No.a1f1805

作成 1996.12

 

「黒い九月」と「モサド」の報復合戦

 

—1972~1991年—

 

●イスラエル政府は、「黒い九月」の活動にどう反応するかを決める「極秘委員会」を設置した。

極秘委員会はメイア首相とダヤン国防相が共同議長を務めた。

そして、この極秘委員会は、歴史的な決定を下した。「ミュンヘン・オリンピック襲撃事件」の計画・支援・実行もしくは間接的に関与した「黒い九月」のメンバーを“全て”暗殺する決定だった。徹底報復を決意したメイア首相は、この任務をイスラエル対外諜報局「モサド」に命じた。

こうして「神の怒り作戦」と名付けられた復讐が始まったのである。

 


ゴルダ・メイア

 白ロシアのピンスク地区出身で、
イスラエルの第4代首相を務めた

 

●モサドのツヴィ・ザミル長官は、作戦部局の上級機関員のマイク・ハラリらを呼び、暗殺部隊の指揮を命じた。ハラリは、選りすぐった男女機関員でチームを構成し、その欧州コマンド基地をパリに設置した。

さらにイスラエル軍は、レバノンにジェット機、戦車、3000人の歩兵を投入し、パレスチナ・ゲリラ基地に次々と空爆を加え、とりわけベイルート・ダマスカス間をつなぐハイウェイには爆弾を雨あられと投下した。

この大量報復爆撃によって、数百人の無実のパレスチナ人が殺害された。


●欧州に派遣されたモサド工作員マイク・ハラリは偽の肩書を幾つも作り、彼とパリ駐在一等書記官の肩書を隠れミノにしたアブラハム・ゲーメルの2人が、作戦責任者となった。

彼らはまず、ミュンヘン事件に関与したパレスチナ人たちのリストを作成した。それからチームは“お尋ね者リスト”の男たちの足取りを追跡した。男たちのほとんどは、様々なニセの職業を持って欧州に滞在し、地下のテロ活動を続けていたという。

ハラリの暗殺チームは、襲撃準備が整うと、テルアビブのザミル長官と連絡を取った。ザミル長官は極秘委員会に任務遂行の許可を仰いだ。

メイア首相と極秘委員会は、そうした個々の殺害に同意した。

 


第4代モサド長官
ツヴィ・ザミル

 

●最初の殺害は1972年10月。「黒い九月」に所属するローマ在住のパレスチナ知識人、ワエル・ズワイテルだった。

ハラリの男女混成暗殺チームは10ヶ月のうちに、イスラエル市民に対するテロに関与した12人のパレスチナ人を殺害した。彼らはパリやローマで、乗用車やオートバイからサイレンサー付きの銃で狙撃された。

ニコシアやパリでは、電話や無線機で操作するリモコン爆弾で殺された。


●「黒い九月」側も、幹部たちが殺されるのを見て反撃を試みた。

1972年11月13日には、パリ在住のシリア人ジャーナリストのカデル・カノが射殺された。彼はイスラエル秘密機関の情報提供者だった。

翌年1月26日には、イスラエル人の実業家、ハナン・イシャイがマドリッドの目抜き通りで射殺された。後に、彼の実名はバルク・コーエンで、「シン・ベト」の密命を帯びてマドリッドを訪れていたことが明るみにされた。


●欧州でモサドの特別暗殺チームが「黒い九月」のメンバーを次々とターゲットにして暗躍している最中の1973年2月、イスラエル空軍機は堂々と「リビア航空機」を撃墜し、104人もの民間人を殺害した。

世界中がこの事件に驚愕した。


●さらにイスラエル政府は、報復チームをパレスチナ・ゲリラの本拠地レバノンにも派遣した。

ターゲットは「黒い九月」を指揮するアフムド・ユーセフ・ナジャールとケマル・アドワン、そしてPLOの公式スポークスマンのカマル・ナセルだった。

1973年4月10日、計画通り3人はベイルート郊外のアパートで射殺された。

 


モサドのシンボルマーク

 

●レバノンでの“始末”が済むと、今度はターゲットをノルウェーに滞在中の大物「赤い王子」に定めた。

1973年7月初旬、メイア首相と極秘委員会の特命を帯びたハラリの暗殺チームのほぼ全員が、欧州各地からノルウェー北部の小さな町、リレハマー(リレハンメル)に集まった。

