No.a4fhc100

作成 1998.1

 

ユダヤ人のアメリカ移住史

 

~ユダヤ移民の5つの波~

 

第1章
イベリア半島から追放された
スファラディムと新天地発見
第2章
ドイツ系ユダヤ移民のアメリカ流入
第3章
大規模な東欧ユダヤ移民の流入と
ヤコブ・シフらの困惑
第4章
ロシアに残ったユダヤ人と
「ロシア革命」のつながり
第5章
米ソ首脳を動かした
ユダヤ人大富豪アーマンド・ハマー
第6章
ユダヤ移民の第4波
第7章
ユダヤ移民の第5波

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■■第1章:イベリア半島から追放されたスファラディムと新天地発見


●アシュケナジム(いわゆる白人系ユダヤ人)がまだ登場していない紀元1世紀前後、古代ローマ帝国でユダヤ独立戦争があり、大敗を喫したオリジナル・ユダヤ人(オリエンタル・ユダヤ人)たちは、パレスチナから徹底的に追放された。

 


ティトゥス(紀元39~81年)

父ウェスパシアヌス帝の命を受け、
エルサレムを占領し、徹底的に
破壊した(紀元70年)



(左)「ユダヤ戦争」の勝利記念として建立されたティトゥスの凱旋門。ローマに現存する最古
の凱旋門で、アーチの内側には隙間なくレリーフが施されている。右はアーチ内側にある
レリーフの1つで、ユダヤ教の象徴的存在である七枝の燭台(メノラー)が見える。

ティトゥスは「ソロモン第二神殿」の宝物を戦利品とし、反乱軍の指導者を
捕虜にしてローマに凱旋した。エルサレムは「嘆きの壁」を残し、
徹底的に破壊された。この戦争のユダヤ人犠牲者数は
60万人とも100万人ともいわれている。

 

●この迫害により離散したユダヤ人のうち、多くの者がカリフが支配するイベリア半島(スペイン)に移住した。


●929年、ウマイヤ王朝のカリフ、アブドル・ラフマーン3世は、支配下のイベリア半島(スペイン)の中南部にあるムーア人の領地を統一することに成功し、西カリフ国(後ウマイヤ朝)を建設した。

アブドル・ラフマーン3世の治下で、その首都コルドバはイスラム世界一流の大都市となり、人口も50万といわれ、西ヨーロッパ最大の都市となった。その図書館には40万巻の本が目録にのっていたという。

 


↑離散ユダヤ人の状況(紀元100~300年)

 

●このイベリア半島に移住したオリエンタル(アジア・アフリカ系)ユダヤ人(セム系民族)の子孫を「スファラディム」(スファラディ系ユダヤ人)という。

彼らは中世において世界のユダヤ人の約半数を占め、ラディノ語を話しアラブ・イスラム文化とも同化し最も活動的であった。ちなみに、スファラディとは、「スペイン」という意味である。これは中世ヨーロッパ時代のユダヤ人たちの多くがイベリア半島(スペイン)にいたことに由来している。

スペインのユダヤ人たちはイスラム支配下において自治権を獲得し、宗教の自由も得て、様々な特権も与えられ、繁栄した。スペインの首都コルドバは、1492年までスファラディムが世界で一番多くいた都市だった。

 


↑イベリア半島のユダヤ人(1000~1497年)

スペインの首都コルドバは、イスラム世界一流の大都市として繁栄し、
1492年までスファラディムが世界で一番多くいた都市だった

 

●このスペインの黄金時代のユダヤ人の中で、最も傑出した人物はハスダイ・イブン・シャプルトだった。

ハスダイは915年に、コルドバのユダヤ人の名家に生まれ、開業医として成功し、このことで最初にカリフ(イスラム共同体の政治的指導者)の注意を引いた。アブドル・ラフマーン3世はハスダイを宮廷医師に任命し、やがて国家財政の整備、ついで外務大臣と出世していく。

ハスダイは、スペイン・ユダヤ人(スファラディム)社会の指導者でもあり、国事の間に時間を見つけては、医学書をアラビア語に翻訳し、バクダッドの学識あるラビ(ユダヤ教指導者)と文通し、ヘブライの文法学者や詩人を保護した。また、外交上の交際を通じて、世界各地に散らばっているユダヤ人コミュニティーについて情報を集め、できる限り彼らのために交渉をした。

 


ハスダイ・イブン・シャプルト(左の人物)

※ 彼はスペイン・ユダヤ人社会の指導者として大活躍した

 

●12世紀に、スペインの国土をイスラム教徒から奪回しようとするキリスト教徒による運動が開始された。いわゆる「レコンキスタ」(スペイン再征服)の開始である。

14世紀に入ると黒死病の影響で、スペイン各地でキリスト教徒によるユダヤ人虐殺が起きた。また、ユダヤ人を強制的にキリスト教に改宗させる政策がとられ、ユダヤ人の中にはキリスト教に改宗する者「コンベルソ」が現れた。彼らは上層階級に進出し、ユダヤ人ではないという自らの立場を証明するためにユダヤ人迫害に積極的に参加した。このため、「コンベルソ」はユダヤ人たちから「マラノ(豚)」と呼ばれ、蔑視された。


●1480年には「異端審問所」が設置され、プロテスタント教徒やイスラム教徒が処刑された。また、市民から「隠れユダヤ教徒」だと告発された「コンベルソ」は、「異端審問所」に連行され、拷問にかけられた。そこでユダヤ教信仰を表明してキリスト教への改宗に応じなかった者は火刑に処せられた。

1483年に悪名高きトマス・トルケマダが初代大審問官(宗教裁判長)に就いてから12年間で1万3000人の「コンベルソ」が処刑された。

 


異端審問の様子

スペインでは、ユダヤ人を強制的に
キリスト教に改宗させる政策がとられ、
ユダヤ人の中にはキリスト教に改宗する者
「コンベルソ」が現れた。しかし彼らはユダヤ人
たちから「マラノ(豚)」と呼ばれ、蔑視された。

また、市民から「隠れユダヤ教徒」だと告発された
「コンベルソ」は、「異端審問所」に連行され、拷問
にかけられた。そして異端とされた者は、両手を
縛られた上に、三角帽子をかぶらされて、
火刑場に送られたのである。

 

