No.a6fhc400

作成 1998.2

 

南米に逃げたナチ残党

 

 

第1章
“ナチ・ハンター”の異名を持つ
サイモン・ヴィーゼンタール
第2章
マルチン・ボルマンによる
戦後のナチス再建計画
第3章
戦後、連合軍に逮捕された
ナチ幹部たち
第4章
ナチ残党の地下組織
「オデッサ」
第5章
カトリック教会の援助機関と
「蜘蛛(ディー・シュピネ)」
第6章
国際秘密組織「SS同志会」と
オットー・スコルツェニー
第7章
ナチ戦犯受け入れに最も寛容だった
フランコ政権とペロン政権
第8章
ニーチェの妹が南米パラグアイに
建設した「新ゲルマニア」
第9章
クラウス・バルビー事件

おまけ
ヨーゼフ・メンゲレ博士を描いた
映画『マイ・ファーザー 〜死の天使〜』
追加1
米CIA、ナチス・アイヒマンを
知りながら隠し通す
〜 米機密文書で明らかに 〜
追加2
南米チリに築かれた
“ドイツ人帝国”
追加3
『ナチ狩り』

↑読みたい「章」をクリックすればスライド移動します

 

 


 

■■第1章:“ナチ・ハンター”の異名を持つサイモン・ヴィーゼンタール


●1995年1月に、日本のジャーナリズム界を震撼させる事件が起きた。

この事件は、アウシュヴィッツのガス室に疑問を投げかける記事が、雑誌『マルコポーロ』(文藝春秋社)に載ったのがきっかけだった。この記事のことを知った、アメリカのユダヤ人組織「サイモン・ヴィーゼンタール・センター(SWC)」は、ロサンゼルス駐在日本領事の駐米大使に抗議し、さらにその後、イスラエル大使館とともに文藝春秋社に抗議した。また「サイモン・ヴィーゼンタール・センター」は『マルコポーロ』への広告差し止めを呼びかけ、フィリップモリス、マイクロソフト、フォルクスワーゲン、三菱自動車などが広告出稿を拒否することになった。

 

 
『マルコポーロ』廃刊号。問題となった記事=
「戦後世界史最大のタブー、ナチ『ガス室』はなかった」

 

●結局、文藝春秋社側は一方的に謝罪し、『マルコポーロ』は廃刊となり、花田紀凱編集長は解任され、田中健五社長は辞任した。この『マルコポーロ』廃刊事件で、サイモン・ヴィーゼンタールの名は、大きな衝撃をもって多くの日本人の心に刻まれることになった。

 


文藝春秋社の田中健五社長(右)は、東京都内の
ホテルで記者会見し、「深く反省した」と述べ、正式に謝罪した。
(左)は「SWC」の副館長であるラビ、アブラハム・クーパー。



“ナチ・ハンター”の異名を持つ
サイモン・ヴィーゼンタール

 

●このサイモン・ヴィーゼンタールという男は、1908年、ガリチア(ウクライナ西部)生まれのユダヤ人である。第二次世界大戦中多数の強制収容所を転々としているところを連合軍によって救出され、アメリカ軍の「戦略情報局(OSS)」の戦犯追及機関の情報員になり、オーストリアにおける戦犯捜索に協力したのだった。ヴィーゼンタールや彼の妻の一族のうち、ナチスによって殺された人は89人にのぼったという。

1961年に連合軍による占領時代が終わると、ヴィーゼンタールは、オーストリアのウィーンに、「ナチ体制下のユダヤ人犠牲者連盟・記録センター」を設立した。この記録センターには、約2万2500名の元ナチスに関する情報が納められているという。

ヴィーゼンタールの組織は、民間の情報収集機関のため、逮捕の権限はない。戦争犯罪人についての情報を収集し、犯罪の証拠を発掘し、関係当局にしかるべき情報を提供する活動に限られている。この組織の運営費は、全世界に散らばっているユダヤ人からの寄付によって賄われている。



●ヴィーゼンタールを一躍、名高いものにしたのは、1960年の「アイヒマン事件」である。

ヴィーゼンタールは、アイヒマンの過去から、1945年5月の失踪までの経過を克明に調べあげ、失踪の足どりを執拗に追った。そして、アイヒマンが、リカルド・クレメントという偽名で南米アルゼンチンのブエノスアイレスに生存している事実を突き止め、この情報を、同じくアイヒマンを追っているイスラエルの秘密情報機関「モサド」に連絡したのである。アイヒマン逮捕(拉致)の知らせは全世界を驚かせたが、この「アイヒマン事件」により、ヴィーゼンタールは“ナチ・ハンター”としての名声を得たのである。(イスラエルで裁判にかけられたアイヒマンは1962年5月に絞首刑に処せられた)。

ヴィーゼンタールは、フランスやオーストリアの抵抗運動組織から表彰され、オランダ自由勲章やルクセンブルク自由勲章を授けられた。国連による最高の表彰を受けたほか、1980年にはジミー・カーター大統領に金の特別勲章を授与された。1986年には、フランスのレジオン・ドヌール勲章も受章している。

 

 
アドルフ・アイヒマン(SS中佐)

戦後、アイヒマンは南米アルゼンチンで
逃亡生活を送っていた。しかし、イスラエルの秘密情報機関
「モサド」の秘密工作チームによって1960年5月11日に誘拐・逮捕され、
イスラエルへ空輸された。この「アイヒマン拉致事件」は、イスラエル政府が
アルゼンチン政府に対して正式な外交的手続きを踏んだものではなかった。
そのため、アルゼンチン政府は「主権侵害」と猛抗議、大使召還、
国連提訴など、解決まで2ヶ月間もめた。


 
アイヒマンの裁判は世界注視の中で1961年4月11日にエルサレム地裁で始まった。
アイヒマンの座る被告席は、防弾ガラス張りになっていた。約8ヶ月の審理ののち同年12月15日に
死刑判決が下され(これはイスラエル唯一の死刑判決である)、翌年5月31日、絞首刑が執行された。
アイヒマンの死体は彼の希望通り火葬にされたが、遺骨はイスラエルの領海外の海中に投じられた。

 

1977年には、ヴィーゼンタールの業績をたたえてアメリカのロサンゼルスに「サイモン・ヴィーゼンタール・センター(SWC)」が創設された。

このセンターは、ナチ戦犯の追跡調査ばかりでなく、啓蒙組織としての顔も持っている。このセンターが運営する「寛容の博物館(Museum of Tolerance)」は、非ユダヤ人を中心とする学生に、ナチスのユダヤ人迫害を理解してもらうためのガイド・コースが設けられていて、博物館を訪れた人々は、館内の資料や展示によって、ナチスの残虐さについて理解を深めることができるように作られている(毎年40万人以上の人が訪れるという)。

「サイモン・ヴィーゼンタール・センター」はニューヨーク、シカゴ、ワシントン、トロント、パリ、エルサレムにもオフィスを開設している。

 

 
「サイモン・ヴィーゼンタール・センター」が運営する
「寛容の博物館(Museum of Tolerance)」=ホロコースト博物館

センターが運営するこの博物館は、1993年2月にロサンゼルスに設立された。
館内は「マルチメディア資料室」 「公文書資料室」 「ホロコースト・セクション」の
3つに分かれており、コンピュータを活用したマルチメディアや実際の展示品
などによって、ナチスの残虐さについて理解を深めることができるように
作られている。年間40万人を超える来館者があるが、このうち
約15万人は学校の授業で訪れる子供たちだという。

 

●ヴィーゼンタールの組織と同じく、ナチ残党の追跡に携わってきた民間団体には、もうひとつ「世界ユダヤ人会議」がある。

この組織は1936年、ドイツに隣接するスイスのチューリヒに、32ヶ国のユダヤ人代表280人が集まって創設された。終戦直後、「世界ユダヤ人会議」はナチス・ドイツの罪状を明らかにすべく、ランツベルク戦争犯罪裁判に代表を送り込み、後のニュルンベルク軍事法廷の基本原則に大きな影響を及ぼしている。とりわけ、ユダヤ人問題に関する多くの提言を行い、検事団に文書や証言を提供するなど、裁判に大きな足跡を残した。

さらにナチスに略奪されたユダヤ人の財産を取り戻すために、「世界ユダヤ人会議」は主権を回復して間もない西ドイツ政府を相手取り、賠償を求める作業に着手し、西ドイツがユダヤ人の生還者に損失財産の補償を行い、イスラエルに対しても多額の賠償金を支払うという、ルクセンブルク合意を現出させた。また「世界ユダヤ人会議」の更なる働きかけで、1979年、西ドイツの連邦会議は、ユダヤ人問題についての「時効の廃止」を承認することになった。

 


イスラエルの国旗

 

●ナチスの戦犯を追及する“司法機関”には、ドイツの「ルードヴィヒスブルク・センター」がある。

この機関は、現在、1万6000名の戦犯リストを用意している。戦時中に被害を受けた国々も、独自の捜索機関を設け、まだ逮捕されていない行方不明のナチ戦犯を追及している。名前が重複している場合もあるが、各国の戦犯リストを合計すれば、3万名を上回ると言われている。これらは、犯行と名前が確認されている者だけであって、そのほかにも、犯罪を行った者の名前が確認されていない場合があるという。


なお、大戦末期、ヨーロッパ南部で行動していたイギリス軍指揮下にあったユダヤ人部隊は、イタリア、ドイツ、オーストリア国境周辺で敗走するナチス・ドイツ軍を追撃、捕えた将兵を処刑するなどした。戦闘とは別の個別的な復讐といえる行動がみられた。このため、イギリス軍はユダヤ人部隊に進撃停止命令を出すほどだった。処刑した数は少なくみても2000人におよぶとの説もあるが、実数は不明。

ポーランド、ソ連などの東方地域では、両国部隊に参加したユダヤ人将兵や解放されたユダヤ人がナチスを追跡、所在を確認して連合軍に通報、処罰を求めた方法と、ユダヤ人自らが戦犯ナチス・ドイツ将兵を特定しながら追跡し、発見しだい現場で個別的に処刑する方法がとられた。

 


ナチスに対する復讐に燃える「ユダヤ人部隊」

彼らは戦犯ナチス・ドイツ将兵を特定しながら
追跡し、発見しだい現場で個別的に処刑した

 

●このポーランドやソ連などから逃亡したナチス戦犯追及の中心になったのは、オーストリアのウィーンに置かれたユダヤ人組織である。これには1920年に結成されたユダヤ人武装組織「ハガナ」機関(イスラエル建国後は解消)と、ウィーン大学のユダヤ人学生が中心になって結成された「反ナチ学生組織」の2つがあった。双方は協力関係にあった。

当時、両組織はウィーン市内外で35人のナチス戦犯の所在を確認、ソ連軍に通報して逮捕、軍事裁判で死刑や有罪判決を得るなどの実績をあげた。イスラエル建国後、両組織に所属していた人々の大部分が祖国に移住したためウィーンでの活動は次第に低調になる。しかし、イスラエル共和国ではナチス追及の手は緩めず、1950年に「ナチス及びナチス協力者処罰法」を設け、中心的役割を担った強力な秘密情報機関「モサド」が活動を展開した。

