No.B1F_gurdjieff

 作成 1998.3

 

グルジェフの「超人思想」の謎

 


神秘の超人G・I・グルジェフ

20世紀最大の神秘思想家として、
今も大きな影響力を持つグルジェフ。

真理のきらめきの中に生きたこのマスターは、
我々人類をどのような宇宙へ導こうとしたのか?

そしてまた、彼が実践した“真の人間(超人)”
へといたる覚醒の“神秘の道”とは何か?

 
序章
“大いなる秘密”を探し当てた
神秘の超人グルジェフ
第1章
宇宙と人間の秘密を見抜いた
グルジェフの神秘思想
第2章
グルジェフの説く「宇宙論」
第3章
グルジェフの説く「人間論」
第4章
グルジェフの「神秘錬金術」
~グルジェフ・ワークの覚醒理論~
第5章
「地球外知的生命体」と
「高次元生命体」の存在について
第6章
おわりに
~グルジェフ思想について~

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■■序章:“大いなる秘密”を探し当てた神秘の超人グルジェフ


強烈なカリスマ・エネルギーを放射


「彼は20世紀最大のオカルティストであった」──G・I・グルジェフをそう呼んだのは、彼の評伝を書いたコリン・ウィルソンである。

実際、グルジェフは人に圧倒的な印象を与える人物だった。

1917年のロシアで彼に初めて会ったアンナ・ブトコフスキーは言っている。
「相手の心を刺し通すような(といって不愉快な感じではない)目つき……生き生きとした言葉……私はここに座り、遂に一人の導師の前にいるのだ、と感じたのだった」


また、1920年にコンスタンチノープルで彼に会ったJ・G・ベネットは「私はそれまで見たこともない不思議な目を見た。その2つの目ひどく違っていたので、明かりのいたずらではないかと思った」といい、1948年のパリでグルジェフに会った医師ケネス・ウォーカーの夫人は、さらにはっきりこう言い切っている。

「彼が私に与えた印象は、はかり知れぬ活力と集中力だった。私は彼が人間ではなく、魔法使いだという感じを持った」

そして、グルジェフ自身、その自伝『注目すべき人々との出会い』にこう書いている。

「これらの国々(アジアやアフリカの諸国)を何度かにわたって旅行してからというもの、私はずっと呪術師として、また『超越的問題』に関する専門家として知られているのだ。」

 


秘教的叡智を身につけていた
G・I・グルジェフ

 

では、そのグルジェフの“魔術師”としての能力はどんなものだったのだろうか?

それについての資料は、残念ながらあまり多くない。というのは、彼はあるとき、自分が苦労して獲得してきた様々な“力”を意図的に使うことをやめてしまったからだ(その理由については後述する)。

だが、それでも彼が時たま垣間見せたその力は尋常なものではなかった。

例えば、グルジェフの古い知人フリッツ・ピーターズは第二次世界大戦の直後、パリで彼に会ったときのことを次のように書いている(当時ピーターズはベトナムで戦った米兵同様、戦争の後遺症のために神経衰弱寸前にまで追いこまれていた)。

「私は彼に会うと非常な安堵と興奮を感じ、どうしようもなく泣けてきた。それから頭がくらくらし始めた。……彼は私を見てびっくりし、どうしたのだと尋ねた。私は頭痛がひどいのでアスピリンか何かが欲しいのだと言ったが、彼は頭を振り、立ち上がって、台所のテーブルのそばのもう一つの椅子を指した。『薬はだめだ』、彼は断固として言った。『コーヒーをあげよう。できるだけ熱いまま飲みたまえ』……私はコーヒーをすすりながらテーブルの上に倒れ込んだのを覚えている。

その時自分のなかに奇妙なエネルギーが沸き上がってくるのを感じ始めた──私は彼をじっと見つめた。それから無意識のうちに立ち上がった。それはまるで烈しい青い光が彼から発して私の中に入ったようだった。このことが起こると、私は自分の中から疲れが完全に消えてしまったのを感じた。


しかし、それと同時にグルジェフの体はくずおれ、顔はまるで生命を奪われたように血の気を失った。そして、よろめくように部屋を出ていったのである。まるでつい先ほどのピーターズのように。

つまり、グルジェフは何らかの方法によってピーターズに生命エネルギーを注ぎこんだのだ。そのエネルギーはピーターズの心と体を癒したが、一方、グルジェフ自身を枯渇させ、疲労の極に達しさせてしまった。だが、ほんの数分後、部屋に戻ってきたグルジェフには、もう疲れの跡はなかった。彼はまた若者のように機敏で、ほほえみを浮かべ、元気いっぱいの様子だったのである。

自分の生命エネルギーのありったけを病める他者に注ぎこみ、ほんの数分でまた自分を充電する──。それがグルジェフの魔術、あるいは超能力のひとつだったのだ。人間にはそうしたことを可能にする能力が秘められている、とグルジェフはいうのである。

 

偉大なエネルギー源から“力”を引き出す秘術


このグルジェフの力は、かつてイエスをはじめとする宗教的な聖人たちが演じてみせた数々の奇跡を思い起こさせる。だがグルジェフにとって、こんなことは奇跡と呼ぶべきほどの事件ではなかった。彼のエネルギー制御術は、もっと強力な“力”を発揮することが可能だったからだ。

グルジェフは書いている。

「例えば、私の念力は非常に高まり数時間の準備で数十マイル離れたところから、ヤク(家畜)を殺すことさえできた。24時間あれば生命力を非常にコンパクトな形で集め、5分間のうちに象を眠らせてしまうこともできた。」

とすると、彼がそう思いさえすれば、そのエネルギーで人間を殺すことも簡単にできたはずだ。そんな人間にとって、目前にいる自分を信じきっている人間に、活力を与えることなど何の造作もないことだったのだ。

 


G・I・グルジェフ

病める人間に自分の生命エネルギーを
注ぎこみ、心身を癒すことは、彼にとって
造作もない“奇跡”のひとつであった

 

コンスタンチノープルでの出会い以後、彼の熱心な弟子となったJ・G・ベネットも、彼から生命力を注ぎこまれた時の体験をその自伝に書いている。ベネットが東洋で伝染した赤痢が重くなり、ベッドから出るのも辛い状況だった時のことである。

「徐々に私は、グルジェフがすべての注意を私に集中しているのが分かった。……突然、私は測り知れぬ力の流れに満たされた。私の肉体は光に変わったようだった。私は普通の形で肉体の存在を感じることができなかった。努力も苦痛も疲労もなかった。いや、重さの感覚もなかった……私のこの状態は今までなかったほど幸福だった。それは性的結合のエクスタシーとは全く違っていた。というのはそれは肉体から完全に自由で、離れたものだったからだ。それは山をも動かすことができるという信仰における高揚だった。」

 


グルジェフの弟子
J・G・ベネット

 

このベネットの体験は、先のピーターズの体験よりさらに注目すべきものである。というのは、ベネットの語るそれは、まさに宗教的な覚醒の瞬間そのものだからだ。

たとえば密教やヨーガの修行者は、何年にもおよぶ血のにじむような修行の末、やっとこの覚醒の瞬間とめぐりあうことができる。それも本人の宗教的な資質が関係するので、修行さえすればだれにでも、というものではないのだ。だが、グルジェフはそれをベネットに与えることができたのである。

もちろんベネット自身も、グルジェフのスクールで「グルジェフ・ワーク」と呼ばれる訓練を受けてはいたが、それは密教の修行などとは違い、ごく普通の生活を送りながらのものだった。それでもなおグルジェフは、そのエネルギー制御術によってベネットを覚醒に導くことができたのである。


グルジェフが“魔術師”だとしたらそれはまさに同時代の“魔術師”たち──グルジェフが活躍した時代は西洋における魔術の再興期であった。ラスプーチン、クロウリー、ブラバッキー、シュタイナーなどさまざまなタイプの“魔術師”が輩出した──を、大きく超えている。少なくとも彼は、他の“魔術師”たちが手にできなかった“大いなる秘密”を自らのものとしていたことだけは間違いない。

たとえば、グルジェフはその力の秘密についてベネットに語ったことがある。

「世界にはある種の人間がいる。しかしごく稀にしかいない。こういった人間は、エネルギーの偉大な貯蔵庫あるいは蓄電池とでもいうようなものとつながっている。こういうものを引き出すことができる人間は、他の人間を救う手段になり得るのだ」


グルジェフによれば、人間はだれでも体内に“磁力センター”を持っており、それを成長させることによって“エネルギーの偉大な貯蔵庫あるいは蓄電池”と接続できる可能性を秘めている。だが、その方法は秘密であり、修道僧やヨーガ修行者はその秘密を知らないがために、数年、数十年と覚醒を目指して苦行を積まなければならないのだ。

だが、その秘密を知っている人間もいる、とグルジェフはいう。彼は自分の高弟だったウスペンスキーに次のように語っている。

「この〈ずるい人間〉はどのようにしてこの秘密を知ったか──それはわからない。たぶん古い書物の中で見つけたか、受け継いだか、買ったか、誰かから盗んだかしたのだろう。別にどうでもかまわない。ともかくこの〈ずるい人間〉はその秘密を知っており、その助けを借りて修道僧やヨーギを追いこしてしまうのだ」

