No.a6fhb700

作成 2000.3

 

ナチス・ドイツの「優生政策」の実態

 

 

第1章
ドイツ優生学の成立
第2章
ナチス・ドイツの「安楽死計画」
第3章
優れた人間を“生産”するための
「レーベンスボルン計画」
第4章
双生児の遺伝的特性の研究
〜 「死の天使」ヨーゼフ・メンゲレ博士 〜
第5章
ナチスの医学者たちの戦後
第6章
ワイツゼッカー演説の欺瞞
第7章
ナチスとアメリカの優生学者は
親密な関係にあった

おまけ
映画『アンナとロッテ』
おまけ
ヨーゼフ・メンゲレ博士を描いた
映画『マイ・ファーザー 〜死の天使〜』

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■■■第1章:ドイツ優生学の成立


■■近代優生学の誕生


●1883年、イギリスの科学者フランシス・ゴルトン「優生学(eugenics)」という言葉を作り出した。

 


近代優生学の創始者
フランシス・ゴルトン
(1822〜1911年)

イギリスの科学者で、「優生学」という
言葉を作り出した。祖父は医者・博物学者の
エラズマス・ダーウィンで、進化論で知られる
チャールズ・ダーウィンは従兄にあたる。

 

「優生学」とは、劣等な子孫の誕生を抑制し優秀な子孫を増やすことにより、単に一個人の健康ではなく一社会あるいは一民族全体の健康を計ろうとする思想をいう。それゆえ、「優生学」は「民族衛生学」とも呼ばれる。

1895年、ドイツの優生学者アルフレート・プレッツ博士が『民族衛生学の基本指針』を出版。「民族衛生学」という言葉が初めて用いられた。このプレッツ博士の著書は「ドイツ優生学」の出発点となった。

 


アルフレート・プレッツ博士
(1860〜1940年)

彼の著書『民族衛生学の基本指針』は
ドイツ優生学の出発点となった

 

●1905年、ベルリンに世界最初の優生学会「民族衛生学協会」が誕生。

同様の優生学会はイギリスやアメリカにも相次いで誕生した。


●この「民族衛生学」について、お茶の水女子大学教授の山本秀行氏は、著書『ナチズムの時代』(山川出版社)の中でこう述べている。

「アーリア人の優秀さなどを主張する人種主義は、今では非科学的にみえる。しかし、当時、人種と遺伝学、医学との結びつき新鮮なものであった。

ドイツ版の優生学である『民族衛生学』の講座は、1923年にミュンヘン大学で開設されたばかりの、最先端の科学であった。

生殖や生命を社会的にコントロールし、社会問題を、生物学的、医学的に解決しようとする考え方は、多くの知識人若い学生たちを引き付けたのである。 〈中略〉 この時代は、科学主義の時代であった。科学が人々を説得する有力な武器となったのである。ユダヤ人についての伝統的な偏見も、この時代には生物学や、人類学などの科学と結びつき、人種的な要素が前面に出てきている。」

 


『ナチズムの時代』
山本秀行著(山川出版社)

 


■■ベルリンに設立された「カイザー・ヴィルヘルム人類学・優生学・人類遺伝学研究所」


●1927年9月、「ドイツのオックスフォード」と呼ばれたベルリン=ダーレムに

「カイザー・ヴィルヘルム人類学・優生学・人類遺伝学研究所」が設立された。

1942年までの研究所長はオイゲン・フィッシャー博士であった。

 

 
解剖医で人類学者のオイゲン・フィッシャー博士
(1874〜1967年)

1908年、彼はフィールドワークに出かけた。南西アフリカの
ドイツ植民地で、彼はブーア人と「ホッテントット」の祖先をもつ、混血の
レーオボートと呼ばれる種族を調査した。1913年の彼の研究報告書の
最後の章には『混血の政治的意味』というタイトルの下にこう書かれていた。

「私たちは人種の混血についてまだあまり多くを知らないが、はっきりわかっている
のは次の点である。すなわち、劣等種族の血を受け入れたヨーロッパ民族は──黒人、
ホッテントットなどは劣等人種であり、このことを否定するのは空想家だけである──この
劣等要素を受け入れたことによって精神的・文化的衰退をこうむった、ということである。

こういう劣等種族の人間には保護を与えられてはならない。せいぜい彼らが我々の役に立
つ間、与えられていいだけだ。さもないとここで自由競争が、つまり没落が始まるからだ」



1935年頃の「カイザー・ヴィルヘルム
人類学・優生学・人類遺伝学研究所」

 

●当初、この研究所は3部門に、後には4部門に分かれ、初めから研究成果の「政治的転換」を意図していた。

◎人類学部門……オイゲン・フィッシャー博士(初代所長)

◎人類遺伝学部門……オトマール・フォン・フェアシュアー博士(2代目所長)

◎優生学部門……ムッカーマン博士、レンツ博士

◎実験遺伝病理学部門……ナハッハイム博士

 


1932年の人種研究の様子

ナチス政権が誕生する前に、キール大学の学者
たちは近隣の村で人類学調査旅行を行っていた。

調査の財政的出費をしたのは「ドイツ学術緊急援助会」
(今日のDFG)で、「カイザー・ヴィルヘルム研究所」は、
ヴォルフガング・アーベル博士を代表者
にして、これに深く関与していた。

 

 


 

■■■第2章:ナチス・ドイツの「安楽死計画」


■■安楽死計画 ─ 暗号名「T4作戦」


●ナチス・ドイツの「優生思想」で、障害者や難病の患者は「安楽死計画」の犠牲になった。

1939年から1941年8月までに、約7万人の障害者が「生きるに値しない生命」として、抹殺された。

「安楽死計画」の事務所(中央本部)がベルリンのティアガルデン4番地の個人邸宅を接収して、そこに置かれたことから、この計画は暗号で「T4作戦」と呼ばれた。邸のかつての持ち主であったユダヤ人は、一文の補償金もなしで追い出された。

ポツダム広場の「コロンブス・ハウス」にも幾つかの事務室があった。

 


ナチスが作った宣伝用ポスター

椅子に腰かけた脳性マヒとおぼしき
男性患者の後ろに、健康かつハンサムな
ドイツ青年が立ち、かばうように患者の肩に
手を置いている。そして、「この立派な人間が、
こんな、我々の社会を脅かす病んだ人間の世話
に専念している。我々はこの図を恥ずべきでは
ないのか?」というキャプションが付けられていた。

※ ナチス・ドイツ社会では遺伝性疾患をもつ人が
いかに「民族共同体」に負担をかけているか、
意味もなく国民の大事なお金を使う存在で
あるかが強調されたのであった。

 