 

 


 

■■第2章:マルチン・ボルマンによる戦後のナチス再建計画


●戦時中に、非軍事的な民間人を殺害したドイツ人の戦争犯罪人は100万人もいると言われているが、その大部分はナチス親衛隊(SS)の隊員だった。ナチス親衛隊は、親衛隊の職員や補助組織のメンバーを含めると、約150万名にものぼる。

親衛隊組織の全員が戦争犯罪者ではないが、連合国側はこのうち、約5万名を逮捕し、10分の1の5000名を裁判にかけた。死刑を執行された者も、489名に及んでいる。

 

 
連合軍による「ニュルンベルク裁判」の様子(1945年11月)

この国際軍事裁判はナチスの党大会の開催地だったニュルンベルクで開かれた。
史上初の「戦争犯罪」に対する裁判で、12名のナチス高官に死刑判決が下された。

 

1945年11月、ナチス・ドイツの戦争責任を追及するために連合軍が開いた「ニュルンベルク裁判」は、起訴されたA級戦犯22名のうち、12名が死刑判決(絞首刑)を受けるという厳しい裁判だった。死刑判決を受けたリストの中で、ただ1人だけ逮捕を逃れ、死刑執行も免れた大物がいる。マルチン・ボルマンである。

マルチン・ボルマンは、ナチス帝国の最期の日に、ソ連軍に包囲されていたベルリンから忽然と姿を消してしまったのである。

 


ヒトラーに忠実な側近中の
側近だったマルチン・ボルマン大将

 ドイツ敗戦直前まで、総統秘書長、副総統、
ナチ党官房長として絶大な権力をふるった

(この人物の「死」に関しては、依然
 として多くの謎が残されている…)

 

●ドイツ敗戦直前までボルマンは、総統秘書長、副総統、ナチ党官房長として絶大な権力をふるっていた。彼が握っていた権力は、ニュルンベルク裁判で起訴されたA級戦犯22名の中でも最高のものだったといえる。

優れた洞察力と並外れた現実感覚の持ち主であったボルマンは、1943年にナチス・ドイツ軍が「スターリングラードの攻防」でソ連軍に敗れると、この敗北を冷静に受け止め、その後、いちはやく、ドイツの敗北を前提とする「戦後計画」に着手したのだった。ナチス・ドイツ軍はこのスターリングラードの敗北を境にして、凋落の一途をたどった。


●ナチス帝国の崩壊を予知したボルマンは、ナチスの莫大な財宝を資本として使い、大勢の優秀なナチ党員をドイツ本国から脱出させる作戦を練った。財宝は、黄金75トン強、その他の何トンにもおよぶ貴金属や宝石類、真札、贋札含め数十億ドル分の通貨から成っていた。そのほか、特殊鋼板、産業機械、戦後の産業地域を支配するのに使える秘密の青写真などが、ナチスの貯えた資産の中に含まれていたという。

ボルマンは、実際は、スターリングラード敗北の前年、既にドイツの敗戦を予測していた。1942年の春、ボルマンは「I・Gファルベン社」のヘルマン・シュミッツ会長など、親しい財界人を一堂に集め、連合軍によって企業資産が接収される可能性の高いことを説き、「企業防衛策」を示唆していたのである。

 


「I・G・ファルベン社」の
ヘルマン・シュミッツ会長

 

●ボルマンが提示した「企業防衛策」は、企業の流動資産を国外のドイツ系企業に移して、連合軍の接収に備えるというものだった。事実、この会議の直後から、ドイツの大手企業は、外国のドイツ系関連会社に“隠匿資金”を振り込み始めている。1944年だけで、約10億ドルが、本国の企業から外国の関連会社に振り込まれたとみられている。1944年の夏になると、ボルマンは、戦後に展開すべきナチ運動の「再建計画」を完了している。これを要約すれば、次の通りである。


【1】 戦後、ナチ組織を国外に建設する

【2】 そのために必要な活動資金を国外に移動しておく

【3】 ナチスの党資金を企業に貸与しておき、戦後にこれを、政治献金の形で回収する

【4】 ドイツ国内におけるナチ党の再建要員として、戦犯に問われる心配のない下級幹部を、企業内に潜伏させておく

【5】 ナチ党の再建に必要な記録文書、特に党員名簿や協力者名簿を隠匿しておく



●ボルマンが準備したこの「再建計画」の一部は、戦後、連合軍が押収した文書の中から発見されている。この文書は、1944年8月10日、ナチ党指導部の指示により、ストラスブルグの「メゾン・ルージュ・ホテル(赤い館)」に財界人を集めて開かれた会議の議事録だった。この会議には、国防軍最高司令部と軍需省から、それぞれ代表者が出席している。財界側からは、「クルップ社」「メッサーシュミット社」「レックリング社」「ヘルマン・ゲーリング帝国工場」の代表者らが参加した。

議事録は次のように述べている。

「党の指導部は、そのある者が、戦犯に問われるだろうと予想している。このため、ドイツの基幹産業は、党の下級指導者を、今から“技術顧問”として受け入れる準備をしておく必要がある。党は、外国での戦後組織に献金する企業に対して、巨額の資金を貸与する。党はその代わり、終戦後の強大な新帝国を建設するために、すでに国外に移された資産、あるいは今後に移される資産の支援を必要としている」


●この議事録は、ボルマンが準備した戦後ナチスの「再建計画」を受けたもので、基幹産業はナチスの下級幹部を採用せよ、ナチ資金を貸与する代わり戦後の再建ナチスに政治献金せよ、国外のナチ組織を支援せよ、という協力要請に他ならなかった。また、同議事録によれば、この会議では、ドイツ降伏後の、連合国側に対する経済戦争の準備、地下抵抗運動の準備などについても申し合わせている。



ボルマンが準備した「再建計画」に従って、ナチス経済相ヒャルマー・シャハトは、およそ750のドイツ企業を国外に移転させる任務に就いた。ナチ党は、潤沢な党資金を企業側に預け、企業側は、想定される連合軍の接収から身を守るために、自己資金とナチの貸与資金を“架空取引”を設定して、外国のドイツ系関連会社に振り込んだ。

この時、企業側がどれほどの資金提供を受け、また、どれほどの流動資金を国外に持ち出したものかは不明である。

1946年に行われたアメリカ財務省の調査によると、スペインおよびポルトガルのドイツ系企業200社、トルコのドイツ系企業35社、アルゼンチン98社、スイス214社がそれぞれ、ドイツ本国の企業から送金を受けたといわれる。それらの資金の多くが、西ドイツの独立後に本国に引き上げられ、戦後の経済復興に役立ったのである。

 


ヒャルマー・シャハト


ドイツ国立銀行総裁と経済相を兼任し、
ナチスの財布のひもを握った大銀行家。
戦後、ニュルンベルク軍事裁判にかけ
られたが「無罪」の判決を受ける。

 

ナチスが所有する宝石、貴金属美術品、あるいは記録文書は、ヨーロッパ各地に隠匿されたり、南米その他に輸送された。海外へ搬出されたナチスの財宝は、イタリアを経由したものと、スペインを経由したものとがあり、イタリア経由には「鷹の飛翔作戦」という暗号名、スペイン経由には「火の島作戦」という暗号名がつけられていた。

「火の島作戦」は、ドイツからフランスを経由して、スペインまでトラックで輸送し、カディス港から潜水艦により、アルゼンチンまで運ぶルートである。「火の島作戦」が実際に行われていたことについては、ナチスに好意的だったアルゼンチンのペロン大統領が、1955年に失脚したのち、アルゼンチンの関係者によって裏付けられている。

ドイツ本国からトラック輸送された財宝を、スペインで受け取っていたのは、元スペイン大使と元アルゼンチン駐在海軍武官、それにドイツ系アルゼンチン人の3人である。また、Uボート(潜水艦)によって財宝が運び込まれたアルゼンチンのブエノス・アイレスでは、ドイツ大使館が雇っていた情報員と某銀行幹部と中央銀行顧問、それにドイツ人牧畜業者が荷受人になっていた。



1945年、ドイツが連合軍によって包囲され敗戦寸前になると、スペイン経由、イタリア経由に代わって、フレンスブルクや、キールの海軍基地から、Uボートで南米に財宝を移動する方法が編み出されている。制海権と制空権を失ったドイツは、新型の「長距離輸送用潜水艦」を開発していたのである。

「エレクトロ・ボート」と呼ばれていたこの潜水艦は、第二次世界大戦下の、ドイツ潜水艦技術の頂点に立つ型である。バッテリーが従来の3倍も持続するという驚異的なもので、水中でエンジンを始動でき、バッテリーチャージャーも、シュノーケルの採用で水中で行うことができた。当時の潜水艦のほとんどは、速度が7ノットしか出なかったが、この新型潜水艦は、水中で16ノットものスピードを出すことができた。当時としては驚異的な水中性能を誇ったこの新型潜水艦は、戦後、ポラリス原潜などにその技術が継承されたと言われている。

この新型のUボートが、どれほどのナチ資産を南米に輸送したのか不明だが、終戦時の1945年5月に至るまで、輸送は継続していたのである。

 

 
(左)ノルウェーに建造されていたUボート基地 (右)ドイツ・キール軍港のUボート艦隊



「エレクトロ・ボート」は非常に優れたUボートで、第二次世界大戦中に
出現した潜水艦の中では実用面で最も優れたものであった。
エレクトロ・ボートのコンセプト通り、大型のバッテリー
372個が直列に配置されていた。

 

ナチス帝国崩壊直前にヨーロッパを脱出し、無事に南米アルゼンチンに到着したUボートには、次のものがある。

ハインツ・シェファー大尉のU−977号は、4月初めにノルウェーのフィヨルドを出発し、連合国の対潜哨戒網をかいくぐって、15週間後に無事、アルゼンチンに到着した。また、オットー・ヴェルムート大尉のU−530号も、同じくアルゼンチンに辿り着いている。

イギリス人ジャーナリストの、ウィリアム・スチーブンソンによれば、消息不明を伝えられていたUボートのうち、U−34、U−239、U−547、U−957、U−1000など5隻が、やはり南米に向かったと推測されている。

 


敗戦から2ヶ月後(1945年7月10日)に投降
してきたU−530潜水艦の乗組員たち

 

●こうしたナチスの不審な動きについて、アメリカ軍の「戦略情報局(OSS)」は次のように報告している。

「ナチ党のメンバー、ドイツの産業資本家、ドイツ陸軍は、もはや勝利できないと知って、今度は戦後産業計画を展開すべく、諸外国の通商部との友好を新たに固め、戦前の企業連合を復活させる計画に乗り換え始めている。ドイツの技術者、文化人、秘密諜報員は、経済的、文化的、政治的なつながりを広げる目的をもって諸外国に潜入するための綿密なプランをもっている。外国の企業や研究所は、ドイツの技術者や科学者を低賃金で雇い入れることができるだろう。ドイツの資本と、最新の専門学校ならびに研究施設建設のためのプランが、極端に有利な条件で提供されよう。それによってドイツ人は、新兵器の設計と完成を行うための絶好の機会を手にすることになるからである」

