No.b1fha350

作成 1998.2

 

ナチスの黒い騎士団「SS」と

SS長官ヒムラーの野望

 

~「SS帝国」の誕生から崩壊までの歴史~

 

序章
ナチス親衛隊(SS)の
モデルとなった「ドイツ騎士団」
第1章
SS長官(総司令官)
ハインリヒ・ヒムラー
第2章
「黒いイエズス会」と呼ばれたSS
第3章
SSの聖なる修道院へと変貌した
「ヴェヴェルスブルク城」
第4章
SSの精鋭を集めた「聖槍の騎士団」
第5章
ヒムラーの右腕だった
ラインハルト・ハイドリヒの死
第6章
ソ連侵攻作戦
~ 「東方ゲルマン帝国」の建設 ~
第7章
「SS帝国」の崩壊と
ヒムラーの最期
第8章
「SSの長官ともあろう者が
情けないことだ!」

おまけ
ナチスの「東方植民政策」について
おまけ
ナチスにはSSという
“超人”たちがいた

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「SS」について語る前に、まず最初に「ドイツ騎士団」の歴史
について触れていきたい。「ドイツ騎士団」(別名「チュートン騎士団」)は、
十字軍時代の3大宗教騎士団の1つである。この「ドイツ騎士団」が、
後にナチスの親衛隊(SS)のモデルになったのである。

 

■■序章:ナチス親衛隊(SS)のモデルとなった「ドイツ騎士団」


■3大宗教騎士団の1つ「ドイツ騎士団」の誕生


●「ドイツ騎士団」は「清貧、貞節、服従」を誓う点など、団規は先駆者である「テンプル騎士団」や「聖ヨハネ騎士団」を範としたが、大きく異なっている点があった。それは入団者がドイツ語圏出身者に限られたこと、そして何よりもドイツ語圏出身の巡礼のみを保護対象としたことであった。

また、ドイツ騎士団員たちは、テンプル騎士団の白地に「赤い十字架」の代わりに「黒い十字架」を縫い込んだマントを羽織っていたが、この配色はテンプル騎士団からの激しい抗議を浴びることとなった。両者を区別するのは肩に縫い取られた十字架の色だけで、非常に紛らわしかったからである。しかし、度重なる抗議にも関わらず、「ドイツ騎士団」は白マントを着用し続けた。

 


「ドイツ騎士団」(別名「チュートン騎士団」)

 

●もともとテンプル・聖ヨハネ両騎士団は、ドイツ人に対して一種の民族的偏見を持っており、仲が悪かった。テンプル騎士団は超国家的性格を持つといいながら、団員の中にはドイツ人騎士はほとんどいなかったと言われている。聖ヨハネ騎士団も大体フランス・イタリアを主とする南欧系で、ドイツ人は少数であったようである。このため、両騎士団はとかくドイツ軍との協力を嫌い、ドイツ人のほうでは結局、両騎士団を模した独自の組織を創設することになった。

 


「テンプル騎士団」

 

●1197年、ドイツ帝フリードリヒ1世のドイツ軍の一部が聖地エルサレムに到着し、諸侯・騎士の参加協力を得られるようになると、翌年、「ドイツ騎士団」を結成。ドイツ人の巡礼の保護にあたらせた。さらに翌1199年には早くも教皇インノケンティウス3世の公式許可を受け、独立の軍事修道会となった。この騎士団も他の騎士団と同様、もともとは巡礼商人が創った野戦病院が母体となっていた。

「ドイツ騎士団」の総長は「ホッホマイスター」と呼ばれ、本部には病院長と軍務長官その他被服・財務各長官の幹部があり、騎士団領の長は「ラントマイスター」とよばれた。総長はドイツ帝国諸侯「ライヒスフュルスト」の資格を与えられ、所領の寄進をうけてたちまち大領主となった。


●13世紀初頭、ドイツ皇帝兼シチリア王フリードリヒ2世がエジプトへ遠征軍を派遣したとき、テンプル騎士団は敵方のスルタンに内通したため、フリードリヒ2世軍は大敗。怒り狂ったフリードリヒ2世は、イタリアとシチリアにあるテンプル騎士団の所領を没収し、テンプル騎士団員を国外に追放した。この時から「ドイツ騎士団」はフリードリヒ2世“直属”の軍隊になったのであった。

 

■聖地エルサレム奪還を断念してプロイセンへ移動


●「ドイツ騎士団」はパレスチナにおいて、他の宗教騎士団に勝るとも劣らない勇敢さを示した。しかし、出足の遅れを取り戻すことはできず、聖地エルサレム奪還というキリスト教世界の重大使命達成のためのイニシアチブを取り損ねてしまった。

また、聖地エルサレムでは既にこの頃、領土の絶対量の不足から新騎士団領は狭小で、2、3の城砦を託されたに過ぎず、またテンプル・聖ヨハネ両騎士団の対立意識に災いされ、目ざましい活躍は期待できなくなっていった。

そのため、「ドイツ騎士団」は、聖地エルサレムを離れて本国における所領経営に重点を置くようになる。


●13世紀当時、プロイセン人は未だキリスト教に改宗しておらず、ポーランドへの侵入を盛んに繰り返していた。そういうこともあって、バルト海沿岸のマゾヴィア(ポーランド、プロイセン国境地方)領主のポーランド貴族コンラートが、「ドイツ騎士団」に救援を要請してきた(1226年)。

当時のドイツ騎士団長へルマン・フォン・ザルツァは返答を渋っていたが、報酬として「ポーランドとプロイセンの国境沿いにあるクルム地方をドイツ騎士団領として承認する」という神聖ローマ帝国皇帝の内約を受け、ついに聖地エルサレムを去る決心をした。5年の歳月をかけて「ドイツ騎士団」は灼熱の聖地エルサレムを離れ、寒風吹きすさぶ本来の故国、ドイツへと移動していったのであった。

こうして、「ドイツ騎士団」がパレスチナで聖地奪還のために傾けた情熱は、異教徒のプロイセン征服へと向けられることになったのである。

 

■プロイセンに「ドイツ騎士団」国家を建設


●「ドイツ騎士団」による、東プロイセン地方の軍事植民地化事業(開拓・布教)は順調に進んだ。彼らはプロイセンにドイツ移民を誘導し、原住民を征服しつつその地に「ドイツ騎士団」国家を建設したのであった(1283年)。

ドイツ人以外にもスラブ人の入植も認められており、のちにプロイセン人がキリスト教に改宗すると、プロイセン人の入植も認められるようになった。だが、プロイセン人の都市への居住はついに認められることはなかった。

のちに「ドイツ騎士団」はリトアニアにも侵攻し、異教徒リトアニア人も屈服させた。このような対異教徒戦はほとんどの場合、世俗の諸候との共同戦線により実現するのが常であった。このような「ドイツ騎士団」の侵略の間に建設された都市の中で最も広大なのが、ベーメン王オットカル2世によって建設された「ケーニヒスベルク」(北東プロイセン)である。このドイツによるケーニヒスベルク(現在のカリーニングラード)の支配は、1255年から1945年までの実に約700年間も続いたのであった。

ちなみに、「ドイツ騎士団」の本拠地は時代によってヨーロッパ各地を転々とし、ベネチア、ケーニヒスベルク、マリエンブルク(1309年)などに置かれた。

 


「ドイツ騎士団」のプロイセン本部(マリエンブルク)

 

●15世紀初頭になると、ドイツ騎士団領は最大規模にまで拡大し、一般の諸候と何ら変わらない規模にまで達していた。「ドイツ騎士団」は、既に国家規模ともいえる地域を支配下に収めており、その軍事力は他の世俗国家と比較してもひけをとらないものであった。

しかし、15世紀の段階で騎士団の運命はすでに下り坂にさしかかっていた。異教徒プロイセン人との戦争に始まった「ドイツ騎士団」の活動ではあったが、目的とする異教徒を全て屈服させてしまったために、やがて騎士団は本来同胞であったはずのキリスト教徒の世俗騎士や自由都市の市民と争わねばならなくなったのである。また、「ドイツ騎士団」を招聘した当事者であるポーランドも、「ドイツ騎士団」の隆盛に対して危惧を抱き、「ドイツ騎士団」を政治的ライバル視し始めたのである。

 

■「タンネンベルクの戦い」と「ドイツ騎士団」の衰退


●1410年に東プロイセン地方でスラブ民族との戦いが起きた。「ドイツ騎士団」はポーランド・リトアニア両国の同盟軍から反撃を受け、惨敗を喫し、「ドイツ騎士団」の主力は粉砕された。騎士団長ウルリッヒ・フォン・ユンギンゲン以下200名の騎士が戦死した。この戦いは「タンネンベルクの戦い」といい、中世末の戦闘中で最大規模のものとして知られ、「ドイツ騎士団」側は1万2000ないし1万5000、ポーランド・リトアニア側は2万の兵士が参加したとされる。

