No.b1fha603

作成 2003.8

 

ドイツの少年・少女たちと
「ヒトラー・ユーゲント」


〜 誕生から崩壊までの歴史 〜

 

 

第1章
「ヒトラー・ユーゲント」の誕生
第2章
バルドゥール・フォン・シーラッハ
第3章
「ヒトラー・ユーゲント法」の制定
第4章
「ヒトラー・ユーゲント」の戦争動員
第5章
「ヒトラー・ユーゲント」の最期

おまけ
NHKスペシャル 映像の世紀
第4集 『ヒトラーの野望』
おまけ
日本国内を旅行した
「ヒトラー・ユーゲント」

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■■第1章:「ヒトラー・ユーゲント」の誕生


●第一次世界大戦後、ドイツ国内では敗戦を潔しとしない右翼勢力と、更なる革命的政府の樹立を叫ぶ左翼勢力が対立していた。これらの勢力は将来のための若年層獲得にも余念がなく、その影響下に多くの「青少年組織」が乱立していた。

1920年に創設された「ナチ党」も、「青少年を掌握するものが未来を掌握する」ということを熟知していた。それゆえ、当初より党の宣伝は、青少年の獲得を目指して行われた。

1922年3月に「ナチ党青年部」が設立され、19歳のアドルフ・レンクが指導した。まさに「青年を指導するのは青年自身」であった。

 



「青少年を掌握するものが未来を掌握する」
ということを「ナチ党」は熟知していた

 

●しかし、翌年、「ミュンヘン一揆」の失敗により、党活動が禁止され、青年部の活動は中断する。その後、ヒトラーが恩赦で釈放され、1925年に「ナチ党」が再結成されると、同年、「ナチ党青年部」に「ドイツ労働者青少年団」が結成され、この組織が1926年7月に「ヒトラー・ユーゲント(Hitler Jugend=HJ)」と呼ばれるようになった。

ちなみに、「ヒトラー・ユーゲント」という名称は、「総統(ヒトラー)の若者」という意味である。この時のメンバーは700人しかいなかった。

 


アドルフ・ヒトラー(中央)と
純血アーリア人の特徴を持つ少年たち

彼らが所属した「ヒトラー・ユーゲント」は
「ナチ党」の青少年組織として
1926年に誕生した

 

●1929年に、「ヒトラー・ユーゲント」のメンバーは、1300人に増えた。

この当時のナチ党青年組織には、「ヒトラー・ユーゲント」の他に、「ナチ大学生団」や「国民社会主義学生同盟」があったが、それでも、ドイツ青少年運動全体の中では取るに足りない存在であった。

 

 
「ヒトラー・ユーゲント」のメンバーたち

 
「ヒトラー・ユーゲント」の隊旗

 

 


 

■■第2章:バルドゥール・フォン・シーラッハ


●1931年10月、ヒトラーは「全国青少年指導者」の地位を設け、その初代指導者に24歳という若さのバルドゥール・フォン・シーラッハを任命した。彼は翌年3月に、ヒトラーの専属写真家ホフマンの娘ヘンリエッテと結婚し、同年7月、25歳でナチ党最年少の国会議員に当選した。そしてその後、シーラッハはヒトラーから「ヒトラー・ユーゲント」指導者に指名された。

このシーラッハの指導によって「ヒトラー・ユーゲント」は急激に成長していくことになる。

※ シーラッハは古い貴族将校の家系の出身で、アメリカ人を母に持ち、ドイツ語以上に英語が達者だった。彼は1927年にヒトラーのすすめでミュンヘン大学に入学した時、地政学者カール・ハウスホーファー教授の講義を聴いて感銘を受けたという。

 

 
バルドゥール・フォン・シーラッハ

純血アーリア人の未来を託す青少年組織の
指導者としての大役を与えられたが、
皮肉にも彼自身はアメリカ人と
ドイツ人のハーフだった

 

