No.a6fhc550

作成 2000.4

 

ナチスとアメリカの
「優生思想」のつながり

 

 

■■■第1章:ナチスとアメリカの優生学者は親密な関係にあった


「優生思想」とは、劣等な子孫の誕生を抑制し優秀な子孫を増やすことにより、単に一個人の健康ではなく一社会あるいは一民族全体の健康を計ろうとする思想をいう。それゆえ、「優生学」は「民族衛生学」とも呼ばれる。


●ドイツの歴史学者シュテファン・キュールが書いた『ナチ・コネクション』(明石書店)という本では、アメリカの優生学者とナチスの親密な関係が紹介されている。この本を読むと、人種改良のイデオロギーは、決してドイツの科学者だけのものではなかったことが分かる。

戦後にドイツを裁いたアメリカこそが、実はナチスの優生政策の先駆者だったのであり、戦前のヨーロッパにはドイツの他にも優生政策を推進した国があり、福祉国家スウェーデンでは戦後も根強く優生政策を存続させていたのだ。

 


『ナチ・コネクション』
シュテファン・キュール著(明石書店)

アメリカの科学者達はナチスの人種改良を支持していた…。
立入禁止のままであった、アメリカ優生学と
ドイツの人種衛生学の相互関係に
ついて研究した本。

 

また、この本以外でも指摘されている事実だが、ドイツの優生学者のスポンサーとなっていたのは、アメリカのロックフェラーハリマンなどの一族である。

彼らは1834年に死去したトーマス・マルサスの理論の信奉者であった。ダーウィンの血を受け継ぐマルサスは、非白人種や“劣等な”白人種を、家畜のようにえり分けることを提唱していた。マルサスは、経済学者仲間のジョン・スチュアート・ミルとともに、「金髪碧眼のアーリア人種は、この世界へと贈られた神からの賜物である」と言っている。優等な白人種が無知な有色人種を支配するべきである、と彼ら二人は言うのである。

結局、ナチスも英米のエスタブリッシュメントも、言うことに違いはない。彼らは同じ穴のムジナなのだ。

 


WASP勢力の中心に君臨しているロックフェラー一族

ドイツの優生学者に資金援助をし、
ヒトラーの人種純化政策を支援していた

 

●この本を翻訳した麻生九美女史は、「訳者あとがき」の中で次のように書いている。

「ドイツ・ビーレフェルト大学の社会学・歴史学者シュテファン・キュール氏が本書で提示したのは、今まで明らかにされていなかったドイツと合衆国の優生学史実の欠落部分を埋める、きわめて重要な事実である。ドイツの人種衛生学者と合衆国の優生学者は親密な関係にあり、合衆国はナチスの人種政策のモデルとしての役割を果たした。

ドイツ軍によるポーランド電撃作戦が開始され、第二次世界大戦が勃発してからも、合衆国の優生学者はナチス・ドイツ訪問を続け、ヒトラーからの私信を得意げに同僚に見せびらかし、ドイツの大学から名誉博士号を授与されて大感激する。だが、大戦後にナチスの人種政策の全容が明らかになると彼らは優生学から身を引こうとし、合衆国の歴史家も合衆国の優生学者とナチスとの親交を無視あるいは過小評価する姿勢を取り続けてきた。しかし現在、優生思想は復活しつつあるとキュール氏は断言している。」

 

●参考までに、『ナチ・コネクション』の中から、興味深い部分をピックアップしておきたいと思う。

以下、抜粋。


◆ ◆ ◆

 

アメリカとドイツの緊密な関係を支えていたのは、ドイツの優生学研究を確立させようと企てたアメリカの財団の熱烈な資金援助だった。もっとも重要な後ろ盾は、ニューヨークの「ロックフェラー財団」だった。

1920年代初期に、「ロックフェラー財団」はドイツの人種衛生学者アグネス・ブルームの遺伝とアルコール中毒の研究に資金援助を行っている。1926年12月に財団の職員がヨーロッパへ赴き、その後「ロックフェラー財団」はヘルマン・ポール、アルフレート・グロートヤーン、ハンス・ナハツハイムといったドイツの優生学者に資金援助を開始した。「カイザー・ヴィルヘルム精神医学研究所」、「カイザー・ヴィルヘルム人類学・優生学・人類遺伝学研究所」など、ドイツの重要な優生学研究所の設立と資金援助に関して、「ロックフェラー財団」は中心的な役割を演じている。

〈中略〉

1928年、研究所を新築するために「ロックフェラー財団」は32万5000ドルを寄贈した。「ロックフェラー財団」がミュンヘンの「精神医学研究所」に資金提供をしたために、アメリカの他のスポンサーもあとに続くことになる。実際、ベルリンにあった「カイザー・ヴィルヘルム人類学・優生学・人類遺伝学研究所」の建物の一部もロックフェラー財団の援助金で建設されたものだった。

〈中略〉

世界が大恐慌に陥ってから数年間、「カイザー・ヴィルヘルム人類学・優生学・人類遺伝学研究所」は深刻な財政問題を抱え、閉鎖の危機に追い込まれたが、「ロックフェラー財団」は赤字が出ないよう資金援助を続けた。所長のオトマール・フォン・フェアシュアー男爵は重要な局面に何度か「ロックフェラー財団」の代表者と会見している。1932年3月、「ロックフェラー財団」のパリ支部に宛てた手紙のなかで、彼はさらに6つの研究計画に対する資金援助を依頼した。2カ月後、「ロックフェラー財団」は肯定的な返事をする。