●こうした狂気が渦巻く中、スペインにコロンブスが現れる。

アメリカとユダヤ人の関わりは、このコロンブスから始まるといってよい。
(コロンブスはジェノバ出身の商人)。

 


クリストファー・コロンブス

 

コロンブスはユダヤ人だったとの根強い説があるが、真偽のほどは定かではない。

しかし、彼の計画を強力に推進した、アラゴン王国の豪商で租税を管理していたルイス・デ・サンタンヘルと、その親戚でアラゴン王国の大蔵大臣だったガブリエル・サンチェス、そしてこの2人の友人で侍従職を勤めるジュアン・カプレロという人物が、3人とも揃いも揃って「キリスト教に改宗したユダヤ人(コンベルソ)」だったことは事実である。

この3人のユダヤ人が、スペインのイザベラ女王に口をきわめて王室財政の窮迫を訴え、「もしコロンブスが“黄金の国”を首尾よく発見したら、巨億の富が転がり込んでくるだろう」と、言葉巧みに説得したのだった。

さらに、コロンブスの航海には少なくとも5人のユダヤ人が同行していたと指摘されている。通訳としてのルイス・デ・トレース、外科医マルコ、内科医ベルナル、そしてアロンゾ・デ・ラカーリエ、ガブリエル・サンチェスといった面々で、このうちトレースは後にキューバに定着し、その後のユダヤ人によるタバコ産業の利権支配の元祖となったといわれている。


1492年初頭、キリスト教勢力の軍隊はイスラム教徒を破り、グラナダを征服。「レコンキスタ」(スペイン再征服)を完成させた。そしてキリスト教勢力は、1492年8月2日、スペインに居住していた約30万人のユダヤ人(スファラディム)を一斉に国外へ追放した。

かつて栄えたスペインのユダヤ社会は突如として崩壊したのである。

イベリア半島から追放されたユダヤ人たちは地中海沿岸各地からアフリカ北岸、トルコ、バルカン地方、イタリア、大西洋岸方面ではハンブルグ、アムステルダム、ロンドンなど、政治・経済の中心地へと分散していった。


●奇しくも、このユダヤ人大量追放の翌日8月3日に、コロンブスは、3隻の船でアンダルシアの港町パロスを西に向かって出航し、70日目に現在のバハマ諸島のグアナハニー島を発見した。コロンブスは、彼のスポンサーであるスペイン両王(イサベル女王と夫のフェルナンド王)にちなんで、この島を「サン・サルバドル島」と命名した。

 


新天地へ向かうコロンブスの一行

奇しくも、ユダヤ人大量追放の翌日8月3日に、
コロンブスは、3隻の船でアンダルシアの
港町パロスを西に向かって出航した

 

このコロンブスの功績は、ヨーロッパで迫害を受けていたユダヤ人たちに、彼らの新天地南米にあることを示し、これをきっかけに続々とユダヤ人たちが南米に渡った。そして、原住民インディオによる原始生活の続いていた南米において、彼らは第一次産品である銅・スズ・鉄などの開発に大きな成果を上げ、巨万の富を築いたのである。


●しかし、このユダヤ人たちの南米における経済的成功の知らせは、ヨーロッパに大きなショックを与え、ユダヤ人をヨーロッパの地から追放したスペインやポルトガルは、直ちに南米のユダヤ人の業績を奪取すべく行動を開始。

このため、南米を追われたユダヤ人たちは、中米を経て、今日のアメリカ大陸の東海岸にたどり着くことになる。よって、「アメリカ(北米)へのユダヤ人の渡来」は、一般に1654年にブラジルでの迫害を逃れたマラネン23名が、マンハッタン地区(現ニューヨーク)に定着したのを始まりとしているようだ。



スペイン・ポルトガルの覇権時代がピークを過ぎると、オランダのユダヤ商人たちはアムステルダムを「新エルサレム」と呼び慣わすまでの一大商業地に発展させ、後にはアメリカ大陸のマンハッタン地区を買い取って、「ニューアムステルダム」と名付けるまでに成長した。

ちなみに、買い取ったのはユダヤ資本が25%以上の株を占めていた「東インド会社」で、買い取られた地区「ニューアムステルダム」は後に「ニューヨーク」と名前が変わったが、現在ではユダヤ人(ジュー)が多いことから、「ジューヨーク」と皮肉られていることは有名である。

 

 

 


 

■■第2章:ドイツ系ユダヤ移民のアメリカ流入


●ユダヤ人のアメリカ移住は5波(5つの波)にわたっており、それぞれ出身地と性格を異にしている。

最初にやってきたのは、第1章で紹介したように、カトリック教国のスペインとポルトガルから追放されたユダヤ人(スファラディム)だった。1654年、ブラジルを経由してニューヨークに到着した。

ユダヤ人たちは、インディアンに対する防塞建設のために献金したり、警備隊に参加したりするなど、市民として認めてもらうためにさまざまな努力をつづけた。独立戦争の際には、多くのユダヤ人がワシントンの下で銃をとって参戦している。

 

 

●アメリカ独立後も、州によってユダヤ人に対する扱いは異なっていた。宗教的にこりかたまったマサチューセッツ州はユダヤ人を排除し、逆にメリーランド州は完全な信仰の自由を認めるといった具合だったが、やがてスペイン系ユダヤ人の多くは、企業家としてのたゆまぬ努力によって、しだいに経済的実力を蓄積してゆく。

ロード・アイランドのユダヤ人アーロン・ロペスはタバコと砂糖の輸出業者として成功した。ニューヨークでは「バルーク家」「ラザラス家」「ネイサン家」「コルドーサ家」などが傑出し、「ニューヨーク証券取引所」「コロンビア大学」の創立者になる。

彼らのなかにはキリスト教に改宗して、上流階級と婚姻関係を結んだり、キリスト教徒の排他的な「ユニオン・クラブ」に入会を許された者もいる。

 


コロンビア大学

 

ユダヤ移民の第2波は、1820年から1870年頃まで続く。

これは主にドイツからやって来た。特に1848年の革命の敗北によってアメリカに避難したものが多かったので、彼らは「フォーティエイター」と呼ばれている。


●第1波のスペイン系ユダヤ人が貴族だとすれば、第2波のドイツ系ユダヤ人はたたき上げのブルジョアになった。ニュルンベルク出身のヨセフ・セリグマン、ヴュルツブルクの貧しい鞍作りの息子だったヨセフ・ザックス、ドイツ系スイス人のグッゲンハイムなど。例外はフランクフルトのロスチャイルド家の代理人だったアウグスト・シェーンベルク(のちオーギュスト・ベルモントと名乗る)で、ヨーロッパ風の洗練された貴族的マナーでアメリカ人を魅了した。

