ヘブライの館2|総合案内所|休憩室 |
No.a3fha200
作成 1997.2
第1章 |
預言された男として歓迎 |
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第2章 |
ユダヤ人居留地に指定された
アレキサンドリアの繁栄 |
第3章 |
「マカベア戦争」の勃発と
ユダヤ独立王朝の成立 |
第4章 |
ユダヤの王として君臨した
エドム人ヘロデ |
第5章 |
イエスと名乗る
謎のユダヤ青年の登場 |
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■■第1章:アレキサンダー大王を預言された男として歓迎
●BC336年、若年をもって父王フィリップ2世のあとを襲い、マケドニア王となったアレキサンダーは、たちまちギリシア全土を鎮圧し、BC334年には歩兵3万、騎兵5000を率いて東征の途についたが、いたるところで連勝を重ねた。
アレキサンダー大王
(BC356~BC323)
●アレキサンダーは、地中海の制海権を握るために南下してシリアを奪い、さらにシドン、ツロ、ガザをくだして、BC332年、ついにエルサレムに至った。
当時のエルサレムには、イスラエル10支族と離別して、亡国に悲しんでいたイスラエル2支族(ユダ族が中心だったので、のちにユダヤ人と呼ばれる)が多数いた。同地のユダヤ人たちは、ラビ(ユダヤ教指導者)も民衆も皆、アレキサンダーを「大王」と称して歓迎し、恭順の礼を尽くした。これは彼らの聖なる文書『ダニエル書』の中に、その出現が預言されていたからだという。
●アレキサンダー大王は、さらに歩を進めてエジプトに入り、メンフィスを攻め、新都市「アレキサンドリア」を建設した。翌、BC331年に踵を返してサマリア、シリアに攻め入り、ペルシア軍を蹴散らして、ついにバビロンを陥落させ、スサに侵入。ダリウス3世は遁走して、ここにアケメネス朝ペルシア帝国は滅亡した。
アレキサンダー大王は、アッシリア帝国、アケメネス朝ペルシア帝国に続き、それを上回る大帝国を樹立したのである。
●しかし、東方世界を征服し終えたアレキサンダー大王は、軍をインダス川を越えてインドにまで征服の歩を進めたが、BC323年に夭折。32歳という若さであった。
アレキサンダー大王が獲得した広大な領地は4分割され、エジプトはプトレマイオス家、シリアはセレウコス家が領有するところとなった。パレスチナ地方はその中間にあったため、両勢力の干渉にさらされることになる……。
■■第2章:ユダヤ人居留地に指定されたアレキサンドリアの繁栄
●アレキサンダー大王の死後、エジプトのプトレマイオス家とシリアのセレウコス家がパレスチナ地方の支配をめぐって対立。そして抗争するに及んで、ユダヤ人はパレスチナを捨てて続々エジプトに移住を開始。その多くがアレキサンドリアに集中した。そのため、アレキサンドリアは「ユダヤ人居留地」に指定されるに至った(BC320年頃)。もちろん、パレスチナに居残り続けたユダヤ人も多くいた。
●アレキサンドリアとアンティオキアとは、いずれもヘレニズム文化の中心都市であり、プレトマイオス家もセレウコス家も、進んでユダヤ人に市民権を与え、ことプレトマイオス家は宮廷や軍隊でもユダヤ人に高い地位を与えたので、ユダヤ人は商業・交易の分野を中心として大きな影響力を持つようになった。
商業・交易分野でのユダヤ人の地位は、はじめはアレキサンダー大王、ついでプトレマイオス家に重用されて、いわば「国立銀行総裁」や「輸出入公団総裁」のようなものにまで至る。そして「ユダヤ人商工ギルド連合会事務所」ともいうべき「ディプロストーン」が設けられた。
「ディプロストーン」には付属工場と倉庫群があり、その威容は全東方を圧するほどで、「ディプロストーンを見ずに壮大なものを見たというな」の言葉さえ生まれたという。
●ピーク時のアレキサンドリアは、市民の半分近くがユダヤ人だったと言われている。アレキサンドリアのユダヤ人たちはギリシア語を身につけ、ギリシア風の名をつけ、ギリシア文学に親しみ、ギリシア哲学を学び、在留長きに及んだ者はヘブライ語の使用に困難を覚えたという。
そのため、この時代に『旧約聖書』のギリシア語への翻訳が行われた。これはアレキサンドリアの図書館で70人の学者によって70日間で翻訳されたという伝説から「70人訳」と呼ばれている(BC250年頃)。なんでも翻訳が完成したのは全員が同じ時刻であり、しかも、その内容はこれまた全員が全く同じだったといわれている。