●「T4作戦」の責任者であった総統官房長フィリップ・ボウラーと、ヒトラーの侍医カール・ブラント博士は、全ドイツの障害者施設に全収容者に関する調査書を送り、記入されて返ってきた患者のリストを専門家に評価させ、「+」ないし「−」記号によって障害者の運命を決める規則の細目を作成した。

 


ヒトラーの侍医の1人である
カール・ブラント博士

第三帝国の厚生政策の要職にあり、
「T4作戦」の責任者であった

 

●T4本部には少なくとも60人の専任の医者と300人のスタッフが働き、ハダマーなど6ヶ所の精神病院に「安楽死施設」が設けられた。

T4は、いくつかの特別重点部門を組織したが、その一つが「公共患者輸送会社」(略称:Gekrat)だった。この部門の責任者であるラインホルト・フォアベルクは、帝国郵政省から借り受け「灰色」に塗り直したバスを、ドイツの旧領土中およびポーランドの占領地域にまで送り、各地の精神病院から患者を「安楽死施設」に移送した。

 

 
(左)ドイツのヘッセン州にあるハダマーの精神病院。「T4作戦」の舞台となった。
(右)各地の精神病院から患者を「安楽死施設」に移送する灰色のバス2台。
バスは快適に内装されており、中が外から見えないように覆われていた。
移動の時間が長い時は、患者に熱いコーヒーの入った
魔法瓶とサンドイッチが準備されたという。



『灰色のバスがやってきた』
フランツ・ルツィウス著(草思社)

 

※ この「T4作戦」は、1941年8月にヒトラーの命令で突然中止となった。

『恐ろしい医師たち ─ ナチ時代の医師の犯罪』(かもがわ出版)の著者ティル・バスチアンによれば、「中止理由は色々憶測されてはいるが、今日でも完全には明らかになっていない」という。

『灰色のバスがやってきた』(草思社)を書いたジャーナリスト、フランツ・ルツィウスによれば、中止命令が出された1941年8月以降も、障害者はもっと陰湿な方法で殺され続けていたという。

 

■■ドイツの医者の半分近くはナチ党員だった


ところで、当時、ドイツの医者の半分近くはナチ党員だった。

これほどナチ党員の割合の高い職業は他になかった。「T4作戦」には著名な医学教授や精神病教授、高名な医者が参加に同意した。医学界の指導者のみならず相当数の医者も詳細な説明を得ていた。

ドイツの医学界は上も下も計画に対して語るに足る反対を行わなかったし、邪魔立てもしなかった。一般市民から、精神病患者の殺害に抗議する手紙、嘆願書が多くあった中で、ゴットフリード・エヴァルト教授からの手紙を唯一の例外として、精神病医からの抗議はなかった……。

 


ナチスが学校教育で用いた図=「劣等分子の重荷」

この図にはこう書かれている。

「遺伝病患者は、国家に1日あたり5.50マルクの
負担をかけている。5.50マルクあれば遺伝的に
健康な家族が1日暮らすことができる」と。

 

●1988年に、ペンシルベニア大学のロバート・プロクター教授は、ナチス・ドイツの医学犯罪の実態を描いた本『人種衛生 〈ナチスの医学〉』を刊行したが、彼はこの本の中で、

最も野蛮な「保健措置」の多くが医者の発案によるものであったこと、その医者たちは無理やりナチスに協力させられたのではないこと、医者たちはヒトラーに利用されたのではなく、むしろ率先して事に当たっていたという事実を指摘している。

 


庭園で心穏やかな一時を過ごす
「T4作戦」の医学関係者

 彼らはヒトラーに利用されたのではなく、
むしろ率先して事に当たっていたという

 

●また、アメリカのロバート・リフトン医学博士も次のように述べている。

「ナチスの精神医学者は、医学的理想主義を追求した。その姿勢は真摯とも言えた。

ナチス・ドイツの強制断種手術のもととなる理論を唱えたのは、エルンスト・リュディンという有名な精神医学者だった。悪い遺伝子を取り除く強制断種手術は、精神の病を根絶するという夢の成就に一役買ってくれるとリュディンは信じていた。

一方、精神病患者を殺すための理論的根拠は、1920年、ドイツの著名な精神医学者アルフレッド・ホッヘと、同じく著名な法律家カール・ビルディングによって書かれたプレ・ナチ的な本の中で示された。

それによれば、精神医学的見地から“生きる価値がない生命”と判断された人々は破壊してもよいという。 〈中略〉

私がインタビューしたあるナチスの医師によれば、ナチスのプロジェクト全体が『応用生物学にほかならない』とみなされ、広い意味で生物学的真理を追究するものとされたのだ」

 


エルンスト・リュディン博士

1905年、ベルリンに世界最初の優生学会
「民族衛生学協会」を創設。1933年、ナチ内務大臣
フリックのもとで、「断種法」の起草・制定に指導的な立場
から参画。精神分裂病の遺伝学的研究の世界的権威であり、
ナチ党員であったリュディンは、1934年以後、終戦に至るまで
「ドイツ精神神経学会」の会長職にあり、自ら起草した「断種法」の
熱心な遂行者であり、「安楽死論」の支持者であり続けた。

 

 


 

■■■第3章:優れた人間を“生産”するための「レーベンスボルン計画」


■■「アーネンエルベ」による人種・遺伝問題の研究


●ナチス・ドイツの様々な組織の中にあって、ひときわ異彩を放っているのが「アーネンエルベ」である。正式名称は「ドイチェス・アーネンエルベ(ドイツ古代遺産協会)」で、もともとは、1933年に設立された民間団体だったが、その後、ナチス・ドイツの公式機関となったのである。

1939年に「アーネンエルベ」はナチス親衛隊(SS)に吸収され、SSの他のセクションと同等の支部にまで昇格し、SS長官ハインリヒ・ヒムラーの個人的傾向と相まって、いわばSSの研究教育団体として認知されるに至った。

 

 
(左)「アーネンエルベ」本部 (右)「アーネンエルベ」のエンブレム

本部はベルリン郊外のダーレムにあり、SS長官
ヒムラーが集めたナチスの御用学者たちが、ドイツの大学の
カリキュラムを監視するとともに、アーリア人の優勢を科学的に証明し、
祖国で陳列して崇められるようなドイツの美術品や遺物を
収集するために、海外に調査団を派遣していた。

 

●多岐にわたる「アーネンエルベ」の研究項目の中で、ぞっとするのは「人種・遺伝問題研究部」である。捕虜の生体実験をはじめ、数々の非人道的研究実験が行われ、数多くの人間が実験台にされて苦悶のうちに死んでいった。「アーネンエルベ」の事務長、ウォルフラム・フォン・ジーバス博士は、黒いアゴ髭をはやし、ファウスト伝説の悪魔メフィストフェレスにそっくりだった。

 