 

 


 

■■第3章:戦後、連合軍に逮捕されたナチ幹部たち


●1945年5月7日、ドイツは無条件降伏し、第二次世界大戦におけるヨーロッパ戦線は終結した。

イギリスのアンソニー・イーデン外相はロンドンで、「ノルウェーから、バイエルン・アルプスにかけて、連合軍は史上最大の追跡を繰り広げている」と発表した。

 

 
(左)激戦の末、ベルリンの帝国議会のドームに翻ったソ連国旗
(右)イギリスの外務大臣アンソニー・イーデン

このイギリスのイーデン外相は、ロンドンで
「ノルウェーから、バイエルン・アルプスにかけて、
連合軍は史上最大の追跡を繰り広げている」と発表した

 

●パリの大ホテルの一室では、大勢の連合軍情報将校および事務官が、何千というナチの個人ファイルと記録カードの検討を行っていた。ドイツ全土がしらみつぶしに捜索され、難民の列はくまなく調べられ、捕虜は一人残らず尋問された。

その結果、大物戦犯が数人捕らえられたが、こうした捜査網を幸運にもくぐりぬけたナチ幹部もいた。


ヘルマン・ゲーリングは1945年5月9日アメリカ軍に投降した。

ヴィルヘルム・カイテルカール・デーニッツはその後まもなく逮捕された。

軍需大臣アルベルト・シュペーアはイギリス軍将校にグリュックスブルクの執務室で捕まった。フランツ・フォン・パーペンは、娘婿のマックス・フォン・シュトックハウゼン伯所有の城の敷地にある、庭師の小屋に潜んでいるところを発見された。

 

  
左から、ヘルマン・ゲーリング、アルベルト・シュペーア、フランツ・フォン・パーペン

 

●ポーランド総督でユダヤ人を迫害したナチ法律顧問、ハンス・フランクはベルヒテスガーデン近郊の捕虜収容所で逮捕され、自殺するところを阻止された。

同じくベルヒテスガーデン近くで、ザイラーと名乗って画家として暮らしていた元教育大臣ユリウス・シュトライヒャーが逮捕された(1945年5月27日)。ニュルンベルク裁判で死刑判決を受けた彼は、絞首場で「ハイル・ヒトラー! 今にボルシェビキがお前らを殺しに来るぞ!」とその場にいたアメリカ軍人に言い放った。

 

 
 (左)ハンス・フランク (右)ユリウス・シュトライヒャー

 

●第三帝国外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップは、シャンパンのセールスマンという以前従事していた仕事に就いて、もう一度出直そうとしていた矢先、1945年6月14日、イギリス軍将校らによってハンブルクで逮捕された。

「アウシュヴィッツ収容所」の所長ルドルフ・ヘース(副総統のルドルフ・ヘスとは別人)は1946年3月11日、フレンスブルクから遠くない農場で働いているところをイギリス軍に発見された。彼はイギリス軍からポーランド当局に引き渡され、死刑を宣告されて絞首刑になった。

 

 
(左)ヨアヒム・フォン・リッベントロップ (右)ルドルフ・ヘース

 

●SS長官ハインリッヒ・ヒムラーは、1945年5月22日、ブレマーハーフェンに至る道路に設けられたイギリス軍の検問所で逮捕された。彼はひげを剃り落とし、左眼には黒い眼帯をあて、陸軍兵卒の上着に私服のズボンをはいていた。

その後、ヒムラーはリューネブルクのイギリス陸軍本部に連行されたが、隠し持っていた青酸カリのカプセルを噛み砕いて服毒自殺した。

 

 
(左)ハインリッヒ・ヒムラー (右)青酸カリで自殺したヒムラーの死体

 

 


 

■■第4章:ナチ残党の地下組織「オデッサ」


ナチ残党は、戦後ほどなく、戦争犯罪人に指名された親衛隊の本隊員の逃亡を援ける地下組織を作った。暗号名で「オデッサ」とか「蜘蛛」とよばれる秘密組織である。

その他にも、「帝国」「地下救助」「岩の門」などが次々に誕生した。いずれも、世界中にナチスの入植地を設け、またSSの推定20万人におよぶ外国メンバーをも部分的に使って末端組織作りを目指すものだった。スイス国内だけでも2万戸の隠れ家があった、と伝えられている。


●SS戦犯容疑者の相互援助組織ともいうべき、これらグループの全貌は、謎に包まれている。連合軍がその存在に気づいたのは、かなり後のことで、組織の正体を暴くことはできなかった。

しかしこれらの逃亡補助機関は、作家フレデリック・フォーサイスが『オデッサ・ファイル』の中で描いたような得体の知れない巨大組織ではなかったようだ。実際は、地下組織と呼べるほどの力はなく、ごく小規模の逃亡補助機関だったとの見方もある。


●これらの組織の中でも最大のグループは「オデッサ」である。オデッサ(ODESSA)とは「親衛隊の組織」の略称であり、設立されたのは1947年のことで、戦時中ではない。

独自のナチ戦犯追及機関を持つユダヤ人サイモン・ヴィーゼンタールも、この「オデッサ」の全貌を暴くことはできなかった。しかし、「オデッサ」がドイツからの逃亡者をスイスやオーストリアに引き入れ、必要とあればイタリアに逃がしていること、そしてスペインや南米とのつながりを持っていること、までは発見できた。

 


「オデッサ」の謎を追及していた
サイモン・ヴィーゼンタール

 

●サイモン・ヴィーゼンタールは語る。

「『オデッサ』は、十分に能率的ネットワークとして組織されている。40マイルごとに中継拠点が設けられ、そこには、近くの2つの中継拠点しか知らない、3人から5人ほどの人間が駐在している。彼らは、逃亡者を受け取る中継拠点と、次に引き渡す中継拠点しか知らないわけである。中継拠点は、オーストリア−ドイツ間の国境全体、特に上部オーストリアのオスターミーティング、ザルツブルク地方のツェル・アム・ゼー、チロルのインスブルックにほど近いイグルスなどに設けられている。オーストリアとスイスのどちらにも近いリンダウ市に、『オデッサ』は貿易商社を設立しており、カイロとダマスカスに支店を設けている」

「しばらく後に、私は次のことを発見した。それは、『オデッサ』が、オーストリア−イタリア間の、いわゆる修道院ルートを開発していたことである。ローマ教会の僧、とりわけフランシスコ派の修道僧たちは、逃亡者が、僧院の長い“安全な”ルートを渡って逃げるのを助けている。疑いなく、カトリックの僧たちは、キリスト教の哀れみの感情に駆られている」

「『オデッサ』は、国境地帯で暗躍するあらゆる密輸業者と結託している。また、ヨーロッパ各国の首都にあるエジプト、スペイン、シリアの大使館、それに南米のいくつかの大使館と密接なつながりを持っている。さらに、スペインのファランヘ党の“社会救済”組織のドイツ課とも、彼らは連携している。この組織は、“旅行者”をスペインに運んだり、南米に送り込んだりしている。別の“旅行者”はジェノヴァに連れて来られ、南米行きの船に乗せられたりもしている」


●「オデッサ」の謎を追及するサイモン・ヴィーゼンタールは、のちに「オデッサ」の責任者はシリア政府発行のパスポートを所持するハダド・セイドと名乗る男で、この男の正体は、親衛隊のフランツ・ロステロであることを突き止めている。

 

 


 

■■第5章:カトリック教会の援助機関と「蜘蛛(ディー・シュピネ)」


●ナチ残党による地下組織は、オーストリアとイタリア北部に点在するフランシスコ派の修道院と連携していた。この修道院組織の、ナチ戦犯に対する援助活動は、アロイス・フーダル司教によって、積極的に承認されていたのである。


●このアロイス・フーダル司教は、1885年生まれのドイツ人で、ナチ体制の協力者として、つとに名高い存在だった。戦争が終わると、フーダル司教は、バチカン教皇庁を動かし、カトリックの教会組織を、ナチ逃亡者の隠れ家に提供している。フーダル司教の援助活動は、ナチ逃亡者ばかりではなかった。侵攻してきたソ連軍に抵抗し、スターリンの仮借なき弾圧にあえぐクロアチア地方の民族主義者たちにも、フーダル司教は支援をさしのべていたのである。

ナチの逃亡者やクロアチアの逃亡者たちは、カトリックの教会組織を頼って、イタリアへ落ちのびた。バチカン教皇庁は、その彼らに偽名の難民パスポートを発行するなどして、海外(主に南米)への脱出を支援したのだった。

※ ナチスとバチカンの関係について詳しく知りたい方は、別ファイル「ナチスとバチカン 〜教皇ピウス12世の沈黙〜」をご覧下さい。

 

 
アロイス・フーダル司教

ナチの逃亡者やクロアチアの
逃亡者たちを積極的に支援した

 

●1947年5月のアメリカ国務省の機密情報報告によれば、ナチ残党とその協力者がバチカン教皇庁の活動から除外されていないことが示唆されている。

「教皇庁は、出国者の非合法な動きに関与する唯一最大の機関である。この非合法な通行に教会が関与したことを正当化するには、布教活動と称するだけでよい。カトリック信徒であることを示しさえすれば、国籍や政治的信条に関わりなく、いかなる人間でも助けるというのが教皇庁の希望なのだ」

「カトリック教会が力を持っている南米諸国については、教皇庁がそれら諸国の公館に圧力をかけた結果、元ナチであれ、ファッショ的な政治団体に属していた者であれ、反共産主義者であれば喜んで入国を受け入れるようになった。実際問題として、現時点の教皇庁は、ローマ駐在の南米諸国の領事と領事館の業務を行っている」



●ところで、「オデッサ」と肩を並べる、もうひとつの代表的な地下組織に「蜘蛛(ディー・シュピネ)」と呼ばれる組織がある。この組織は、1948年に、グラーゼンバッハ連合軍捕虜収容所を脱走した親衛隊員によって設立された。


アドルフ・アイヒマンは、1946年1月5日にワイデンの連合軍捕虜収容所を脱走して、親類や知人の間を転々としながら、逃亡の地下生活を続けていたが、「蜘蛛」のメンバーであったアイヒマンの部下アントン・ブルガーに連絡をつけて、ナチ残党の「蜘蛛」や、新ナチ党の秘密組織「7つの星」の支援を受けるようになった。

その後、「蜘蛛」のアントン・ブルガーは、アイヒマンを海外へ逃亡させるために、フーダル司教の援助機関に連絡。アイヒマンはローマの修道院からジェノヴァの修道院へ移り、彼は、ボルガノ生まれのリカルド・クレメントという名前(偽名)の身分証明書と、アルゼンチンヘの亡命パスポートを与えられた。以後、アイヒマンは、その名前で、10年間を暮らすことになる。3週間後、ジェノバの港に、アルゼンチン行きの客船「ジョバンナ号」が入港した。リカルド・クレメントことアドルフ・アイヒマンは、このジョバンナ号に乗り、ゆうゆうとヨーロッパを後にしたのである。

 

