ヘブライの館2|総合案内所|休憩室 |
No.a6fhb100
作成 2005.3
第1章 |
保護した日本政府 |
---|---|
第2章 |
アジア地区ゲシュタポ司令官
ヨーゼフ・マイジンガーの登場 |
第3章 |
幻に終わった満州の
ユダヤ国家建設計画(河豚計画) |
第4章 |
ユダヤ人の救出に
力を尽くした犬塚大佐 |
おまけ |
『日本はなぜユダヤ人を
迫害しなかったのか』 |
---|---|
おまけ |
ユダヤ人の救出に
力を尽くした樋口中将 |
おまけ |
ユダヤ人の救出に
力を尽くした安江大佐 |
おまけ |
ユダヤ人を救出した杉原千畝と
アメリカの「日系人部隊」 |
おまけ |
1944年に「勲五等瑞宝章」を
受章していた杉原千畝 |
追加1 |
「杉原氏の懲戒処分なかった」
政府、定説覆す答弁書 |
追加2 |
ユダヤ人を保護していた
「A級戦犯」の日本人たち |
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■■第1章:上海のユダヤ難民を保護した日本政府
●19世紀末、上海には、「アヘン戦争」(1840年)が大きなきっかけとなって、ユダヤ・コミュニティが結成されていた。
上海におけるユダヤ人口は、中東出身のスファラディ系ユダヤ人700人、欧米系のアシュケナジー系ユダヤ人4000人ほどであったが、「アヘン戦争」以来、上海港を根拠地として発展した英・米・仏国籍のスファラディ系ユダヤ人が、あらゆる点で支配的勢力を占めていた。
※「上海証券取引所」の所長と99人の会員の3分の1以上がスファラディ系ユダヤ人であった。
中東出身のユダヤ人
デビッド・サッスーン
(1792~1864年)
彼はアヘン密売で莫大な
富を築き「アヘン王」と呼ばれた
ビクター・サッスーン(ユダヤ人)
(1881~1961年)
「上海キング」と呼ばれていた彼は
極東で一、二を競うユダヤ人大富豪であり、
上海のユダヤ人社会のリーダーだった。
※「サッスーン家」は、もともとは18世紀に
メソポタミアに台頭したユダヤ人の富豪家族で、
トルコ治世下にあって財務大臣を務める
ほどの政商であった。
(左)中国の地図 (右)「サッスーン財閥」の拠点だった上海(Shanghai)
上海は元は寂しい漁村だったが、「アヘン戦争」の結果として
イギリスの対外通商港となり、一挙に中国最大の都市に成長した。
繁栄をきわめ、「魔都」とか「東洋のニューヨーク」と呼ばれた。
※ 右の画像は1930年頃の上海の風景であるが、あたかも当時の
アメリカのニューヨーク、イギリスのロンドンかと錯覚を覚えて
しまう。これらの建築物は「サッスーン財閥」に代表される
ユダヤ資本によって建てられたものである。
この建物は「サッスーン財閥」の居城だった「サッスーン・ハウス(現・和平飯店)」である。
頭頂部のピラミッドを思わせる塔が特徴であり、当時は「東洋一のビル」と称えられた。
10階から上のペントハウスはサッスーンの住居である。1929年に建設された。
上の家系図は広瀬隆氏が作成したものである(『赤い楯』より)。
「サッスーン財閥」は、アヘン王デビッド・サッスーンの死後、アルバート・サッスーン、
次いでエドワード・サッスーンが相続し、三代の間に巨富を築いた。
(「サッスーン家」は「ロスチャイルド家」と血縁関係を結んでいる)
サッスーン一族の繁栄の最盛期を具現化したビクター・サッスーンは、
不動産投資に精を出し、破綻会社の不動産を買い叩き、借金の担保の
不動産を差し押さえた。そして彼は、「グローヴナー・ハウス(現・錦江飯店中楼)」、
「メトロポール・ホテル(現・新城飯店)」、「キャセイ・マンション(現・錦江飯店北楼)」
などを次々と建築した。中でも彼の自慢は、上の「サッスーン・ハウス(現・和平飯店)」で、
サッスーン家の本拠とすべく建設したものであった。その後、貿易、運輸、各種軽工業
などにも事業展開していったビクター・サッスーンの最盛期の資産は、上海全体の
20分の1もあったと言われている。彼は「東洋のモルガン」の異名を持っていた。
(左)上海のユダヤ教徒 (右)上海のユダヤ人学校の生徒たち
●直木賞受賞作家の西木正明氏が書いた、ノンフィクション小説『ルーズベルトの刺客』(新潮社)には、上海のユダヤ人が大勢登場するが、サッスーンについて次のように紹介されている。
「上海屈指の豪商サッスーン一族は、18世紀初頭イラクのバグダッドに出現したスファラディ系ユダヤ人である。当時の大英帝国の東方進出に協力して、まずインドのボンベイに拠点をかまえた。やがて東インド会社が支那にアヘンの密輸を開始すると、その取引に荷担して莫大な富を蓄積した。
19世紀半ばアヘン戦争に破れた清朝が上海に租界の設置を認めると、時を移さず上海に進出し、アヘンを含む物資の売買を開始した。そして、わずか1世紀足らずの間に、金融、不動産、交通、食品、重機械製造などを傘下に擁する、一大コンツェルンに成長した。
その中には、金融業として『サッスーン・バンキングコーポレーション』『ファーイースタン・インベストメント・カンパニー』『ハミルトン・トラスト』、不動産では『上海プロパティーズ』『イースタン・エステート・ランド』『キャセイ・ランド』、重機械製造部門として『シャンハイ・ドックヤード』『中国公共汽車公司』『中国鋼車製造公司』、さらに食品関係では『上海碑酒公司』というビール会社などが含まれている。
支那四大家族のむこうをはって、ジャーディン・マセソン、バターフィルド・スワイヤ、カドーリなどとともに『上海ユダヤ四大財閥』と呼ばれる理由はここにある。
当主のビクター・サッスーンは、ようやく五十路に手がとどいたばかりの、独身の伊達男で、彼の顔写真が新聞に登場しない日はないと言ってよかった。」
●上海のユダヤ人富豪は、サッスーンを中心として幾つかあった。
◆サー・エレー・カドーリ
香港と上海の土地建物、ガス、水道、電気、電車など公共事業を経営。
ローラ夫人が亡くなると、長崎出身の日本人女性(松田おけいさん)が
後妻としてカドーリ家に入った(1896年)。
サー・エレー・カドーリ
(1867~1944年)
◆サイラス・ハードン
イラク(バグダッド)出身の英国籍ユダヤ人。
当時の上海の南京路の大通りの大部分は彼一人の所有であった。
サイラス・ハードン
(1851~1931年)
◆ルビー・アブラハム
ビクター・サッスーンの伯父の長男。英国籍のスファラディ系ユダヤ人。
父親は上海ユダヤ教徒の治安判事を務め、英国総領事館法廷で
ユダヤ式判決を勝ち取った人物で、「アーロン(長老)」の敬称を受け尊敬されていた。
◆エリス・ハイム
ルビー・アブラハムの夫人の兄。英国籍のスファラディ系ユダヤ人。
「上海証券取引所」屈指の仲買人として活躍。
サッスーン財閥と深い関係を結んでいた。
◆ ◆ ◆
●上海にドイツ・オーストリア系ユダヤ人が流入したのは、ナチスがオーストリアを合併した1938年秋、イタリア商船コンテ・ビオレ号から上海に吐き出されたのが最初である。
ドイツの軍靴がチェコ、ポーランドと進むにつれて、数百万のユダヤ人が世界各地に逃げ出さざるを得ない状態になった。しかし、彼らの目指すアメリカ、中南米、パレスチナなどは、入国査証の発給を非常に制限し、ほとんどシャットアウトの政策であった。英統治領パレスチナなどは、海岸に着いたユダヤ難民船に、陸上から英軍が機関銃の一斉射撃を加えるという非人道的行為まであった。
(左)アドルフ・ヒトラー (右)ナチス・ドイツの旗
●そうした中で、入国ビザなしに上陸できたのは世界で唯一、上海の共同租界、日本海軍の警備する虹口(ホンキュー)地区だけだった。
海軍大佐の犬塚惟重(いぬづか これしげ)は、日本人学校校舎をユダヤ難民の宿舎にあてるなど、ユダヤ人の保護に奔走した。
犬塚惟重(いぬづか これしげ)海軍大佐
海軍の「ユダヤ問題専門家」で、
上海を拠点にユダヤ問題の処理に当たった。
戦後は「日ユ懇談会」の会長を務めた。
上海市街の租界(第二次大戦期まで)
上海の共同租界、虹口(ホンキュー)地区の風景(1937年)
日本海軍が警備していた虹口(ホンキュー)地区(通称「日本租界」)は、
「バンド」と言われるビルの立ち並ぶ上海の中心地区からガーデン・ブリッジを
渡って北東へ行った場所にあった。日本の本願寺や商社・旅館、商店などが
軒を並べた租界の中でもどちらかというと、庶民的雰囲気の漂う下町
だった。海軍大佐の犬塚惟重は、日本人学校校舎をユダヤ難民
の宿舎にあてるなど、ユダヤ人の保護に奔走した。
●日本政府の有田外相は、ハルビンのユダヤ人指導者アブラハム・カウフマン博士を東京に呼び、「日本政府は今後ともユダヤ人を差別しない。他の外国人と同じに自由だ」と明言した。
●1939年夏までに、約2万人のユダヤ難民が上海の「日本租界」にあふれるに至った。
※ ちなみに、上海のスファラディ系ユダヤ人たちの中には、金のない貧乏なアシュケナジー系ユダヤ難民の受け入れを嫌がる者が多くいたという。
ナチスの迫害を逃れ、上海の「日本租界」に
はるばるやって来たドイツ系ユダヤ人たち
※ 上海のユダヤ人社会に、ドイツ・オーストリア系ユダヤ人が流入
したのは、ナチスがオーストリアを合併した1938年秋、イタリア商船
コンテ・ビオレ号から上海に吐き出されたのが最初である。上海へは
世界で唯一「入国ビザ」の必要がなかったので、その後、欧州から
ユダヤ人が続々と流れ込んだ。1939年夏までに、約2万人の
ユダヤ難民が上海の「日本租界」にあふれるに至った。
●「世界ユダヤ人会議」のユダヤ問題研究所副所長を務め、リトアニアと日本でユダヤ難民の救出に尽力したゾラフ・バルハフティクは、著書『日本に来たユダヤ難民』(原書房)の中で次のように述べている。
