No.a6fhd500

作成 1998.3

 

「ユダヤのヒトラー」と恐れられた男の素顔

ラビ・メイア・カハネと「JDL」

 

 

第1章
ラビ・メイア・カハネと
「ユダヤ防衛連盟(JDL)」の誕生
第2章
過激化していった
「JDL」の暴力活動
第3章
独自の政党「カハ」の旗揚げ
第4章
国会議員に選出されたカハネと
「カハネ主義」の蔓延
第5章
極右ユダヤ人医師が起こした
「ヘブロン虐殺事件」

追加
BS世界のドキュメンタリー
「ユダヤ過激派」

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■■第1章:ラビ・メイア・カハネと「ユダヤ防衛連盟(JDL)」の誕生


●「JDL」の正式名称は「ユダヤ防衛連盟」で、後に“ユダヤのヒトラー”と恐れられたラビ・メイア・カハネというユダヤ人が創設した組織である。

KKKのユダヤ人版ともいうべき過激なもので、その規模は極めて小さいものの、彼らの哲学は「ユダヤ民族に対する迫害には暴力をもって対抗する」というものである。

 


ラビ・メイア・カハネ

後に「ユダヤのヒトラー」と
呼ばれるようになる

 

ラビ・メイア・カハネは1932年、ニューヨーク市のブルックリンで生まれた。

父親は熱狂的な改革派ユダヤ教徒で、シオニストの極右組織に所属していた。

青年カハネはユダヤ教の青年団「ベタル」に加盟し、さらに「アキバの息子」という宗教青年団に入った。イスラエル共和国が建国されると、これら熱狂的なシオニスト青年たちは、次々とパレスチナに渡って行ったが、カハネはアメリカにとどまった。

当初は弁護士を目指したが、試験に失敗し、結局ラビ(ユダヤ教指導者)の資格を得る。いくつかの教区を渡り歩いたあと、1963年、31歳のときに初めてイスラエル共和国を訪れたが、すぐまたアメリカに帰っている。

 

 

●1960年代中頃までのカハネは、アメリカでヘブライ語を教える正統派ユダヤ教の目立たないラビに過ぎなかった。

しかし、彼自身が認めており、アメリカ司法省の資料の裏付けもあることだが、この時期何年にもわたり彼は二重生活を送っていた。その生活とはFBIのために左翼学生グループをスパイし、CIAのために正統派ユダヤ人コミュニティー内でベトナム戦争に対するアメリカの姿勢を支援させるものだった。


カハネが本格的に極右シオニズム運動を開始したのは1968年のことだった。

「6日戦争」(第三次中東戦争)でのイスラエル共和国の見事な勝利は、アメリカのユダヤ人青年の間に熱狂的な愛国心(もちろんイスラエルへの)を呼び起こしていた。

この時流に乗って、カハネは1968年夏に、「JDL(ユダヤ防衛連盟)」を結成させた。

ユダヤ人を反ユダヤ主義から守るというのがその主旨で、「JDL」を生み出した人種間の緊張は1968年のニューヨーク市の教員ストが招いたものだった。このストを契機に、ユダヤ人が優秀な教員組合と、近隣の学校を掌握しようとする好戦的な黒人とが衝突したのである。

ストだけでなく、公務員職の割り当て、市立大学への自由入学、公営住宅への無制限入居などを求める黒人の要求をきっかけとして、ニューヨークの外側の区の正統派や労働者階級のユダヤ人が何千人も「JDL」に加入することになる。

「JDL」は白人の巻き返しの中心になっていたのだ。

 


極右シオニスト組織「JDL」の
シンボルマーク

 

 



 

■■第2章:過激化していった「JDL」の暴力活動


「JDL」は反黒人・反アラブの抗議団体としてかなりの悪名をはせた。

「ブラックパンサー党」を襲撃したり、「在米アラブ人差別反対同盟」の会長を暗殺したり、「PLO(パレスチナ解放機構)」のニューヨーク・オフィスを襲撃したりと、派手な暴力活動をした。

 


ニューヨークで示威行進する「JDL」のメンバーたち。
手をグーにしてナチスの敬礼に似たポーズをとる。

 

●「JDL」が国際的に名が知られるようになったのは、アメリカのユダヤ人エスタブリッシュメントがほとんど無視した論点をとり上げたときであった。すなわち、ソ連国内に縛られたユダヤ人の苦境である。