「アーネンエルベ」の事務長
ウォルフラム・フォン・ジーバス博士

戦後、連合軍に逮捕されて処刑された

 

●優越民族アーリア人種の純血保存のために“劣等民族”を絶滅させる目的で、最初の断種実験が行われたのは、アウシュヴィッツ収容所の囚人に対してで、薬剤、外科手術、さらには強力なX線照射などで効果を試してみたという。

1941年には、ストラスブルク大学解剖学研究所の依頼で、東部戦線での捕虜多数の頭蓋骨を綿密に測定した上で、頭蓋骨を傷めない方法で死に至らしめ、頭を切り離して、ブリキ缶に入れて密封し、同研究所まで送ったという。ジーバス博士はニュルンベルク裁判で、この点を追及され、「人類学上の測定」をしたのだと答えている。

 


アーリア人か否かを識別するために
使用された頭蓋骨測定装置「プラトメートル」


  
ベルリンの医学研究所で行われた人種検査の様子。
定規を使って顔の特徴を測定している。右端の用紙は、
純血アーリア人を証明するための医学カルテである。
ドイツ人と結婚を希望する外国人は、医師が
発行するこうしたカルテが必要とされた。

 


■■「レーベンスボルン(生命の泉)計画」


●これら“劣等民族”を絶滅させるための研究と並行して、“支配民族”を育てる「交配牧場」なるものを作る計画もあった。IQの高い者同士、または運動能力の高い者同士のSS隊員とゲルマン女性を一緒にして、より優れた人間を作ろうとしていたのである。

 

 
(左)SS入隊のための身体検査の様子 (右)「レーベンスボルン」の
行事に参加するSS隊員とドイツ女性(BDM)

 

●この計画の1つとして実施されたのが「レーベンスボルン(生命の泉)計画」である。

「レーベンスボルン」は約1万人の会員を擁する9つの支部からなる組織で(その後増える)、1936年にテスト的に創立され、1938年にミュンヘンで裁判所に正式に登録された。SSの一部をなし、SS長官ヒムラーに直属するものになった。

組織の目的はSS隊員にできるだけ多くの子供を持たせること。良き血の母親と子供を助け、未来のエリートを育てることであった。

 

  
「レーベンスボルン」の産院



「レーベンスボルン」で生まれた赤ん坊に対して
行われた命名式。命名するのはSSの将校である。

 

「レーベンスボルン」は1939年には、戦死したSS隊員の子供とその母親を保護すると宣言。女性は子供をはらむと身二つになるまで「レーベンスボルン」の手厚い保護を受けた。子供は生まれると同時に、その後は国家が養育するので母親から引き離され、「子供の家」に送られた。

二親の最良の遺伝子を受け継ぐ子供たちは将来ドイツを担うエリートになるはずであった。7歳になると「レーベンスボルン」と緊密に協力する「国民学校」に入学した。

 

  
ナチスの子供たち

ナチスは政権につくとすぐに、公立学校を支配下におさめ、
「国民学校」とした。それまでの教科書は破棄され、新しいものが提供された。
カリキュラムも徹底的に変えられ、新しい科目が2つ加わった。「人種学」と「優生学」である。

人種学の授業では、「アーリア人種こそが優秀人種であり、ヨーロッパを支配することになっているのだ」
と教えられた。優生学の授業では、「アーリア人種は健康なアーリア人種とのみ結婚すべきであり、
非アーリア人種と結婚して血を混ぜてはならない」と教えられた。また生徒たちは、「ユダヤ人は
ドイツに対する脅威であるだけでなく、世界平和に対する脅威でもあるのだ」と教えられた。

 

●1944年になると、「レーベンスボルン」の産院は13ヶ所に増えた。

「レーベンスボルン」で“生産”された子供たちは約4万人と推定されている。

 


SS長官ハインリッヒ・ヒムラー

彼はSS隊員の結婚について、「できるだけ早く
結婚して多くの子をつくるべき」であり、「数が増えれば
育種失敗作も増えるであろうが、人数が少ないよりはよい」
と述べていた。彼は出産を奨励するために「母親十字章」を
制定した。4人の子供を出産すると銅章、6人で銀章、
8人で金章が授与された。金章受章者は自由に
ヒトラーに面会できたという。

 

●ところで、子供を組織的に“生産・飼育”してみたところで、時間がなんといっても10ヶ月以上もかかり、ナチ幹部たちはもどかしさを感じていた。

そのため、SS長官ヒムラーはもっと手っ取り早い方法を考えるようになる。

1940年5月にヒムラーは、東方の子供たちを毎年人種選別する計画を立て、1941年の後半から、占領地区で「アーリア的」な子供を探して誘拐することを開始したのであった。

その初めがルーマニア、バナトゥ地方の25人の子供たちで、彼らは「人種的ドイツ人移住センター」を経由し、ドイツの「ランゲンツェル城」に連れてこられた。着いてすぐ詳しい身体検査をされ、その後、優秀とみなされた、つまり「レーベンスボルン」が引き受ける子供と、「レーベンスボルン」が引き受けない、労働に回される子供とに分けられたのである。


●戦争中、ドイツに占領されたポーランド西部の町々ではナチスにより2歳から14歳までの少年少女が大勢さらわれたが、その数は20万人以上と言われている。

大変に特徴的だったのは、その子供たちがみな青い目で金髪であったことである。彼らは名前をドイツ名に変えられ、修正された出生証明書とともに、選ばれた家族の元に送られた。子供の多くは本来の家族の元に帰されることはなく、さらに彼らは自らがポーランド人であることも知らなかった。(このため、戦後になると両親とも不明の孤児が多数出現するという悲惨な事態を招いた)。



●このような悲劇を体験した1人に、ポーランド生まれのアロイズィ・トヴァルデツキがいる。

 

 
(左)アロイズィ・トヴァルデツキ(ポーランド人)
(右)彼の著書『ぼくはナチにさらわれた』(共同通信社)

彼はポーランドに帰国後、ワルシャワ大学ほかを卒業。
大学の助手、通訳などを経て、現在、会社社長。

 

彼が自らの体験をつづった本『ぼくはナチにさらわれた』によれば、彼はポーランドで4歳の時にナチスにさらわれ、ドイツの孤児院を経て、子供のいないドイツ人の家庭に養子にもらわれたという。そしてそこでドイツ人として育てられ、ナチス礼賛の少年として成長したという。

しかし、戦後11歳になった時に、自分がポーランド人のさらわれてきた子供だったと知り、大きなショックを受けたという。

彼はその当時の気持ちを、こう記している。

「『僕がドイツ人じゃない。ドイツ人じゃないだって。僕は……ポラッケ(ポーランド人の蔑称)だっていうのか。馬鹿馬鹿しい。ふざけた話だ。あり得ないじゃないか、僕が──ポーランド人だなんて、はっはっはっ』 〈中略〉