もちろん、これは間接的に自分自身のことを語っているのだ。そして、その秘密によって、彼は自分の弟子たちを覚醒に導こうとしていたのである。

 

若き日の探求の旅 ─ 秘密の「サルムング教団」を発見する


グルジェフはどのようにして秘密の能力を身につけ育んだのか。彼がその前半生を費やした“大いなる秘密”を求めての放浪は、最も興味深く、またスリルにあふれたドラマでもある。

 


グルジェフの生まれ育ったコーカサス地方↑

 

グルジェフは1870年代のはじめ、コーカサス地方のアルメニアで生まれた。

父はその100年以上も前、アナトリアのギリシア植民地から移住してきた古いギリシア系であり、母はアルメニア人だった。グルジェフが育った時代のコーカサス地方は、古代以来の秘教的雰囲気と奇跡にあふれたところだった。

青年時代のグルジェフは、医師と牧師という2つの道に向かって準備を始め、催眠術をマスターするなど魂と肉体の医師になる努力を続けた。が、それ以上のことを医学書で学ぶことはできなかった。そこで彼は新たな一歩を踏み出すのである。

彼は、さまざまな古文献をあさって研究した結果、「この地球にはいつかどこかに、真の知識を所有した共同体があったはずであり、もしそうなら、人類の内的スクールというものが今も実在するはずである」と、確信するにいたったのだ。

そこで、“秘伝の鍵を含む〈大いなる知識〉”を求めてのグルジェフの放浪が始まる。

彼はコーカサス地方を手始めに、アナトリア、エジプト、クレタ島、アトス山、エチオピア、スーダン、ペルシア、バビロニア、トルキスタン、チベット、ゴビ、北シベリア……と、アフリカとアジアの広い地域を何度となく遍歴し、様々な危険な目にあっている。銃弾に当たって重傷を負ったこともある。スリルに満ちたその旅は400ページの自伝『注目すべき人々との出会い』でも、全てが書き尽くされていないほどである。

 


↑グルジェフが“大いなる秘密”を求めて放浪した土地

その足跡はアフリカからアジアにかけての広大な地域にまたがっている

 

古代文明に深い関心を寄せていたグルジェフは、考古学者を伴って熱心に古代文明の故地を訪ね、同時に“真の内的スクール”を求めて、常人には近づくことすらかなわぬ、宗教的、哲学的、オカルト的、政治的、神秘的な結社や集団、教団など、ほとんどありとあらゆるヘルメス的伝統形態の至聖所へ参入したのである。

彼は諸国の聖者や賢者と接触し、議論をかわした。彼が接触した秘教的な教団は、イスラムやキリスト教の神秘派、チベット密教、シベリアのシャーマンなど数多い。だが、彼が最も影響を受けたのは「サルムング教団」という秘密教団だった。この秘密教団は、紀元前2500年にバビロニアで設立され、紀元6~7世紀ごろまでメソポタミアのどこかに存在したが、その後の消息は謎に包まれていた。


しかし、古文書からその存在を知ったグルジェフは、旅の途中で知り合った仲間とともに熱心にその行方を追い、西アジアの深い渓谷に、その「サルムング教団」の僧院を発見したのである。

彼はその僧院と、さらには「サルムング教団」の本部である北部ヒマラヤの「オルマン僧院」に数ヶ月ずつ滞在し、ついに教団が秘伝した“大いなる知識”をつかんだという。

その“大いなる知識”がどんなものだったか全容は明らかにされていないが、グルジェフはこの時、イスラム神秘主義「スーフィズム」を深く学んだと見られている。実際、そのスーフィズムが彼の成長に最も深遠な影響を及ぼした、とするグルジェフ研究家は少なくない。

 


グルジェフに多大な影響を及ぼした
イスラム神秘主義「スーフィズム」

 

彼はこのスーフィー修行の後、別の場所に向かった形跡があるが、彼は自分が覚醒に達したその場所や導師について、はっきりしたことはひとつも語っていない。やはり、それは他者にもらすことの許されない秘義だからだろうか。

いずれにせよ、グルジェフの探求の旅はそこで終わりを告げた。彼は1912年のロシアに“あらゆる超自然的な知識の偉大な師”として登場するのである。

 

探究の旅を終えて「人間の調和的育成を目的とする道場」を創設


1912年、グルジェフは第一次世界大戦を目前にひかえ、騒然としていたモスクワに姿を現した。その時、彼は100万ルーブル(現在の1ルーブルは約90円)以上の大金を手にしていたのである。チベットから戻った彼は、中央アジアのタシケントなどで様々な事業に手を染めて成功させていたのだが、それを売り払ってヨーロッパ・ロシアにやってきたのだ。

100万ルーブル以上の大金──この一事でも、グルジェフがすでに並みの“魔術師”ではなかったことがわかる。同時代の多くの“魔術師”が、経済的には彼を囲む人々の寄生者でしかなかったのに、グルジェフは必要とあればその手腕を現実的な事業(鉄道や道路の建設、レストラン、商店、映画館などの経営)でも発揮することができたのである。

だが何故、彼はそうした安定した生活を捨て去ってしまったのだろうか?

実は、グルジェフには目的があったのだ。あるいは、ヒマラヤの「サルムング教団」の僧院で与えられた使命だというべきか。いずれにせよ、タシケントでの数年間は、その目的遂行のための準備期間にすぎなかったようだ。

その目的とは何か?

一部は公になっている。それは彼の周囲に、弟子たちのグループを組織することだった。そして、「自分がすでに学びとったことを、人々の生命の中に注ぎ込む」のが自分の狙いだった、と彼は説明している。

 


グルジェフ・ワークのプログラム

↑これは1923年当時のものだが、
覚醒への秘密が象徴的に描かれている

 

実際、彼は準備した大金でモスクワに土地を買い「人間の調和的育成を目的とする道場」を創設するのである。

以来、グルジェフはさまざまな活動を通して弟子たちに、「より高次な存在を発展させ、精神と肉体の厳格な統御法の導入によって、あらゆる個別性を超越し、無限者へ接近していく眺望」を与えようとした。つまり、グルジェフは“人間の変成”を目指したのだった。

 

 


 

■■第1章:宇宙と人間の秘密を見抜いたグルジェフの神秘思想


“自然にそむき、神にそむく道”によってのみ、人間は“不死”に導かれる


グルジェフはその人間変成の方法を“道”と呼ぶが、そのうち3つはすでに広く知られた存在である。すなわち、ファキール(苦行者)の道修道僧の道ヨーギ(ヨーガ修行者)の道だ。この道について、彼は独特の考え方を展開する。

あるとき彼は自分の高弟だったウスペンスキーに次のように語っている。

「この教えの本質をつかむためには、道が人間の隠された可能性を開発する唯一の方法であるということをはっきり理解しなければならない。これは逆にいえば、そのような開発がいかに困難でまれであるかを示している。これらの可能性を伸ばすのは、決して法則によるのではない。だから、隠された可能性の開発の道は、自然にそむき、神にそむく道なのだ」

その道は人間をどこへ導くのだろうか? グルジェフはいう。

「道は人を不死に導く、あるいは導くべきものなのだ。日常生活の行きつくところはせいぜい死、それ以外の何ものでもない」

“自然にそむき、神にそむく道”によってのみ、人間は“不死”に導かれる──不遜の響きさえあるこの確信が、ともするとグルジェフをうさんくさい人物だと思わせる。

 

知られざる“第4の道”


グルジェフの思想のユニークな点は、広く知られた3つの道のほかに“第4の道”という考え方を導入した点である。彼は自分自身がたどった“ずるい人間の道”の秘密を、その一部だが弟子たちに明かそうとしたのである。

グルジェフによれば、一般人はファキールにも修道僧にもヨーギにもなれない。確かに、日常生活のすべてを捨て、多大な努力と忍耐が要求される修行の道へ踏みこむことのできる人間は、そう多くは存在しないだろう。

だが、“第4の道”が存在することを理解し、師の監督と指導のもとで各自に必要なワークを積めば、ほかの3つの道のように世を捨てることもなく、しかも多大な時間を節約して、覚醒に達することができる──とグルジェフはいうのである。

その時、人は偉大な能力を発揮することができる。「というのも、彼は肉体的、感情的、知的機能のすべてをコントロールする力を手に入れたからだ」(グルジェフ)

こうした考え方が、すでに他の3つの道の伝統さえ失ってしまっていた西洋に、どれほど大きな衝撃を与えたか想像もつかない。その影響はいまなお、欧米の各地に数多く存在するグルジェフ・グループとして生きているのである。

 

〈創造の光〉のシステムと人類の進化・退化


古代からの秘義、あるいは卓越した霊的資質によって、宇宙と人間の恐るべき秘密を探り当てたグルジェフ──。彼が説く“自然にそむき、神にそむく道”(超人への道)とは何か?

