No.a6fhd250

作成 1998.3

 

スファラディ系ユダヤ人と
アシュケナジー系ユダヤ人


〜 スファラディ系ユダヤ人の現実 〜

 

 

当館が1996年に作成した「ユダヤ問題特集」(全10章)では、スファラディ系ユダヤ人と右派政党(リクード党)の関係について説明不足だったため、パレスチナ問題の分析に甘さが出ていた。

今回、このファイルでは、イスラエル国内におけるスファラディ系ユダヤ人の現状についてさらに詳しく考察して、「ユダヤ問題特集」で抜け落ちていた部分を大いに補いたいと思う。

 

 

 

第1章
スファラディ系ユダヤ人と
アシュケナジー系ユダヤ人の格差
第2章
スファラディムと
右派政党(リクード党)
第3章
ラビン首相暗殺事件
第4章
ナショナリズムを
強めつつあるスファラディム

おまけ
今日、右翼政党の支持基盤となって
いるのはスファラディムである
おまけ
アジア・アフリカ系ユダヤ人
「ミズラヒム」

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■■第1章:スファラディ系ユダヤ人(スファラディム)とアシュケナジー系ユダヤ人(アシュケナジーム)の格差


●1967年の6日戦争(第三次中東戦争)後の経済的繁栄と資本主義的発展にともなって、イスラエルでは急激な社会的変化が表面化した。二代目、三代目の若者達が、清教徒的態度で国造りに励んできた初代開拓者たちにとって想像を絶したラディカルな造反を起こしたのである。

シオニズムによって建てられたイスラエルの指導者階級は、ロシア、ポーランドを中心とする東欧系ユダヤ人(アシュケナジーム)とその子孫である。これに対し中東と北アフリカのアラブ諸国から難民として流入してきたユダヤ人(スファラディム)は、イスラエル社会の底辺を形成する。建国直後は全員貧しかったため問題はなかったが、イスラエルが経済的成長を遂げると両者間のギャップは社会的差別となって表面化した。


●この「スファラディム」とは、ヘブライ語で「スペイン」の意味。本来はイベリア半島のユダヤ人共同体のことを指し、アジア・アフリカ系は東洋系(オリエンタル)という。

しかし、現在ではアジア・アフリカ系すべてを、欧米系のアシュケナジームに対比させてスファラディムと総称することが多い。その出身国は、北西アフリカ、モロッコ、アルジェリア、チュニジア、リビア、イラク、イラン、イエメン、シリア、インドなど広範囲にまたがっており、決して一つの共同体というわけではない。



●現在、イスラエルのテルアビブの北半分は高級住宅街。一流専門店が軒を連ね、街並みはヨーロッパ風である。そして、住民のほとんどはヨーロッパ出身のアシュケナジームである。これに対し南半分は、シシカバブ(羊の焼肉)の煙が漂い、アラビア語さえ飛び交う非ヨーロッパ系ユダヤ人の密集地で、一部ではスラム化している。“南北格差”に南の住民が怒りをぶちまけるのも当然といえる状況なのである。

欧州からやってきたアシュケナジー系ユダヤ人は「エレツ・イスラエル(イスラエルの土地)にユダヤ人国家を復興させる」という高い理念に燃えていた。キブツ(社会主義的ユダヤ人共同体)運動の実践もこの人達である。

しかし、スファラディ系ユダヤ人はこの種のイデオロギーにはあまり共鳴せず、すでに築かれたイスラエルの都市周辺部に吹きだまりのように引き寄せられていった。彼らは、戦争の際には最前線に送られ、戦時ではなく平時には、国境近く、あるいはまた占領地などを開拓するために、イスラエルに集められたのであった。


●現在もイスラエル政府の要職についている人間は、ほとんどがアシュケナジー系ユダヤ人であり、イスラエル国内は支配する立場のアシュケナジー系、支配される側のスファラディ系という二重構造になっている。政治家や学者、医者などにはアシュケナジー系が多い。その反面、肉体労働者にはスファラディ系が多く、彼らのほとんどは経済的に貧しく、下積み状態(二級市民扱い)に置かれている。

ちなみに、ユダヤ教自体もアシュケナジー系とスファラディ系とに区分されており、同じ町に住んでいても異なったシナゴーグ(ユダヤ教会堂)へ足を向けることになっている。

 


イスラエルに移民したユダヤ人たち(出身地別統計)


上の表はイスラエルに移民してきたユダヤ人たちの出身地別統計である。
これを見れば一目瞭然。イスラエル建国とともに、どっとイスラエルに流れ
込んできた人たちは、ヨーロッパ出身の「アシュケナジー系ユダヤ人」である。

しかし、1951年頃から形勢が変わる。1951年から1956年にかけて、
続々としてアジア・アフリカ出身のユダヤ人たち、すなわち「スファラディ系ユダヤ人」たちが
イスラエルに入ってきたのである。彼らは1492年すなわちスペインから追放されて以来、
北アフリカおよびアラビア半島のアラブ諸国で生活してきた人々である。彼らはイスラエル建国の
ニュースを聞き、あたかも『旧約聖書』の預言の成就であるかのごとくにして、
希望を持ってイスラエルに帰ってきたのであった。



アラブ諸国からのユダヤ難民(1948年5月〜1967年12月)

イスラエルのユダヤ人口に占めるアシュケナジー系と
スファラディ系の比率は1972年に逆転し、以後、
スファラディ系の占める割合が増加している

 

●東京大学教授の鶴木眞氏は、著書『真実のイスラエル』(同友館)の中で次のように述べている。

「現在、イスラエル社会には、異なる民族的特徴を持つ2つのユダヤ人集団が存在する。

1つはヨーロッパ系ユダヤ人集団であり、もう1つはアジア・アフリカ系ユダヤ人集団である。ふつう前者は『アシュケナジー系』と呼ばれ、後者は『スファラディ系』と呼ばれている。この2つのユダヤ人集団の区別は、ユダヤ人の流浪の歴史と深い関係がある。 〈中略〉