(左)ゾラフ・バルハフティク (右)彼の
著書『日本に来たユダヤ難民』(原書房)
ポーランド・ワルシャワ生まれのユダヤ人で、
「世界ユダヤ人会議」のユダヤ問題研究所副所長を
務め、リトアニアと日本でユダヤ難民の救出に尽力。
戦後はイスラエルの国会議員として国政に参加して、
1962年から1974年まで宗教大臣を務める。
「1941年時点で、上海のユダヤ人社会はよく組織されていた。スファラディ系社会とアシュケナジー系社会があった。前者は、19世紀にバグダッドから移住してきたユダヤ人たちで、なかにはイギリス国籍を取得している人すらあった。代表格が、いろいろな事業を経営するサッスーン家だった。そのほかハードン家やアブラハムズ家も有名で、助けが必要なイラク出身のユダヤ人移民に、支援の手を差し伸べていた。
サッスーン家の家長ビクター・サッスーン(ユダヤ人)は、上海の大立者であり、極東で一、二を競う大富豪であった。経済、政治力の影響力は相当なものであったようだ。ビクター・サッスーンは、家の伝統に従って同胞のために尽くした。しかし、上海の中国住民に対する貢献はもっと大きかった。売春婦の収容施設に多額の金を使ったし、市街電車の路線延長も彼の功績である。〈中略〉
革命やポグロムが発生するたびに、ユダヤ人が満州へ流出し、そこから国際都市上海へ向かった。ロシア系ユダヤ難民は上海に根をおろし、貿易商となった。〈中略〉
当時ドイツ系ユダヤ人社会もあった。かなり大きく、その数約1万5000人。上海へは入国ビザの必要がないので、ユダヤ人が続々と流れてきた。上海は1939年の中頃までユダヤ人を無制限に受け入れた。しかしその後は、居留が厳しく制限されるようになった。〈中略〉
スファラディ系とアシュケナジー系で構成される『上海ユダヤ人委員会』は、アメリカを本拠地とするジョイントの資金援助を受けながら、日本租界の虹口(ホンキュー)地区を中心とするホステルへ難民を収容した。」
(左)掲示板に見入る上海のユダヤ人
(右)上海のユダヤ人街のユダヤ自衛団員
(左)上海のユダヤ人街の通り (右)食料の配給を待つ上海のユダヤ人たち(1943年)
●当時、上海には多種多様のユダヤ人組織が存在し、様々な活動を展開していたが、参考までに代表的なユダヤ人組織(+人物)を幾つか挙げておきたい。
◆「上海ユダヤ人協会」 E・ニッシム会長
英国籍のスファラディ系ユダヤ人。共同租界の北京路に「大商事会社」を経営。
「上海ユダヤ人協会」の会員は約800人で、ほぼ全員がスファラディ系ユダヤ人。
◆「上海シオニスト協会」 P・トーパス会長
シベリア出身のアシュケナジー系ユダヤ人。貿易会社を経営。
この「上海シオニスト協会」は1903年に設立され、会員は約3000人で、
パレスチナ移住者を募集していた。機関紙『イスラエルズ・メッセンジャー』は、
約1000部が購読され、海外にも発送され、東アジアのシオニズム運動の貴重な
声として世界にその存在を誇示するとともに、イギリスと東アジアを
結ぶ架け橋としての役割を果たした。
◆「ブナイ・ブリス」 カムメルリング会長
ルーマニア出身のアシュケナジー系ユダヤ人。
「香港・上海ホテル」の株主。シオニスト右派に属していた。
◆「ブリス・トランペルダー」 R・ビトカー会長
ポーランド出身のアシュケナジー系ユダヤ人。
この組織は、青年を対象にした民族主義的シオニスト・グループだった。
◆「上海ヘブライ救援協会」 I・ローゼンツヴァイク博士(会長)
ロシア系ユダヤ人で、アシュケナジー系ユダヤ難民への救援を目的としていた。
◆「ヘブライ・エンバンクメント・ハウス」 テーク夫人(幹事)
有力ブローカーであるスファラディ系ユダヤ人テークの妻。
貧しいユダヤ難民に宿舎を提供していた。
◆「ヨーロッパ移民委員会」と「ドイツ移民委員会」
両者とも同じ委員会に属す。委員はM・スピールマン(議長)、
D・アブラハム、J・ホルツェル、エリス・ハイムなど。
M・スピールマンはオランダ市民であるが、実際はロシア生まれのユダヤ人で
若い時オランダ領インドに移り、そこで市民権を得て、1917年に上海に移住。
この委員会に属する秘匿団体として「政治運営委員会」があり、コミンテルン
および国民党当局と密接な連絡を保っていた。この部の責任者は
レーヴェンベルク博士(ドイツ系ユダヤ人)で、弁護士を職とし、
共産党に属していたが、ドイツで3年間収容所に入れられ、
脱走してオランダへ、さらに上海に移った。
◆「上海ユダヤ人クラブ」(米国デラウェア州法人)
1923年に設立され、何回か解散したが日華事変開始直後、
当地の合衆国総領事館に登録した。会員は約400人。名誉会長ブロック、
会長ポリャコフ他役員の多くはロシア系ユダヤ人で、このクラブは
ソ連の木材公社とも取り引きがあった。
■■第2章:アジア地区ゲシュタポ司令官ヨーゼフ・マイジンガーの登場
●ナチス・ドイツは、上海のユダヤ難民に対する日本政府の「寛容な政策」を不愉快に思っていた。
そのため、彼らは上海のユダヤ難民の取り扱いについて、日本政府に圧力をかけていた。
(左)SS長官ハインリヒ・ヒムラー
(右)ヨーゼフ・マイジンガーSS大佐
SS長官ヒムラーが1941年に東京に派遣した
マイジンガーSS大佐は、その悪魔的残忍さのために
「ワルシャワの殺し屋」というあだ名をもらった男である。
ヒムラーでさえマイジンガーの行動記録にショックを受け、
軍事裁判にかけて場合によっては銃殺しようと考えていたが、
側近のハイドリヒが手を回してこれを阻んだといわれている。
マイジンガーの東京での極秘任務は、在日ドイツ人の中から
ユダヤ人と反ナチ分子を見つけ出し監視することだった。
マイジンガーは着任後ただちにゾルゲについて警告して
日本側を驚かせ、これがゾルゲの逮捕につながった。
しかしその残虐さと粗暴さ、狡猾さと薄気味悪い
慎重さにより、マイジンガーの東京での評判は
最悪だったという。戦後、連合軍に逮捕
されるとポーランドで処刑された。
●1942年7月、ナチス親衛隊(SS)長官ハインリヒ・ヒムラーの命令で、東京のアジア地区ゲシュタポ司令官ヨーゼフ・マイジンガーが上海に出張し、日本に対して次のような3つの提案を示している。
<上海のユダヤ人処理の方法>
【1】 黄浦江に廃船が数隻ある。それにユダヤ人を乗せ、
東シナ海に引きだし、放置し、全員餓死したところで日本海軍が撃沈する。
【2】 郊外の岩塩鉱山で使役し、疲労死させる。
【3】 お勧めは、揚子江河口に収容所を作り、
全員を放り込み、種々の生体医学実験に使う。
●この反ユダヤ的な提案は、陸軍大佐の安江仙弘経由で東京の松岡洋右に伝えられたが、この提案は実現しなかった。
安江仙弘(やすえ のりひろ)
陸軍最大の「ユダヤ問題専門家」。
1938年、大連特務機関長に就任すると、
大陸におけるユダヤ人の権益擁護に務め、
ユダヤ人たちから絶大な信頼と感謝を受けた。
●ドイツのボン大学で日本現代政治史を研究し、論文「ナチズムの時代における日本帝国のユダヤ政策」で哲学博士号を取得したハインツ・E・マウル(元ドイツ連邦軍空軍将校)は、著書『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版)の中で、戦時中の日本の対ユダヤ人政策について次のように書いている。
(左)ハインツ・E・マウル(元ドイツ連邦軍空軍将校)
(右)彼の著書『日本はなぜユダヤ人を迫害
しなかったのか』(芙蓉書房出版)
「当時2600人を数えた在日ドイツ人の中には116人のユダヤ人がいた。日本人はユダヤ系の学者、芸術家、教育者に高い敬意を払った。
その中には、音楽家で教育者のレオニード・クロイツァー、ピアニストのレオ・シロタ、指揮者のヨゼフ・ローゼンシュトックとクラウス・プリングスハイム、哲学者のカール・レヴィット、経済学者のクルト・ジンガー、物理学者のルイス・フーゴー・フランクなどがいる。
日本政府は、ドイツ大使館の激しい抗議にもかかわらず、これらのユダヤ人をドイツ人同様に遇した。1941年末、ドイツ大使館は日本政府に対して、外国に居住する全てのユダヤ人は無国籍とされ、今後いかなる保護も与えられないと通告した。そして在日ユダヤ人を解職するよう要求したが、日本の外務省は無視した。
かくして少数ながら戦争終了まで日本で安全に暮らしたユダヤ人がいたのである。」
レオ・シロタ
ユダヤ人ピアニストのレオ・シロタは
1929年に来日してから15年間日本に留まり、
演奏家ならびに教育者として活動を続けた。
●このユダヤ人ピアニストのレオ・シロタに詳しい音楽評論家の山本尚志氏は、著書『日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ』(毎日新聞社)の中で次のように述べている。
「ほとんど所持金もなく行き先のあてもなく来日したユダヤ難民に、日本の人々は温かく接した。
ユダヤの子供に食料を贈った日本人もいた。物資の入手には配給券が必要だったが、商店に配給券を持たないで難民が現れると、店員は自分の配給券を犠牲にして物資を売った。官憲すらユダヤ難民に便宜をはかった。〈中略〉
日本人はユダヤ難民を好意的に扱ったのである。」
「1930年代に、ドイツでは急速にユダヤ系音楽家が排除されていった。圧迫されたユダヤ系の音楽家にとって、希望の地のひとつが極東の日本だった。〈中略〉
ナチス・ドイツ政府は、日本で活躍するユダヤ系音楽家に不信の目を向けた。〈中略〉在日ドイツ大使館はひそかにシロタを含むユダヤ系音楽家のリストを作成して、日本からユダヤ系音楽家を排除、代わりにドイツ人音楽家を就職させる陰謀を繰り返した。〈中略〉
しかし日本側は、このようなナチスの圧力を事実上無視した。〈中略〉
