No.A7F_hd_renaissance

 作成 1998.2

 

ルネサンスの舞台裏

 

■■第1章:ヘルメス思想/錬金術の歴史


錬金術の都アレクサンドリア


数多くの伝説に彩られている謎に満ちた古代賢者ヘルメス

西欧神秘主義において、このヘルメスは特別な存在である。とくに錬金術においては、まさに始祖ともいうべき存在である。そのため、「錬金術」は「ヘルメスの術」とも呼ばれている。

 


ギリシア神話に登場するヘルメス神

※ 錬金術の象徴である「ヘルメスの杖」を
 持っている(右は拡大した画像である)

 

西洋文明のなかで錬金術が最も栄えたのは、紀元前3世紀ごろから紀元2世紀ごろにかけてのアレクサンドリアである。錬金術の歴史においてアレクサンドリアの文化(ヘレニズム文化)が果たした役割は特筆に値する。アレクサンドリアの文化はその基礎を錬金術に置いていたといってよく、現在、西洋で知られる錬金術文献のほとんどは、この時代にまとめられたと考えられているからだ。

だが、アレクサンドリアの錬金術も突然、開花したわけではなく、その知識のルーツは先行したエジプトやメソポタミアの文明にあったのである。

しかし、ローマ帝国の時代からキリスト教的中世にかけて、錬金術はヨーロッパから姿を消す。異端の学問として追いはらわれてしまうのだ。

 

ヘルメス思想を弾圧したキリスト教


イエス・キリストの死後100年ほどの間に発生した、いわゆる「原始キリスト教」は、多くの点でヘルメス思想との親和性を保っていた。

たとえば、古代キリスト教の教父の中には、ラクタンティウスやアレクサンドリアのキュリロスをはじめとして、積極的に「ヘルメス文書」を引用・言及し、ヘルメスに対する信仰・尊敬を堂々と表明する人々がいた。

また、ヘルメスはモーセと同時代人と考えられていた。モーセといえば「十戒」で知られるように、神から直接「教え」を授かった人物である。だが、当時のヘルメス主義者の間では、モーセが神から授かったのは教えの中の「顕教的部分」であり、これに対してヘルメスは、教えの中の「秘教的部分」を授けられたと理解されていたのである。

簡単にいえば、前者が広く一般大衆に知らしめ、守らせるべき道徳的教義であるのに対して、後者は選ばれた賢者(内陣のメンバー)にのみ伝えられる、神の叡智の核心部分といい換えてもよい。

そもそもキリスト教、特に原始キリスト教には、こうした秘教(密儀宗教)的要素が色濃く存在している。イエス自身、民衆には常にたとえ話をもって教えを説きながら、自らの最も親しい弟子に対してのみ、教えの核心を伝授したと『聖書』にも明言されている。

 


イエス・キリストの磔刑像

 

だが後に、原始キリスト教が本来のイエスの教えから徐々に遠のき、国家権力の維持強化装置としてのローマ・カトリックが成立していくにつれて、キリスト教の教義は徐々にヘルメス思想から分離していくことになる。

「ヘルメス文書」に述べられた思想は、人間の自覚的な自由を誇り、そして霊的進化を促すものであったのに対して、正統キリスト教の教義は、権威に対する盲目的な従属と卑屈を強制するものであった。

だが逆にいえば、キリスト教の教義が社会に安定と秩序をもたらすのに対して、ヘルメス思想のほうは、これを奉ずる者に無制限な自我のインフレーションをもたらし、社会に無秩序と混沌をもたらす恐れがある。それゆえにこそヘルメス思想は自らその無制限な拡散を厳に戒め、一方、キリスト教はヘルメス思想に徹底した弾圧を加えていくこととなった。

かくして「暗黒時代」と呼ばれた中世を通じて、「ヘルメス文書」とその思想は、その姿をヨーロッパの表舞台から消すこととなる。

 

ヘルメス思想を大切に守り続けたイスラム教


「ヘルメス文書」とその思想が、異端の学問としてヨーロッパから姿を消している間、ヘルメス思想と錬金術はイスラム文化のなかで大切に守り続けられることになり、イスラム世界は学識の黄金時代を迎えたのである。

アル・マムーンがイスラム帝国のカリフ(指導者)であった時代、イスラム世界は、西はバグダッドから北アフリカを通ってイベリア半島まで延び、東はインドにまで一大勢力を誇っていた。アル・マムーンはビザンチン帝国の皇帝と盛んに書簡を取り交わし、ビザンチン帝国に保管されている古代の科学書を何冊か手に入れることを許可してくれるよう依頼した。