ところで、厳密にいえば、アジア・アフリカ系ユダヤ人を一括してスファラディ系と呼ぶのは正しくない。なぜなら、ユダヤ人がパレスチナを離れた歴史は一度だけでなく、大きなものを拾っても、紀元前7世紀のアッシリアによるイスラエル王国の滅亡、紀元前6世紀の新バビロニアによるユダ王国の崩壊などの結果、紀元1世紀のローマ帝国によるパレスチナからのユダヤ人追放の前に、すでにインドを含めた中央アジア、中東、北アフリカ、イエメンには、流浪の民としてのユダヤ人社会が存在していた。

したがって、アジア・アフリカ系ユダヤ人のすべてがイベリア半島系のユダヤ人すなわちスファラディ系とはいえない。しかし、今日一般には、スファラディ系とアジア・アフリカ系とが、同義語として使われている。その理由は、アジア・アフリカ系ユダヤ人の祈祷形態がスペインで発展した教義に強く影響されているため、また現在のイスラエル社会でアシュケナジー系以外のユダヤ人を一括して呼ぶ名称が必要なためである。


「1948年には、83万7000人ほどのスファラディ系ユダヤ人がアラブ諸国に住んでいたと推計されるが、1973年にはわずか5万人以下となっている。アラブ諸国に住んでいたスファラディ系ユダヤ人のうち、80%以上が独立後のイスラエルに流入した。このため、パレスチナのユダヤ人社会の横顔(プロフィール)は、イスラエル独立の前と後で大きく違った。 〈中略〉

都市にしろ、モシャブにしろ、キブツにしろ、スファラディ系の人々がアジア・アフリカの諸国からイスラエルへ移住したとき、立地条件がよく安全度の高い地域は、すでにアシュケナジー系の人々に握られていた。スファラディ系の人々の大部分は、社会的にも地理的にも末梢なところに置かれたのである。」

 


『真実のイスラエル』
鶴木眞著(同友館)

 

●さらに、鶴木眞氏(東京大学教授)は次のように述べている。

「このように、イスラエルのユダヤ人社会は、2つの異なるユダヤ人集団から形成されているといえよう。アシュケナジー系の人が、どんなにスファラディ系のシナゴーグ(ユダヤ教会)の近くに住んでいても、決してそこにお祈りに行くことはないし、またその逆も然りである。聖書の読み方や賛美歌のメロディーなど全くちがう。宗教のことは気にとめないと言っているユダヤ人も、ヨム・キプール(贖罪日)やペサハ(過越の祭)などの重要な祭日には、にわかに宗教的になる者が多い。

私(鶴木)は、ふだんは宗教離れしているアシュケナジー系の夫とスファラディ系の妻の家庭で、ペサハのときにコメを食べてよいかどうかをめぐり、たいへんな論争をしているのを見て驚いた。夫はダメだといい、妻は食べることができると反論し、互いの主張を頑として譲らなかった。

アシュケナジー系とスファラディ系の2つのユダヤ人集団の間には、流浪の歴史を通じて結婚などの人的交流はほとんどなかったのである。



●また、イスラエルと聖書の問題に詳しいある研究家も、次のように述べている。

「建国当初、1961年頃のアシュケナジームとスファラディムの結婚率はたったの12%程度で、スファラディムとアシュケナジームが融合することは非常に少なかった。

一般的にスファラディムの夫とアシュケナジームの妻という夫婦がいた場合、もしその娘にボーイフレンドが出来たとすれば、スファラディムの父はそれをふしだらなことだと感じるが、アシュケナジームの母はそれを当然のことのように感じると言われる。

彼らは同じユダヤ人であると言いながら、西と東という全く異なる文化圏で生活した、全く異なる人々なのである」

「アシュケナジームとスファラディムは、社会的な階級という意味でも対照的な存在であると同時に、宗教的にも2つの異なる勢力を形成している。もちろん双方ともユダヤ教に変わりはないが、彼らの通うシナゴーグ(ユダヤ教会堂)も2つに分かれている。チーフ・ラビ(ユダヤ教の教師)たちもまた別々に存在している。

アシュケナジームには、ユダヤ教の戒律などを厳しく守ることを重視しない改革派系のユダヤ教徒が多い。彼らの中にはトーラーと呼ばれるモーセの律法を信じない者さえ多い。一方、スファラディムには、オーソドックス(正統派)と呼ばれる、厳格で律法主義的な慣習の中に生きている人々が多いのである」



ところで、イスラエル指導者たちはアラブ世界に激しい偏見を持つのみならず、アラブで染まったスファラディ系ユダヤ人たちを“下等民族”とみなす傾向にある。

例えばイスラエルの初代首相デイビッド・ベングリオンは以下のような発言をしていた。

「モロッコから来たユダヤ人は何の教育も受けていない。彼らの習慣はアラブ的である。私が好きではないモロッコ文化がここにある。私たちはイスラエル人がアラブ的になって欲しくない。私たちは個人と社会を破壊してしまう『レバント(東地中海沿岸地方)精神』と戦い、ディアスポラ(離散)のなかで作り上げて来た本当のユダヤ的な価値を維持しなければならない」

 


イスラエルの初代首相
デイビッド・ベングリオン

 

●イスラエル第4代首相ゴルダ・メイアは、スファラディ系ユダヤ人に対して人種差別的な傲慢さを明らかにした。

「私たちはモロッコ、リビア、エジプトその他のアラブ諸国からのユダヤ移民を抱えている。私たちはこれらのユダヤ移民たちを適切な文化レベルまで引き上げてやらなければならない」

 


白ロシアのピンスク地区出身の
ゴルダ・メイア。イスラエルの
第4代首相を務めた。

 