私はポーランド人を他のどんな民族よりも下等なものと考えていました。だいいち、我が英雄的な“兵士たち”(ドイツ軍人)にあっては、彼らはたちどころに叩きのめされた負け犬です。 〈中略〉

とにかくこの忘れがたい瞬間を私は深い衝撃で受け止め、言いようのない嫌悪感を感じながら、その一方でなぜかこの写真の女性(実の母親)の顔に引き付けられ、心臓が苦しいように打つのでした。」



●この本を翻訳した足達和子さんは、「レーベンスボルン」の実態について次のように記している。

「『レーベンスボルン』の会員になれるのは、男は親衛隊員などの高級将校、女はアーリア人種としての特徴が祖父母の代まで認められた遺伝的資質の優れた者で、のちに枠が拡げられ、ドイツ人でなくてもナチの基準に合えば入れるようになります。大切なのは目の色、髪の毛の色、そしてことに頭の形で、例えば丸い頭の者は全くチャンスがないのでした。 〈中略〉

『レーベンスボルン』で生まれた子供たちはエリートになるはず。国の将来を担う人に育つ予定でした。二親の最も優れた遺伝子を受け継ぎ、生まれたときにすでにスーパー人種であるはずです。

実際にそうなったでしょうか?

戦後の調査では驚いたことにそのほとんどに知能や体力の点での後退が見られる……。3歳でまだ歩けない子、まだしゃべれない子、かなりの損傷を持った子供もいるのでした。

ドイツがたとえ戦争に勝っていたとしても、この、子供の『生産』ないしは『飼育』は間もなく中止されたことでしょう。ナチの目論見(もくろみ)がこんなに外れるのでは子供たちを結局どこかの『収容所』で“抹殺”しなくてはならなくなるからです。母胎はこの上なく異常な状況に置かれました。そして出生後も“ヒトラーの子供たち”は『愛』のない養育を受けたのです。

一方、さらってきた子供たちはどうだったでしょうか?

小さいとき青い目で金髪で典型的な北欧タイプの顔立ちをしていた子供たちでも、その後全然違うタイプの顔になり、目や髪の毛の色も濃くなった人がずいぶんいます。また幼いときドイツ語に無理矢理変わらされ、そのために思考に困難を生ずることがありました。大きくなり、ドイツ人ではなかったと分かった子供たちはまた母国語の勉強のし直しで、結局本書の著者のように大学まで行けた子供は数としては少数です。心に深い傷を負った例はことに多いのでした。」



●このように、「レーベンスボルン」のプロジェクトは、理想と現実の間に大きなギャップが存在していたのであるが、ヒムラーが予定していた計画によると、1980年までにドイツは1億2000万人の“純血のドイツ人たち”の国になり、他民族の誘拐してくる子供たちについては「記録を保管する棚」があと600追加されるはずであったという。

足達和子さんによると、戦後のドイツでは、「レーベンスボルン」の擁護者と糾弾者との間で、かなり長く激烈な闘いが展開されたという。擁護者たちが「あれこそ理想的な福祉施設だった、それを非難するとはドイツの顔に泥を塗る気か」と主張するのに対して、糾弾者たちは事実を明らかにしてこそ今後の平和のためであるとし、本や雑誌、そして映画も作ったという。

 

 


 

■■■第4章:双生児の遺伝的特性の研究 ─ 「死の天使」ヨーゼフ・メンゲレ博士


■■アウシュヴィッツの「生理学・病理学実験研究所」


●ナチス・ドイツには「アーネンエルベ」内の組織とは別に、もうひとつの遺伝学の研究機関があった。「生理学・病理学実験研究所」である。

この研究所は、当時のベルリンで世界的に有名だった「カイザー・ヴィルヘルム人類学・優生学・人類遺伝学研究所」(前述)の指導のもとに、1943年5月、アウシュヴィッツ収容所に併設される形で発足した。

 


ナチスの遺伝学の研究機関「生理学・病理学実験研究所」は、
1943年5月、アウシュヴィッツ収容所に併設される形で発足した

 

●この所長のオトマール・フォン・フェアシュアー博士は、ヨーロッパでも一流の遺伝学者だったが、また、ヒトラーの人種理論の熱烈な信奉者でもあった。

「わがドイツの他に抜きんでた統率力、これまで築き上げた国力は、人種や遺伝に関する理念の重要性を十分に自覚しているからこそ達成できたものである」と、遺伝学の重要性を力説していたフェアシュアー博士は、双生児の遺伝的特性を研究テーマとしていた。

 

  
(左)オトマール・フォン・フェアシュアー博士 (右)遺伝学の重要性を
力説していた彼は、双生児の遺伝的特性を研究テーマとしていた

彼は当初、「カイザー・ヴィルヘルム研究所」の人類遺伝学部門の
部長であったが、まもなくその「双生児研究」を拡張したことによって、
国際的名声を獲得した。1936年から1942年まで彼はフランクフルト
大学に新設された「遺伝病理学研究所」の所長を務め、その後、ベルリン
のオイゲン・フィッシャー博士の後を継いで2代目所長に就任した。

 

●このフェアシュアー博士がアウシュヴィッツに送り込んだ弟子がヨーゼフ・メンゲレ博士である。

アウシュヴィッツ収容所の専属医師として、次々と移送されてくるユダヤ人を駅頭に出迎え、穏やかな笑顔をたたえながらユダヤ人を選別していたメンゲレは、人々から「死の天使」と呼ばれて恐れられていた。

メンゲレは師フェアシュアー博士の教示に従って、双生児こそ遺伝や人種の優劣の秘密を解くカギだと考え、彼の双生児の医学実験は実に様々な方面に及んだ。手や足などの切断手術、腎臓などの除去手術、脊椎や腰椎の穿刺、性器の手術、傷口からの故意の感染──チフス菌の注入などを行い、その反応を比較したのである。

 

 
(左)「死の天使」ヨーゼフ・メンゲレ博士
(右)メンゲレ博士の医学実験の対象になった
子どもたち。両端はジプシー(ロマ)の双子姉妹

 

●このアウシュヴィッツの「生理学・病理学実験研究所」が、遺伝学の分野でどれだけの成果をあげたのかは、一切分かっていない。ソ連軍が迫ってきた1945年1月、メンゲレの実験室は解体され、ダイナマイトで跡形もなく爆破された。個人的な文書や医学論文は注意深くセレクトして梱包され、残りは焼却された。ソ連軍の大砲が遠く轟く中、メンゲレはアウシュヴィッツをあとにしたのである。