敗戦後、「ドイツ騎士団」は領地の大半を失った。騎士団領であった都市や城塞の大部分はポーランド王ヤギェウォに降伏し、さらに約50年後、ポーランドとの間に締結された「トルン和平条約」により、ついに「ドイツ騎士団」はポーランドの主権を認めることになったのである。

これにより、西プロイセンはポーランド王の領土となり、「ドイツ騎士団」はなんとか東プロイセンを保ったもののポーランド王に服従する封建臣下となった。


●こうして、「ドイツ騎士団」の勢力は大きく後退することになった。

宗教改革時代には騎士団領の全てが世俗領主に譲渡され、騎士団員はプロテスタントとカトリックに分裂した。

※ ドイツ騎士団長アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクは、1523年にマルティン・ルターと面会して感銘を受け、ついにカトリックからプロテスタントに改宗。その後(1525年)、彼はブランデンブルク公家を世襲の公とする「プロイセン公国」を作り(これはのちの「プロイセン王国」の基幹となる)、ここに「ドイツ騎士団」は“世俗の騎士団”となった。一方、1809年まで残存したカトリック側の騎士団は、教会財産国有化によって所領を没収され、廃絶となった。



●1772年、フリードリヒ大王による第1回ポーランド分割の結果、西プロイセンはプロイセン王国領となる。

そして1871年に、プロイセン王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝に即位し、ドイツ帝国(いわゆる「第二帝国」)が成立。

 


ドイツ帝国の国旗

この帝国は「神聖ローマ帝国」の次の
統一ドイツ国家という意味で「第二帝国」とも
呼ばれる。1871年から1918年まで続いた。



(左)プロイセン王ヴィルヘルム1世
(右)プロイセンの首相ビスマルク

ビスマルクは、プロイセン王ヴィルヘルム1世の
右腕として鉄血政策を打ち出し、プロイセンの軍備拡張を
遂行した。そして普墺戦争や普仏戦争を経てドイツ統一を
達成し、ドイツ帝国を誕生させ、ヴェルサイユ宮殿で
ヴィルヘルム1世の戴冠式を行った。

 

●しかし、第一次世界大戦でドイツ帝国が敗北すると、西プロイセンはポーランドに明け渡されて「ポーランド回廊」と呼ばれ、東プロイセンがドイツ本国から隔離された状態となる。こうして、東西に分断されてしまったプロイセンの再結合はドイツ国民の悲願となった。

のちに、このドイツ国民の悲願を果たしたのが、「第三帝国」の総統ヒトラーであった。

 


ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世

彼はドイツの軍事力を過信し、無謀な戦争
へと突入させた。結果、皇帝の座を維持できなく
なり、ドイツは「帝国」から「共和国」へと移行する。

※ 第一次世界大戦後、彼は退位してオランダへ
亡命。彼はナチス政権には好意的だった。ドイツ軍が
オランダを占領した翌年(1941年)に死去。その
 葬儀はヒトラーによって軍葬で行われた。



ヴェルサイユ体制下のヨーロッパ(1924年)

西プロイセンはポーランドに明け渡され、東プロイセンは
ドイツ本国から隔離された状態である。この地域に対する
 ドイツの領土要求が第二次世界大戦勃発の原因となる。

 

 


 

■■第1章:SS長官(総司令官)ハインリヒ・ヒムラー


■19世紀末に出版された小説 ─ 『The SS』


●1895年、イギリスの作家M・P・シールは「超人の一団」がヨーロッパを席巻するという小説を書いた。

超人たちは、彼らの考える人間の進化という概念に合致していない肉体的精神的に欠陥のある者を殺戮していった。

そして、この物語にM・P・シールがつけた題名はきわめて予言的にも、『The SS』なのであった…。

 


(左)イギリスの作家M・P・シール
(右)『The SS』を収録した彼の短編集(1895年)

 


■ヒトラー政権の誕生


●第一次世界大戦の終了後、ヒトラーは軍の命令で、南ドイツの半秘密結社的団体「トゥーレ協会」の政治サークルに潜入する。軍のスパイ役として派遣されたのだが、そこでたちまち頭角を現し、やがて党首に選ばれる。

彼は「国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)」、すなわち「ナチ党」を率いて、入党14年後には合法的に政権を獲得してしまう(1933年1月30日)。

 


(左)アドルフ・ヒトラー (右)ナチス・ドイツの旗

1933年に43歳の若さでドイツ首相に選ばれ、
翌年に大統領と首相を統合した「総統」職に就任した

 

●翌1934年9月、「ドイツ騎士団」ゆかりの古都ニュルンベルクで「第6回ナチス党大会」が開催され、ツェッペリン広場に15万人のナチ党員が大集合した。

この党大会では「1つの民族、1つの帝国、1人の総統」というナチスのスローガンが生まれ、盛り上がった。

この党大会でヒトラーは、自信に満ちた表情で声を高らかにしてこう宣言した。

「私の夢。それは古代ゲルマン以来の失地回復であり、ヨーロッパ全土から東はウラルにまでおよぶ大帝国(千年王国)の建設である! 当面の目標は、大ドイツ。つまり全てのドイツ民族を含む大ドイツ帝国の建設である!」

 



「第三帝国」の総統ヒトラーに熱狂するドイツ国民

※ ヒトラーを頂点とする独裁国家は中世の「神聖ローマ帝国」、
1871年に成立した「ドイツ帝国」に続いて「第三帝国」と呼ばれた

 

●このヒトラーの側近の1人にハインリヒ・ヒムラーという男がいた。

彼は、秘密結社の指導者になるという考えに大層魅かれており、それが触媒となってナチスの親衛隊(SS)が組織されていった。「トゥーレ協会」から「ナチ党」が誕生したように、今度はそこから「SS」が生まれたのである。

以下、ハインリヒ・ヒムラーと「SS」について詳しく紹介していきたい。

※「トゥーレ協会」に興味のある方は、当館作成のファイル
「ナチスと秘密結社 ~『ナチ党』のルーツ~」をご覧下さい。

 

■ナチス党内の地位を一気に駆け上がった男


●1900年10月7日、ハインリヒ・ヒムラーはミュンヘンで生まれた。

彼は敬虔なカトリックの家庭に育ち、熱心なカトリック教徒として成長したが、高校生の頃からオカルトに興味を抱き始めていた。第一次世界大戦に志願兵として参加し、戦後、ミュンヘンの工科大学で農芸化学を学び、養鶏や肥料を扱う農業関係の仕事に就職した。

しかし、若きヒムラーの関心は極右活動にあり、レームによって組織された国家主義運動の1つ「帝国戦旗団」という極右団体に所属し、1923年にはヒトラーのミュンヘン一揆にも参加している。

 


親衛隊の長官(総司令官)
ハインリヒ・ヒムラー
(1900~1945年)

 

●その2年後、ヒムラーはナチ党に入党し、1927年、ナチスの親衛隊(SS)全国指導者代理に就任。1929年、当時まだ280人ほどのメンバーしかいなかったナチス親衛隊長となり、以後規模の拡大に全力を尽くした。

1934年に秘密国家警察(ゲシュタポ)長官、1936年にドイツ警察長官に就任。1941年にはヘスに代わってヒトラーの秘書となり、徐々にゲーリングやゲッベルス以上の信頼をヒトラーから得るようになる。


●このように、党内の地位を一気に駆け上がったヒムラーは、いつしか自分自身が権力者となる未来を思い描くようになっていた。

独自の精鋭部隊を組織し、いずれは第三帝国内部に独立した『SS帝国』を築くのだ」──。

この野望を実現するため、彼は着々と計画を立てていった。

SSの改組は即座に行われ、「一般親衛隊(Allgemeine-SS)」と「武装親衛隊(Waffen-SS)」が再構成された。

 


SS隊員は褐色シャツに黒ネクタイ、黒上衣、黒ズボン、
黒長靴……というように、全身を黒で染め上げていた

※ 当時SSの制服は大人気で、その洗練されたデザインに
魅せられてナチ党に入党する者も少なくなかったという

 

■ナチス党内で屈指のエリート思想の持ち主だった


●ヒムラーの独特の政治理論の根底には、生物学上の基準と純血主義の概念があり、SSのメンバーにも単にアーリア人種というだけでなく、彼が組織した母性養護ホーム「レーベンスボルン(生命の泉協会)」を通して新しいエリートを生み育てるように奨励した。

 


「レーベンスボルン」の産院



「レーベンスボルン」で生まれた赤ん坊に対して行われた命名式
(洗礼式)の様子。命名するのはSSの将校である。

「レーベンスボルン」は1935年にテスト的に設立され、
1938年にミュンヘンで裁判所に正式に登録された。SSの
一部をなし、SS長官ヒムラーに直属するものになった。組織の
目的はSS隊員にできるだけ多くの子供を持たせること、良き血
の母親と子供を助けて未来のエリートを育てることであった。

 