●イスラエル外相を務めたアバ・エバンは、スファラディ系ユダヤ人とアラブ世界に対する偏見をはっきりと言い表していた。

「私たちが自分たちの文化的状況を見るにつけ、心痛むことが一つある。それはアラブ諸国からやってきたユダヤ移民たちが、やがて優位に立ってイスラエル政府に圧力をかけることになり、隣国すなわちアラブ諸国の文化レベルにまで落としてしまわないかということである」

 


イスラエルのアシュケナジー系の政治家が、スファラディ系ユダヤ人に対して
「差別発言」をしたことを伝える記事(1997年8月3日 『朝日新聞』)

 

●ところで、かつてイスラエルで活躍したジャーナリストにナイム・ギラディという男がいる。

彼は典型的なスファラディム(スファラディ系ユダヤ人)で、建国と同時にアラブ世界からイスラエルに移住した。しかし彼が目にしたものは、思いもつかない想像を絶するイスラエルの現状であったという。彼は見たこともないユダヤ人と称する人々(東欧系白人/アシュケナジーム)を見て大変とまどったという。

イスラエル国内ではスファラディムは二級市民に落とされているが、彼はその二級市民の代表として、イスラエルであらゆる運動を展開した。幾度も刑務所につながれたこともあったという。しかし一貫して彼は本当のユダヤ人とは何かを主張し続けた。本当のユダヤ人に対する住宅、社会生活、就職などの改善を訴え続けたのであった。

 

 
(左)元イスラエルのユダヤ人ジャーナリスト
ナイム・ギラディ。彼は典型的なスファラディムである。
(右)彼の著書『ベングリオンの犯罪』

 

●彼は、1992年秋、スファラディムを代表する一人として日本各地を講演して回った。

彼は講演で次のように語った。

「イスラエルでは本当のユダヤ人たちが、どれほど惨めな生活を強いられていることか……アシュケナジームを名乗るハザール系ユダヤ人たちが、スファラディムすなわちアブラハムの子孫たちを二級市民に叩き落としているのである。

……まだイスラエルにいた当時、私はパレスチナ人たちに向かって次のように演説した。『あなたがたは自分たちをイスラエルにおける二級市民と言っているが、実はあなたがたは二級ではなく三級市民なのである。なぜならば、アシュケナジームとあなたがたパレスチナ人の間に、私たちスファラディムがいるからだ。そして、私たちもあなたがたと同じように虐げられているのである……』」



●ところで、PLOの初代議長アフマド・シュケイリ

「シオニズムが、アジア・アフリカ諸国にいた、移民する必要のないユダヤ人をイスラエルに移送した」と指摘している。

彼は1963年の「国連総会」での演説で、次のように述べている。

彼ら(スファラディ系ユダヤ人)は、シオニズムによってムチ打たれ、移住させられた

イラク、シリア、エジプト、チュニジア、モロッコなど、アラブ世界のどのようなところでも、ユダヤ人に対する迫害などなかった。だから、彼らは出国する必要などなかったのである」

 


PLO(パレスチナ解放機構)の
初代議長アフマド・シュケイリ

彼は「シオニズムが、アジア・アフリカ諸国にいた
移民する必要のないユダヤ人をイスラエルに
移送した」と指摘している

 

●この件に関して、前出の鶴木眞氏(東京大学教授)は次のように述べている。

「アラブ諸国やパレスチナ解放組織の指導者たちは、スファラディ系ユダヤ人を『ユダヤ教徒のアラブ人』と呼んでいる。アラブ人とユダヤ人は同じセム系の民族であり、アラビア語もヘブライ語も、ともに北西セム語というグループに入れられている。 〈中略〉

アラブ側がスファラディ系の人々を『ユダヤ教徒のアラブ人』と呼び、アシュケナジー系の人々を『ユダヤ教徒の非アラブ人』と呼んで区別するのは、ヨーロッパに起源を持つシオニズムがアラブの世界とは歴史的にも地理的にも無縁なことを強調したいためである。

そしてパレスチナがシオニストの手から解放され、『キリスト教徒もイスラム教徒もユダヤ教徒も平和のうちに祈り、働き、生活し、平等の権利を享受する進歩的、民主主義的、世俗的パレスチナ』が実現したあかつきには、シオニズムを放棄する用意のあるユダヤ人を『ユダヤ教徒のパレスチナ人』として受け入れる意図を再三にわたり表明している。

このアラブ側の主張は、本来シオニズムとは無縁であったスファラディ系ユダヤ人に対する連帯の呼びかけでもあるのだ。」


「このアラブ側からの呼びかけに、シオニストは、スファラディ系の人々を『ユダヤ教徒のアラブ人』ととらえることはできないと強く反論する。つまり、ユダヤ人にとっては宗教と民族は分離できない要素であり、キリスト教徒のアラブ人やイスラム教徒のアラブ人と同列に、『ユダヤ教徒のアラブ人』という人々が存在するとは言えないとしている。」

 

 


 

■■第2章:スファラディムと右派政党(リクード党)


現在、イスラエル社会で“差別されている”と感じているスファラディムであるが、ことアラブ人に関することになると保守強硬派である。

長い間、アラブ・アフリカ世界に身を置き、その影響を強く受けてきただけに、ユダヤ人としての自らの立場を強く守ろうとする傾向はなおさら顕著である。

同時に、スファラディムはアシュケナジー系住民の抑圧を口にしながら、「自分たちこそ聖書の本当の代理人である」という自負心(選民意識)を強めている。

 

 
(左)イスラエル(パレスチナ地方)の地図 (右)イスラエルの国旗

 

●彼らスファラディムは、イスラエル国内では二級市民扱いで、「対アラブの楯」とされてきたため、しょっちゅうパレスチナ・ゲリラの攻撃を受けてきた。彼らは、やられたらやり返せで、自然タカ派的になり、アラブ人に対して対決姿勢を強めてきた。