 


オーギュスト・ベルモント

1856年に「民主党」の党首にまで
上りつめたあとも、20年間
その地位にとどまった

 

ドイツ系ユダヤ人たちの多くは徒手空拳の街路商人からキャリアを開始した。先住の貴族化したスペイン系ユダヤ人の軽蔑を尻目に、かれらは未開拓の分野に進出する。綿花、銀鉱、金鉱、鉄道、土地投機、そして当時は悪所扱いされていたウォール街。

ドイツ系ユダヤ人は、母国ドイツとヨーロッパ各地のユダヤ系資本とのコネクションを武器として、国際的な資本移動の仲介役として活躍した。鉄道業を中心にした当時のアメリカ国内の主要な企業活動に対する国際的資金調達こそ、彼らの活躍の場となった。ドイツ系ユダヤ人が所有・利権支配した投資銀行は、その後長らく、アメリカ国内の投資銀行業界を二分する勢力のひとつとして栄えた。


●行商人から身を立てためざましい例としては、のちにウォール街で有名になった「ゴールドマン・サックス社」の創業者である、マーカス・ゴールドマンがいる。彼は1848年にフィラデルフィアに上陸して、2年間その地で行商をし、それから衣服店を開いて資金を増やしていったのである。

 

アメリカの有名な大手投資銀行
「ゴールドマン・サックス」は、ドイツ出身の
ユダヤ人マーカス・ゴールドマンによって
1869年に設立された会社である

 

●また、投資銀行業界に次いで、百貨店・通信販売業もドイツ系ユダヤ人が最も威勢をふるった業種である。「R・H・メイシー社」「ブルーミングデール社」「ファイリーン社」「ラザラス社」「リッチ社」「ニーマン・マーカス社」など、今日、アメリカを代表する一流百貨店の相当多くが、ドイツ系ユダヤ移民が設立した小売商店に、その起源を発している。


●フィラデルフィアに腰をすえた「グッゲンハイム家」や、スプリングフィールドとシカゴに本拠を置く「ローゼンウォルド家」(世界一の通信販売会社「シアーズ・ローバック」)などを除くと、たいていのドイツ系ユダヤ人の成功者はニューヨークに集中している。

 


ジュリアス・ローゼンウォルド

「シアーズ・ローバック」社長として
世界一の通信販売会社を築く

 

●1865年に、虎の子の500ドルを手にニューヨークに到着したユダヤ人ヤコブ・シフは、ブローカーとして成功した。1875年にソロモン・ローブの娘と結婚し、「クーン・ローブ商会」の主となる。このユダヤ人金融業者ヤコブ・シフが日露戦争当時、財政難に苦しむ日本政府の発行した国債を一手に引き受けて、日本の窮状を救った話は有名である。

 


(左)ヤコブ・シフ (右)「クーン・ローブ商会」

 

●なお、この時期のドイツ系ユダヤ人の成功例として、ジーンズの発明者であるリーバイ・ストロースの名前を忘れることはできない。リーバイ・ストロース(本名はロブ・シュトラウス)が、故国バイエルンを後にして、サンフランシスコへやってきたのは1853年のことであった。この時、彼は24歳の若者であった。

彼は日用雑貨品を売る仕事についたが、売れ残った「テント用の厚手の布地」から作業ズボンを作るという画期的なアイデアを思いつき、すぐ実行した。すると、またたくまに評判になった。こうして後年、「ジーンズ」と呼ばれる「リーバイスのズボン」が生まれたのである。

彼の「リーバイス社」は、世界で最初の最も有名なジーンズ製造会社となり、今でもジーンズはアメリカを象徴する衣服として若者の間で大人気である。

 


ドイツ系ユダヤ人のリーバイ・ストロース。ジーンズを発明し、
世界で最初のジーンズ製造会社「リーバイス社」を創業した。

 

●さて、ここで、アメリカ・ユダヤ人口の変動を見てみたい。

アメリカ独立当時のアメリカ・ユダヤ人口は、取るに足りない少数であった。独立前夜のアメリカ全人口300万人中、ユダヤ人口は約2500人であったと言われている。たったの2500人である。

その後も、アメリカ・ユダヤ人口の増加ぶりはまことに緩慢で、1840年当時でも総数1万5000人にすぎなかった。


●しかし、スペイン系ユダヤ人(スファラディム)を中心としてきたそれまでのアメリカ・ユダヤ人社会に、ドイツ系ユダヤ人が合流した結果、以後ようやくユダヤ人口も増加が目立ち始めた。1848年には総数5万人、1860年代半ばには20万人に達していた。


●しかし、ドイツ系ユダヤ移民の渡米は長くは続かなかった。1870年以後は急速に衰え、1880年当時でもユダヤ総人口は合計23万にすぎず、アメリカ全人口中の0.5%弱にしかならなかった。

しかも、彼らドイツ系ユダヤ人は、民族・宗教集団として行動することを嫌い、ユダヤ人政治クラブを組織したり、ユダヤ人としての政治見解を表明することなどを特に嫌悪していたのである。彼らは典型的な「同化主義ユダヤ人」であった。彼らが所有する百貨店の経営上の特色は、決してユダヤ色をみせず、あくまで地域社会の文化的・宗教的規範の中に溶け込もうという姿勢を貫くことであった。

 

 


 

■■第3章:大規模な東欧ユダヤ移民の流入とヤコブ・シフらの困惑


●1880年代初頭、アメリカ・ユダヤ人社会史上に決定的な転換期が訪れた。

当時、ロシア国内で始まった「ポグロム」(ユダヤ人迫害)の嵐で、大量の東欧ユダヤ人がアメリカに流入することになったのである。ユダヤ移民の第3波である。まさに、どっと押し寄せてくるという感じでやって来た。

 

 

19世紀末から20世紀初頭にかけて、帝政ロシアでは激しいユダヤ人虐殺が進行したが、このとき殺されたユダヤ人のほとんどはアシュケナジム(いわゆる白人系ユダヤ人)であった。

