No.a1f1807

作成 1997.1

 

血で血を洗うイスラエルの「レバノン侵攻」と

「パレスチナ難民大量虐殺事件」

 

—1982年6月—

 

●1971年7月に、全てのパレスチナ・ゲリラ組織が最終的にヨルダンから追い出されて以来(「ブラック・セプテンバー事件」)、PLOはその本部をレバノンのベイルートに移した。

そしてレバノン南部を活動基地としてイスラエルに対するゲリラ攻撃を展開し続けた。

 


レバノンはイスラエルの北に位置する国である(右は中東全体の地図)

 

●一番困ったのはレバノン政府である。

突然のパレスチナ人の大量流入とイスラエルの執拗な報復攻撃は、レバノン内部で築かれていた微妙な勢力バランスをぶち壊した。イスラエル政府はレバノン政府に対して、PLOのテロ活動をどうにか止めさせるよう圧力をかけるが、弱小なレバノン政府には到底無理なことだった。レバノン政府は1万5000人の軍隊しか持っていなかったため、ヨルダン国王のような強い態度をPLOに示すことはできなかったのである。

 


レバノンの国旗

 

●そこで、レバノン政府はPLOとある合意に達した。

PLOに南部レバノンの「アルクブ地区」を訓連基地として与えるが、PLOはそこからイスラエルへの攻撃を仕掛けることはしない、というものだった。

この「アルクブ地区」は俗に「ファタ・ランド」と呼ばれる。PLOにとっては唯一の聖域である。この合意は、1972年6月に文書によってなされたが、それはあくまで表面的なものであった。そのような約束は決して守られないことはレバノン政府もPLO側も十分に知っていたからだ。ただこの合意を取り交わし、PLOに「ファタ・ランド」を活動舞台として与えることにより、少なくともイスラエルの報復は「ファタ・ランド」だけに絞られるとレバノン政府は考えた。

しかし、この考えが甘かったことはその後の歴史が証明している。今日レバノン政府は完全な混乱状態に陥り、主権が誰の手にあるのかさえ分からぬような様相を呈している。ある意味でレバノンは不安定な中東情勢を最も端的に象徴していると言えるかもしれない。そこにはイスラエル対PLO、イスラエル対アラブ諸国、アラブ諸国のかけひき、PLO対アラブ、国連軍の駐留、アメリカの利益などありとあらゆる要素が含まれているからだ。



●「レバノン戦争」は1982年6月6日、約8万ものイスラエル機甲部隊がレバノン国境を越え、レバノン南部に侵攻したときを始まりとする。

が、イスラエルのレバノンに対する軍事介入はそれ以前から既に何度も行われていた。

イスラエルの最初のレバノンへの大規模介入は、1978年3月の「リタニ作戦」である。この作戦の直接の引き金となったのは、3日前に起きたパレスチナ・ゲリラによるイスラエルのバス襲撃事件であった。パレスチナ・ゲリラ11人がテルアビブ北方に地中海より上陸し、ハイウェイで観光バスを乗っ取り、そのままテルアビブ市街地に向かい、これを阻止しようとしたイスラエル軍と銃撃戦になり、イスラエル側41人が死亡、82人が負傷した。

 


イスラエルの最初のレバノンへの大規模介入は、
1978年3月の「リタニ作戦」である

 

●この事件への報復措置として、イスラエル軍はレバノン南部へ侵攻を開始。

イスラエル軍の作戦は、南部にあるパレスチナ・ゲリラ拠点を一掃し、PLO勢力に打撃を与えるとともに、イスラエルとの国境地域に“安全ベルト地帯”を設け、イスラエル北部の安全を確保することを狙いとしていた。

すなわち、レバノン側の国境地帯を、イスラエルが積極的に援助するキリスト教徒右派軍「南レバノン軍(SLA)」の支配に勝手に委ねたのである。このイスラエルの代理軍となった右派軍は、支配下の国境地域を「自由レバノン(ハダト・ランド)」と名付けて、ベイルートの中央政府支配からの分離・独立を宣言していた。

このイスラエルの「リタニ作戦」の結果、レバノンは5つの地域に事実上分割された。キリスト教地区、イスラム教地区、シリア軍占領地、国連軍管理地区そして「ハダト・ランド」である。


●1982年6月3日、ロンドンで駐英イスラエル大使がパレスチナ・ゲリラに狙撃され重傷を負う事件が発生すると、イスラエルはこの事件を口実に、ベイルートおよび南レバノンのPLO拠点に報復攻撃を加えた。

イスラエル・レバノン国境ではPLOとイスラエルとの間に砲撃が繰り返されたが、6月6日、ついにイスラエルはレバノン南部に大規模な軍隊を進めた。「レバノン戦争」の幕開けである。