彼らスファラディムは、昔はアラブ人と共存共栄してきたが、イスラエル建国後、アラブ人との長い闘争を通じて、全パレスチナ領を歴史的イスラエル領だと主張するようになり、イスラエル拡大主義を支持し、白人リクード党との結びつきを強めてきたのである。

(※ イスラエルの二大政党のうち、「労働党」はアシュケナジームを中心とする政党であるが、「リクード党」はスファラディムを支持母体とする「反エリート政党」として存在してきた)。



●中東情勢に詳しいある研究家は、スファラディムと右派政党「リクード党」の関係について次のように述べている。

「アシュケナジームがつくったイスラエルに、スファラディムたちがアラブ諸国から移住してきた。なぜ、彼らはイスラエルに移住してきたのだろうか。アシュケナジームはその後、イスラエルとアラブ諸国がなお激しく衝突することを見通して、スファラディムを必要としたのである。

なぜならばアラブ人とスファラディムとは同じ血を分け合っている。いわば兄弟関係なのである。もし、イスラエルの国境地域にスファラディムを配置するならば、アラブ諸国はイスラエルヘの攻撃に躊躇(ちゅうちょ)を覚えるだろうと考えたのである。そして、アラブ諸国から帰ってきたスファラディムは、国境近くの危険地域に配置されていったのである。

〈中略〉

アシュケナジームはイスラエル建国以来、このような本当のユダヤ人を二級市民に落とし続けてきた。

しかし、そこに異変が起きたのがベギン政権(リクード党)の誕生である。1977年5月のことだった。世界は本当に驚いた。それまでベギンと言えばテロリスト、ヘルートという政党を指導していたタカ派の壮士とされてきた人物である。ベギンは万年野党であり続けるだろうと観測されていたのである。しかし彼はイスラエル首相に当選した。

このベギンという人物が登場していなかったならば、スファラディムは政治的主導権を握ることはあり得なかっただろう。ベギンはアシュケナジームである。しかし、彼はユダヤ教に熱心であり、徹底して強固な信仰心を持っていた。スファラディムはベギンに未来を託して、ベギンを首相に押し上げていった。もちろんリクード党を支持する者の中にはアシュケナジームもいたが、その大多数はスファラディムだったのである」

 


第6代イスラエル首相
メナヘム・ベギン

1970年代まで、イスラエルは
左派の「労働党」の政権が続いていたが、
1973年に右派政党が結集して新政党
「リクード」を作り、1977年には選挙に
勝ってベギン政権が誕生した。

 

●ところで、1981年の選挙結果を分析したA・アリアン教授は、ほぼ、アシュケナジームが左派支持、スファラディムが右派支持という図式が存在していることを明らかにした。

彼はこう述べている。

「スファラディムの約60%がリクード党、30%が社会主義政党の労働党マパム連合に投票したのに対し、アシュケナジームの約60%が労働党マパム連合、30%がリクード党を支持した。また労働党マパム連合の得票の約70%はアシュケナジームから得られたのに対し、リクード党の総得票の65%はスファラディムであった

 

 


 

■■第3章:ラビン首相暗殺事件


●1993年9月、ワシントンで「パレスチナ暫定自治協定(オスロ合意)」が調印されるとともに、イスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長が握手し、世界中が「歴史的な和解」として歓迎した。

 


左から、イスラエルのラビン首相、アメリカのクリントン大統領、
PLOのアラファト議長(1993年9月/ワシントン)

イスラエルとPLOの間で「パレスチナ暫定自治協定(オスロ合意)」が
調印され、PLOはイスラエルが国家として平和と安全の内に存在
する権利を認め、イスラエルはPLOをパレスチナ人の代表として
認めた。ラビン首相とアラファト議長は硬く握手をかわし、
世界中が「歴史的な和解」として歓迎した。

 

●しかし、ユダヤ人側にもパレスチナ人側にもこの和解を歓迎しない勢力がいた。

「妥協はするな! アラブ人に死を! アメリカの援助はいらない! ラビンは裏切り者!

1993年秋、連日のようにエルサレムで和平反対のデモが起きた。

ほとんどは占領地に住むユダヤ人入植者で、「キパ」と呼ぶ小さな被り物を頭に着け、女性は長いスカートをはいていた。若者が多く、時には銃を持つ大人が参加していた。アラファトと握手したラビンが手を洗っているポスターもあった。アラファトと握手したため、手が血まみれになったというのだ。アラファトはテロリストで、手は血だらけだというのである。トーチをかざし、パレスチナの旗を燃やし、規制する警官には「イスラエルは警察国家!」と叫び、国境警備兵が出て、首相官邸のそばで逮捕者も大勢出た。しかし、逮捕者はすぐ釈放された。

 


「オスロ合意」に反対するユダヤ人のデモ集会

中央に「カハネ主義者」の旗が見える

 

●それから2年後の1995年11月4日、世界は震撼した。

イスラエルのラビン首相が暗殺されたのである。

この日、ラビン首相はテルアビブで胸部、腹部の脾臓、背中に3発の銃弾を浴び、意識不明の状態で近くの病院に収容されたが、その日のうちに死亡したのであった。

その犯人は、こともあろうにユダヤ青年(27歳の大学生)であった。その名をイガル・アミールといった。

彼は逮捕されたとき、警察官に向かってこう言った。

「私は神の命令によって単独で行動した。後悔はしていない」

 


1995年11月6日 『読売新聞』

 

犯人のイガル・アミールは、イエメンから移民した父母を持つスファラディムであった。また彼は宗教右派の中でも最も過激なグループの一つ「エヤル」(ユダヤ民族戦闘機関)のメンバーだったのである。

