No.a1f1809

作成 1996.12

 

極右ユダヤ人医師が起こした「ヘブロン虐殺事件」

 

—1994年2月—

 

●1993年9月、ワシントンで「パレスチナ暫定自治協定」が調印されるとともに、PLOのアラファト議長とイスラエルのラビン首相が握手し、世界中が「歴史的な和解」として歓迎した。

 


左から、イスラエルのラビン首相、アメリカのクリントン大統領、
PLOのアラファト議長(1993年9月/ワシントン)

イスラエルとPLOの間で「パレスチナ暫定自治協定(オスロ合意)」が
調印され、PLOはイスラエルが国家として平和と安全の内に存在
する権利を認め、イスラエルはPLOをパレスチナ人の代表として
認めた。ラビン首相とアラファト議長は固く握手をかわし、
世界中が「歴史的な和解」として歓迎した。

 

●しかし、ユダヤ人側にもパレスチナ人側にもこの和解を歓迎しない勢力がいた。

「妥協はするな! アラブ人に死を! アメリカの援助はいらない! ラビンは裏切り者!」

1993年秋、連日のようにエルサレムで和平反対のデモが起きた。ほとんどは占領地に住むユダヤ人入植者で、「キパ」と呼ぶ小さな被り物を頭に着け、女性は長いスカートをはいていた。若者が多く、時には銃を持つ大人が参加していた。アラファトと握手したラビンが手を洗っているポスターもあった。アラファトと握手したため、手が血まみれになったというのだ。アラファトはテロリストで、手は血だらけだというのである。トーチをかざし、パレスチナの旗を燃やし、規制する警官には「イスラエルは警察国家!」と叫び、国境警備兵が出て、首相官邸のそばで逮捕者も大勢出た。しかし、逮捕者はすぐ釈放された。


●それから数ヶ月後の1994年2月25日早朝、イスラエルが不法に占拠している都市ヘブロンで大事件が起きた。

ユダヤ教とイスラム教の聖地である「マクペラの洞窟」で、礼拝中のイスラム教徒800人に向かって、バルフ・ゴールドシュタインというユダヤ人がマシンガンを乱射したのである。

 


1994年2月25日早朝、モスクで礼拝中のパレスチナ人が虐殺された

 

●死者はその後のイスラエル兵の射撃によるものを合わせて60人を超え、負傷者は200人近くに達した。

モスク(イスラム教の礼拝堂)を血の海にした虐殺は、1分間に750発の銃弾を発射する自動小銃のほかに、手榴弾も使われたとされており、最後にはパレスチナ人が犯人のゴールドシュタインを取り押さえて、その場で殴り殺した。

この虐殺に怒るパレスチナ人が、エルサレムやガザ地区など各地で抗議行動に出たところ、イスラエル兵が銃で制圧し、その日だけで、さらに25人以上のパレスチナ人が全土で殺された。

 


事件を起こしたユダヤ人医師
バルフ・ゴールドシュタイン

 

●モスクの虐殺犯人バルフ・ゴールドシュタインは、1983年にアメリカからイスラエルに移住してきた42歳の医師で、ヘブロン近郊のユダヤ人入植地キリヤト・アルバに住み、イスラエル軍では陸軍少佐の肩書を持ち、パレスチナ人を追放する極右シオニスト・ユダヤ教過激派の「カハネ・ハイ」という組織の幹部を務めていた。

 


極右シオニスト組織の
シンボルマーク

 

●また彼は、医師でありながらパレスチナ人の治療を拒否し、現地のユダヤ人入植者たちは、かねてからパレスチナ人の病院などを武力で接収して、モスクのじゅうたんを燃やしたり、パレスチナ人の商店をたびたび襲撃して、暴力を欲しいままに行使していた。

これに対してイスラエル軍は、「入植者がたとえパレスチナ人を銃で撃っているところを目撃しても、発砲してはならない」という公式の命令を出して、全てを放任してきた。


●イスラエル紙『ハアレツ』によれば、「イスラエル軍によるパレスチナ人の虐殺は、高度の承認を得ていた」という。また、イスラエルの人権グループの調査によれば、過去数年のユダヤ人によるパレスチナ人殺害事件62件のうち、殺人罪を問われたユダヤ人はわずか1人だった。

さらに重大なことは、この虐殺に怒るパレスチナ人が、イスラエル当局による外出禁止令の中で次々と兵士に逮捕され、射殺されてきたことである。パレスチナ人の過激派を取り締まると称して、妊婦までが殺されている。

そして、虐殺の町ヘブロンに、ついにイスラエル軍の手で高さ2メートルを超える壁が構築され、パレスチナ人の住居がゲットー化したのである。その“ベルリンの壁”にたとえられる壁には、「ゴールドシュタインは永遠の人」という言葉がヘブライ語で書かれていた。