■■第3章:「マカベア戦争」の勃発とユダヤ独立王朝ハスモン朝の成立
●パレスチナ地方は、エジプトのプトレマイオス家とシリアのセレウコス家の対立状態の間で微妙な均衡を保っていたが、BC198年に、シリアのアンティオコス3世が、パネアスの戦いにおいてプトレマイオス5世を破ると、この以降、パレスチナはシリアの「セレウコス王朝」の支配下になった。
このアンティオコス3世の政策は親ユダヤ的なものであったが、次のアンティオコス4世・エピファネスが王位につくと事情は急変した。
●BC168年、アンティオコス4世・エピファネスは、エジプト遠征の失敗の後、その戦費をまかなうために、エルサレムのソロモン神殿の財宝を略奪した。また、エルサレムの丘にシリア軍の守備兵を置く城塞を建設させ、そこに親ヘレニズム派の人々を住まわせた。そして翌年、彼はユダヤに対する徹底的な宗教弾圧を開始したのである。
彼はユダヤの経典を火で焼かせ、安息日や割礼などのユダヤの律法に従う生活を禁じ、ソロモン神殿にギリシアの神ゼウスの像を置いて、この礼拝を強制し、ユダヤの神ヤハウェの礼拝を禁じた。さらに国内の至る所にゼウスの祭壇を建て、人々にゼウスの礼拝に参加するよう強制したのである。これは、それまでのイスラエルの歴史における最大の宗教的迫害であった。
●ユダヤの側もこのまま黙っているわけにはいかなかった。反シリア、反ギリシア化運動、ユダヤ独立、ユダヤ教擁護の気運は盛り上がっていった。
一連の迫害に対する反乱は、モディンという小さな村から始まった。そこに住む祭司でハスモン家に属するマタテアという人物が、ゼウスに犠牲を捧げようとしたユダヤ人とそれを監視していたシリア側の役人を殺したのである(BC167年)。マタテアは5人の息子と支持者を引き連れて、ユダの荒野に逃れて、徹底抗戦を開始。このハスモン家による反乱は、瞬く間にパレスチナ全土に広まった。
BC166年にマタテアが死ぬと、反乱軍の指揮権はマタテアの三男のユダ・マカベアが引き継いだ。彼は巧みな戦術によって、次々とゲリラ戦に勝利していった。ユダ・マカベアの活躍により、この反乱は「マカベア戦争」(BC167~162年)と呼ばれるようになる。
ユダ・マカベアは、シリア本国から送られて来る軍隊に次々と勝利し、ついにエルサレムをもシリア軍から解放した。そして、彼はイドマヤやギレアデやガリラヤなどに遠征し、周辺の異邦人の支配下に置かれていたユダヤ人を解放した。
●ユダ・マカベアの死後は弟のヨナタンが指導者となった。当時シリア内部では権力争いが起き、政治的混乱状態になっていましたが、ヨナタンはこのシリアの内乱をうまく利用して、当時のシリア王から「大祭司」の地位を与えられた。しかしこのことは、熱心なユダヤ教徒からは反発を受けた。それまで大祭司の地位は、伝統的にザドク家の者に限られており、ヨナタンはそうではなかったからである。
ヨナタンの属するハスモン家が政治的権力を求めるようになっていくと、それまで一緒に闘ってきたユダヤ人同志たちは失望し、次々とハスモン家から離れていくようになった。
ヨナタンの死後は、その兄でマタテアの次男であったシモンが大祭司の職を引き継いだ(BC143年)。彼は手際よく勢力拡大を推し進め、ユダヤを事実上の独立王朝(政治的独立)として再生させた。これは「ハスモン朝」と呼ばれる。
■■第4章:ユダヤの王として君臨したエドム人ヘロデ
●ユダヤの独立王朝として成立した「ハスモン朝」は、一時はかつてのダビデの時代を思わせるほどの勢いをみせた。しかしハイモン家内部の権力争い、およびユダヤ教の各派閥間の争いによって衰弱し、やがて地中海を支配しつつあったローマの内政干渉を招くことになった。
BC65年にローマの将軍ポンペイウスがシリアに進撃し、最後のシリア王アンティオコス13世を退位させると、シリアはローマの支配下になった。さらにその2年後に、ポンペイウス将軍はエルサレムも占領し、のちにハスモン家のアンティゴノスが処刑されると、約100年続いたユダヤの独立王朝は終わりを告げたのである。
●ポンペイウス将軍は、パレスチナ・シリア地方をローマの「シリア州」にし、そこにローマの総督を置いて統治した。エルサレムのユダヤ教団も当然このローマ総督の支配のもとに置かれることになった。そして、その時々の総督によって、エルサレムの大祭司にある程度の政治的権限が認められたのである。
大祭司は、自分たちの権限を維持するために、その時々のローマの支配者やシリアの総督の好意を得ようと努めた。そのために、ある時はユダヤの民衆から重い税を取り立てて、民衆の強い反発を買い、暗殺された大祭司もいる。