このユダヤ青年からするならば、神が与えてくれた土地をあたかも中東和平の結果、返還していくイスラエル首相ラビンは、「神への裏切り者」と映ったのであろう。

しかしこのユダヤ青年だけが特別にそう感じていたのではない。軍参謀総長として戦争を勝利に導いてきたラビンが、今度は首相としてパレスチナ人との対立終結のため、占領地をパレスチナ自治政府に移管しようとした時、右派のユダヤ人たちはラビンの行為を「ユダヤ人の土地を敵に引き渡す背教的行為」ととらえていたのである。

しかしラビンからすれば、イスラエルという国が、また中東においてユダヤ人が生き残るためには、アラブ諸国そしてパレスチナ人たちとの和平が欠くことのできないものであると考えていたのであった。

 


ラビン首相を暗殺した
イガル・アミール

彼はイエメンから移民した父母を持つ
 スファラディ系ユダヤ青年だった。

※ 事件後、彼は悪びれる様子もなく、
 自分の正当性を堂々と主張した。
 (彼は極右勢力の英雄になった)。

 

●『ニューズウィーク』誌(1995年11月22日号)は、この事件について、次のごとくレポートした。

「11月4日、イスラエル首相を暗殺したイガル・アミール(25)は、テルアビブ郊外のきちんとした家庭に育ち、ユダヤ教正統派の学校で教育を受けた。ここまでは亡き首相の孫娘と同じだ。ただし、学究肌の若者だったアミールは、宗教的にも政治的にもユダヤ教の戒律を絶対視していた。アミールを含むラビン首相暗殺事件の容疑者たちは、自分たちこそ本物のユダヤ教徒だと信じていた

彼らの主張はイスラエル内外の正統派ユダヤ教徒を中心に、かなりの支持を得ている。ニューヨークでは先週、アミールの支援者がダビデの星をかたどったボタンを1個5ドルで売り、『真のユダヤの英雄』の弁護費用を集めていた。

イスラエル国内では、様々な形で首相暗殺の責任を問う声が上がった。ハト派はタカ派の強硬姿勢を槍玉にあげた。極右勢力は、占領地からの撤退を決め、ユダヤ人入植者を裏切ったラビンの自業自得だと主張した。」



●イギリスBBC放送で「ラビン首相暗殺後のイスラエル」が放映された。

その中で、未亡人となったラビン夫人は、暗殺事件の起きる数日前からの出来事を次のように述べている。

「事件の前の最後の金曜日でした。私が家へ帰ると、群衆が笑いながらこう叫んだのです。

今のうちに笑っていろ。そのうち裏切り者として裁判にかけてやる。ムッソリーニと愛人のように、おまえたち夫婦を処刑してやる』と。次の日の夜、同じ場所で追悼集会が開かれることになりました。

主人は雷に打たれて死んだのではありません。人間に殺されたのです。しかもこの土地で育った人間に殺されたのです。この土地には、来る日も来る日も言葉の毒がまき散らされています。主人のことを裏切り者、殺人者と叫ぶことを繰り返しているうちに、事件の下地ができあがっていました。彼を殺すことが神の命令だと思い込む人間が、出てくるべくして出てきたのでした」

「許せる?

いいえ、絶対に許せません。許せないと思う理由は、先ほども言ったとおり、彼らは暴力、敵意、憎悪を助長する空気を作ったのです。それが町の通りから原理主義者の社会にまで広く充満していきました。そしてある日、誰かが火をつけたときに空気が反応して、爆発が起きたのです」



●一方、同じテレビ番組のインタビューで、犯人のイガル・アミールの妹は次のように答えていた。

兄は頭のいい人でした。それは今も変わりません。兄は時間をかけて十分に考えた末にあの事を起こしたのです。カッとなってやってしまったとか……そういうことではなく、やらなくてはいけないと確信したからやったのだと思います」

「ユダヤ人入植者たちは孤立していて、そこに住み続けることは危険なのです。しかし彼らはその入植地を捨てようとはしません。命をかけて守っているのです。兄のイガルは、彼らの行動に共鳴し、支援しようとする人間がいるということを示したかったのだと思います」

「兄のイガルだけが本当に国を愛するということの意味が分かっていたのだと考えています。祖国のためなら何でもする……そういう勇気を持っていたのは、結局イガルだけだったのです。自分が何をしようとしているのか、私の兄は分かっていました」



●暗殺事件から1ヶ月後、イスラエル警察は暗殺事件に関係する数人のラビたちを逮捕した。ラビとは、ユダヤ教指導者のことである。1人のラビの下に、数百人ないし数千人の同調者がいると言われる。


●このように、イスラエル指導部がパレスチナとの親和路線に変更したくても、極右勢力(宗教右派)を支持するスファラディム勢力が猛烈に抵抗する状態になっているのである。

現在、イスラエルの極右勢力は、宗教国家から“普通の国家”を望む穏健派勢力と衝突を繰り返し、占領地をめぐって、イスラエル国内には亀裂が表面化し、内部分裂状態である。


●アシュケナジー系ユダヤ人の間では、イスラエル社会への幻滅が急速に広がっていると指摘されるのも、イスラエル国内のこの亀裂と無縁ではない。

最近では「イスラエルの土地」に愛想をつかし、欧米に移住していく者が急増している。逆にイスラエルへの移住者は年々減少し、さらにアメリカからの移住ユダヤ人は滞在1年でその4割が再びアメリカに戻るといわれている。

これに対し、スファラディ系ユダヤ人たちは言う、

「帰れる場所と金を持つ者はよい。我々はここでしか生きられない」と。

 

 


 

■■第4章:ナショナリズムを強めつつあるスファラディム


●イスラエルはヨーロッパによって創られた国である。

そして、イスラエルが中東に建国されたのは、ユダヤ人のためというより、なにかと問題の種になるユダヤ人を、自国から追い出したいという欧州諸国の思惑と、彼らの中東戦略(利権支配)が一致したのが大きな要因だったといえる。


