No.a4fhc300

作成 2000.5

 

アメリカの暗黒街のユダヤ紳士たち

 

~知られざるユダヤ・ギャングの実態~

 

第1章
初期のユダヤ・ギャング
第2章
「禁酒法」と
ギャングのシンジケート化
第3章
マイヤー・ランスキー
第4章
「全米犯罪シンジケート(NCS)」
第5章
「シンジケート合法化計画」と「ADL」
第6章
エドガー・ブロンフマン
第7章
全米を震撼させた
「ADL」の不法スパイ事件

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■■第1章:初期のユダヤ・ギャング


ギャング映画は西部劇と並んでハリウッド制作映画の二大ジャンルである。日本のヤクザ映画が単なる犯罪映画でないように、ギャング映画も単なる犯罪映画ではない。成功の段階を登りつめて最後に悲劇的な死を遂げるのが、ギャング映画のヒーローの典型的な運命である。

ユダヤ・ギャングを描いた映画としては、1984年に制作された名作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(ロバート・デ・ニーロ主演)が有名である。ニューヨークの貧民街に育ったユダヤ移民の少年たちがギャングになり、その後崩壊していくまでの40年にわたる壮大なストーリーを描いている。

 


映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』
(1984年制作/ロバート・デ・ニーロ主演)

ニューヨークのユダヤ・ギャング達の友情、
愛、裏切りを描いた一大叙事詩的大作 

 

●こうしたユダヤ・ギャングは、架空の存在ではなく、実際に数多く存在した。

1907年のことだが、ニューヨーク市警察のシオドア・ビンガム長官は、2000枚の犯罪者カードの顔写真を見せて、そのうちの1200人はロシア系ユダヤ人移民だと断言した。翌1908年には、1冊の公的報告書を出し、その中でニューヨークに台頭してきたユダヤやイタリア、それにアイルランドの犯罪シンジケートについて詳しく報告するとともに、ニューヨークの押込み、かっぱらい、売春婦のヒモの50%は、やはりロシア系ユダヤ人だと主張した。実際、1907年にニューヨークで有罪判決を受けた2848人の犯罪者のうち、ユダヤ人は460人もいた。


●ビンガム長官と、彼の右腕のペトロシーノ警部補は、ニューヨークにおける犯罪者の地下活動を厳しく取り締まり、それなりの成功を収めた。悪名高いイタリア人マフィア、アル・カポネの叔父、ジョニー・トリオは、ニューヨーク市警察から絶えず圧力をかけられ、その結果ニューヨークからシカゴへ追いやられてしまった。

しかし、ビンガム長官は、ユダヤ人の組織「ADL(ユダヤ名誉毀損防止連盟)」から「ユダヤ人を中傷した」という理由で攻撃を受けるようになる。「ADL」はビンガムを反ユダヤ主義者呼ばわりする運動を繰り広げ、ビンガムはニューヨーク市警察長官の地位を追われてしまった。この結果、イタリア人およびユダヤ人双方のギャングの活動は隆盛を極めることになった。

 


「ADL」のシンボルマーク

 

このように、アメリカの組織犯罪“業界”では、イタリア人マフィアと並んで、ユダヤ人が大きな役割を果たしていたのである。

古くはマー・マンデルバウム(マンデルバウムおばちゃん)というドイツ生まれのユダヤ人女性が有名だった。彼女は、ニューヨークのクリントン街79番地で、数十年にわたってアメリカ最大の故買屋(盗品専門のディーラー)を営んでいた。配下の泥棒や強盗は100人以上もいて、盗品売買業の網はフランスにまで広がっていた。ワイロ漬けにした警察と、ニューヨーク組織犯罪史上その名も高い民主党組織「タマニー・ホール」の庇護を受け、あらゆる法の抜け穴に通じた弁護団をかかえて、商売は繁盛した。マンデルバウムおばちゃんがカナダに逃げ出したのは、1884年のことだった。

 


20世紀初頭のニューヨーク市「ロワー・イーストサイド地区」の風景
(この地区に東欧系のユダヤ移民の多くが住んでいた)

※ この地区には貧困、過労、貧弱な食事に加えて、過密で
不潔な住居、新鮮な空気と日光の不足など、病気を蔓延させる
あらゆる条件が揃っていた。最も恐れられたのは結核で、この病気は
「ユダヤ病」とか「仕立て屋病」として知られるようになり、1906年の
「ロワー・イーストサイド地区」のユダヤ人の1000人中12人が
結核におかされていた(病人の90%は家で看病されており、
貧しい人々はなかなか病院に行こうとはしなかった)。

 

●20世紀に入ると、ニューヨークのユダヤ・ギャングはますます力をつけるようになる。

腕も組織も行き届いたアメリカ第一のスリ団の親分がエイブ・グリーンタールという名のユダヤ人なら、やはりユダヤ人のロジー・ハーツが経営する売春宿に、船から下りたばかりの移民の娘を連れこんで、アメリカでの初仕事をやらせるのもユダヤ・ギャングの一団だった。

ニューヨークのさまざまな客商売からゆすり取る“保険金”もユダヤ・ギャングの大きな収入源だった。とくに、あやしげな商売をやっている者が“保険金”の支払いを拒否すると、きまって警察の手入れを受けた。


●1912年に起こったユダヤ人の賭博場経営者ハーマン・ローゼンソール殺害事件で、この警察とユダヤ・ギャングの癒着が暴露されたとき、ラビ(ユダヤ教指導者)のユダ・マグネスを長とする「ユダヤ人自警団」が組織された。