第二次世界大戦が始まっても、東京でユダヤ系音楽家がソリストや指揮者、音楽学校の教授として活躍する状況は変わらなかった。日本ではユダヤ系音楽家の作品も演奏されていたのであり、これはドイツやドイツ占領下の諸国では許されないことだった。」
「レオ・シロタは、日本人のユダヤ人問題に対する立場を次のように説明していた。
『日本人は世界事情に詳しく、ユダヤ人問題にも大きな関心を寄せているため日本在住のユダヤ人に対して寛容で、差別することも、自由を奪ったりすることも全くありません。
その良い例として、このような事実があります。日本の大学には多くの外国人教授がいますが、その中でもドイツからのユダヤ人が多いことです。ヒトラー政権時代にドイツで教授職を剥奪されたユダヤ人に対し、日本政府は彼らの契約期間を延長しました。最近では東京音楽学校の学長がさらに2人のユダヤ人教授を雇用しました』
シロタは日本のユダヤ人政策を無知の産物でなく、世界事情の理解の結果と考えていたのである。〈中略〉
シロタの観察によれば、日本でユダヤ人たちは特定の宗教を信じて共通の文化的背景をもってはいるけれども、とくに差別されることも社会集団を形成することもない、普通の外国人として生活していた。当時の日本におけるユダヤ人問題を考える際に、シロタの言葉は、知的で日本社会によく溶け込んだ同時代のユダヤ人の証言として重視されていい。
日本では、ユダヤ人は自分がユダヤ人であることをとりたてて意識しないでも生きていくことができたのだった。」
(左)『日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ』
山本尚志著(毎日新聞社)(右)シロタ夫妻と娘のベアテ
↑20世紀初頭のウィーンで「リストが墓からよみがえった」と
称えられた天才ピアニストのレオ・シロタ。世界に名を馳せた
巨匠がなぜ、1930年代から終戦という激動期に日本で
活躍したのか。シロタの波乱の生涯を追いながら、
昭和史に新たな視点を投じる力作である。
●ところで、大戦中、上海で過ごしたユダヤ難民たちは、戦後、ナチス・ドイツによる虐殺と、それを看過したキリスト教ヨーロッパ社会の実態を知り、ナチス・ドイツと軍事同盟下にあった日本が、ユダヤ人の保護政策をとってくれたことを感謝している。
ユダヤ難民だったヒルダ・ラバウという女性は1991年に、日本の占領者がユダヤ人のために安全な地を確保してくれた、と深い感謝の気持ちを表す詩を作り、「ヨーロッパで皆殺しになった人々を思えば、上海は楽園でした」と語っている。
また、天津のユダヤ人も戦後の1946年9月、「世界ユダヤ人会議」に対し、「自分たちは日本の占領下で迫害を受けることもなく、日本側はユダヤ人、特にヨーロッパからの難民には友好的でした」と報告している。
※「世界ユダヤ人会議」の調査では、終戦当時、中国全体のユダヤ人人口は2万5600人で、上海の他に、ハルビン、天津、青島、大連、奉天、北京、漢口にユダヤ人が存在していたという。
●ちなみに、戦時下を上海で過ごしたユダヤ人の中で、その後最も数奇で劇的な運命を辿った男がいる。
その男の名はマイケル・ブルメンソール。
ドイツで生まれた彼は幼少期にナチに追われ、家族とともに船に乗って上海まで逃げ、日本租界で8年過ごした。
戦後、アメリカに渡ったブルメンソールは、勉学に励み、プリンストン大学で経済学博士号を取得した後、ケネディ、ジョンソン両政権の通商副代表となった。そしてカーター大統領の下、民主党政権が成立すると、遂に財務長官まで昇り詰めたのである。(皮肉なことに、彼は日本では、為替相場に口先介入し初めて円高を誘導し、日本経済を苦しめた財務長官として知られている……)。
マイケル・ブルメンソール
ドイツ生まれのユダヤ人で、
戦時下を上海で過ごし、戦後渡米。
ジミー・カーター政権で財務長官を務めた。
(円高誘導を仕掛け、日本経済を苦しめた)。
■■第3章:幻に終わった満州のユダヤ国家建設計画(河豚計画)
●1930年代、ドイツで迫害を受けたユダヤ人達が、シベリアを経由して満州へ洪水のごとく流れてきた。日本政府は、アメリカからの工作機械やその他の輸入を全く受けられないため、日本の満州経営は大きな壁にぶつかっていた。そのために、欧米のユダヤ財閥資本と経営技術を必要としていた。
そこで、ユダヤ資本との対立関係を回復する為に、この難民ユダヤ人達を保護し、満州にユダヤ国家を作る計画があった。この計画は「河豚(フグ)計画」と呼ばれた。
極東アジア地域へのユダヤ人の亡命(~1945年)
1930年代、ドイツで迫害を受けたユダヤ人達が、
シベリアを経由して満州へ洪水のごとく流れてきた
(左)満州国の国旗 (右)イスラエルの国旗
満州国の国旗である「五色旗」は黄、紅、青、白、
黒で日・満・漢・朝・蒙の五族協和を象徴している。
一方イスラエルの旗は1891年にシオニズム運動の
運動旗としてダビデ・ウルフゾーン(リトアニア
出身のユダヤ人)が考案したものである。
●新興日産コンツェルンを率いていた鮎川義介は、1934年に、外務省より『ドイツ系ユダヤ人5万人の満州移住計画について』という論文を発表した。彼は、ドイツ系ユダヤ人5万人を満州に受け入れ、最終的には100万人を移住させ、満州にユダヤ国家を作ることで、アメリカの歓心を買い、対ソ連への防波堤にしようと考えていたのである。
1936年、鮎川義介が関東軍の後援で渡満し、「満州重工業開発株式会社」を設立したことにより、「河豚計画」は国策レベルに浮上した。
(左)鮎川義介。大正・昭和期に活躍した実業家。
「日産自動車」の実質的な創立者。満州重工業開発総裁。
(右)「河豚計画」の舞台となった町ハルビン(Harbin)は
上の地図の右上に位置している。
●ユダヤ人との間に対話の場を設けて関係を強めることを考えた日本の軍部は、1937年から1939年にかけてハルビンで3回の「極東ユダヤ人大会」を開催した。第1回の会議には、陸軍の安江仙弘大佐や、関東軍情報部長の樋口季一郎、谷口副領事などが出席し、1000人近いユダヤ人が会議を傍聴した。
直前に組織として結成された「極東ユダヤ人会議」の議長には、ユダヤ人アブラハム・カウフマン博士が選出され、極東の上席ラビにはアロン・モシェ・キセレフが選ばれた。
(左)ハルビンに作られたユダヤ教会堂 (右)満州のユダヤ人たち
満州のユダヤ人の活動の中心地は黒竜江省のハルビンであった。
この町には20世紀初頭から、ロシア系ユダヤ人を主とする小さなコミュニティが
あったが、日露戦争の影響と1905年のポグロムの結果、多数のユダヤ人が流入したため、
1908年にはその規模は8000人以上に膨れ上がった。その後、ロシア革命とウクライナでの
迫害を逃れて、さらに何千人もが満州に入ってきたので、ハルビンのユダヤ・コミュニティも
1920年には1万人を数え、満州国建国の頃は1万5000人にもなっていたのである。
「ハルビン・ヘブライ協会」が設立され、ラビのアロン・モシェ・キセレフと
アブラハム・カウフマン博士がその代表的存在だった。
●1937年12月26日にハルビンで開かれた第1回の「極東ユダヤ人大会」で、樋口季一郎(陸軍少将・のちに中将)は、次のように演説した。
「ヨーロッパのある一国は、ユダヤ人を好ましからざる分子として、法律上同胞であるべき人々を追放するという。いったい、どこへ追放しようというのか。追放せんとするならば、その行き先をちゃんと明示し、あらかじめそれを準備すべきである。当然とるべき処置を怠って、追放しようとするのは刃をくわえざる、虐殺に等しい行為と、断じなければならない。私は個人として、このような行為に怒りを覚え、心から憎まずにはいられない。
ユダヤ人を追放する前に、彼らに土地をあたえよ! 安住の地をあたえよ! そしてまた、祖国を与えなければならないのだ!」
この樋口季一郎の演説が終わると、凄まじい歓声が起こり、熱狂した青年が壇上に駆け上がって、樋口季一郎の前にひざまずいて号泣し始めたという。協会の幹部達も、感動の色を浮かべ、次々に握手を求めてきたという。
樋口季一郎・陸軍中将
ハルビンで開かれた
「極東ユダヤ人大会」では多数の
作業計画が採択されたが、その基本理念を
定めたのは樋口中将の基調演説だった。彼は、
日本人は人種偏見を持っておらず、親ユダヤ的だと
強調し、日本はユダヤ人と協力し経済的接触を
保つことに関心があると述べたのである。
「極東ユダヤ人大会」で挨拶を述べるユダヤ人
アブラハム・カウフマン博士(議長)
この「極東ユダヤ人大会」には、ハルビンのほか、
奉天、大連、ハイラル、チチハル、天津、神戸など、
極東各地のユダヤ人社会から代表が出席した。
※ ちなみにこの「極東ユダヤ人大会」に参加
したのはアシュケナジー系ユダヤ人ばかりで、
スファラディ系ユダヤ人は参加していない。
●この「極東ユダヤ人大会」の主要な結果は、カウフマン議長名でニューヨーク、ロンドン、パリのユダヤ人組織に打電され、数多くのメディアに通報された。
しかし、メディアの反響は期待を遥かに下回るものだった。
満州のユダヤ人たちは日本と協力する用意があったのに対して、「米国ユダヤ人会議」の議長スティーブン・ワイズ博士率いるアメリカのユダヤ人は反日的であった。ワイズ博士は、日本が世界のファシズムの最も危険な中心の一つだと考えていたのである。
ハルビンの「極東ユダヤ人会議」の議長だったアブラハム・カウフマン博士は、アメリカのユダヤ人のスポークスマンに対して「日本をもっと好意的に見るように」と説得したが、ルーズベルト大統領の側近だったワイズ博士は日本を全く信用せず、ユダヤ人の満州移住構想(河豚計画)には賛成しなかったのである。
スティーブン・ワイズ博士
彼はアメリカのユダヤ指導者階級の
中心人物のみならず、全世界のユダヤ人の