パレスチナ問題や中東問題について語る上で、アラブ人とユダヤ人は大昔から宿命的な敵対関係にあったと説く人がいるが、それは本当ではない。

アラブとユダヤの関係が悪化したのは、第一次世界大戦後のことに過ぎない。そして対立の原因は人種的、宗教的なものではなく、政治的なものである。第一次世界大戦までパレスチナではアラブとユダヤ(スファラディム)は平和的に共存し、その間に重大な摩擦は起きなかった(ユダヤ人は少数民族であった)。

第一次世界大戦後、それまでパレスチナを支配していたオスマン・トルコの敗北にともなって、パレスチナは国際連盟の委任統治の形式で、イギリスの支配下におかれた。これを機会に、イギリスが戦時中のユダヤ人に対する約束に従って、パレスチナにユダヤ人の「民族的ホーム」の建設を許してから、対立が始まったのである。

 

  
ロンドン・ロスチャイルド家のライオネル・ロスチャイルド(左)と
イギリス外相バルフォア(中央)。(右)はバルフォアが
ライオネル・ロスチャイルド宛に出した手紙=
「バルフォア宣言」(1917年)



第一次世界大戦後の中東

 

●「外国からのユダヤ人が来るまでは、お互い行ったり来たりしながら仲良く暮らしていたものです」という言葉は、1948年以前にパレスチナに住んでいたアラブ人がよく口にする言葉である。

“外国からのユダヤ人”というのはいうまでもなく、建国後に移住して来た欧米系のユダヤ人を指す。そのような指導者階級のもとで強引に推し進められた「植民(入植)政策」によって、カナンの時代からパレスチナに住んでいたアラブ・セム系先住民の土地が奪われていったのである。

そのためパレスチナ・アラブ人たちの抵抗運動は死にもの狂いの“テロリズム”にならざるを得ない。


●もし、パレスチナ地域にヨーロッパ・ユダヤ(アシュケナジーム)が勝手に入り込んで、イスラエルを作らなかったら、土着ユダヤ(スファラディム)もパレスチナ人も何事もなく平和に暮らしていただろう……。

まさに悲劇である。

現在、二級市民扱いのスファラディムは、イスラエル国民の6割を占めている。数の上では多数派である。政治的にまとまれば一大勢力になる。今後のイスラエルの政治状況は、ナショナリズムを強めつつある、このスファラディムの動き次第で決まるといっても過言ではないだろう。

(※ イスラエルのユダヤ人口に占めるアシュケナジームとスファラディムの比率は、1972年に逆転し、以後、スファラディムの占める割合が増加している)。



●ちなみに、早稲田大学法学部出身で、現在、「副島国家戦略研究所(SNSI)」を主宰し、アメリカ政治思想・社会時事評論などの分野で活発な活動をしている副島隆彦氏は、著書『悪賢いアメリカ 騙し返せ日本』(講談社)の中で、イスラエルの政治の実態について次のように述べている。

参考までに紹介しておきたい。

「今のアメリカに住むユダヤ人たちのうち、金融財界人や学者、官僚になった人々が、グローバリスト・ユダヤ人である。彼らは、世界を自分たちの能力で管理してゆきたいと考えている。彼らはグローバリスト(地球主義者)であるから、『わが愛する祖国と大地』を持たない。だから愛国主義がない。世界中のすべてが彼らの居住地だからだ。

それに対して、古くから、イスラエル(パレスチナ)の地に住んでいたユダヤ人たちがいる。彼らは、スファラディムと呼ばれる。イスラエルの保守党で、スファラディ・ユダヤ人の系統であるリクードは、祖国愛の強いナショナリストである。だから、彼らはアメリカのグローバリスト・ユダヤ人たちの言うことを聞かない。

それに対してリベラル派であるイスラエル労働党の方は『パレスチナ和平』に積極的で、アメリカ・ユダヤ人の言うことをよく聞く。このように、ユダヤ人世界も大きくはグローバリストと反グローバリストに分かれて対立しているのだ。」

 

─ 完 ─

 


 

■■おまけ情報: 今日、右翼政党の支持基盤となっているのはスファラディムである


●第1章で紹介した東京大学教授の鶴木眞氏は、著書『真実のイスラエル』(同友館)の中で、「スファラディムの現実」について次のような指摘もしている。

参考までに紹介しておきたい。

 


『真実のイスラエル』
鶴木眞著(同友館)

 

「パレスチナにやってきたユダヤ難民は大きく2つに分けられる。1つはヨーロッパからのユダヤ難民であり、もう1つはアジア・アフリカからの難民である。

ヨーロッパからのユダヤ難民は、第一次世界大戦後のヨーロッパの経済的、政治的混乱から逃れてパレスチナへ移民してきた人々に始まり、第二次世界大戦直後はナチスの強制収容所で生き残った人々の移民が主流であった。それ以後も、旧ソ連邦から共産主義体制を嫌って国外に移住したユダヤ人の多くがイスラエルにやってきた。」


イスラエル建国を主に推進したのはアシュケナジームであった。彼らはパレスチナヘの入植を進める中で、その生活の必要からさまざまな労働者組織を結成していったのだが、特に労働党などの左派政党は、シオン労働者組織や青年労働党(1906年結成)などの労働シオニズムの思想にもとづいた入植の初期の段階に成立した組織をその前身としており、現代イスラエル国家の誕生よりも古い歴史を持っていた。それらの政党は政治活動だけでなく、活発な社会的、文化的活動をし、国家と社会をつなぐ存在として機能していた。そのような歴史的な背景を考えれば、アシュケナジームが労働党などの社会主義的勢力を支持する傾向が比較的強いことは当然のことと考えられよう。

だが、労働党の長期低落傾向を考えるとき、国家としてイスラエルが発展していくにつれて、政党それ自身がかつての社会的役割を消失していき、それがアシュケナジームの社会主義的シオニズム政党離れを促してきたことが指摘されねばならないだろう。」