このグルジェフの神秘思想を理解するためには、まず彼の宇宙論について知る必要がある。グルジェフは、この宇宙を〈創造の光〉のシステムとして説く。彼によれば、それは古代の知識に由来するものであるという。

〈創造の光〉の原動力、または初源は〈絶対〉と呼ばれ、この〈絶対〉から膨大な〈創造の光〉が進展し、そこからまず全宇宙が流出するという。そして、その全宇宙から次に銀河系が流出し……と、次々に段階をたどっていくという。

つまり、この宇宙は、〈絶対〉──全宇宙銀河系──我々の太陽──太陽系の全惑星──地球──月という構造を持っているというのだ。

そして、このシステムの中に存在するすべての被造物は、このシステムを維持するための役割を与えられているという。地球についていえば、そこに存在するすべての有機生命体は、不断に進化する宇宙において重要な位置をしめるエネルギーの交換機として機能し、太陽──全惑星──月の経路をつなぐ架橋になっているというのだ。

 


〈創造の光〉のシステム

 

しかし、グルジェフはいう。

「人類は他の有機生命体と同じく、地球の必要と目的のために地球に存在しているのだ。そしてこの現状が、現時点における地球の要求にとって最適な状態だ。つまり自然の発展の一時点においては、人間の進化は自然にとって必要ではないことを把握しなければならない」

もし、人類だけが進化し、その意識水準全体が大変化すると、〈最高の段階〉から〈最低の段階〉へ向かう〈創造の光〉の流れが破綻してしまうことになる。だから、ある時点では人類が種として進化することは禁じられている、とグルジェフはいうのだ。

とすると、遥かな古代からの様々な試みにもかかわらず、人類が戦争その他の愚行にいまだに終止符を打てないでいる理由も理解できる。グルジェフはそんな恐るべき真実を見抜いていたのである。

 

グルジェフによれば「人間は月への食料を提供する家畜」だという
(研究者によると大昔から月は地球上の有機生命体が発する
負のエネルギーを吸収・蓄積しているとのこと)

 

しかし、ある時期までは進化が制限されているとしても、宇宙的な大きな時間の流れの中において、やはり人類には“進化”という課題を課せられているとグルジェフは言っている。

「もし人類が進化しなければ、それは有機生命体の進化の停止を意味し、それはまた〈創造の光〉の生長が止まる原因にもなる。それと同時に、もし人類が進化をやめたら、それは人類創造の目的という観点からすれば無用なものとなり、その結果、人類は滅ぼされるかもしれない。つまり、進化の停止は人類の滅亡を意味するかもしれないのだ」


そして、人類、いや人間個人には常時“進化の可能性”をその内にはらんでいる、というのだ。彼はそれを自分の探求の旅の終わり近くでつかんだという。流れ弾に傷つき、ゴビ砂漠のオアシスで療養しているとき、次のように悟って雷に打たれたようになったのだった。

「私は人間だ。その他の生物の外観とは違って、私は“彼”の似姿として創造された存在なのだ! “彼”は神であり、そうである以上、私もやはり私自身の内部に“彼”が所有しているありとあらゆる可能性、不可能性を所有している。“彼”と私の相違は単に規模の点にあるのみにすぎない。“彼”がこの宇宙のありとあらゆる現存の神であるからには! ということから私もまた、ただし私自身の規模なりにではあるが、(私の中の)ある種の現存の神でなければならないわけである」


にもかかわらず、神の似姿である人間は、ほんのわずかな力しか発揮できないのはなぜか?

これは自分が自分自身の“内なる神”に気づかないことに大きな原因がある。その内なる可能性に気がついた時、人間は大きく進歩すること、つまり進化することさえできる。グルジェフはここに“人間を超える道”、すなわち「超人」への道を発見したのであった。

グルジェフはいう。

「このような進展(進化)は、いわゆる惑星界の利害と力とに抵抗する人間の中にだけ起こりうる。人は次のことを理解しなければならない。彼個人の進化は彼自身にとってのみ必要なのだ。他には誰もそんなものに興味はない。誰にも彼を助ける義務はなく、またその気もない。それどころか多数の人々の進化を妨げる力は、個人の進化を妨げるのだ。だからその力の裏をかかなくてはならない。そして、1人の人間ならそれはできるが人類にはできない」


1個の細胞あるなしは、肉体の生存に何の変化ももたらさない。それと同じように、個々人の存在は“宇宙有機体”の生命に影響を及ぼすには小さすぎる。だが、人類全体が変成しようとすれば、それはガン細胞の増殖のように、宇宙有機体の生命を脅かすことになり(ただし時期がくれば必要)、当然、対抗策が講じられよう。

だから、人類にはできないことが1人の人間にならできるのであり、その隠された可能性の開発は“自然にそむき、神にそむく道”なのだ。グルジェフは「その意志さえあれば人間は個として全宇宙に対峙できる」とまで考えたのである。

これがつまり、彼の“超人思想”というべきものである。

 

 


 

■■第2章:グルジェフの説く「宇宙論」


この章では、具体的にグルジェフが弟子たちに直接語った「宇宙と人類の進化」に関する話(問答)を紹介したいと思う。

※ 以下の文章はグルジェフの高弟だったP・D・ウスペンスキーが書いた本『奇蹟を求めて ─ グルジェフの神秘宇宙論』(平河出版社)から抜粋したものである。かなりの長文だが面白い内容なので最後まで読んでみてほしい。


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あらゆる点から見て人類は行きづまっている


(グルジェフの言葉) 我々は人類が円環運動をしていることに気づかざるをえない。ある世紀にあらゆるものを破壊したかと思うと別の世紀には創造している。また過去百年間の機械的な事物における進歩は、おそらく人類にとって最も大切な多くのものの犠牲のうえに進められたのだ。

全体的に言えば、あらゆる点から見て人類は行きづまっており、この行きづまりからは下降と退化への一直線の道が続いていると考えられる、いや断言することができる。行きづまるとはプロセスが平衡のとれた状態になったということだ。

ある一つの性質が現われると、ただちにそれに敵対する別の性質が呼びおこされる。一つの領域での知識の増大は別の領域での無知の増大を喚起し、一方での上品さは他方の粗野を生みだし、あるものに関する自由は他に関する隷属をひきおこし、ある迷信が消えたかと思うと別のものが現われて増大するといったあんばいだ。


さて、今もしオクターヴの法則を思いだすなら、一定の方向に進んでいる平衡のとれたプロセスは、変化が必要な瞬間にも変化することはできない。それはある〈十字路〉でのみ変えられ、新しい道を始めることができるのだ。〈十字路〉と〈十字路〉の中間では何もすることはできない。それと同時に、もしプロセスが〈十字路〉を通り過ぎるときに何も起こらず、また何も為されないならば、後では何もできず、プロセスは機械的な法則に従って進む。しかも、たとえこのプロセスに加わっている人々があらゆるものの不可避的な滅亡を予見したとしても、何一つ為すことはできないだろう。

もう一度くり返すが、私が〈十字路〉と呼び、オクターヴの中ではミとファ、シとドの間の〈インターヴァル〉と呼んでいる一定の瞬間においてしか、何かを為すことはできないのだ。


宇宙と人類の進化について ─ 人間の従属的な役割とは


もちろん人類の生が、彼らの信じるあるべき方向に進んでいないと考えている人はたくさんいる。そこで、彼らによれば人類の生全体を変えずにはおかないさまざまな理論を編みだす。ある者が一つの理論を編みだすと別の者がただちにそれとは相容れない理論をうちだす。そして両者とも誰もが自分の方を信じると期待しているのだ。また実際、多くの人がそのどちらかを信じる。生は自然にそれ自身の道をとるものだが、人々は自分の、もしくは他人の理論を信じるのをやめようとはせず、また何かをすることは可能だと信じている。

むろんこれらの理論はみな全く空想的なもので、その理由は主に、彼らが最も重要なことを、つまり宇宙のプロセスにおいて人類と有機生命体が演じている従属的な役割を考慮に入れていないことにある。

知的な理論は人間をあらゆるものの中心に置く。すべては人間のために存在しているのだ。太陽、星、月、地球みなしかり。彼らは人間の相対的な大きさ、無であること、はかなく移ろいゆく存在であることを忘れている。

彼らはこう主張する──人間は、もし望むなら自分の生全体を変えることができる、つまり理性的な原理に則って生を組み立てることができる、と。そしてひきもきらずに新理論が現われ、それがまた別の相反する理論を喚起し、そしてこういった理論やその間の論争がみな、今あるような状態に人類をひきとめておく力の一つになっているのはまちがいない。

そのうえ、全体的な福祉や平等に関するこれらの理論はみな実現しえないだけでなく、もし実現されれば致命的なものになるだろう。自然界のあらゆるものはそれ自身の目標と目的をもっており、人間が不平等であり、その苦しみが不平等であることにもまたその目標と目的があるのだ。

不平等の破壊は進化の可能性の破壊を意味する。苦しみをなくすということは、第一に、人間がそれゆえに存在している一連の知覚全体を殺すことであり、また第二には〈ショック〉の破壊、つまり状況を変えることのできる唯一の力を破壊することになる。このことはあらゆる知的理論についても同様だ。


進化のプロセス、人類全体にとって可能な進化は、個人に可能な進化のプロセスと完全に相似している。しかもそれは同じものから始まる。つまりある細胞群が徐々に意識的になることから始まるのだ。それからその細胞群は他の細胞をひきつけ、従属させ、そしてしだいに全有機体をその最初の細胞群の目的に仕えさせ、ただ食べ、飲み、眠るだけという状態から連れだすのだ。これが進化であり、この他にはいかなる進化もありえない。

