No.a1f1803

作成 1996.12

 

強化されたイスラエルの対テロ戦略と

日本赤軍の「テルアビブ空港乱射事件」

 

—1972年5月—

 

●1968年に起きたパレスチナ・ゲリラ組織による「ハイジャック事件」は、イスラエル当局に大きな衝撃を与えた。当時のイスラエルの国内治安局「シン・ベト」の長官ハルメリンは、こう述懐している。

「我々は絶望の淵に立たされていた。テロ、とりわけ航空機テロとの戦いでは、成す術がないように感じられた……」


●しかし、イスラエル当局は脅迫に屈服した恥辱の教訓から、速やかに結論を引き出した。以後は断じて、テロリストの要求には応じないと誓ったのである。

同時にイスラエル側は、この種の問題に対処するには、断固たる決意表明だけでは不十分なことも知っていた。言葉だけでなく、新たな方策が必要だった。「対テロリズム戦略」である。

 


イスラエルの国旗

 

●イスラエルの国内治安局「シン・ベト」は、PLOやその過激暴力分子が外国で移動するのを丹念に追尾した。

対外諜報局「モサド」は「シン・ベト」とライバル意識が強く、またそれまでは国外での諜報任務をほぼ独占していたのだが、「シン・ベト」が国外に活動を広げるのを渋々ながら認めた。テロ活動を追い詰めるのが火急の任務だと認めたわけだ。

そして、イスラエル政府は迅速にセキュリティー新体制を導入し、空港では極端な安全対策を施し、機内持ち込み手荷物、預託貨物を厳重に点検することにした。


●さらに貨物室そのものを強化し、仮に爆弾が紛れ込んでも貨物室内で爆発させてしまう工夫をした。

1972年8月、「エルアル707便」が乗客140人、乗員8人でローマを離陸した直後に貨物室内で爆発が起こったときに、これが功を奏した。

(ちなみに、現在の「エルアル航空」の航空機の翼下には地対空ミサイルをそらす装備までがついていて、離陸直後あるいは離陸寸前に撃ち落とされる危険を未然に防止している)。


●また、全てのフライトに「空の保安官たち」を搭乗させた。

彼らは私服で一般乗客になりすまし、客席に座っていた。彼らは軍のエリート部隊に所属したことのある青年たちで、拳銃の早撃ち訓練も受けていた。表向きには航空会社の職員だが、「シン・ベト」が彼らを訓練し、作戦を授けた。


●このように、テロ対策に何億ドルもの資金を投じた結果、イスラエル国営「エルアル航空」は世界で最も安全なエアラインになった。

世界がその事実を知ったのは、1969年2月のチューリッヒで、「エルアル航空機」が武装したPFLPゲリラ4人にテロ攻撃を受けた際、「空の保安官」の1人が反撃し、ゲリラを滑走路で射殺してからである。

 


イスラエル政府が、テロ対策に何億ドルもの資金を投じた結果、
イスラエル国営「エルアル航空」は世界で最も安全なエアラインになった

 

●さて、1972年5月8日、パレスチナ人がベルギーの国営旅客機をハイジャックしたのを契機に、テロの戦いは新たな展開を迎えた。

パレスチナ・ゲリラは、ブリュッセル発イスラエル行きの「サベナ航空機」を乗っ取り、針路は変えずにイスラエルの「テルアビブ・ロッド空港」に着陸させた。

そして、10人の乗務員と90人(うち67人がユダヤ人)の乗客とを人質にし、イスラエル政府に対し服役中のゲリラ317人を釈放するよう要求したのである。

 


イスラエルの表玄関であるテルアビブの
「ロッド空港」(現在のベン・グリオン国際空港)

1972年5月8日に「サベナ機ハイジャック事件」が発生。
パレスチナ・ゲリラは、「サベナ航空機」を乗っ取り、
約100人の乗客と乗務員を人質にした。

 

●イスラエル軍の諜報機関「アマン」の長官アハロン・ヤーリヴ将軍は、巧みに男性2人と女性2人の犯人グループとの交渉に当たり、その間にイスラエル軍は“本物”の対応をした。