スファラディムたちはヨーロッパ的なイデオロギーであるシオニズムに共感してイスラエルに移民してきたのではなく、アラブ諸国における生活に不安を感じて移民してきたのであり、事実、アジア・アフリカ系のユダヤ人でも財力のある者の多くは欧米先進諸国へと移住してしまったのである。

イスラエルに移住したスファラディムたちの生活は国家により保障され、経済的発展にも支えられて著しい改善をみせたが、そのような生活を与えてくれた政党や労働組合(ヒスタドルート)など、社会の中枢にある諸組織の意思決定機関はアシュケナジームが支配していた。スファラディムたちは社会の意思決定に対して十分に働きかけることができないという点についての不満をつのらせたのである。

このような国家、社会の意思決定機関に対してスファラディムが十分に参加できないような状況は、イスラエル国会(クネセト)におけるスファラディム議員の比率をみてみれば理解できる。たとえば、1988年の選挙結果では、スファラディムは120人中39人にすぎなかった。このような状況が、イスラエルを建国以来政治的に指導してきた労働党に対する不満を生み出していったのである。」


スファラディムの持つアシュケナジーム中心社会に対する不満を吸収していったのが右派政党であるリクード党であった。しかも、スファラディムは長きにわたってイスラム教の支配の下での生活を強いられていたため、アラブ社会に対する怒りも強かった。そのような彼らにとって、リクード党のアラブ諸国に対する強硬姿勢には共感を持たせるものがあった。

また同時に、スファラディムがイスラエルにおいて新たな脅威にさらされていたことも確かである。その脅威とは、第三次中東(1967年)戦争後占領地となったヨルダン川西岸、ガザ地区における。パレスチナ人のイスラエル労働市場への参入である。

占領地から大量に流入した労働力は、イスラエルで最下層の労働者層を形成した。人手不足に悩むイスラエルにとって労働者を流入させることは不可避であったにせよ、そのことは下層労働者層に多数を占めるスファラディムにとっては脅威であり、その後のイスラエル国内経済の崩壊とそれにともなう失業率の増大によってその脅威は現実のものとして認識された。このため、リクード党の主張する排外的な民族主義的政策に共感したのであった。

 

●さらに、鶴木眞氏は次のように述べている。

1972年から73年にかけて、イスラエルでは『ブラック・パンサー』と自称するスファラディ系の若者たちが暴れまわった。テルアビブやエルサレムのスラムで、彼らはイスラエルの支配層への抗議を大っぴらに行動に表したのであった。

イスラエルの支配者はヨーロッパからきた『白人』で、これに対し自分たちアジア・アフリカ系の被抑圧民は『色つき』だとし、それゆえに自分たちを『ブラック・パンサー』と呼んだのだった。
ニューヨークで、白人ユダヤ人たちの組織のうち最も過激な『JDL(ユダヤ人防衛組織)』と鋭く対立した黒人過激派がブラック・パンサーであったことも、当然計算に入れられていた。

イスラエルのブラック・パンサーたちは、『アラブや被抑圧者と手を組んでイスラエルの体制に決闘を挑む』と宣言した。彼らのこの主張には、イスラエル社会への次のような基本的認識が底流をなしていた。

『(シオニストたちは我々に)イスラエルこそ君たちの国だ、君たちもイスラエルに来て国家の建設に手を貸してほしいと語りかけた。だから我々はイスラエルに移民し、国家の建設を手伝った。しかし真実は、国家の建設が我々(スファラディ系)のためでなく、他人(アシュケナジー系)のためであったのだ。我々はただイスラエルで、底辺の労働力として働かされてこられたのだ。』(『アラブの解放』)

ブラック・パンサーの主張は、イスラエルにとってきわめて過激なものであったにもかかわらず、貧困層のスファラディ系の人々の間に多くの共感者を得たのであった。ブラック・パンサーの活動は、体制側からの封じ込めと、内部の主導権争いによって初期のエネルギーは失われてしまった。しかし1977年の国会議員選挙では、イスラエルで唯一の非シオニスト政党である共産党(ラカハ)と協力して『平和と平等のための民主的変革運動』の名の下に代表を国会へ送ることに成功したのであった。 〈中略〉」


「……今日、イスラエル社会の中で、アラブ問題で最も強硬な意見を持ち、右翼政党の支持基盤となっているのは、スファラディ系ユダヤ人なのである。イスラエルに移住してマジョリティの一員となったとはいえ、生活習慣や外見がアラブ人と大差のない彼らは、ユダヤ人であることをアシュケナジー系の人々に示す必要からも、ことさら自らのユダヤ性を強調する傾向がある。このユダヤ性の強調を最も単純明解に示すのが、アラブに対する強硬姿勢なのである。ブラック・パンサーなどの例外を除いて、スファラディ系ユダヤ人がアラブ側からの連帯の呼びかけに耳を貸す様子は、今のところ全くない。」

 

 


 

■■おまけ情報 2: アジア・アフリカ系ユダヤ人 「ミズラヒム」


●中東問題の研究家である立山良司氏(防衛大学教授)は

アジア・アフリカ系ユダヤ人について、著書『揺れるユダヤ人国家』(文藝春秋)の中で興味深い指摘をしている。

参考までに紹介しておきたい。

 


『揺れるユダヤ人国家』
立山良司著(文藝春秋)


◆立山良司(たてやま りょうじ)◆

1947年、東京生まれ。早稲田大学
政治経済学部政治学科卒。在イスラエル
日本大使館専門調査員、国連パレスチナ難民
救済事業機関職員、財団法人中東経済研究所
研究主幹などを経て、現在、防衛大学教授。
専攻は中東を中心とする国際関係論。


※ 以下の文章は、この本からの抜粋(P85〜90)です

 