●1933年、ヒトラーの政権獲得によって、「ヒトラー・ユーゲント」への加入者が激増したが、シーラッハは、ナチの「一元化」政策を踏まえて、様々な青少年組織を「ヒトラー・ユーゲント」に統合するようになる。

1934年6月には、カトリック系、同盟系、スポーツ系、職業系、軍事系の青年諸団体を、シーラッハの指導の下に統括し、その後、プロテスタント青年団や体操協会を「ヒトラー・ユーゲント」に編入した。

 

 
「ヒトラー・ユーゲント」のポスター

 
音楽は、党大会における「ヒトラー・ユーゲント」の
見せ場として重要な役割を担っていた

 
与えられた課題に真剣に取り組む「ヒトラー・ユーゲント」のメンバーたち

 

 


 

■■第3章:「ヒトラー・ユーゲント法」の制定(1936年)


●1936年12月、「ヒトラー・ユーゲント法」制定によって、それまでナチ党の「私的」な組織だった「ヒトラー・ユーゲント」は公式に「国家機関」となり、それ以外の青少年組織は禁止された。そして10歳から18歳までの青少年が強制加入させられ、「ヒトラー・ユーゲント」は、第三帝国の青少年組織の総称となった。

10歳になった少年少女を持つ親で、「ヒトラー・ユーゲント」への届け出を行わず、これに違反した者は、150マルクの罰金もしくは拘束が科せられることとなった。

これは青少年組織のあり方の歴史における画期的な出来事だった(青少年組織の歴史に前例のない出来事であった)。


●かくして、「ヒトラー・ユーゲント」のメンバーは、1937年末には580万人、1938年末には700万人、1939年初めには770万人と増加の一途をたどることになる。

 

 
(左)「10歳になったら若者は私たちのもとへ」
と記されたナチスのポスター。(右)の少女は、
 このポスターのモデルとなった女性ユーゲント。

※ 「ヒトラー・ユーゲント法」制定によって、
「ヒトラー・ユーゲント」は公式に「国家機関」
となり、青少年が強制加入させられた。

 

●「ヒトラー・ユーゲント法」によって、女子の場合は、10歳から14歳が「少女団(JM)」に、そして14歳から18歳までが「女子青少年団(BDM)」に、18歳から21歳までが「労働奉仕団」に所属するものとされた。

17歳以上の少女には看護衛生の授業を受けることが義務づけられ、応急手当の技術を持った「保健少女」が養成された。成績の良い者は保健部隊に編入された。

 

 

  
「女子青少年団(BDM)」の女性ユーゲントたち

 

●ヒトラーは女性の役割について、きわめて保守的な考えを持っており、「女性の本分は主婦と母親にある」と考えていた。

そのため、男子の場合は未来の戦士の養成に主眼が置かれていたのに対し、女子の場合は単に未来の母親を育てることのみが強調された。ドイツの女性ユーゲントは、ナチ時代にまったく従属的だったかどうかは別として、組織的・政治的にはほとんど自立性を与えられてはいなかった。

 

  
ヒトラーは女性の役割について、きわめて保守的な考えを持っていた

 

●「ヒトラー・ユーゲント」の教育で重視されたのは、何よりもスポーツだった。

ヒトラーは詰め込み教育を有害なものとしており、知的活動の総ては統制されなければならないと主張し、「ドイツの男子青年は各自が戦士のような身体をつくること」を提唱していた。

同時に「ヒトラー・ユーゲント」の訓練で重視されたのは野外キャンプで、団員は3週間にわたるキャンプに参加することが義務づけられ、集団生活を通じてナチスの世界観や共同体精神をたたき込まれた。

 

 

 
「ヒトラー・ユーゲント」の教育で重視されたのは、何よりもスポーツだった

 

●「ヒトラー・ユーゲント」の活動は、特に労働者階級の子どもたち、そして女性たちが、同じ「青少年」として活動に参加できるメリットがあった。低所得者層の子どもは、貧しさゆえに体験できなかったレジャーを大変気に入った。