ユダヤ人の悪行に心を痛めていたドイツ系ユダヤ人ヤコブ・シフと、当選したばかりでまだ腐敗していなかったニューヨーク市長ゲイナーの支援を受けて、「ユダヤ人自警団」は、暗黒街の魔窟を閉鎖したり、何人かのユダヤ・ギャングを逮捕したりした。

※ この「ユダヤ人自警団」に逮捕されたユダヤ・ギャングの一人、ヨゼフ・「ヨスキー」・トブリンスキーは、過去に“保険金”支払いを怠った馬車業者の馬290頭に、毒を食わせたという経歴の持ち主だった。

 


アメリカ・ユダヤ人の中心的存在だった
ドイツ系ユダヤ人のヤコブ・シフ

東欧ユダヤ人の出現によって
在米ユダヤ人の評判が落ちる
ことを心配し、様々な対策を練った

 

●だが、この「ユダヤ人自警団」の活動は焼け石に水だった。

ユダヤ・ギャングはアメリカ暗黒街の一角に隠然たる勢力を保持し続ける。1897年に小商人の息子として生まれたユダヤ人、レプケ・ブックホルターの主な稼ぎ場所は「労働争議」だった。配下のガンマンたちは、資本家のためにスト破り、労働組合のために機械の打ち壊しをやっては、双方から報酬をせしめた。

※ 1939年に殺人のかどで電気椅子に座ったとき、レプケ・ブックホルターの年間収入は1000万ドルに達していた。

 

 

●ユダヤ移民史に詳しいある研究家は、次のように述べている。

「移民社会では単身男性が多く、また貧しい女性が多かったので、売春が広がっていた。ユダヤ人売春婦が他の民族集団に比べて比率的に多かったわけではないとしても、隣接して住むイタリア系に比べると多かった。ユダヤ人のイーディッシュ語新聞は『妻、娘、あるいは許婚(いいなずけ)と一緒に歩くならば、アレン街、クリスティ街、フォーサイス街は避けたほうがよい』と読者に警告した」

「当時、『白人奴隷取引(ホワイト・スレイヴリー)』が大きな問題となっていた。その業者の過半数がユダヤ人であり、その中心はニューヨークであった。結婚の約束を信じて東ヨーロッパからだまされて連れてこられ、到着するとすぐに売春宿に連れ込まれた。英語を話せないので、助けを求められず、『囚人』となり、結局は売春婦になるといった事例があったのである」

「マイケル・ゴードンの『金のないユダヤ人』には、生きるために売春をやらねばならなくなった東欧系ユダヤ人女性の例が出てくる。〈中略〉悲劇を生んだのは、売春だけではなかった。1905年、モーリス・フィッシュバーグは、東欧系のユダヤ人の間では稀だった自殺がニューヨークで増加しつつあり、『きわめてしばしばユダヤ人の自殺を聞いた』と報告している。多くの者が逆境に圧倒されて死を選び、『ガス自殺』という言葉がイーディッシュ語新聞のありふれた見出しになったという」

「アメリカ化して移民世代の抑制心を失った第二世代の中から多くの犯罪分子が生まれた。ユダヤ人ギャングたちは、イーストサイドを震えあがらせた。ギャングは同地域の暗黒街から『貢ぎ物』を要求した。泥棒、賭博師、売春宿の経営者から利益の分け前を徴収しただけでなく、商店主からも『保護金』を要求した。食堂を開こうとすると、ギャングに『みかじめ料』を支払わねばならないことがあったし、行商人は手押車で営業する権利に対して1ヶ月あたり1~2ドルの割前金を強制されたりした。またストライキが起こるとギャングはスト破りの暴漢を派遣して企業から金をまきあげた」

「映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』はユダヤ系二世ギャングの世界を描いたものである。荒唐無稽な点も多いが、主人公たちが『ガキ』だったころのロワー・イーストサイドの描写は秀逸である。〈中略〉ロワー・イーストサイドは、いつも市内の犯罪分子をその周辺にひきつけてきたのであり、ユダヤ人はその『犠牲者』であった。ユダヤ人は偏見や差別の対象となり、『ユダヤ人いじめ』は日常茶飯事だった。

他の民族集団によるユダヤ人攻撃に反撃した者たちの一つが、ユダヤ人ギャングだったのである。〈中略〉アメリカでのユダヤ人迫害に対して、ユダヤ人たちは結束し、『ブナイ・ブリス』『アメリカ・ユダヤ人委員会』『アメリカ・ユダヤ人会議』などの組織を作っていった」

 

 


 

■■第2章:「禁酒法」とギャングのシンジケート化


●1919年6月30日に制定された「禁酒法」により、5%以上のアルコールを含む飲料は、製造・輸入・販売が禁止された。この法律で、アメリカ人は飲酒の楽しみを奪われることになる。しかし、長年の習慣を簡単に変えられず、密造酒がはびこることになり、ギャングたちは密造酒で大もうけをした。「禁酒法」ができてからというものの、ギャングたちの事業はまさに全盛を極めるに至った。

この時期の大きな特徴は、ギャングのシンジケート化である。有力なボスの下に組織が作られ、縄張りが協定ないしギャング間の抗争の結果定められ、ギャング間の連合が形成されて一種のカルテル化が行われた。ギャングのボスたちは定期的に集まって、仲間に有利なカルテル化の戦略を練った。こうして全国的な「犯罪シンジケート」ができ上がっていった。