そして戦後、メンゲレは連合国側に「第一級戦犯」として指名手配を受けたにもかかわらず、4年間をアメリカ軍占領地域内で過ごし、ナチスの逃亡ネットワークの助けでスイスからイタリアに入国、船でアルゼンチンに渡る。340万ドルの賞金をかけられ、ドイツの捜査当局とイスラエルの秘密情報機関に追われるが、南米で実業家として成功し、ついに逃げのびて1979年2月、ブラジルの海岸で海水浴中に心臓発作で“自然死”する。

 

 

●一方、メンゲレが師と仰いでいたフェアシュアー博士は、戦後、その役割が問題となり、戦争犯罪調査局の尋問を受けた。しかし、彼は帝国学術研究評議会の命令によって合法的な医学研究だけに携わった、と主張。メンゲレの研究に関連した書類や標本は全てナチスによって焼却された、と証言した。

結局、フェアシュアー博士はいっさい罰せられることなく教職に戻り、「カイザー・ヴィルヘルム人類学・優生学・人類遺伝学研究所」の戦時中の膨大な研究成果は、闇の中に消えてしまったのである(アメリカが研究成果を奪い取ったとも言われている)。

 

 
メンゲレが師と仰いでいた
オトマール・フォン・フェアシュアー博士

彼は戦後告発もされずに、ドイツの
「ミュンスター大学」遺伝学教授として
人生を全うし、1969年に亡くなった。

 

 


 

■■■第5章:ナチスの医学者たちの戦後


■■多くの者たちが罪を問われることもなく「社会復帰」を果たした


戦後、裁判の場に引き出された当時の医者たちは口をそろえて、「我々は医学の進歩に貢献しただけだ」と主張し、反省の色も見せなかった。

そして、さらに多くの医学者たちが罪を問われることもなく、東西ドイツの医療や教職や研究の第一線の場で活動し続けたのである。


●医師である小俣和一郎氏は、著書『精神医学とナチズム』(講談社)の中で、次のように述べている。


「T4作戦に直接関与した大学教授の大多数が、戦後何らの裁きを受けることもなく『社会復帰』を果たしている。」

「ナチ国家における『最初の安楽死』となったクナウアー事件で犠牲者の主治医を務め、障害児安楽死機関『帝国委員会』のメンバーの一人であったT4鑑定医拳ライプツィヒ大学小児科教授のヴェルナー・カーテル博士は、戦後いちはやく西側占領地域へ脱出した。1947年、彼は中部ドイツ・タウヌス山中にあるマモルスハイン州立障害児療養所で院長の地位を獲得した。1954年、カーテル博士はついにキール大学小児科教授に就任する。彼に対する起訴状は、1964年に至って最終的に取り下げられた。彼はそのまま平穏な老後生活を楽しみ、1980年、86歳の長寿を全うして他界している。

カーテル博士と同じく、障害児安楽死計画に参加し、鑑定医を務めたベルリン大学小児科教授のハンス・ハインツェ博士も戦後西側に脱出し、1954年、かつて入院患者の多くがさかんに移送されていたヴンストルフ州立精神病院で児童精神科の医長の座におさまった。彼に対する起訴状も、1966年に至って最終的に取り下げられた。ハインツェ博士は1983年、87歳でこの世を去っている。」


「T4作戦を自らの研究活動にも利用していたボン大学精神科教授兼T4鑑定医クルト・ポーリッシュ博士は、1948年に無罪判決を受け、1952年、再びボン大学教授に返り咲いた。1955年、彼は教授の地位についたまま世を去っている。

T4鑑定医兼ケーニヒスベルク大学教授のフリードリヒ・マウツ博士は、1953年から15年間の長きにわたってミュンスター大学精神科教授の地位にあった。彼はガウプ、クレッチュマーらと並んで、いわゆるテュービンゲン学派を代表する精神病理学者として広くその名を知られている。

同じくT4鑑定医兼ブレスラウ大学精神科教授のヴェルナー・ヴィリンガー博士も、1946年から13年間にわたってマールブルク大学で精神科教授を務めた。彼はその間に精神薄弱児の、ある全国的な支援団体の発起人の一人に名を連ねている。」


「T4作戦で、臨床上興味ある患者を安楽死施設に移送して、その脳を解剖していたユリウス・ドイセン博士は、戦後再建された西ドイツ連邦軍の顧問精神科医となり、戦争心理学の教科書を執筆している。

同様に、犠牲者の内分泌臓器を専門に取り出して研究していた当時の助手カール=フリードリヒ・ヴェントは、戦後もハイデルベルクにとどまり、ついに教授称号を獲得するまでに至った。

同じく助手だったフリードリヒ・シュミーダーも1980年、教授称号を授与されている。戦後シュミーダーは頭部外傷患者専門の私立病院を開いたが、この病院はのちにその分野で西ドイツ最大の医療機関に成長した。1973年には、彼に対して『連邦功労十字章』が贈られている。」

 


『精神医学とナチズム』
小俣和一郎著(講談社)

「ホロコースト」の歴史の陰に隠れて
ほとんど知られることのなかったナチズム期の
種々の“犯罪”に対して歴史の照明が当てられ始めたのは、
戦後30年以上が経過した1980年代以降のことである。

この書が取り扱う主題は、精神医学史の中に、今も
根深い影を落としているナチズムと「精神医学」との
関わりの歴史である。このテーマに興味の
ある方は一読をオススメします。

 

●1987年に『灰色のバスがやってきた』(草思社)を書いたジャーナリスト、フランツ・ルツィウスも、次のように述べている。

「戦争の後、身体および精神障害者の安楽死にたずさわっていたおよそ350人の医師のうち、自らの関与を認めた者は皆無である。司法の手で責任を追及された者の数もごくわずかでしかない。

その極端な例が『ハイデ事件』である。大量殺人の罪で公開指名手配されていた、かつての『療養・養護施設帝国委員』ヴェルナー・ハイデ博士は、1945年以降、『ゾーヴァーダー博士』と名を変えて、1960年代にいたるまで、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の州保健会社の委託司法医として働いていた。相当数の教授仲間や高位の裁判官もそれを承知していた。」

 


ヴェルナー・ハイデ博士

T4機関の医療部門責任者であり、
上級鑑定医兼ヴュルツブルク大学の
精神科教授(最終階級は親衛隊大佐)。

戦後、アメリカ軍の手に引き渡されたが、
逃走し、偽名を使いドイツ国内で精神科医
としての活動を続けた。戦時中、彼と顔なじみ
であった教授仲間たちは誰一人として彼の
潜伏を公にすることはなかった。

 


■■ヴィクトア・フォン・ワイツゼッカー博士の弁明


●ナチ時代、「T4作戦」に加担していたヴィクトア・フォン・ワイツゼッカー博士は、戦後(1947年)に著わした書物の中で、「全体のためには個人を犠牲にすべき」だと主張し、

