No.a6fhc714

作成 1998.5

 

ナチスの残党とCIAの危険な関係

 

■アイヒマンの補佐官アロイス・ブルンナー


●戦後CIAは、かつてアドルフ・アイヒマンSS中佐の補佐官で、ナチス・ドイツにおけるユダヤ人強制移送を専門としていた元SS大尉のアロイス・ブルンナーの活動にも資金援助していた。

 


アロイス・ブルンナー元SS大尉

アイヒマンの右腕としてナチス・ドイツにおける
ユダヤ人強制移送を専門としていた。ドイツの敗戦後
シリアへ逃亡。12万8500人のユダヤ人を強制収容所に
送った責任を問われていたが、シリア政府は各国のブルンナー
引き渡し要求に応じなかった。1961年と1980年に爆発物
が仕掛けられた「手紙爆弾」で彼は片目と左手の指を欠損したが、
イスラエルの情報機関「モサド」による犯行だと推測されている。



↑「ドランシー収容所」に連行されるユダヤ人たち(1941年8月)

パリ北東部にあった「ドランシー収容所」はユダヤ人移送のための収容所で、
ポーランドの強制収容所へ移送するまで仮に収容しておく「通過収容所」だった。
1941年8月の設立から1944年8月の解放までの間に約7万人のユダヤ人が
「ドランシー収容所」から、アウシュヴィッツなどの強制収容所へ移送された。
この収容所の初期の警備と管理はフランスの公務員と憲兵が中心だったが、
1943年7月からはアロイス・ブルンナーによって直接運営された。

 

●ナチスの犯罪を追及する「SWC(サイモン・ヴィーゼンタール・センター)」では、ブルンナーは12万8500人の殺害に対して個人的な責任がある、と見積もっている。

1954年にフランス政府は、ブルンナーを人道に対する罪で有罪として、死刑を宣告した。しかしこれは欠席裁判であった。ブルンナーはドイツの敗戦後、シリアへ逃亡し、偽名を使って首都ダマスカスに住んでいたのである。

 


「SWC」のシンボルマーク

 

●「ゲーレン機関」(後述)は、1946年にフランスからブルンナーの身元を保護するという協定をアメリカと結び、それからまもなくブルンナーは、「ゲーレン機関」のシリア「駐在官」となっていたのだった。シリア「駐在官」は、「ゲーレン機関」においてはCIAの支局長と同じような権限を持つ役職だった。

こうしてブルンナーは、CIAが資金援助した「エジプト治安部隊訓練計画」の中心人物となったのである。


●「エジプト治安部隊訓練計画」は、ファルーク王制崩壊後のアメリカ権益を守ろうとしたことから始まった。

アメリカ政府はエジプトのナセルと交渉し、ナセルはアメリカにエジプトの軍事情報機関や国内治安部隊を確立するための支援を頼んだ。双方とも、よく訓練された治安部隊は、エジプト、アメリカ両国の利益になるという点で合意した。しかし、両国の国内政治状況から考えて、アメリカがエジプト治安部隊の訓練に関わっていることは秘匿しておく必要があった。

そこでCIA長官アレン・ダレスは、1953年にゲーレンに支援を要請し、ゲーレンはオットー・スコルツェニーに協力を求めた。

※ オットー・スコルツェニーは大戦中、ドイツのマスメディアから「ヒトラーお気に入りの戦士」と呼ばれた元SS中佐である。また、様々な奇襲・極秘作戦に従事したことから「ヨーロッパでもっとも危険な男」の異名を持っていた。

 


(左)CIA長官アレン・ダレス (中)戦後CIAと協力して
「ゲーレン機関」を組織したラインハルト・ゲーレン少将
(右)元SS中佐のオットー・スコルツェニー

 