「ナチス」がドイツ科学を支配してからもなお、「ロックフェラー財団」はドイツの優生学者に資金援助を続けた。



1930年までに、国際的な優生学運動の推進役として、合衆国とドイツはイギリスを遥かにしのぐ力を持っていた。

〈中略〉

合衆国の優生学者たちは、ナチスの人種政策をもっとも強力に支持した外国人だった。たとえばイギリスのように、合衆国以外の国の優生学運動はどちらかといえばナチス・ドイツに批判的だった。ナチスの人種政策に対する諸外国の姿勢の中心的監視者だったドイツの『人種政策外信』は、合衆国内の優生学活動について11の報告を掲載しているが、そのうちの4つはアメリカの優生学運動がナチスの政策を支持していることについての報告である。ナチスのプロパガンダで、合衆国ほど目立った役割を演じた国は他にはなかった。



◆1934年2月、ナチスから特別な庇護を受けていた人種人類学者のハンス・ギュンターは、ミュンヘン大学の講堂にぎっしり詰めかけた聴衆を前に、「合衆国は世界でもっとも寛大な国だと思われているが、アメリカの移民法が圧倒的多数で可決された」ことは注目に値すると述べた。そして、グラントとストダードがこの移民法制定の「精神的な父親たち」であり、この法律をドイツのモデルにしようと提案した。

ナチスの人種衛生学者たちは、アメリカの移民政策が優生学と民族選別を結合させたその方法に特に強い感銘を受けた。アメリカの優生学者たちは、自分たちがナチス・ドイツの断種法制定に影響を与えたことを自覚していたし、誇りを感じてもいた。彼らはドイツの「遺伝病の子孫の出生を予防するための法律」がカリフォルニア州の断種法の影響を受けており、1922年にハリー・ローリンが考案した「優生学的断種のモデル法」にならって立案されたものであることを知っていた。

〈中略〉

ナチスが政権の座についてからわずか6カ月のうちにドイツで断種法を可決させることができた理由のひとつとして、合衆国の断種の法的・医学的側面に関する情報を握っていたことがあげられる。

〈中略〉

ナチスは合衆国における断種の実際的・法的経験に学んだだけではなく、1870年代以降に合衆国で行われてきた研究も参考にしていた。



◆カリフォルニア州の主要な優生学組織だった「人間改良財団」「アメリカ優生学協会」のカリフォルニア支部は、1930年代を通じて、ナチス・ドイツにとって常に重要な情報源だった。この2つの組織を指導する立場にあったポール・ポペノーは、特に注目された。

〈中略〉

1930年代の後半に至るまで、ドイツの科学雑誌とナチスのプロパガンダは、カリフォルニアの優生学運動から生まれた新しい出版物や、優生学運動の進展、そして運動が強く求めることについての報告を続けた。



ナチスの断種法を支持したのはカリフォルニアの優生学者たちだけではなかった。他州の優生学と断種のための組織もナチ断種法の熱狂的な支持者だった。ヴァージニア州の優生学・断種運動で指導的な立場にあったジョゼフ・デジャネットは、ヴァージニア州政府に宛てた書簡のなかで、ヴァージニア州は断種法の適用範囲を拡大し、包括的なドイツの断種法に近いものにする必要があると主張している。

〈中略〉

「アメリカ優生学協会」の事務局長レオン・ホイットニーもヒトラーの人種政策を支持した。いくつかの新聞に宛てた1933年の書簡のなかで、ホイットニーは「アメリカ優生学協会」を代表して、ヒトラーの断種政策は総統の偉大な勇気と政治家としての手腕の証明であると主張した。

〈中略〉

アメリカの優生学運動がナチスの断種法制定を広範囲にわたって支持したことは、『優生学ニュース』に多くの記事が掲載されたことからも明らかである。1930年代にはハリー・ローリン、チャールズ・ダヴェンポート、ローズウェル・ジョンソンが編集していた『優生学ニュース』は、合衆国の三大優生学組織の公式機関誌としての役割を果たしていた。1934年、『優生学ニュース』は「世界を見渡しても、ドイツほど応用科学としての優生学が盛んな国はない」と報告し、ナチスの断種法を賞賛した。

〈中略〉

『優生学ニュース』は、1934年1月1日にドイツで断種が開始された後にも、ナチス・ドイツで人種衛生学を実行するために講じられた種々の措置が成功したことに関するドイツの雑誌記事を翻訳して掲載した。



◆アメリカの優生学運動は人種改良という理想を促進するナチスのプロパガンダにことのほか感銘を受け、ハリー・ローリンはナチスの断種プロパガンダをアメリカ大衆に紹介するために努力した。ナチス・ドイツの熱狂的支持者だったローリンは、1933年に国家社会主義者が権力の座に就く以前から彼らに関する新聞記事の切り抜きを集めていた。

優生学的隔離のためにナチ人種局が開設されたことに関する記事の切り抜きの余白には、「ヒトラーを『アメリカ優生学調査協会(ERA)』の名誉会員にすべきだ」と書かれている。



1933年にナチスが権力の座についてから、アメリカの優生学者・人類学者・心理学者・精神病医・遺伝学者はしばしばドイツに赴いた。

ナチスの人種政策には科学的・政治的メリットがあると納得したがっている彼らに、ナチスの保健行政官たちはその「証拠」を提供した。ナチスの上級政治家や科学者と容易に接触できる立場にあった保健行政官は、アメリカの科学者が施設や公衆衛生部門や「遺伝保健裁判所」を見学する手配も行った。ドイツの人種衛生学者は、外国からの訪問者を特別丁重に遇するよう指示を受けていた。1933年以降、アメリカの優生学者がドイツの人種衛生学者との交流範囲をどこまで拡大させたかについては推測するしかない。しかし、ほとんどの場合、ドイツの新聞はアメリカの優生学者の訪問を熱狂的に報道しており、ナチス・ドイツにとって両者の交流が重要だったことがよくわかる。