安楽死も人体実験も、それが全体の利益にかなう限り認められるべきもの、と弁明していた。

参考までに、彼は悪びれる様子もなく、こう述べている。

「生命全体を救済するために、ヤケドを負った下肢だけを切断する場合があるのと同様に、民族全体を救うためには、一部の病んだ人間を抹殺することが必要な場合もある。どちらの場合も犠牲は正当であり、医療行為として必要性と意味を持つものといえるだろう。

このような考え方に賛成のできない者は、〈中略〉 人間性や人権にとらわれるあまり、医師の責務を〈個人〉の治療だけに限定して〈集団〉の治療をおろそかにする可能性すらある」

 

 
ヴィクトア・フォン・ワイツゼッカー博士

ドイツの神経内科医。独自の「哲学的」心身一元論
(医学的人間学)を提唱した学者として、戦後のドイツ
精神医学界で広くその名を知られ、その著作の一部は
日本でも紹介されている。1957年に死去した(71歳)。

「終戦40年記念演説」で有名な、第6代西独大統領の
リヒャルト・フォン・ワイツゼッカーは、彼の甥(おい)
であり、ワイツゼッカー家はドイツの名門だった。

 

 


 

■■■第6章:ワイツゼッカー演説の欺瞞(ぎまん)


●前章で、ワイツゼッカー家を軽く紹介したが、もう少し突っ込んでこの問題(ドイツの戦後処理)について論じたい。

(この問題に興味のない方は、読み飛ばして下さい)

 


第6代西ドイツ大統領
リヒャルト・フォン・ワイツゼッカー


「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」

 


●上の有名なセリフは、1985年5月8日、当時のワイツゼッカー西独大統領が「終戦40年記念演説」で語った言葉である。

この時の演説は、世界中の人々に感動を与えたと言われている。

日本の知識人(主にサヨク)は、この有名な演説を取り上げて、「ドイツは戦争責任を潔く認めて謝罪・賠償もしているのに、日本は謝罪も賠償もせず日本人として恥ずかしい」とよく言う。


●しかし、彼らは「戦争犯罪」と「ホロコースト」を混同している。

「戦争」と「ホロコースト」は全く違う。

ドイツはユダヤ人と「戦争」なんかしていない。「ホロコースト(ユダヤ人迫害)」はナチス・ドイツが国家の意思として計画的に実行した犯罪で、戦闘による殺害ではない。

「ホロコースト(ユダヤ人迫害)」は「戦争」とは無関係に実行されたのだ。

ドイツは「ホロコースト」については謝罪しても、「他国との戦争」に関しては一言も謝罪していないのである。

ワイツゼッカーは、「ナチスの犯罪はヒトラー個人の罪であって、ドイツ国民の罪ではない」という考えの持ち主であった。

 

 

●また、戦後はドイツは東西に分断されたから現在に至るも講和条約は結ばれておらず、従って国家間の賠償はされていない(ユダヤ人犠牲者及び遺族に対する個人補償金は払ったが)。

ドイツ文学者であり評論家の西尾幹二氏はワイツゼッカーの主張を、「とかげのしっぽ切り」と形容している。ナチスの罪を徹底的に追及されたら、ドイツ国民全体に及ぶ。なんとか、しっぽ切りで済ませて、本体を守ろうという必死の弁明なのである。

ワイツゼッカーは、「あれはドイツ国民全体が負う責任ではなく、あの時代のナチスだけが負う責任だ」と言って、現在のドイツ人全体に罪が被さってこないよう詭弁を使って守ったのである。

 

 

 


 

■■■第7章:ナチスとアメリカの優生学者は親密な関係にあった


●ところで、ナチスとアメリカの優生学者は親密な関係にあった。

ドイツの歴史学者シュテファン・キュールが書いた『ナチ・コネクション』(明石書店)という本がある。この本では、アメリカの優生学者とナチスの親密な関係が紹介されている。この本を読むと、人種改良のイデオロギーは、決してドイツの科学者だけのものではなかったことが分かる。

戦後にドイツを裁いたアメリカこそが、実はナチスの優生政策の先駆者だったのであり、戦前のヨーロッパにはドイツの他にも優生政策を推進した国があり、福祉国家スウェーデンでは戦後も根強く優生政策を存続させていたのだ。

 


『ナチ・コネクション』
シュテファン・キュール著(明石書店)

アメリカの科学者達はナチスの人種改良を支持していた…。
立入禁止のままであった、アメリカ優生学と
ドイツの人種衛生学の相互関係に
ついて研究した本。

 

また、この本以外でも指摘されている事実だが、ドイツの優生学者のスポンサーとなっていたのは、アメリカのロックフェラーハリマンなどの一族である。

彼らは1834年に死去したトーマス・マルサスの理論の信奉者であった。ダーウィンの血を受け継ぐマルサスは、非白人種や“劣等な”白人種を、家畜のようにえり分けることを提唱していた。マルサスは、経済学者仲間のジョン・スチュアート・ミルとともに、「金髪碧眼のアーリア人種は、この世界へと贈られた神からの賜物である」と言っている。優等な白人種が無知な有色人種を支配するべきである、と彼ら二人は言うのである。

結局、ナチスも英米のエスタブリッシュメントも、言うことに違いはない。彼らは同じ穴のムジナなのだ。

 


WASP勢力の中心に君臨しているロックフェラー一族

ドイツの優生学者に資金援助をし、
ヒトラーの人種純化政策を支援していた

 

●この本を翻訳した麻生九美女史は、「訳者あとがき」の中で次のように書いている。

「ドイツ・ビーレフェルト大学の社会学・歴史学者シュテファン・キュール氏が本書で提示したのは、今まで明らかにされていなかったドイツと合衆国の優生学史実の欠落部分を埋める、きわめて重要な事実である。ドイツの人種衛生学者と合衆国の優生学者は親密な関係にあり、合衆国はナチスの人種政策のモデルとしての役割を果たした。

ドイツ軍によるポーランド電撃作戦が開始され、第二次世界大戦が勃発してからも、合衆国の優生学者はナチス・ドイツ訪問を続け、ヒトラーからの私信を得意げに同僚に見せびらかし、ドイツの大学から名誉博士号を授与されて大感激する。だが、大戦後にナチスの人種政策の全容が明らかになると彼らは優生学から身を引こうとし、合衆国の歴史家も合衆国の優生学者とナチスとの親交を無視あるいは過小評価する姿勢を取り続けてきた。しかし現在、優生思想は復活しつつあるとキュール氏は断言している。」

 

 

●この本では、アメリカの優生学者や、アメリカの優生学組織だった「人間改良財団」「アメリカ優生学協会」などの実態が紹介されている。「パイオニア財団」については、次のように書かれている。