指導者ともいうべき人だった。ルーズベルト大統領の
ブレーンの中でも随一であり、大統領ある所には、
必ず影のように彼がついていたと評され、その
政策を左右する実力を持っていた。
しかし彼は基本的に「反日主義者」で、
日本との協力に消極的だった。
●ところで、日本軍が上海のサッスーン一族の「キャセイ・マンション」や外国人クラブを接収すると、彼らは日本に対して猛然と対抗意識を燃やし始めた。彼らは莫大な資金をつぎこんで蒋介石軍を支え、日本を中国大陸から追い出そうとしたのである。「上海キング」と呼ばれていたビクター・サッスーンは、日本の「河豚計画」に協力するのを断固拒否し続けた。
※ ビクター・サッスーンはイギリス育ちで親英主義者であり、反日的であった。
(左)ビクター・サッスーン (中)蒋介石 (右)中国国民党旗「青天白日旗」
「サッスーン家」は、並みいるユダヤ財閥の中
でもケタはずれの財産を保有する、屈指の財閥であった。
(サッスーン家は、英ロスチャイルド家の東アジア代理人であった)。
彼らは当時、上海を東洋進出への最大の本拠地と考えていた。
だからこそ、莫大な資金をつぎこんで蒋介石軍を支え、
日本を中国大陸から追い出そうとしたのである。
●前出の歴史研究家ハインツ・E・マウルは、サッスーンについて次のように書いている。
「当時、ビクター・サッスーンは日本にとって上海のユダヤ財閥の代表格であったが、日本の計画(河豚計画)には関心がなく、それどころか1939年2月のアメリカ旅行の際に反日発言を繰り返した。日本の中国大陸での冒険を終わらせるために、米英仏は日本を事実上ボイコットせよというのである。日本の陸戦隊本部は、サッスーンは自分の権力と影響力を失いたくないので日本軍を恐れているのだと見ていた。」
●明治大学教授の阪東宏氏によれば、1939年2月にアメリカを訪問したビクター・サッスーンは、ニューヨークで記者会見を行い、次のような趣旨の発言(反日発言)をしたという。
「日本軍による対中国作戦と中国側の焦土作戦の結果、中国大陸では来年大飢饉を免れないであろう。『日支事変』後の日本の中国経済開発事業は、アメリカ、イギリス、フランスの財政支援なしには不可能であろう。
日本の戦略物資の70%を供給しているアメリカ、イギリス、フランスが対日輸出禁止を実施すれば、日本は中国大陸から退却せざるをえない。また、日華戦争の経費負担の増加のため、日本は中国よりも赤化する可能性がある。なお、アメリカ、イギリス、フランスの対中国投資は、今後も安全が保証されるであろう」
※ この「反日発言」に神経をとがらせた日本の外務省は、在ニューヨーク、上海の総領事館あてにサッスーンの言動をさらに調査、報告するよう指示したが、意味のある調査結果は得られなかったという。
ビクター・サッスーンは1939年2月の
アメリカ旅行の際に「反日発言」を繰り返していた
●ところで、ユダヤ人のラビ・マーヴィン・トケイヤーは、著書『The Fugu Plan(フグ計画)』の中で、日本の「河豚計画」について次のように語っている。
(左)ラビ・マーヴィン・トケイヤー。1967年に
来日、「日本ユダヤ教団」のラビとなる。
(右)彼の著書『The Fugu Plan』
「1930年代、『河豚計画』は日本がまさに求めていたものを提供するはずだった。膨張を続ける日本の版図は、ロスチャイルドやバーナード・バルークやヤコブ・シフなどユダヤ財閥の資本と経営技術を必要としていた。資本と技術を持った人々を、日本が中国から獲得したばかりの植民地、満州国に定住させ、一日も早くソ連という北方の脅威との緩衝地帯にしなければならなかった。……
ユダヤ人を利用する代償として、日本はユダヤ人たちに夢を約束した。ヨーロッパの荒れ狂う迫害の嵐からユダヤ人を救い、安住の地を与えようというのである。ユダヤ人迫害は、キリスト教と密接な関係があるが、神道を国家信教とする日本には、ユダヤ人を排斥しなければならない理由はなかった。つまり、もし『河豚計画』が成功していれば、完全な両方得が成功するはずであった。」
◆
●この「河豚計画」の推進には、海軍の犬塚惟重大佐の「犬塚機関」の活動があった。
「犬塚機関」は、著名ユダヤ人と広い交際を持っていた田村光三(マサチューセッツ工科大出身の東洋製缶ニューヨーク出張所勤務)の協力を得た。
(左)犬塚惟重・海軍大佐 (右)田村光三
●「犬塚機関」は、ナチス・ドイツによって迫害されているユダヤ人たちを必死になって助けようと動いた。そして、助けることによって日本の安泰を図ろうとしたのであった。1939年春のできごとであった。
また、「犬塚機関」は、サッスーン家が反日的姿勢を改め、日本に協力してくれることが何よりも重要だと考え、1939年夏、ビクター・サッスーンを上海の虹口地区(通称「日本租界」)に招いて会食を開いたりした。
1939年夏、「犬塚機関」の招待に応じて会食に出席した
ビクター・サッスーン(右から2人目)。右端は犬塚惟重大佐。
●しかし、1940年9月27日に「日独伊三国軍事同盟」が締結されるに及んで、アメリカのユダヤ人組織から「犬塚機関」と田村光三に対して、次のような通告が送られてきたのである。
「日本当局が、上海その他の勢力範囲でユダヤ人に人種的偏見を持たず、公平に扱かって下さっている事実はわれわれもよく知り、今回のクレジットでその恩に報い、われわれの同胞も苦難から救われると期待していましたが、われわれには、今回のアメリカ政府首脳および一般のアメリカ人の反日感情に逆行する工作をする力はない。非常に残念だが、われわれの敵ナチスと同盟した日本を頼りにするわけにはいかなくなってしまいました」
(左)1940年9月、「日独伊三国軍事同盟」がベルリンで結ばれた。日本代表は
松岡洋右外相。来栖三郎駐独大使、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ独外相、
チアノ伊外相がこれに署名した。(右)三国軍事同盟祝賀会の様子。
●この通告を受けとった東條英機(陸相)は、安江仙弘(大連特務機関長)を解任し、予備役に編入。
そして、この年(1940年12月末)に予定されていた「第4回極東ユダヤ人大会」に対して中止命令を出したのであった。
安江仙弘(やすえ のりひろ)
陸軍最大の「ユダヤ問題専門家」。
1938年、大連特務機関長に就任すると、
大陸におけるユダヤ人の権益擁護に務め、
ユダヤ人たちから絶大な信頼と感謝を受けた。
安江大佐が、大連特務機関長の職を解かれ、
予備役に編入されると、大連ユダヤ人社会は更迭
された安江大佐のために1940年12月14日、大連
のユダヤ人クラブで「送別会」を催して彼を慰労した。
安江大佐は、予備役編入後も、ひきつづき大連に
とどまってユダヤ人のために尽くした。
●こうして、安江仙弘大佐と在東京ユダヤ人キンダーマンによって、水面下で進められていたアメリカ政府との直接交渉は、実現を目前にして潰えてしまったのである。
そして日本は、翌年12月8日に真珠湾を攻撃して日米戦争へ突入していったのである……。
※ 大連市の自宅で、日米開戦のニュースをラジオで聞いた安江大佐は、一言「しまった!」と叫んだという。
■■第4章:ユダヤ人の救出に力を尽くした犬塚大佐
●ところで、第二次世界大戦中、ドイツで公然と行われたユダヤ人迫害に対して、ヨーロッパの国々もアメリカも、長い間沈黙を守った。第二次世界大戦中、アメリカはユダヤ人に対する入国査証の発給を非常に制限し、ほとんどシャットアウトの政策であった。
※ この件に関しては、当館作成のファイル「ユダヤ難民に冷淡だった欧米諸国」で詳しく紹介しているので、興味のある方はご覧になって下さい。
第32代アメリカ大統領
フランクリン・ルーズベルト
●その上アメリカは、日米開戦と同時に「在上海ユダヤ難民救済基金」の送金すら差し止めた。
それに反して日本側は、「犬塚機関」の犬塚惟重大佐の尽力により、スイス赤十字社経由で〈資金受け入れ〉の方法をとったが、それすらアメリカ政府は禁止したので、困惑したユダヤ難民のため日本政府は〈凍結した英米系預貯金〉の中から〈難民救済の寄付分〉だけを解除するという処置をとった。
そのことを今でも深く感謝するユダヤ人たちは、犬塚大佐を高く顕彰している。
犬塚惟重(いぬづか これしげ)海軍大佐
海軍の「ユダヤ問題専門家」で、上海を拠点に
ユダヤ問題の処理に当たった。戦後は「日ユ懇談会」
の会長を務め、1965年に亡くなった。右の画像は
犬塚大佐のユダヤ人保護工作への感謝の印に、ユダヤ人
から贈られた「シガレット・ケース」(1941年)。
犬塚大佐のイニシャルと感謝の辞が刻まれている。
イスラエルの『エルサレム・ポスト』の記事(1982年3月12日)
上の人物は犬塚夫妻で、その下にあるのはユダヤ人から犬塚大佐に贈られた
「シガレット・ケース」である。この「シガレット・ケース」は、犬塚未亡人から
イスラエルのヤド・バシェムに寄贈され、ホロコースト博物館の収集品に加えられた。
※ この時に行われた「寄贈式」でユダヤ人のユバル副総裁は、氏が終戦直後の上海で
見聞した犬塚大佐は、学者肌で人道主義の寛大な日本士官で、特にユダヤ人の更生に
力を尽くした非凡な人物との評価を披露した。犬塚大佐は病院建設に協力したり、
シナゴーグ(ユダヤ教会堂)建設工事にセメントを融通するなどの助力を
惜しまなかったという。また、犬塚大佐の指揮によって日本人
学校校舎がユダヤ難民たちの宿舎になったという。
─ 完 ─
■■おまけ情報:『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』
●ナチスと同盟を結んだ日本政府は、ヒトラーの反ユダヤ主義に同調してしまったのだろうか?