●ゲーレンは、「ゲーレン機関」を通して洗浄したCIAの資金でナセルから支払われる報酬を補填し、工作資金はアメリカから出させることを約束した。

オットー・スコルツェニーは、その後の18ヶ月間、CIAの資金を使って、エジプト治安部隊のためにおよそ100人のドイツ人顧問を採用した。ドイツ人顧問の多くは、ネオナチ組織やSSの逃走組織を通じて集められた。その中には、元SSでヒトラー・ユーゲント副総裁を務めたヘルマン・ラウテルバッヒャーや、ドイツ宣伝省の宣伝工作員フランツ・ブエンシュがいた。「ゲーレン機関」のカイロ駐在官だったブエンシュは、アイヒマンの「ユダヤ移民中央管理局」に所属していた。軍事顧問団の団長は、かつてのロンメル将軍の参謀から武装SSの司令官に抜擢されたヴィルヘルム・ファルンバッハーが務めた。


●この集団に後から加わったのがアロイス・ブルンナーであった。

ブルンナーはカイロに行き、半ばまで進行していたスコルツェニーの計画に直ちに参加し、計画の中心人物となった。そして、爆発物が仕掛けたられた「手紙爆弾」で負傷する1961年頃までカイロにとどまったのである。

※ この「手紙爆弾」は民間人の犯行にしては巧妙すぎるため、イスラエル情報機関「モサド」による犯行だと推測されている。

 

■アイヒマンの部下フォン・ボルシュビング


●CIAは少なくとももう1人、アイヒマンの部下を工作員として採用していたことが知られている。

採用されたのは、フォン・ボルシュビングである。

1932年、23歳でナチ党に入党したボルシュビングは、直ちにナチスの保安部(SD)の情報提供者となる。そして1939年までには、エルサレムで貿易商を営むかたわら、中東における代表的な工作員となった。

 


(左)聖地エルサレム (右)ナチス・ドイツの旗

1932年にナチスに入党したフォン・ボルシュビングは、
直ちにナチスの保安部(SD)の情報提供者となり、エルサレムで
貿易商を営むかたわら、中東における代表的な工作員となった。

 

●ボルシュビングが最初に携わったスパイ活動の1つは、好戦的なシオニズム・テロ組織「ハガナ」の指導者ポルケスとの間で秘密協定を結ぶことであった。ボルシュビングは、中東での仕事仲間を通して、シオニスト・ユダヤ人ポルケスと面識があったのだ。

協定によれば、「ハガナ」はドイツ国内にいるユダヤ人青年男女を訓練キャンプに採用することを許された。これらユダヤ人青年男女は、ドイツから追放された他のユダヤ人と同じく、パレスチナヘの移民を奨励されていた。その代わりに「ハガナ」は、パレスチナにおけるイギリスの情報をSSに提供することを同意したのである。

 

ナチスの工作員となったボルシュビングは、シオニストの
テロ組織「ハガナ」の指導者ポルケスとの間で秘密協定を結び、
「ハガナ」はパレスチナにおけるイギリスの情報をSS
(ナチス親衛隊)に提供することに同意した。

 

●シオニスト・ユダヤ人ポルケスは、ナチスのユダヤ人迫害がますます激しくなっても、パレスチナヘの強制移住によって、シオニズムには有利であると信じていた。

さらにポルケスの唯一の収入源はSSの秘密資金であった。この交渉の過程で、若きボルシュビングはまだ無名だったアイヒマンの信頼を勝ち取ったのである。

 


イスラエル建国前にパレスチナに入植したユダヤ人
(「キブツ」と呼ばれるユダヤ人の集団農場の様子)

※ パレスチナのユダヤ人入植地は1900年には22であったが、
1918年には47まで増えた。1909年には「キブツ」と呼ばれる
ユダヤ人の集団農場が作り始められ、ユダヤ人の町「テルアビブ」ができた。

 

●当時アイヒマンは、ユダヤ人問題の専門家であった。ウィーンとカイロで、アイヒマンとポルケスの会談を設定したことがもとで、ボルシュビングとアイヒマンの関係は、単なる知り合い以上のものとなった。

アイヒマンは、ボルシュビングとつながりを持つことでSSにおける「ユダヤ人問題の専門家」という地位を確立したのである。

 