「民族的少数派と障害者に対するヒトラーの政策を支持した人物たちによって創設され、合衆国にナチスの人種プロパガンダを導入するために資金を提供した『パイオニア財団』は、現在もナチスの措置に科学的根拠を与えた初期の諸研究と酷似した研究に財政援助を行っている。」


●この本の詳しい内容と「優生学」の歴史については、別ファイル「ナチスとアメリカの『優生思想』のつながり」をご覧下さい。

 

  
子ども好きだったヒトラー。彼はアーリア人種の純血保存に力を注いだ。


 
(左)はダーウィンのいとこであったイギリスの科学者
フランシス・ゴルトン。「優生学」という言葉を作り出した。
(右)のイギリスの社会学者ハーバート・スペンサーは、貧困層の
大部分は生来価値のない人々であり、彼らやその子どもたちの生存に
役立つようなことは何ら行うべきではないと信じていた。この見方は
後に「社会ダーウィニズム」として知られるようになった。

「優生思想」に興味のある方は、上で紹介した別ファイル 
 「ナチスとアメリカの『優生思想』のつながり」をご覧下さい。

 

●ちなみに戦後、逃亡したナチスの医者たちがヒトラーの血や細胞を保存しているのではないかといった噂が残り、アメリカのユダヤ人作家アイラ・レヴィンはそれを元に『ブラジルから来た少年』を執筆している。

 

  
(左)アメリカのユダヤ人作家アイラ・レヴィン
(右)映画化された『ブラジルから来た少年』(1978年制作)

ナチス復興とクローン計画の恐怖を描いたSFサスペンスで、
日本では劇場未公開に終わったが、現在はDVDで観ることができる。

ヒトラーのクローンを再生させようとするナチスの科学者メンゲレ博士と、
それを阻止しようとするナチ・ハンターのユダヤ人リーバーマンとの対決が
見どころ。名優グレゴリー・ペックがメンゲレ博士を不気味に怪演。

 

─ 完 ─

 


 

■■おまけ情報: 映画『アンナとロッテ』


●ナチス時代のドイツ国民の生活を描いた映画『アンナとロッテ』は、オランダとルクセンブルグが共同制作した作品である。


●この映画はナチスの「優生政策」がメインテーマではないが、主人公であるドイツ人女性(姉アンナ)がナチス・ドイツ政府の役人に「知的障害者」とみなされて「断種」の対象となるシーンが盛り込まれており、個人的にそのシーンが(非常に短いながらも)とてもショッキングで印象的だった。

参考までに紹介しておきたい↓

 

  

 
映画『アンナとロッテ』(2002年制作/オランダ・ルクセンブルグ)

オランダの女性作家テッサ・デ・ローのベストセラーを原作に、
数奇な運命に翻弄される双子姉妹を描いた感動作だが、妹ロッテ
よりも姉アンナの方に人間的魅力を感じてしまう…。(主演は
ドイツのナディヤ・ウールとオランダのテクラ・ルーテン)。

 

 


 

■■おまけ情報 2: 映画『マイ・ファーザー 〜死の天使〜』


●2003年に作られた映画『マイ・ファーザー 〜死の天使〜』は、ナチ戦犯者ヨーゼフ・メンゲレを父に持つ青年が、重い宿命を背負い、父と対峙し、激しく葛藤する姿を、実話を基にドラマチックに描いた作品である。

チャールトン・ヘストン(父メンゲレ役)、F・マーレイ・エイブラハムという2大アカデミー俳優が共演している。
『戦場のピアニスト』のドイツ軍将校役で注目を浴びたトーマス・クレッチマンも出演している(メンゲレの息子役)。

 

  
映画『マイ・ファーザー 〜死の天使〜』(2003年制作)

原題: MY FATHER - Rua Alguem 5555
制作国: イタリア/ブラジル/ハンガリー
監督: エジディオ・エローニコ

この映画の原作となった『Vati(父)』は、メンゲレの
息子から提供された未公開文書、手紙、写真、
そして証言に基づいて書かれたものである。

 

●なぜ元SSの医師メンゲレ博士は最後まで捕まらなかったのか?

この映画の中では「アメリカの関与」を示唆するセリフが登場していて興味深い。

少し長くなるが、この作品の内容を簡単に紹介したいと思う。

(以下、ネタバレ注意)


◆ ◆ ◆

 

物語は1985年6月6日、南米ブラジルのマナウス郊外の小さな墓地で、ヨーゼフ・メンゲレのものとされる白骨死体を掘り返す場面から始まる。メンゲレは、ヒトラー政権の下、「アウシュヴィッツ収容所」で残酷な人体実験を繰り返した遺伝学者で、戦犯となった戦後は南米を中心に長い逃亡生活を送っていた。

この日、発見されたメンゲレのものとされる遺体は驚くことに死後6年もたっていた。
果たして、この遺体は本当に彼のものなのか?

大勢のテレビクルーが押しかけ騒然とする中に、メンゲレの息子へルマンがいた。
彼の姿を見つけた被害者のユダヤ人女性は、怒りをあらわにして彼に近づき大きな声で叫ぶ。

「人殺し! 人殺し! 一緒になって隠し通したんだろ。父親が人殺しなら息子も同罪だ! 人殺し! お前もあの男と同じだ!」


●「ニューヨーク・ユダヤ人協会」に雇われていた弁護士ポール・ミンスキーは、メンゲレの死が「偽装」されたのではないかと疑いを抱き、ホテルの一室で、へルマンに真実を話すよう詰め寄る。(この弁護士の目的は2つあった。1つは被害にあった双子の治療のためにメンゲレのカルテを入手すること。もう1つはドイツへ損害賠償を請求するために、メンゲレが本当に死んだのかを確認することだった)。

長い沈黙の後、へルマンは南米で潜伏生活を送る父と8年前に対面したときの思い出を語り始める。

 


ブラジルの国旗

 

●ヘルマンが8年前(1977年)、南米ブラジルで初めて対面した父メンゲレは、写真とはまるで違う印象の男だった。

メンゲレは元ナチスの仲間に守られながら、敵(追跡者)の目を欺くために薄汚れた貧民街(アルゲム通り5555番)に隠れ住んでいた。

想像していたイメージと現実とのギャップにヘルマンはショックを受けるが、父は今でもナチズムを信奉していて、息子相手に自分の世界観を自信たっぷりに語るのだった。

「何が正義かなど分からん。善悪さえも存在しないさ。ただ生きるための欲求が人を突き動かすだけだ。そのことを今の世代は忘れている。もはや“真のドイツ人”は存在しない」