 
アドルフ・アイヒマン(SS中佐)

 

●なお、ユダヤ人1万5000人を安楽死させた医師ゲルハルト・ボーネも、1949年にバチカンの教会組織の援助でアルゼンチンに逃亡した。しかし、彼は1963年8月にドイツへ舞い戻り、西ドイツ警察に逮捕されそうになると、再びアルゼンチンに逃亡し、次いでブラジルに移り、1964年に逮捕された。

 


カトリック教会の総本山バチカン市国

 

●イギリス『ガーディアン』紙のアルゼンチン通信員であるウキ・ゴーニは、ナチ残党とカトリック教会組織の関係について次のように述べている。

「のちに教皇パウロ6世となったジョバニ・バッティスタ・モンティーニ他多くの枢機卿が、その影響力を行使してナチ残党の逃亡支援に道を開き、ときには病的なまでの反共姿勢によって、少なくともそれを道徳的に正当化した。 〈中略〉 フーダルやシリのような司教・大司教が最終的に必要な事柄を進めた。ドラゴノヴィッチ、ハイネマン、デメーテルといった神父が、パスポートの申請に署名した。

こうしたことが明白に証明されているからには、教皇ピウス12世が完全に知っていたかどうかなどという問題は、とるにたらないものであるばかりか、馬鹿馬鹿しいほど無邪気である」

 

 
(左)ナチス・ドイツの旗 (右)バチカン市国の旗

 

●ナチ戦争犯罪を追及するジャーナリスト、クリストファー・シンプソンは、ナチ残党とカトリック教会組織の関係について次のように述べている。

カトリック教会が何故、どのような経緯でナチの密航に関わるようになったかを解明できれば、大戦後に元ナチとアメリカ情報機関との同盟関係が一気に進展したわけを理解するカギとなる。中でも詳しく調べてみるべき組織は、かの有名なカトリック信徒の組織『インターマリウム』である。1940年代から1950年代初めにかけてはこの組織の全盛期で、幹部たちは、ナチ逃亡者を東欧から西側の安全な場所に密航させる活動に深く関わっていた。後に『インターマリウム』は、CIAの亡命者組織に人員を補給するきわめて重要な役割を果たすことになる。

これがかなり確かな話だというのは、『インターマリウム』の幹部20人が、自由ヨーロッパ放送(RFE)や解放放送(RL)、『被占領ヨーロッパ民族会議』(ACEN)といった組織で、活動家や幹部の座についているからだ。CIAがこれらの組織に資金を援助し支配下に置いていたことは、アメリカ政府も認めている。 〈中略〉

『インターマリウム』の指導者は、ナチ逃走活動の調整役となっていった。そして、バチカン教皇庁の難民救済活動に携わった者の多くは、同時に『インターマリウム』の幹部でもあったのである。

たとえば、『ウスタシャ』(クロアチアのファシスト組織)の逃亡者のために逃走ルートを確保したクルノスラフ・ドラゴノヴィッチ神父は、自称『インターマリウム』幹部会のクロアチア首席代表であった。情報公開法(FOIA)を通じて入手したアメリカ陸軍の調査記録によれば、ウクライナのイヴァン・ブチコ大司教は、教皇ピウス12世自身とともに介入し、ウクライナ人の武装親衛隊(SS)部隊の自由を勝ち取り、『インターマリウム』のウクライナ代表となっている。公然と親ナチを掲げていたラトビアのファシスト組織『ペルコンシュクルスツ』(雷十字)の元総統グスタフ・セルミンスは、『インターマリウム』ローマ支部の役員に任命されている」

 


ホロコーストを黙認したとして
非難されている教皇ピウス12世

「ヒトラーの教皇」とまで言われている

 

●さらにクリストファー・シンプソンは、アメリカ情報機関と「インターマリウム」のメンバーが連携しあっていた事実も指摘する。

1945年のバチカン教皇庁による難民密航ネットワークに始まり、『インターマリウム』を経て、CIAの資金援助を受けた1950年代初めの政略戦計画に至るまで、両者の人脈的なつながりは続いたのである。 〈中略〉

アメリカが、『インターマリウム』の大規模なナチ逃走組織と抜き差しならない関係になったのは、『アメリカ陸軍情報部隊(CIC)』がドラゴノヴィッチ神父を雇ったことがきっかけであった。ドラゴノヴィッチ神父は『インターマリウム』のクロアチア人幹部で、当時、アメリカが支援しつつも公式な接触をするにはきわめて『危険な』情報資産をヨーロッパから脱出させる、特別なラットライン(逃走と脱出のルート)を動かしていた。クロアチアのカトリック教会の高位聖職者であったドラゴノヴィッチ神父は、唯一最大のナチ逃走活動を行っていたのである」

「後のアメリカ司法省の報告によれば、ドラゴノヴィッチ神父自身も戦争犯罪人だった。アメリカ司法省は、ドラゴノヴィッチ神父がアメリカの支援する逃亡者の密航に関わり、その結果、ドラゴノヴィッチ神父の独立したナチ逃走活動に対して、事実上──好むと好まざるとにかかわらず──アメリカが資金と保護を与えていた、ということを認めている」



●また、大戦中にナチスによる迫害を逃れてイスラエルで育ったユダヤ人作家のマイケル・バー=ゾウハーは、著書『復讐者たち ─ ナチ戦犯を追うユダヤ人たちの戦後』の中でユダヤ人によるナチ狩りを克明に記録しているが、ナチ残党とバチカンについて次のように述べている。

 

 
(左)ユダヤ人作家マイケル・バー=ゾウハー
(右)彼の著書『復讐者たち』

 

1948年から1953年にかけて、ドイツにはかなりの数の地下組織が存在していた。シュピネ、オデッサ、シュティレ・ヒルフェ、ルーデル・クラブ、ブルーダーシャフト、HIAGなどで、そのすべてが多少なりとも秘密組織の形態をとり、裁きの日の到来はいつかと恐れおののいている者たちに大々的な支援を与える体制を整えていた。

産業資本家をはじめ、銀行家、元陸軍将校、そして何も詳しいことは知らない一般大衆も、これらの組織に必要な資金調達に巻きこまれた。偽名を使ってドイツ国内に潜伏中の何千というナチ戦犯は、ついに援助と庇護をもとめて行く場所ができたことを知ったのである。

裁判にかけられる者がでると、地下組織は最高の弁護士による弁護を依頼し、裁判官たちに圧力をかけ、ときには、不都合な証人を消すことさえあった。そして、裁判結果が被告にとって不利なものとなった場合は、国外逃亡の準備を整えたのである」

「バイエルンおよびイタリアの赤十字の職員の一部はナチの不法越境に手を貸したが、それ以上に驚くべき事実は、“カリタス”などの宗教団体に所属する者や、フランシスコ会やイエズス会などがナチ逃亡を支援したことである。ナチスは抜けめなく僧侶たちの慈愛の精神に訴え、教皇ピウス12世が選出されて以来勢力を拡張したバチカンの“ドイツ派閥”とナチ党の間には常に最良の関係が保たれていた。この“ドイツ派閥”の指導者の一人が大司教アロイス・フーダルだった。 〈中略〉

1947年から1953年の間、“バチカン救援ライン”もしくは“修道院ルート”が、ドイツから海外の逃亡場所へ脱出するルートの中で、最も安全、かつ、最もよく組織されたルートだった。」

 

 


 

■■第6章:国際秘密組織「SS同志会」とオットー・スコルツェニー


ナチ戦犯のクラウス・バルビーとフリードリッヒ・シュベンドは、「アメリカ陸軍情報部隊(CIC)」に有給で雇われている間、仲間のために南米に逃れる道を設けた。クラウス・バルビーはボリビア、フリードリッヒ・シュベンドはペルー、ウォルター・ラウフはチリ、アルフォンス・サッスンはエクアドル、オットー・スコルツェニーとハンス・ウルリッヒ・ルーデル、そしてハインリッヒ・ミューラーはアルゼンチンに逃れ、一方、ヨーゼフ・メンゲレはパラグアイに逃れた。

 


南米の諸都市とナチスの要人

 

「オデッサ」や「蜘蛛」を利用した戦犯逃亡者は、間もなく、相互の団結によって、身の安全をはかることになる。この組織が、旧親衛隊員の「SS同志会」という国際組織である。「ナチ・インターナショナル(国際ナチ党)」や「カメラーデンヴェルク」と呼ばれることもある。これこそ、戦後に外国組織を建設するというボルマンの構想を具現したものであると言えよう。


●この「SS同志会」についてサイモン・ヴィーゼンタールは語る。

「戦後ほどなく、親衛隊の残党たちによる“戦友組織”が、南米にあることを私は知った。その設立者の1人は、ハンス・ウルリッヒ・ルーデル大佐である。彼らは南米のどの国でも、警察、政府、あるいはドイツをはじめ、オーストリア、イタリアなどの大使館と巧妙に結びついている。旧親衛隊の組織にとって、危険の情報が、常に、大使館筋から入ってくることを知っているからである」

 


サイモン・ヴィーゼンタール

 

●『戦争の余波』の著者であるラディスラス・ファラゴも次のように述べている。

「『オデッサ』が俗に考えられているような機能と規模を持った組織が実は『SS同志会』だった。それはルーデル大佐がドイツ企業や金融界からかき集めた資金によって支えられていた」

 

 
ハンス・ウルリッヒ・ルーデル大佐

 

●このルーデル大佐とは、戦時中はドイツ空軍のエース中のエースパイロットとして2530回のミッション、519台の戦車を破壊、800台以上の装甲車・トラックを破壊、150門以上の火砲を破壊、9機の敵機を撃墜し、1941年にはソ連戦艦「マラート」を撃沈する勲功をたて、1945年にドイツ軍人最高の勲章「黄金柏葉剣ダイヤモンド騎士鉄十字章」を授与された男である。戦争を通じて、この勲章を授与されたのは、ルーデル大佐のみである。

ルーデル大佐は純粋な職業軍人であったので、どの国からも戦犯に問われているわけではなかったが、熱烈なヒトラー崇拝者であり、ナチ運動復興の意気に燃えていた。ルーデル大佐は第二次世界大戦後、「ジーメンス社」の販売代理店を、イタリアのローマに設立した。スペインのマドリードに、「マンネスマン製鋼社」の販売代理店を設立した。(「ジーメンス社」も「マンネスマン製鋼社」も、いわゆる「ヒトラー基金」に協賛していた基幹産業である)。

ルーデル大佐は、「ジーメンス社」の製品を売り込むために世界中を飛び回り、旅の先々で亡命ナチ残党に遭遇した。そして彼は、旅先で遭遇した各国のナチ残党に連絡をつけるとともに、団結を呼びかけた。こうして「SS同志会」が組織されたのである。


戦後、ネオナチ運動の国際的なスポークスマンとなったルーデル大佐は、「SS同志会」を組織するにあたって、カトリック教会の組織が中心的な役割を果たしたことを高く評価していた。

