタンの名前を冠する組織)の所長を務め、独自の対テロ戦略を世界の首脳に説いている。

この事件以降、イスラエル航空機はただの一機もハイジャックされていない。


※ この「エンテベ空港奇襲作戦」は当時、大きな国際的波紋を巻き起こし、
「アフリカ統一機構(OAU)」首脳会議や東側諸国はイスラエルの行動について
「国際法を無視しウガンダの主権を侵害するもの」として厳しく非難した。

 

 


←BACK │ NEXT→

6
11

▲このページのTOPへ




  HOMEに戻る資料室に戻る

Copyright (C) THE HEXAGON. All Rights Reserved.