833年、アル・マムーンの命令によって「知恵の家」という名で知られる図書館が設立された。バグダッドにあったこの図書館は、アレクサンドリアの大図書館が古代ギリシア人に果たしたような役割をアラブ人に提供することになった。
古代ギリシア人が残した教えの数々はここで再び命を吹き込まれ、結果的に、イスラム世界は古代ギリシアの遺産を正式に継承(保存)することとなったのである。

古代ギリシアの哲学者プロティノスの『エンネアデス』は、ギリシアからイスラム世界に到達した最も完全な形而上学的文献として扱われた。プロティノスはイスラム教徒の間では「シャイフ」つまり、「精神的な師」の名で知られることとなった。ピタゴラス派の教え、なかでもニコマコスの教えは、イスラム神秘主義(スーフィズム)に同化された。エンペドクレスの宇宙論や自然学にも多くの注意がはらわれた。

「ヘルメス文書」もアラビア語に翻訳され、ヘルメス思想の創始者であるヘルメス・トリスメギストスに帰せられている『ポイマンドレース』は、今でもスーフィーが繰り返し言及する著作のひとつとなっている。(ヘルメスは伝統的に預言者エノクと同一視されており、コーランには預言者イドリースとしてあらわれる)。

8世紀にイスラムの医者であったジャービル・イブン・ハイヤーンは、ヘルメス思想を学び、おびただしい数の錬金術文献を残し、その著作類は錬金術の原典とされた。やや遅れて生まれたア・ラージーも優れた医者で、彼も錬金術に関する重要な著作を残し、これまた後代の錬金術文献の原典に数えられるようになった。

エジプトやメソポタミアなどと同じくらい古くから発達していた中国やインドの錬金術も、このイスラム錬金術の中に流れこみ、アラビア化学として発展した。

そして、やがてキリスト教会による十字軍遠征を通して、このイスラム錬金術がヨーロッパに還流する。その結果、13世紀以降のヨーロッパはヘルメス思想と錬金術を“再発見”し、この古代の叡智の研究が盛んになるのである。いわゆるルネサンス運動だ。

 

 


 

■■第2章:ルネサンスは魔術的でオカルティックな時代であった


スペインからイタリアに流入したユダヤ集団


グノーシス主義や錬金術に代表されるヘルメス思想が、中世の門の中から白昼に堂々と姿を現したのがルネサンスであった。

我々は一般に、ルネサンスが明るく、人間を中心にした合理的で自由な時代であったと思いがちだが、実際はルネサンスこそ魔術的でオカルティックな時代であった。それまで教会の権威によって封じ込められていた非キリスト教的思想──異教徒の思想が、新たな思潮の活力として「再生(ルネサンス)」された時代であったからである。

いわゆるルネサンスの起源は、1453年にビザンチン帝国の首都コンスタンティノープルがトルコ人の手に落ちたことにあると言われている。このときにギリシア語の知識をヨーロッパに広めたのは、コンスタンティノープルから逃れて来たギリシア人の避難民たちで、古代の秘義がまとめられた「ヘルメス文書」やその他の古代神学者の古写本がイタリアに持ち込まれたのであった。

また、1492年にアンゴラ王のフェルディナントとカスティリャの女王イサベルの結婚によって両王国が合体し、スペインから大量のユダヤ教徒が追放されたことも、ルネサンスに大きな影響を与えた事件と考えられている。

このときイタリアへ流入したユダヤ人によってユダヤ神秘主義「カバラ」が、同様な神秘的傾向を持つ一部のキリスト教徒に刺激を与え、ルネサンスにおける錬金術、ヘルメス思想とカバラ神学の混合した哲学的な神秘思想を生むことになったといえる。

 

ユダヤ教の神秘思想が「カバラ」という呼称で
統一されるようになったのは、歴史的には中世に至って
からのことである。そこに至るまでの間、カバラの伝統は
キリスト教が支配する世界からは、完全に隠されていた。

しかし12世紀に至って北スペインやフランス南東部の
プロヴァンス地方にカバラについての秘義を語る者が
現れだすと、以後、カバラはヨーロッパ世界に急速
に広まっていった。その際、特異な神秘思想を
展開するカバラ奥義書が数多く執筆・
編纂されていった。

 

 


 

■■第3章:ルネサンスで活躍した主要人物〈1〉


さて、ここで、ルネサンスで活躍した主要人物を幾人か挙げながら、ルネサンスの舞台裏の動きを具体的に紹介していきたいと思う。

 