彼は次のように述べている。

「カトリック教会をどう見ようが、あなたがたの自由である。しかし大戦直後の数年間にわたって、教会が、特に内部の特定の高位聖職者が、わがドイツのエリートたちを救うために、しばしば死から救うためにしてくれたことを、我々は決して忘れない。逃走ルートの中継点となっていたローマでは、きわめて多くの手配がなされた。教会は、そのありあまる力を使って、我々が海外に出るのを助けてくれたのである。復讐と懲罰を求める血に飢えた勝者の野望は、かくして静かに、しかも秘密裏に、打ち砕かれたのである」



●「SS同志会」のメンバーは、戦後、事業家として働いていた者が多かった。

組織の設立者といわれるルーデル大佐は、「ジーメンス社」の電機製品を南米に販売する仕事に携わっていた。オットー・スコルツェニーは、「マンネスマン製鋼社」の販売代理店を経営していた。贋造紙幣の専門家だったクリューガーは、アメリカの「ITT」の子会社の重役を務めていた。アイヒマンの部下だったエーリッヒ・ラジャコヴィッチは、ラジャという偽名で銀行をそっくり買収し、イタリアの銀行家になりすましていた。トレブリンカ収容所長だったフランツ・シュタングルは、南米に移る前に、逃亡先のシリアで、すでに事業家として成功していた。

このように、「SS同志会」は、同時にまた国際的な事業家クラブでもあったのである。


●ナチ残党の事業家たちは、互いに業務提携しており、取り引きのみならず、借款などの契約を結んだりしていた。あるいは、ドイツ系企業と南米各国政府との交渉に、仲介役を務めたりしていた。イギリス人ジャーナリストの、ウィリアム・スチーブンソンは、南米におけるナチ関係者の事業活動を要約して、次のように述べている。

「借款団は『SS同志会』のための金融取引を含んでいる。その支店網は、ラテン・アメリカ諸国のすべての首都に設けられており、信頼できる幹部によって、ペルーの首都リマから指揮されている。フランスから戦犯として死刑を宣告されているクラウス・バルビー、ヒトラーのボディーガードだったスコルツェニーの旧部下の、ハバナ人のアドルク・フントハムマー、製鉄所の持ち主オスカー・オプリスト、ボルマンの従僕ヘルンツ・アシュバッハーなどが幹事役となっている。また、借款団は、補助金のようなものを運用している」



●「SS同志会」は本部をスペインのマドリードに置き、オットー・スコルツェニーが運営した。

このオットー・スコルツェニーは、「スカーフェイス」というあだ名を持つ人物である。大戦中、ヒトラーのお気に入りのSS隊員として活動し、ムッソリーニ救出で一躍有名になった。また翌年、連合国との講和を画策したハンガリーの独裁者ホルティ将軍を封じるため、その息子を、ブタペストの市内から、しかも白昼に誘拐する離れ業を演じた。彼は、その機略と大胆さをもって“ヨーロッパでもっとも危険な男”の異名をとったのである。

 

 
大戦中、ヒトラーのお気に入りの
SS隊員として活動したオットー・スコルツェニー。
“ヨーロッパでもっとも危険な男”の異名をもつ。

 

「SS同志会」は、次第に、世界中に張り巡らされた武器、テロリスト、麻薬密輸網の形成に重要な役割を果たすようになった。またオットー・スコルツェニーは、南米でナチス勢力の基地を作ったが、これが南米で数々の独裁政権を育むこととなった。こうして組織された「SS同志会」は、スコルツェニーによれば、実に22ヶ国にまたがり、会員数は10万名に及んだという。


このスコルツェニーの手腕、その非凡な組織力を狙って、いろいろな人物が彼に接近してきた。例えば、スコルツェニーはスペインの独裁者フランコ将軍に依頼されて、スペイン情報部に訓練を施し、またスペイン陸軍大学で軍事論を講義している。1953年になると、CIA長官のアレン・ダレスに懇望されて、エジプト保安警察の設立を担当している。

 

 
(左)スペインの独裁者フランコ将軍
(右)CIA長官アレン・ダレス

 

●また、“狐”の異名をとるラインハルト・ゲーレンもスコルツェニーに接近してきた。ゲーレンは第二次世界大戦中に対ソ諜報活動の責任者であったが、スコルツェニーとは、大戦末期にソ連軍の背後を衝くゲリラ作戦で協力し合った仲であった。

ゲーレンがソ連軍捕虜による「ロシア解放軍」を編成すれば、一方、スコルツェニーのほうは、スターリン体制に反対するウクライナの民族主義者や、ポーランドの抵抗運動を支援する仕事に携わるというふうだった。ゲーレンの情報部隊とスコルツェニーの破壊工作隊は、敗戦の直前に、隊員を交換するほどの親密ぶりであった。

戦後、ゲーレンは、アレン・ダレスCIA長官と協力して、対ソ情報活動を行う「ゲーレン機関」を作りあげていたが、スコルツェニーの協力を得ることで、再び地下組織網との連絡と復活に成功する。こうして「ゲーレン機関」は、信頼できる協力的な人物を各国で獲得し、多数の元ナチスを包含していったのである。これらの人物は「Vマン」と呼ばれ、「SS同志会」のメンバーの多くはまた、「ゲーレン機関」の「Vマン」でもあった。

 


ラインハルト・ゲーレン

戦後、CIAと協力して「ゲーレン機関」を組織した。
メンバーの中には逃亡中のナチ戦犯も含まれていた。

 

●スコルツェニーは、「ゲーレン機関」の要請を受けてエジプト治安部隊の訓練計画にも参加したことがある。訓練のために100人のドイツ人からなる軍事顧問団が送り込まれたが、その中には元SSや元ナチ党員がかなり含まれていた。また、団長は、かつてのロンメル将軍の参謀から武装SSの司令官に抜擢されたヴィルヘルム・ファルンバッハーであった。

エジプトのガメル・アブデル・ナセルは、スコルツェニーと元SSの協力によってエジプト権力の座についた。初期のパレスチナ・テロ・グループもスコルツェニーの訓練を受けた。また、エジプトの宣伝省には、ゲッベルスの部下だったフォン・レールス博士のスタッフが、反ユダヤキャンペーンの手腕を買われて雇われていた。

 

 


 

■■第7章:ナチ戦犯受け入れに最も寛容だったフランコ政権とペロン政権


●現在も、世界各地にナチ残党の避難所が数多く存在しているといわれているが、第二次世界大戦後、スペインの独裁者フランコ将軍がナチスの避難を認めたのがそもそものきっかけだった。

 


スペインのフランシスコ・フランコ将軍

1939年8月に「ファランヘ党」の党首・国家主席に就任、
一党独裁体制を敷く。第二次世界大戦ではヒトラーの
再三にわたる参戦要請を退けて「中立」を守り、
多くのユダヤ人をかくまった。戦後は
唯一のファッショ国家の終身主席
として天寿を全うした。

 

●サイモン・ヴィーゼンタールは語る。

「あの国(スペイン)には驚かされる。戦争中には2万5000人のユダヤ人をかくまい、引き渡し請求には頑として応じなかった。ところが戦後になると、今度は何千人ものナチスをかくまい、彼らの身柄引き渡しを拒んだのだ。何もしていないユダヤ人と、何かをしたナチスには違いがあるはずなのだが……」

 


サイモン・ヴィーゼンタール

 

サイモン・ヴィーゼンタールの組織や「世界ユダヤ人会議」によれば、戦後4万から5万人のナチ残党が南米に逃亡したとのことだが、ナチ残党の多くが南米を亡命先に選んだことには理由がある。1つには、親ナチ的なファン・ペロンの独裁政権がアルゼンチンに誕生しており、庇護を受けられることが約束されていたからである。

 

  
(左)ファン・ペロンと妻のエビータ (右)アルゼンチンの国旗

 

●このファン・ペロンは、大戦中、軍事視察武官としてヨーロッパに旅行し、ヒトラーやムッソリーニから大いなる薫陶を得て、アルゼンチンに帰国すると、直ちに全体主義的ナショナリズムの傾向が強い青年将校団の指導者として、政治運動に着手。

1943年のカスティヨ政権打倒にラミレスを支持して力を発揮し、1944年、さらにクーデターによってファレル政権が成立すると、その陸相に就任し、ほどなく副大統領となる。そして1946年、ファレルについで大統領に当選し、念願の軍事的独裁を掌握するに至ったのである。(この間、ドイツ大使館は、ペロンを中心とする青年将校たちの運動に、資金的な援助をしていた)。

大戦末期のドイツが、Uボート作戦を展開して、ひそかに南米へ隠し財宝を送り込み始めていたが、アルゼンチン関係では、副大統領時代のペロンが、その受け入れに大きく関与していたのである。そして戦後のペロン政権は、バチカン教皇庁を通じて次々に送られてくるナチ戦犯の亡命嘆願を、積極的に受け入れたのであった。アルゼンチンのペロン政権は、スペインのフランコ政権とともに、ナチ戦犯の受け入れに最も寛容だったのである。

 


アルゼンチンの独裁者だったペロン(右から2人目)と
ドイツの科学者たち。ペロンはヒトラーの崇拝者であり、
ナチ残党の南米での受け入れに果たした役割は大きかった。

 

ナチ残党の多くが南米を亡命先に選んだもう1つの理由は、ヒトラーがかなり早い時期から南米に対して並々ならぬ関心を寄せていたことと、南米にはもともとドイツ系の移民が多かったこと、

また、移民の中から強力なナチ運動が展開していたことが挙げられる。


●ハーマン・ロシュニング
は著書『破滅の声』の中の「夕食の席で」という章で、ヒトラーの南米に対する興味について記している。

「1932年夏、官邸のテラスでの夕食会の席上でのことだ。ヒトラーはアメリカに対する意見を含め、自分の計画がいかに遠大なものであるか、国家社会主義が東部および東南部ヨーロッパのみを対象としていることが、いかに誤りであるかをまくしたてた。ちょうど突撃隊(SA)の幹部が南米から帰国したばかりであったので、ヒトラーは彼に様々な質問を浴びせた。やがてコーヒーが運ばれてくると、ヒトラーは『未来の土地』についての話を始めた。それは、具体的な計画ではなく、単に抽象的な概念を繰り返すだけのものであったが、彼はブラジルに対して、非常に強い関心を持っているようだった。

ヒトラーは、『ブラジルに新しいドイツを建設しよう。そこにはわれわれの望むすべてのものがあるのだ。フッガー家とヴェルザー家がそこに土地を持っていたのだから、われわれは南米大陸に対して権利がある。われわれは、統一以前のドイツが破壊してしまったものを修復しなければならない』と語った。

 


アドルフ・ヒトラー

 

●南米とドイツのつながりは、19世紀後半までさかのぼる。

この時期、不況のどん底に落ち込んでいたドイツは、植民地熱にうかされていた。希望を失い、たいていは貧困に苦しむ何千何万という人々が移住を希望していた。そのため様々な「移民協会」が各地に次々と生まれた。1880年代前半までに数十万人のドイツ人が南米行きの船に乗った。行き先は大半がブラジルかアルゼンチンだった。ヒトラーが権力を掌握した1932年頃には、アルゼンチンのドイツ系移民は、スペイン移民に次ぐ勢力に成長していたのである。