人間においては個人においてと同様に、すべては意識的な核の形成から始まる。生のあらゆる機械的な力は、この人間の中の意識的な核の形成に抗して闘う。ちょうどすべての機械的な習慣、嗜好、弱点が意識的な自己想起に対して闘うように。

 

「人類の進化に対して闘う意識的な力」について


Q.(弟子の質問) 人類の進化に対して闘う意識的な力があると考えることはできませんか。

A.(グルジェフ) ある観点から見ればそうも言える。


Q. この力はどこからくるのですか。

A. それは説明するのにかなり時間がかかる。しかしそれは、現時点の我々に実質的な重要性をもつものではない。普通、〈退化〉と〈進化〉と呼ばれる2つのプロセスがある。その違いは次の点にある。

退化のプロセスは〈絶対〉から意識的に始まるが、次の段階ではもう機械的になり、しかも進むにつれてどんどん機械的になる。一方、進化のプロセスは半意識的に始まるが、進むにつれてどんどん意識的になる。しかし退化のプロセスのある時点で、意識と、進化のプロセスに対する意識的な抵抗とが現われることもある。

この意識はどこからくるのだろう。もちろん進化のプロセスからだ。進化のプロセスは中断せずに進行しなければならない。いかなる停止でも元のプロセスからの離脱をひきおこす。そのような発展途上で停止した意識のバラバラな断片は、結びつけることもでき、少なくともしばしの間は進化のプロセスと闘うことによって生き延びることもできる。しかし結局それは進化のプロセスをもっと興味深いものにするだけだ。

機械的な力に対する闘いのかわりに、ある時点で、先程のかなり強力な意図的抵抗に対する闘いが起こることもあるが、もちろんその抵抗力は進化のプロセスを導く力とは比較にならない。これらの抵抗力は時には勝ちさえするかもしれない。なぜなら、進化を導く力には手段の選択範囲がより限られている、言いかえれば、ある手段、ある方法だけしか使うことができないからだ。抵抗する力は手段の選択範囲が限定されておらず、あらゆる手段、一時的な成功しか生みださないような手段でも使うことができ、最終的な結果として進化、退化の両方を、今問題としている時点で破壊してしまうのだ。


しかしすでに言ったように、この問題は今の我々には実質的な重要性をもっていない。

今我々に重要な唯一のことは、進化の始まる徴候と進化の進行する徴候をより確かなものにすることだ。そして、もし我々が人類と個人の間の完全な相似を覚えていれば、人類が進化しているとみなしうるかどうかを立証するのは難しいことではないだろう。

たとえば、人間の生は意識を有する一群の人々によって支配されていると言うことができるだろうか? 彼らはどこにいるのだろう? 彼らは何者なのだろう? 我々はそれとちょうど正反対のことを目にしている。つまり、生は最も意識の低い人々、つまり最も深く眠っている人々に支配されているのだ。生において、最良で最強、最も勇気ある諸要素が優勢であるのを目にしていると言うことができるだろうか? とんでもない。それどころか、あらゆる種類の粗野や愚かしさの優勢を目にしている。また、単一性への、統一への熱望が我々の生の中に見てとれると言えるだろうか? もちろん言えはしない。我々はただ新たな分裂、新たな敵対心、新たな誤解を見るばかりだ。


というわけで、人類の現況には、進化が進みつつあることを示すものは何一つない。それどころか、人類を個人と比較してみるなら、本質を犠牲にして人格が、つまり人工的で真実でないものが生長していること、また、自然で真実なその人本来のものを犠牲にして外部からきたものが生長していることをきわめてはっきりと見ることができる。これらとともに我々は自動性の増大を目にする。

現代文化は自動機械を必要としている。そして人々は獲得した自立の習慣を疑いの余地なく失い、自動人形に、機械の一部になりつつあるのだ。これらすべてがどこまでいったら終わるのか、また出口はどこにあるのか、いやそれどころか終わりや出口があるかどうかさえ言うことはできない。


一つだけ確かなことがある。

人間の隷属状態は拡大しつづけているということだ。人間は喜んで奴隷になっているのだ。彼にはもう鎖はいらない。彼は奴隷であることを好み、誇りさえ感じているからだ。これこそ人間に起こりうる最もいとわしいことだ。

これまで言ったことはみな、人類全体について言ったのだ。

しかし前にも指摘したように、人類の進化はあるグループの進化を通してのみ可能で、そのグループが残りの人々に影響を与え、導くのだ。そんなグルーブが存在しているなんて言えるだろうか。ある徴候をそう考えればおそらく言えるだろう。しかしどちらにせよ、それは非常に小さなグループで、少なくとも他の人々を従わせるにはきわめて不十分であることを知らなければならない。

あるいは、別の祝点から見れば次のようにも言える。つまり人類は意識的なグループの指導を受けいれられない状態にあるのだ、と。


Q. その意識的なグループには何人くらい入れるのでしょうか。

A. それを知っているのは彼らだけだ。


Q. それは彼らはみな、互いに知りあっているということですか。

A. それ以外考えられるかね。多数の眠っている人々の真っ只中に2、3の目覚めた人がいると想像してみなさい。彼らはまちがいなく互いに知りあうだろう。しかし眠っている人は彼らを知ることはできない。彼らが何人かだって? わからない。我々自身が彼らのようになるまでは知ることはできない。前にはっきり言ったように、人間は自分自身の存在のレベルしか見ることができないのだ。

しかしもし彼らが存在し、しかもそうすることを必要かつ道理にかなったものであると考えるなら、意識的な200人で地上の生きとし生けるものすべてを変えることができる。

しかし今は、彼らの数が十分でないか、彼らが望まないか、おそらくその時期がまだきていないか、あるいは他の人々があまりに深く眠っているかのいずれかなのだ。我々はエソテリズム(秘教)の問題に近づいてきた。

 

真の「平和」を求めるのなら、まず〈汝自身を知れ〉である


Q.(弟子の質問) あなたが説いている教えとキリスト教とはどういう関係にあるのですか。

A.(グルジェフ) 私は君がキリスト教について何を知っているのか知らない。君がこの語で何を理解しているかをはっきりさせるには、長時間いろいろと話す必要があるだろう。しかしすでに知っている人のために、お望みならこう言おう──これは秘教的キリスト教なのだ。しかるべき順を追ってこの言葉の意味を話すつもりだ。

今は質問についての話を続けよう。出された欲求の中で最も正当なものは、自分自身の主人になるという欲求だ。なぜなら、これがなくては他のいかなることも不可能だからだ。この欲求に比べれば他の欲求はみな単なる子供じみた夢か、たとえ叶えられたにしても全く無駄な欲求にすぎない。

たとえば、誰かが人々を助けたいと言うとしよう。人々を助けるには、まず自分の面倒をみれるようにならなければならない。

多くの人は、単なる怠惰から他者を助けるという考えや感情におぼれるのだ。彼らは自己修練をするには怠惰すぎる。それと同時に、自分は他人を助けることができると考えることは、彼らにはたまらない快感なのだ。これは自己に対する虚偽であり、不誠実でもある。もし自己をありのままに見れば、彼は他人を助けようなどとはそもそも考えないだろう。そんなことを考えるのを恥ずかしくさえ思うだろう。

人類への愛、利他主義、どれも非常にきれいな言葉だが、それらは自分の選択と決断で愛するか愛さないか、利他主義者であるか利己主義者であるかを決めることができるときにだけ意味をもつのだ。そのとき彼の選択は価値をもつ。しかし全然選択しないのなら、あるいは彼自身違うものになれないのであれば、または偶然に身を任せているのであれば、すなわち今日は利他主義者、明日は利己主義者、また明後日は利他主義者というふうにコロコロ変わるのなら、そのうちのどれであろうと全く価値はない。

他人を助けるためにはまず利己主義者、意識的なエゴイストになれなければならない。意識的なエゴイストだけが他人を助けることができるのだ。

今のままでは我々は何一つできない。人はエゴイストになろうと決心はするが逆に自分の最後のシャツを与えてしまう。あるいは最後のシャツを与える決心をしたのに、今度は逆に相手の最後のシャツをはぎとってしまう。あるいは自分のシャツを誰かに与えようと決心はするが、実際には誰か他の人のシャツを奪って与えようとする。そして、もし他の人がシャツを譲ろうとしないものなら腹を立ててしまう。これこそ最も頻繁に起こることだ。何にもまして、困難なことをするためには、まずやさしいことができるようにならなければならない。一番難しいことから始めるのは無理だ。


戦争についての質問もあったね。たしかどのようにして戦争を止めるのかと。

戦争を止めることはできない。戦争は人間がその中で生きている奴隷状態の結果なのだ。厳密に言えば、人間は戦争の責任をとる必要はない。戦争は宇宙的な力、惑星の影響によるものだ。しかも人間の中には、これらの影響に抵抗するものは何もないし、またそもそもありえない。というのも、人間は奴隷だからだ。もし彼らが人間であり、〈為す〉ことができるなら、彼らはこれらの影響に抵抗し、殺しあうのをやめることもできるだろう。


Q. しかし、これを認識した人々は必然的に何かすることができるのではないでしょうか。もし十分な数の人が戦争はあるべきではないという確たる結論に達すれば、彼らは他者に影響を与えることはできないでしょうか。

A. 戦争を嫌う人々は、ほとんど世界創造の当初からそうしようと努めてきた。それでも現在やっているような規模の戦争は一度もなかった。戦争は減らないどころか増えており、しかもそれは普通の手段では止めることはできない。世界平和とか平和会議などに関するすべての理論も、単に怠惰、欺瞞にすぎない。人間は自分自身について考えるのも働きかけるのも嫌で、いかにして他人に自分の望むことをやらせるかばかり考えている。