●この時代のギャングは一般に、アル・カポネやラッキー・ルチアーノ、ジョニー・トリオといったイタリア系マフィアが有名であるが、禁酒法時代の組織犯罪はユダヤ・ギャングによっても支配されていた。



●公正な歴史家、論評家として有名なポール・ジョンソンは著書『ユダヤ人の歴史』の中で次のように書いている。

「ニューヨークでユダヤ人犯罪者は一般的なユダヤ型犯罪の他に、保護料のゆすり、放火、競争馬に毒を盛る犯罪に集中した。ここでもユダヤ人社会は矯正学校を含む犯罪防止運動でこれに応えた。このような努力は三流のユダヤ人犯罪に対しては非常に効果的であった。実際、禁酒法がなければ、1920年代末までにユダヤ人犯罪組織は小グループになっていたであろう。しかし禁酒法がアルコールの違法取引を合理化し組織化する機会をずる賢いユダヤ人に提供したため、彼らはその誘惑に抵抗することはできなかった。

ユダヤ社会学の権威であったアルトゥル・ルピンが書いているように、『キリスト教徒はその手で犯罪を犯すが、ユダヤ人は頭脳を使う』のである。」

 

 

 


 

■■第3章:マイヤー・ランスキー


●ユダヤ・ギャングの中で最も有名なのがマイヤー・ランスキーである。

彼は1902年にベラルーシ(白ロシア)のグロドノで生まれ、本名をスホフラニスキーといった。彼が両親に連れられてアメリカに渡ってきたのは1911年のことだった。

 


ユダヤ・ギャングの中で最も有名な
マイヤー・ランスキー

 

●ランスキー自身は、アーノルド・ロススタインというユダヤ人の賭博王の支援を受けていた。アーノルド・ロススタインは、ニューヨークに登場した最初の犯罪ボスである。彼はデイモン・ラニャンの小説で「頭目」として描かれ、スコット・フィッツジェラルドの『華麗なるギャツビー』で登場人物のモデルになった。

このアーノルド・ロススタインが1928年に暗殺されると、マイヤー・ランスキーは押しも押されもせぬシンジケート・ボスの地位に就いた。

 


ユダヤ人賭博王
アーノルド・ロススタイン

 

●ランスキーは、少年時代からの友人ラッキー・ルチアーノ(イタリア・マフィアの大ボスで、本名はサルヴァトーレ・ルカーニア)と組んで、「殺人会社(Murder Inc.)」すなわち銃を使う名うての殺し屋集団をつくり、それによって北米のすべての都市に、密売酒と麻薬の流通ルートを支配する全国的犯罪連合をつくっていった。

 


イタリア・マフィアの大ボス
ラッキー・ルチアーノ

 

●マイヤー・ランスキーのほかにも、大物ユダヤ・ギャングがアメリカとカナダに現れた。

こうしたギャングの中でも特筆すべき存在が、カナダにおけるサム・ブロンフマン率いる「ブロンフマン・ギャング」と、アル・カポネの帳簿係と会計をしていたジェイコブ・グツィク(別名グリージー・サム)である。

また、クリーブランド、デトロイト、シカゴの五大湖周辺に根を張ったサミュエル・コーエン(別名サミー・パープル)やモリス・ダリッツ、それにマックス・フィッシャー率いる悪名高い「パープル・ギャング」、ニュージャージーからボストンへの酒と麻薬の流通路を支配した「ジョセフ・レインフェルド・シンジケート」といった集団である。

 


(左)ユダヤ人サミュエル・コーエン (右)ユダヤ・ギャング団「パープル・ギャング」

 

●マイヤー・ランスキーと親しいユダヤ・ギャングの殺し屋べンジャミン・シーゲル(別名バグジー)は、禁酒法時代にウイスキーの密売と麻薬で稼いだ資金を基にネバダの砂漠の中にギャンブル王国を築いた。組織犯罪全盛期に儲けた資金のその他の部分は、ハリウッドの映画制作会社に注ぎ込まれた。

べンジャミン・シーゲルは、ラスベガスをつくったユダヤ人として、アメリカ犯罪史および文化史に名を残すことになった。(後にシーゲルはランスキーによって「排除」され、ランスキーがラスベガスのボスになる/1947年6月。シーゲルの遺体はハリウッド共同墓地に埋葬された)。

ちなみに、彼の生涯は1991年に映画化されている。

 


(左)ユダヤの殺し屋ベンジャミン・シーゲル(別名バグジー)
(右)彼がつくったラスベガス(ホテル「ザ・フラミンゴ」)


1947年6月20日、べンジャミン・シーゲルは愛人の
邸宅に居るところをヒットマンに銃撃されて殺された



『バグジー』(1991年制作)
(ウォーレン・ビーティー主演)

何もなかったネバダの砂漠に、ネオン輝く
ラスベガスを作った実在の人物、ベンジャミン・シーゲル
(別名バグジー)の半生を描いた作品である

 

●禁酒法時代にあっても、ユダヤ・シンジケートは、イギリスと秘密の特別な関係があったおかげで大いに繁栄した。

カナダやカリブ海にある引き渡し地点までスコッチ・ウイスキーを自由に配送することができる「イギリス酒造評議会」を支配していたのは、ほかならぬウィンストン・チャーチル(後のイギリス首相)その人であった。そして引き渡した地点からはランスキー・シンジケートの所有する船が、極上の酒をアメリカへ運び込んだ。当時の警察の記録は、アメリカの東海岸や五大湖の湖岸線を支配していた「ユダヤ海軍」について言及している。

 


イギリスのウィンストン・チャーチル

 