●この海外のドイツ系移民に早くから注目していたナチ党は、在外ドイツ人の監視と統合のため、1932年に「ナチ党外国組織部」を設立。全世界を「北アメリカ」「ラテン・アメリカ」「極東・オーストラリア」「アフリカ」「北東および西ヨーロッパ」などの8つの地域に分け、それぞれに担当課を置いた。8つの地域の中でヨーロッパ大陸を別にすると、ドイツ系移民がもっとも多く住んでいたのが北アメリカの120万人、次にラテン・アメリカの80万人であった。


●ラテン・アメリカでは、ナチスのハインリッヒ・コルンの指導のもと、「アルゼンチン・ナチ党」が結成された。党員数は、第二次世界大戦が始まった1939年に6万名を数え、ヨーロッパのナチ党を別にすれば、外国組織部ではもっとも大きな勢力を誇った。

「アルゼンチン・ナチ党」は、ミュンヘンの外国支部として発足したこともあって、親組織であるミュンヘン・ナチ党の組織構造をすっかり模倣していた。「アルゼンチン・ナチ党」の眼からみれば、ヒトラー政権とヨーロッパのナチ党の崩壊は、一部の消滅にすぎず、全世界に根を張ったナチス運動の、全体的な敗北では決してなかった。


ちなみに、1977年、様々な証拠の文書を提示しながらマルチン・ボルマンの足跡を追及して『戦争の余波』を著したラディスラス・ファラゴによると、大戦末期から終戦直後にかけて、計80億ドルの財宝と15万人のナチス隊員が、ドイツから南米へ移動したという。



●参考までに、前出のユダヤ人作家のマイケル・バー=ゾウハーは、次のように述べている。

 

 
(左)ユダヤ人作家マイケル・バー=ゾウハー
(右)彼の著書『復讐者たち』

 

「終戦直後の数年間に南米の地を踏んだドイツ人は大量にいたが、そのすべてが戦争犯罪人や元SS将校、あるいはゲシュタポの幹部というわけではなかった。多数の技術者や技師、科学者もまた、この先何年ドイツにいても成功する見通しはないと判断し、新しい国で運を試そうと祖国を離れたのである。当然のことながら、こうした人々は引き寄せられるように、アルゼンチン、ブラジル、チリ、パラグアイなど、すでにドイツ人の大居留地があった国々へと渡っていった。」

だが、1955年のペロン政権崩壊は、アルゼンチンに潜伏したナチスにかなりの不安を与えた。そのため、ある者は別の避難場所を求めて他の南アメリカ諸国、あるいはスペイン、中東に移るほうが賢明だ、アメリカ合衆国でさえまだましだと考え、またある者は、逆に、もっと奥地に逃げこんで、文明から遠く離れた不毛の高地や、パンパスと呼ばれる大草原、あるいはジャングルに新たな居留地をつくるほうがよいと判断した。

ペロンに代わる新しい指導者たちもナチス逃亡者に対する友誼的政策を変えることはなかったものの、政権の交替は彼らに多くの心配と不安をもたらしたのである。その結果、アルゼンチンがパラグアイ、ブラジルと接するところ、パラナ川流域から果てしなく広がるパンパスは、ドイツ領とでも呼べそうなありさまになった。1500人ほどのドイツ人はさらに内陸部へと進み、ブラジルの奥地マトグロッソに着いた。

その一帯には人跡未踏ともいえる広大な熱帯ジャングルが広がり、植物が繁茂し、湿地が水蒸気を立ちのぼらせ、インディアンの部族が文明とは無縁の生活をしていた。ここに近づこうとすれば、舟もやっと通れる川が幾筋かと、ひどいでこぼこ道が2本しかなかった。」

「ブラジル政府からこの一帯を与えられたドイツ人は、ジャングルの開拓にとりかかった。こんな、人間の住むところとはいえない場所での生活は苛酷なものではあったが、それはまちがいなく安全であるという証左でもあった。何者であれよそ者が外の世界から近づけば、数日前にはわかる。そのほうが賢明となれば、身の危険を感じたドイツ人はしばらくジャングルに隠れることも、こっそり友人の農場に逃げこむこともできるし、国境を越えてしまうことすら可能だった。

そもそもマトグロッソは、ナチが入りこむずっと以前から、脱獄者、指名手配の犯人など、ありとあらゆる逃亡者たちの避難場所だった。何かをききだそうとする者などいない。ほとんどだれもが一度ならず殺人を犯してきているのである。この神からも見捨てられた国で守らなければならないルールは2つだけ──密告するな、そして互いに助けあって法に立ち向かえ──だった。まるで暗黒街の掟ではないか。そしてこのどちらもが、ナチスにはうってつけのルールだったのである。」



●ところでこれは余談になるが、ついでに紹介しておきたい。

ドイツの「フォッケウルフ社」で主任技師をしていたクルト・タンクは、62名の同僚らとともに1947年、ペドロ・マティエスという偽名のパスポートを持ちスイス経由でアルゼンチンに入国。コルドバに住み、航空技術研究所の責任者となって、ついにはアルゼンチン初ジェット戦闘機「プルキー2型」(プルキーは「弓矢」の意)を誕生させた(1951年)。

この「プルキー2型」を製造したのが、コルドバの「ペロン工場」だった。

1955年にペロン大統領が権力の座から降りると、かつての「フォッケウルフ・チーム」は離散し、その多くはアメリカ合衆国へ移った。クルト・タンクはインドに渡り、インドで初めて製造された軍用機となる「HF24 マルート」をヒンドスタン航空のために設計した。

その後、彼はベルリンに戻り、ドイツを本拠として残りの人生を送った。

 

  
(左)クルト・タンク博士。1931年から1945年まで、ドイツの
「フォッケウルフ社」の設計部門を指揮し、「Fw190」をはじめ、
第二次世界大戦における重要な航空機を数多く設計した。
(中央)アルゼンチン初のジェット戦闘機「プルキー2型」。
この機体は元同僚らとともにクルト・タンクが設計した。
(右)ドイツ空軍のアドルフ・ガーランド中将。

※ ドイツ空軍のエースパイロットだったアドルフ・ガーランド
中将は戦後、クルト・タンクの「フォッケウルフ・チーム」に
呼ばれてアルゼンチンに入国。「アルゼンチン空軍」の
創設に携わり、多くのジェット・パイロットを育成し、
アルゼンチンの航空工業の発展に寄与した。

 

 


 

■■第8章:ニーチェの妹が南米パラグアイに建設した「新ゲルマニア」


●ナチス政権が誕生した1933年の秋、ヒトラーは、ワイマールの「ニーチェ資料館」を訪れ、フリードリッヒ・ニーチェの妹で87歳のエリーザベト・ニーチェと会談した。

この時彼女は、ヒトラーの「すばらしい、まさしく非凡な人格」について歓喜して語っている。兄である超人の告知者ニーチェも必ずや自分と同じ意見だったでしょう、と老婦人エリーザベトは過大評価を請け合った。

 

 
(左)19世紀の哲学者フリードリッヒ・ニーチェ
(右)妹のエリーザベト・ニーチェ


 
「ニーチェ資料館」でヒトラー(左)を迎える
エリーザベト・ニーチェ(中央)(1933年)。
(右)この2年後に彼女は亡くなった。

 

●ヒトラーとニーチェの関係に関しては、イギリス人ジャーナリストのベン・マッキンタイアーが書いた『エリーザベト・ニーチェ 〜 ニーチェをナチに売り渡した女』(白水社)が詳しいが、この本には南米に関して興味深いことが書かれている。

彼によれば、ニーチェの妹エリーザベトは、1886年に、ドイツ人の集団を率いて南米パラグアイに、純粋アーリア人の“新しき村”=「新ゲルマニア」を作った。そして帰国後、兄の著作を改竄し、ナチスの思想的バックボーンとなるニーチェ神話を作り上げたという。

 

 
(左)ベン・マッキンタイアー 
(右)『エリーザベト・ニーチェ』(白水社)

 

●この本の中で、ベン・マッキンタイアーは次のように述べている。

「1886年2月25日、ニーチェの妹エリーザベト率いるアーリア人開拓団の一行は、ハンブルクで蒸気船ウルグアイ号に乗り込み、南米パラグアイの真ん中に入植した。彼らは自分たちの植民地を『新ゲルマニア』と呼んだ。この『新ゲルマニア』は、パラグアイの首都アスンシオンの北方150マイルほどのところにあり、2つの川にはさまれている。土地の人々によって『カンポ・カサッシア』と呼ばれていたその地域は、戦争のためにほとんど無人地帯になっていた。」

「エリーザベト・ニーチェは『新ゲルマニア』に、『フェルスターホーフ』と名付けた大きな家を建てた。植民地で一番豪華な家だった。最初の2年間で40家族が『新ゲルマニア』へ向けて旅立った。そのうち4分の1は1888年7月までに断念し、100の分譲地のうち70が売れ残った。」

 


「新ゲルマニア」は、パラグアイの首都アスンシオンの
北方150マイルほどのところにあるという



「新ゲルマニア」の最初の入植者たち(1886年)


 
(左)「新ゲルマニア」のメイン・ストリート(1890年)
(右)エリーザベト・ニーチェが夫と住んだ家「フェルスターホーフ」

 

●この「新ゲルマニア」とナチスの関係について、ベン・マッキンタイアーは、次のように書いている。

「故国を離れた膨大な数のドイツ人を国家社会主義の信奉者にすることは、ナチ思想の中心的な信条だった。ドイツ国外での最初のナチ党はパラグアイに設立され(1932年)、半世紀前にエリーザベト・ニーチェの夫が自ら命を絶った『ホテル・デル・ラーゴ』が主要なナチの集会の場所になった。ナチ党員たちは、ドイツ国内にも負けないほど精力的に、そして大使館の公然たる後押しのもとに、支持者を求めて南米各地をまわった。」

「パラグアイの首都アスンシオンにいたドイツ人牧師カルロス・リッヒェルトは、ベルリンの福音派教会の指示により、ナチの宣伝につとめながらパラグアイ国内を巡回した。彼が『新ゲルマニア』に現れ、持ってきた映写機でナチの宣伝フィルムを見せたとき、植民者たちは、初めはびっくりし、やがて熱狂した。エリーザベト・ニーチェは、ナチの主義主張が植民者たちに十分に受け入れられたことを知り、喜んだ。『いつか彼らはみな国家社会主義者になるだろう。我らが素晴らしいアドルフ・ヒトラー総統は、まさしく天からのありがたい贈り物であり、ドイツはどんな感謝しても足りないくらいなのだ』と彼女は書いている。」

 


南米パラグアイの入植者たちと語る
エリーザベト・ニーチェ(左から2人目)

 