カハネは叫んだ、

「ソ連国内のユダヤ人を解放せよ! 共産ロシアは現代のアウシュヴィッツだ!」と。

1970年までにアメリカやヨーロッパのソ連大使館に対する「JDL」の爆弾や射撃による攻撃は相当数に上り、ニクソン大統領がカハネのせいで「戦略兵器削減交渉(SALT)」が暗礁に乗り上げるのではないかと心配するほどであった


●「JDL」の暴力はアメリカのユダヤ人エスタブリッシュメントを、次いでアメリカ政府を動かして、ソ連ユダヤ人の自由出国問題を優先課題にとり上げさせた。

これはカハネの華々しい成果であった。有力な労働運動指導者や政治家や富裕なユダヤ人慈善家たちが、彼を支持するようになった。ホロコースト以後のユダヤ人にとってカハネの活躍は、自分たちの利益のために語り、戦ってくれる扇動者が現れたように見えたことだろう。

 


武装姿のメイア・カハネ

 

しかしながら、アメリカのユダヤ人エスタブリッシュメント内での「JDL」に対する評価は分裂していた。

彼らの中には、「JDL」の行動は反ユダヤ主義を助長するだけだとカハネを責める者が少なくなかった。

カハネのソ連人攻撃のおかげで、2つの超大国の間に緊張が高まり、ユダヤ人役人の多くは、揺り戻しが起こって、アメリカのイスラエル支持やアメリカ・ユダヤ人コミュニティーそのものの安全が覆されることを恐れたのである。

逆にカハネを尊敬し、密かに賛美する者も少なくなかった。ソ連ユダヤ人のためにおとなしくロビー活動をするのは、時代遅れで効果がないのではないかと考える者もいたのである。


●このまま「JDL」を放っておいたらもっと過激な活動をするのではないかと恐れたユダヤ人エスタブリッシュメントの組織は、カハネの主張を横取りしようと、独自に「ソ連ユダヤ人全国会議(NCSJ)」を組織した。

戦略に相違はあったが、「JDL」と「NCSJ」はソ連ユダヤ人のために共闘するようになった。

 


出国を求めるロシア系ユダヤ人

 

●ソ連人に対する「JDL」の武闘が過激化するにつれ、会員も増加した。

1971年にはアメリカの少なくとも12の都市をはじめ、イギリス、フランス、南アフリカで合計1万人以上の会員を擁するまでになっていた。「JDL」は大衆運動にまで発展したのである。「JDL」の創立メンバーの1人、マレー・シュナイダーは語る。

「カハネは若者の心を捕らえ、影のユダヤのヒーローになろうとさせる才能があった。我々は彼を神のように崇めていた。信じられないほどのカリスマ性があった。誰よりも輝いていた」



しかし「JDL」は成長するにつれて、カハネの手に負えなくなってきた。

やがて向こうみずの青年たちのグループが、「JDL」のリーダーの相談なしに暴力的な作戦を行うようになり、「JDL」の作戦はJDLリーダーによって計画されたものより、情熱に駆られた青年たちがその情熱のおもむくままに実施されるもののほうが多い有り様になってしまったのである。

ユダヤ人エスタブリッシュメントはカハネを激しく非難したが、ソ連ユダヤ人の苦境にアメリカ・ユダヤ人の目を向けさせたことで、カハネを英雄視するユダヤ人コミュニティーから、かなりの経済的支援が密かに与えられていた。


●カハネをよく知るラビ・エリャフ・ロミネクは、「JDL」の活動はカハネの金儲けの道具以外の何ものでもなかったと語っている。誰かを守るどころか、彼は組織を使って何千もの不安に駆られたユダヤ人たちから、何百万ドルも絞り取ったのである、と。

ラビ・エリャフ・ロミネクは語る。

「対立闘争は新聞の見出しとなり、新聞の見出しになれば金と権力が手に入ってきた。だから対立闘争はカハネの目的にかなっていた。黒人問題であろうと、ソ連ユダヤ人問題であろうと、自分のキャリアを伸ばすために、対決要因を探していた。彼は、自分は火を消そうとしているのだと言っていたが、本当は憎悪と破壊の炎をあおっていたのである。ユダヤ人コミュニティーの救済に来たと言いながら、実際には問題を起こしていたのである……」

 

 


 

■■第3章:独自の政党「カハ」の旗揚げ


1971年、「JDL」の活動に関する連邦政府の告訴に一歩先んじて、カハネは「JDL」の司令部をイスラエルに移すと宣言。

味方の同盟員を率いてイスラエルに乗り込んだ。

 