マルシリオ・フィチーノ


15世紀イタリア・ルネサンスの中心地の1つはフィレンツェで、メディチ家(コジモ・デ・メディチ)の保護のもとに多くの学者や芸術家が集まった。このとき、中心人物として活躍したのが、当時、最高の人文学者だったマルシリオ・フィチーノであった。

 


マルシリオ・フィチーノ

当時、最高の人文主義者だった
彼が「ヘルメス文書」を翻訳したこと
により、ヨーロッパ全域でヘルメス思想
復興の動きが巻き起こった。彼の葬儀では
フィレンツェ共和国の書記官が演説を行い、
 後に記念碑が大聖堂内に建立されたという。

 

彼はプラトンやプロティノスをギリシア語からラテン語に翻訳した「新プラトン主義者」であったが、彼はそれ以前に既にコジモ・デ・メディチのために、ヘルメス思想の源泉である「ヘルメス文書」を翻訳していたのである。この翻訳によって、ヨーロッパ全域でヘルメス思想に対する熱狂的な関心が巻き起こされたのであった。

また、彼の著作の中で最もよく読まれたものに『天上的に準備されるべき生について』があるが、これは「ヘルメス文書」の中の「アスクレピウス」という文献によるもので、そこで彼はどのようにしてエジプト人が神々の像に、天上の諸惑星の影響力を呼び寄せるかを述べているのだ。

これら一連の業績がきっかけとなって、アラビアの科学、つまり錬金術、占星術、自然魔術に対する関心がいっそう高まり、古代神学とともに広く知られることになる。すなわち、ルネサンスの思想的シンクレティズム(習合)は、マルシリオ・フィチーノから始まったのである。彼はまさに「古代秘教を甦らせたルネサンス神秘学の祖」であった。

 

ピコ・デラ・ミランドラ


同じくコジモ・デ・メディチのもとにいて、マルシリオ・フィチーノの親友であったピコ・デラ・ミランドラは、「キリスト教的カバラ」の創始者、または最初で最大の解説者であった。

ピコ・デラ・ミランドラは、ユダヤ神秘主義のカバラ神学によって、キリスト教の真理を確認できると考えていたし、カバラもまたモーセより伝わった古代の叡知の伝承だと信じられていたので、これによって古代の異教とされる「ヘルメス文書」も確証できるものと思っていたようである。

 


ピコ・デラ・ミランドラ

メディチ家のプラトン・アカデミーの
中心的な人物の1人で、ユダヤ神秘主義
「カバラ」を深く研究し、様々な異教の思想を
キリスト教的に解釈しようとした思想家であり、
「キリスト教的カバラ」の創始者、または
最初で最大の解説者であった。

 

ピコ・デラ・ミランドラは、カバラの10のセフィロトによる段階を宇宙の天球層と関係づけて、それらの天球層のさらに彼方にある神秘主義的な無に至る上昇を試みた。これはグノーシス主義とも新プラトン主義ともとれるマルシリオ・フィチーノ風のヘルメス思想とカバラが合体した考え方で、ピコ・デラ・ミランドラはカバラの聖なる力が、マルシリオ・フィチーノの術を悪魔の影響から守ることができるとしている。

こうしてピコ・デラ・ミランドラが創始した「キリスト教的カバラ」は、マルシリオ・フィチーノの「ヘルメス主義的魔術」と共に、ルネサンスの中心的思想を作り上げたのであった。

なお、ルネサンスは、一般に「人間復興」などと訳されているが、それはイタリア・ルネサンスの思想的な意味での中心人物であったピコ・デラ・ミランドラの、次の言葉に由来している(ピコ・デラ・ミランドラは、これをイスラムの書物から学んだことを告白している)。

「神は言う。『すべてのものは私が制定した法に服すべきである。しかし人間だけが自分のあるべき姿を決定することができる』と。そこで我は叫ぶ。父なる神の恩寵よ! 人間はなんと偉大で幸福であるか!」(『オラティオ』)

 

 


 

■■第4章:ルネサンスで活躍した主要人物〈2〉


ライモンドゥス・ルルス


「天啓学者」の異名をとるスペインの神学者ライモンドゥス・ルルス(レイモン・ルルー)は、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教を結び付け、神の属性や敬称に文字を割り振って、これと錬金術の四大を結び・最高の神的本質は「3」であることを証明するという術を考えていた。

彼はヘブライ語は使わなかったが、既に「キリスト教的カバラ」主義者であったと言われている。

 