●ナチス幹部の中で、ユダヤ人根絶の考えを明確に公の場で口にしたのはヒムラー1人だったとも言われる。

彼はダッハウに最初の強制収容所を建設し、全体的な強制収容計画を練り上げた。SS部隊がこの運営のため設けられ、ドイツ軍のロシア侵攻に従ったヒムラーの特別行動部隊「アインザッツグルッペン」は、ユダヤ人やジプシー(ロマ)、共産主義者を山奥の村々にまで踏み入って虐殺した。

 


アインザッツグルッペン(SS特別行動部隊)

※「アインザッツグルッペン」は警察の機動部隊で、
ゲシュタポやSD、ジポの要員からなり、治安平定の
ために東欧の占領地域で敵の検挙や処刑にあたった。
主に標的としたのは、反ドイツ分子やユダヤ人、
ロマ、共産党幹部、知識人だった。


※ 別名「移動虐殺部隊」とも呼ばれる「アインザッツグルッペン」は
主要なAからDまでの4個部隊を中心に行動した。彼らの虐殺行為の多くは
集団処刑(銃殺)という形で行われ、遺体は集団墓地や穴に投げ込まれた。
アインザッツグルッペンに殺害された東欧のユダヤ人の数は約120万人
と推定されている。ちなみにアインザッツグルッペンは複数表記で、
単数形はアインザッツグルッペ(EINSATZGRUPPE)となる。


◆特別行動部隊A……司令官フランツ・シュターレッカー(兵力1000名)──北方軍集団に配属。東プロイセンから出撃し、リトアニア、ラトビア、エストニア、さらにレニングラードへと前進を続けた。

◆特別行動部隊B……司令官アルトゥール・ネーベ(兵力655名)──中央軍集団に配属。ポーランド総督領北部から出撃し、白ロシアを主作戦地域として、ミンスク、スモレンスク、さらにモスクワへ向かった。

◆特別行動部隊C……司令官オットー・ラッシュ(兵力700名)──南方軍集団に配属。シュレジェンから出撃し、北部ウクライナを作戦地域としてロヴノ、キエフ、クルスク、ハリコフと前進した。

◆特別行動部隊D……司令官オットー・オーレンドルフ(兵力600名)──南方軍集団第11軍に配属。ルーマニアから出撃し、南ウクライナとクリミア半島を作戦地域としてオデッサ、ニコライェフ、さらにクリミア半島へと向かった。



左から、「特別行動部隊A」の司令官フランツ・シュターレッカー、
「特別行動部隊B」の司令官アルトゥール・ネーベ、「特別行動部隊C」の司令官
オットー・ラッシュ、「特別行動部隊D」の司令官オットー・オーレンドルフ

 

 


 

■■第2章:「黒いイエズス会」と呼ばれたSS


■イエズス会を模した組織として成長したSS


●「精鋭部隊やSS帝国は、高位の騎士団によって指揮されねばならない」──。

中世の騎士物語に憧れ、中世の秘密結社──「ドイツ騎士団」(チュートン騎士団)幻想に憑かれていたヒムラーは、自身のSSを新たな「ドイツ騎士団」とすべく腐心した。


●ヒムラーは「騎士の誓約文」を自ら起案した。それは次のようなものであった。

「私の名誉は忠誠である。私は汝、ドイツ帝国の総統にして首相、アドルフ・ヒトラーに忠誠を誓う。私は汝と、汝の指名する上官に対し、死の瞬間まで従属することを誓う。神の加護のあらんことを!」

 


(左)ルーン文字で表記したSSのマーク (右)SSの旗とヒムラー

 

●SSを新たな「ドイツ騎士団」とするために、ヒムラーはキリスト教内秘密結社、カトリック内過激派とされる「イエズス会」を研究し、範とした。

イエズス会の図書館には最良の蔵書が豊富にあり、ヒムラーはそれを何年も費やして熟読していた。

 

 

●ヒムラーの側近の情報部長ワルター・シェレンベルクは、ニュルンベルク裁判で、ヒムラーはイエズス会の創立者イグナチウス・デ・ロヨラの「霊操」すなわち心霊修行と緊密に結びつけられた「僧兵軍隊組織」を、もっぱら志向していたと証言した。

また、ヒトラーはヒムラーのことを「わたしのイグナチウス・デ・ロヨラ」と呼んでいたという。

イエズス会を模した組織として成長したSSは、SA(突撃隊)隊長レームの副官カール・エルンストなどから「黒いイエズス会」と揶揄されていたが、ヒムラー自身はその呼称を愉しんでいるようだったという。

 


SS内での「カギ十字」についての講義風景

 

●なお、SS初期の覚書には、「SSは党内の秘密機関として組織され、鉄の掌中に動きを把握するもの」とある。

SSの秘密ぶりについて、あるジャーナリストは書いている。

「SSはイエズス会の規則にならって、それは一般市民にとっては神秘的で、気味悪く理解できない存在に仕立てられた。イエズス会をSSは公式には嫌っていたが、実際には細部に至るまで徹底して真似ていたのである。

この黒い制服を着た秘密部隊は、ゆっくりとただその存在だけで人々に恐怖心を起こさせるよう仕向けられていった。SS保安諜報部(SD)責任者のラインハルト・ハイドリヒは、誇らしげに言った。『犯罪警察であるゲシュタポとその秘密任務は、政治的探偵小説のような神秘的色彩に包まれている!』と」

 

SSに付けられたドクロの記章

 

■若い頃からオカルトに熱中していたヒムラー


●ヒムラーの若い頃からのオカルト好きな性格は、異常なまでに熱を帯びていたことで知られる。

「ドイツ騎士団」を憧憬していたヒムラーは、同時に魂の「輪廻転生」を信じて疑わなかった。彼は自分を10世紀のドイツ王ハインリヒ1世の生まれ変わりだと考えていたのである。

夢のなかでヒムラーは、しばしば王と会話を交わしたと信じこんだ。この幻想は次第にエスカレートしてゆく。彼はこの王をゲルマン民族の英雄として崇拝し、「ハインリヒ1世記念財団」を設立。

1936年には王の1000年忌を挙行し、1937年になると王の遺骸発掘を実行するまでになる。

 


1936年、ケドリンブルク大聖堂にある
ハインリヒ1世の霊廟を訪れたヒムラー

※ ヒムラーは自分を10世紀のドイツ王
ハインリヒ1世の生まれ変わりだと考えていた

 

●また、1936年にSSの幹部たちを前にして行った演説で、ヒムラーは「我々は皆かつてどこかで既に出会ったことがあり、同様にして来世においても再会するであろう」と述べている。

すなわち、ヒムラーはSSをカルマを共にした一種の「転生共同体」と考えていたようである。

 


ナチス親衛隊(SS)の隊員たち

 

●SSの大尉でアイヒマンの同僚であったディーター・ヴィスリツェニーは、戦後、法廷における証言で、ヒムラーが冷酷で冷笑的な政治家などではなく「狂信的な神秘家」であったと語り、ヒムラーが「占星術師たちの忠告を受け容れ、あらゆるオカルト学に傾斜していくうちに、SSは次第に新たな種類の『宗教結社』へと変貌した」と述べている。

 


(左)SSの集会 (右)未来の親衛隊のエリートである
士官学校の卒業生に「名誉刀」を授与するヒムラー

 

■ヘルシーな男だったヒムラー


●ヒトラーは菜食主義者(同時に禁酒・禁煙)だったが、ヒムラーも生野菜の大ファンで、酒もタバコもほとんどやらなかった(時おり葉巻と赤ワインをたしなむことはあった)。肥満を最大の敵と考える彼は、1940年8月、腹心のハイドリヒと協力してSS隊員の「肥満撲滅計画」に着手、SS隊員に対し禁酒・禁煙・菜食を要請している。

ヒムラーの夢はドイツ国民のすべてが「菜食主義者」になることで、そうして初めてドイツは彼の思い描く古代アーリア人に戻り、本来の、世界に冠たる国家となるのであった。

 


SSでは肉体の鍛錬が重視され、士官学校では各種スポーツが訓練の
重要な核となっていた。右は上半身裸でグラウンドを走るヒムラーの姿。

 

●またヒムラーは「自然療法」の信奉者で、強制収容所内での民間療法・土着療法の実験を援助し続けた。彼は食品全体の人工化に抵抗し、SS隊員に人工ハチミツを支給することに反対した。そしてナチ党員が経営するパン屋は全粒パンを焼くように法的に義務付け、SS隊員のためにドイツの鉱泉の大部分を接収し、ヨーロッパのミネラルウォーターを買い占めたりもした。


●またヒムラーは、ハーブと自然薬を大いに推奨した。

1930年代末、ヒムラーの命令を受けたSSの植物学者たちは、「ダッハウ収容所」に広大な「ハーブ園」を建設。実験用およびSS隊員、軍への配給用として香辛料や植物の栽培が始まった。ドイツ初の強制収容所は世界最大の「薬用植物研究所」をもつにいたったのである。多くの囚人たちが、ダッハウ湿原を耕した200エーカーの土地で様々な種類の薬草・香草類の栽培・乾燥・出荷にあたっていた。有機栽培で育てた花からハチミツも作られていた。