ドイツの人種政策を誰よりも詳細に研究し、アメリカ優生学運動でナチスの人種政治学の利点を宣伝する労を惜しまなかったのはマリー・コップ女史である。

ナチスの人種政策について包括的な報告を発表するまで科学界ではそれほど名前が知られていなかったコップは、1935年に「オーバーレンダー特別研究員」として6カ月間ドイツに滞在した。彼女の仕事は、ドイツの優生政策の出発点・適用・影響に関する詳細な研究を行い、1932年に自身がドイツで観察した事象と比較検討することだった。

「カイザー・ヴィルヘルム研究所」の科学者との接触を通じて、彼女は1935年に病院長やその他の保健衛生施設長、「遺伝保健裁判所」の判事、大勢の医師・外科医・精神科医・ソーシャルワーカーなどにインタビューする許可を得た。彼女の研究に関連がある公益事業機関を訪問することも認められた。

合衆国へ戻ったコップは、主な優生学・医学・社会学・犯罪学の機関誌に談話や論説を発表し、優生学的措置についての論争に影響を与えた。彼女は「6500万人の国民に広範囲にわたる優生計画を実施する世界初の国家」としてドイツの重要性を強調し、そうした人種的措置は「国家の健康をむしばむ諸条件を是正するためには緊急不可避である」とした。

「アメリカ優生学調査協会」の第25回大会で数ヶ国の断種法を比較する講演を行った彼女は、ドイツの断種法のユニークな特色のひとつは施設に収容されている人びとだけを特定していない点だと力説し、ドイツにおいてのみ「階級・人種・宗教上の信条にかかわりなく、遺伝病であることが外見的に明らかなすべての個人が断種法の規定のもとに置かれている」と述べた。



「アメリカ優生学調査協会」の2人の会長を含む高名な優生学者たちも、ナチスの人種政策の実施状況に関する最新情報を得るためにドイツへ赴いた。クラレンス・キャンベルは1935年にベルリンで開催された「国際人口科学学会」に出席した際、人種衛生施設を訪れている。そして、この会議でナチスが発表したことは理論的な目標を正確に描写しており、人種改良の実際に理論がどう転換されるかを立証したものだったと確信しはじめた。

キャンベルの後任として「優生学調査協会」の会長となった銀行家で百万長者のチャールズ・ゲーテも、ナチス・ドイツの人種政策の発展に感激していた。ゲーテは、「ジョンソン移民制限法」をラテンアメリカにまで拡大するための圧力団体だった「北カリフォルニア優生学協会」と「移民研究委員会」を創設した人物で、メキシコ人の移民制限にとりわけ強い関心をもっていた。また、ポペノーやゴズニーとも密接なかかわりをもち、「人間改良財団」の理事をつとめ、「サクラメント精神衛生協会」のメンバーで、「アメリカ遺伝学協会」の諮問委員会のメンバーでもあり、東海岸にも西海岸にも優生学団体を創設した。

さまざまな会社とゲーテ銀行の会長だったゲーテは、頻繁にドイツへ赴いた。年に一度のビジネス旅行の際にも優生学的措置の進展について調査を行い、自分が発見したことを「優生研究協会」と「人間改良財団」に報告し、合衆国でも同様の政策を立法化するよう要求した。



第二次世界大戦が勃発してからも、アメリカの優生学者のドイツ訪問は続いた。たとえば、1939年から40年にかけての冬に、T・U・H・エリンジャーがドイツを訪れている。その直前にナチスによる露骨な侵略行為があったにもかかわらず、二の足を踏まなかったことはあきらかだ。エリンジャーは「カイザー・ヴィルヘルム人類学・優生学・人類遺伝学研究所」の遺伝学者ハンス・ナハツハイムに会い、疾病の遺伝的原因に関するナハツハイムの労を惜しまない実験を調査した。

〈中略〉

合衆国へ戻ったエリンジャーは、『遺伝ジャーナル』の読者に、ドイツ国内におけるユダヤ人の処遇は宗教上の迫害とは無関係であって、これは「ドイツからユダヤ人という人種の遺伝的特性を排除することを目的とした大規模な繁殖計画」であると説明し、ドイツ科学とユダヤ人に対する残酷な処遇との関係と、アメリカの科学者と黒人との関係を比較してみせた。国家から劣等な「遺伝的特性」を排除するという決定と、「北方人の要素」の産出を支援するという決定は、厳密には政治問題であり、科学とは無縁であるとエリンジャーは考えた。「しかし、政治家が繁殖計画を推賞すべきであるとの決定を下したのちに、この計画をもっとも効果的に実施するにはどうするかという問題が生じた場合、生物学的科学はナチスにさえ力を貸す可能性がある」と結論した。



◆第二次世界大戦が勃発するまで、ナチスの宣伝者は、ドイツは同じ「白人である北方人種の血統」に属する国家とは戦火を交えたくないと主張していた。彼らの見解を信じていたアメリカの優生学者たちは、ナチスが人種構成が同じ国に侵略を開始したことを知り、仰天した。ナチスの侵略行為によって、ドイツとアメリカの優生学運動の関係は明らかに緊張した。開戦当初のT・U・H・エリンジャーとストダードのドイツ訪問は、すでに難しい国際状況の影響を強く受けていた。合衆国がドイツと日本を敵国として参戦したことによって、ドイツとアメリカの優生学者の関係は完全に切れた。

日本が真珠湾を攻撃した1941年12月7日以後に、ドイツとアメリカの優生学運動が接触した記録は見つからない。ドイツの人種衛生学者の多くは広範囲にわたる根絶計画の調整に忙殺され、アメリカの優生学運動は戦争終結まで大半の活動を一時的に中止した。たとえば、「ニュージャージー断種連盟」は事実上すべての活動を中止し、「アメリカ優生学協会」は『優生学ニュース』の発行だけに仕事を限定したのである。