アドルフ・アイヒマンSS中佐

 

●アイヒマンは後にこう語っている。

「私が初めてユダヤ人問題に取り組んだのは、私の上司フォン・ミルデンシュタインがボルシュビングとともに私の事務所を訪れてからだった。決してその前ではなかった」

「ボルシュビングはよく私の事務所に立ち寄り、パレスチナの話をしてくれた。パレスチナをはじめとする各地のシオニズムの目的や情勢について、彼は詳しく話してくれた。おかげで私も、次第にシオニズムに精通していった。……私はボルシュビングと連絡を取り続けた。というのも、私が仕事上最も興味を持っていた国の一次情報を提供してくれるのは、彼以外にいなかったからである」

 


アイヒマンの上司だったフォン・ミルデンシュタイン(右)

※ 彼はヒトラー政権誕生の2ヶ月後に夫人を同伴して半年間、
パレスチナに滞在してシオニスト・ユダヤ人と交流を深めていた



パレスチナ訪問後、熱烈なシオニスト・シンパになった
SS保安諜報部(SD)「ユダヤ人問題課」の課長であった
フォン・ミルデンシュタインの働きかけで、ナチスの機関紙
『アングリフ』に親シオニズムの記事が連載された

 

●第二次世界大戦終結間際になると、ボルシュビングは、そうすることが有利だと見るやSSの同志たちを見捨て、彼らの運命を天にまかせた。アメリカ軍部隊がオーストリア西部に侵攻した1945年の春までに、ボルシュビングは連合国に協力し始めた。

ボルシュビングは「ゲーレン機関」に採用され、後にCIAはボルシュビングに、資金や最高度のセキュリティ・クリアランス(保全許可=秘密区分の高い情報に対する接近許容度)、それにヨーロッパ中を移動できる特権を与えていた。

彼は、戦後、ヨーロッパでCIAに雇われていた契約工作員の中でも高い地位にのぼった。工作員に目をつけ採用するほか、ルーマニアに工作員を潜入させる越境工作を専門にしていた。


●ボルシュビングは、1949年の終わりには「ゲーレン機関」を離れた。そしてアメリカからの支援のもと、「ゲーレン機関」と並行して活動するもう1つの小規模のドイツ情報機関を設立するための工作活動に参加した。新しい情報機関は、アメリカのためにゲーレンの行動を注意深く監視すると同時に、東欧への浸透を続けたのである。

 


ラインハルト・ゲーレン少将

戦時中はドイツ陸軍参謀本部東方外国軍
の課長であり、対ソ諜報活動の責任者であった。

戦後はCIAと協力して「ゲーレン機関」を組織した。
(メンバーの中には逃亡中のナチ戦犯も含まれていた)。
その後、1955年に創設された西ドイツの情報機関
「連邦情報局(BND)」の初代長官を務めた。

 

■CIAが抱える問題点


●ナチ戦争犯罪を追及するジャーナリスト、クリストファー・シンプソンは著書『冷戦に憑かれた亡者たち ― ナチとアメリカ情報機関』(時事通信)の中で、ナチ残党とCIAの関係について次のように述べている。

 


(左)クリストファー・シンプソン (右)彼の著書
『冷戦に憑かれた亡者たち ― ナチとアメリカ情報機関』

戦後アメリカ情報機関は、元ナチを含めた元ナチ協力者を採用
する。深まりつつある冷戦の中で彼らの役割は…。情報公開法に
よって入手した豊富な資料を用いて、彼は1940年代後半
から50年代にかけての冷戦の裏側を描き出している。

 

「アメリカに過激な亡命者組織がやって来た時、CIAはそれら組織との関係を断ち切ったわけではない。むしろそれら亡命者組織を国内外の秘密工作に利用したのである。1950年代半ば以前のCIAは、数十の、おそらくは数百もの元ナチや元親衛隊(SS)隊員と密接な関係を保っていた。そうした元ナチや元SSは、東欧系移民が作り上げたアメリカ国内の政治組織の主導権を握りつつあった。CIAは、過激派グループやそのメンバーへの支援をやめるどころか、グループの指導者を、かなりの期間、本国の正統な代表として扱った。CIAがアメリカヘの移民計画に着手していた頃、アメリカ国内では、CIAの広報・宣伝活動が劇的に拡大していた。この活動の主眼は、東欧からの亡命政治家が元ナチ協力者であるか否かにかかわらず信頼できる正統な人間であるという評価を、世論に確立することであった。」