 


ダッハウのハーブ園で薬草を摘み取る
ヒムラーとSS隊員たち

 

●アウシュヴィッツ収容所所長ルドルフ・ヘース(副総統のルドルフ・ヘスとは別人)によれば、戦争中、軍が使用した調味料のほとんどすべてがこの「プランテーション」で栽培されていたという。これは事業としても収益性が高く、SSは年間何十万ライヒスマルクを得ていた。

この「ダッハウ収容所」の菜園以外にも、ヒムラーの命令によりSSの兵舎や強制収容所の多くで薬草の栽培が行われた。「ダッハウ収容所」は世界有数のハーブとスパイスの栽培所となり、1945年以後もこの菜園は共同農場として運営が続けられ、何百人もの元囚人が労働を続けていたほど収益性の高いものだった。

 


ミュンヘン郊外にある「ダッハウ収容所」

「ダッハウ収容所」は、ナチスが一番最初に作った
収容所である。戦争が始まるより6年も前(1933年)、
ナチスの政敵や同性愛者、売春婦など「非社会的」
とされた人々を収容するために建設された。

 

●ちなみに、ヒムラーに劣らず食事に関してうるさかったのが、副総統でありヒトラーの後継者に任じられていたルドルフ・ヘスである。

ヘスは薬草療法とホメオパシー(同病療法)のファンであり、自らが口にするものに関しては細心の注意を払っていた。ヘスは首相官邸での会議にも自身のベジタリアン料理を持参し、それを温めさせて食事とするのだった。

 


ヒトラーの片腕といわれた
ナチスの副総統ルドルフ・ヘス

 

 


 

■■第3章:SSの聖なる修道院へと変貌した「ヴェヴェルスブルク城」


■理想的な古城「ヴェヴェルスブルク城」を購入して大規模な改装工事を実施


●SSをもっと堅固な「騎士団」として組織するにあたり、ヒムラーは元オーストリア軍将校カール・マリア・ヴィリグートを顧問に任命した。古代の伝承や古代ゲルマン史に加え、ルーン文字や魔術の秘儀などについて、専門家の知識が必要だったのだ。

※ 確かにカール・マリア・ヴィリグートは、その道の権威だった。彼はヒムラーから絶大な信任を得て、SSの神秘思想に大きな影響を与えた。しかし後に彼は、過去の精神病院収監歴が発覚し、ヒムラーに見捨てられてしまう。

 


(左)カール・マリア・ヴィリグート (右)彼がデザインした
SSドクロ・リング(SSトーテンコップフ・リング)

彼はヒムラーから絶大な信任を得て
SSの神秘思想に大きな影響を与えた。
「ヒムラーのラスプーチン」の異名をとり、
SS隊員の結婚式で司祭を務めたり、
SS隊員に授与するドクロ・リング
のデザインも任された。

 

●騎士団には、儀式を行う本拠地が必要だった。それも歴史的、宗教的かつ伝説的な場所でなければならない。

あれこれ思案された結果、「ヴェヴェルスブルク城」が候補地に挙げられた。この城はフン族の征服時代に建てられたもので、17世紀になって改築を施された古城であった。

 


ヴェヴェルスブルク城

歴史あるヴェストファーレン地方の
パーダーボルンの町に近い森の中に存在する
この城はフン族の征服時代に建てられたもので、
17世紀になって改築を施された古城であった。

 

●「ヴェヴェルスブルク城」にほど近い都市パーダーボルンは、まさに歴史的、宗教的かつ伝説的な場所であった。

キリストの脇腹を貫いたといわれる「聖槍(ロンギヌスの槍)」は、カール大帝の時代、この都市に保管されていた。またパーダーボルンは「ドイツ第一帝国」発祥の地でもあった。799年、この都市においてカール大帝とローマ教皇レオ3世が会談した結果、ドイツが建国されたのだ。805年以降、パーダーボルンは司教管区となり、「ヴェヴェルスブルク城」は領主司教の居城となった。

13世紀初頭、第3回十字軍から帰還した「ドイツ騎士団」は「聖槍」を携えて「ヴェヴェルスブルク城」の領主司教を訪ねている。カール大帝の時代から400年を経て、「聖槍」はパーダーボルンを再訪したのである。

 


キリストの脇腹を貫いたといわれる
「聖槍(ロンギヌスの槍)」

 

●さらに「ヴェヴェルスブルク城」には興味深い伝説があった。

東方で巨大な「赤い嵐」が発生し、ドイツと全世界を危機に陥れる。この嵐は「ヴェヴェルスブルク城」の騎士たちによって鎮圧され、ヴェヴェルスブルクの騎士団長は「世界の救世主にして支配者」になるというのだ。


●このように「ヴェヴェルスブルク城」は、ヒムラーの思い描く騎士団の本拠地として絶好の場所だった。

1933年1月の選挙戦で初めて「ヴェヴェルスブルク城」を訪れ、その神秘的、ロマンティックな雰囲気に強い印象を受けたヒムラーは、即座にこの古城の購入を決断。翌年夏に、年間わずか1マルクの貸料でヒムラーの名義となると、ただちに改装工事に取りかかった。

1935年2月には、「ヴェヴェルスブルク城」の管理は「SS国家長官幕僚本部」の直轄下に移行された。

 


(左)ヴェヴェルスブルク城の「親衛隊大将の間」
(右)この広間の床に描かれたミステリアスなシンボルマーク

この円形の広間は北の塔の1階にあり、周囲には12本の柱が立っていた。
中央の床には大理石のはめ込み装飾があり、12本の光線を放つ日輪が描かれていた。
このミステリアスなマークは今日「黒い太陽(Schwarze Sonne)」と呼ばれ、
ドイツ国内の極右派やネオナチが好んで使用しているという。

 

●改装には莫大な費用を要した。

大戦終結までに城の改装工事に投じられた資金は、1300万マルクにものぼっており、第三帝国の崩壊がなければ工事は予定では1960年代にようやく完成することになっていたという。

 

この「ヴェヴェルスブルク城」の改装工事に伴って、城の前庭には2つの
大規模なSS事務所が設置され、城外の町にはSS隊員のための別荘が建設された。
戦時中に作られた工事用設計図により、ヒムラーは城を大規模に改築して大学の建設も
計画していた事が判明している。1940年を過ぎると工事の規模は拡大し、城だけ
でなく町全体が「城塞」として整備され、住民たちは強制的に立ち退かされた。
土木作業員が大量に必要なため、城の近くに強制収容所が新たに作られ、
記録に残るだけでも4000人の捕虜がここに送られた。

 

■SSの聖なる修道院へと変貌した「ブラック・キャメロット」


●改装工事により、「ヴェヴェルスブルク城」はSSという「宗教結社」の城、その儀礼、秘儀のための聖なる修道院へと変貌した。

SS隊員はこの城を「ブラック・キャメロット」と呼んでいた。

※「キャメロット」とは、アーサー王伝説でアーサー王の居城があったといわれる土地の名前に由来している。


●「ヴェヴェルスブルク城」の食堂には選ばれた「騎士」たちのための巨大なテーブルが据えられ、彼らの個室は、ハインリヒ1世、獅子王ハインリヒなどのゲルマン民族の偉人たちにちなんだ装飾がなされた。

各部屋の家具は全て異なる様式のものが備え付けられ、デスクひとつをとっても、全てがひとつひとつ違っていた。

 


伝説の戦士の像

 

●ヒムラーは各分野から一級の職人を集め、細かなタピストリー、堅牢なオーク家具、錬鉄製のドアハンドルや燭台を作らせた。豪華なカーペットが敷かれ、背の高い窓に錦の厚手のカーテンが飾られた。扉には貴金属と宝石が埋め込まれた。三角の土台には古いゲルマン様式で築かれた尖塔が、周囲の森を圧してそびえ立っていた。

「ヴェヴェルスブルク城」の食堂の地下には納骨堂、そして、さらに洞窟が掘削され、「死者の国」として知られたSSの「地下聖堂」が作られた。

 


(左)ヴェヴェルスブルク城の中庭
(右)中庭のつきあたりにある重厚な木の扉

 

 


 

■■第4章:SSの精鋭を集めた「聖槍の騎士団」


■SS内部に作られた秘密の「騎士団」


●1934年末、ハインリヒ・ヒムラーは「ヴェヴェルスブルク城」の改装に取りかかると同時に、SSの精鋭を集めた「騎士団」を組織した。

これは「SSの血の13騎士団」あるいは「聖槍の騎士団」と称され、ヒムラーとSSナンバー2のラインハルト・ハイドリヒを中核として、多数のSS将校により構成されていた。

この騎士団は、キリストの脇腹を貫いた「聖槍(ロンギヌスの槍)」をシンボルとして掲げていた。

 


ヒムラーによって、SSの精鋭を集めた
「聖槍の騎士団」が結成された

 