もし、戦争をやめさせたいと思う人々が十分な数だけ本当に集まれば、彼らはまず、彼らに反対する人々に戦争をしかけることから始めるだろう。また彼らはまちがいなく、別の方法で戦争をやめさせたいと思っている人たちにも戦争をしかけるだろう。彼らはそういうふうに戦うだろう。人間は今あるようにあるのであって、別様であることはできない。

戦争には我々の知らない多くの原因がある。ある原因は人間自身の内にあり、また他のものは外にある。人間の内にある原因から手をつけなくてはならない。環境の奴隷である限り、巨大な宇宙の力という外からの影響をいかにして免れることができよう。人間はまわりのすべてのものに操られているのだ。もし物事から自由になれば、そのときこそ人間は惑星の影響から自由になることができるのだ。


自由、解放、これが人間の目的でなくてはならない。

自由になること、奴隷状態から解放されること──人間が自己の位置に少しでも気づけば、これこそが彼の獲得すべき目標になる。内面的にも外面的にも奴隷状態にとどまる限り、彼にはこれ以外に何もなく、また可能なものもない。さらに、内面的に奴隷である間は、外面的にも奴隷状態から抜けだすことはできない。だから自由になるためには、人間は内的自由を獲得しなければならないのだ。

人間の内的奴隷状態の第一の理由は、彼の無知、なかんずく、自分自身に対する無知だ。自分を知らずに、また自分の機械の働きと機能を理解せずには、人間は自由になることも自分を統御することもできず、常に奴隷あるいは彼に働きかける力の遊び道具にとどまるだろう。

これが、あらゆる古代の教えの中で、解放の道を歩みはじめるにあたっての第一の要求が〈汝自身を知れ〉である理由だ。


以上、P・D・ウスペンスキー著『奇蹟を求めて』(平河出版社)より


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グルジェフのいう「意識的なエゴイスト」についての私的解釈


ここまでが、グルジェフが弟子たちに直接語った「宇宙論」の一部(抜粋)である。

この中で「他人を助けるためにはまず利己主義者、意識的なエゴイストになれなければならない」という言葉が出てくるが、この言葉に引っ掛かりを感じた人は少なくないと思う。なぜ利他主義者ではなく、利己主義者なのか?

私的解釈になるが、グルジェフのいう「意識的なエゴイスト」とは、単なる利己主義者ではなく「他人に振り回されない確固たる自分軸を持った人間」を意味しているのだと思う。表面上は同じ「利己主義者」であっても、その人物の意識レベルが「覚醒」状態なのか「惰眠」状態なのかで中身は全く違う存在になるのだと思う。

 

“磁力センター”の秘密を知る〈ずるい人間〉について


ところで、序章の中でも触れたが、グルジェフによれば人間は誰でも体内に“磁力センター”を持っており、それを成長させることによって宇宙的なエネルギーの偉大な貯蔵庫と接続できる可能性を秘めているという。

だが、その方法は秘密であり、修行僧やヨガ修行者はそれを求めて数年、数十年と苦行を積まなければならない。しかし、世の中には〈ずるい人間〉が存在し、その秘密を別の形で手にした人間もいるという。もちろん、この〈ずるい人間〉はグルジェフ本人のことを意味しており、その秘密の一部をグルジェフは公開してきたわけだ。

そして、その超人化のプロセスは、徹底的に厳しい自己制御の技法真の自己意識の獲得なのであった(詳しい解説は後述する)。


なお、グルジェフは晩年、弟子のベネットに次のようなことを語っていたという(前章と重複)。

「このような進展(進化)は、いわゆる惑星界の利害と力とに抵抗する人間の中にだけ起こりうる。人は次のことを理解しなければならない。彼個人の進化は彼自身にとってのみ必要なのだ。他には誰もそんなものに興味はない。誰にも彼を助ける義務はなく、またその気もない。それどころか多数の人々の進化を妨げる力は、個人の進化を妨げるのだ。だからその力の裏をかかなくてはならない。そして、1人の人間ならそれはできるが人類にはできない……」

古い世界が私を『ぷちっ』とつぶすか、私が古い世界を『ぷちっ』とつぶすかなのだ。『ぷちっ』。それから新しい世界が始まり得るのだ……」

 

 


 

■■第3章:グルジェフの説く「人間論」


人間の「3種の脳」と「発達の7段階」


グルジェフは人間というものをどうとらえていたのだろうか?

彼はまず、人間は3種の脳を持っている、という。この3種の脳はビルの階のように、それぞれ機能の異なる3つの段階に対応している。

3階は知性センター、2階は感情センター、1階は動作センター、本能センター、性センターである。なお、普通人はほとんど活用していないが、3階には〈高次の知性センター〉、2階には〈高次の感情センター〉が存在する。

 


諸センターの構成図

 

そして、これらの脳のセンターの活用の仕方によって、人間は7段階に分類される、と彼はいう。

人間第1番、2番、3番は普通人の3つのタイプだといっていい。

すなわち、人間第1番はその重心が動作──本能センターにある本能型人間、欲望のままに動きやすい人間だ。第2番は重心が感情センターにある感情型人間、好き嫌いがその行動の基準になる。第3番は重心が知性センターにある思考型人間、なにごとにつけて観念的である。この分類法は、我々が人間を観察するとき、すぐに役に立つだろう。

が、人間第4番以上は、いずれかの道に努力することで実を結んだ結果としてしか到達できない。当然のことながら、上の段階へいくほどその属性は高度のものとなり、人間第7番は、意志、完全な意識、恒久不変の〈私〉、個体性、そして不死性という、人間に可能な能力のすべてを所有している。

 

グルジェフが唱える人間の発達の7段階

 

グルジェフは、これを別の角度から次のように説明する。

「古代のある教えによれば、人間に可能なかぎりの発展を成し遂げた人間、本当の意味での人間は、4つの体から成り立っている、という。

これら4つの体は、しだいに微細になり、相互に融合し、そして、ある明確な関係をもっているが独自の行動ができる4つの独立した有機体を形成するような物質で構成されている。人間という肉体は非常に複雑な組織をもっているので、ある条件下では、その内部で、意識の活動にとって肉体よりはるかに便利で敏感な器官を生みだす新しい独立した有機体が育ちうるのだ」

 

4つの体(肉体─アストラル体─メンタル体─原因体)


この4つの体については、古来、多くの密儀体系がさまざまな定義を加えているが、簡単に整理すると次のようになる。

 ◆第1の体:現世的、肉欲的身体/肉体(身体)
 ◆第2の体:自然体/アストラル体(感情、欲求)
 ◆第3の体:霊的体/メンタル体(知性)
 ◆第4の体:神的体/原因体(私、意識、意志)


第1の体は死とともに塵に帰す体であり、第2の体は内外ともに好ましい条件が存在する場合に限って人為的に育成できる。このアストラル体は肉体の持つことができない機能を持ち、肉体の死後も生き残れるのだ。が、これは言葉の完全な意味での不死ではない。というのは、ある時間がたてばこれも死ぬからだ。

第3の体は高次の思考力の開発と関達しており、〈創造の光〉の体系でいえば、太陽の材質からできているため、アストラル体の死後も存在できる。

そして、第4の体は人間の全センターが統一的な調和と意志を持って機能したとき発達するもので、〈創造の光〉のシステムの中では銀河系の材質からできている。ということは、この太陽系内にはこれを破壊できるものは何もなく、第4の体を持つ人間は太陽系の領域内では不死なのである。

グルジェフは、この4種の体全部を発達させた人間=人間第7番のみが、本当の意味での〈人間〉だという。しかも彼は弟子たちに、彼のいう“第4の道”をたどることによって、「あらゆる個別性を超越して、その真の人間に到達することができる」と教えたのである。

 

覚醒の体験 ─ 覚醒するとどうなるのか?