ヒトラーによるユダヤ人迫害が発生するまで、帝政ロシアは間違いなくユダヤ人が最も大量に殺された国であった(当時のロシアは、世界で最も多くユダヤ人が住む国であった)。「ポグロム」はロシアから東ヨーロッパにかけて大規模に広がり、この結果、多くのユダヤ人がアメリカに渡ってきたのである。

 


↑1903~1906年の主なポグロム発生地

※ 黒海北岸で集中的に発生している。

19世紀末から20世紀初頭にかけて帝政ロシアでは
激しいユダヤ人虐殺が進行した。この帝政ロシアにおける
ユダヤ迫害は「ポグロム」と呼ばれ、このとき殺された
ユダヤ人のほとんどはアシュケナジムであった。



ポグロムで死んだ黒海北岸の都市オデッサのユダヤ人たち

 

●1880年に23万にすぎなかったアメリカ・ユダヤ人口は、1900年にはついに100万を突破した。この間の20年間、アメリカ総人口が1.5倍増であったのに対し、ユダヤ人口は4.4倍に達したのであった。そして、その後も東欧ユダヤ人のアメリカ流入は続いて、20世紀初頭までに総数280万人に達する莫大な数の東欧ユダヤ人がアメリカに流れ込んだのだった。

これにより、世界で一番ユダヤ人が多い国は、徐々にロシアからアメリカにバトンタッチされていくことになる。(東欧ユダヤ人はアメリカ・ユダヤ人口の85%を占めるようになった)。

 


大型の蒸気船に乗って大西洋を越えるユダヤ移民たちの群れ

※ 20世紀初頭までに総数280万人に達する莫大な数の
東欧ユダヤ人が、アメリカに流れ込んだ。これにより、
世界で一番ユダヤ人が多い国は、徐々にロシアから
アメリカにバトンタッチされていくことになる。

 

●ニューヨーク市の中心部に近い移民集住地区「ロワー・イーストサイド地区」は、おびただしい数の移民集団が住み始めて超過密状態になった。1910年時の同地区には54万2000人が居住し、当時そこは、インドのボンベイを除けば地球上で最も人口密度の高い都市空間であったといわれている。

 


20世紀初頭のニューヨーク市「ロワー・イーストサイド地区」の風景
(この地区に東欧系のユダヤ移民の多くが住んでいた)

※ この地区には貧困、過労、貧弱な食事に加えて、過密で
不潔な住居、新鮮な空気と日光の不足など、病気を蔓延させる
あらゆる条件が揃っていた。最も恐れられたのは結核で、この病気は
「ユダヤ病」とか「仕立て屋病」として知られるようになり、1906年の
「ロワー・イーストサイド地区」のユダヤ人の1000人中12人が
結核におかされていた(病人の90%は家で看病されており、
貧しい人々はなかなか病院に行こうとはしなかった)。

 

●アメリカのビジネス・エリート社会において、先着のドイツ系ユダヤ人(西欧ユダヤ人)は、そのたぐいまれな国際的金融コネクションを駆使して投資銀行業界で威勢をふるい、さらに同化主義的でユダヤ教色が希薄であったことから、準ワスプ(WASP)的な“好ましいユダヤ人”としての待遇を獲得していた。

一方、後からやって来たユダヤ教色の強い東欧ユダヤ人(主にロシア系ユダヤ人)は、ワスプから蔑視された。初期の貴族的なスペイン系ユダヤ人や、第2波のドイツ系ユダヤ人と違い、ロシアの寒村やゲットーからやってきて、ニューヨークに住み着いたユダヤ人たちは、いかにも異様だった。

20世紀初頭のアメリカでは、平均的なワスプ系の人々は、当時、移民の大半を占めていた東欧ユダヤ人を、文化的・生物学的に劣等な輩と見下し、アメリカ社会に同化困難な異質な存在とみなしていた。心の奥でそう思うだけでなく、それを態度であらわし、露骨な差別行為を行うことさえ、当時としては珍しくなかった。

 

 

●アメリカの歴史に詳しい野村達朗氏(愛知県立大学外国語学部教授)は、次のように述べている。

「東欧系ユダヤ人はドイツ系ユダヤ人とは著しく異なっていた。中産階級化し、宗教的には改革派ユダヤ教を奉じ、英語を取得して急速なアメリカ化を遂げていたドイツ系ユダヤ人はアッパーイーストサイドやアッパーウェストサイドの優雅なアパートメントに住んだ。これに対して、東欧系はイーディッシュ語を話す正統派のユダヤ教徒で、極めて貧しかった。

両者は風俗習慣も異なり、この時期には別々のコミュニティーを形成した。2つの種類のユダヤ人はそれぞれ『アップタウン・ジュー』『ダウンタウン・ジュー』と呼ばれるようになった。

「東欧系ユダヤ人の移住が増えるにつれ、シナゴーグ(ユダヤ教会堂)は急増した。1917年ニューヨーク市全体では、784の恒久的なシナゴーグと343の一時的シナゴーグがあった。かなり堂々としたシナゴーグもあったが、大部分の会衆は、故郷のシュテートル出身者からなる小さな団体であった。そのような会衆は普通のテネメントハウスを礼拝の場所としてしつらえていた。シナゴーグは同時にクラブハウスであり、信仰熱心なメンバーが聖書を読んだり、故郷の情報を得たり、アメリカについての情報を得たりする溜り場でもあった」

 


(左)「ロワー・イーストサイド地区」に1887年に
建造された壮麗なシナゴーグ(ユダヤ教会堂)
(右)在米の東欧ユダヤ人向けに発行されていた
イーディッシュ語新聞『フォーワード』

 

●ところで、当時、アメリカ・ユダヤ人の中心になっていたヤコブ・シフら従来のユダヤ人指導者は、東欧ユダヤ人の出現によって、在米ユダヤ人の評判が落ちることをかなり深刻に心配していた。『ジューイッシュ・メッセンジャー』紙は、「ロシアに教師団を派遣して、彼らを文明化する」よう提案したほどだ。

先行移民で既に成功者の多かったドイツ系ユダヤ人は、この新たな同胞のみすぼらしさとがさつさに、かつての自分たちを見る思いがし、「カイク(kike)」と呼んで蔑んだ。ドイツ系と違い、東欧系は語尾が「~ky」「~ki」で終わる名前が多かったからだ。