●「ヴェヴェルスブルク城」において、様々な儀式が執り行われたが、1回の儀式の定員は13名であり、それを超えることは許されなかった。

この騎士の数は、12宮を表すとも、アーサー王と12人の円卓騎士やキリストの12使徒になぞらえたともいわれる。つまり、太陽ないし神の子たるヒムラーと、12名の騎士ということだ。彼は会議のテーブルに12人以上の幹部が座ることを許さず、また、SSの位階制度の頂点に12人の大将を据えていた。


●「ヴェヴェルスブルク城」において、特定の「騎士」同士が定期的に顔を合わせることのないよう、スケジュール調整には十分な配慮がなされた。騎士団の全容が知れることを防ぐためである。

出席する「騎士」は、11世紀の「ドイツ騎士団」の正装を着用することが義務付けられた。上着の色は赤と白と黒。この3色はカギ十字の意匠に対応している。

 

 

●「ヴェヴェルスブルク城」の「地下聖堂」は円形の大広間で、ルーン文字の刻まれた巨大なオーク材の円卓が置かれ、円卓には赤いビロードの布と、SSを表すルーン文字が大書された白い旗がかけられていた。そして旗の中央には、ガラス・ケースに納められた「聖槍」が鎮座していたのである。

円卓の周囲には、がっしりとしたオーク材の椅子が13個並んでおり、いずれもイノシシの革が張られた豪華な椅子だった。その背もたれには騎士の名を刻んだ銀のプレートがはめこまれており、出席者の顔ぶれに応じてプレートが取り替えられたが、ヒムラーとハイドリヒのプレートは固定されていた。

この2人だけは「ヴェヴェルスブルク城」に指定席を持っていたのである。

 


ヴェヴェルスブルク城の「地下聖堂」

このドーム状の地下室は、北の塔の「親衛隊大将の間」の
真下に位置し、天井にはカギ十字のような装飾が施されていた。
部屋の中心には儀式用の火を焚くためのスペースが設置されていた。

 

■イエズス会の「心霊修行」をベースにSSの儀式が完成


●イエズス会の創始者イグナチウス・デ・ロヨラが提唱した「心霊修行」は、SSにおいても霊的覚醒のためのトレーニング・テキストとされた。ヒムラーは「心霊修行」に示された内容に、さらに自身の憧れであった中世の騎士団におけるさまざまな儀式を加えて、「SSの儀式」を完成させた。

彼は自らが主宰する秘密儀式を、この「ヴェヴェルスブルク城」の「地下聖堂」で行った。


●秘密儀式において、「騎士」たちは黒い衣装に身を包み、短剣を携え、指には難解な魔法印が刻まれた銀の署名入り指輪をつけた。各人は盾形の紋章を手に持ち、円卓の所定の位置に座った。これはアーサー王伝説を真似たものであった。

こうして一同は騎士団長ヒムラーが儀式を開始するのを待つ。ときには座したまま瞑想に耽ることもあるが、たいていはヒムラー自らの指導で魔術儀式や呪文を執行し、現代でいうところの“チャネリング”も行われたという。



●なお「ヴェヴェルスブルク城」には、ヒトラーのための最高級の部屋がしつらえられていた。

ヒトラーは騎士団の名誉団員であり、いつでも儀式に出席することができた。しかし、その部屋が利用されたことは1度としてなかったという。それどころか、ヒトラーは「ヴェヴェルスブルク城」に決して近づこうとはしなかったようだ。

ヒトラーは「ヴェヴェルスブルク城」に何らかの危険を感じていたらしい。

 

ヒトラーは名誉騎士団員であったが、
「ヴェヴェルスブルク城」に決して
近づこうとはしなかった

 

※ SS長官(総司令官)のヒムラーは、1934年から以後11年間にわたり、「ヴェヴェルスブルク城」の主として君臨した。

 

 


 

■■第5章:ヒムラーの右腕だったラインハルト・ハイドリヒの死


■若くしてこの世を去ったSSナンバー2


●ところで、もし「聖槍の騎士団」の中枢メンバーのひとりが死んだ場合、「ヴェヴェルスブルク城」の北の塔で特別の儀式が行われた。亡くなった騎士の紋章を燃やし、その灰を壷に納めて永遠に保存するのである。北の塔の特別室には、台座に載せられた13の壼が壁に沿ってずらりと並べられていた。

この部屋で燃やされた紋章はただ1つ。

それは、皮肉なことに「聖槍の騎士団」の中で最も重要な人物であったラインハルト・ハイドリヒの紋章だった。1942年6月4日、聖槍の秘密を知る唯一の人物は、騎士団の他の誰よりも早く生命を失ったのである。

 


(左)ラインハルト・ハイドリヒSS大将
(右)上司のヒムラーと並んで歩くハイドリヒ

ハイドリヒは金髪碧眼、長身の美形で、SS長官ヒムラーに次ぐ
SSナンバー2だった。1941年9月にベーメン・メーレン保護領
(チェコ)の総督代理に就任すると、反体制派を次々に逮捕・処刑した。
その冷酷な性格から「プラハの虐殺者」の異名をとり、恐れられた。



↑襲撃を受け大破したハイドリヒの愛車(メルセデスのオープンカー)

1942年5月27日、プラハ市内を走行中のハイドリヒは、
チェコ人で組織されたイギリス軍暗殺部隊の襲撃を受けた。

ハイドリヒは重傷を負いながらも、愛車の残骸から這い出し、
拳銃を立て続けに撃ちながら襲撃犯に追いすがった。が、弾の
なくなった拳銃を投げ捨てると同時に力尽きて倒れた。その後、
病院で治療を受けたが、1週間後の6月4日、ヒムラーとの
最後の面会を終えた後で死亡した。享年38歳。



(左)この事件を扱った映画『暁の7人』(1975年制作)
(右)襲撃されたハイドリヒが力尽きて倒れるシーン

 

■ハイドリヒの暗殺に対する報復


●ラインハルト・ハイドリヒは猛スピードで権力の階段を登り、「第三帝国の黒い王子」とまで呼ばれる存在であった。

暗殺事件を調査するために派遣された刑事警察のベルンハルト・ウェーナー博士は、38歳の若さで亡くなったハイドリヒのデスマスクを次のように形容している。

「この世のものとは思えない神秘的な面影と、限りなく頽廃的な美しさを秘めている。ルネサンス時代の枢機卿のようだ……」


●ナチスはハイドリヒのために盛大な国葬を行い、ヒトラーはハイドリヒのことを「鋼鉄の心臓を持った男」と褒め称えた。

 


(左)ハイドリヒの葬儀で追悼演説をするヒトラー
(右)SSの旗の前に安置されたハイドリヒの棺(ひつぎ)

参列したヒトラーはハイドリヒの枕元に「ドイツ勲章」と「血の勲章」の
メダルを置いた。葬儀にはハイドリヒの2人の息子や、ヒムラー、ゲーリング、
ゲッベルス、ボルマン、フランク、ライなどのナチス幹部も多数出席した。



ハイドリヒの棺をベルリンの軍人墓地まで運ぶSS隊員の葬列(1942年6月9日)

 

●一方、ナチスの敵国イギリスの新聞『タイムズ』紙は

「第三帝国で〈最も危険な男〉が死んだ」と報じ、イギリスの国民はハイドリヒの死喜んだ

ハイドリヒを暗殺した犯人は、イギリスのチャーチル首相と在英チェコ亡命政府が差し向けたチェコ人レジスタンスだった。

 


(左)イギリスのウィンストン・チャーチル首相 (右)チェコ人レジスタンスのヤン・クビシュ軍曹

クビシュ軍曹は「ハイドリヒ暗殺作戦」=暗号名「エンスラポイド(類人猿)作戦」の
中心人物で、ハイドリヒの命を奪ったのは彼が投げた手榴弾だった

 

●ナチス首脳部は逆上し、犯人逮捕のための苛烈な捜査を開始した。

そして暗殺に対する報復として、犯人を匿ったとされるチェコの寒村リディツェ(人口460人)を焼き払い、村人たちを虐殺した。この暴虐にチェコの人々は震え上がった。

この事件は、ナチスの報復の中でも最も悪名高いものとして知られている。

 


(左)『大虐殺 ~リディツェ村の惨劇~』ジョン・ブラッドレー著(サンケイ新聞社出版局)
(右)1942年6月10日、村の果樹園でナチスの銃殺隊によって射殺された住民たち

※ 16歳以上の男性(173人)はその場で全員射殺され、女性(185人)と
子供は強制収容所へ送られ、4分の1がチフスと過労により死亡したという。
(一部の子供はドイツ化などを目的にドイツ人家庭に分配されたという)。

↑ナチスの報復によって、プラハ近くのリディツェ村は 
完全に破壊された。「リディツェ」の名前はナチス
によって全ての公式記録から抹殺された…。

 