 
(左)イスラエル(パレスチナ地方)の地図 (右)イスラエルの国旗

 

しかし、カハネは現地のマスコミにもてはやされたが、あまり目立たなかった。

なぜなら、イスラエルには、カハネと似たような極右シオニストの集団がたくさん存在していて、住民の間に根を張っていたからである。中でも強力なのが「グーシュ・エムニム(忠誠者団)」だった。

 


活動拠点をアメリカから
イスラエルに移したメイア・カハネ

独自の政党「カハ」を旗揚げする

 

●カハネは右翼のヘルート政党や、国家宗教党などの誘いを断り、独自の政党「カハ」を旗揚げすることにした。

その党員は3、40人の若いアメリカ系ユダヤ人の不平分子たちで、対アラブのテロに長じた連中であった。彼らは派手に行動した。ユダヤ・アラブの共存を唱えるリベラル派の集会やデモに殴りこみ、イスラエルの大学で学ぶアラブ人学生や左翼活動家への襲撃・暴行を行った。

1975年に、イスラエルの治安機関「シン・ベト」がカハネを逮捕したときの容疑は、イスラエル訪問中のキッシンジャー襲撃を計画したというものだった。

 


「カハ党」の旗

 

●しかし、カハネの党活動は、思ったほどうまくいかなかった。

1980年には、特別措置法によってカハネは拘禁されてしまう。

この時、カハネがなぜ逮捕されたのか、公式の発表はないのだが、非公式情報によれば、聖地エルサレムの寺院広場に建つイスラム教の「アル・アクサ・モスク」と「岩の聖堂」の爆破を企てたというものらしい。



獄中のヒトラーが『我が闘争』を書いてナチス運動のイデオロギー的基礎固めをやったように、カハネも拘禁されている間に1冊の本を書いた。題名は『汝らの目にイバラ』という。

カハネは語る、

イスラエルにアラブ人が住むことは、神に対するあからさまな冒涜である。アラブ人の駆逐は、政治的活動を超えたものである。それは宗教的行為である」と。

こうして、200万人の人間(パレスチナ人)を先祖伝来の土地から追い払うことが、カハネに課せられた崇高な宗教的な義務になった。


●1980年代の初期、イスラエル共和国が右傾するにつれて、カハネはイスラエル政治の周辺から浮上して、本質的には唯一の理念に基づいた大衆運動を率いるようになった。

カハネはイスラエル大衆に、「イスラエルからアラブ人を追い払おう!」と呼びかけ始めた。

この要求のおかげでイスラエル国内での大きな支持を得ることができた。アラブ人排斥は、主流となるシオニズムの中で、既に決して公然とではないが中心的な位置を占めるようになっていたのである。

「アラブ人のいないイスラエル」という概念は、初期シオニストの夢そのものであった。


しかし、イスラエルの「JDL」がアラブ人攻撃を激化させていくと、イスラエル政府は、カハネにイスラエルの民主的イメージをぶち壊すようなことは止めてくれと懇願するようになった。

しかしカハネはこれを無視した。

 

 


 

■■第4章:国会議員に選出されたカハネと「カハネ主義」の蔓延


●ところで、関係者の話によると、カハネは幼い頃から感情の起伏が激しく、時おり鬱(うつ)状態の発作を見せていたという。

さらに彼は「メシア思想」の虜になっており、イスラエルで活動するようになってから、ユダヤ民族の運命は自分の手中にあるのだと、これまで以上に強く信じるようになったという。

そして、それまでの政治用語に変えて、「終末」「救い」「メシア」などという宗教用語を多用するようになり、自分のことを現代の「預言者」だと公然と口にするようになったという。


●カハネは語る。

理性など問題にしないのがユダヤ人なのさ。民主主義だとか西欧人道主義なんてものはしょせん、外国からの借り物だ。正統ユダヤ主義には無意味なんだ。

ユダヤ民族がこの2000年間生き残ってきたのは、理性的だったからではない。もし理性的だったりしたら、とっくの昔に絶滅させられていただろう。我々が生き残ったのは、ユダヤ民族は決して滅ぼされることはないという明白な神の契約があったからだ。

我々は特別な民族であり、我々はその清浄さと神聖さとのゆえに選ばれたのだ。他の民の上に立ち、我々が既に教えられた清浄さ、神聖さの心理を彼らに教えるべく、定められているのだ。ユダヤ人であるということに、何か本質的に他と違ったものが存在しなければ、ユダヤ人であることの理由も目的もないではないか。

断じて我々は異教徒たちと平等ではない。我々は違うのだ。我々は優れているのだ!」

 