「赤い王子」とは、モサド機関がアリ・ハッサン・サラメというパレスチナ人につけた暗号名だった。

※「赤い王子(レッド・プリンス)」=「血まみれの王子」という意味。

 


「赤い王子」と呼ばれていた
アリ・ハッサン・サラメ

30歳を出たばかりのハンサムなパレスチナ人で、
イスラエル政府は彼を「ミュンヘン五輪襲撃事件」を
計画した張本人とみなしていた。彼はアラファト議長の
警護に当たるPLO特別部隊「17」の司令官でもあり、
彼の第二夫人は、元ミス・ユニバースの美女
ジョルジーナ・リザークだった。

 

●このサラメは、PLOの特別暗殺チーム「黒い九月」の西欧地域の作戦指揮官で、「ミュンヘン五輪襲撃事件」も、バルク・コーエンの暗殺も仕組んだ人物とみなされていた。

彼が重要なのは「黒い九月」内だけにとどまらなかった。彼は1948年の第1次中東戦争で戦死したパレスチナ民兵組織の司令官の息子であり、しかもアラファト議長の警護に当たるPLO特別部隊「17」の司令官でもあった。「17」とは、ベイルートのPLO本部の電話の内線番号から付けられた名前だった。


●モサドの暗殺チームは、リレハマーの地で、「赤い王子」を数時間にわたり尾行した後、射殺した。

7月21日の夕刻のことだった。

任務を完遂した工作員たちは、急いでノルウェーを離れた。幾人かの工作員らは、オスロの隠れ家に向かった。


●が、その翌日、イスラエルの機関員らは、自分らがひどいミスを犯したと悟った。

違う男を射殺していたのである!

被害者はノルウェー女性を妻に持つアハマド・ブチキというモロッコ人だった。しかも妊娠中の妻が、射殺の現場を目撃し、他の目撃者が犯行車のナンバーを警察に通報していた。


●さらにまずいことに、この時、イスラエル機関員らは第三者を介在せず、直接にレンタカーを借りていた。

そのため、2人のイスラエル工作員が、レンタカーをオスロ空港で返そうとしたところを、逮捕された。

彼らはダン・エルト、マリアンネ・グラドニコフという名で旅行していたが、2人とも、イスラエル機関のために働いていたと自供した上、モサド機関が使っていたアパートの住所も教えてしまった。警察はそのアパートで、さらに暗殺チームの2人のメンバーを逮捕した。



●ノルウェー捜査当局は、世界で最も優秀と言われるスパイ機関が、これほどの素人仕事をしていたのに驚いた。

モサドの工作員らは、熟した果実が木から落ちるように、次々と警察の手に落ちた。

リーダーのハラリは逃げ切ったが、アブラハム・ゲーマーも他の5人のモサド機関員も逮捕された。

このノルウェー警察の取り調べの結果、「ミュンヘン五輪襲撃事件」以後の数々の暗殺の犯行内容が明るみに出たのである。


●さらに、モサド機関員の1人が所持していたパリのアパートのキーから、フランス諜報機関は、イスラエル機関員らの他の幾つかの隠れ家のキーも見つけ出した。そして様々な国でパレスチナ人が殺された未解決事件に、イスラエルが関与した証拠がゾロゾロ出てきた。

西側諜報機関は、モサドの暗殺チームが欧州で活動していた事実も、またモサドが見張りや補給任務などにパートタイマーを雇っていたことも知った。



●ところで、オスロでの取り調べを受けた際に、最も多弁だったのはダン・エルトだった。

彼はモサドのスタッフではなく、テルアビブの北部に住むデンマーク系のビジネスマンで、彼はしばしばモサドから、各種の要請を受けていた。ノルウェー警察が彼を暗い隔離室に入れると、たちまち彼は全面自供に及んだ。そして、取調官らは、彼がスパイ任務には致命的なハンデとなる「閉所恐怖症者」と知って、驚きを隠せなかったのであった。