●この事件の2週間後(6月24日)にも、チェコの寒村レジャーキが500人以上の武装SSに包囲され、リディツェ村と同様に全村を焼き払われて完全に破壊された。

どちらも犯人を支援(隠匿)していたという勝手な憶測に基づく報復であった。その後も9月1日までに3188人のチェコ人が拘束され、1357人が即決裁判所で死刑を宣告された。


●イギリス政府は「ハイドリヒ暗殺作戦」を実行する前は、「ハイドリヒが死ぬ事になればナチスにとって大きな損失であり、たとえ軍事的な影響はないとしても政治的・心理的な面での大勝利となるだろう」と見込んでいた。しかし、ナチスが想像を絶する報復行為に出たことで、以後は報復を恐れてナチス高官を暗殺する同様の作戦計画を中止したといわれている。

※「ハイドリヒ暗殺作戦」は、ナチスの高官暗殺計画で唯一成功した例であった。

 

↑暗殺事件から1年後にナチスが発行した
ハイドリヒのデスマスクをデザインした記念切手

 

●ちなみに、ハイドリヒは冷徹な仕事ぶりから多くの軍人や党幹部から嫌われており、ハイドリヒ暗殺の知らせを聞いたヨーゼフ・ディートリヒSS大将は「やれやれ、あのメス豚もついにくたばったか!」と言い放ち歓喜したのは有名な話。

また上司のヒムラーもハイドリヒの組織、行政能力を高く評価するとともに自分の地位を脅かすものとして危険視しており、ハイドリヒが暗殺されて内心安心していたと言われている……。

※ 余談になるが、プラハ市内で襲撃されて重傷を負ったハイドリヒに対し、ヒムラーは現地の医師に治療する許可を出さなかった。そのため、ヒムラーが治療を遅らせてわざと死なせたという陰謀説も存在する。

 

 


 

■■第6章:ソ連侵攻作戦 ~「東方ゲルマン帝国」の建設~


■「ドイツ騎士団」の栄光と野望を再び!


●序章でも触れたが、かつて(13世紀半ば頃から)「ドイツ騎士団」は、異教徒プロイセン人を征伐しつつドイツ移民を誘導し、東方のプロイセンの地に「ドイツ騎士団」国家を建設した。多くのドイツ人がこの東方の地域に移住した。

その後、プロイセン王国の発展を経て、1871年にプロイセン王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝に即位し、ドイツ帝国(いわゆる「第二帝国」)が成立。


●しかし、第一次世界大戦の敗北によって、西プロイセンはポーランドに明け渡され、東プロイセンがドイツ本国から隔離される状態となった。こうして、東西に分断されてしまったプロイセンの再結合はドイツ国民の悲願となったが、このドイツ国民の悲願を果たしたのは、「第三帝国」の総統ヒトラーであった。

ヒトラーはこの地を再結合したのである。

 


(左)アドルフ・ヒトラー (右)『我が闘争』

※『我が闘争』は、1925年に第1巻、翌年12月に
 第2巻が出版され、1943年までに984万部も出て、
印税は550万マルクに上った。当時のドイツ文芸学の
大御所から、ゲーテの『詩と真実』と並べてドイツの
全著作の最高峰と称えられもした。ちなみに、この
「我が闘争」という題名は、ダーウィンの言葉
「生存闘争」をなぞったものであった。

 

●ヒトラーは『我が闘争』の中で「東方生存圏(レーベンス・ラウム)」の獲得と「スラブ民族の奴隷化」を明言していたが、彼は「ドイツ騎士団」の名前を挙げて、次のように語っている。

「ヨーロッパで土地を得ようと思うなら、なにはともあれロシアの犠牲においてそれを成さねばならない。そのさい新生ドイツ帝国は、再びかつて『ドイツ騎士団』の進んだ道を歩むことになろう。

それはドイツ人の刀剣、ドイツ人の鋤鍬(すきくわ)によって得た土地で、ドイツ国民に日々の糧を与えるためである。」

 


↑神秘めいた雰囲気ただようナチスの仮装パレード(カギ十字の行進)(1937年)

 

●SS長官ヒムラーは東部進出への熱意がヒトラーに認められて、1939年に「ドイツ民族強化全国委員(RKF)」に任命された。

これを受けて「ドイツ民族強化全国委員本部」と「海外同胞福祉本部」が設立された。前者の本部長にはSS本部官房長のウルリヒ・グライフェルトSS中将が、後者の本部長にはヴェルナー・ロレンツSS大将(警察大将兼任)が任命された。

 


ヒムラーと娘のグドルーン

 

●これらの機関は「SS人種・移民局」と連携して植民活動にあたった。具体的には、「SS人種・移民局」が東部植民に関する人種・遺伝学的調査を担当し、「ドイツ民族強化全国委員本部」が植民者の配置・募集を、「海外同胞福祉本部」が交通・運輸を担当した。

ドイツ国内では「レーベンスボルン(生命の泉協会)」を設立、国外では植民を推進し、人種的エリートであるSSを中心にして、ヨーロッパ全体を支配する、というのがヒムラーの目指すところであった。

 


(左)ナチス・ドイツが計画していたヨーロッパ東部における人種位階制度
(右)1942年にナチスの親衛隊が400万枚作成したパンフレット
※ ウンターメンシュ(劣等人種)という表現が記載されていた

 

●1941年6月22日、ヒトラー率いるドイツ軍は「独ソ不可侵条約」を破って、突如「バルバロッサ作戦」と呼ばれるソ連侵攻作戦を開始した。

 



1941年6月に始まったヒトラーのソ連侵攻作戦(バルバロッサ作戦)

ヒトラーの目的はスラブ民族の奴隷化であり、またヨーロッパ東部の広大な
地域をドイツ民族の移住地及び資源の供給地として確保することにあった

 

●1942年にヒムラーに提出された「東部総合計画」によれば、バルト海沿岸からポーランド全域がゲルマン化される予定であったという。

これに関して、歴史研究家のE・H・クックリッジは、ドイツはソ連を巨大な奴隷収容所に作り変えようとの壮大な計画を練っていたと指摘している。彼の著書『世紀のスパイ・ゲーレン』には次のような記述がある。

「白ロシア(人口550万人/ミンスク、モジレブ、ビテプスクを含む)は東プロシアに併合され、ドイツ人が入植することになっていた。西ロシアの大部分は第三帝国に併合され、ドイツ人入植者の上層部の下で植民地化され、ドイツ人士官らによる統治を受けるはずだった。総人口500万人のこの地域は、モスクワにまで拡大され、ウクライナ、クリミア、コーカサスの一部と、その油田地帯をも含めるはずだった。このドイツ人入植地の中で、ロシア人とウクライナ人は、アーリア民族主義にのっとり、亜人間(サブ・レース)とみなされる。彼らはごく初歩的な教育と農業訓練しか受けられない。それは、奴隷国民となるためである。約400万人のソビエト人は、提供された植民地の中で抹殺する必要があった。それは“自然な手段”つまり、飢えによって達成される。」

 

 

●ヒトラーは支配の効率化と迅速化を図るために、この地域とドイツ本国とを結びつける夢のような「交通網充実計画」を立てていた。

例えば、クリミア・東欧とドイツ本国とを連結する片側11mの車線を有する高速道路(アウトバーン)を建設する予定であった。

 


↑ナチス・ドイツが占領したソ連内最大の領土(1941~42年)

ヒトラーは、ソ連を占領した暁における「東方ゲルマン帝国」の統治について
きわめて具体的なイメージを持っていた。アウトバーンをウラル山地まで延長し、その
アウトバーンは全て山の尾根に建設して、風が雪を吹きちらす構造にするつもりでいた。

またクリミア半島を、3世紀から4世紀にかけてここに定住していた古代ドイツ民族
ゴート族の名にちなんで「ゴーテンラント」と改称し、“帝国のリビエラ”と
呼ばれるほどのリゾート地をここに建設する計画も立てていた。

 

■超特急列車 ─「スーパートレイン計画」


●また、ミュンヘンとウクライナを結ぶ3m幅の軌道をもつ鉄道網を整備し、巨大な列車を時速250キロで走らせる計画もあった。

この「スーパートレイン計画」は、最終的にはシベリアの太平洋岸の都市ウラジオストクまで、ほぼ直線コースを突っ走る「欧亜両大陸横断鉄道」になる予定であった。蒸気機関車の全長は70m、客車は2階建てで、内装は豪華をきわめ、計1728人の乗客がドイツ本国からアジアのはずれまでゆったり楽しめるように設計されていた。

 


1941年にヒトラーが発案した「スーパートレイン計画」の設計図



(左)完成予想図 (右)1940年代当時の普通の特急列車との比較図。
左脇の鉄道職員からも「スーパートレイン」の巨大さが分かる。

この巨大な機関車は計52本の車軸に乗った8両連結で、機関車自身の全長は70mあり、
2万4000馬力を出す化け物マシーンだった。機関車から最後部の展望車まで流線型に成形
され、2階建ての客車(15両連結)も全長50m、全幅6mと当時の客車の2倍の大きさだった。