「こうしたCIAの活動は、アメリカの政治状況、特に人口の多いスラヴ系や東欧系の移民一世の間の政治状況に影響を与え続けた。1950年代には、中欧や東欧から何十万人ものまともな人々が、しばしば私財を投げうって合法的に入国している。しかしCIAが始めた活動によって、数千人にものぼる武装親衛隊(SS)の生き残りといった元ナチ協力者が、合法的な移民と同時に、国内の移民社会に潜り込むことになったのである。このことで移民社会内部においては、極右政治運動の復活する基盤ができた。そして極右政治運動は、今日まで活発な活動を続けている。」


●クリストファー・シンプソンは、アレン・ダレスがCIA長官になった1953年までには、任務遂行のためナチ戦争犯罪人を利用することへのCIA内部の反発は、ほとんどなくなっていたようだとして、次のような問題点を指摘している。

「重要なことは、『CIAの任務遂行のため』というフレーズである。アメリカは、元ナチ自身の身の上を思って、彼らを雇い保護したのではない。そうではなく、アメリカの安全保障に関わると思われた目標達成のために、元ナチは雇われ、保護されたのである。裏返して言えばこういうことだ。たとえある人間が大量殺人を引き起こしていたとしても、もしその人間が有用だと信じられるならばCIAで働く資格を失うことはない。しかも、そのような人間がアメリカ情報機関で働いてしまえば、その人間が関与した工作を秘匿するために、必然的にその人間を保護しなければならなくなったのである。」


●さらに彼はこう述べている。

「確認できる限りでは、1950年代を通して、元ナチと元ナチ協力者の流入に歯止めをかけるべくCIAがしたことは、何一つなかった。むしろ、亡命者組織への政府の補助金額は事実上増加したのである。かつて祖国を占領したドイツ軍のために工作員として志願した人間は、いったんアメリカに入国すると、CIAやFBIの情報源として活動するようになったのである。CIAやFBIは、当然のことながら秘密情報提供者の名前を公表しようとはしなかったが、1978年、『アメリカ会計検査院』が行った調査では、アメリカの治安機関と元ファシストとの職務上の関係が存在することを明らかにしている。

『アメリカ会計検査院』は、単なるナチ協力者ではなく、戦争犯罪人であったと報じられた111人をアメリカ国内に発見した。情報提供者としてはおよそ17人がアメリカでCIAと契約を結び、そのほとんどは以前からCIAの海外契約工作員であった。さらに、その他のさまざまな能力によってCIAに協力していた人間が5人いた。残りの人間はFBIで働いていた。つまり戦争犯罪人だとされて『アメリカ会計検査院』が調べた111人のうち、約20%がアメリカ国内の治安機関で情報提供者として働いていたのである。」

 

 


 

■追加情報:米CIA、ナチス・アイヒマンを知りながら隠し通す ─ 米機密文書で明らかに

 


(左)2005年2月4日に「国家安全保障公文書館」が明らかにしたCIAの歴史資料の表紙
(右)ナチス・ドイツの情報機関の最高幹部ラインハルト・ゲーレン少将

※ 彼は戦後、CIAと協力して「ゲーレン機関」を組織した。
メンバーの中には逃亡中のナチ戦犯も含まれていた。


この問題に興味のある方は、このファイルをご覧下さい↓

米CIA、ナチス・アイヒマンを知りながら隠し通す ─ 米機密文書で明らかに

 

 



── 当館作成の関連ファイル ──

南米に逃げたナチスの残党 

幅広い諜報活動を展開する「CIA (中央情報局)」 

 


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