イスラエル政府はこの作戦を「ガリラヤ平和作戦」と名付け、その目的はイスラエル北部のガリラヤ地方の住民の安全保障のため、国境付近のPLO勢力を一掃し、レバノンとの平和条約を結ぶことであるとした。

 


1982年6月6日に「レバノン戦争」が勃発した

 

●イスラエル軍は圧倒的な強さを示し続けた。

イスラエル軍は6月8日までにPLOの拠点を含む南レバノン地域をほぼ制圧し、当初の作戦目的を完了したはずであった。しかし、シャロン国防相は同日、当初の限定的作戦を変更して目標をベイルートにまで拡大し、ダマスカス街道沿いに降下部隊を投入するとともに地上部隊を北上させた。

その結果、戦争目的は大きく変更されることになった。

こうしてイスラエル軍はシリア軍とも戦闘状態に入り、ベカー高原付近で地上戦、空中戦を展開した。6月11日、イスラエルとシリアは停戦したが、イスラエルは孤立無援となったPLOをどこまでも追いかけていった。

 


レバノン侵攻を実施した
イスラエルのシャロン国防相

 

●国連安全保障理事会は、8月9日、イスラエルを非難する決議を採択したが、8月6日にソ連が提出した対イスラエル制裁決議案はアメリカの反対によって否決された。

イスラエルの要求にもとづいてPLOとレバノン政府の政治交渉が続けられ、8月18日、レバノン政府とイスラエル政府はハビブ米特使のPLO勢力のベイルート退去問題に関する最終調停案を承認し、レバノン戦争は一応の終結を見るに至った。

しかし、レバノン市民の大量虐殺は、イスラエル軍のベイルート侵攻の正当性を国際的のみならず、イスラエル国内的にも疑問視させることになった。

9月9日、アラブ首脳会議はイスラエル寄りのアメリカの和平案に対抗して「フェズ憲章」を採択。そこにはパレスチナ独立国家の樹立が謳われていた。しかし、これはイスラエル側が認めるものとはならなかった。

不快感をあらわにしたイスラエル政府は、ベイルートに侵攻することで意思表示した。


●この時に、かの悪名高い「パレスチナ難民大量虐殺事件」が発生した。

イスラエル軍はかねて、レバノン政府軍がパレスチナ・キャンプに入ってゲリラを追い出し、貯蔵された武器を回収することを望んでいた。レバノン政府軍はこの作業に着手したが、時期首相と目されていた親イスラエルのバシール・ジェマイエル氏が暗殺されたため、この作戦は取りやめになった。

そこでイスラエル軍は左派勢力の「刀狩り」と、PLOの残存ゲリラの徹底捜索に自ら着手。イスラエル軍は難民キャンプを掃討するに当たって、キリスト教徒民兵の「ファランジスト」を利用。

その結果、1982年9月16日から18日にかけて、犠牲者1000名とも3000名ともいわれるパレスチナ難民の大量虐殺事件が発生したのである。

この虐殺事件によって、イスラエル国内の厭戦気分は決定的なものとなった。

9月25日にはテルアビブで大規模な反政府デモが行われた。

 

1982年9月16日から18日にかけて、ベイルートの
サブラ・シャティーラ両難民キャンプで大虐殺が起きた

 

●レバノン戦争で敗退したPLOは、本部をベイルートからチュニジアの首都チュニスに移動したが、それでもイスラエル国内におけるパレスチナ人のテロ活動は無くならなかった。

さらにレバノンでは反イスラエル感情が高まり、追い出したはずのPLO民兵も徐々に舞い戻ってきて、イスラエル軍に対するレジスタンス活動は活発になっていった。その中心となったのは親シリアのシーア派民兵組織「アマル」であった。

駐留イスラエル軍兵士に対するテロ攻撃も過激化していき、イスラエル軍に対するテロは占領の終了までに800回近く行われ、その死者は400人を超えた。

レバノン侵攻は泥沼化していき、イスラエル国内ではアメリカのベトナム戦争との対比で語られるようになった。イスラエル国民の10分の1が反戦デモに参加した。


●結局、イスラエル政府は1985年1月に一方的撤退を決定、イスラエル北部地方へのゲリラ攻撃に対しては随時報復するという、レバノン戦争以前の同国の政策に復帰せざるをえなかった。


●しかし、レバノン南部では現在もイスラエル軍とシリアの庇護を受けたイスラム過激派「ヒズボラ」が武力衝突を繰り返しており、民間人を含めた数百人の犠牲者を出し続けている。

最近もイスラエルの「怒りの葡萄作戦」(1996年4月)によって、レバノン民間人が150人以上殺害され、350人以上が負傷し、ヒズボラの「カチューシャ・ロケット」攻撃によってイスラエル民間人が60人以上負傷している。

レバノン南部(ゴラン高原含む)の安全保障問題(対シリア和平交渉)が解決される日は、まだまだ遠いようである。

 

 


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