自分のことを現代の「預言者」だと
公然と口にするようになったメイア・カハネ

1984年に国会議員に選出される

 

●1984年、カハネは選挙に勝ち、念願のイスラエル国会(クネセト)の議員に選出された。

得票数は全投票数の1.2%だったが、東欧系ユダヤ人の群集する貧民街や後進村落、入植占領地では6%の得票率を得た。これはレバノン侵攻でパレスチナ難民の大虐殺をやってのけたシャロン、エイタン両将軍よりも高い得票数だった。


カハネはさっそく、国会議員として幾つかの法案を立案した。

しかしそれらは半世紀前に、ナチスがドイツ系ユダヤ人に対し施行した「ニュルンベルク法」に驚くほどよく似たものであった。

例えば、

「イスラエル在住アラブ人の追放法案」

「アラブ人と性関係を持ったユダヤ人女性に2年の懲役を課す法案」

「ユダヤ教およびユダヤ民族への侮辱を違法とする法案」

などである。


●また彼は、イスラエル国内の非ユダヤ人に対して、

彼らが「正統ユダヤ主義」を汚染することがないようにゲットーに閉じ込めろ!という要求も出した。

 

 

●カハネは語る。

「誰でも『聖書』『タルムード』『注解書』の中の一節でも、それが真実ではないという者は反ユダヤの人種差別主義者であり、3年の懲役に処すべしと言ってるんだ!」



●1984年にニューヨークで行われた講演では次のように呼びかけた。

「外国人どもは我々の上に嘔吐する。我々はそれを飲み干そう……そして、彼らを吐き出して、聖地エルサレムの全ての不純なものを洗い清めようではないか!」

 

 
メイア・カハネの著書

 

このカハネが唱える「ウルトラ人種差別思想」(カハネ主義)は、まるで旧約聖書に登場する疫病のような勢いでイスラエル中に広がり始めた。

リクード党などの伝統的な極右シオニストは、最初、カハネを「斬り込み隊長」として歓迎し、利用した。


●しかし、4年後(1988年)の総選挙を前にして、カハネの「カハ党」の議席が3ないし6議席に飛躍する可能性ありとの世論調査結果が出たため、キャスティングボートを握られる恐れが表面化した。

慌てた政府、その他の組織では、彼の影響力を少しでも減少させようと様々な処置を講じ始めた。

例えば、彼の当選直後、イスラエル軍は緊急プログラムとして、新兵に「民主主義の美点」について教えることになったと発表した。イスラエル国会は、カハネがアラブ人地域に入るのを阻止する権限を警察に与える決議を行った。これは、国会議員の行動を制限する史上初の法律となった。

また、イスラエル国内の高校に入ること、ラジオやテレビでしゃべることも禁止された。もっとも、ラジオ・テレビの出演禁止については、高等法院に上訴して取り消しに成功した。


1987年9月、ストラスブールで開かれた民主主義会議の席で、時のイスラエル国会議長シュロモ・ヒレルは、「カハネの反アラブ思想はナチスの反ユダヤ政策の記憶を呼び覚ますものである」と前置きして、

「カハネ主義」と闘うことこそが道義上の義務であることを力説した。

そして1988年に、「国会中央選挙委員会」は、カハネの「カハ党」人種差別的、反民主主義政党であるとの理由により、選挙に立候補することを禁止した。

イスラエル最高裁も、この決定を全員一致で支持し、カハネの議席は消滅した。

かくして、カハネはイスラエル国会から追放されてしまったのである。



●1990年11月5日、更なる悲劇がカハネを襲った。

ニューヨークのマンハッタンホテルで開かれたユダヤ人集会で、カハネが聴衆を前に演説を始めた時、エジプト出身のアラブ人に銃で頭部を撃ち抜かれて殺されてしまったのである。

(犯人はただちに逮捕され、小火器の不法所持で有罪判決を受けた)。


しかし、カハネが死んだあとも、「カハネ主義」の亡霊はイスラエルを揺さぶり続けている。

カハネの作った「カハ党」の非合法活動は続き、むしろ、より悪質化し、暴力的に燃え盛っている。

(※ 「カハ党」はカハネの死後、息子ベンジャミンが党首を引き継ぎ、「カハネは生きている」という意味の「カハネ・ハイ」に名前を改めた)。

1994年には、カハネを信奉するユダヤ人医師が、ヘブロンのモスクで祈りを捧げる800人のパレスチナ人に対して銃を乱射し、多くのパレスチナ人を虐殺するという事件を起こし、世界を震撼させた。