 


 

■■第4章:「全米犯罪シンジケート(NCS)」


人種間でバラバラに仕切られていたアメリカのマフィアを統一したのは、ほかでもないユダヤ系であった。それまで「殺し・抗争」だったアメリカのギャングのあり方を、「金・協調」という方向に変えたのである。

ユダヤ・ギャングの大ボス、マイヤー・ランスキーは、その勢いが最も強かった頃、悪名高いシシリー・マフィアを完全に支配していた。このシシリー・マフィアも「全米犯罪シンジケート(NCS)」に加わっていた組織の一つであった。

 


ユダヤ・ギャングの大ボス
マイヤー・ランスキー

 

「全米犯罪シンジケート(NCS)」は、フランクリン・ルーズベルトのニュー・ディール推進機関で全米の公共事業の監督に当たった「全米復興庁」を範にとり、「合法的」組織犯罪を目指すランスキーの夢に沿ってつくられた組織である。「全米犯罪シンジケート」の地方組織の構成方法は「全米復興庁」のやり方の模倣であり、意志決定は等しくそれぞれの地方組織を代表する「全米委員会」で下された。

「全米委員会」はニューヨーク、ニューオーリンズ、シカゴのような伝統的にギャングの中心地であった主要都市だけではなく、全米のすべての地域社会に組織犯罪を拡めることを目的として組織されていた。また「全米委員会」は、犯罪シンジケートへの法規制強化と国民一般の反感をもたらす可能性があるギャングの抗争を未然に防ぐ自警団組織をつくる狙いをも持っていた。禁酒法時代のシカゴにおける「カポネ戦争」は犯罪シンジケートを著しく弱体化させたが、ランスキーはこのような些細な抗争で自分の大計画が潰れることのないよう心掛けたのである。


ランスキーは1930年代を通じて、彼のあり余る資金を投入できる新しい市場を獲得するのに忙しかったが、彼の非合法な活動の主たるものは、ありとあらゆる種類のギャンブリングであり、その経営には綿密な計画と自己規制が求められた。

ランスキーはこの仕事を見事にこなし、ボス中のボスと呼ばれた。彼のリーダーシップには狂いがなく、彼はマフィアの頂点に立ち、ギャングの世界における権威となった。ランスキーは、アメリカ最大の犯罪組織「全米犯罪シンジケート」の会長として、50年間もこの組織を運営し続けた。

 


ボス中のボスとして、マフィアの
頂点に立ったマイヤー・ランスキー

 

●1940年7月、アメリカとイギリスの情報部は、いわゆる「暗黒街工作(オぺレーション・アンダーワールド)」を始めた。

この「暗黒街工作」の目的は、シシリー上陸から開始する将来のヨーロッパ攻略に備え、シシリー・マフィアの中でこれはという人物を連合国側に取り込むことであった。この時に、ランスキー、ルチアーノの両人はアメリカ海軍情報局の情報提供員として働いた。

今世紀における麻薬(ヘロイン)交易の復活を助けたのは、この時のアメリカ大統領ルーズベルトとランスキーとの間に交わされた密約だった。ランスキーは、戦争中に東海岸を守り、のちにはフランスの港湾の独占権を社会主義者の手から奪い取ったことと引替えに、ヘロインの密輸を免除されたのである。

また、この取引の一部として、ルチアーノが第二次世界大戦後に釈放された。彼はすぐに、キューバにヘロイン密輸の根拠地を設立する行動に移り、のちにはマイアミのサントス運輸に支配権を移した。

 


第32代アメリカ大統領
フランクリン・ルーズベルト

 

●『ヘロインの政治学』の中で、アルフレッド・マッコイは次のように語っている。

「第二次世界大戦末期、消費者の需要が過去50年間で最低に落ち込み、犯罪シンジケートが混乱を起こしたときに、アメリカは国の重要な社会問題だったヘロインを根絶する絶好の機会をもった。だが、政府はこれら犯罪組織に致命的打撃を加える代わりに、CIAおよびその戦時中の前身OSSを通じ、シシリーとアメリカのマフィア、コルシカの地下組織が国際的麻薬交易を復活させることのできる状況を作り出したのだ。」


こうして、第二次世界大戦を経てマフィア組織は急速にCIAに接近する。政府もまた、各国との裏面工作にマフィア組織を活用するようになる。

なかでも1952年のキューバ、バチスタ政権の返り咲き劇の主役はランスキーであった。彼はその実績から、キューバにおける利権のほとんど全てを握った。カジノ、売春、ヘロインと、まさにキューバは彼にとって金の成る木そのものであった。



●ところで、「全米犯罪シンジケート」の最高幹部にアブナー・ツビルマンというユダヤ人がいた。

ツビルマンはニュージャージー州アトランティック・シティのボスであり、「全米犯罪シンジケート」の設立時からの一員でハリウッドに多額の投資をしていた。彼はまた、ランスキーとベンジャミン・シーゲルが私的に運営していた「全米犯罪シンジケート」の暗殺部隊である「殺人会社(Murder Inc.)」の当初からの構成員でもあった。この「殺人会社」は、これまで判明しただけでも800件を超える殺人契約が実行されたという。

この「殺人会社」には、「ザ・ジャッジ」として知られ、FBIが「合衆国の最も危険な犯罪者」と呼んだユダヤ人ルイス・レプケ・ブチャルターも所属していた。

 


(左)アブナー・ツビルマン (右)ルイス・レプケ・ブチャルター

FBIはブチャルターを「合衆国の最も危険な犯罪者」と呼んでいた

 