閣議決定に従い、5月9日午後4時22分、人質救出の特別訓練を受けたイスラエル特殊部隊「サエレト」が機内に突入したのである。

航空補修作業員の白い制服を着たコマンド部隊らは、あらゆる侵入口から機内に侵入し、寸分違わない熟練ぶりで男性ゲリラ2人を射殺。女性ゲリラ2人を負傷させ、93人の人質を解放した。

機内の撃ち合いでイスラエル人乗客1人が死亡した。

 


「ロッド空港」に駐機するハイジャックされた
「サベナ航空機」(1972年5月9日)

整備員の格好をしたイスラエル特殊部隊「サエレト」が、
機内に突入し、4人のパレスチナ・ゲリラを制圧。
後部ドアから乗客が避難している。

 

●この速やかな解決で、イスラエルが「対テロ戦闘」の新手法を生んだことを知ると、他の国々も急いで見習おうとした。

旧西ドイツ、イギリスをはじめ各国が、治安機関員や軍コマンド隊員らをイスラエルに派遣し、イスラエル軍のエキスパートたちはこれら友好諸国の人々にノウハウを伝授したのである。

その後、多くの国が、イスラエル特殊部隊「サエレト」をモデルにした自前の「特殊部隊」を創設した。(イギリスは他国に先駆けて既に特殊部隊「SAS」を持っていたが、この事件を機に対テロ能力を向上させた)。



●しかし、この「サベナ機ハイジャック事件」の興奮が冷めやらぬ5月30日、

日本の新左翼系ゲリラ武装テロ組織である「日本赤軍」のメンバー3人が、同じ「ロッド空港」で26人の旅客を殺害するという事件が発生したのである!

被害者のほとんどは、空港に到着したばかりのプエルトリコのキリスト教巡礼者だった。

一時の混乱から立ち直った警備陣が応戦し、武装ゲリラ2人(奥平剛士・安田安之)は爆死し、残りの1人、岡本公三(当時25歳)は逮捕された。


●岡本公三は裁判の際、「自分たちはパレスチナ人との連帯を証明するため、PFLPのためにテロを実行した」と自白した。

この「日本赤軍」の殺戮行為は、3週間前(5月9日)の「サベナ機ハイジャック事件」が失敗したことの報復であり、彼らは「サベナ機ハイジャック事件」のあった滑走路からわずか数百メートルの空港ターミナルを修羅場と化したのである。


●岡本公三は終身刑の判決を受けたが、1985年5月20日にイスラエルとPFLPの捕虜交換で釈放された。

※ アラブとイスラエル間の抗争にも関わらず、実行犯が日本人であったことは世界に衝撃を与えた。

この事件後、パレスチナの民衆の間で岡本公三は英雄視された。

 


(左)血の海と化した「ロッド空港」の到着ロビー(1972年5月30日)
(右)イスラエル軍事裁判で、終身刑の判決を下された岡本公三

この軍事裁判で岡本公三は次のように述べている。

「我々がこの事件を起こしたのは、赤軍の『革命への戦い』に
おける『軍事的な任務』である。我々3人の戦士は、死んで、
オリオン座の3つの星になる。子供の頃、死ぬと星になると
教えられ…空港で命を落とした人たちも、星となっている
はずだ。革命は続き、空の星は数を増すだろう…」

 

●この「日本赤軍」の事件から5週間後の1972年7月、今度はイスラエル側が報復に及んだ。

レバノンの首都ベイルートに滞在していたパレスチナの小説家ガッサーン・カナファーニーの車に爆弾を仕掛け、爆発により彼と姪の2人を暗殺したのである。(彼はPFLP機関紙の編集に携わり、スポークスマンを務めていた)。

そしてその2週間後に、今度は爆発物が仕掛けたられた郵便がPFLP幹部であるバッサム・アブ・シェリフの手の中で炸裂した。彼は片目と数本の指を失った。

 


(左)イスラエル側の報復で暗殺された
パレスチナの小説家ガッサーン・カナファーニー
(右)彼の代表作『太陽の男たち・ハイファに戻って』

 

●これに激怒したパレスチナ・ゲリラ過激派は、特別暗殺チーム「黒い九月」をドイツのミュンヘンに派遣。

「日本赤軍」による悲惨な「テルアビブ・ロッド空港乱射事件」から約3ヶ月後の1972年9月5日、世界は新たな「惨殺劇」を目にすることになる……。

 

 


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