●だが、モサドに幸いだったことに、ノルウェー当局はこの厄介な事件を厳しく追及しようとはしなかった。

ノルウェー当局はイスラエルに好意的で、2年から5年半の禁固刑を言い渡したが、実際は全員を22ヶ月以内に出獄させた。

フランスやイタリアの治安機関は、モサドに対し強い仲間意識を示し、他の西欧諸国の諜報機関も、アラブのテロと戦うイスラエルに共感を抱いた。


●しかし、このモサドの不祥事はイスラエルの国会で取り上げられ、「復讐のモラル」についてかんかんがくがくの議論が闘わされた。

これ以降、モサドは大胆なパレスチナ・ゲリラ狩りをすることを慎むようになった。



●ところで、人違いによって命を救われた「赤い王子」ことアリ・ハッサン・サラメは、

5年半後の1979年1月22日、ベイルートに潜入したイスラエル小チームが仕掛けた自動車爆弾によって、走行中に愛車ごと宙に飛散してしまった。

※ この時、タイミングよくリモコン式爆弾のスイッチを押したのは、モサドの伝説的な女性工作員、エリカ・チェンバーズだったと言われている。

 


(左)アリ・ハッサン・サラメ (右)吹き飛ばされた彼の愛車

モサドの工作チームは、超強力な爆弾をあらかじめセット
したワーゲンを道端に停めておき、サラメの車がそばに
近づいた時にリモコンのスイッチを押した。その瞬間、
ワーゲンが爆発し、巨大な火の玉と化した。続いて
サラメの車が火に包まれて吹き飛んだ。猛烈な
轟音を発し、粉々になった破片と肉片が
辺り一面に散らばった。この爆発で
8人が死に16人が負傷した。


サラメの第二夫人
ジョルジーナ・リザーク
(元ミス・ユニバース)

サラメの車が吹き飛ばされた現場から、
わずか数百mしか離れていない自宅にいた
彼女は、ものすごい爆発音を耳にして気を失った。
意識を取り戻した後に病院へ駆けつけると、
医師から夫の死を告げられたという。

 

●サラメの死はPLOが公式に発表し、イスラエル国内のテレビでも報道された。

アラファト議長が遺児で13歳になる美少年ハッサンの肩を抱き寄せ、葬式に参加している写真が広く流布された。

「我々はライオンを失った」 アラファト議長はそう述べたといわれる。

 


ヤセル・アラファト

 

●ところで、CIAはこのイスラエルの作戦(サラメの暗殺)に非常に不快の意を示したという。

なぜならば、「赤い王子」ことサラメは、アメリカに非常に協力的で、PLOとアメリカ諜報機関との秘密の連絡役を務めていたからだという……。



●さて、話を進めよう。

1988年4月に、女性を含む8人のモサド処刑部隊がPLOの最大派閥「ファタハ」のナンバー2の地位にあったアブ・ジハドをチュニジアの首都チュニスで殺した。

この彼の後釜に、PLOの軍事部門責任者のアブ・イヤドが就いた。

彼は「ミュンヘン五輪襲撃事件」の首謀者の1人としてイスラエル政府から徹底的にマークされ続けていた男である。既にこの時点で、彼を除いた犯人たち全てがモサドの処刑部隊に殺されていた。

 


アブ・イヤド

アラファトの右腕で
「黒い九月」の指導者

 

●果たして、1991年1月14日の深夜、チュニス郊外にあるPLO幹部アブデル・ハミドの自宅を彼のボディーガードの1人が突如襲い、機関銃を乱射。

ハミド宅にいたアブ・イヤドら3人は殺された。


●翌日の午前、PLOカイロ事務所は、「犯行の背後にイスラエルのモサドがいる!」との声明を発表したが、実際は、サダム・フセインの意向を汲んだアブ・ニダル(ローマ・ウィーン空港同時テロの張本人)の手下が実行したものと言われている。

※ この事件の背後関係は複雑なようだが、いずれにせよ、アブ・イヤドの死によって「ミュンヘン五輪襲撃事件」に対するイスラエルの「報復」は終了した。


●ちなみに、「黒い九月」の創設者アブ・ダウドは、1981年8月にポーランドのホテルのロビーで狙撃され、重傷を負ったが、大手術をして奇跡的に回復し、現在も生き延びている。