いうまでもなく、内装も豪華をきわめて「一等車両」には分厚いカーペットを張りめぐらせた応接間、
シャワー付き寝室から成る高級ホテルのスイートなみの設備を備えていた。また、「一等食堂車」は
天井の高さが5mを超え、これまた高級ホテルのダイニングルームを思わせる設計となっていた。

このマンモス級のスーパートレインを時速250キロで走らせるために、鉄道の軌道幅はなんと
3mもあり、ミュンヘンを基点に首都ベルリンを経由して、ウラジオストクまで5日間で走破
 する予定であった(その巨大さ豪華さでこれに勝るものは現在でもまだ登場していない)。

 

※ この「スーパートレイン計画」に興味のある方は、当館作成の
ファイル「幻に終わったナチス・ドイツの“新幹線”」をご覧下さい。

 

 


 

■■第7章:「SS帝国」の崩壊とヒムラーの最期


■スターリングラードの戦い


●1943年のスターリングラードの戦いで、ソ連軍はドイツ軍に決定的な打撃を与え、以後の戦局に大きな影響を及ぼした。

この戦いは、第二次世界大戦の決定的な転機となった。

 

ソ連西部の都市「スターリングラード」(現在のヴォルゴグラード)での攻防戦で、
フリードリヒ・パウルス元帥率いるドイツ軍が降伏(1943年1月31日)。
9万1000人のドイツ軍捕虜のうち、戦後、シベリアの強制収容所から
生きて祖国ドイツに帰った者は、わずか6000人だった…。

 

■ヒトラーは語る「ヒムラーには気をつけろ、あいつは危険な男だ!」


●ところで、エヴァ・ブラウン(自殺直前にヒトラーと結婚)は、自分の日記に次のような興味深い事柄を記している。

参考までに紹介しておきたい。

 


エヴァ・ブラウン

 

「1942年4月22日、あの人(ヒトラー)が帰ってきた。でも、わずか2時間の滞在だった。あの人はただ『きみのその誠実そうな瞳を見たかった』と言っただけで、戦争の話を始めた。〈中略〉東部の話になると、本当に心ここにあらず、だった。

東部を掌中におさめたら、手始めに、ロシアの大草原に巨大な建造物『東門』を築きあげ、そこを起点に西から東まで17つ『アウトバーン』をつくり、ウクライナの小麦やコーカサスの油をヨーロッパに運ぶ、と語った。」(エヴァ・ブラウンの日記/1942年春)

「今日、S大佐は私にこう言った。『我々はヒムラー長官の命令でポーランドとウクライナに売春施設を作った。そして今、その施設に10から13歳までのポーランドやウクライナの良家の子息や令嬢を送っている。その真の目的は支配層の跡継ぎをつぶし、彼らの社会的地位を失墜させ、その力を衰退させることにある』と。

それから、『ウクライナ女には避妊させない。できるだけ子供をつくらせる。戦争が終わったら、我々は彼らの上に立ち、彼らに肉体労働をやらせるのだ』と。」(エヴァ・ブラウンの日記/1942年冬)

評判の悪い恐ろしいSS長官ヒムラー。今ではとてもよく分かる。

彼はときどき私のところにやって来る。でも、ゲッベルスのようにいつもあの人(ヒトラー)のことを聞いてくるわけではない。すでに十分な情報を得ているのだと思う。とにかく抜け目がない。あれほど抜け目ない男はほかにいない。

でも、杓子定規なところはとてもおかしい。長官室に入ると分かることだけど、彼は大抵何もしていない。それなのに、一件以上の書類は持ってくるな、と命じている。本当に滑稽(こっけい)な気がする〈中略〉

ヒムラーは今、少なくとも3つの鼻眼鏡を持ち歩いている。無くしたり壊したりしたときのことを考えているのだ。それから、時計を2個持ち歩き、一方の時計でもう一方の時計をチェックしている。 “正確”な時刻を知らないと落ち着かなくなるのだと思う。彼ほど時間を厳守する男は見たことがない。」(エヴァ・ブラウンの日記/1944年春)

 


SS長官ハインリヒ・ヒムラー

人間観察が得意だったエヴァ・ブラウンは
この男を冷静な目でじっくりと観察していたが、
時折この男の姿が滑稽に見えていたようである。

 

●さらに彼女はこう記している。

「今日、あの人(ヒトラー)はとても神妙な顔をしてこう言った。『信頼できるのは、もはや3人だけとなった。きみとゲッベルスヒムラー。その中で、きみがいちばん忠実だ。いつか褒美を与える。固く約束する』と。

また、『ゲッベルスは裏切るまい。あの男の闘争心は私と同じように揺るぎない。だが、ヒムラーはカメレオンだ。あいつには気をつけろ。きみも気づいているだろうが、あいつは危険な男だ! もし弁が立っていたら、口べたでなかったら、私をおびやかす男となっていたかもしれない』と。〈中略〉

あの人(ヒトラー)の不眠症は日に日に悪くなっている。見た目もすっかり変わってしまった。
げっそりした顔が水牛のように見える。歩くときは猫背になっている。その背に全ドイツを背負っているかのように。毎晩、あの人は神経の痛みに悩まされている。連日、ふさぎ込んでいる。

ときどき陽気になったりするけど、すぐにまたふさぎ込む。あの人は自分でも欝(うつ)状態に耐えられなくなっている。私にはそれがよく分かる。」(エヴァ・ブラウンの日記/1944年夏)

 


(左)第三帝国を演出したプロパガンダの天才
ヨーゼフ・ゲッベルス (右)妻のマグダ

彼はヒトラーの最期までヒトラーの忠実な
片腕であり続けた。ヒムラーやゲーリングの
ように決して裏切るようなことはしなかった。

※ 1945年4月30日、ゲッベルスは
ヒトラーの遺言によって首相に任命されたが、
5月1日、マグダ夫人は5人の娘と1人の息子に
自ら毒を飲ませて殺害。その直後に夫と共に
拳銃自殺し、夫婦でナチ党に殉じた。

 

■ヒトラーを裏切ったヒムラー


●SS長官ヒムラーは、1943年に内務大臣、1944年に国防軍司令官となった。

彼の「東方ゲルマン帝国」建設の夢と、自ら権力者として地上に君臨する夢は、ますます強まるばかりであった。

 


真っ黒な野心を燃やすハインリヒ・ヒムラー

 

●しかし、ソ連軍の前に敗色が濃厚となるや、ついにヒトラー打倒を試みる。

とりあえず連合国側に降伏してヒトラーを失脚させ、政権を手中にしてから連合国側と手を結び、その上で対ソ連戦争を継続しようとしたのである。

ヒムラーにとって、「ヴェヴェルスブルク城」に伝わる伝説の「東方の巨大な赤い嵐」とは、ソ連にほかならなかったのだ。

 


ナチスが作った反共産主義のポスター

 

●1945年2月、ヒムラーは、スウェーデン赤十字社のベルナドッテ伯爵を介して英仏との和平交渉を試みたが失敗する。

ヒムラーの動きを察知したヒトラーは、ただちにヒムラーの解任と逮捕を命じた。ヒムラーは警官に変装して脱走をはかるが、1945年5月22日、イギリス兵に捕らえられてしまう。

結局、ヒムラーは服毒自殺し(5月23日)、その遺体は秘密裡にリューネブルクの墓地に埋葬された。

 


青酸カリで自殺したヒムラーの死体

 

■アメリカ軍によって陥落した「ヴェヴェルスブルク城」と接収された「聖槍」


●第三帝国崩壊を目前にして、「ヴェヴェルスブルク城」に安置されていた「聖槍(ロンギヌスの槍)」は、1945年3月29日に密かに運び出され、ホーフブルク宮殿の宝物を保管していた「ニュルンベルク城」に送られた。そして3月31日、ヒムラーの命令により、ハインツ・マッハー少佐率いる工兵隊が、「ヴェヴェルスブルク城」の破壊にとりかかった。

しかし、4月2日、「ヴェヴェルスブルク城」はアメリカ軍第7軍に占領されてしまう。

 

 

●4月30日、ヒトラーが自ら生命を絶ったといわれる日、アメリカ軍第7軍の分隊は、「ニュルンベルク城」の地下のトンネルから、ホーフブルク宮殿の宝物を発見した。この時、聖槍も見つかっている。こうして、宝物はアメリカに運ばれた。

1946年1月、聖槍を含むすべての宝物は米軍機でウィーンに輸送され、正式にオーストリア政府に返還された。現在、これらの宝物はホーフブルク宮殿の宝物館に展示されている。

 


キリストの脇腹を貫いたといわれる
「聖槍(ロンギヌスの槍)」

 

「聖槍の騎士団」に関しては謎が多く、まだ秘密のベールに覆われている。

この騎士団には、さらに上部機関が存在したという事実が明らかになりつつある。この機関は「トール騎士団」と呼ばれ(「トール」とは、「雷神」を意味する)、古代ゲルマンの鉄槌をシンボルとしていたという。カール・ヴォルフ将軍などSSのひと握りの高官で構成されていたというが、それ以上のことは分かっていない。