また当時のドイツでは、大都市は別として、特に保守的な農村地帯において、女性は外に向かって解放されていなかったので、「ヒトラー・ユーゲント」に参加することで、「解放感」を味わう女性は少なくはなかった。

 



 

 
「ヒトラー・ユーゲント」のメンバーは1939年末には800万人に達した

 

●しかし、もちろん、全く問題がないわけではなかった。

多様な青少年組織を強制的に「ヒトラー・ユーゲント」に一元化したため、様々な問題が生じていた。

例えば、飲食、喫煙、禁止された歌を歌う、不適切な、あるいはだらしない敬礼をする、門限を破る、ビリヤードやダンスホールで騒動を起こす、といった問題を起こす反抗少年たちが存在していた(ハンブルクの「スウィング・キッズ」、ライプツィヒの「モイテン」、ミュンヘンの「ブラーゼン」など)。

 

 
映画『スウィング・キッズ』(1993年制作)

1930年代、ナチスの統制が強まっていく中、
スウィング・ジャズに酔いしれ、毎夜、自由を謳歌する
“スウィング・キッズ”と呼ばれた独ハンブルクの
若者たちの友情と悲劇を描いた青春映画
(主人公は「ヒトラー・ユーゲント」に
入団するがジャズを愛し続ける)

 

●また、ルール工業地帯の「エーデルワイス海賊団」と呼ばれる不良グループは、「ヒトラー・ユーゲント」の歌や軍歌ではなく外国のヒット曲などを歌い、巡回してくる「ヒトラー・ユーゲント」のパトロール隊を襲う危険な存在であった。

そのため、ナチ指導部は彼らをつかまえては、裁判抜きの処刑や残酷な「少年強制収容所」送りにして取り締まった。

 

 
(左)反抗グループ「エーデルワイス海賊団」のメンバーたち
(右)海賊団のメンバーの1人、バルテル・シンク少年。胸に
大きな「エーデルワイス」の花(徽章)をつけ盛装している。

彼らが自分たちの存在をアピールするための目印として
好んで使用したのが、「エーデルワイス」の花(徽章)であった。
また派手なチェックの色シャツが代表的な海賊団スタイルだった。

※ 彼らの一部は共産主義勢力とも結びつき、また一部は武装
闘争をするまでに過激化していった。ナチスの指導部は
彼らをつかまえては、裁判抜きの処刑や、残酷な
「少年強制収容所」送りにして取り締まった。

 

●こうした青少年の悲劇は、1939年9月に第二次世界大戦が始まると、急速に拡大していく。

 

 

 


 

■■第4章:「ヒトラー・ユーゲント」の戦争動員(1940年〜)


●1940年8月に、シーラッハに代わってアルトゥール・アクスマンが「全国青少年指導者」になると、「ヒトラー・ユーゲント」は軍隊化して戦火に巻き込まれるようになる。

これは「ヒトラー・ユーゲント」を大事に育ててきたシーラッハにとって我慢ならぬ事態であった。シーラッハは「ヒトラー・ユーゲント」の戦時体制導入に大反対の立場だったが、後継者のアクスマンはシーラッハと違って、「ヒトラー・ユーゲント」の軍隊化を当然視していたのである。

 

 
シーラッハの後を継いでユーゲントの
2代目総裁となったアルトゥール・アクスマン

ユーゲントの軍隊化を推し進め、
ドイツが敗北するまで総裁を務めた。
1941年に対ソ連戦で片腕を失ったが、
それによってユーゲントの戦争動員に
歯止めがかかることはなかった。

 

●「ヒトラー・ユーゲント」には海軍部や航空部、通信部、自動車化部といった計9部門の特殊訓練機関があったが、国防軍と武装SSは、将来の将兵の確保という観点から、これらの訓練機関に装備、文官の両面で援助を惜しまなかった。

1940年以降、連合軍によるドイツ主要都市への爆撃が増加すると、多くの「ヒトラー・ユーゲント」が消化活動に駆り出された。そして1944年から、「ヒトラー・ユーゲント」は空爆に対する高射砲部隊や探照灯部隊に配置されることが多くなった(戦争が長引くにつれ、徴兵される年齢が低下していった)。