●この事件を契機にして、パレスチナ人による初めての「自爆攻撃」が行われたのであるが、これら無数の事実経過が日本では報道されず、この状況に絶望して追い詰められたパレスチナ人の自爆事件だけが「テロ」として報道された。



●ところで、ゴールドシュタインが幹部を務めていた極右シオニスト組織「カハネ・ハイ」の指導者はラビ・メイア・カハネの息子であった。

ラビ・メイア・カハネはニューヨークからの移民で、在米当時FBIでユダヤ人青年たちの動向を調べるのが仕事だった。1968年に「ユダヤ人防衛連盟(JDL)」を設立し、反黒人キャンペーンを開始。ブラックパンサー本部を襲撃したり、在米アラブ人差別反対同盟の会長を暗殺したりした。

※ この「JDL」にはアメリカのユダヤ人支援者から年間50万ドルが寄付され、その大口寄付者には日本にも進出している有名なアイスクリーム会社も名を連ねていた。

 


(左)ラビ・メイア・カハネ(1932~1990年)
(右)彼が結成した極右政党「カハ党」の党旗

カハネはニューヨーク生まれのユダヤ人で、
1984年にイスラエル国会議員に選出された。
自分のことを現代の「預言者」だと公然と口にし、
人々から「ユダヤのヒトラー」と恐れられた。

※ 彼は公然と次のように主張した↓

「イスラエルにアラブ人が住むことは、神に
対するあからさまな冒涜である。アラブ人の駆逐は
政治的活動を超えたものである。それは宗教的行為で
ある。我々ユダヤ人は特別な民族であり、我々は
その清浄さと神聖さとの故に選ばれたのだ」

※ 詳しくはこちらを参照して下さい。

 

●ラビ・メイア・カハネの主張は「大イスラエルの復活」で、占領地のパレスチナ人は武力で排除するというものだった。彼はイスラエルに移住して国会議員になり、勢力を伸ばしたが、1990年に暗殺された。

このカハネの教えを忠実に守ろうとする入植者の一人が、ゴールドシュタインだったのである。

彼が引き起こした「ヘブロン虐殺事件」で、和平交渉は中断された。

 


↑「大イスラエル」の完成予想図

シオニスト強硬派は、ナイル川からユーフラテス川
までの領域を「神に約束された自分たちの土地だ」と主張し
続けている(これは「大イスラエル主義」と呼ばれている)。
いずれ、イラクやシリア、ヨルダンなどのアラブ諸国は
シオニズム信奉者たち(アメリカ軍含む)によって
 破壊(解体)される可能性が高い…。

 

●「ヘブロン虐殺事件」は、イスラエル社会に大きなショックを与えた。

しかし同じく衝撃的だったのは、エルサレムの高校でこの虐殺事件について調査したジャーナリストの報告だった。半数以上の生徒が、この虐殺を「支持」したのである。さらに、教育省が全国の教師を集めて会議を開き、そこで副大臣のゴールドマンが虐殺を批判する演説を行うと、大勢の教師たちから石を投げ付けられ、彼は逃げ出したという。


●また、別の高校では、20人の生徒がゴールドシュタインのために黙祷した。そして、テレビで「虐殺を支持する」と発言。イスラエルではこれも大きなスキャンダルになった。

中には次のような衝撃的なことをしゃべる子供もいた。

「あいつら(パレスチナ人たち)が僕らを殺すかわりに、僕らがあいつらを殺すんだ。 僕が大きくなったら、自動小銃を持って、ゴールドシュタイン先生と同じことがしたい。僕が大きくなったらアラファトとラビンを殺してやる」

 

 

●「ヘブロン虐殺事件」から2ヶ月後の1994年4月、ヘブロンに隣接するユダヤ人入植地キリヤト・アルバで「和平反対」の1万人集会が催された。

司会者は次のように演説した。

「我々の父祖アブラハムがマクペラの洞窟を買い取って以来、何千年にもわたって続いてきたこのユダヤ人定住地に、存続の危機が訪れています。ユダヤ人の皆さん、武器を持ちましょう。アラブ人から身を守るために」

そして、出席したラファエル・エイタン議員は次のように言った。

「ここでは国全体、国民全体が開拓者なのです。シオニズムに終止符を打たれないためにも、ヘブロンを守る闘争は至る所で続けられるでしょう」

 

 


←BACK │ NEXT→

9
11

▲このページのTOPへ




  HOMEに戻る資料室に戻る

Copyright (C) THE HEXAGON. All Rights Reserved.