 

 


 

■■第8章:「SSの長官ともあろう者が情けないことだ!」


■ヒムラーに対する厳しい言葉


●さて最後になるが、ドイツ装甲部隊の創始者ハインツ・グデーリアン上級大将は、ヒムラーについてこう語っている。

「ヒトラーの従者の中で最も不可解な男はSSの長官ハインリヒ・ヒムラーだ。

目立たない男で、人種上の劣等的特徴をすべて備えていた。表面的には単純な男を装っていた。礼儀正しくあろうと心掛けていた。彼の生活様式はゲーリングと正反対だった。スパルタ的に質素だった。けれども彼の空想はそれだけにいっそう極端だった。彼は他の天体から来たようだった……」

 


ドイツ装甲部隊の創始者
ハインツ・グデーリアン上級大将

青年時代に通信将校として第一次世界大戦に
従軍した彼は、大戦後に「交通兵監部」で革新的な
無線通信との統合による自動車化・装甲部隊を構想して
後の「電撃戦」の原形を作る。その後、ヒトラーの登場に
よって「装甲部隊による進撃理論」が支持され、大将に昇進
した後には「ドイツ装甲部隊」を率いて疾風怒濤の活躍を実践
してその理論を証明。第二次世界大戦の緒戦の大勝利を飾った。

その後の東西両戦線では、ヨーロッパの地図を塗り替える戦果と
なり、「ドイツ装甲部隊」は無敵と言えた。これを称して「疾風
ハインツ」との異名を冠せられる。その後、解任と復職を経て、
1944年7月に陸軍参謀総長に任命される。しかしヒトラー
との対立は頂点に達し、ドイツ敗北直前に再び解任される。

戦後は短期にわたって連合国に身柄を拘束されたが、
戦争犯罪人として起訴されることはなかった。
その後は、名誉教授としてアメリカ陸軍の
機甲学校で講義をしたり回想録を
執筆して余生を送った。

 

●また戦後南米に逃亡した元ナチスの高官も、ヒムラーについて次のような厳しい言葉を口にしている。参考までに紹介しておきたい。

「ヒトラーは第三帝国内の裏切り者たちに随分と幻滅を感じていた。戦況が不利に展開し始めた頃、ヒトラーの直接命令によって裏切り者をマークするプロジェクトが結成されたことがあった。このプロジェクトにはヒトラーが真に信頼するSSメンバーとゲシュタポメンバーが入っていた。私もその1人だった。我々は徹底した調査を行い、その結果をリストに仕上げた。

その『ブラックリスト』にはフェーゲライン、カナリスなどの大物の名前が書き込まれていた。フェーゲラインはSSの将軍でヒトラーの義弟でもあった男だ。カナリスは諜報部のトップだった。

この他に我々はヒムラーの名前も加えた。ヒムラーがヒトラーに本当の事を報告していないことが度々あった。これではヒトラーが戦況について正しい判断ができるわけがない。一種の裏切り行為だ。

不幸にしてこの予感は適中した。敗戦が決定的になった時、ヒムラーはいろいろな手段を使って連合国側にアプローチしようとしていた。自分の身を守るため何とか敵と話し合おうとしたのだ。

SSの長官ともあろう者が情けないことだ! ドイツは負けるべくして負けたのかもしれない。

ちなみに、私個人の意見としてはヒトラーが自殺したとは考えられない。ヒトラーの性格から言って絶対に自殺志向ではないからだ。ヒトラーを知っている者なら誰しもそう思うだろう」

 

─ 完 ─

 


 

■■おまけ情報:ナチスの「東方植民政策」について


●アメリカ在住の小説家で、「米国ホロコースト記念協会」の特別コンサルタントを務めたことのあるユダヤ人マイケル・スケイキンは、著書『ナチスになったユダヤ人』(DHC社)の中で、ナチスの「東方植民政策」について次のように述べている。

参考までに紹介しておきたい。

 


『ナチスになったユダヤ人』(DHC社)
ユダヤ人マイケル・スケイキン著

 

ヒトラーの究極の目標は、2億5000万人のドイツ民族を創り出すことだった

彼の忠実な官僚は、ウラル山脈西側の広大な草原にまず1億人を送り込む計画を立てた。またナチの理論家アルフレート・ローゼンベルクは、北方系ヨーロッパ人(スカンディナヴィア人、オランダ人、さらにはこの計画に賛同するイギリス人植民者たち)も東部ヨーロッパへ遣り、戦争に勝ったときにアーリア化してはどうかと提案した。

熱狂的ナショナリズムが目いっぱい人口統計学的な形を取った恰好のこの民族大移動は、史上最も恐るべき住民移動計画だった

SSの全国指導者ハインリヒ・ヒムラーは、この東方植民政策(ドラング・ナツハ・オステン)を熱っぽく提唱したが、ヒトラーは計画そのものは気に入ったものの、ヒムラーの神秘主義的人種主義についてはとりあわなかった。〈中略〉

そら恐ろしいほどクールなヒトラーを後目に、SSはドイツの領土拡張に神話めいた神秘性をまとわせていった。」


武装SSとは、ハインリヒ・ハイネがこれより1世紀前の1834年に、『グラディエーター(剣闘士)』と風刺を込めて呼んだもののことだ。彼らが世の終末を思わせるような戦いをするのは運命だった。ハイネは、ドイツ・ロマン主義に肯定的な見方をしたフランスの女流文芸家スタール夫人に反論して『ドイツの宗教と哲学の歴史』を著わしたが、その中で彼は驚くべき洞察力でこう断言している。

ドイツの雷は、当然のことながら、いかにもドイツ的である。その動きは素早いものではない。ごろごろと、かなりゆっくりやってくる。しかし確実にやってくる。そしてある日、世界史上に例を見ないような大音響が轟いて、諸君は、その雷がとうとう標的に落ちたことを知る。その烈しい炸裂音に、空を飛ぶ鷲は地に墜ちて息絶え、アフリカのさいはての砂漠に棲む獅子は尻尾を巻いて洞穴の宮殿に身を隠すだろう。そのときドイツではある芝居が上演されるが、それに比べたら、フランス革命などは、ただの無邪気な牧歌にしか思えないだろう』

並はずれた直感によってハイネは、文化という大皿がいかに割れやすいかを悟っていた。ドイツがやがて奈落と化していくことを、ハイネのほかにいったい何人が理解していただろう。」

 


ユダヤの詩人ハインリヒ・ハイネ
(1797~1856年)

 

 


 

■■おまけ情報 2:ナチスにはSSという“超人”たちがいた


●アメリカの元情報将校であるアダム・マンデルバウムは、著書『戦争とオカルトの歴史』(原書房)の中で、ナチスのオカルト的側面について言及している。

参考までに紹介しておきたい。

 


(左)アメリカの元情報将校、アダム・マンデルバウム
(右)彼の著書『戦争とオカルトの歴史』(原書房)

 

「ナチスにはSSという超人たちがいた。SSは、純血アーリア人の超人からなるエリート部隊としての機能を果たした。ハインリヒ・ヒムラーによって形成された超人たちの軍事エリート集団であるSSは、その権勢に神話を取り込んだ。アーリア人の純血性を維持するため、SSの志願者は入隊に先だって、自分の人種的純血を証明しなくてはならなかった。そして、支配者民族の伝承物語を山と聞かせられたのち、より伝統的な訓練を行った。〈中略〉

アーリア人であるという以外に、SS隊員の配偶者には出産能力がなければならなかった。千年帝国(結局は12年しか存続しなかった)の次世代の超人を産む能力がなければならなかった。ナチスは摘出非摘出を問わず妊娠を奨励し、妊娠・出産を望むものには報奨金を出すいっぽうで、遺伝的障害を持つ“劣った”種を産まないよう不妊手術と中絶手術を広く行った。

ナチスは“血こそ生である”という無意味なオカルト的信条を持つ豊穣崇拝カルトだった。〈中略〉

SS長官のヒムラー個人には、いくぶん変わった信念があった。10世紀に生きた専制君主であるハインリヒ1世の生涯に魅了されたヒムラーは、その王の霊魂と交信していると言い張った。そして、ドイツの西ファリア州で荒れ果てていたヴェヴェルスブルク城を購入し、多額の費用を投じて修復し、異教の祭式に似た儀式を地下室で執り行った。

ヒムラーのほかに、ヒトラーの右腕だったルドルフ・ヘスも、オカルト全般に興味を持っており、とりわけ占星術の愛好者だった。〈中略〉

ヒトラーがどれほどオカルトの影響を受けていたかについては、今も熱い論争の種になっている。」

 

 



── 当館作成の関連ファイル ──

ナチスの突撃隊(SA)と親衛隊(SS) 

ナチスと秘密結社 ~『ナチ党』のルーツ~ 

 


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