団内には「軍事教練キャンプ」(通称WE)が設置され、ユーゲントたちは兵士としての訓練を施された。

 

 
(左)「ヒトラー・ユーゲント」の軍事訓練風景 (右)高射砲部隊に配置されたユーゲント


  

戦争末期のドイツ本土の防空防衛は
「ヒトラー・ユーゲント」の団員によって行われた
(戦争が長引くにつれ、徴兵される年齢が低下していった)




↑ヒトラー政権下のドイツの青少年/性別と年齢に応じた区分

女性なら、10〜14歳で「少女団(JM)」、14〜18歳が「女子青少年団(BDM)」、
18歳〜21歳が「労働奉仕団」、そのあとは主婦となり母となる。男性なら、10〜14歳で
「少年団(DJ)」、14〜18歳が「ヒトラー・ユーゲント(HJ)」、18〜21歳が「労働奉仕団」か
兵役、そのあとは予備役、後備役が待っていた。なお、「ヒトラー・ユーゲント」は14〜
18歳までの区分を意味するとともに、他の年齢の区分を含む総称でもある。

 

 


 

■■第5章:「ヒトラー・ユーゲント」の最期


●1943年6月、ヒトラーはアクスマンに「ヒトラー・ユーゲント」を名称した師団の創設を命じた。志願兵を募ることを託されたアクスマンは、17歳と18歳のユーゲントを選抜した。彼らは訓練を受けたのち、1944年初頭、ドイツ占領下のベルギー北部アントワープ南東に拠点を構えた。

彼らの部隊は、第12SS装甲師団「ヒトラー・ユーゲント」と命名された。

 


1943年に編成された
第12SS装甲師団のマーク

この部隊は「ヒトラー・ユーゲント」と命名され、
翌年の春には総勢2万540人になった。



「ヒトラー・ユーゲント」の観兵式で閲兵するSS長官ヒムラー(中央)。
随伴するのは、ユーゲントの2代目総裁アクスマン(右端)。

 

●その後、この「ヒトラー・ユーゲント」部隊はノルマンディーでの戦いで、圧倒的な兵力を持つ連合軍を相手に奮戦し、その戦闘能力の高さを証明した。この戦いで「ヒトラー・ユーゲント」は、子供とあなどれない恐るべき相手として勇名をはせることになったのである。

しかし、それ以降の戦闘においては将校の不足や補充員の質の低下などが災いし、二度と本来の実力を発揮することはなかった。(なお、「ヒトラー・ユーゲント」出身者は、第12SS装甲師団だけに入隊したわけではなく、その他の師団に入隊する者もいた)。

 

 
4号戦車に乗る、「第12SS装甲師団」のユーゲント

彼らは、大人に負けないほどの高い戦闘能力を持ち、
子供とあなどれない恐るべき相手として勇名をはせた。



1945年4月20日、ベルリン防衛戦で功績のあった
12歳という若さの少年グループに対し、2級鉄十字章を
 授与するヒトラー(この10日後、ヒトラーは自殺した)。

 

●最終的に戦争はヒトラーの「自殺」をもって終了するが、そのヒトラーのために「ヒトラー・ユーゲント」は、年寄りに銃を持たせた義勇兵団「国民突撃隊」とともに、廃墟と化したベルリンで最後まで戦い続けた。ほとんどの「ヒトラー・ユーゲント」は捕虜になる気などなかった。彼らは全滅するまで戦い続けたいと願っていた。降伏は問題外だった。

「ヒトラー・ユーゲント」に遭遇した連合軍の兵士たちは、敵のあまりの若さに唖然とした。

ナチス第三帝国が完全に崩壊した時、ベルリンは、むせ返るようなほこりと死臭、
そして最後まで戦い続けた「ヒトラー・ユーゲント」の死体が散乱していた。

 