●禁酒法時代の間、アブナー・ツビルマンは「ビッグ・セブン」の一員であった。

「ビッグ・セブン」とはランスキーの仲間たちからなる東海岸のグループで、カナダから密輸入した密売酒の配給を取り仕切っていた。この酒はユダヤ人サム・ブロンフマン一味がカナダで製造したものであった。

1935年、ツビルマンは、ブチャルターの指示により、ニュージャージーでのライバルであるユダヤ・ギャングのアービング・ウェクスラー(別名ワキシー・ゴードン)とアーサー・フレゲンハイマー(別名ダッチ・シュルツ)を排除(暗殺)した後、同州のシンジケートすべてのいかがわしい商売を一手に引受けることになった。そしてついにはラスベガスの賭博カジノ、ハリウッドの映画スタジオにまで手を拡げるに至ったのである。(ブチャルターは1944年にシンシン刑務所で殺人罪により処刑された)。


●ツビルマンが病に倒れ、再開された政府の捜査にランスキーがひっかかる恐れが生じたとき、シンジケートの「全米委員会」はこのニュージャージーのボス、ツビルマンの「排除」を決定した。

1959年2月27日、ツビルマンはニュージャージー州ウエスト・オレンジにある部屋数が20室にも上る自分の豪邸の地下で死んでいるのが発見された。地元警察は彼の死を「自殺」と考えたが、実際は他ならぬ彼自身がその設立に手を貸した「殺人会社」によって殺されたのである。



1960年代に入ると、「全米犯罪シンジケート」はケネディ兄弟によって激しい攻撃を受けるようになる。彼らの妥協のない態度は、ジョン・F・ケネディが言った次の言葉に要約されている。

「遠慮せず、徹底的に調査を続けろ。ここには、1つしか規則はない。もし奴らが悪なら、単に傷つけるというようなことでなく、完璧に殺してしまわねばならない!」

 


(左)ジョン・F・ケネディ (右)実弟のロバート・ケネディ

 

1961年、大統領にジョン・F・ケネディが就任し、司法省長官に弟ロバート・ケネディが就任すると、ケネディ内閣はかつてないほどのスケールで、シンジケート撲滅作戦に乗り出した。ケネディ兄弟は伝統的マフィアの本流、シカゴにまでその手をのばしていった。

この時、ロバート・ケネディはシンジケートに対して大がかりな戦略を練っていた。その大戦略とは、FBI、国税庁、商務省など連邦政府の全機能をフルに動かして、シンジケートの本拠地であるラスベガスを直撃することだった。

1963年の10月には、この大戦略のプランは完成していた。だが、いよいよという時になって、このプランは中止された。敢行直前にケネディ大統領が暗殺されたからである。

 


ジョン・F・ケネディ暗殺の瞬間(1963年11月22日)

 

本拠地ラスベガス直撃は中止されたものの、ケネディ兄弟がシンジケートに与えた打撃は大きかった。

ロバート・ケネディが司法長官になってから、司法官の対シンジケート作戦部はそのサイズが4倍に拡大され、起訴対象のリストに挙げられたマフィアの数は2300人にのぼった。


●ロバート・ケネディは著書『正義の追及』の中で、次のような具体的数字を挙げて、アイゼンハワー時代との相違を説明している。

「1963年の前半6ヶ月のうちに、我々は171人のシンジケート・メンバーを起訴に持ち込んだ。3年前の同じ時期には24人だった。1963年全期を通して、我々がかち得た有罪判決は、160件に達した。3年前は35件だった。〈中略〉1962年、司法省管轄の検事達が法廷で過した時間は809日、法廷外の調査に費やした時間は7369日にのぼった。2年前の数字は法廷で283日、調査に1963日だった。」


●しかしこのロバート・ケネディも銃撃され、暗殺されてしまった……。

 


(左)凶弾に倒れ死亡したロバート・ケネディ(1968年6月5日)
(右)暗殺犯のサーハン・ベシャラ・サーハン。このエルサレム生まれの
青年は逮捕に際して、まるで夢遊病者のような行動をとり、自分自身の
犯行の記憶を持っていなかった。そのため「彼は犯行時に何者かに
よって催眠術を施されていた」という説も存在する。

 

 


 

■■第5章:「シンジケート合法化計画」と「ADL」


●晩年のマイヤー・ランスキーは、様々な罪に問われて逃げ続けた。1971年にイスラエルへの入国も試みたが成功せず、結局はマイアミ・ビーチに戻り、厳重な護衛付きで一種の隠遁生活を送った。

非合法の活動を60年以上続ける中で、刑務所で過ごしたのは総計3ヶ月半に過ぎなかったというのであるから、いかに彼が法の網をくぐることに巧みであったかが分かる。

 


ユダヤ・ギャングの大ボス、マイヤー・ランスキーの墓

アメリカ最大の犯罪組織「全米犯罪シンジケート」の
会長を、法の網をくぐりながら50年間も務めた

 

●ランスキーは1983年1月15日、4億ドル以上の財産を残して肺ガンで亡くなった。

※ 彼の生涯は映画化された↓

 


『ランスキー アメリカが最も恐れた男』
(1999年制作/ジョン・マクノートン監督)

ベンジャミン・シーゲル、ラッキー・ルチアーノといった
大物マフィアと共に、巨大シンジケートを築き上げていった
マイヤー・ランスキー。彼の半生を描いた実録アクション。

 