第二次世界大戦後、「アメリカ優生学協会」のメンバーは、かつてナチスの人種政策を支持したことからわが身を引き離す道を探った。数百万人にのぼるユダヤ人やジプシー、そして障害者が排除されたことによって、ナチスの人種政策に対する評価は完壁に失墜した。1946年に『優生学ニュース』に掲載されたモーリス・ビゲローの「アメリカ優生学協会の概暦」は、かつて「協会」がナチスの人種改良計画を支持したことには触れていない。1974年に出版されたフレデリック・オズボーンの『アメリカ優生学協会小史』も同様である。

改革派の優生学者がナチスの人種政策の好ましい部分と非難あるいは隠蔽されるべき部分とを人為的に区別したことは、1945年以降の彼らの自己認識に影響を与えた。ナチズムのさまざまな要素を非難した事実のおかげで、彼らはナチスの優生学的人種主義を支持した過去を都合よく「忘れる」ことを許されたのである。自らの歴史のなかのこの部分を首尾よく隠蔽することで、改革派の優生学者は優生学の初期の歴史も作り上げた。そして歴史学者は、優生学者のなかでも政治的に極右だったごく少数の、しかも急速に評判を落とした者だけがナチスの政策を支持したのだと主張した。

改革派以外の優生学者で、かつてナチス・ドイツを支持したことに良心の呵責を感じた者はさらに少数だった。彼らは1930年代の優生学的措置を手本とすべきだとする見解を捨てず、合衆国が人種政策の発展に重要な役割を果たしたことを誇りをもって述べた。1970年代の終わりに、「自発的断種協会」で指導的立場にあったマリアン・オールデンと、「アメリカ優生学協会」の事務局長だったレオン・ホイットニーは、自分たちがナチスの人種政策を支持したことを誇らしげに回想している。



1946年の「ニュルンベルク医師裁判」で、政府主唱の大虐殺に関与したとして告発されたドイツ人の人種衛生学者はほんの数名にすぎなかった。告発された学者たちは被告として抗弁した際に、自分たちの研究の科学的根拠がドイツ国外でも受け入れられていたことに言及した。この戦術は、ナチスの人種政策のモデルは民主主義国家だったという主張に基づくものだった。

ナチス・ドイツで「安楽死計画」をまとめたとして告訴された医師たちは、「劣等分子」を排除したのはドイツだけではなかったことを立証するために、合衆国の例を持ち出した。ドイツ人のある医師は、合衆国内の優生学的強制断種は合法的措置であるとする1927年の「連邦最高裁判所」の裁定を、ナチスの人種衛生学に先立つ事例として利用した。

精神病学者で、ミュンヘン近郊のハール州立精神病院院長として数百人におよぶ精神障害者と身体障害者を殺害した責任を負うべき立場にあったヘルマン・プファンミュラーは、法廷で次のように釈明した。

「結婚によって遺伝病と感染が遺伝することを防止する条例と同様、障害者根絶は完全に合法であります。これらの法律は、ナチス政権の存続中に可決承認を得たものであります。しかし、これらの法律が基盤とした思想は数世紀も前からあったのです。」



大量虐殺に直接関与しなかったドイツの人種衛生学者も、関与したことを隠し通すことができた学者も、ナチズムと無数の関係があったためにさまざまな問題に直面した。しかしアメリカの同業者と接触していたことが幸いし、ナチス・ドイツ崩壊後まもなく、彼らは国際的な科学界に復帰した。

短期間のうちにドイツの科学者を国際科学界に再統合させた立役者はハンス・ナハツハイムである。ナチス・ドイツ時代の遺伝学で重要な役割を果たしはしたものの、大量虐殺には関与しなかったナハツハイムは、「カイザー・ヴィルヘルム研究所」の所長という地位を引き継いだ。そして、第二次世界大戦が終結すると、ただちに合衆国の同業者との親密な結束を再開し、彼らの協力を得て、1948年にストックホルムで開催された「第8回国際遺伝学会議」に、ナチスとかかわった過去をもつ遺伝学者たちを送り込むことに成功したのである。

同じように、ナチスの精神病学者も素早く国際運動に再吸収された。たとえばエルンスト・リュディンやヴェルナール・フィリンガーのように、ドイツの精神病学で指導的立場にあった学者のなかには、ナチス・ドイツ時代の障害者殺害に深く関与していた者もいたが、彼らも戦争が終結してからいくらも経たないうちに国際会議に参加できるようになった。

〈中略〉

ナチス・ドイツで目立った役割を果たした他の人種衛生学者たちも、たちまち影響力のある地位を取り戻した。たとえば、1946年から55年の間に、フリッツ・レンツ、ギュンター・ユスト、ハインリヒ・シャーデは、人種衛生学あるいは優生学の教授としてではなく、それぞれ人類遺伝学、人類学、精神医学の教授としてドイツ大学に復職している。



◆「パイオニア財団」は優生学者の組織内部で民族的人種主義を生かしておこうとした。1945年以降も「アメリカ優生学協会」と「生得権法人」を支援し続けたウィクリフ・ドレイパーの「財団」は、主流派の優生学者の要塞であり続けた。

〈中略〉

「パイオニア財団」の財政援助を受けているロジャー・ピアソン、ハンス・アイゼンク、アーサー・ジェンセン、ロバート・ゴードン、フィリープ・ラシュトン、そしてリンダ・ゴットフレッドスンは現在、人種間の遺伝的差異に科学的な研究成果を提供することに関わっている。

民族的少数派と障害者に対するヒトラーの政策を支持した人物たちによって創設され、合衆国にナチスの人種プロパガンダを導入するために資金を提供した「パイオニア財団」は、現在もナチスの措置に科学的根拠を与えた初期の諸研究と酷似した研究に財政援助を行っている。


◆ ◆ ◆


以上、『ナチ・コネクション』(明石書店)より

 

 


 

■■■第2章:「優生学」の歴史


そもそも「優生学」(優生思想)とは何か?
どのような歴史をたどってきたのか?