「天啓学者」の異名をとるスペインの
神学者ライモンドゥス・ルルス

※ 右は彼の著書『大いなる術』に示された
9つの神名の相互関連を瞑想するための図である

 

ドイツでは、ピコ・デラ・ミランドラの「キリスト教的カバラ」の影響を受けたヨハネス・ロイヒリンが、ヘブライ語とギリシア語を駆使して、スコラ哲学に代わる新しい哲学体系を作り上げようとしていた。彼はピタゴラスの再来ともいわれ、同じくギリシア語の普及に努めたエラスムスと並び称された学者である。また、新プラトン主義者のニコラウス・クザーヌスや、トリテミウス、あるいはソロモン・トリスモジンといった人々も活躍した。

こうした人々は、一方では古代の語学に精通し、新しい知識を身につけた学者であり、また一方では、神秘的あるいは魔術的な思想を伝える人々でもあった。その中でも特筆すべき人物は、次に紹介するアグリッパとパラケルススであろう。

 

コルネリウス・アグリッパ


コルネリウス・アグリッパは、神学者、医師、軍人、法律家、科学者として第一級の名声を受けた人物であったが、それ以上に彼を有名にしたのは『隠秘哲学三書』をはじめとする執筆活動だ。彼はフィレンツェの思想的ルネサンスの動きと密接に関わる人物として、重要な役割を演じた。

 


コルネリウス・アグリッパ

16世紀ルネサンス期のドイツの神学者、
医師、軍人、法律家、科学者、人文主義者で、
著書『隠秘哲学三書』や『オカルト哲学に
ついて』などで魔術論を展開、魔術の
理論化を行ったパイオニア的存在。

 

彼は絶えず旅行して、各地で様々な重要人物に会っていた。例えば、1509年頃にはドイツにいて、修道院長であり錬金術師でもあったトリテミウスと出会っていたようであり、この頃に書いた『オカルト哲学について』の第一稿はトリテミウスに献呈されている。

また、1510年にはイギリスにいたのであるが、その頃のイギリスにはエラスムスも滞在していて、ルネサンスの影響がようやくイギリスにも見られ始めた時代でもあった。1511年にはイタリアを訪れ、ピコ・デラ・ミランドラやマルシリオ・フィチーノによるヘルメス思想とカバラ神学の伝統を吸収している。

こうして、コルネリウス・アグリッパは、魔術を妖術や悪魔崇拝から切り離して、学問としてヘルメス思想とカバラ神学を融合させた「宇宙論」として確立させたのであった。彼は魔術の理論化を行ったパイオニア的存在であった。

 

パラケルスス


コルネリウス・アグリッパと同じように、宗教改革の時代に波乱の生涯を送ったのが、もう一人の神秘思想家パラケルススである。彼もヨーロッパ各地を放浪し、医学を修め、医療活動と神秘学研究に生涯を捧げた。当時、ヨーロッパ屈指の人文学者として名高かったエラスムスも、パラケルススの熱心な支持者だった。

 


今日の医学界にもその名を残すパラケルスス

※ 右はパラケルススの医学理論の集大成ともいうべき
『大外科学』の表紙である。彼は当代屈指の医師であったが、
彼の卓越した医学理論は錬金術がベースになっていた。

 

パラケルススは当時、大勢の患者を奇跡の治療法で完治させていたことで有名だったが、彼の卓越した医学理論は、錬金術がベースになっていた。彼の医学知識のエッセンスは、著書という形でまとめらているが、パラケルススの代表作のひとつ『大外科学』(1536年)は、発行から数ヶ月もたたぬうちに初版を売り尽くしたのみならず、当時ハンガリーとボヘミアの王で、のちにドイツ皇帝となるフェルディナンドにも捧げられた。

彼の神秘的医学は、その後の啓蒙主義によって姿を消すが、パラケルススの存在は最近の心身医学の発達とともに再び大きな注目を浴びつつある。

 

 


 

■■第5章:ルネサンスで活躍した主要人物〈3〉


ジョン・ディー博士


ジョン・ディー博士は、16世紀のエリザベス朝イギリスにおける最重要のルネサンス思想家である。
彼はケンブリッジ大学に学び、イギリスにユークリッド幾何学を初めて紹介した数学者として名高い。また、北極海をめぐる北回りの東洋航路の開拓を主張し、占星学理論とも関連する航海技術の新手法を創出し、海軍国イギリスの端緒を築きもした。彼がいなければ、イギリスの数学や航海術の進歩は、数十年は遅れただろうといわれている。その他、建築学への貢献やアーサー王伝説リバイバルへの影響など、業績は多岐にわたる。まさにエリザベス朝ルネサンス期を代表する天才学者だったのである。

