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No.b1fha530
作成 2004.12
第1章 |
ナチス・ドイツで開催された
「ベルリン・オリンピック」の舞台裏 |
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第2章 |
幻に終わった1940年の
「東京オリンピック」の舞台裏 |
おまけ |
ドイツからはるばる日本にやって来た
「ヒトラー・ユーゲント」代表団 |
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■■第1章:ナチス・ドイツで開催された「ベルリン・オリンピック」の舞台裏
●「第11回オリンピック大会」(1936年)はドイツとスペインが開催地争いを繰り広げていた。
第一次世界大戦で敗れたドイツは「敗戦からの復興」をアピールして世界の支持を集め、1931年にパリで開かれたIOC(国際オリンピック委員会)総会でベルリン開催を勝ち取ったのであった。
●それから2年後の1933年にアドルフ・ヒトラーがドイツ首相に就任したが、当時のヒトラーはオリンピック大会を「ユダヤ主義に汚された芝居」であるとみなし、ベルリンでのオリンピック開催に難色を示していた。
(左)1933年に誕生したヒトラー政権
(右)アドルフ・ヒトラー(1889~1945年)
ヒトラーは1889年にオーストリアのブラウナウで
生まれた。1933年に43歳の若さでドイツ首相に選ばれ、
翌年に大統領と首相を統合した「総統」職に就任した。
●しかし翌1934年、イタリアの独裁者ムッソリーニがサッカーのワールドカップ・イタリア大会をプロパガンダ(宣伝工作)に利用して成功したのを見たヒトラーは、オリンピック大会は「ドイツ民族の優秀さを証明」する絶好の機会だと考えるようになり、またナチス宣伝相のゲッベルスから「大きなプロパガンダ効果が期待できる」との進言もあり、ベルリンでのオリンピック開催に同意することになる。
第三帝国を演出したプロパガンダの天才
ヨーゼフ・ゲッベルス宣伝大臣(文学博士)
ヒトラーの手足となって働き、当時の新しい
メディアであるラジオや映画を積極的に活用した。
※ プロパガンダ(宣伝工作)は国家や組織が一般大衆の意見や
世論を誘導し、特定の思想・意識・行動へと導くための手法であり、
「情報戦」「心理戦」もしくは「宣伝戦」といわれている。ゲッベルスは
「プロパガンダは我々の最も鋭利な武器である」と常々語っていた。
●1936年になると、ドイツ国内ではオリンピック大会のため、一時的に反ユダヤ政策は緩和された。
1936年8月に開催された「第11回オリンピック大会」
※ この大会が開催される前に、ドイツの反ユダヤ政策を理由に
アメリカ・イギリス・フランスなどが開催権の返上やボイコットを
検討していたが、ヒトラーが大会期間の前後に限り反ユダヤ政策を
緩めることを約束したため、各国は参加を決定したのだった。
レニ・リーフェンシュタール。ベルリン・オリンピックの記録映画
『オリンピア』の映画監督を務め、ベネチア映画祭で金賞を獲得。
※ 大会が始まる前の年にヒトラーは彼女にこう語っていたという。
「私自身はあまり大会に興味がない。できれば部外者でいたいところだ」
「ドイツはメダルを獲得するチャンスがない。アメリカ人が勝利のほとんどを
かっさらい、黒人が彼らのスターとなるだろう。これを見物するのはあまりいい
気分がしない。それからナチズムに批判的な外国人も大勢来て、不愉快の種に
なるもしれない」「オリンピア・スタジアムも気に入らない。石柱が細く、
建物は威容を欠く」(レニ・リーフェンシュタール著『回想』より)
●今では当たり前となっている開会式の「聖火リレー」は、ヒトラーによって初めて行われたものである。
また、巨費を投じた競技施設、擬似軍隊的な開会・閉会式、国家元首によるおごそかな開会宣言、「民族の祭典」というキャッチフレーズ、初のテレビ中継大会など、期間中の華麗な演出はまさに現代オリンピックの原型となった。
この「ベルリン・オリンピック」はナチスの力を世界に誇示する場となり、「ヒトラーの大会」とさえいわれた。