ドイツの心理学者ヘラ・ラルフスが、「優生学」について書いた記事があるが、この記事は、ナチスとアメリカだけでなく、世界全体の「優生学」の歴史について書かれていて、興味深い内容である。(学研『遺伝子の世紀』)。

長くなるが、参考までに重要な部分をまとめておきたい。


◆ ◆ ◆

 

■■古代ギリシア・ローマ時代から存在し続けた「優生学」


優生学は、少なくとも20世紀を通じて非常に議論の多いテーマであり続けてきた。科学的外観を装って現れるものの、そこについてまわる問題にはつねに、科学と政治、社会的利害、それにさまざまなイデオロギーが爆発的に入り交じっているということである。このような絡み合いは、それだけで優生学についての冷静な議論をほとんど不可能にしてしまう。

この状況をなお悪化させるのは、今世紀前半のドイツで、アドルフ・ヒトラーと彼の率いるナチ党が実行した残虐行為でしかない過酷な優生学的施策の記憶である。それはまず1万人もの人々を強制的に不妊にすることから始まり、ついには精神遅滞や精神障害の人間、その他の彼らにとって望ましくない人間の大量虐殺にまで拡大したのである。


ところで、百科事典を見ているかぎり、この世界の物事は単純そうに思える。たとえば権威ある『オックスフォード科学事典』はこう記述している。

「優生学とは、遺伝的原理を適用することによって人間集団の質を改善する研究である」

最初に目にしたときには、この定義はよい科学的定義がつねにそうでなくてはならないように、無害で、特別の価値判断を交えてはいないように思える。だがよく見ると、そこにはひづめの割れた悪魔の足先がのぞいている「人間集団の質」という言葉にである。どのように人間の“質”を定義すればよいのか? 誰がそれを定義するのか? それは、遺伝病の場合には簡単なことのように思える。色盲や血友病、ハンテントン舞踏病といった病気を根絶し、その拡大を防ごうとすること自体に誤りや批判はないだろう。

このような優生学、すなわち身体的・精神的障害の除去の研究は「消極的優生学」と呼ばれる。これに対して「積極的優生学」は、人間集団の中でより望ましい性質の出現頻度を高めようとするものである。これは、特定のタイプの人間を生み出すことを目的にする一種の“生殖プログラム”ということができる。


「消極的優生学」は、人類社会においては決して目新しいものではない。ローマ人は、著しい奇形や不治の病をもって生まれた赤ん坊をローマ広場の近くにある切り立ったタルペイア岩から投げ落とした(罪人もここで同じようにして処刑された)。スパルタ人にも同様の慣習があった。多くの原始的な社会でも同じ理由から子殺しが行われていた。

ギリシア人やローマ人だけでなく、中世ヨーロッパのキリスト教社会ではどこにおいても、社会的に望まれない子どもが大規模に遺棄された。

通常、このような子どもたちは、両親に彼らを食べさせていくだけの余裕がない、あるいは私生児であるがゆえに社会に彼らの居場所がないなどを理由に捨てられた。その多くは、誰かに拾ってもらえるのではないかと願う親たちによって公共の場に置き去りにされた。だがそれとわかる異常のある子を拾おうとする人はおらず、彼らはたいてい置き去りにされたままになった。

今日でも、ロシアやインド、中国、その他多くの国々では先天的障害をもつ子どもの遺棄が続けられている。これらの国では、親たちに障害をもつ子どもを世話するだけの経済的余裕がない。


他方、「積極的優生学」にもまた長い歴史がある。古代ギリシアの哲学者プラトンは、理想の社会として哲学者の王たちが支配する独裁的エリート社会を構想した。

プラトンは、理想社会の支配者たるガーディアン(守護者)は、ひそかに、“望ましい男女”が交合するように手配すべきであると示唆した。ガーディアンたちは、戦争で並はずれて勇敢に振る舞う男がセックスにおいても余分の機会が得られ、それによって彼らが可能なかぎり多くの子を残せるようにすべきである──。

 


古代ギリシアの哲学者プラトン

理想の社会として哲学者の王たちが
支配する独裁的エリート社会を構想した

 

このプラトンの提案が実行に移されたことを示す歴史的証拠はない。だが20世紀、ナチス・ドイツではエリート集団SS(親衛隊)の長官ハインリッヒ・ヒムラーが同様の考え方を復活させた。

ヒムラーは早くも1935年に「レーベンスボルン(生命の泉)」と名づけた組織を設立した。この組織の目的はノルディック(北欧)系/アーリア人の人種的イメージに合う男女による出産を奨励することにあった。そして、約1万1000人の子どもがこの“生殖プログラム”によって誕生した。彼らの大部分は私生児で、特別の保育施設で育てられた。

 

  
「レーベンスボルン」の産院。「レーベンスボルン」は、SS隊員と
関係をもった未婚の女性が出産する施設で、生まれる
子供は人種・遺伝的に問題がないとされた。

 


■■近代優生学の創始者フランシス・ゴルトンと「社会ダーウィニズム」


ナチスの「レーベンスボルン計画」は、この種の生殖プログラムの中で実際に大がかりに行われた唯一のものではあった。だがその背後にある動機はナチのイデオロギーだけに限定されていたわけではない。優生学では、遺伝的に優れた能力をもつとみなされた人々の出産を奨励することに大きな力点がおかれていたのである。