そのような状況の中で、ローマとの関係をうまく打ち立て、権力の座にのし上がったのがヘロデという男である。
●ヘロデはユダヤ人ではなくエドム人だったが、ハスモン家の女性と結婚することによって、かつてのユダヤ王家と姻戚関係を結んだ。さらにローマ皇帝の好意を得ることに成功し、BC37年にアントニウスとオクタヴィアヌスの推挙によって、ローマ元老院から「ユダヤの王」に任命された。彼はローマ皇帝からの更なる好意によって、サマリアや東ヨルダンの土地を分け与えてもらい、自分の勢力範囲を広げた。「ヘロデ朝」のスタートである(BC37年)。
彼はローマ皇帝を崇拝し、その栄誉を称えるため、各地にローマの神々の神殿を建て、エルサレムの町を大改造するための建築事業も積極的に進めた。しかしそれらの事業はユダヤの民の犠牲の上で成り立っていたので、民衆の反感を買った。ヘロデはユダヤ人でなかったこともあり、民衆の多くは彼をローマ帝国の手先とみなしていたのである。
●ヘロデは自分の権力の座を維持するために、自分の地位を脅かすと思われる者は、その猜疑心から次々と無き者としていったのであるが、イエスが生まれたのは、このヘロデの最晩年の時期といわれている。彼は「ユダヤの救世主誕生」の噂を耳にすると、ベツレヘム地方にいた2歳以下の男の赤ちゃんをことごとく殺したといわれている。
ヘロデは自分の妻をも殺し、また自分の子供のうち3人も殺した。さらに人々に信望の厚かった大祭司も殺した。このようなことは、ユダヤの、特に律法に忠実な人々の反感を買った。
このヘロデがBC4年に病死すると、彼の広大な領地は、アケラオ、アンティパス、ピリポの3人の息子に分割された。しかし、結局はローマ帝国直轄の属州に再編成され、ローマ人の総督の支配となったのである。イエスが活動したのは、ちょうどこの時期とされ、その時の総督はポンテオ・ピラトだったという。
■■第5章:イエスと名乗る謎のユダヤ青年の登場
●ローマ帝国が台頭し、ローマ帝国から派遣されたエドム人(非ユダヤ人)のヘロデがユダヤの王として君臨すると、選民としての誇り高いユダヤ人たちの多くは、統治者であるローマ帝国に従おうとしなかった。ユダヤ人の間でもローマ支持者と不支持者との争いが絶えず、「スカイリ(短剣党員)」という過激な集団もはびこった。
ユダヤ人の分裂は政治的分裂にとどまらなかった。イエスと名乗る謎の青年が登場し、新しい神の法を説き始めると、今度はイエスをメシア(救世主)として認めるか認めないかで宗教的大分裂を起こしてしまった。ちなみに、当時のユダヤ教には祭司を頂点とした「サドカイ派」や「パリサイ派」、「エッセネ派」といった宗派が存在していたが、イエスの登場ほどユダヤ人の宗教的分裂を決定的にしたものはなかった。
●イエスの登場による宗教闘争は純粋にユダヤ人同士の身内の争いであったといえる。なぜならば、イエスの12人の弟子は全てユダヤ人であったし、イエスに帰依した民衆のほとんどはユダヤ人であったし、さらに彼らはあくまでもユダヤ教の範囲内でイエスを信じていたからである。
よって一般に言われているような「イエス率いる原始キリスト教団は最初からユダヤ人と対立していた」という認識は正しくないことになる。正確には、イエス派ユダヤ人と保守派(パリサイ派)ユダヤ人が対立していたと表現すべきであろう。パリサイ派は、モーセがシナイ山で授かった神との契約(旧約)に基づく「律法主義」に固執していたために、イエスが説いた「新しい神との契約(新約)」を受け入れるのを拒否し、イエスと激しく対立していたのである。
また、「イエスはユダヤ人によって殺された」という表現も正確ではない。イエスもユダヤ人だったからである。イエスはユダヤ教の中に新しい宗派「イエス派」を形成し、ユダヤ人のユダヤ人によるユダヤ人のための宗教改革を実施したと言える。そしてイエスのユダヤ教改革は、その後、ユダヤ人という民族の枠を超えた世界的な宗教改革にまで発展していったのであり、ローマ帝国が正式にキリスト教をローマ人の“国教”として認めたのは、イエスの死後300年ほど後のことである。
イエス・キリストの磔刑像
●なお、イエスがゴルゴタの丘で十字架にかけられて公開処刑されたのは、紀元30年頃の4月7日午前9時頃だといわれている(諸説あり)。彼は生前の予告通り、3日目に死より甦り、弟子たちの前に復活した体をもって現われたという。その後40日間、弟子たちを導いた後、天上の父のもとへ昇天したという。
─ 完 ─
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