 


アメリカ・ユダヤ人の中心的存在だった
ドイツ系ユダヤ人のヤコブ・シフ

※ 東欧ユダヤ人の出現によって
在米ユダヤ人の評判が落ちること
を心配し、様々な対策を練った

 

ヤコブ・シフは、新来の東欧ユダヤ人への財政的援助を拒否し、彼らがニューヨークに寄り集まる事態を阻止しようとした。そのためオレゴン州ニューオデッサやニュージャージー州に農地を確保して、ユダヤ移民を入植させた。しかし、内部の争いと風紀の乱れのために1887年にこの実験は失敗に終わった。

1894年にはニュージャージー州ウッドパインに農業学校を開設して、新移民の農民化を図った。だが、この学校が1918年に閉校するまでに、本当に農民になった生徒は210人しかいなかった。農民にならなかった生徒のなかには、ストレプトマイシンを発見してノーベル賞を授与されたセルマン・ワクスマンや、避妊用ピルの発明者グレゴリー・ピンカスなどがいる。

 


(左)ストレプトマイシンを発見したセルマン・ワクスマン
(右)避妊用ピルの発明者グレゴリー・ピンカス

 

●東欧ユダヤ人は独特の連帯意識を持ち、宗教的共同体意識がきわめて強かった。それが次から次へとニューヨークに押し寄せてきて、あちこちに黒々とした集団をつくる。非ユダヤ人の目には、奇異で異様な集団として映っていた。

ヤコブ・シフは農場のほかに、南部のガルヴェストンや西部のサンフランシスコヘの移住をすすめたが、なにしろ、後から後からやってくるので、こんな試みも焼け石に水だった。1906年にピンスクの貧しい家具職人の娘、ゴルダ・マボヴィッツがミルウォーキーに着いたのも、この巨大なユダヤ移民の波の一つだった。この少女は、のちにイスラエルの第4代首相ゴルダ・メイアになる。

 


ゴルダ・メイア

 白ロシアのピンスク地区出身で、
イスラエルの第4代首相を務めた

 

このユダヤ移民の第3波は、1924年に終焉を迎える。

アメリカ合衆国が新たに「移民法」を制定して、東ヨーロッパからの移民を制限したためである。

 

 


 

■■第4章:ロシアに残ったユダヤ人と「ロシア革命」のつながり


●ここで少し話が脱線するが、アメリカに移住せずロシアに残ったユダヤ人、とりわけ青年の一部は、帝政ロシアを打ち倒すことによって、自由と権利を得ることこそユダヤ人問題の唯一の解決だとして、革命運動に参加したのであった。

 

 

●ロシア革命直後における共産党員の民族別構成比の統計に目を通すと、次のような現象が見い出される。それは、総人口中の比に対して、ユダヤ人の場合、他と比較して党員中の割合が、かなり高いということである。ロシア革命期に目を転じると、この時期にもユダヤ知識人の革命家が、実に多く存在していたことがわかる。

 


南ウクライナ生まれのユダヤ人
レオン・トロツキー(本名ブロンシュタイン)

※ 10代の頃より革命運動に従事し、最初の逮捕と亡命後、
第一次ロシア革命で指導的役割を果たす。後にレーニンの右腕となり、
レーニン率いる暴力革命派(ボルシェヴィキ)と共闘、「赤軍」の創設者および
指揮官として活躍する。1924年にレーニンが死去すると、スターリンが
台頭しトロツキーと対立。政治力に長けたスターリンが勝利すると、
トロツキーは追放され、亡命先のメキシコで暗殺された。

 

●革命指導者だけでなく、革命参加者の中にも多数のユダヤ青年が存在していた。妻がユダヤ人か貴族か大金持ちか少数民族。該当しないのはカリーニンとルイコフくらいだった。

政治局員クラスでは以下の人物が挙げられる。

ジノビエフ(ユダヤ人)
カーメネフ(ユダヤ人)
ブハーリン(ロシア人、妻がユダヤ人)
スヴェルドロフ(ユダヤ人)
クイブイシェフ(ウクライナ人、秘書がユダヤ人)
ヴォロダルスキー(ユダヤ人)
ウリツキー(ユダヤ人)
ルイコフ(ロシア人)
カリーニン(ロシア人)
ソコリニコフ(ユダヤ人)
ラデック(ユダヤ人)

 


ロシア革命当時、ヨーロッパで出された
11人の共産党指導者たち

 

●一般にレーニンはユダヤ人ではないとされるが、祖母はそうだとされ、妻のクルースプカヤはユダヤ人であった。(また、ユダヤ人ジノビエフはレーニンの腹心中の腹心となり、レーニンの原稿を代筆するまでになっていた)。共産主義を唱えたカール・マルクスもユダヤ人であった。ユダヤ人と共産主義の関係は想像以上に深い。

 


(左)ウラジーミル・レーニン(本名ウリヤノフ)
(右)カール・マルクス(本名モルデカイ)

 

●1920年にイギリスで発行された『ユニティ・オブ・ロシア』は、ロシア革命で政権を握った中枢や政治組織の中に、いかに多くのユダヤ人たちがいたかということを伝えている。実に85%がユダヤ人である。また、イギリスの新聞『モーニング・ポスト』紙がロシア革命直後に掲載した革命の中心メンバーの一覧表によると、50人中44人までがユダヤ人である。

この時期にはさらに、ユダヤ人によって創立された労働運動の母体であるリトアニア・ポーランド・ロシア・ユダヤ人労働者総同盟「ブント」、また、ユダヤ人社会主義労働者党、社会民主主義労働党などの、ユダヤ人による社会主義、民主主義諸政党も盛んに活動していた。


一方、アメリカのユダヤ人社会は、ロシアのユダヤ人革命家たちに多額の援助を与えていた。例えば、ヤコブ・シフは、トロツキーらを通じて当時の金で1200万ドルという巨費を出している(トロツキーは2番目の妻が「クーン・ローブ商会」と親類関係にあった)。

第2章で触れたように、ヤコブ・シフは日露戦争の時、日本を支援してくれた。

この話は日本では「美談」として広く知られている。しかし、彼の第一の目的は、当時、世界最大の反ユダヤ国家であった帝政ロシアを打ち倒すことにあったのだ。

※ このヤコブ・シフが日本をサポートしてくれた話は、司馬遼太郎の名作『坂の上の雲』(文芸春秋)の第4巻で紹介されている。

 