●前出の歴史研究家ハインツ・E・マウルは、著書『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版)の中で、日本の対ユダヤ人政策について次のように書いている。
参考までに紹介しておきたい。
(左)ハインツ・E・マウル(元ドイツ連邦軍空軍将校)
(右)彼の著書『日本はなぜユダヤ人を迫害
しなかったのか』(芙蓉書房出版)
「戦争中の日本では、反ユダヤ・キャンペーンが強化されたとはいっても、政府のユダヤ政策そのものは基本的に変わらなかった。
松岡外相は1940年12月31日に個人的に招いたユダヤ富豪のレフ・ジュグマンに日本のユダヤ政策を説明している。『ヒトラーとの同盟は自分が結んだものだが、彼の反ユダヤ政策を日本で実行する約束はしていない』というのである。
それは松岡個人の意見ではなく、日本政府の態度である。かつ、それを世界に対して語らない理由はない。松岡は満鉄総裁時代に当時の『ユダヤ問題顧問』のアブラハム小辻(小辻節三博士)に、自分は防共協定は支持するが反ユダヤ主義には賛成しないと言っている。」
松岡洋右
1935年に満鉄総裁。
1940年第2次近衛内閣外相で
「日独伊三国軍事同盟」を締結し、
1941年には「日ソ中立条約」を締結。
「私はドイツと同盟は結んだが、ユダヤ人を
殺す約束まではしていない」として
ユダヤ難民を保護した。
「1938年12月6日の五相会議の対ユダヤ人政策の決定は、政治指導部間の妥協の産物ではあったが、下された時期が良かった。これでユダヤ人の絶滅というナチスの目標に歯止めをかけたからである。日本のユダヤ人政策は明確な構想を欠いた複雑なものではあったが、人道・道義という面では汚染されておらず、おかげで日本は『ユダヤ人殺し』の汚名を負わずにすんだ。
日本は投資が欲しくてユダヤ人を救ったわけではない。人種平等の原則によりユダヤ人を拒否しないという五相会議の決定は、政策の指針に政治的・倫理的マニフェストの性格を与えた。この決定は、不寛容、敵視、暴力とは無縁であり、人間を無差別に殺戮することを認めるものではなかったのだから。」
近衛文麿
第34、38、39代総理大臣。
軍部を中心とする勢力にかつがれて
三たび首相となった昭和の貴族政治家。
1938年12月6日に、近衛首相・有田八郎外相・
板垣征四郎陸相・米内光政海相・池田成彬蔵相兼商工相
による「五相会議」が開催され、ユダヤ人保護の
『ユダヤ人対策要綱』が決定された。
「1939年の上海の入国制限は、軍の権威と自信を示そうとするものだった。政府のほうは自信がなく、時には無関心で、訓令も曖昧だったため、現地の担当者には行動の自由があった。満州やシナでは、はじめのころ、優越感や自信の欠如あるいは単なる手違いから、ユダヤ人を蔑視した取りあつかいも見られたが、後にはユダヤ人を援助し、支援し、さらには救済する方向に転じて、かつての過ちを補うことになった。」
「欧州で戦争がはじまると、難民の流れは極東にむかう。難民の運命は日本の軍人、市民、税関や警察そして外交官の手中にあった。
上海の柴田領事は生命の危険をおかしてゲシュタポの計画をユダヤ人に漏らした。関東軍の東條英機参謀長は満州のユダヤ人を穏健に処遇するよう指令を発したし、アブラハム小辻(小辻節三博士)は外務大臣とのコネを利用して神戸のユダヤ人の状況改善をはかった。
ぎりぎりの状況のなかでユダヤ人を救おうとした外交官もたくさんいた。日本船の船長は収容能力をこえてユダヤ難民を乗せたし、東京のドイツ大使館が日本在住のユダヤ人の解職を要求した際に、課長・局長クラスの役人はこれをはねつけた。」
小辻節三博士(ヘブライ語学者)
ユダヤ難民への支援のため尽力した
彼は「極東ユダヤ人大会」に安江大佐の随員
として出席し、ヘブライ語で挨拶した。日本人の
口より出た流暢なヘブライ語は、ユダヤ人たちに
多大の感動を与えた。戦後はイスラエルに
行きユダヤ教徒となった。
(左)神戸の「ユダヤ人協会」の建物の前でのユダヤ難民たち
(右)神戸にあるユダヤ人墓地。日本政府に保護されて、
戦争終了まで日本で安全に暮らしたユダヤ人がいた。
「日本のユダヤ政策は、国際関係や外交協定より下のレベルでおこった事象だった。他の国々にとっては、日本がユダヤ人をどうしようと、自国の利益が害されないかぎり関心外のことだった。エビアン会議からバミューダ会議まで、各国は耳をふさいでおり、ユダヤ難民への扉は閉ざされていた。ハルビンから上海まで、日本とユダヤの相互理解への努力は、直接の影響を受けないユダヤ人や非ユダヤ人の関心をひかなかった。日本と『日本の』ユダヤ人は他から孤立していたのだ。〈中略〉
日本の海外進出への努力は、常に自国と周辺の異国との直接の対比のなかで行われた。ユダヤ人は日本人にとって『ユダヤ人』なのではなく単に外国人なのだった。日本は自分がユダヤ人と出会うまで、この民族が世界各国にとって問題をもつ存在であることを無視していた。ドイツと同盟を結んだ後でもそれは変わらなかった。『想像上の』ユダヤ人と『現実の』ユダヤ人には決定的な相違があった。ユダヤ人は日本人でなく、西洋の異人であり、所詮外国人だったのだ。
ナチス時代の日本人にとって、ユダヤ人はどこからか来てどこかへ去っていく外人なのだった。日本と日本人にとって、ユダヤ人は、外国人が常に日本にとってそうであったしそうであり続けるべきもの、即ち通り過ぎる旅人なのであった。」
以上、ハインツ・E・マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版)より
■■おまけ情報 2:ユダヤ人の救出に力を尽くした樋口中将
●1938年3月、満州国と国境を接したソ連領のオトポールに、大勢のユダヤ難民(2万人という説があるが、数千人という説もあり正確な人数は定かではない)が、吹雪の中で立往生していた。
これらのユダヤ人は、ヨーロッパで迫害を受けた人たちで、満州国に助けを求めるためにシべリア鉄道を貨車でゆられてきたのであるが、満州国が入国を拒否したため、難民は前へ進むこともできず、そうかといって退くこともできなかった。
食糧はすでにつき、飢餓と寒さのために凍死者が続出し、危険な状態にさらされていた。
●当時、満州国のハルビン特務機関長を務めていた樋口季一郎のところに、ハルビンのユダヤ人協会会長アブラハム・カウフマン博士が飛んできて、同胞の窮状を訴えた。しかし、満州国外務部(外務省)を飛び越えて、独断でユダヤ人を受け入れるのは、明らかな職務権限逸脱であった。
が、樋口中将は自分の判断で、ユダヤ難民全員を受け入れることを認めた。
難民の8割は大連、上海を経由してアメリカへ渡っていき、残りの難民は開拓農民として、ハルビン奥地に入植することになった。樋口中将は部下に指示し、それらの農民のために、土地と住居をあっせんするなど、最後まで面倒を見たのである。
樋口季一郎・陸軍中将
(ひぐち きいちろう)
ハルビン特務機関長だった時に
大勢のユダヤ難民を救出した。
※ ちなみに彼はロシア革命成立後、
ロシアへ入った最初の外国人だった。
(1925年に1ヶ月のロシア視察旅行をし、
「ソ連の内幕」をつぶさに見聞したという)。
樋口中将によって救出されたユダヤ難民たち
●この樋口中将のユダヤ難民保護に対して、案の定、ナチス・ドイツ政府から強硬な抗議が来た。しかし、彼は人道主義の名のもと、それをきっぱりとはねつけたのであった。
※ この件に関してもう少し詳しく紹介すると、樋口中将はドイツの抗議に対して、「ドイツが自国内でユダヤ人をどう扱おうがそれはドイツの勝手であるが、満州国のような独立の主権国家の領域内での決定にドイツが干渉することは許されない。日本はドイツの属国ではなく、また満州国も日本の属国ではない」と主張したのである。
この時、樋口中将の上司であった東條英機は彼の主張に完全に同意し、外務省にその通りに回答した。かくして、ドイツの抗議は空振りに終わったのである。
東條英機
●現在、イスラエルの「ゴールデン・ブック」に、「偉大なる人道主義者 ゼネラル・ヒグチ」と名前が刻印され、その功績が高く顕彰されている。
同じくユダヤ人の保護や友好活動に尽力した安江大佐も名を連ねている。
「ゴールデン・ブック」の表紙
(左)『流氷の海~ある軍司令官の決断』相良俊輔著(光人社)
(右)『樋口季一郎 回想録』樋口季一郎著(芙蓉書房出版)
↑日独伊三国同盟の下、ヒトラーの恫喝(どうかつ)と圧力を
はねのけて大勢のユダヤ難民を飢餓と凍死から救い出し、
自らは悲劇の島アッツ、キスカ方面軍司令官となり、
「太平洋戦争最大の奇蹟」を演出した異色の将軍