ところで、マイヤー・ランスキーは大きな夢を持っていた。

それは、大犯罪を行っても人目につかぬようまともな体裁を装うことにより、政府のいかなる検察官も手出しができないようにした上で、北米の犯罪地下シンジケートを世界最強のビジネス・金融集団につくり変えることであった。そしてイスラエルを「買収」し、そこを自分の「合法的」組織犯罪帝国の世界本部とすることであった。

 


「合法的」組織犯罪帝国を作り上げることを
夢見ていたマイヤー・ランスキー。彼は
数字に強く、経済学の研究書を読み、
経済感覚が秀でていた。

※ 彼は「マネーロンダリング」の
 創始者とも言われている。

 

●シオニズムに反旗をひるがえしたユダヤ人ジャーナリスト、ポール・ゴールドスタインとジェフリー・スタインバーグによると、「ADL(ユダヤ名誉毀損防止連盟)」はランスキーの犯罪組織を受け継いでいるという。

「ADL」とは、1913年に設立されたユダヤ人組織である。「ADL」は、第二次世界大戦後に大規模な組織再編が行われ、全米各界の最も“優秀”なユダヤ人を選抜して、「全米委員会」(合計303人)が構成された。その下に「全米執行委員会」が置かれ、その会長にニューヨークのユダヤ教ラビ、ロナルド・B・ソベールが就いた。

 


反シオニズムのユダヤ人ジャーナリストである
ポール・ゴールドスタインとジェフリー・スタインバーグ

 

●この「ADL」の実態について、彼らユダヤ人ジャーナリストは次のように告発している。

「20世紀への世紀の変わり目頃に創設された当初から、ADLは組織犯罪におけるユダヤ組織のための最初の防衛機関であった。警察や新聞が、勢力を拡大する全米犯罪シンジケート中におけるユダヤ・ギャングの役割を解明しようとでもすれば、ADLはこれを『反ユダヤ主義者』として攻撃した」

「ADLは、20世紀における最も強力なユダヤ・ギャング、マイヤー・ランスキーが築き上げた組織犯罪帝国を受け継いだ組織である。ADLが戦後、組織の立て直しを図った際、全米犯罪シンジケートと全く同じ方法で組織を再構成したばかりではなく、その統括母体を『全米委員会』と呼ぶようにしたのは決して偶然ではない。ADL全米委員会の名誉副会長に名を連ねる人々を見ていると、ユダヤ・ギャングと彼らの手先となって働いている政治家からなる犯罪者リストを眺めている気分がする」

「ADLは反ユダヤ運動に対抗するものと言われるが、ADL自体どれほど多くの麻薬取引に関わっていることだろうか。世界の麻薬取引のほとんど全てに関係していると言ってもよいだろう」

 


「ADL」のシンボルマーク

 

●また、彼らユダヤ人ジャーナリストの調査によれば、ランスキーによる「シンジケート合法化計画」の鍵を握るのは、腐敗した銀行家と腐敗した弁護士の存在であるが、この合法化計画の中で「ADL」は重要な役割を果たしているという。

彼らは次のように告発する。

「ADLと犯罪シンジケートとの最も古くかつ強力な結び付きは、組織犯罪集団の御用達であったニューヨークの銀行の一つ、『スターリング・ナショナル銀行』に見ることができる。組織犯罪の専門研究家によると、この銀行はマイヤー・ランスキーに非常に近いシンジケートの仕事仲間フランク・エリクソンにより、1929年に設立されたものである。ADLの活動に詳しい金融界筋の情報によると、1978年以後、同団体はADL財団を含むそのすべての銀行、投資活動を同銀行へ移していた」

「ADLは、今日アメリカや西ヨーロッパ、ラテン・アメリカのすべてのユダヤ人社会にその触手を伸ばしている。この組織は多くの地方の弁護士会を支配することによって、また州および連邦裁判所の判事の選任に影響力を行使することによって、アメリカの司法機構のほとんどすべてを密かに支配している。またADLは大手銀行や金融機関の枢要な地位に工作員を送り込んでいる。さらに米国上下両院の議員は、ADLの名誉副会長だなどと世間では取り沙汰されている。また、ADLは、数多くのアメリカの警察幹部を、イスラエル政府およびユダヤ・ロビーの手先として抱き込むことに成功している」

「ADLが全米委員会のメンバーに強力な政治・金融の大物たちを揃えていることから、その専門スタッフは人に接触する場合でも、影響力を行使する場合でも、絶大な力を発揮することができる。ADL全米委員の銀行や企業とのコネクションのおかげで、ADLの資金調達活動はフォーチュン誌が調べた全米大手500社や大手商業銀行、さらには全米すべてのマスコミの取締役会のメンバーにまで行き及んでいる。このようにADLは、カネで買うことも可能な政治警察力の提供というサービスを行うのと同時に、自分たちに貢物を納めるか、それとも『反ユダヤ主義』の烙印を押されたいのかと言っては、大手米国企業や銀行をゆすっている」

 

 

 


 

■■第6章:エドガー・ブロンフマン


●現在、ランスキーの築き上げた犯罪組織のトップには、「ADL」の最高幹部で、世界的ウイスキー製造メーカー「シーグラム社」の会長であるユダヤ人エドガー・ブロンフマンが座っている。

「シーグラム社」は世界200ヶ国で100億ドル以上の飲料を販売する巨大飲料会社であり、同社には「VO」「セブン・クラウン」といった人気ブランドがある。

 


「シーグラム社」の会長
エドガー・ブロンフマン

「ADL」の最高幹部でもあり、
「世界ユダヤ人会議」の会長でもある

 