「私は科学者、遺伝学者だ。若き日の情熱を研究に捧げたんだ。人間の遺伝の研究にな。芸術家や音楽家の才能もあったが、一番の興味は自然科学だった。私の研究は学生時代から注目された。卒業後に紹介されたのがベルリンの政府直轄の研究所『カイザー・ヴィルヘルム研究所』の助手の職だった。当時としてはごく当たり前の選択だった。国に尽くすのが国民の義務なのだ。今の世代には分からんだろうが、私たちは新しい世界を夢見て戦ったんだ」


●さらにメンゲレは息子を森の中に誘い、次のように力説した。

「周囲を見てみろ。隣と正確な距離を保って生えている木などない。どの植物も自らの土を確保し、日光を奪い合う。この森さえも戦場なのだ。ここでは数百万年前から今日まで静かな戦いが展開されている。だが今に生きるお前に、戦場は分かるまい」

「収容所の究極の目的は原始的、非科学的手法によってではあったが、科学に寄与したことは否定できまい。人間は神による創造物ではなくサルの子孫なのだ。人間は常に不自由と不平等を強いられている。そして動植物と同じく人間も『進化の法則』の支配下に生きている。すなわち強者は生き残り弱者は滅びる。だまされてはいかん。“隣人を愛せ”だの“人の命は神聖”だの、厳しい選別を阻む戯れ言にすぎん。我々の任務は、より強い種が生き残るよう必要な選択をすることだった。それは避けられないことだ」

「現在は飢餓と戦うため世界中が手を尽くし、劣等種の存続を支えている。だが劣等種を絶滅から救うことは、白人種の自己否定を意味するのだ。人々は誤った観念を鵜呑みにしている。現在の科学は岐路に立たされている。今こそ『遺伝学の法則』に合致した価値システムを作らねば、自滅の道を歩むまでだ」



●ヘルマンは父と数日を過ごす中で、父を知り、父を糾弾し、自首させるつもりでいた。しかしヘルマンは「公的な正義感」と「親子の絆」のどちらを選ぶかで葛藤し続けた。

結局彼は最後まで「親子の絆」を断ち切る勇気を持つことができず、空虚さと疎外感を感じながらドイツに帰国したのだった。


●そしてその2年後(1979年)、ヘルマンは手紙によって父の死を知り、再びブラジルに入国。雨の中、現地の人に父の墓を案内してもらう。

彼はこの時の気持ちをこう回想している。

「墓の前で長いこと父のことを考えたが、何も浮かばない…。ゲルマン民族による世界支配をあれほど強く望んでいた父…。その父の隣には、日本人が埋葬されていた……」



●ヘルマンの回想を聞き終えたユダヤ人の弁護士ポール・ミンスキーは、厳しい表情をしながらこう述べる。

「結局、裁きを免れたことが問題なのだ。なぜこのことを今まで黙っていた?」

「君の話は確かに感動的な話だったが、欠陥がある。君は全てを正直に話してくれたと思うが、信じるにはあまりにも話がうまく出来すぎだ

「つい最近だが、君の父メンゲレについての確かな情報が揃い逮捕が目前となっていた。現在の潜伏先は南米パラグアイだ。アメリカとドイツとイスラエルの3ヶ国がメンゲレの逮捕に同意したとたん、いきなり遺骨発見のニュースが舞い込んだ。よくできた話だが、冗談のようなタイミングだ

「70歳近くで体調の良くなかったメンゲレが、なぜ海に泳ぎに行ったのか? 彼の死体を発見した女性はどうやって女一人で海の中から引き上げたのか? そして即座に花と棺(ひつぎ)を手配できたのか? なぜ医者は死亡証明書の欄に“50代の男性”と書いたのか?」

「君には理解できないだろうが、ホロコーストの生存者にとってメンゲレは恐怖そのものだ。その人たちの人生を取り戻すには、メンゲレは裁かれねばならないのだ。死んだとわかれば安心はするだろうが、それでは結局何の裁きを受けなかったことになる。彼の罪は永遠に闇に葬られてしまう



●ヘルマンの泊まるブラジルのホテルの外には、世界中から集まってきたアウシュヴィッツ生き残りの人々が抗議の声を上げていた。彼らの多くもメンゲレの死に疑問を抱いていたのである。

このデモに参加していた男性はこう発言している。

「茶番だ。何から何まででっちあげだ。間違いなくあの殺人鬼は今も生きている。
ヴィーネルト(メンゲレの仲間で元SS)の協力で溺死を装った。替え玉を使いアメリカが真相を隠蔽した!」

(インタビュアーの「なぜアメリカが?」という質問に対して)

「あの怪物が行った実験に一番興味を持っているのはアメリカなんだぞ!」


●そのあとカメラの前に一人の女医が登場し、メンゲレの顔写真が載った新聞を片手にこう証言する。

「私は歯科医のマリア・ガレアノです。やはり間違いありません(彼は生きています)。論争の主がこの人物なら、歯の治療をしに診療所へ来ました。死亡したとされる日の2ヶ月もあとにね


●この映画は、ホテルから出てきたヘルマンが、群衆たちから「人殺しの息子!」「お前も同罪だ!」という罵声を浴びながら立ち去っていく姿を映しながら静かに「エンディング」を迎える。

 

 

●さて、最後になるがこの映画の感想を少し書いておきたい。

この映画を作ったエジディオ・エローニコ監督は、作品中メンゲレの行為を肯定も否定もしておらず、ニュートラルな視点から実話を基にドキュメンタリータッチで話を進めている。

メンゲレの息子が、父親に怒りをぶつけるシーンや、地元警察に父親を通報するか否か苦悩するシーンは、音楽が効果的に使われていて胸に迫るものがある。持病のアルツハイマーを押して参加した名優チャールトン・ヘストンはメンゲレを熱演し、観る者に力強い印象を与える(これだけでも感動できる)。

しかし、“死の天使”と恐れられたメンゲレが、結局何の裁きも受けずにこの世から“消えて”しまったことは歴史的事実であり、その死の「謎」とともに、何かスッキリしないものを心に残す作品でもある(この映画を作った監督自身、メンゲレの死に疑問を抱いているように感じた)。

もし自分が息子ヘルマンの立場だったらどういう行動を選択したか…。
いろいろと考えさせられる作品だったので、この映画は何度も見てしまった。

メンゲレと優生学に興味のある方にはオススメの作品だと思います。

 

 


 

■■ 関連書籍 ■■


   
左から、『人間性なき医学 ─ ナチスと人体実験』 アレキサンダー・ミッチャーリッヒ著(BNP社)、
『恐ろしい医師たち ─ ナチ時代の医師の犯罪』 ティル・バスチアン著(かもがわ出版)、
『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』 ヒュー・ギャラファー著(現代書館)、
『アウシュヴィッツの医師たち』 F・K・カウル著(三省堂)

 



 


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