樋口季一郎の波瀾の生涯を描いた本。
■■おまけ情報 3:ユダヤ人の救出に力を尽くした安江大佐
●武田徹氏(ジャーナリスト)が書いた『偽満州国論』(河出書房新社)には、面白いエピソードが紹介されている。
簡単にまとめてみたいと思う。
●ユダヤ人保護に尽力した安江仙弘大佐は、大連で終戦を迎え、ソ連軍によって捕虜として拉致され、シベリアに抑留された。
そして各地の収容所を転々とした後、脳溢血で倒れ、収容所の中で帰らぬ人となった。
安江仙弘(やすえ のりひろ)
陸軍最大の「ユダヤ問題専門家」。
戦後、シベリアに抑留され、病死した。
●1954年、失意の生活を続けていた日本の安江家を、一人のユダヤ人が突然訪問した。
この巨漢の男は安江大佐の遺族に「葬式は出したのか?」と尋ねた。
「まだだ」と遺族が答えると、「こちらで金は用意するからぜひ出してくれ」と言った。
遺族は、初め遠慮した。
すると男は、「在日ユダヤ人協会」を代表して「極東のユダヤ人たちの安江大佐への恩返しの気持ちだから、葬式を出してくれ」と頭を下げて頼み込み始めた。
遺族は、この男の熱心さに打たれて葬式を執り行った。
以後、この男は安江大佐の長男と親交を結ぶようになる。
(左)1954年4月26日、青山斎場で行われた安江大佐の慰霊祭。
平凡社の下中弥三郎社長を委員長に執行された。駐日イスラエル公使、
在日ユダヤ人協会長、陸士21期生代表など多数が参列した。
(右)ハバロフスクにある安江大佐の墓地
●この男こそ、知る人ぞ知るミハエル・コーガンという名のユダヤ人だった。
彼は1920年にウクライナのオデッサで生まれたが、ロシア革命後の混乱を避けて、満州のハルビンに移住。1938年にハルビンで開催された「第2回極東ユダヤ人大会」では、シオニスト青年団の一人として参加し、安江大佐をエスコートしていたのである。
ミハエル・コーガン
(ウクライナ出身のユダヤ人)
彼は安江大佐が大連の特務機関長就任時から
面識があり、戦前、戦中の安江大佐の行動をよく知る
ユダヤ人の一人であった。彼は日本人顔負けの流暢な日本語
をあやつりながら、「安江さんに助けられたユダヤ人の
数は5万人に上ります」と語っていた。
●「極東のユダヤ人保護」に奮戦する安江大佐に感銘を受け、親日家となったミハエル・コーガンは、翌年1939年(19歳の時)に来日し、東京の「早稲田経済学院」で貿易実業を学んだ。5年間の日本滞在中、ロシア文学者の米川正夫氏の家に下宿し、彼のドストエフスキーの翻訳を手伝った。
その後、1944年に、コーガンは天津に渡り、貿易商を営み、1950年に再び来日。「太東洋行」という個人営業の輸入会社を始め、世田谷の仮住まいで雑貨の輸入業を営んだ。
戦後、ミハエル・コーガンは個人営業の
輸入会社を作り、日本でビジネスを展開した
●1953年に会社名を「太東貿易」と改名し、日本で初めてウォッカを醸造・販売したり、米軍払い下げの中古ジュークボックスのリース業を始め、成功を収める。
※ この会社名の「太東」は「極東の猶太(ユダヤ)人会社」という意味だという。
●1956年には純国産ジュークボックス1号機を開発し、1958年には日本で初めて「ピンボールゲーム」をリースし、ヒット商品とする。
1964年には東京オリンピックにあやかって、新顔の「オリンピアゲーム」を市場に導入。これは後に「パチスロ」と呼ばれる娯楽ゲーム機に進化していく原型であった。
翌年1965年には遠隔操作のマジックハンドで玩具を吊り上げる「クレーンゲーム」を開発。
こうして、コーガンは次々に日本のアミューズメントの世界を変えていった。
●1972年にコーガンは「太東貿易」の社名を「タイトー」に変更。
この年、日本初の業務用テレビゲーム「エレポン」を発表し、テレビゲーム市場を築いた。1977年には「ブロック崩し」でテーブル式ゲームマシンを発売し、ゲームセンターだけでなく喫茶店にも販路を拡大した。
翌年1978年、「スペース・インベーダー」を発表、空前の大ヒットとなり、社会現象になった。
ゲームメーカー「タイトー」の創業者は
ウクライナ出身のユダヤ人ミハエル・コーガン
である。彼の会社は「スペース・インベーダー」
を生み出し、日本の文化史に大きな足跡を残した。
※「タイトー」はセガに次ぐアミューズメント機器
メーカーの老舗であり(セガと並ぶ最大手であり)、
セガとともに「ビデオゲーム」を出した日本最古の
メーカーでもある(セガについては後述する)。
●コーガンは、「スペース・インベーダー」の大ヒット後、1984年に、出張先のロサンゼルスで心臓発作により他界した。遺産はおよそ100億円と言われ、外国人では過去最高と報じられた。
コーガンの葬儀はユダヤ葬で執り行われ、イスラエルに埋葬されたらしいが、生前、彼は日本での埋葬を望んでいたという。
「タイトー」はその後、ゲーム開発のほか、ジュークボックスの技術を応用したカラオケ機の製造に力を入れ、その大手企業に数えられている。この株譲渡益によって、コーガンの妻アーシアは、1994年の長者番付2位となった。
●コーガンについて、武田徹氏(ジャーナリスト)は次のように語っている。
「ミハエル・コーガン──。もしも、その名を覚えている人がいるとしたら、彼の残した莫大な遺産に関しての記憶ではないか。102億円の遺産は1984年の彼の没年当時で、鹿島建設の鹿島守之助、大正製薬の上原正之など財界の大物たちにつぐ歴代6位、外国人では史上最高額だと大いに騒がれた。その膨大な遺産は彼が『スペース・インベーダー』など一連の電子ゲーム機のヒットによって一代にして巨額の財をなした結果だった」
「彼の遺産は、財産だけではなかった。日本のみならず世界中に電子ゲームのネットワークを張りめぐらせたこと。ちなみにコーガンの育ったハルビンにも、日本資本によるゲームセンターが、戦後50年目の1995年にオープンしている」
●ちなみに、このコーガンについては、安江大佐の息子である安江弘夫氏が書いた本『大連特務機関と幻のユダヤ国家』(八幡書店)の中でも詳しく紹介されている。
この本の中で安江弘夫氏は、父(安江仙弘大佐)について、次のように書いている。
「第二次世界大戦中、支那在住のユダヤ人たちにドイツで行われたようにユダヤ人識別のための黄色の星形マーク(ダビデの紋章)や認識票を付けさせようとしたナチスの圧力に抗して、陸軍の上層部を説得して止めさせたのは父・安江であった。」
「父は、ユダヤ人問題に関して政府や陸軍中央と交渉する時は、いつでも当時の日本の国是であった『八紘一宇』を逆手にとって相手を説伏していた。つまり『錦の御旗』である。」
「戦後、わが国およびユダヤ系の学者の一部が『日本が特に理由無くユダヤ人を助けるはずがない』との先入観から、『外資導入』とか『対米関係』に着目し、日本政府が自らの利害だけを考えてユダヤ人保護政策を決めたと納得しているが、それは誤解である。政府の中心勢力は軍であり、海軍を含めてドイツ・イタリアに強く接近しており、そのような時期にこのようなユダヤ人保護政策を決めさせたのは、父・安江の人道主義とユダヤ民族に対する個人的心情に他ならない。」
この本は安江大佐の息子である
安江弘夫氏が書いた貴重な文献である。
「河豚計画」に興味のある方は、ぜひ
一読されることをオススメします。
●また、戦前、戦中の極東のユダヤ人問題を研究したアメリカのユダヤ人学者クランツラーは、その著書『日本人、ナチスそしてユダヤ人』の中で、次のように述べている。
「安江大佐の考えは、彼の1920年代のパレスチナ訪問と満州にシオニストのための一種の国を作りたいという願望に裏づけされたものである事は間違いない。
すなわち、彼は満州にイスラエルを作ろうとしたのである。」
◆
●ところで、安江大佐とは民族や立場を超えた親友であったハルビンのユダヤ人協会会長アブラハム・カウフマン博士も、ハルビンでソ連軍に逮捕され、戦後苦難の道を歩んだが、幸いにして彼は再建されたイスラエルに行って、その一生を終えることができた。
彼は16年間にわたるソ連での刑務所や労働キャンプでの体験を書いた自伝『キャンプの医者』の中で、安江大佐のことを次のように述べている。
「戦前、戦中の満州で、私が妻以外に信用できた唯一の人物が安江大佐であった……」
安江大佐(左)とカウフマン博士
アブラハム・カウフマン博士は
「極東ユダヤ人会議」の議長であったが、
同時に満州におけるシオニストの統領でもあり、
その立場から世界中にネットワークを張り巡らした
「シオン団」を通じて、各国の動きを熟知していた。
ちなみに博士の妻は日本人(旧姓高橋)だった。
博士は1971年3月21日に死去した。