(左)アメリカ・ユダヤ人の中心的存在だったユダヤ人金融業者ヤコブ・シフ。
日露戦争の時に日本を資金援助した。(中)「クーン・ローブ商会」
(右)司馬遼太郎が書いた歴史小説『坂の上の雲』(文藝春秋)
 (この本の第4巻にヤコブ・シフが登場している)。



勲一等旭日大綬章

日本政府は「日露戦争」勝利の功績に
報いるため、1906年にヤコブ・シフを
日本に招いて、明治天皇が午餐会を催し、
シフ夫妻を拝謁。「勲一等旭日大綬章」
という勲章をシフに授与している。

※ 明治天皇が民間人である
外国人に陪食を賜ったのは
シフが初めてだった。

 

●ちなみにレーニンは、1918年7月4日に「反ユダヤ運動撲滅に関する告示」を公布し、同年、赤軍に対して次のような演説を行っている。

「反ユダヤ主義とは、勤労者をして彼らの真の敵、資本家から目をそらせるための資本主義的常套手段にすぎない。ユダヤ人を迫害し、追放せる憎むべきツァー政府よ、呪われてあれ! ユダヤ人に敵対し他民族を憎みたる者よ、呪われてあれ!」

 


ボルシェヴィキの指導者ウラジーミル・レーニンは
1917年11月7日に新政府の樹立に成功した

 

●1917年2月から3月にかけて革命が成功したことで、一切の制限にようやく終止策が打たれた。ユダヤ人はロシアの平等な権利を有する市民となった。

ロシア革命以後しばらくの間、国内のユダヤ人は法的な面ではかつてなかったほどうまくいっていた。ユダヤ人は都市住民の8%、商人の20%、手工業者の40%を占めるようになっていた。

しかし、スターリンの権力体制への移行にともない、情勢はふたたび急変した。個人企業家は全面的に禁止された。多数のユダヤ人が階級の敵であると宣告された。彼らは選挙権を失い、高等教育を受ける権利や医療を受ける権利、食料切符を受ける権利を失った。

 


ソ連のヨシフ・スターリン

 

ちなみに、親ユダヤ主義者であったアメリカのウッドロー・ウィルソン大統領とイギリスのウィンストン・チャーチル首相(古くからユダヤ人の知り合いを多く持ち、シオニズム運動に感銘を受けてイギリス政界で真っ先にシオニズム支持者になった政治家)は、「ロシア革命」を「ユダヤ人が指導した革命」と言っていたが、

ロシア革命は単なる「ユダヤの陰謀」ではない。「ユダヤ人の解放運動」だったのである。そういう側面が強かったのである。これは否定できない事実である。

 


(左)第28代アメリカ大統領ウッドロー・ウィルソン
(右)イギリスのウィンストン・チャーチル首相

 

●参考までに、前出の野村達朗氏(愛知県立大学外国語学部教授)は次のように述べている。

「1917年初め、アメリカに移民した東欧ユダヤ人は、ロシアで起こった2月革命の報に歓喜した。憎むべきツァーリズムの崩壊とボルシェヴィキの権力掌握までの時期、ニューヨークのユダヤ人社会は、市内における社会党選挙戦とあいまって、政治的熱狂に沸き立った。社会主義者たちはボルシェヴィキの10月革命を歓迎した。ジョン・リードが『世界を揺るがした10日間』でロシア革命の実際を伝え、革命的友愛の感情が左翼の心をとらえた。ヒルキットさえも1921年の著書『マルクスからレーニンへ』の中で、民主主義と両立できるものとして『プロレタリア独裁』を支持した」

「ユダヤ人の間にはロシアに帰って新社会の建設に参加しようという運動が起こった。1917年から1920年にかけて2万人以上のユダヤ人がアメリカを離れた。しかし圧倒的多数はアメリカにとどまった。200万の東欧ユダヤ人は既にアメリカに根をおろしていたからである」

「東欧ユダヤ人にとってニューヨークは『約束の都市』であり、アメリカは『約束の土地』であった。1881年にロシアで起きたアレクサンドル2世の暗殺の余波としての東欧ユダヤ人の大移住の開始から、第二次世界大戦へのアメリカの参戦の頃までの時期は60年間である。この間に東欧系ユダヤ移民の世代は巨大な変化を体験した。

彼らは『東欧ユダヤ人』から『東欧系ユダヤ移民』となり、最後に『ユダヤ系アメリカ人』となったのである」

 

 


 

■■第5章:米ソ首脳を動かしたユダヤ人大富豪アーマンド・ハマー


●ところで、「ドクター・ハマー」の愛称で知られるユダヤ人大富豪アーマンド・ハマーは1898年、ニューヨークのロシア系ユダヤ人の家に生まれた男だが、彼の父親は熱烈な共産主義者で、「アメリカ共産党」の元となった「社会主義労働党」の創設者であった。

 


アーマンド・ハマー
(1898~1990年)

ロシア系ユダヤ人の家に生まれた彼は、
医師の資格を持つ事から「ドクター・ハマー」
の愛称で知られる。モスクワ滞在中にソ連最高幹部
と親密な関係を結び、東西両陣営を股にかけて活躍し、
米ソ外交の“影の主役”として歴史に名を残している。

※ 彼の伝記作家によれば、「アーマンド・ハマー
(Armand Hammer)」の名前は共産主義の
シンボルの鎌(アーム)とハンマーを
もじって命名されたという。

 

●ハマーはコロンビア大学で「医学博士」の学位をとったが、父親の祖国でロシア革命が成功すると、単身ソ連に渡り、革命軍の医療班に身を投じた

そんなハマーを知ったレーニンは、彼をクレムリンに招いて丁重な礼を述べたという。ハマーはこの時、アメリカの余剰穀物をソ連に送ることを約束し、その代わりにロシア産の毛皮、キャビア、美術品、宝石などの特産物をアメリカに輸入したいと提案した。

レーニンはこの申し出を感動をもって受け入れたという。

 


『フォーブス』の表紙を
飾ったアーマンド・ハマー

 