これと同じ動機は、19世紀イギリスの傑出した科学者であり近代優生学の創始者フランシス・ゴルトンをもつき動かした。ダーウィンのいとこでもあった彼の研究課題は、人類の遺伝的蓄積をどうやって改良し、“よい生まれ”の子どもを生み出すかにあった。

 


ダーウィンのいとこであった
イギリスの科学者フランシス・ゴルトン

「優生学(eugenics)」という言葉を作り出した

 

“よい生まれ(ウェルボーン)”とは、優生学を意味する英語“ユージェニクス(eugenics)”の語源の意味でもある。ゴルトンは1883年、ギリシア語で“よい”を意味するeuと“生まれる”を意味するgenicsを組み合わせてこの言葉を作り出した。彼は優生学を、自らが望ましいと考えた結婚に対する科学的なアプローチを示す科学用語とみなしていた。


実はこのとき、ゴルトンが人間の遺伝学を研究しはじめてからすでに20年近くがたっていた。彼は人間の成長に対する遺伝的要因と環境的要因の関与を分析する問題に魅了された。1864年はじめ、彼はイギリスの上流家庭で、一連の研究を行い、そこから、人間の知性、指導力、芸術的才能などは高度に遺伝すると確信した。ゴルトンはその著書『遺伝的才能』(1869年)の中で次のように報告している。

「傑出した判事の息子たちは傑出した判事になることが驚くほど多く、また両親の一方がすぐれた音楽家である家庭は音楽的才能をもつ子どもを著しく数多く輩出する。」


このゴルトンの見方は高度に階層化されたイギリス社会によく即していた。彼ら上流階級は、“遺伝的にすぐれているため生まれつき優秀である”ことを立証しているように見えた。ゴルトンが(下層階級を支援する)社会福祉政策を攻撃したのも不思議ではない。

「公共的性格の社会福祉機関はいまこのときにも、人間の本性を劣化させることに向けて働いているのである」

ゴルトンはこう書いた。彼は、イギリスの上流階級の子どもの数はあまりにも少なく、ヴィクトリア時代のイギリスの遺伝的プールに対して決定的に重要な貢献をしていくことができないと考えた。そのため彼は、“才能ある人々”の婚姻による出産を強く鼓舞し、他方、貧窮する人々、慢性的病気を抱える人々、精神的に不安定な人々が子どもを持つことを思いとどまらせようとした。


この時代、ゴルトンのような考え方は社会の主流をなしていた。19世紀の科学者、社会学者の多くは同様の信念をもっており、その旗頭がイギリスの社会学者ハーバート・スペンサーであった。

スペンサーは、貧困層の大部分は生来価値のない人々であり、彼らやその子どもたちの生存に役立つようなことは何ら行うべきではないと信じていた。この見方は後に「社会ダーウィニズム」として知られるようになった。

 


イギリスの社会学者
 ハーバート・スペンサー

 


■■「優生学」を強く支持した20世紀初頭のアメリカ


ゴルトン以後の数十年間、優生学的政策は上流階級を著しく重視する形で根づき、次第に人種主義的色彩を帯びるようになった。とりわけ、この風潮に対する強い支持が見られたのがアメリカであった。

 

 

優生学の支持者であることを自ら公然と任じていたのが、20世紀初頭のアメリカ大統領でノーベル平和賞を受賞してもいるセオドア・ルーズベルトである。彼は、アングロサクソン人の系統の男女が十分な数の子どもを残すことができなければ、それは“人種的自殺”につながると警告した。

 


第26代アメリカ大統領
セオドア・ルーズベルト

優生学の支持者であることを
自ら公然と任じていた

 

セオドア・ルーズベルトが優生学的な理想を支持したのは、今世紀前半を通じて優生学が人々に及ぼしていた影響力の反映であった。1905〜10年の間、優生学はアメリカで発行されていた一般雑誌で2番目によく取り上げられたテーマであった。その支持者には、保守派もリベラル派も、そして革新派も自由主義者もいた。


1920年代はじめ、アメリカは南ヨーロッパおよびロシアからの移民を厳しく制限する法律=「移民法」を制定した。この政策は1968年にいたるまで基本的に変わらなかった。この時期、南ヨーロッパや東ヨーロッパ、アジア、アフリカなどからアメリカへ移住することは、北欧や西ヨーロッパの国々の人々に比べてきわめて困難であった。この政策の目的は明らかに優生主義そのものにあった。

1928年、「アメリカ優生学協会」は次のように述べている。

「移民の問題は、第一に家族の血統に対する長期的投資として考えるべきである」


1920年代から30年代初頭にかけてのアメリカの優生学的運動はまた、「消極的優生学」を直接的に実行する制度を生み出すことになった。

アメリカは連邦レベルでは「断種法」を成立させたことはないものの、約30の州が、精神疾患や精神遅滞の人々を対象にする強制的な断種法を制定した。1907〜60年までの間に少なくとも6万人がそれらの法律の適用を受けて不妊にさせられた。この政策の全盛期にあたる1930年代に断種された人の数は平均して毎年約5000人に達した。


ダニエル・ケブルズの非常によく読まれた本『優生学の名のもとに』では、バージニア州のある目撃者が1930年代にどうやってこの法律が施行されたかを記述している。彼は、州の不妊政策当局が山岳地帯に住む“不適合の”家族全員を摘発したときのことを次のように思い起こしている。

「そのころ生活保護を受けていた者は全員が“そうされる”のではないかとおびえていた。彼らは山々の間に隠れ住んでいたため、保安官とその部下たちは彼らを追って山を登らねばならなかった」

 