●初代ブロンフマン(エチェル・ブロンフマン)は、1889年、ルーマニアのベッサラビア地方から年季奉公人としてカナダにやって来た。彼はカナダに着くとすぐに売春業を始め、1915年、カナダで「禁酒法」が施行されると酒の密輸に手を出した。さらにその儲けで、ブロンフマンは麻薬の密売にも手を染め、あらゆる犯罪に関与した。

やがて、アメリカが「禁酒法」を制定すると、ブロンフマンは大規模なアメリカヘの酒の密輸業を組織し(もちろんアメリカのユダヤ・ギャングとチームを組んで)、巨富を得た。そしてこの資金をもとに、「シーグラム社」を設立したのである。

※ ちなみに、「ブロンフマン」とはイーディッシュ語で文字通り「酒屋」の意である。


●ブロンフマン一族は禁酒法時代を通じて、マイヤー・ランスキーの「全米犯罪シンジケート」向けウイスキーの有力供給者だった。アメリカ政府の記録によると、1920年から1930年の間に3万4000人以上のアメリカ人が、ブロンフマンの醸造した酒を飲んでアルコール中毒により死亡したという。


●初代ブロンフマンの息子フィリス・ブロンフマンが、ジーン・ランバートと結婚したことで、ブロンフマン家はロスチャイルド家の一員となった。そして3代目のエドガー・ブロンフマンは、1957年に「シーグラム社」の社長に就任し、いまや「世界ユダヤ人会議」の会長であり、「ADL」の名誉副会長でもある。また彼は、アメリカ多国籍企業の中でも最大かつ最強の企業の一つである「デュポン社」の過半数を支配している大株主でもあった。


エドガー・ブロンフマンは、投資銀行「ローブ・ローデス商会」のユダヤ人オーナー、ジョン・ローブの娘と結婚して、ウォール街との接近も深め、アメリカの民主党に多額の献金をして、陰でアメリカ政治を動かすと言われるほどにその政治力を拡大していった。(エドガー・ブロンフマンは、大リーグ「モントリオール・エクスポズ」のオーナーだったことでも名高い)。


●また、ブロンフマン一族は、熱烈なシオニストとして知られている。

第二次世界大戦が終わった時、サム・ブロンフマンは「イスラエル・ユダヤ更正全国協議会」を設立した。もっともその名前の趣旨に反し、この組織の主たる目的はパレスチナのユダヤ人地下組織「ハガナ」向けに武器を密輸することだった。

ブロンフマン一族に限らず、もともと古くからユダヤ人犯罪シンジケートは積極的にシオニズム運動を支援してきた。ランスキーの言い分によると、ユダヤ人犯罪シンジケートはアメリカのシオニスト組織に何百万ドルも献金してきたという。

 

 

●1980年代半ば、ドイツの雑誌記者とのインタビューで、エドガー・ブロンフマンは「世界ユダヤ人会議」の会長として次のように答えている。(「世界ユダヤ人会議」は1936年に創立され、世界70ヶ国のユダヤ人を擁している)。


【問】「世界ユダヤ人会議」の前会長ナフム・ゴールドマンは、イスラエル国家の様々な行為について、大変批判的な発言をしていましたが、現会長のあなたからはそのような批判が聞かれませんね。

【答】 もちろん私だって、多くの問題でイスラエルに対して大変批判的に臨んでいますよ。〈中略〉しかしここで、ナフム・ゴールドマン前会長と私の違いをはっきり言っておきます。私は次のような確信に達したのです──イスラエルに対するあらゆる攻撃は、ユダヤ人に対する攻撃である、と。誰であろうと、ユダヤ民族とイスラエル国家の間を裂こうとする者は、大きな過ちを犯しているのだ、と。

【問】 イスラエルとその政策は、非ユダヤ人にとって、あらゆる批判の対象外であるべきだ、と言うのですか? これはまた現実的ではありませんね。

【答】 ……〈中略〉……ユダヤ人であるという事実と、ユダヤ民族の未来はイスラエル国家にあるという認識との間には、実に密接なつながりがあるのです。

【問】 反ユダヤ主義という非難を受けずに、イスラエルの一定の政治活動を批判するのが、どんなに難しいことか、あなたには分かりますか?

【答】 私が妻の弟を犬畜生と罵ることはできても、あなたには許されていないのと同じことですよ。


※ このインタビューから分かるように、エドガー・ブロンフマンによれば、イスラエルの問題に非ユダヤ人は一切口を出すなというわけだ。

 

 

●ところで、1972年に「モントリオール犯罪委員会」はエドガー・ブロンフマンの甥、ミッチェル・ブロンフマンを、カナダ暗黒界の大ボス、ウィリー・オブロントの犯罪仲間と認定する報告書を提出している。

この報告書によるとウィリー・オブロントとミッチェル・ブロンフマンの関係は「不法活動にまで及び、彼らは相互にあるいは共同で犯罪行為に関与していた……、お互いの間で特別に便宜を図り合い、これによって高利貸し、ギャンブル、不法賭博、有価証券の絡む取引、脱税および買収等の事柄で互いに利益を獲得した」とされている。

1970年代半ば、ウィリー・オブロントとミッチェル・ブロンフマンのもう一人の仲間、サム・ローゼンはともに麻薬資金洗浄行為の罪で投獄された。


●1989年、高齢化したエドガー・ブロンフマンの後を継ぎ、エドガー・ブロンフマン・ジュニアが「シーグラム社」の社長に就任(エドガー・ブロンフマンは会長に退く)。ジュニアは松下電気から「MCA」をユダヤ人の手に買い戻したことでも名高い。ブロンフマン家は「デュポン社」の大株主として知られていたが、この「MCA」買収のためにわざわざその株を手放している。