●ところで、南米に逃げたナチ残党の中に、あの悪名高いアウシュヴィッツの医師、ヨーゼフ・メンゲレ博士がいたことはよく知られている。

ヨーゼフ・メンゲレは、戦後、連合国側に「第一級戦犯」として指名手配を受けたにもかかわらず、4年間をアメリカ軍占領地域内で過ごし、ナチスの逃亡ネットワークの助けでスイスからイタリアに入国、船でアルゼンチンに渡る。340万ドルの賞金をかけられ、ドイツの捜査当局とイスラエルの秘密情報機関に追われるが、南米で実業家として成功し、ついに逃げのびて1979年2月、ブラジルの海岸で海水浴中に心臓発作で“自然死”したのである。

 

 
悪名高いアウシュヴィッツの医師
ヨーゼフ・メンゲレ博士

 

●ベン・マッキンタイアーによれば、このヨーゼフ・メンゲレは、「新ゲルマニア」に一時期滞在していたという。彼は次のように書いている。

「戦後、パラグアイの独裁者となったアルフレード・ストロエスネルは、自分自身がババリア・ビール醸造業者の息子だったために、ナチスを含めてドイツ人に寛大だった。ナチスの医師ヨーゼフ・メンゲレが1959年にパラグアイの市民権を申請したときも、偽名を使う必要すらなかった。」

「ヨーゼフ・メンゲレは、パラグアイに暖かく受け入れてくれる安住の地を見つけたのである。この国では、かつてドイツ人社会の一部で高まったファシストへの共感が、逃亡中のナチが流れ込んだことによって息を吹き返したのだった。パラグアイ政府が連合国勝利の3ヶ月前にヒトラーに宣戦布告したのも、いやいやながらのことだった。」

「メンゲレが大戦中に実行した計画は、人種の純化という名のもとに行われた。ひょっとすると、彼が『新ゲルマニア』にやって来たのはそのためかもしれない。つまりここでは、人種改良と遺伝子操作という思想が半世紀にわたって無計画に実践されていたのだから。」

「戦争が終わって、ドイツ人が『ディー・シュピネ(蜘蛛)』と呼ぶ、南米におけるナチの共鳴者の蜘蛛の巣が、33年の間メンゲレをアルゼンチンで、パラグアイで、そしてブラジルで、守ってきたのだ。ジャーナリストや賞金稼ぎやプロのナチ追跡者は、メンゲレがまだパラグアイのどこかに潜んでいると確信していた。『メンゲレ狩り産業』はこの国に、喉から手が出るほど欲しい外貨をもたらした。メンゲレ神話を除けば、ヨーロッパの人々はパラグアイのことをほとんど何ひとつ知らなかったのだから。」

 

 
パラグアイの独裁者アルフレード・ストロエスネル

ナチスを含めてドイツ人に寛大だった



ナチスの医師というかつての身分を隠し、
南米に潜伏中のメンゲレ(右から3人目)

 

●1991年3月、ベン・マッキンタイアーは「新ゲルマニア」を訪問した。彼はこの時の様子を次のように書いている。

「村の入り口に大きな家があった。外にラバと荷車が止めてある。赤と黄のペンキで大きく念入りに書かれた看板は英語で『ジャーマニー・ポップ・ディスコテク』とあった。 〈中略〉

エリーザベト・ニーチェの人種実験の後裔たちは、親切だがよそよそしい、一風変わった人たちだ。最初はためらいを見せるが、たいていの場合は、警戒しつつも受け入れてくれた。もっとも、私があまりたくさん質問すると、口を堅く閉ざして緊張の様子を見せる人もいた。」



●現在、ここのドイツ人たちの理想と彼らの共同体を脅かしているのは、山賊ではなく、彼らの理想がもたらした思いがけない“生物学的遺産”であるという。「新ゲルマニア」の医師、シューベルト博士は次のように語ったそうだ。

近親交配が繰り返され、事態はどんどん悪くなっている。子供の死亡率が上昇しつつある。精神的・肉体的に問題のある人々がかなりいて、明らかに遺伝的な障害も見られる。牧師は今では親類同士の結婚を拒否しているが、ドイツ人の家族はすでに生物学的にあまりにも複雑に絡み合っており、誰と誰が親類なのか分からなくなっている。一番若い世代の子供たちに最も顕著に現れている。こっちにはよだれを垂らしているしまりのない顎、あっちには生気のない目。明らかに知能の遅れた子もいるが、ほとんどはのろまなだけだ。いとこ同士が結婚し、ひと握りの年老いた“純粋な”ドイツ人家族が先細りの遺伝的財産にすがって生きていく限り、遺伝の歯車は磨り減っていく。」

 


「新ゲルマニア」で生活する
アーリア系の子供たち(1991年)

 

●「新ゲルマニア」の取材を終えたベン・マッキンタイアーは、自著の最後で次のような感想をもらしている。

これがエリーザベト・ニーチェの純粋なアーリア人植民地の目的だったのだろうか? 世代を重ねるたびにますますブロンドと青い目が際立つようになっていくが、同時に退化もしていく一族というのが……。最初の入植者が到来してから4、5世代のうちに、各家族は近親交配を繰り返したために、みんなそっくりになり始めた。それはおそらく創設者たちの多くが、ドイツの同じ地方からやってきていたためであり、あるいは環境と栄養の影響であろう。

長身で頬骨が高く、目は青く髪は金色といった、1つの身体的タイプが優勢になっているようだった。最初の移住者の大部分がもってきたザクセン地方なまりが、ドイツのほかの地方のなまりを飲み込んでしまったように。」

「今もパラグアイ人の隣人を見下した評価をしなければ生きていくことができないと感じているのが、新ゲルマニアの年配の人々だった。若い人たちにとっては、人種的ルサンチマンを克服するのはもっとたやすいことで、パラグアイ人とも簡単に交わった。

住民の一人であるシューベルト博士は言った、『古い世代には気に入らないことですが、ホルヘ・ハルケをごらんなさい──彼こそ未来です。』 ホルヘは25歳くらいの背が高く有能な青年で、ドイツ人とパラグアイ人の間に生まれ、青い目と褐色の肌をしている。私はホルヘに尋ねてみた。どの人種が一番好きだい、ドイツ人、スペイン人、それともインディアンかい。『忘れちゃったよ、そんなこと。』 彼は笑いながらそう言って、グアビラ・フルーツの皮をむき始めた。」

 

 


 

■■第9章:クラウス・バルビー事件


●1972年の新年早々に、南米ペルーのリマ市で、ひとつの殺人事件が起こった。

被害者はリマ市の網元のロッシという名の富豪である。リマ市警は、殺されたロッシの知人で、ビジネスの取引関係もあった男を殺人事件の容疑者として逮捕した。リマ市警は、この男が、元ヒトラーのボディガードだった親衛隊員であり、イタリアから指名手配を受けているフリードリッヒ・シュベンドであることを突き止めた。

リマ市警はさらに、ロッシやシュベンドと結んで、貿易商を営むボリビアの男にも眼をつけた。この実業家が、実はフランスの大審院によって死刑の判決がでているクラウス・バルビーであることがわかったからである。こうして、一介の殺人事件とみなされていたロッシ事件は、思いがけない方向へと発展することになる。


●このクラウス・バルビーは大戦中、占領地フランスのリヨン市で親衛隊保安情報部長の地位にあった。レジスタンスの運動家を容赦なく処刑し、人々から“リヨンの虐殺者”と恐れられていた。

戦後、アメリカ軍情報部は、このバルビーを対ソ情報網設置に役立つ人物と判断し、「アメリカ陸軍情報部隊(CIC)」の工作員として利用した。フランスの度重なるバルビー引き渡し要求にもかかわらず、アメリカは引き渡しを拒否。バルビーはアメリカ軍の偽装書類のカバーのもとボリビアに出国した。

バルビーは以後、南米の元ナチ党員と連絡を取り、武器取り引き会社を設立。ボリビアの億万長者となったのである。

 


“リヨンの虐殺者”と恐れられていた
若き日のクラウス・バルビー

 

●同年4月27日に第2の殺人事件が起きた。ブラジルのリオデジャネイロで、バルビーの協力者が、死体となって発見されたのである。この男は、戦時中にバルビーの活動を支援していたかどで、やはりフランスの大審院により死刑の判決が出ていた。


事件後、バルビーは公然と姿を現わし、自分の正体を認めた。そしてボリビアのTVに出演して、ナチス親衛隊員の過去を礼讃した。世界のジャーナリズムが騒然となり、ボリビアに殺到した。バルビーはマスコミに『回想録』を売りつけ、戦後、西ドイツの「ゲーレン機関」と連携していたことを暴露して、世界を驚かせた。

バルビーは戦争犯罪と考えられるいかなる行為にも関わっていないと強く主張した。「戦争は戦争、そして戦争のときには誰もが殺人者になる」というのが彼の口ぐせだった。

 

 
(左)クラウス・バルビー (右)彼のボリビア籍身分証

 

●CIAによって守られていたバルビーの特権的地位は、1982年にボリビア軍事政権が倒れ、社会主義政権にとってかわられるとともに崩れた。

1983年、70歳になったバルビーはフランスに引き渡され、リヨンの法廷で終身禁固刑を宣告された。この裁判において、バルビーは、「自分はフランスがアルジェリアでやったのと同じことをしたにすぎない」と主張し、物議をかもした。

1991年9月、バルビーは刑務所内で死亡した。

(※ フランスでは「死刑」が1981年に廃止されている)。


●バルビーの事件を契機に、ヨーロッパ各国のジャーナリズムが、バルビーの線からマルチン・ボルマンを追い始めていた。バルビーを背後から操っていたのが、マルチン・ボルマンであると推測したからである。



●半生を、ナチの逃亡者と戦犯の追及に費やしたサイモン・ヴィーゼンタールは語る。

「マルチン・ボルマンの謎は、単純な生物学的な方程式に還元されるだろう。彼は十分に保護されている。いかなる国もこれ以上、第2のアイヒマン事件を起こそうと考えていない。ボルマンも、やがてある日、最期を迎えることになる。10万マルクの懸賞金は、けっして支払われることはあるまい。死は金を必要としないからである」

 


サイモン・ヴィーゼンタール

 

●ナチ戦争犯罪を追及するジャーナリスト、クリストファー・シンプソンは、次のように述べている。

アメリカの情報機関は、バルビーで大失敗した後も、ナチを工作員として使うことから手を引くことはしなかった。それどころか、ナチの利用は拡大し、しかも一層目にあまるものとなっていったのである」

 

─ 完 ─

 


 

■■おまけ情報: 映画『マイ・ファーザー 〜死の天使〜』について


●2003年に作られた映画『マイ・ファーザー 〜死の天使〜』は、ナチ戦犯者ヨーゼフ・メンゲレを父に持つ青年が、重い宿命を背負い、父と対峙し、激しく葛藤する姿を、実話を基にドラマチックに描いた作品である。

チャールトン・ヘストン(父メンゲレ)、F・マーレイ・エイブラハムという2大アカデミー俳優が共演している。
『戦場のピアニスト』のドイツ軍将校役で注目を浴びたトーマス・クレッチマンも出演している(メンゲレの息子役)。

 

  
映画『マイ・ファーザー 〜死の天使〜』(2003年制作)

原題: MY FATHER - Rua Alguem 5555
制作国: イタリア/ブラジル/ハンガリー
監督: エジディオ・エローニコ

この映画の原作となった『Vati(父)』は、メンゲレの
息子から提供された未公開文書、手紙、写真、
そして証言に基づいて書かれたものである。

 

●なぜ元SSの医師メンゲレ博士は最後まで捕まらなかったのか?