●これがロシア革命以後、ソ連が初めて西側と行った貿易であると言われる。

その後、商魂たくましいハマーは米国産穀物をソ連へ送り込みながら、「フォード社」の代理人としてソ連にフォード車を売り込み、トラクターの組み立て工場も建設した。

 

 

●ハマーは東西冷戦終結後の1990年12月に92歳で死去するまで、70年にわたって米ソ間を数え切れないほど旅し、ソ連のトップとアメリカの指導層を結びつけた。

ハマーはレーニン、トロツキーからブレジネフ、ゴルバチョフまで歴代ソ連指導者と直に電話一本で話が出来る男として知られ、ニクソンやカーター、レーガンなどのアメリカの指導者とも個人的な友好を結び、デタントの陰の立役者になるなど、その影響力をビジネスだけでなく政治や外交にもふんだんに発揮した。

 


1987年に出版された
自伝『ドクター・ハマー ~
私はなぜ米ソ首脳を動かすのか』
アーマンド・ハマー著(ダイヤモンド社)

※ ハマーは自家用ジェット機で世界中を
 飛び回り、世界各地でVIP待遇を受け、
「私的な外交官」として活躍した。

 

●さて、本当はここでもっとこのロシア(旧ソ連)のユダヤ人の歴史について詳しく説明したいところだが、これ以上深入りするとこのファイルのテーマから大きく外れてしまうので、ここらへんでやめにしておきます。m(_ _)m

ロシアのユダヤ人と「ロシア革命」の実態についてもっと詳しく知りたい方は、
当館4階の「ロシアのユダヤ人」のページをご覧下さい。

 

 


 

■■第6章:ユダヤ移民の第4波


●アメリカヘのユダヤ移民の第4波は、1933年のナチス・ドイツの成立とともに始まった。ドイツとオーストリアから25万のユダヤ人がアメリカに来た。

 


アドルフ・ヒトラー(1889~1945年)

1933年に43歳の若さでドイツ首相に選ばれ、
翌年に大統領と首相を統合した「総統」職に就任した

 

●当時、アメリカは移民の受け入れを制限していたので、数はそれほど多くはない。しかし、この時やってきた人々には科学者、作家などが多く、アルベルト・アインシュタインなど、20世紀を代表する知識人が混じっていたのが大きな特徴であった。

 


(左)アルベルト・アインシュタイン博士
(右)ドイツの小説家トーマス・マンと妻のカタリーナ

反ナチスの闘士として知られるトーマス・マンは、1929年に
ノーベル文学賞を受賞したドイツの小説家である。トーマス・マン自身は
ユダヤ人ではなかったが、妻のカタリーナがユダヤ系の数学教授の娘だった。

早くからナチスの台頭に危惧を抱いていたトーマス・マンは、ヒトラー政権の
誕生後、ミュンヘン大学で講演し、ヒトラーによるワーグナー偶像化を厳しく
批判した。そのため国外追放にあい、亡命生活を強いられる。彼は講演や
ラジオ放送を通じてヒトラー打倒を訴え続け、アメリカ移住後はドイツ
とオーストリアからの亡命者を支援した。戦後になっても祖国ドイツ
に戻ることはせず、ナチスに抵抗した作家として栄光に包まれ
ながら1955年に80歳の生涯を閉じたのであった。

 

知的職業に進出するユダヤ人は、ただでさえ多いというのに、このユダヤ移民の第4波によって、アメリカのアカデミズムはユダヤ人の聖域と化した。

自然科学においても、人文・社会科学においても。例えば、アラブ諸国の留学生が自国の歴史や文化を研究しようと思って、ハーバード大学、プリンストン大学、コロンビア大学などの中近東研究所に入ったとしても、そこの研究スタッフはがっちりとユダヤ人で占められているというわけだ。


●多くのドイツ系ユダヤ知識人がヨーロッパを去ることによってできた空白は、はっきり感じられた。例えば、1901年から1939年までの38年間に、物理学、化学、医学の分野でノーベル賞を受けたアメリカ人の数はわずか14人だった。ところが、1943年から1955年までの13年間、つまりドイツ系ユダヤ人たちがアメリカへ逃げてからは、この分野でノーベル賞を受けたアメリカ人は29人にものぼった。

ドイツではちょうど逆の現象が起きた。最初の38年間にはドイツは35人の受賞者を出したが、次の13年間には、ただの5人である。


●ドイツの著名な歴史研究家であるセバスチャン・ハフナー(ユダヤ人)は、著書『ヒトラー注釈』の中で、次のように述べている。

「ヒトラーの反ユダヤ主義によって、ドイツの科学がこうむった頭脳の流失は相当のものだった。アインシュタインを初めとしてユダヤ人の科学者が亡命しただけではなく、ユダヤ人でない著名な科学者もユダヤ人の同僚や教師のあとを追った。そしてそれまで群をなしてドイツ参りをしていた外国の科学者も来なくなった。

ヒトラー以前には核物理学の研究では世界の中心はゲッティンゲンだった。それが1933年にアメリカに移った。ヒトラーの反ユダヤ主義がなかったら、アメリカではなく、ドイツが最初に原子爆弾を開発する国になったかもしれないというのはなかなか興味をそそる推測である。」

 


(左)ユダヤ人ジャーナリストであるセバスチャン・ハフナー
(右)彼の著書『ヒトラー注釈』(この本以外にも
彼は数多くの歴史書を書いている)

 

●ところで、アメリカのユダヤ人口は1925年で380万人、第二次世界大戦中の1940年時点で480万人となり、世界一のユダヤ人社会となった。

現在、世界のユダヤ人総人口は約1400万人、そのうち大ざっぱに言うと約600万がアメリカ、約500万がイスラエル、約100万が旧ソ連に居住し、フランス、イギリス、カナダ、アルゼンチンに数十万単位、残りは数十から数万の単位で世界の国々に分散している。つまり約43%のユダヤ人が、アメリカ市民になっているのだ。

ただし、アメリカ・ユダヤ人の対全国人口比率は、1937年の3.7%をピークとして以後低下傾向を見せ、現在は2.7%に後退している。現在の人口規模は約600万人であるが、このうちの95%は都市に居住し、ニューヨーク(172万)、ロサンゼルス(50万)、フィラデルフィアとマイアミ(各25万)、ボストン(17万)、ワシントン(16万)のほか10万台の都市が7つある。