グルジェフによれば、人間が「覚醒」を体験することは、レベル7(人間第7番)の意識を顕現させることである。もちろん、最初からそのレベルに到達することは容易ではない。とりあえずレベル4(人間第4番)の意識を持つことが大事だ。この意識でさえ、今までの意識状態に比べたら驚くべき進化なのである。

ここでグルジェフの熱心な弟子だったJ・G・ベネットが、この覚醒状態に入ったときの様子を書いているので紹介しよう。

「……まわりの樹木は、どれも大変個性的だったので、林の中をどこまで歩いていっても、この驚異の念を感じ続けるにちがいないと思った。次に『恐怖』という考えが頭に浮かんだ。すると、たちまち恐れで体が震えだした。正体不明の恐ろしいものが、四方から私を脅かしていた。『喜び』を思い浮かべると、胸が破裂するほど嬉しくなった。『愛』という言葉が浮かんできた。えもいわれぬ優しさと思いやりで、胸がいっぱいになり、それまでの自分は、真実の愛を持つ深さと幅を全く知らなかったのだ、と思わずにはいられなかった。愛はどこにでもあり、どんなものの中にもあるのであった……」


これが典型的な覚醒の断片的体験なのである。

知覚が非常に鋭敏になり、新鮮な感動に包み込まれるのである。

ここで、覚醒するといったいどのような恩恵があるのかまとめてみよう。


「運命」の干渉から逃れられる。したがって、覚醒した人には「占い」の予言は必ずしも当たらない。自分の意志のまま、自由な生き方ができる。

意識が拡大し、通常では感知しえない宇宙的真理を把握することができる。

悲嘆に変わることのない絶対の幸福と自由が顕現する。


このように、覚醒することによって、自分本来の“真実の生き方”を体得することができるようになるのである。

 

 


 

■■第4章:グルジェフの「神秘錬金術」─ グルジェフ・ワークの覚醒理論


人間の変成を目指す「神秘錬金術」


ところで、グルジェフはヘルメス思想を継承した錬金術師であったといえる。しかも、現代に多い“思想の錬金術師”ではなく“実践の錬金術師”である。

グルジェフの高弟だったウスペンスキーは、最初にグルジェフに会ったときのこととして、次のように書いている。

「グルジェフはモスクワでやっていることを話したが、私には完全に理解できなかった。彼の仕事は主に心理学的な性質のものだったが、その中で化学が大きな役割を果たしていることが彼の話から察せられた。当然のことながら、最初に彼の話を聞いたときは、その言葉を文字通りに受け取ったのである。」


だが、グルジェフは次第にウスペンスキーにその化学の真の意味を明らかにしていく。

「化学を例にとろう。通常の化学は物質をその宇宙的特性を考慮せずに研究している。しかし、通常の化学のほかに、宇宙的特性を考慮しつつ物質を研究している特殊な化学──お望みなら錬金術と呼んでも結構だが──が存在している」

そしてウスペンスキーによると、ローマ時代のグルジェフは、モスクワの本拠でその特殊な化学=錬金術の実験・研究に、かなりの資金を注ぎ込んでいたようなのである。

グルジェフはいう。

「人体の各機能に特有な物質があり、一つ一つの機能は強められもすれば弱められもし、また覚醒させておくこともできれば眠らせることもできる。しかしそうするには、人体の機構と特殊な化学に関する多大な知識が必要だ。このような方法を用いているスクールでは、実験は本当に必要なときだけ、全ての結果を予見でき、また望ましくない結果をも処理できる経験豊かで有能な人の指導のもとでのみ行われるのだ」

この言葉からも分かるように、グルジェフのいう特殊な化学=錬金術は一般的にいわれる世俗的な黄金を求めた錬金術ではない。グルジェフの錬金術は、主にヨーガとイスラムのスーフィズムから編み出された“精神と肉体の錬金術”=「神秘錬金術」だったのである。

※ 西欧神秘主義における錬金術の歴史や「神秘錬金術」全般に興味のある方は、当館作成のファイル「ヘルメス思想の謎」をご覧下さい。

 

普通人の諸センターは未開発の状態にある


グルジェフは普通の人々を「条件づけによって反応するロボット」だとみなしていた。

彼はこう語っている。

「人間は機械だ。彼の行動、言葉、思考、感情、信念、意見、習慣、これらは全ては外的な影響、外的な印象から生ずるのだ。人間は、自分自身では一つの考え、一つの行為すら生み出すことはできない。彼の言うこと、為すこと、考えること、感じること、これら全てはただ起こるのだ。人間は何一つ発見することも発明することもできない。全てはただ起こるのだ。
……人は生まれ、生き、死に、家を建て、本を書くが、それは自分が望んでいるようにではなく、起こるにまかせているにすぎない。全ては起こるのだ。人は愛しも、憎しみも、欲しもしない。それらは全て起こるのだ」


グルジェフにいわせれば、普通人は人体の5つの諸センターの動きそのものが非能率的であり、相互間の調和を失っている。諸センターに用いられるエネルギーはそれぞれ別のものなのだが、互いに他のセンターのエネルギーを併用し、盗用しあっている。それがあまりにも慢性化して、衰弱の原因になっている、というのだ。

人はまず、それを止める適切な策を講じて諸センターの高次の機能を維持し、さらにそれを最大限に作動させ、隠れている高次の2つのセンター、「高次の感情センター」「高次の知性センター」と連結するようにしなければならない。グルジェフは諸センターについて、こうした考えをもっていたのである。

 

肉体からアストラル体への変成について


グルジェフによれば、不死なる人間への道の第1段階はアストラル体の獲得にある。

そのアストラル体も“巨大な化学工場”である人間の体で産出される、というのだ。とはいえ、これは生の普通の状態では起こりえない。

グルジェフは語る。

「“上質のものを、粗悪なものから分けることを学べ”──ヘルメス・トリスメギストスの『エメラルド・タブレット』のこの原理は、人間工場の働きを指した言葉であり、もし人間が“上質なものを粗悪なものから分ける”ようになれば、まさにそのことによって、他のいかなる手段によっても成し遂げることのできない内的生長の可能性を自分自身で生みだしうるのだ。内的生長、あるいはアストラル体メンタル体などの人間の内的体の生長は、肉体の生長と完全に相似した物質過程なのである」


また、こうもいう。

アストラル体は肉体と同一の素材、同一の物質から生まれ、ただその過程が違っているだけだということを理解しなければならない。肉体全体、その全細胞は、いうなれば物質シ12(人体中の食物変成の最終的産物)の放射物に浸透されている。そしてそれが十分染みわたったとき、物質シ12は結晶化を始める。この物質の結晶化がアストラル体を形成するのだ。

この過程を錬金術では〈変成〉または〈変質〉と呼んでいる。錬金術で〈粗悪なもの〉から〈上質のもの〉への変成とか、卑金属から貴金属への変成と呼んでいるのは、まさにこの肉体からアストラル体への変成のことなのである

 

「自己観察」について


さて、ここから具体的に「グルジェフ・ワーク」の覚醒理論を紹介していきたいと思う。

覚醒するためには、感情&思考センターのエネルギーを、高次の感情&思考センターに連結させなければならない。高次のセンターはわれわれの手の届かない領域であるから、通常、われわれの持っている感情および思考のセンターを操作し、ボルテージを高めて高次のセンターにまで触手を伸ばす必要がある。

感情&思考センターのエネルギーを、高次の感情&思考センターに向ける作業が「自己観察」である。これは自分の内面の動きをじっと観察するワークだ。

つまり、われわれの意識はすなわちエネルギーだということを知らなければならない。しかし、通常、意識は外部に向けられ、あるいは夢想や理想にばかり向けられて消費してしまっている。そのため、高次のセンターを発火させるほどのエネルギーが到達してこない。そこでこの「自己観察」をすることによって、意識のベクトルを高次のセンターに向けるのである。

 

「自己観察」を妨げる最大の原因である「緩衝器(クンダバッファー)」について


ところが、このエネルギーの方向を弱めてしまう要因が内部に存在している。グルジェフはそれを「緩衝器(クンダバッファー)」と呼んだ。

自動車には地面からの振動をやわらげるダンパーとかショックアブソーバーと呼ばれる緩衝器がついている。人も心理的な緩衝器を持っており、それが「自己観察」を妨げる最大の原因となっている。

誰しも自分は有能で魅力的であり、人気があって重要な存在であると思いこみたい。自分のありのままの姿が無能で、魅力のない、つまらない存在であると知ったなら、大きなショックを受けるだろう。普通はそれに耐えられない。そこで「緩衝器」を使ってそのショックをやわらげ、ありのままの自己から目をそらしてしまうのである。


たとえば、仕事で失敗したとする。これをありのままに認めるなら、自分は無能だということになり、ひどいショックを受ける。そこで「緩衝器」は次のようにいうのだ。

「失敗したのは上司の指導がまずかったからだ、部下がだらしなかったからだ、会社の経営方針に無理があったからだ、体調がすぐれなかったからだ、運が悪かったからだ……」

こうしてありとあらゆる理屈をいって自分を正当化する。するとショックがやわらげられる。しかし、同時にありのままの自己の姿が観察できないために、意識のエネルギーが高次のセンターに向かわない。こうなると我々は眠ったままであり、覚醒する可能性がなくなってしまうのだ。これがグルジェフのいう「緩衝器(クンダバッファー)」の役割なのである。

 

「緩衝器」の撤去


しかし、もし人が「緩衝器」を取り去って自分の失敗を認め、あえてその苦しみを受けて自己のありのままの姿を見つめたなら、意識エネルギーは高次のセンターに向かいはじめ、ついには覚醒に至る。

一般に「我」の強い人ほど緩衝器が強い。緩衝器がある以上、自己観察は不可能である。ただし、緩衝器のない状態は非常に苦しい。緩衝器を撤去すると同時に、我々は強い意志を獲得しなければならないのである。

グルジェフはいう。

「覚醒は、それを捜し求めている者、それを得るために長期間うまずたゆまず自己と闘い、自己修練をする準備のできている者にのみ可能なのだ。そのためには『緩衝器』を破壊すること、つまり矛盾の感覚と結びついているあらゆる内的苦痛と直面すべく進んで歩み出る必要がある」

 

「性センター」について ─ 性エネルギーの誤用を改める


こうして意識エネルギーを高次のセンターに向けたなら、次にこのエネルギー自体のボルテージを高める作業を行う。つまり、いくら意識エネルギーを高次のセンターに向けても、それが弱々しいものであったなら、高次センターを発火させることはできない。