ヒトラーによって初めて行われたオリンピックの「聖火リレー」の様子
※ この史上初の「聖火リレー」は古代オリンピックの発祥地であるギリシア(アテネ)
からベルリンまで、ナチ隊員の伴走で実施された。これは「ドイツ民族こそがヨーロッパ文明の
源流であるギリシアの後継者」というヒトラーの思想を世界に誇示するために発案されたものであった。
なお、この聖火ルートの道路状況を事前に詳細に調査していたナチス・ドイツは、第二次大戦が始まると、
このルートを逆にたどってバルカン半島へ侵攻し、ユーゴスラビア、ギリシアを制圧したのだった。
●この「ベルリン・オリンピック」には前大会を大きく上回る49ヶ国4066人の選手が参加したが、ドイツは金メダル33個を獲得し、断然トップだった(2位のアメリカは金メダル24個だった)。
このオリンピック大会はドイツ人の「国民意識」に火をつけ、「ジーク・ハイル、われらの総統、アドルフ・ヒトラー!」という観客の叫びが自発的に湧き上がるほどであった。
ドイツ国民はオリンピック大会を通じて「ドイツ民族の優秀さを世界に示した」と思い込んだ。
●あるドイツ人教師は、オリンピック大会で見たヒトラーについてこう回想している。
「周りのおばあさんたちは、まるで救世主が現れたように、すすり泣きしていました。……私もはずかしいことですが、一緒に歓声をあげたことを、白状しなければなりません……」
↑スタジアムを訪れたヒトラーとナチス式敬礼をする観客たち
この「ヒトラーの大会」とさえいわれたベルリン・オリンピックは
「国威発揚」のプロパガンダ(宣伝工作)として空前の成功を収めた。
※ この第11回ベルリン・オリンピック大会以後、オリンピックの
やり方がガラリと変わってしまった(古代オリンピックの精神は
消えてしまった)。個人の力を競う大会ではなくて、個人の力を
利用して「国家を宣伝する大会」になってしまったのである。
だから、政治的にも大いに利用されるようになった。
●また、この大会の記録映画『オリンピア』(邦題・第1部『民族の祭典』/第2部『美の祭典』)は、1938年のベネチア映画祭で金賞を獲得するなど各方面で絶賛され、不朽の名作となっている。
※ 本作の成功により、IOC(国際オリンピック委員会)は以後のオリンピック大会において、組織委員会に記録映画の制作を義務づけることになった。
ベルリン・オリンピックの記録映画『オリンピア』
(邦題・第1部『民族の祭典』/第2部『美の祭典』)
勝敗の結果ではなく、競技する人間の生み出す
最高の美しさを、華麗なカメラワークと当時
の最高の撮影技術を駆使して捉えている。
※ この映画は戦後アメリカで選ばれた
世界映画ベスト10に入っている。
■■第2章:幻に終わった1940年の「東京オリンピック」の舞台裏
●この1936年の「ベルリン・オリンピック」に参加した日本は、合計18個のメダル(金6、銀4、銅8個)を獲得し、「前畑がんばれ」のラジオ放送は日本中を熱狂させた。
閉会の言葉は、「また4年後に東京で再会しよう」だった。
(左)ベルリン・オリンピックの開幕前日(1936年7月31日)に
4年後の夏季オリンピック開催地が東京に決定した瞬間の模様
(右)1936年8月1日『朝日新聞』号外の記事
※ 東京へのオリンピック招致は近代柔道の祖、嘉納治五郎が
推進した。1932年に「関東大震災からの復興」を掲げて正式に
立候補し、猛烈なロビー活動を展開。1936年に開かれたIOC
(国際オリンピック委員会)総会で開催を勝ち取ったのである。
●このベルリン・オリンピック直前の「IOCベルリン総会」で、対抗候補地ヘルシンキ(フィンランドの首都)を破って東京開催が決まった背景には、ヒトラーの根回しがあったといわれている。
日本から派遣されていた招致使節団の一行は、この後、ヒトラーに直接面会し、ドイツ人の好意に謝意を表して和服や額をプレゼントしている。
この時の様子は新聞でも大きく取り上げられている↓
(左)招致使節団がヒトラーに贈呈した和服と額は、それぞれ東京市長、市会議長
からの寄贈で、和服はナチスのマーク(カギ十字)と東京市の紋章を配した