イスラエル政府のある高官は、「アブ・ダウドはミュンヘンの罪で殺されるべきだった。彼が今日も生きているのはイスラエルの失敗であり、防衛機関の恥である」と語っている。

 


「黒い九月」の創設者
アブ・ダウド

 

●なお、ノルウェーのリレハマーでの大失態劇は、今でもイスラエル諜報界にとっては忘れられない悪夢で、多くの人はリレハマーをヘブライ語の語呂合わせで「レイル・ハマー(苦渋の夜)」と呼んでいるという。

 

 


 

■追加情報:『標的は11人 ─ モサド暗殺チームの記録』


●モサド暗殺チームは、上で紹介したマイク・ハラリ率いる暗殺チーム以外にも複数のチームが編成(派遣)されていたといわれている(諸説あり)。

例えば、アフナーという男が率いるモサド暗殺チームが存在したといわれているが、この暗殺チームの活動については、ユダヤ人作家ジョージ・ジョナスが書いた『標的は11人 ─ モサド暗殺チームの記録』(新潮社)というノンフィクション小説の中で詳しく紹介されている。

ただし、この小説に登場する当事者(アフナーら)は全て「仮名」であるので要注意。

 


(左)『標的は11人 ─ モサド暗殺チームの記録』
(右)この本を書いたユダヤ人作家ジョージ・ジョナス

※ この本は「モサド暗殺チーム」の隊長を務めた
男の告白に基づく壮絶な復讐の記録である

 

●この本によれば、アフナー率いるモサド暗殺チーム(5人で構成)はモサドの上官から11人の顔写真の付いた「暗殺リスト」を受け取ったという。

この「暗殺リスト」のトップに挙げられていたのは「赤い王子」ことアリ・ハッサン・サラメで、2番目は「黒い九月」の創設者アブ・ダウドであったという。


●とりあえず、この下の表の中にアフナー率いるモサド暗殺チームの「戦歴」を簡単にまとめておきたいと思う。

 

日付
ターゲット
場所/殺害方法
1972年10月16日
ワエル・ズワイテル
(暗殺リスト4番目の男)
ローマ/アパート内で射殺
1972年12月8日
アフムド・ハムシャリ
(暗殺リスト3番目の男)
パリ/アパート内の電話に仕掛けた爆弾で殺害
1973年1月24日
フセイン・アバド・アッ・シル
(暗殺リスト10番目の男)
キプロスの首都ニコシア/ホテルのベッドに仕掛けた爆弾で殺害
1973年4月6日
アル・クバイシ博士
(暗殺リスト5番目の男)
パリ/路上(交差点)で射殺
1973年4月10日
カマル・ナセル
(暗殺リスト6番目の男)
ケマル・アドワン
(暗殺リスト7番目の男)
アフムド・ユーセフ・ナジャール
(暗殺リスト8番目の男)
レバノンの首都ベイルート/アパート内で射殺(ベイルート特攻作戦)
1973年4月13日
ズアイド・ムシャシ
アテネ/ホテルの部屋に仕掛けた焼夷弾で殺害
1973年6月28日
モハメド・ブーディア
(暗殺リスト9番目の男)
パリ/車のシートに仕掛けた爆弾で殺害
1974年1月12日
3人のアラブ青年
スイス領内の小さな町/教会内で射殺(グラールス事件)
1974年8月20日
ジャネット
(オランダ人の女殺し屋)
オランダの港町ホーン/ハウスボート内で射殺
1974年11月8日
アラブ少年
スペインの港町タリファ/パレスチナ・ゲリラの別荘の庭で射殺

 


●アフナー率いる暗殺チームはモサドの上官から作戦中止命令を受け、1975年に「解散」したという。

結局、アフナーの暗殺チームは「暗殺リスト」のトップに挙げられていた「赤い王子」ことアリ・ハッサン・サラメと、2番目の男アブ・ダウドを殺すことができなかった(11番目の男ワディ・ハダド博士も殺しそびれた)。また、作戦遂行中にアフナーは3人の仲間を失い、「暗殺リスト」に載っていない人間を6人も殺してしまったのである。

※ しかし、アフナーはイスラエルでは「英雄」として迎えられたという……。

 

 



── 当館作成の関連ファイル ──

イスラエルが世界に誇る対外諜報機関「モサド」 

 


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