この映画の中では「アメリカの関与」を示唆するセリフが登場していて興味深い。

少し長くなるが、この作品の内容を簡単に紹介したいと思う。

(以下、ネタバレ注意)


◆ ◆ ◆

 

物語は1985年6月6日、南米ブラジルのマナウス郊外の小さな墓地で、ヨーゼフ・メンゲレのものとされる白骨死体を掘り返す場面から始まる。メンゲレは、ヒトラー政権の下、「アウシュヴィッツ収容所」で残酷な人体実験を繰り返した遺伝学者で、戦犯となった戦後は南米を中心に長い逃亡生活を送っていた。

この日、発見されたメンゲレのものとされる遺体は驚くことに死後6年もたっていた。
果たして、この遺体は本当に彼のものなのか?

大勢のテレビクルーが押しかけ騒然とする中に、メンゲレの息子へルマンがいた。
彼の姿を見つけた被害者のユダヤ人女性は、怒りをあらわにして彼に近づき大きな声で叫ぶ。

「人殺し! 人殺し! 一緒になって隠し通したんだろ。父親が人殺しなら息子も同罪だ! 人殺し! お前もあの男と同じだ!」


●「ニューヨーク・ユダヤ人協会」に雇われていた弁護士ポール・ミンスキーは、メンゲレの死が「偽装」されたのではないかと疑いを抱き、ホテルの一室で、へルマンに真実を話すよう詰め寄る。(この弁護士の目的は2つあった。1つは被害にあった双子の治療のためにメンゲレのカルテを入手すること。もう1つはドイツへ損害賠償を請求するために、メンゲレが本当に死んだのかを確認することだった)。

長い沈黙の後、へルマンは南米で潜伏生活を送る父と8年前に対面したときの思い出を語り始める。

 


ブラジルの国旗

 

●ヘルマンが8年前(1977年)、南米ブラジルで初めて対面した父メンゲレは、写真とはまるで違う印象の男だった。

メンゲレは元ナチスの仲間に守られながら、敵(追跡者)の目を欺くために薄汚れた貧民街(アルゲム通り5555番)に隠れ住んでいた。

想像していたイメージと現実とのギャップにヘルマンはショックを受けるが、父は今でもナチズムを信奉していて、息子相手に自分の世界観を自信たっぷりに語るのだった。

「何が正義かなど分からん。善悪さえも存在しないさ。ただ生きるための欲求が人を突き動かすだけだ。そのことを今の世代は忘れている。もはや“真のドイツ人”は存在しない」

「私は科学者、遺伝学者だ。若き日の情熱を研究に捧げたんだ。人間の遺伝の研究にな。芸術家や音楽家の才能もあったが、一番の興味は自然科学だった。私の研究は学生時代から注目された。卒業後に紹介されたのがベルリンの政府直轄の研究所『カイザー・ヴィルヘルム研究所』の助手の職だった。当時としてはごく当たり前の選択だった。国に尽くすのが国民の義務なのだ。今の世代には分からんだろうが、私たちは新しい世界を夢見て戦ったんだ」


●さらにメンゲレは息子を森の中に誘い、次のように力説した。

「周囲を見てみろ。隣と正確な距離を保って生えている木などない。どの植物も自らの土を確保し、日光を奪い合う。この森さえも戦場なのだ。ここでは数百万年前から今日まで静かな戦いが展開されている。だが今に生きるお前に、戦場は分かるまい」

「収容所の究極の目的は原始的、非科学的手法によってではあったが、科学に寄与したことは否定できまい。人間は神による創造物ではなくサルの子孫なのだ。人間は常に不自由と不平等を強いられている。そして動植物と同じく人間も『進化の法則』の支配下に生きている。すなわち強者は生き残り弱者は滅びる。だまされてはいかん。“隣人を愛せ”だの“人の命は神聖”だの、厳しい選別を阻む戯れ言にすぎん。我々の任務は、より強い種が生き残るよう必要な選択をすることだった。それは避けられないことだ」

「現在は飢餓と戦うため世界中が手を尽くし、劣等種の存続を支えている。だが劣等種を絶滅から救うことは、白人種の自己否定を意味するのだ。人々は誤った観念を鵜呑みにしている。現在の科学は岐路に立たされている。今こそ『遺伝学の法則』に合致した価値システムを作らねば、自滅の道を歩むまでだ」



●ヘルマンは父と数日を過ごす中で、父を知り、父を糾弾し、自首させるつもりでいた。しかしヘルマンは「公的な正義感」と「親子の絆」のどちらを選ぶかで葛藤し続けた。

結局彼は最後まで「親子の絆」を断ち切る勇気を持つことができず、空虚さと疎外感を感じながらドイツに帰国したのだった。


●そしてその2年後(1979年)、ヘルマンは手紙によって父の死を知り、再びブラジルに入国。雨の中、現地の人に父の墓を案内してもらう。

彼はこの時の気持ちをこう回想している。

「墓の前で長いこと父のことを考えたが、何も浮かばない…。ゲルマン民族による世界支配をあれほど強く望んでいた父…。その父の隣には、日本人が埋葬されていた……」



●ヘルマンの回想を聞き終えたユダヤ人の弁護士ポール・ミンスキーは、厳しい表情をしながらこう述べる。

「結局、裁きを免れたことが問題なのだ。なぜこのことを今まで黙っていた?」

「君の話は確かに感動的な話だったが、欠陥がある。君は全てを正直に話してくれたと思うが、信じるにはあまりにも話がうまく出来すぎだ

「つい最近だが、君の父メンゲレについての確かな情報が揃い逮捕が目前となっていた。現在の潜伏先は南米パラグアイだ。アメリカとドイツとイスラエルの3ヶ国がメンゲレの逮捕に同意したとたん、いきなり遺骨発見のニュースが舞い込んだ。よくできた話だが、冗談のようなタイミングだ

「70歳近くで体調の良くなかったメンゲレが、なぜ海に泳ぎに行ったのか? 彼の死体を発見した女性はどうやって女一人で海の中から引き上げたのか? そして即座に花と棺(ひつぎ)を手配できたのか? なぜ医者は死亡証明書の欄に“50代の男性”と書いたのか?」

「君には理解できないだろうが、ホロコーストの生存者にとってメンゲレは恐怖そのものだ。その人たちの人生を取り戻すには、メンゲレは裁かれねばならないのだ。死んだとわかれば安心はするだろうが、それでは結局何の裁きを受けなかったことになる。彼の罪は永遠に闇に葬られてしまう



●ヘルマンの泊まるブラジルのホテルの外には、世界中から集まってきたアウシュヴィッツ生き残りの人々が抗議の声を上げていた。彼らの多くもメンゲレの死に疑問を抱いていたのである。

このデモに参加していた男性はこう発言している。

「茶番だ。何から何まででっちあげだ。間違いなくあの殺人鬼は今も生きている。
ヴィーネルト(メンゲレの仲間で元SS)の協力で溺死を装った。替え玉を使いアメリカが真相を隠蔽した!」

(インタビュアーの「なぜアメリカが?」という質問に対して)

「あの怪物が行った実験に一番興味を持っているのはアメリカなんだぞ!」


●そのあとカメラの前に一人の女医が登場し、メンゲレの顔写真が載った新聞を片手にこう証言する。

「私は歯科医のマリア・ガレアノです。やはり間違いありません(彼は生きています)。論争の主がこの人物なら、歯の治療をしに診療所へ来ました。死亡したとされる日の2ヶ月もあとにね


●この映画は、ホテルから出てきたヘルマンが、群衆たちから「人殺しの息子!」「お前も同罪だ!」という罵声を浴びながら立ち去っていく姿を映しながら静かに「エンディング」を迎える。

 

 

●さて、最後になるがこの映画の感想を少し書いておきたい。

この映画を作ったエジディオ・エローニコ監督は、作品中メンゲレの行為を肯定も否定もしておらず、ニュートラルな視点から実話を基にドキュメンタリータッチで話を進めている。

メンゲレの息子が、父親に怒りをぶつけるシーンや、地元警察に父親を通報するか否か苦悩するシーンは、音楽が効果的に使われていて胸に迫るものがある。持病のアルツハイマーを押して参加した名優チャールトン・ヘストンはメンゲレを熱演し、観る者に力強い印象を与える(これだけでも感動できる)。

しかし、“死の天使”と恐れられたメンゲレが、結局何の裁きも受けずにこの世から“消えて”しまったことは歴史的事実であり、その死の「謎」とともに、何かスッキリしないものを心に残す作品でもある(この映画を作った監督自身、メンゲレの死に疑問を抱いているように感じた)。

もし自分が息子ヘルマンの立場だったらどういう行動を選択したか…。
いろいろと考えさせられる作品だったので、この映画は何度も見てしまった。

メンゲレと優生学に興味のある方にはオススメの作品だと思います。

 

 


 

■■追加情報: 米CIA、ナチス・アイヒマンを知りながら隠し通す ─ 米機密文書で明らかに

 

 
(左)2005年2月4日、「国家安全保障公文書館」が明らかにしたCIAの歴史資料の表紙
(右)ナチス・ドイツの情報機関の最高幹部ラインハルト・ゲーレン中将

彼は戦後、CIAと協力して「ゲーレン機関」を組織した。
メンバーの中には逃亡中のナチ戦犯も含まれていた。

 

★この問題に興味のある方は、ココをご覧下さい。

 

 


 

■■追加情報 2: 南米チリに築かれた“ドイツ人帝国”(ドイツ人コロニー)

 


元ナチスの医師パウル・シェーファー

戦後、南米チリにドイツ人コロニーを築いた

 
(左)チリの国旗 (右)ドイツ人コロニーの周辺地図


 
チリの“国家の中の国家”と囁かれていたドイツ人コロニー「コロニア・ディグニダッド」

このコロニーは鉄条網で囲われ、センサー、監視カメラ、
サーチライト、見張り塔などで厳重に守られていた

このドイツ人コロニーは、学校、病院、滑走路、レストラン、ガソリンスタンドなどを備えていた

 

★この南米チリに築かれたドイツ人コロニーの実態については、ココをご覧下さい(簡単にまとめておきました)。

 

 


 

■■追加情報 3: 『ナチ狩り 〜ハンティング・ダウン・ナチス〜』

 

 
『ナチ狩り 〜ハンティング・ダウン・ナチス〜』(DVD)

この作品は第三帝国の崩壊後、世界各地へと逃亡したナチ党員
 たちを追跡する“ナチ狩り”の実態を追ったドキュメンタリー作品で、
フランスのテレビ局「France 2」で放送されたものである。

 

 


 

「ゲーレン機関」の実態


ナチスの科学技術を没収したアメリカ

 


 


▲このページのTOPへ





 HOMEに戻るINDEXに戻る

Copyright (C) THE HEXAGON. All Rights Reserved.