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※ 余談になるが、ゲームメーカー「セガ」の生みの親の一人デビッド・ローゼンはユダヤ人である。
ジュークボックスやビデオゲームなど、戦後日本の初期のアミューズメントの世界は、ユダヤ人経営のメーカーだった「タイトー」と「セガ」により発展したのである。
「セガ」の生みの親の一人デビッド・ローゼン
1934年にアメリカで生まれたユダヤ人で、若い頃
米軍に入隊し、朝鮮戦争がきっかけで来日。日本に滞在中、
日本びいきになった彼は、朝鮮戦争が終わった翌年(1954年)、
アミューズメント機器会社「ローゼン・エンタープライズ」を設立。
(この会社がセガの母体の一つとなる)。1965年に他社と
合併して「セガ・エンタープライゼス」が発足すると、
日本で社長に就任。数多くのゲームを世に送り、
「セガ」の発展に大きく寄与した。
■■おまけ情報 4:ユダヤ人を救出した杉原千畝とアメリカの「日系人部隊」
●第二次世界大戦中、ウクライナではユダヤ人虐殺(ポグロム)が公然と行われたが、それは東欧諸国全般に共通する現象といえるものであった。北はリトアニアから南はクリミヤまでのナチス・ドイツ占領下のソビエト・ロシアでは、ユダヤ人殺戮のためにさまざまな形のナチスヘの協力が見られた。
それと共に、ソ連治下でくすぶっていた極右系のナショナリストのグループは、ナチスの方法手段をそのまま導入してユダヤ人迫害にあたった。
バルト三国と東欧諸国(1939年)
●リトアニアのグループなどは、ドイツ軍が攻め込んで来る前にいち早く、独自のポグロムを始めていた。これらの地域では警察のみならず一般庶民も、ユダヤ殺害のためなら互いの境界を越えてまで協力を惜しまなかった、と言われている。
リトアニアで殺されたユダヤ人の数は20万で、生きながらえたユダヤ人はわずか1割だけであった。
ユダヤ人を撲殺するリトアニア人たち
●こういった厳しい状況の中で、リトアニアの日本領事・杉原千畝氏は、ポーランドから逃れてきたユダヤ人に日本通過査証(ビザ)を発給し、6000人の命を救ったのである。彼に助けられたユダヤ人は、日本を通過して他の国に渡っていったが、神戸に住み着いた者もいた。
※ 1985年、杉原千畝氏はイスラエルの公的機関「ヤド・バシェム」から表彰され、「諸国民の中の正義の人賞」を受賞。翌年に彼は亡くなった。
6000人のユダヤ人を救った
リトアニアの日本領事・杉原千畝
(すぎはら ちうね)
ビザを求めて日本領事館の前に並ぶユダヤ難民(1940年)
●リトアニア生まれのユダヤ人であるソリー・ガノールは、少年時代にナチスの迫害にあい、「ダッハウ収容所」に収容されたが、アメリカの「日系人部隊」によって救出された。彼はこの時の体験を、著書『日本人に救われたユダヤ人の手記』(講談社)にまとめている。
(左)リトアニア生まれのユダヤ人ソリー・ガノール
(右)彼の著書『日本人に救われたユダヤ人の手記』(講談社)
●彼はナチスが迫ってくる頃、全く偶然、杉原千畝氏に出会い、杉原夫婦を自宅に招いたという。そして、杉原千畝氏から早期の脱出をアドバイスされるが、決断が遅れ機を逃してしまい、このことはまさに一生悔やまれたという。
その後、彼は各地を転々としたあと、「ダッハウ収容所」に収容され、そして、1945年5月2日に「日系人部隊」によって救出されたという。
ミュンヘン郊外にある「ダッハウ収容所」
「ダッハウ収容所」は、ナチスが一番最初に作った
収容所である。戦争が始まるより6年も前(1933年)、
ナチスの政敵や同性愛者、売春婦など「非社会的」
とされた人々を収容するために建設された。
●彼は本の中で次のように記している。
「リトアニアの臨時の首都カウナスのユダヤ人たちに、わずかな希望を差し伸べてくれた当局者がひとりいた。日本領事館の領事代理、杉原千畝氏である。杉原氏は自分のキャリア、自分の名誉、おそらくは自分の生命さえ危険にさらして、6000人をこえるユダヤ人を救ったのである。
第二次世界大戦初頭の2年間についての私の記憶では、杉原氏は暗黒の中の一条の光にほかならなかった。杉原氏こそは、きたるべき恐ろしい日々の間ずっと、私にとって、ひとつの変わらぬインスピレーションであり続けたのである。
この杉原氏の姿を最後に目にしてから5年もたったのち、しかも、私がホロコーストの世界から解放されたまさにその瞬間、杉原氏と同じ日本人の顔が目の前にあった。何と不思議で、何と素晴らしいめぐりあわせだろうか。
杉原氏のまなざし、杉原氏の笑顔に通じる何かが、死の淵から私を連れ戻してくれた、そのGI(米軍兵士)の温顔に見てとれたのだ。雪野原から私をかかえ起こしてくれたのは、『ニセイ』と呼ばれるアメリカの日系二世だったのである。1945年5月2日のことであった。」
「ダッハウ収容所」を解放した第522野戦砲兵大隊の
兵士たち(全員、アメリカの日系二世である)
左から、キヨシ・岡野伍長、ジェームズ・倉田中尉、
ミナベ・平崎一等兵、シャーキー・小林一等兵
●ソリー・ガノールを救出したのは、クラレンス・松村という名前の日系二世だったという。彼は次のように記している。
「日系二世兵士はクラレンス・松村という名前であった。アメリカ軍の第522野戦砲兵大隊に属していた。大隊から小隊まで日系二世だけで編成した連隊規模の第100・第442統合戦闘団の一大隊である。彼らはイタリア、フランス、そしてドイツと、凄惨な戦場を転戦した。この戦闘団は、その従軍期間から計算すると、大戦中のどのアメリカ軍部隊よりも多くの死傷者を出し、より多くの戦功賞を得ていた。」
(左)「日系人部隊」によって解放された「ダッハウ収容所」のユダヤ人たち
(右)ソリー・ガノールを救出した日系二世のクラレンス・松村軍曹
●ところで、第二次世界大戦中、自由と民主主義の国、アメリカ合衆国にも「強制収容所」があった。それも日本人と日系人専用のもので、約12万人もの民間人が財産と市民権を奪われて、カリフォルニア州からルイジアナ州までに広がる10数ヶ所の強制収容所に収容されたのである。
このアメリカの日系人に対する強制政策の裏には、白人の有色人種に対する人種的偏見や差別意識があったことは明らかである。(この時期、同じ敵国であったドイツ系・イタリア系のアメリカ人は「お構いなし」の状態だった)。
●このことについて、ソリー・ガノールは次のように記している。
「私の身のうえを思うと、いまひとつ見落としにできない運命の皮肉がある。松村ほかの日系人たちが、アメリカのために戦い、生命を落としつつあるというのに、祖国アメリカでは彼らの家族の多くが抑留所に押し込められていたことである。住居や事業から切り離され、人里離れた土地に作られ、タール紙を張りめぐらせたバラックでの生活に追いやられていた。
アメリカ政府は『再配置収容所』と呼んだが、『強制収容所』の別名にすぎなかった。」
アメリカに作られた日系人強制収容所。人里離れたアメリカの砂漠の中に
建てられた、タール紙で造られたバラック小屋の列。約12万人もの
日系民間人が財産と市民権を奪われて収容された。
整理用名札をつけられ、
日系人強制収容所に送り込まれた少女
●47年後の1992年、ソリー・ガノールは自分を助けてくれた日系二世兵士たちと、エルサレムで再会を果たした。ナチ時代に生き延びたことも奇跡的だが、半世紀を経た後の再会も奇跡であった。
彼は次のように記している。
「1992年春、私は日系人部隊の兵士たちと再会した。クラレンス・松村と私の再会の物語は、羽根がはえて世界中に流れた。日系人部隊の存在も、彼らがドイツの収容所解放に果たした役割のことも、それまでほとんど知られていなかったのである。
このときからのち、私は、松村と彼の部隊にいた人たちと何度か会った。イスラエルで、ドイツで、そしてアメリカでも。彼らと過ごすことのできた時間、ことに松村との数時間は、感謝の念とともに思い浮かんでくる。しかし、その松村は1995年5月、消えがたい悲しみを私に残して他界してしまわれた。」
(左)1992年に日系人部隊の兵士たちと再会したソリー・ガノール(左から6人目)
(右)杉原千畝氏を称える「人道の丘公園」での平和記念式典(1994年)
(右から3人目がソリー・ガノールで、中央は杉原千畝氏の夫人)
●そして、彼は続けて次のように記している。
「会うたびに、救出してくれた人たちについての知識と理解は深まった。彼らに日系人収容所での体験があり、より広くはアメリカでの被差別体験があったからこそ、あの1945年春、松村と彼の戦友たちは、救出にあたった相手に対し、理解と同情の火花を特別に強く燃え上がらせたのではなかったろうか?