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■アシュケナジーム支配への反発

我々、ミズラヒムはアシュケナジームによって文化を奪われ続けてきた

僕の父はチュニジア出身で、母はイラン出身だが、僕が子供のころは二人とも家の中ですら、チュニジアやイランの歌を大声では唱わなかった。イスラエルは文化的にもアシュケナジームによって支配されていたわけだ。彼らは自分たちヨーロッパ系が最上のモデルであると主張し、我々ミズラヒムにはアラブやオリエントの文化を棄てて、彼らを見習うよう強制した。」

広告事務所を経営しているモシェ・カリーフの口からはアシュケナジームと、そのアシュケナジームが作った現代イスラエル社会に向けた厳しい批判が次々に飛び出してきた。

「我々ミズラヒム」という言葉にあるように、カリーフらは自分たちのことを「ミズラヒ」と規定している。

ユダヤ人を分類する際に、よく「アシュケナジー」と「スファラディ」という用語が使われる。 〈中略〉 しかし最近は、モシェ・カリーフの発言にあるように、アジア・アフリカ系を指して「ミズラヒ」という言葉が使われるようになった。ミズラヒ(複数形はミズラヒム)は東あるいは東洋を意味する「ミズラフ」から出た言葉で、文字通り「東洋系」「オリエント系」を意味している。

 

■抗議するミズラヒム

モシェ・カリーフはこうしたオリエント系ユダヤ人が作った組織「ケシェット(虹)」の代表の一人だ。

正式名称は「ケシェット・ハデモクラティット・ハミズラヒット」、日本語に直訳すれば「民主ミズラヒ虹」となり、自らミズラヒを名乗っている。

「ケシェット」は1996年12月の発足当時から、「この土地は我々のものでもある」というスローガンを掲げている。「ケシェット」の別の指導者シュロモ・バザナも、やはり非常に厳しい口調で、次のようにアシュケナジームによる「支配構造」を批判している。

「イスラエルの土地のほとんどは国有地だが、実質的にはアシュケナジームが支配してきた

彼らは半永久的な土地の使用権をほとんどタダ同然でユダヤ機関や政府から手に入れ、それを売買したり相続して富を築いてきた。その典型例がキブツだ。キブツは今や金があるエリート・アシュケナジームの集団だ。」


彼らによれば、イスラエルは一見平等に見えるが、土地制度に示されているように政治や経済、文化、教育などあらゆる面でアシュケナジームによる支配体制が構造化されている。ある程度社会的な階段を昇るミズラヒムもいるにはいるが、それは例外に過ぎないという。

そうした状況に異議を申し立て、文化的な多様性、多元主義に基づいた社会建設を目指す組織として発足したのが「ケシェット」である。



「ケシェット」はこのように自らを「ミズラヒ」と規定しているが、同じアジア・アフリカ系ユダヤ人を中核としていても、自らを「スファラディ」と称している組織がある。このところクネセト(イスラエル国会)での議席数を急増させている宗教政党「シャス」がそのケースだ。

「シャス」は正式名称を日本語に直訳すると「トーラーを遵奉するスファラディ連盟」となる。つまりオリエント系の間でも「ミズラヒ」と「スファラディ」という2通りのアイデンティティが存在していることがわかる。この2つのアイデンティティの違いは何だろうか。

「スファラディ」という用語がオリエント系の総称として一般化したのは、英国統治時代以降のことである。それ以前はオリエント系の中にもモロッコ系やイエメン系、ペルシャ系、トルコ系などさまざまな集団があり、それぞれが指導的なラビを擁していた。

しかし、英国によって2人のチーフ・ラビ制度が導入された結果、オリエント系各集団は宗教的には次第にスファラディのチーフ・ラビの指導下に入っていった。それ故、「スファラディ」という用語には宗教的な色彩があり、宗教組織である「シャス」が「スファラディ」という名称を使っているのは自然な流れといえよう。

 

■多文化社会へ

一方、「ミズラヒ」という言葉も以前からあった。

ただ、かつてのイスラエル社会ではモシェ・カリーフの両親が生まれ故郷の歌を唱えなかったように、ミズラヒ、つまりオリエント系ないしアジア・アフリカ系であることはマイナス・イメージでしかなく、むしろ差別的に使われていた

例えば新移民受け入れ機関の係官はオリエント系移民は何も文化的遺産を持っていないという報告を行い、後に首相になったゴルダ・メイヤは労働大臣当時、「われわれはオリエント系移民を人間に変える必要がある」と発言したといわれる。加えてアラブとの対立、1967年の第三次中東戦争での圧勝からくるアラブヘの優越感、「テロリスト集団」といったアラブに対する憎しみや猜疑心などが、アラブ系だけでなくオリエント系全体のマイナス・イメージをいっそう増大した。

こうした状況が大きく変わり、オリエント系ユダヤ人が自らを積極的に「ミズラヒ」、あるいは「オリエント系集団」を意味する「エドット・ハミズラヒ」と呼び始めたのは1980年代以降である。

マスコミなどでも「ミズラヒ」という用語が中立ないしプラス・イメージを伴って使われるようになった。その背景には1979年にエジプトとの平和条約が調印されアラブとの和平も決して夢物語ではなくなったこと、少数ではあるが政界や学界、芸術などの分野に進出するオリエント系ユダヤ人が増えていったことなどがある。

だがもっと大きな背景としては、多文化主義がイスラエルにも流入し、ミズラヒであることが一定の誇りを持って語られるようになったことが指摘できよう。さらに1990年代に入ると、旧ソ連やエチオピアから多数の移民が流入した結果、イスラエル社会におけるアイデンティティの多様化と多文化主義的な傾向がいっそう促進された。

こうした現実レベルにおける変化が、アシュケナジー・モデルの絶対性を突き崩し始めたようだ。ちなみに「ケシェット(虹)」という名称自体、7色の多様性を意味している。

 

以上、立山良司著『揺れるユダヤ人国家』(文藝春秋)より

 

 


 

イスラエル社会の最下層を構成するエチオピア系ユダヤ人

 


 


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