 

 

●また、ユダヤ人社会は多様であり、決して一枚岩的な生活をしているわけではない。ユダヤ教内でも幾つかの宗派に分かれ、それらのシナゴーグ(ユダヤ教会堂)を中心としたコミュニティの数は、保守派830、改革派750、正統派2500(規模は小さい)となっている。けれども今日、アメリカのユダヤ人の半分ほどはシナゴーグに行かず、コミュニティ活動に関心を払わないと言われている。

教育面ではエシバ大学、ヘブルー・ユニオンカレッジがユダヤ教の神学大学として著名であり、ブランダイス大学もユダヤ系の学校として創設されたが、現在は他民族の学生も在学し、ユダヤ的というわけではない。その反面、アメリカの諸大学が1960年代初めからユダヤ関連の学問を導入するところが増え、いま300校がユダヤ学科をもっている。


●全体として、ユダヤ人差別が完全に払拭されたわけではないが、ユダヤ人社会は社会的に認知され、少数派集団の中では最もたくましく躍動的であるといえよう。ただし一方では、一般社会への「同化」という別の悩みもある。ユダヤ教徒外との結婚が、1960年代の12%から現在は50%を超えるまでになっているという。また、他のエスニック集団と比べ全般的に出生率が低く、65歳以上の年齢層が多くて老齢化の傾向を示しているともされる。

このため、21世紀の半ばにはユダヤ人は1万人くらいになるだろうという大胆な予測まで出ている。

 

 


 

■■第7章:ユダヤ移民の第5波


●イスラエル共和国は、1967年6月の「6日戦争」(第三次中東戦争)以来、ヨルダン川西岸およびガザ地区を占領し続けている。

その結果多くのパレスチナ人たちを国内に抱えるようになり、イスラエルの指導者たちは、数十年後にパレスチナ人たちのほうがユダヤ人よりも多くなるのではないかと懸念し始めた。

 


ソ連の軍高官と秘密会議を開いて、
ソ連のユダヤ人をイスラエルに移住させる
計画を立てたシャロン国防相

 

●そこで、イスラエルのシャロン国防相は、ソ連の軍高官と密かに接触。1981年に開かれたイスラエルとソ連の秘密会議で、アラブ人口とユダヤ人口の逆転を防ぐため、ソ連からの出国ユダヤ人たちを住まわせようという計画が立てられた。

ソ連政府は120万人にのぼるロシア系ユダヤ人を送り出して、1989年から2010年の間にイスラエルの西岸地区へ移民させることに同意した。


1989年12月、マルタ島で米ソ首脳会談が行われた。この「マルタ会談」では、ゴルバチョフ書記長が東欧の民主化を保証する代わりに、ブッシュ大統領はソ連に「最恵国待遇」を与え、対ソ経済協力を約束した。そのとき、アメリカ側が出した条件が、ソ連からの出国の自由化。つまり、ソ連にいるユダヤ人の国外移住に制限を加えないというものだった。アメリカ内で強力な勢力を有するシオニスト・ユダヤ人たちの要求を代弁したのである。

このマルタ会談により、ソ連の自由化は急速に進み、実質の伴わない民主化から、ソ連邦はついに崩壊。その結果、ロシア系ユダヤ人のイスラエルヘの移民は急増する。

ちなみにこの時、ゴルバチョフは、「自分は、(エジプトからイスラエル民族を解放した)モーセになったような気分だ」と語っている。

 


1989年、マルタ島で米ソ首脳会談をした
ブッシュ大統領とゴルバチョフ書記長

 

●1989年1月のソ連の国勢調査によれば、ユダヤ人の人口は145万人であったが、7万人が年末までに出国移住し、そのうちの6万人がアメリカへ移住した(「第5波」)。1990年から1993年の間に、58万人のユダヤ人がソ連を去り、その80%はイスラエルへ移住した。これは1993年までに、ソ連のユダヤ人のなんと45%が出国移住したことを意味している。

その後の移住者は減少したが、およそ54万人のユダヤ人が1989年から1997年の間にソ連からイスラエルへ移住し、1971年から1989年の間にソ連から移住していた15万人のユダヤ人に加わった。ソ連に残ったユダヤ人は、そのほとんどがロシアとウクライナに居住し、その数はロシアに34万人、ウクライナに16万人である。グルジア、リトアニア、ベラルーシおよび中央アジア諸国のユダヤ人口は急激に減少した。

 


ソ連からの出国を求めるロシア系ユダヤ人

 

このように、1980年代後半から1990年代半ばまでに、膨大な数のユダヤ人が他のどの国よりもソ連からイスラエルへ移住したのである。

もちろんこれは、イスラエル政府やシオニスト組織(メイア・カハネのJDLなど)による積極的な働きかけがあったためであることは言うまでもない。ソ連国内にはユダヤ機関の事務所が19ヶ所作られ、ユダヤ人移民送り出し活動を支えた。


●しかし、ソ連からイスラエルに来て、イスラエルに失望するユダヤ人が少なくない。イスラエルではロシア系ユダヤ人の増加で、住宅不足が起き、都市においては家賃は倍以上にはね上がり、数ヶ月分の前払いをしなければ出て行くことを要求する家主が現れている。

また、当然、失業率は高くなり、かつてはアラブ人の仕事だった道路掃除や建設現場などの肉体労働にロシア系ユダヤ人の医者や学者が従事している。NHKでも元ソ連のオーケストラの指揮者が街頭で楽器演奏をして、その日の糧を得ている様子をテレビ報道したほどである。中にはホームレスになる人も出ているという。

 


ロシア系ユダヤ人の入植地(イスラエル)

 

ロシア系ユダヤ移民の急増で、アラブ人は職を追われ、新たなユダヤ・アラブの対立が生まれている。

現在も、イスラエル政府は積極的な「入植政策」を行っているが、増え続けるロシア系ユダヤ人のために占領地に鉄筋コンクリートの頑丈な住宅を増築して、パレスチナ問題を一層解決困難な状態に導いてしまっている。

 

─ 完 ─

 



── 当館作成の関連ファイル ──

古代ローマ帝国とユダヤ人の悲劇 

アメリカのビジネス界で活躍するユダヤ人たち 

スファラディ系とアシュケナジー系の2つの異なるユダヤ人の実態 

 


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