 


天才学者ジョン・ディー博士

宮廷人として欧州を行き来し、女王に
「王立図書館」の設立を訴える一方、数学者でも
あった彼は、ユークリッド幾何学を最初にイギリスに
伝えた人物としても知られる。その他、航海術、天文学、
光学にも秀でており、大英帝国拡張のためイギリス海軍の
設立や東洋航路の開拓を提言したことでも知られる。

 

彼の蔵書数は、当時のケンブリッジ大学図書館の10倍近いものであったという。その事実からも、その学識と研究がいかに奥深いものであったかはうかがわれる。この膨大な蔵書はイギリスの学者や技術者が自由に利用でき、実際に頻繁に使用されていた。そして、その蔵書の中には、数学、天文学、建築学はもとより、数多くのオカルト文献がふくまれており、彼の書斎は、ルネサンス期に復活した“古代神秘学の殿堂”でもあったのだ。

このような神秘主義文献の収集と研究について、彼は、「すべての学問に飽き足らず、神秘世界へ足を踏みいれた」と告白している。

エリザベス女王はジョン・ディー博士に深い信頼を寄せ、彼を宮廷占星術師として迎え、相談役として寵愛した。
後にジョン・ディー博士が大陸に渡ったときも、彼は暖かい歓迎を受けた。当時の大陸を支配していた王侯貴族は、魔術に対して深い関心を示していたからである。中でも、魔術、科学、美術などに対する知的好奇心をもち、多くの魔術師を援助したルドルフ2世治下の、魔術の帝国とも別称された神聖ローマ帝国はジョン・ディー博士を丁重に迎え入れた。

 


(左)天使召喚の魔術を実践するジョン・ディー博士たち
(右)ジョン・ディー博士が天使から授かったとされる「エノク語」

 

このように、ルネサンス期最大の魔術研究家として、当時の知識人や有力者などと華やかな人間関係を形成していったジョン・ディー博士は、カバラ、ヘルメス学を研究する一方で、天使召喚の魔術を実践し、「エノク語」と呼ばれる謎の言葉を天使から授かることに成功したといわれている。エノク語とは、旧約聖書の外典に属し、カバラ学者の重要な文献でもある『エノク書』に用いられたとされる言葉だ。

その後、彼は天使召喚の魔術やエノク語の研究に熱中し続けたが、協力者だった霊媒師とのトラブルもあり不遇の晩年を送った。そのため、卓越した数学者、天才学者、航海学者だったジョン・ディー博士の名前は、単なる魔術師、降霊術師として人々の記憶に残るようになり、時代が進むにつれその記憶すらもどこかに行ってしまった。

 

ジョン・ディー博士の著作の中で、最も謎めいた
もののひとつに『神字モナド』という本がある。上はその
表紙に描かれている謎の文字である。この難解な『神字モナド』の
存在はしばらく歴史の裏に消えていたが、薔薇十字団の登場とともに
復活する。なんと『化学の結婚』という薔薇十字団の基本文献に、
ジョン・ディー博士の『神字モナド』が入っていたのである。

 

 


 

■■第6章:「薔薇十字団」の登場


ジョン・ディー博士の残した霊的伝統


ジョン・ディー博士の残した霊的伝統は、17世紀に故国のイギリスではなく、ドイツで復活する。それはジョン・ディー博士の思想を母胎として、神秘主義的啓蒙運動を開始したヨーハン・ヴァレンティン・アンドレーエによる「薔薇十字団」の運動へと結実していく。

薔薇十字団の活動は、ルネサンスにおける神秘主義の動きを知る上で欠かすことはできない。

薔薇十字団の存在が知識階級を中心に広く庶民にまで知られるようになったきっかけは、1614年以降の3年間にドイツで出版された『世界の普遍的改革』以下の3つの匿名文書と1冊の寓意小説『化学の結婚』による。

その内容は、それまでのキリスト教的保守思想に反旗をひるがえす革新的発想や、痛烈な批判が含まれていたことで多大な反響を呼び、一大ムーヴメントを築いたのである。


※ 薔薇十字団についてはこちらのファイルで詳しく紹介したいと思う。

 

この薔薇の十字は「ヘルメス薔薇十字」または
「錬金術薔薇十字」と呼ばれているもので、古くから
伝えられている錬金術的象徴である。小宇宙と大宇宙
のシンボルが複雑に組み合わされており、仏教に
おけるマンダラのようなものとなっている。

 

 





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