そこで、いかにして意識エネルギーを高めるかが問題となってくる。それにはまず、エネルギーの無駄な消費を阻止しなければならない。

各センターを機能させているのは、そのセンター独自のエネルギーである。動作センターはそれ専用のエネルギーで動くのがベストであり、感情センターもそれ専用のエネルギーで動かなくてはならない。ところが、さまざまな理由で、通常の我々は、各センターがそれ専用のエネルギーを消費していない、とグルジェフは指摘する。


性センターのエネルギーが盗まれて他のセンターが作動してしまった状態では、ちょうど質の悪いガソリンを入れた車のように、性センターのエネルギーではうまく機能せずに、むしろ好ましくない結果をもたらすという。

例えば、性エネルギーが動作センターで使われると、異常に闘争的になる。感情センターで使われると、病的な禁欲、嫉妬、残忍性が現れ、思考センターの場合は、論争や批判、性的妄想となって現れるという。

一方、他のセンターに自分のエネルギーを取られてしまった性センターは、逆に他のセンターからそのエネルギーを奪い取るという。つまり、各センターは、自分専用のエネルギーを使えば最高に機能できるのに、他のセンターからエネルギーを奪いあって、かえって機能を低下させているわけだ。

そこで、各センターが自分専用のエネルギーを使って働くようにしなければならない。そのためには、性センターが自分のエネルギーを使うように操作すればよい。

グルジェフによれば、性センターは強大な力を持っており、このセンターを正常化させれば、他のセンターも自分専用のエネルギーで動くようになるという。

 

「超努力」について ─ 大蓄積器とセンターを直接に連結させる


次に、センターに大量のエネルギーを流し込むワークを行う。そのためには、大蓄積器と呼ばれるエネルギーの供給源とセンターとを連結させる必要がある。

グルジェフによれば、センターはまず、2つの小蓄積器で連結されており、その2つの小蓄積器は大蓄積器で連結されているという。

 

 

たとえば、動作センターを使って肉体労働をしていたとしよう。最初は小蓄積器のAを用いてそこからエネルギーを補給して働く。すると、やがて小蓄積器のAが空になるので疲労を覚え、少し休むことにする。このとき小蓄積器のBと連結され、人はまた元気に働くことができる。その間に小蓄積器のAは、大蓄積器からエネルギーを補給している。

やがて小蓄積器のBも空になるので人は疲労し、休みはじめる。するとまた小蓄積器のAに連結されるが、十分な量のエネルギーがまだ補充され終わっていないため、以前ほど働けずに、すぐ疲労がやってくる。そしてまた休むと、小蓄積器のBに連結されるのだが、これもまだ十分にエネルギーが補充されていないために、たいして働けない。こうして人は両方の小蓄積器を消費してしまい、ついには疲労困ぱいに達してしまうという。

ところが、ここでさらに努力を続け(超努力)、同時に感情センターを刺激することによって、大蓄積器とセンターが直接に連結される、とグルジェフはいう。

このとき、信じられないパワーが生じ、すさまじい体力、感受性、そして知能を得ることができるというのだ。


この「超努力」についてグルジェフは次のように説明している。

「……ある目的の達成に必要な努力を超える努力だ。私が一日じゅう歩いて非常に疲れていると想像してみなさい。天気は悪く、雨の降る寒い日だ。夕方、私は家に帰り着いた。まあ、25マイル(約40キロ)ばかり歩いたとしよう。家には夕食が用意され、暖かくて快適だ。しかし、座って夕食をとる代わりに、私はもう一度雨の中へ出てさらに2マイル(約3.2キロ)歩き、それから帰ってこようと決心する。これが超努力だ……」

我々は能力の限界を出したつもりでも、実際はその限界はさらに上に位置しているようだ。100%の力を出したつもりでも、おそらくほんの40%くらいではないのだろうか。したがって、通常のわれわれの努力では、小蓄積器だけで十分に間に合っており、大蓄積器と連結する必要がないのだ。

超努力しなければ生きていかれないような極限の状態に自分を追い込むときに、大蓄積器と連結される可能性がある。安易な生活では決して実現することはないのだ。


ここで、「超努力」によって大蓄積器と連結したJ・G・ベネット(グルジェフの弟子)の体験を紹介してみよう。

そのとき彼は、何日もの間、激しい下痢に苦しめられており、日増しに体力が衰えていった。起床するのが辛く、とうとう熱が出て体が震えだした。彼はもうベッドに安静にしていようと思ったが、次の瞬間には体がひとりでに動き、起きて服を着ていたという。気分が悪くて昼食もとれなかった彼は、にもかかわらずダンスの授業に参加した。グルジェフのダンスはムーブメントと呼ばれ、通常では考えられない体の複雑な動きと強度の精神集中を要求される激しい内容を持っている。彼は死ぬほどの疲労と苦しみに耐えながら、限界を超えてがんばった。

「……すると突然、私の体全体に、たくましい活力がみなぎってきた。肉体が光に変わってしまったようであった。肉体の存在を、いつもの通り意識することがなくなってしまい、疲労も倦怠感も消え去り、自分の重ささえ、感じなくなった……」

その後、彼は自分の力を試すためにスコップを持ち、普通なら2、3分でくたくたになるほどの激しさで穴を掘り始めた。夏の炎天下にもかかわらず、ベネットは1時間以上も掘り続けることができたのである。


この「超努力」「自己観察」と並んで最も大切なワークのひとつである。

超努力は苦しいものだが、それを行うたびに自己の限界が破られていく。人の能力は、怠惰と自己限定のためにほんのわずかしか発揮されていない。この超努力によって、自分にはこんな偉大な可能性があったのかと驚嘆することだろう。そして、自分自身に大きな自信を持つことができるだろう。

なお、超努力をして健康を害さないかと心配することはない。グルジェフは、その前に自己の防衛本能が働いて自動的に休息するという。また、過度の緊張と感情の乱れは避けねばならない(これに関しては次に述べる)。

 

エネルギーのロスを防ぐよう心掛ける


最後に、センターを無駄に使ってエネルギーをロスしないように注意しなければならない。たとえば、筋肉のよけいな緊張、心配や恐怖といったことで、著しくエネルギーが浪費される。

「有機体は、普通、1日で次の日に必要な全物質を生み出すということに留意しなさい。ところがほとんどの場合、これらの物質は全部、不必要な、また概して不快な感情に費やされてしまうのだ。悪い気分、心配、杞憂、疑い、傷つけられたという感情、いらだち──こういった感情はみな、ある強度に達すると、30分、いや30秒で翌日用の全物質を食いつくしてしまうだろう……」

グルジェフもこのようにいっている。したがって、このような無駄なエネルギーをくい止めるワークがぜひとも必要なわけだ。

 

ここまでのまとめ


さて、以上が「グルジェフ・ワーク」の覚醒理論である。

エネルギーを高次のセンターに向け、なおかつそのボルテージを高めることによって、高次のセンターと通常のセンターとが連結され、我々は覚醒に至るのである。

この場合の覚醒とは、いうまでもなく高次の意識──純粋意識(真の自己意識)を獲得した状態のことをいう。すなわち、レベル7(人間第7番)の意識を顕現させた状態である。知覚が非常に鋭敏になり、新鮮な感動に包みこまれ、機械的な反応や外部からの影響で干渉されることのない完全な自由(内的自由)に達した状態である。

 

 


 

■■第5章:「地球外知的生命体」と「高次元生命体」の存在について


グルジェフは宇宙に存在するあらゆるものを、振動密度/物質密度という考えで分類した。

つまり精神や霊も、いかなるものも基本的に「物質」であり、ただそれは我々が手で触れることのできる物質と比較すると、振動密度が高く、そのぶん物質密度は低いのだ、という考え方だ。

振動密度と物質密度は反比例の関係にある。我々の肉体よりも、感情はもっと振動密度の高い物質だ。さらに思考はもっと振動密度が高い。それでも、やはり感情も知性も有限の物質なのである。

 

 

この難解なテーマについては、グルジェフ思想に詳しい神秘思想家の松村潔氏が監修した本『私は宇宙人を知っている』(ベストセラーズ)の中で分かりやすくまとめられている。少し長くなるがこの本の内容の一部を参考までに紹介しておきたい。

※ 以下の文章はこの本から抜粋したものである。


──────────────────────────────


宇宙に存在するあらゆるものを「振動密度/物質密度」という考えで分類


グルジェフは振動密度/物質密度の異なる物質を「水素番号」で識別した。といっても、いま一般に知られている元素の水素とはまったく異なる概念のようだ。

水素の番号は数が小さいものほど、振動密度が高い高次元の物質で、数が多くなるにつれて、一般にいう物質的な姿になってゆく。


水素1は、この宇宙で分割不可能な、絶対といわれる物質。

水素6は、高次思考能力の物質といわれる。だが、この思考能力は、ふつうの知性と違い、象徴を象徴そのままに考えることのできる知性で、神話はこの知性で語られているという。生命の根底にある本当の意図とでもいうべきだろうか。

水素12は、高次な感情能力だといわれる。これは宗教的な感動や、言葉で語りつくせない強烈に神聖な感情などに象徴される。一般の人間の感情も知性もこの強烈さについていけないので、たとえば瞑想家などもこの水素の体験をすると、一時的にエクスタシーに飲み込まれ、言語能力を喪失する。