■■ヨーロッパ各国で成立した「断種法」とナチスの「安楽死計画」


いくつかの国もアメリカの例にならった。カナダのアルバータ州は、1928〜60年まで同様の積極的計画を採用し、その法律に従って数千人が不妊化されることになった。

ヨーロッパで最初に「断種法」を成立させたのは1929年のデンマークであり、ついで1933年にドイツが法案を成立させ、1934年にはノルウェー、1935年にスウェーデンとフィンランド、1936年にエストニア、さらに1937年にはアイスランドが続いた。同様の法案は第一次世界大戦前にイギリスやオランダ、ハンガリー、チェコスロバキア、ポーランドなどでも審議されたものの、成立はしなかった。


以上の国々のうち、ドイツはもちろん特殊な例である。1920年代のドイツでは優生学的制度はまだ強い反発を招くものだった。実際、1925年に、遺伝的理由で盲目だったり耳が聞こえない人、てんかん患者、精神薄弱者に対する強制的断種を規定した法案が提出されたが、ドイツ国会ではまったく賛意を得られなかった。

 

 

それが劇的に変化したのは1933年にナチ党が政権を握ってからである。1934年、アメリカの優生学者ハリー・ハミルトン・ローリンのモデル法案にもとづいてドイツの「人種衛生法」が起草された。

この法案が「強制断種」への道を開いた。地域の医師や精神疾患施設の責任者は、断種法の適用候補者をリストアップして当局に提出した。これにもとづいて、「遺伝衛生判定所」が対象者を断種するかどうかを決定することになった。もし断種が承認されれば、たとえ本人の意志に反していても不妊化させられた──必要なら国家警察の手をも借りて。

この法律の施行後、最初の2年間でナチの「遺伝衛生判定所」は8万人近くの断種の適用候補者を審査した。彼らは申請のうちのかなり多くを承認し、その結果ドイツではたった2年間で、アメリカで60年間に行われたより遥かに多くの人々が断種されることになった。


この初期の時代(1934〜38年)には、ナチの不妊化政策は、第一義的には遺伝子プールを改良しようと試みていたわけではなかった。それは“無駄めし食い”、すなわち生産には何ら貢献せず、資源を消費するだけの人々を社会から排除することを目的としていた。

だがドイツの優生的政策は次第にエスカレートしてより忌まわしいものになっていき、ついには精神遅滞者、精神病患者、その他の“望ましくない人々”を大量殺害するまでに至った。

1939年、当局はドイツの病院に入院していた精神疾患および身体障害をもつ特定の分類の人々に対して「安楽死計画」を開始した。約7万人もの患者が安楽死の対象として選ばれた。初期のグループは単純に銃殺され、後には犠牲者たちは一部屋に集められてガス死させられた。

この安楽死計画は基本的に、後に何百万人ものユダヤ人を殺戮したガス室の原型であったといえる。にもかかわらず、1930年代を通して、ドイツの優生学施策はしばしば他の国々の模範例となっていた。

 

  
子ども好きだったヒトラー。彼はアーリア人種の純血保存に力を注いだ。

 

スウェーデンが「不妊法」を取り入れたのは1935年だったが、その前にスウェーデン国会が、不妊化に関する委員会を編成すると、委員たちは優生学の調査のため、ドイツを視察した。

だがこのときすでに、この種の消極的優生学に対しては反対の声もあがっていた。たとえばヘルマン・ミューラーは、アメリカで行われていた優生学運動を次のように非難した。

「アメリカは、人種および階級に対する偏見の擁護者、教会や州の既得権の守護者、ファシスト、ヒトラー信奉者、そして、一般的反動主義者たちに、科学的基礎を装った偽りの見せかけを与えることにより、はかりしれない害毒を流している」

とはいえ、ミューラーは優生主義を完全に否定しているわけではなかった。彼は、イギリスのJ・B・S・ホールデーン、ジュリアン・ハクスリー、有名な作家バーナード・ショーなどと同様、優生学に対してよりユートピア的な見解を思い描いていた。1939年のある声明が、彼らの信念をはっきりと物語っている。それは、「人類は、自らの進化をコントロールするために遺伝学を適用すべきである」というものであった。


ミューラーの言葉を借りれば、優生学にはより遠い目標がある。それは「社会が意識的に目指すべき人間の生物的進化の方向性」だというのである。だがそれは強制によって達成されてはならない。「改良優生学」と呼ばれるこの見方のある代弁者はこう述べた。

「優生学の進展は、解放された男性と女性による自発的冒険であるべきであり、それ以外の何ものでもない。これを成し遂げるための基本的な方法──それは、才能あるすぐれた男性の精子を用いた人工授精であろう。このような生殖プログラムは、第1に人間の大多数を占める平均的な人々と劣った人々を現在の優秀な人々のレベルに引き上げ、第2に現在もっとも優秀な人々を超人へと進化させることになろう」


ナチスが残忍な優生学政策を実行しため、第二次世界大戦後、国家の優生主義的施策が果たす役割は以前より遥かに小さくなった。ほとんどの国が、優生学的な法律をそれ以上に取り入れようとはしなかった──日本など少数の例外的国家を除けば。

1948年、いまだアメリカ軍の占領下にあった日本は、「優生保護法」を成立させた。この法律で目につくのは、1ダースほどの数のおそらくは遺伝的に受け継がれる病気や異常のうちどれかひとつでももつ者がたとえ遠縁の血縁者にであれ存在する場合には、不妊化を認めるというものであった。だがこの政策は対象者の同意を前提にしており、その点で戦前の法律とははっきりと一線を画していた。

 