デザインになっていたという (右)『朝日新聞』に掲載された記事
※ ちなみに下の非常に珍しい和服姿のヒトラーは、同年11月25日に調印された
「日独防共協定」成立1年を祝福して制作された等身大の肖像画であるという↓
(左)ヒトラーの和服姿をリアルに描いた等身大の肖像画
(右)1937年11月24日『京都日日新聞』の記事
●日本国内では「東京オリンピック」の開催決定後、大会組織委員会が設立され、史上初めて欧米以外のアジアで行われるオリンピック大会として並々ならぬ熱意をもって準備が進められた。
※ 1940年はちょうど皇紀(神武天皇即位紀元)2600年に当たり、日本国内では数多くの壮大なイベントが予定されていたが、その中でもオリンピック大会は万国博覧会(1940年に東京で開催予定だった)と並ぶ「皇紀2600年記念」の国家行事として位置づけられていた。
(左)東京オリンピックの開催決定を喜ぶ女性たち (中)五輪マークの旗を製作するグッズ製造業者
(右)パールで出来た五輪マークの旗を披露する女性(まるでバブル時代のようである)
↑東京オリンピックのメイン会場になる予定だった競技場(予想図)
※ メイン会場は当時ゴルフ場があった駒沢町(現・東京都世田谷区)に
決まり、10万人を超える収容人数のスタジアムを建設する予定だったという
●しかし、日本国内の浮かれ気分は長くは続かなかった。
1937年に日中戦争が勃発し、アメリカやイギリスなど各国がボイコットを示唆。日本国内でも開催に否定的な声が大きくなり、ついに1938年7月15日、「第12回オリンピック大会」の開催権の返上が閣議決定されたのである。
※ これは開催都市が自発的に大会を返上した史上唯一のケースとなり、「幻のオリンピック」と呼ばれることとなる。
1938年7月に「第12回オリンピック大会」の
開催権の返上を報告する大会組織委員会の委員たち
※ 1940年東京大会の代替地として、オリンピックの招致合戦で
東京の次点であったヘルシンキが予定されたが、第二次世界大戦の勃発
によりこちらも中止となっている。(1944年にロンドンで行われる予定
だった「第13回オリンピック大会」も第二次世界大戦により中止となった。
ただしロンドン大会は4年後の1948年に繰り越し開催されている)。
●また、1940年に開催予定だった「東京万博」も、日本国内での反対意見の増加および参加国の減少が確実になったことなどで、1938年に延期が決定し実質的に中止となっている。
※ ちなみに万国博覧会(万博)の日本およびアジアでの開催は、1970年に大阪で開かれた「大阪万博」が最初である。
■■おまけ情報:ドイツからはるばる日本にやって来た「ヒトラー・ユーゲント」代表団
●「日独防共協定」の成立から約1年半が経過した1938年8月(=上記の東京オリンピック返上決定の翌月で、まだ日本国内に重い空気が漂う中)、ナチス・ドイツの青少年組織である「ヒトラー・ユーゲント」の代表者30名が来日している。
「ヒトラー・ユーゲント」の隊旗
●「ヒトラー・ユーゲント」の代表団はドイツの汽船「グナイゼナウ」号に乗船して、約1ヶ月の船旅の後、1938年8月16日に横浜港に到着。
この時、ドイツの若者たちを一目見ようと、数千人の群衆で埋め尽くされた。彼らは11月12日までの約3ヶ月間、日本各地(北は北海道から南は九州まで)を訪問して熱烈な大歓迎を受けたのである。
1938年8月17日、横浜に上陸した「ヒトラー・ユーゲント」一行は
横須賀線で東京に入った。そして東京駅に降り立った彼らは、
ブラスバンドの吹奏など、熱烈な歓迎を受けた。
(左)ドイツ大使館でティータイムを過ごす「ヒトラー・ユーゲント」
(右)日独両国の青年団の集合写真(神戸オリエンタルホテルにて)
↑「ヒトラー・ユーゲント」の主な訪問先
約3ヶ月(89日もの長期)に渡って、北は北海道から
南は九州まで、日本各地を訪問して熱烈な大歓迎を受けた
※ この「ヒトラー・ユーゲント」の来日エピソード(秘話)に興味がある方は、
当館作成のファイル「知られざるヒトラー・ユーゲントの来日秘話」をご覧下さい。
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