水素24は、グルジェフ体系になじんだジョン・C・リリーの言葉を借りれば、専門家的悟りの意識だといえる。たとえばあるひとつの仕事に練達した人は、必ず常識では納得できない不思議な能力を持っている。レーサーが驚くべきスピードで、すでに脳の認識力では追跡できないはずの路面を冷静に観察し、正確に車を運転する能力などだ。また優れた武道家や兵士が、あるとき砲弾が自分に向かっているのを肉眼で見たりする、という例もあげられる。一瞬でも通常の「考え込む」状態に入ると、この危ないところを綱渡りするような優れた能力は失われる。レーサーはその瞬間事故を起こす。人はひとつの仕事に熟練することで、この水素を蓄積する。独特の高速の意識だ。

水素48は、一般にいう思考能力だ。考え、分析し、語るというレベルのことだ。ジョン・C・リリーは精神の無風状態だという。

水素96は、濃密な感情、たとえば怒り、嫉妬、憎悪など。われわれが、この物質に内面的に同化せず、外的な物質として観察する場合、これは“気”や、動物磁気として観察される。また光の速度もこの96だ。

水素192は、空気。

水素384は、水。

水素768は、私たちの食べている食物の水準に近い。水分の多い栄養の少ないものは水である384に近く、フレーバーの多い堅い食物は1536に近くなる。

水素1536は、樹木。

水素3072は、鉄。

 

すべては振動密度/物質密度の違いで分類したこの物質表は、つまるところ、極度に優れた霊や知性も、樹木も、鉄も、すべて唯物論的な尺度の中で分類されることになる。

とはいえ、科学的に計測できるのは、いまのところ水素96までで、それよりも高次元の物質は、思考実験としては数学的になり、推理できるのだが、なかなか証明されづらいものだといえる。

 

↑水素の分類法に基づき、この宇宙に存在する
「生きとし生けるもの」の関連を説明した一覧表

 

さて、上の図を見てほしい。これは水素の分類法に基づき、この宇宙に存在する「生きとし生けるもの」の関連を説明した一覧表だ。

ひとつの枠に3つの数字が入っている。これについて説明しなくては、この図の意味が分からないだろう。古代から継承されてきた哲学体系には、しばしば人間や、ほかのあらゆる有機体は、三つに区別される組織でできているといわれている。たとえていえば、これは知性と感情と肉体だ。あるいは霊・魂・体といういい方もある。

もっと分かりやすくいうと、宇宙は振動の高いものから低いものへ、連鎖的につらなっているので、ひとつの生き物の性質を特定するには、その生き物そのものを上下ではさんだ宇宙を含めて、合計3つで判断しなくてはならない、という考えだ。


われわれ人間はもっとも低い部分は肉体でできている。また高い部分は精神だ。この2つの中間に、われわれ自身の“自然体”と感じるものがある。

そこで、生命を記述するのに、3つの水素が記入される。ひとつは、その知性の理想に近い支配的な因子。その生命はこの物質に従属し、食い物にされている。真ん中にある水素は、その生き物そのものを示している。下にある水素は、この生き物が土台として立ち、なおかつその物質を食い物にしている、といえるものだ。従うものと、従えるもの、その真ん中に自分自身がある、という図式である。

例をあげると、この図表では人間は6・24・96の組み合わせだ。といっても、これはじつは人間の将来的に理想とする生き方で、実際には、12・48・192という水準で生きているのが実状といえる。専門家的悟りを中心にして、ちゃんと自分のすすむべき方向がある人と、考え込みいろいろと迷っている48を中心に生きる人の違いだ。ここで96とは、光の速度に対応する。これよりも数字の小さなものは、光よりも速い物質。これよりも数字の大きなものは、光より遅い、すなわち可視の世界である。

水素の3つの組み合わせは、思考・感情・肉体のことなので、人間の肉体はこの96を中心として、より密度の濃密な脊髄動物、無脊髄動物、植物、鉱物、金属を体内に含有していると解釈することができる。われわれは6=高次思考物質や12=高次感情物質を視覚化はできない。それは光よりも速度が速い、すなわち振動の高い物質だからである。視覚的に対象化できないものは、われわれ自身の内面にある原理だと感じてしまうのである。


グルジェフは、宇宙に存在する生物はすべて他の存在との相対的な位置づけを持っていると主張したので、たとえば、ここから次のような推理も可能である。

大天使1・6・24にとっては、24は肉体である。人間にとって視覚化できないが、きわめて聡明な意識状態で達成される24の意識状態は、大天使という存在レベルから見ると、あたかもわれわれが肉体を見ているかのように、物質的に認知されるものである。

またこの図表では大天使よりももうひとつ物質密度の重い実体である天使は、肉体を48としている。これは人間のレベルでは、言葉や思考の速度を表している。つまり天使は、人間の言葉や思考のなかに、その肉体を置いているという見方である。また肉体ではなく、実体はというと、ごくまれな人々しか体験しない、強烈な宗教的なエクスタシー(水素12体験)のなかでのみ、その本質を知ることができる、というわけだ。これではまるで聖書や書物のなかに生きている妖精みたいなものだ。


いずれにしても、われわれは天使や大天使のような知性体を視覚化して目の前に見ることは不可能だということになる。専門家的な悟りのなかに、大天使レベルの意識の足跡をかすかに感じ、また書物の精神のなかに、小天使的なイメージを追うしかない。これでは、グルジェフの体系とは、芸術や文学の体系に見えてしまうかもしれない。だが、現実に、目に見えるものだけが存在するとする科学的な見方では、こうした体系は解釈しきれないのである。

より高度な存在の知性は、われわれの瞬間的な霊感のなかに、あるいは生き生きとした聡明な意識が閃く瞬間に、また言葉やアイデアのなかに、足場をもち、彼らの存在それ自身からみれば、彼ら自身は3次元的な実体であるにもかかわらず、われわれがちょうど岩を見ているように、彼らは人の意識や感情を見なしている、ということになるのである。彼らから見れば、人間の思考や感情をあたかもレンガを持ち運ぶように、あそこからここへと動かすことも可能だということだ。


さて、もしこの図表が真実だとすれば、われわれはどうやって宇宙的な知性を認知すればいいのだろうか? 科学的観測でこうした知性を確認することはどだい不可能だということなのである。“気”や超能力が証明されたとしても、水素96の振動レベルまでしか解明できない。あとは哲学・宗教や心理学の分野の問題にゆだねられてしまう。

だが、こうやって宇宙を種々の分野に分断して考えると、結局、全体像もはっきりしないし、宇宙人のことなどとうてい理解できないのではあるまいか。UFOのことを考えると、結局われわれは人間全体のことを考え、また内在する超意識のことにまで思いをはせるのが必然だといえるのである。人間のすべてをトータルに考慮する総合的な知恵が必要になってくるのだ。

従来までは、漠然とこうしたものごとを精神分野と物質分野に分け、それぞれの専門家はもう一方の領域には侵食しないようにしてきた。それではもう解明のつかない現象が多すぎる、ということを、多くの人が知っている。


以上、松村潔氏監修『私は宇宙人を知っている』(ベストセラーズ)より

 

 


 

■■第6章:おわりに ─ グルジェフ思想について


●今回、日本ではあまり知名度の高くないグルジェフ思想を自分なりに理解した範囲内で(大雑把に)まとめてみたが、いかがだろうか?

なんだかややこしい内容で、頭の中が混乱してしまった人もいると思うが、グルジェフ思想は奥が深いので、正直、私自身がグルジェフをどこまで正しく理解しているのか少々不安である。

もしグルジェフ研究の専門家がこのファイルを見たら、「まだまだ研究が甘いな~」と感じるかもしれないが……(苦笑)、まあ、いずれにせよ私は「グルジェフ・ワーク」を若い頃に学んだおかげで、感情のコントロールが上手くなり、かなり頭脳明晰になったことを実感している。もっとも「超人」のレベルにはまだ程遠い状態ではあるが……(笑)


●今回、初めてグルジェフという人物を知り、グルジェフの世界をもっと深く知りたいと思った方は、この下に掲載してある書籍を直接読まれるとよいでしょう。(この他にもグルジェフ思想を扱った書籍は数多く出版されていますので、ご自分でチェックしてみてください)。

同じ書籍でも読む人によって得られるものが違うし、解釈もそれぞれだと思います。特にグルジェフ思想はかなり難解な部分が多いので、いろいろな方の意見(解釈)を参考にしながら理解を深めていただければと思います。

 

── グルジェフ関連の書籍 ──



左から順に

『注目すべき人々との出会い』G・I・グルジェフ著(めるくまーる)

『グルジェフ・弟子たちに語る』G・I・グルジェフ著(めるくまーる)

『奇蹟を求めて ─ グルジェフの神秘宇宙論』P・D・ウスペンスキー著(平河出版社)

『グルジェフ・ワーク ─ 生涯と思想』K・R・ピース著(平河出版社)

『ベルゼバブの孫への話 ─ 人間の生に対する客観的かつ公平無私なる批判』G・I・グルジェフ著(平河出版社)

『生は〈私が存在し〉て初めて真実となる』G・I・グルジェフ著(平河出版社)

 





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