  
「ヒトラー・ユーゲント」の遺骸

本土防衛のために作られた「国民突撃隊」のリーダーに指名されたのは、
大抵は「ヒトラー・ユーゲント」の若者だった。(つまり戦争末期、十代の若者が
自分の父親や祖父と同年齢の大人たちを指導する責任を負っていたのである)。

また、「ヒトラー・ユーゲント」の小グループも連合軍の背後で破壊活動を行った。
「人狼部隊(ヴェアヴォルフ)」と呼ばれるコマンド部隊で、敵の軍用車両を破壊したり、
通信ラインや補給基地、その他の重要な施設を破壊したりすることもあった。

 

●このように、ドイツの軍事的抵抗の最終局面で、絶望的な戦闘に従事したのは純真な少年兵たちだったのだ。

なんとも悲惨な話である……。

 


激戦の末、ベルリンの帝国議会の
ドームに翻ったソ連国旗(1945年4月末)

「ヒトラー・ユーゲント」は、廃墟と化した
ベルリンで最後まで戦い続けた…

 

●戦後のニュルンベルク裁判で、「ヒトラー・ユーゲント」の初代総裁だったシーラッハは、ドイツの青少年団体の責任者として「人道に対する罪」に問われた。そして、禁固20年の刑を宣告されたが、彼は法廷で、次のように自らの責任について陳述している。(彼は服役後、『私はヒトラーを信じた』という自伝を著した)。

「私はヒトラーを信頼してこの世代の青少年たちを教育しました。したがって、私の築き上げた青少年運動はヒトラーの名前を有しているのです。我が民族と若者たちを偉大に、かつ自由に、かつ幸福にして頂ける総統のためにお仕えしようと考えたのでした。

私とともに数百万の若者たちがそのことを信じ、国家社会主義の中にその理念を見い出したのです。多くの若者がそのために命を落としました。それは私の責任であり、神とドイツ民族、我が国家のために今後その責任を負っていくつもりです」

 


バルドゥール・フォン・シーラッハ

ニュルンベルク裁判で、20年の刑を宣告され、
ベルリン・シュパンダウの戦犯監獄に収監された。
1966年、刑期満了で釈放後、南西ドイツに
隠棲。1974年にひっそりと世を去った。

 

─ 完 ─

 


 

■■おまけ情報: NHKスペシャル 映像の世紀 第4集 『ヒトラーの野望』


●1995年にNHKで放送された「映像の世紀」は、

世界30ヶ国以上のアーカイブから収集した貴重な映像と回想録や証言などで構成されたドキュメンタリー番組で、現在でも高く評価されており、「NHKスペシャル」最高の番組の一つともいわれている。

 

 
NHKスペシャル 映像の世紀 第4集 『ヒトラーの野望』

 

●このNHKスペシャルの第4集「ヒトラーの野望 〜 人々は民族の復興を掲げたナチス・ドイツに未来を託した」では、ヒトラーの巧みな政治戦術や、ヒトラーを支持するドイツ国民の姿などが丹念に描かれており、非常に興味深い内容になっている。

参考までに、この番組の中で紹介された「当時少年だったドイツ人の回想録」

「ヒトラー・ユーゲントの手記」などを簡単に紹介しておきたい↓

 

★当時少年だったドイツ人の回想録より

「私は、繰り返し次のようなボードを読んでいた。
『大ドイツ帝国成る。オーストリア再びドイツのもとに』

私の傍らの一人の紳士が、私に語りかけてきた。
『なぁ、坊や。君は誇りに思っていいんだぞ。我々は偉大な時代に生きているんだ』

私も、そのように感じた。ドイツの国力の増大に、私達は感嘆の念を抱いていた。
私達は、偉大な時代に生きていた。そして、その時代の創造者、その保証人はヒトラーその人であった」

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★当時のナチ党員の手記より

「大衆へ情熱を込めて語ったのは彼(ヒトラー)だけでした。私たちは何か新しいことを聞くために、何でもいいから新しいことを聞くために集会に出かけたのです。

ドイツ国内の状況は悪化する一方でした。人々の日常生活を支えていたものが根底から無くなり、自殺する人が溢れ、風俗は乱れました。経済状況に絶望していた私たちにはヒトラーの語る新しいドイツは素晴らしいものに思えました」