日系二世とユダヤ人の間には、何か特別なきずながあるのではないか? 私に答えは出せない。が、日系二世たちと日本人に対し、私が強い同胞感覚を抱いていることはたしかである。」
■■おまけ情報 5:1944年に「勲五等瑞宝章」を受章していた杉原千畝
●戦後、アメリカのシカゴで世界初の「金融先物市場」を作り上げた大物ユダヤ人レオ・メラメド。
実は、彼は「杉原ビザ」の受給者である(知っている人は知っていると思うが…)
彼は1932年にポーランドのユダヤ人教師の家に生まれたが、8歳の時にナチに追われ、杉原氏の発行したビザで両親とともに日本に逃れ、九死に一生を得たのだった。
彼は1997年に出した著書『エスケープ・トゥ・ザ・フューチャーズ ~ホロコーストからシカゴ先物市場へ~』の日本語版の序文に、「日本の人々は私の両親と私の命の恩人です」と記している。
(左)「金融先物市場の父」であるレオ・メラメド
(中)彼の著書『エスケープ・トゥ・ザ・フューチャーズ』
(右)大戦中、6000人のユダヤ人を救った杉原千畝
レオ・メラメドは少年時代、杉原千畝に発給してもらったビザで
ナチスの魔の手から逃れ、シベリア・日本経由でアメリカに渡った。
※ 彼は杉原千畝の行為を「けた外れの勇気」と称えている。
●ところで、杉原氏の行為は、一般には、「日本政府の意向に反して、自分の判断で行ったもの」だと説明されており、これが原因で杉原氏は「不遇の晩年を送った」と広く多くの人に信じられている。
しかし、杉原氏は1944年に大日本帝国政府から叙勲されており(「勲五等瑞宝章」を受章)、まともな待遇を受けていたと考えられる。
外務省を辞任した時は、外務省職員の3人に1人が辞任せざるをえないという戦後の官庁整理が真の原因だったらしく、年金も支給されていた。また、「河豚(フグ)計画」の関係などもあり、駐モスクワ日本大使館などは、もっと後までユダヤ人にビザを発給していたことも確認されている。
勲五等瑞宝章
杉原千畝は1944年に
大日本帝国政府から叙勲された
●1995年に出版された『意外な解放者』(情報センター出版局)には、次のような記述がある。
「外務省は杉原氏の退職について『1946年から47年にかけて行われた〈行政整理及び、臨時職員令〉に基づく機構の縮小の結果であり、杉原氏だけでなく当時の外務省職員の3分の1が退職した』と説明している。
また、その言葉を裏付けるように、杉原氏は1944年にルーマニア公使館で勤務中に『勲五等瑞宝章』を受章し、退職までの間、昇給・昇進も順調に得ていた。また、退職金・年金についても、不利な扱いは一切受けていなかったようである。」
●「河豚計画」に詳しいユダヤ人のラビ・マーヴィン・トケイヤーも、次のように述べている。
「今日の日本では、杉原千畝が東京の外務省の方針に反して、ユダヤ難民を救うために、ビザを個人的な裁量をもって発行して、そのために戦後、外務省を追われた、と広く信じられている。しかし、これは全く誤っている。
杉原はカウナス(リトアニア)でユダヤ難民にビザを発給するに当たって、疑念がある場合には、しばしば事前に本省に許可を求めている。外務省にはこれらの公電の記録が、残っている。これらのビザの発給は、個人的な裁量において行ったものではなく、本国政府の方針に大筋において沿ったものであった。
杉原が本省の訓令に違反して、ビザを発給したために処分された事実は、どこを捜してみても、まったくない。
外務省の記録によれば、杉原がリトアニアにおいて難民に対してビザを発給したなかで、『外国人入国取締規則』が規定していた、行き先国の入国許可、旅費と日本滞在費を所持している事という条件を満たしていなかった者があったために、本省から注意を受けたことがあった。しかし、本省が出先に対して注意することは珍しいことではなく、杉原は一度として譴責(けんせき)処分は、受けていない。
ヨーロッパにあった日本大使館や、領事館も、多くのユダヤ人にビザを発給していた。杉原だけが、ビザを発行していたわけではない」
ラビ・マーヴィン・トケイヤー
1936年にハンガリー系ユダヤ人の家庭に
生まれる。1962年にユダヤ神学校でラビの資格
を取得。1967年に東京広尾の「日本ユダヤ教団」の
初代ラビに就任。1976年まで日本に滞在し、ユダヤ人と
日本人の比較文化論を発表。早稲田大学にて古代ヘブライ
文化を教えたこともある。アメリカに帰国後、ユダヤ人
学校の校長を歴任。現在ニューヨーク在住。
●さらに彼は、次のように述べている。
「杉原は外務省に下級の通訳官として、入省した。通訳官は『属官』と呼ばれる、いわゆる下積みの“ノンキャリア”だった。杉原はカウナスから、チェコスロバキア(当時)のプラハ、つぎにルーマニアのブカレストへ転勤して、1943年に、在ルーマニア公使館に勤務中に、ようやく三等書記官に昇進した。領事館員はウィーン条約によって、外交官としてみなされてはいないから、杉原は三等書記官に任命されたことによって、はじめて晴れて外交官となった。
その翌年に、杉原はそれまでの功績によって、『勲五等瑞宝章』を授けられている。日本政府は杉原がユダヤ人難民にビザを発給したことを、まったく問題にしなかったのだ。
もし、杉原がどのような形であれ、勝手にビザを発給したために、本省によって処分を受けていたとしたら、叙勲の栄誉に与(あずか)るようなことは、ありえなかった。〈中略〉
終戦とともに、日本政府はアメリカ占領軍の下で、外交権を否定され、一切の外交機能を奪われた。そこで外務省は機能が大きく縮小されたのにしたがって、当然のことに人員整理を行った。
このもとで、多数の職員が依願退職の形をとって、外務省を去っていった。外務省の定員は1946年に2260人だったのが、翌年にはおよそ3人に1人が退職することを求められて、1563人にまで減った。
杉原もそのなかの一人にすぎなかった。当時の外務次官だった岡崎勝男から、それまで勤務に精励したことに感謝する私信と、特別に金一封まで贈られている。この時に、700人近くが同時に退職したのだった。
いったい、外務次官が一人ひとりに実筆をもって、感謝する私信を認めたものだろうか。杉原が外務省を追われたというのは作りごとである。
杉原は日本において、ユダヤ人を救った人道主義者として、賛美されている。それならば、どうして日本陸軍の樋口中将や安江大佐を、同じように称えることができないのだろうか? 私(トケイヤー)は樋口や安江も、同じように扱われるべきだと思う」
■■追加情報:「杉原氏の懲戒処分なかった」 政府、定説覆す答弁書
2006年3月、日本政府は杉原千畝氏に関して、「定説」だった外務省による懲戒処分はなかったことを明らかにした。
とりあえず、新聞の記事を載せておきたい↓
2006年3月25日『東京新聞』
── この記事の内容 ──
政府は24日、ナチス・ドイツに追われたユダヤ人難民に日本通過査証(ビザ)を発給して約6000人を救い、「日本のシンドラー」と呼ばれた元外交官の故杉原千畝氏に関し、「定説」だった外務省による懲戒処分はなかったことを明らかにした。同日の閣議で決定した鈴木宗男衆院議員の質問主意書に対する答弁書で示した。1940年に在リトアニアの領事代理だった杉原氏は、殺到するユダヤ人難民に独断でビザを大量発給。このため1947年の帰国後、訓令違反として処分を受け退職に追い込まれたとされていた。
これについて答弁書は「(外務省の)指示要件を満たさない者にも発給した」と「違反」があったことは認めた。ただ外務省の保管文書で確認できる範囲では「懲戒処分が行われた事実はない」とした上、杉原氏は「1947年6月7日に依願退職」したとしている。
退職理由をめぐっては、1991年に外務省が「終戦直後の人員整理の一環だった」と表明し、杉原氏の名誉回復を図っているが、答弁書は「確認するのは困難」とした。
また杉原氏が実際に発給したビザについては「保管文書では、杉原氏は『リトアニア人とポーランド人に発給した通過査証は2132件、そのうちユダヤ系に対するものは約1500件と推定される』と報告している」と明記した。
2006年3月25日『東京新聞』
■■追加情報 2:ユダヤ人を保護していた「A級戦犯」の日本人たち
◆東條英機 …… 満州に逃げてきたユダヤ人に穏健な措置を取るように指示し、ドイツからの抗議を一蹴。
◆松岡洋右 …… 凍死寸前のユダヤ難民のために列車を手配。神戸に来たユダヤ人のために便宜を計らう。
◆荒木貞夫 …… 文部大臣の時、ドイツから在日ユダヤ人教師の追放を要求されるも、民族差別には同意できないと拒否。
◆東郷茂徳 …… 亡命ユダヤ人医師の婚約者を救出。恩義を感じたその医師は、東郷の主治医となり、日本で死去。
◆広田弘毅 …… 命のビザを発給した杉原千畝の尊敬する人物。亡命ユダヤ人音楽家の身元保証人となる。
◆板垣征四郎 …… 五相会議において、ユダヤ人も公平に扱うべきと主張し、その結果、ユダヤ人を公平に扱うのが日本の国策となった。
左から、東條英機、松岡洋右、荒木貞夫、東郷茂徳、広田弘毅、板垣征四郎
※ 彼らは全員「東京裁判」において「A級戦犯」として裁かれた
「東京裁判」の様子(1946年)
●多数のベストセラーで有名な渡部昇一氏(上智大学名誉教授)は、「A級戦犯」とユダヤ人に関して次のように語っている。
「三国同盟の相手であるドイツから『ユダヤ人を迫害してほしい』という要請がきたときに、五相会議が開かれた。これは閣議よりも中核の位置づけで、首相と外務大臣、陸海軍の大臣と大蔵大臣で行われる会議である。その場で陸軍大臣の板垣征四郎は、『日本は八紘一宇の精神である』と言った。つまり、民族差別しないという表明である。
あの頃、政府決定でユダヤ人を差別しないと政府決定したのは日本だけだ。そういうことをアピールしなかった。
この日本政府のユダヤ人に対する方針が東京裁判の弁護人たちによって上手に使われなかったことは甚(はなは)だ遺憾なことだった。ユダヤ人虐殺を主として裁いたニュルンベルク裁判を手本にして行われた東京裁判に、この五相会議の決議が利用されたら、裁判自体が揺らいだはずである。
ところがなんと板垣征四郎は絞首刑になってしまったのだ。
『誰に、何を、どのように伝えるか』という能力の貧困は今日の日本にも当てはまる問題である」
── 推薦文献 ──
── おまけリンク ──
◆杉原千畝記念館(岐阜県八百津町)
http://www.sugihara-museum.jp/
── 当館作成の関連ファイル ──
◆ヘブライ大学のユダヤ人教授は語る「大戦中、日本は世界一の民主国だった」
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