その後、ジュニアはユダヤ・コネクションを利用してスティーブン・スピルバーグ監督の新会社「ドリームワークス」と契約。同社の作品の独占的配給権を確保している。彼は「タイム・ワーナー」にも資本参加していることでも知られ、有線放送局「USAネットワーク」を17億ドルで買収。最近では、世界最大のレコード会社「ポリグラム」も買収するなど、メディア界への進出に積極的な意欲を見せている。

 


エドガー・ブロンフマン・ジュニア

 

●このブロンフマン一族の築き上げた莫大な財産は、「ケンプ」「キャディラック・フェアビュー」と呼ばれる投資会社を通じて管理されている。「ケンプ」は100億ドルといわれるブロンフマンの不動産や株を所有するとともに、石油会社や化学会社などの企業をその傘下に収め、大ブロンフマン帝国を陰から支えている。

また、エドガー・ブロンフマンの従兄弟であるエドワードとピーターの兄弟は、シーグラムとは別に独自の財閥である「ヒース・エドパー」財閥を作り上げている。同財閥には複数の保険や鉱山関係の企業が含まれており、その資産は数十億ドルに達するといわれている。

 

 


 

■■第7章:全米を震撼させた「ADL」の不法スパイ事件


●1993年3月頃、「ADL」の不法スパイ事件が公にされた。それはサンフランシスコにおいてであった。サンフランシスコのADL事務所からアメリカ人たちの個人さらには団体の秘密ファイルが次々に出てきたのであった。

しかも「ADL」がそれをどこから手に入れたのかと言えば、サンフランシスコの各警察署に勤める警察官を通してであったのである。それらの秘密ファイルはすべて警察が所持していた内容そのものだったのである。

 

 

●「ADL」は多額の資金をわいろとして使って多くの警察官を抱き込んでいった。また警察官たちを豪華なイスラエル旅行に誘い、イスラエルの情報機関モサドの下で訓練させていたのである。その訓練とはアメリカの警察から秘密ファイルを入手するにはどうすればよいか、各個人および団体を秘密調査するための心得などであった。


●このことを明らかにしたのはサンフランシスコの地元新聞社であった。したがって初めは「小さな報道」でしかなかった。この地方紙はいわゆるユダヤ系新聞社ではなかったのである。やがてサンフランシスコを中心としてカリフォルニア州全域で、この「ADLスパイ事件」は騒がれるようになっていった。

しかしいわゆるメジャー系にしてユダヤ系とされる大手マスコミは、それをことさらに取り上げようとはしなかった。しかし騒ぎが大きくなるにつれ、彼らもそれを取り上げざるを得なくなり、ついに『ロサンゼルス・タイムズ』がそれを取り上げたのであった。

しかしなおアメリカ全体が「ADLスパイ事件」で震撼するには、数ヶ月を要した。それはカリフォルニア州全体で取り上げられたとはいえ、その地域に封じられたままの状態だったのである。


●『ワシントン・ポスト』紙が、ようやく「ADLスパイ事件」を取り上げたのは、1993年10月になってからである。

 


『ワシントン・ポスト』の記事(1993年10月22日)

 

●のちに「ADL」は、サンフランシスコだけではなく、シカゴやアトランタでもスパイ活動を行っていたことが判明した。彼らは東部においても警察官を買収し、警察の秘密ファイルを手に入れていたのである。


●アメリカ人は、自分たちの国で恐るべき私設秘密警察機関が暗躍していたことに驚愕した。「ADLスパイ事件」で15の団体および7人の個人が、公民権法違反として「ADL」を訴えた

同じ頃、シオニスト組織の発行する『ワシントン・ジューイッシュ・ウィーク』は、「ADLのスパイ事件」を全米に報じた『ワシントン・ポスト』を痛烈に批判する記事を載せた。


●この「ADLスパイ事件」は、「ADL」の不正をアメリカ国民に公にしたという意味では画期的な事件であるといえる。しかし、多分、そのうち何事もなかったかのように、たち消えてしまうであろう。前出の反シオニズムのユダヤ人ジャーナリスト、ジェフリー・スタインバーグは次のように語る。

「第三者がADLの不正について触れると、ADLは自分たちは反ユダヤ勢力によって攻撃されていると、問題の質をすり替えてしまう。アメリカでは人種問題や反ユダヤ主義を犯罪として取り締まる法律ができてしまっている。ADLはこれをフルに使って、自分たちは反ユダヤ主義の被害者なのであると裁判所に訴えるわけである。このADLの強力な組織の前にいかなる勢力も対抗することはできなかった。それゆえにADLは我が物顔でアメリカを闊歩するようになったのである。〈中略〉

アメリカの総人口約3億人の中でユダヤ人の数はわずか600万人でしかないにもかかわらず、もし本当の力を1つにまとめれば、驚くべきことにADLはアメリカにおける最大の、そしておそらく最強の私設秘密警察機関であるということになるだろう」

 

─ 完 ─

 



■追加情報

「ADL」にスパイ行為で有罪判決

ADL Found Guilty Of Spying By California Court
http://www.rense.com/general24/adl.htm

 



── 当館作成の関連ファイル ──

世界中の反ユダヤ活動を監視する「ADL」 

アメリカのビジネス界で活躍するユダヤ人たち 

 


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