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★ドイツの元社会民主党員の手記より

「人々はナチスに対し、全く無批判でした。『精神の自由』など大多数の人々にとっては、価値のある概念では全くありませんでした。ナチスに疑いを差し挟むと、次のように反論されました。
『ヒトラーが成し遂げたことをぜひ見て欲しい。我々は今ではまた、以前と同じように大したものになっているのだから』

ヒトラーが失業問題を解決したことこそ、私達にとって重要な点だったのです」

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★ヒトラー・ユーゲントの手記より

「ナチスには神秘的な力で我々を魅惑し、熱狂させる何か違ったものがあったのです。

それは旗をなびかせ、じっと前方を見つめ、太鼓を鳴らしながら進む若者たちの一糸乱れぬ行進でした。この共同体には何か心を揺さぶる圧倒的なものがありました。

しかし、私の父がナチスについて語る時、その言葉には感激や誇りが無く、それどころかひどく不機嫌な響きがあるのが理解できませんでした。

父は、『連中の言うことを信じるな、連中はオオカミだ。ナチスはドイツ国民を恐ろしい形で誘惑しているのだ』というのです。

しかし父の言葉は、興奮した私たち若者の耳には入りませんでした

 

 

 


 

■■おまけ情報 2: 日本国内を旅行した「ヒトラー・ユーゲント」


●「日独防共協定」の成立から約1年半が経過した1938年8月、

「ヒトラー・ユーゲント」の代表者30名が来日している。

※ 「ヒトラー・ユーゲント」が来日する1ヶ月前には、日本から「大日本連合青年団」の代表29名がドイツを訪れており、「ヒトラー・ユーゲント」の来日は、防共(反共産主義)の盟約を結んだ両国の若者たちが、互いに締盟国を訪れて、親善、交流するという意味合いがあったのである。


●「ヒトラー・ユーゲント」の代表団はドイツの汽船「グナイゼナウ」号に乗船して、約1ヶ月の船旅の後、1938年8月16日に横浜港に到着。

この時、ドイツの若者たちを一目見ようと、数千人の群衆で埋め尽くされた。彼らは11月12日までの約3ヶ月間、日本各地(北は北海道から南は九州まで)を訪問して熱烈な大歓迎を受けたのである。

 


1938年8月17日、横浜に上陸した「ヒトラー・ユーゲント」一行は
横須賀線で東京に入った。そして東京駅に降り立った彼らは、
ブラスバンドの吹奏など、熱烈な歓迎を受けた。

 
(左)東京入りした「ヒトラー・ユーゲント」は明治神宮と靖国神社を参拝した。
(右)日本の青少年団代表100名あまりと共に富士山頂まで登った
「ヒトラー・ユーゲント」は、浅間神社で朝日を仰いだ。

  
(左)伊勢神宮参拝の様子。一行の参拝態度は
外国人としては珍しく敬虔な態度で人々を驚かせた。
(中央)ドイツ大使館でティータイムを過ごす「ヒトラー・ユーゲント」。
(右)京都から大阪入りした「ヒトラー・ユーゲント」。一行はこの後、瀬戸
内海を抜けて九州を歴訪し、最後の訪問先である神戸を訪れた。
規律正しく統制された彼らの姿は、日本の青少年の
指標として大きな影響を与えた。

 

●この「ヒトラー・ユーゲント」の来日について、もっと詳しく知りたい方は、別ファイル「ヒトラーの日本観」をご覧下さい。

 



 

★ 追加情報(おまけ) ★


「ヒトラー・ユーゲント」の映像↓

フランケン・シュタディオンでの集会の様子(1934年)
http://www.youtube.com/watch?v=Uvdtp4AqiZg

↑「ヒトラー・ユーゲント」の初代総裁シーラッハの短い
演説の後に、ヒトラーの長い演説が始まります(開始4分後)

 


 


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