※ 次章では、このヘブロンで起きた虐殺事件について詳しく紹介したい。

 

 


 

■■第5章:極右ユダヤ人医師が起こした「ヘブロン虐殺事件」


●1993年9月、ワシントンで「パレスチナ暫定自治協定(オスロ合意)」が調印されるとともに、イスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長が握手し、世界中が「歴史的な和解」として歓迎した。

 


左から、イスラエルのラビン首相、アメリカのクリントン大統領、
PLOのアラファト議長(1993年9月/ワシントン)

イスラエルとPLOの間で「パレスチナ暫定自治協定(オスロ合意)」が
調印され、PLOはイスラエルが国家として平和と安全の内に存在
する権利を認め、イスラエルはPLOをパレスチナ人の代表として
認めた。ラビン首相とアラファト議長は硬く握手をかわし、
世界中が「歴史的な和解」として歓迎した。

 

●しかし、ユダヤ人側にもパレスチナ人側にもこの和解を歓迎しない勢力がいた。

「妥協はするな! アラブ人に死を! アメリカの援助はいらない! ラビンは裏切り者!

1993年秋、連日のようにエルサレムで和平反対のデモが起きた。

ほとんどは占領地に住むユダヤ人入植者で、「キパ」と呼ぶ小さな被り物を頭に着け、女性は長いスカートをはいていた。若者が多く、時には銃を持つ大人が参加していた。アラファトと握手したラビンが手を洗っているポスターもあった。アラファトと握手したため、手が血まみれになったというのだ。アラファトはテロリストで、手は血だらけだというのである。トーチをかざし、パレスチナの旗を燃やし、規制する警官には「イスラエルは警察国家!」と叫び、国境警備兵が出て、首相官邸のそばで逮捕者も大勢出た。しかし、逮捕者はすぐ釈放された。

 


「オスロ合意」に反対するユダヤ人のデモ集会

中央に「カハネ主義者」の旗が見える

 

●それから数ヶ月後の1994年2月25日早朝

イスラエルが不法に占拠している都市ヘブロンで大事件が起きた。

ユダヤ教とイスラム教の聖地である「マクペラの洞窟」で、礼拝中のイスラム教徒800人に向かって、バルフ・ゴールドシュタインというユダヤ人がマシンガンを乱射したのである。

 

 
1994年2月25日早朝、モスクで礼拝中のパレスチナ人が虐殺された

 

死者はその後のイスラエル兵の射撃によるものを合わせて60人を超え、負傷者は200人近くに達した。

モスク(イスラム教の礼拝堂)を血の海にした虐殺は、1分間に750発の銃弾を発射する自動小銃のほかに、手榴弾も使われたとされており、最後にはパレスチナ人が犯人のゴールドシュタインを取り押さえて、その場で殴り殺した。

この虐殺に怒るパレスチナ人が、エルサレムやガザ地区など各地で抗議行動に出たところ、イスラエル兵が銃で制圧し、その日だけで、さらに25人以上のパレスチナ人が全土で殺された。

 


事件を起こしたユダヤ人医師
バルフ・ゴールドシュタイン

カハネを信奉していた
(彼もアメリカ出身である)

 

●モスクの虐殺犯人バルフ・ゴールドシュタインは、1983年にアメリカからイスラエルに移住してきた42歳の医師で、ヘブロン近郊のユダヤ人入植地キリヤト・アルバに住み、イスラエル軍では陸軍少佐の肩書を持ち、カハネ主義の極右組織「カハネ・ハイ」の幹部を務めていた。

また彼は、医師でありながらパレスチナ人の治療を拒否し、現地のユダヤ人入植者たちは、かねてからパレスチナ人の病院などを武力で接収して、モスクのじゅうたんを燃やしたり、パレスチナ人の商店をたびたび襲撃して、暴力を欲しいままに行使していた。

これに対してイスラエル軍は、「入植者がたとえパレスチナ人を銃で撃っているところを目撃しても、発砲してはならない」という公式の命令を出して、全てを放任してきた。


●イスラエル紙『ハアレツ』によれば、「イスラエル軍によるパレスチナ人の虐殺は、高度の承認を得ていた」という。また、イスラエルの人権グループの調査によれば、過去数年のユダヤ人によるパレスチナ人殺害事件62件のうち、殺人罪を問われたユダヤ人はわずか1人だった。

さらに重大なことは、この虐殺に怒るパレスチナ人が、イスラエル当局による外出禁止令の中で次々と兵士に逮捕され、射殺されたことである。パレスチナ人の過激派を取り締まると称して、妊婦までが殺されている。

そして、虐殺の町ヘブロンに、ついにイスラエル軍の手で高さ2メートルを超える壁が構築され、パレスチナ人の住居がゲットー化したのである。その“ベルリンの壁”にたとえられる壁には、「ゴールドシュタインは永遠の人」という言葉がヘブライ語で書かれていた。



●この事件を契機にして、パレスチナ人による初めての「自爆攻撃」が行われたのであるが、これら無数の事実経過が日本では報道されず、この状況に絶望して追い詰められたパレスチナ人の自爆事件だけが「テロ」として報道された。

 


「PLO(パレスチナ解放機構)」の旗

赤・黒・白・緑はともにアラブを象徴する色である

 

●「ヘブロン虐殺事件」は、イスラエル社会に大きなショックを与えた。

しかし同じく衝撃的だったのは、エルサレムの高校でこの虐殺事件について調査したジャーナリストの報告だった。半数以上の生徒が、この虐殺を支持したのである。

さらに教育省が全国の教師を集めて会議を開き、そこで副大臣のゴールドマンが虐殺の批判を行うと、大勢の教師たちから石を投げ付けられ、彼は逃げ出したという。


●また、別の高校では、20人の生徒がゴールドシュタインのために黙祷した。
そして、テレビで「虐殺を支持する」と発言。イスラエルではこれも大きなスキャンダルになった。

中には次のような衝撃的なことをしゃべる子供もいた。

あいつら(パレスチナ人たち)が僕らを殺すかわりに、僕らがあいつらを殺すんだ。 僕が大きくなったら、自動小銃を持って、ゴールドシュタイン先生と同じことがしたい。僕が大きくなったらアラファトとラビンを殺してやる」

 

 

●「ヘブロン虐殺事件」から2ヶ月後の1994年4月、ヘブロンに隣接するユダヤ人入植地キリヤト・アルバで「和平反対」の1万人集会が催された。

司会者は次のように演説した。

「我々の父祖アブラハムがマクペラの洞窟を買い取って以来、何千年にもわたって続いてきたこのユダヤ人定住地に、存続の危機が訪れています。ユダヤ人の皆さん、武器を持ちましょう。アラブ人から身を守るために」

そして、出席したラファエル・エイタン議員は次のように言った。

「ここでは国全体、国民全体が開拓者なのです。シオニズムに終止符を打たれないためにも、ヘブロンを守る闘争は至る所で続けられるでしょう」



ところで、「ヘブロン虐殺事件」後、イスラエル政府は「テロリズム法」のもとで「カハネ・ハイ」テロ組織と宣告。

「カハネ・ハイ」非合法化された(1994年3月)。


●しかし、その後も「カハネ主義者」たちはヘブロン及び西岸でパレスチナ人数十人を殺害した。

現在もイスラエル国内では、「カハネ主義者」たちが過激な発言を繰り広げながら跳梁跋扈している……。

 


ヘブロンで、パレスチナ人老女に暴力をふるう
ユダヤ少年とユダヤ人女性。悲しいことに、
こういう暴力はしょっちゅう起きている。

 

─ 完 ─

 


 

■■追加情報: BS世界のドキュメンタリー 「ユダヤ過激派 〜イスラエル・終わらない戦い〜」


NHK-BS1
で、現在のイスラエル国内の「カハネ主義者」たちを
取材したドキュメンタリー番組が放送された(イスラエル制作 2005年)。

何も知らない一般人が見れば、彼らの過激な
行動と発言に大きなショックを受けたと思う。


◆番組の中に登場した「ユダヤ過激派(カハネ主義者)」たち↓

  彼らはカメラの前で堂々と自分たちの意見を述べていたが、
   彼らの存在はイスラエルにとって「頭痛の種」である。

 

 

↓下のリンク先のページで、この番組の内容が詳しく紹介されている(興味のある方はご覧下さい)。

P-navi info : NHK-BS1 「ユダヤ過激派」

 



 

■■関連記事(リンク集)


本物の追い立てはヘブロンで進行中だ

↓イスラエルの新聞記者が書いた痛烈な「自国批判」の記事が紹介されています
http://www.onweb.to/palestine/siryo/levy-hebron.html


イスラエル右派を訪ねて(ヘブロン訪問記)

↓田中宇さんの記事
http://tanakanews.com/e1123israel.htm

 

 

 


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