■■1962年、非公式会議で高名な科学者たちが「優生学」を支持した


1962年、世界中の遺伝学者がロンドンに招かれた。「チバ財団」が組織したシンポジウムヘの出席を要請されたのである。

出席者リストには、著名な科学者の名前がずらりと並んでいた。DNA二重らせんの共同発見者であるフランシス・クリック、“ダーウィンのブルドッグ”と呼ばれたトーマス・ハクスリーの孫でユネスコの前事務局長ジュリアン・ハクスリー、アメリカの2人のノーベル賞生物学者ヘルマン・ミューラーとジョシュア・レーダーバーグ、それに世界的に高名なイギリスの生物学者J・B・S・ホールデーン……。

これらの科学者はシンポジウムで遺伝学研究の将来について論じ合った。この会合は非公式であり公開されなかったため、彼らは何ものにもとらわれず、あらゆる観点から議論できると感じた。だがそれによって彼らは、かなり危うい領域にまで足を踏み込んでしまった。


たとえばフランシス・クリックは、すべての人々が等しく子どもをもつ権利をもつかどうかという問題を提起した。イギリスの生化学者ノーマン・ビリーは次のように答えた。

「もし人々の健康や医療施設、失業保険など公共の福利に対して責任を負わねばならない社会で、誰もが子どもをもつ権利があるのかと問われるなら、私の答は“ノー”である」


他方、X線を照射された生物の遺伝子に突然変異が生じることを発見してノーベル賞を受賞したヘルマン・ミューラーは別の観点をもち込んだ。

「おそらく人口の20%近くが遺伝的欠陥を受け継いでいる。もしこの推定が正しければ、人類の遺伝的劣化を阻止するために、その20%の人々は子孫を残すことを許されるべきではない」

このミューラーは率直な発言で知られる社会主義者であり、1930年代の数年間、ソ連(当時)で研究をしていた。彼の生涯にわたる関心事は人間社会の改善と遺伝学にあり、彼は自分がその目標に対して重要な責務を果たしたと信じていた。


彼の同僚であるジョシュア・レーダーバーグは細菌遺伝学の研究でノーベル賞を勝ち得た人物だが、レーダーバーグもまた同様の考えを示した。

「人間の出産状況は暗い。もし我々が遺伝的な改良という創造的可能性を無視するなら、我々は罪深くも、知識の宝庫を無駄にすることになるのではなかろうか?」

彼はこう問いかけ、次のように結んだ。

「最近の分子生物学の進展は、人類がこの目的に到達するためのすぐれた優生学的手段を提供してくれる」


これらの男たちはいずれも(現在生きている者もすでに死んだ者も)傑出した科学者であり、その分野をきわめた専門家であり、高い名声を勝ち得ている。だが多くの人々は、彼らのこのような発言を目にしたときには複雑な感情を抱くのではないだろうか? というのも、フランシス・クリックをはじめとするこれらの生物学者たちは「優生学」について肯定的に論じているからである。

 

■■人間は「生まれ」か「育ち」か?


「人間の優劣や性質を決めるのは生まれ(遺伝)か、それとも育ち(環境)か?」。

これは英語でしばしば、“ネイチャー・オア・ナーチャー?”という表現の問いかけとして知られる。


1946年、アメリカのすぐれた遺伝学者セオドシウス・ドブジャンスキーとコロンビア大学のL・C・ダンが1冊の一般向けの書物を著した。『遺伝と人種と社会』と題したこの本はベストセラーになったが、彼らはその中でこう主張していた。

「我々は、自分の両親およびその他の祖先が残した一束の可能性としてこの世界に生まれ出た。われわれの後天的性質は我々を取り巻く世界によって生じる。だが後天的性質に何が生じるかは、それを受け取る先天的性質によって決まるのである」

そしてこの筆者たちは、先天的なものと後天的なものは分かちがたいと結論している。したがって、問題はどちらがより重要かではなく、むしろそれらがどう組み合わさって人間の性質を決めるかである。


そこでドブジャンスキーは次にこう問いかける。

「人間の遺伝型の違いと、生まれ、育ち、成長した環境の違いは、どの程度人々の間に見られる違いを決定づけているのか?」

この記述は、科学がこの問題に対して投げかけ得る最良の疑問であろう。というのも、特定の性質が遺伝によるか環境によるかという問題に対してこれ以上の主張をするなら、そこには政治的な動機が入り込んでいると見るべきだからである。

たとえば政治的にいわゆる“左寄り”の人々の社会運動はつねに社会的平等や社会保障に焦点を当てるため、生来的・遺伝的なものの役割を軽視する傾向がある。他方、いわゆる“右寄り(保守派)”の人々は、遺伝的性質は環境より重要だと考える傾向がある。


1960年代、おそらくはアメリカの公民権運動の結果として人種差別に対する社会的関心が高まり、遺伝主義の支持者は鳴りをひそめた。そしてこの時期、優生主義的な動機にもとづく多くの社会政策が撤廃された。

1967年、アメリカの最高裁判所は「異人種間婚姻禁止法」を廃止し、またアメリカ議会は1968年、「移民法」における人種主義的様相を基本的に取り除いたのである。


“生まれと育ち論争”はしかし終結したわけではなく、おそらく今後も終わりはしないだろう。とりわけアメリカでは遺伝主義者側が議論を一歩進め、そこに「知能」の問題をもち込んだ。それは、知能には人種にもとづく違いが存在するのかということだった。

この論争は1969年、カリフォルニア大学バークレー校の教育学教授アーサー・ジェンセンによって引き金が引かれた。

彼は黒人の知能指数(IQ)が白人のそれよりも低いことを示す研究結果を発表した。それによれば、黒人の知能テストの成績の平均値は白人のそれより15点も低かった。そこでジェンセンは、知能の遺伝性は高いと考えられることから、知能テストの成績における人種間の違いについて「遺伝的因子が部分的役割を果たしているかもしれない」と結論した。

 


アーサー・ジェンセン

黒人のIQが白人のそれよりも
低いことを示す研究結果を発表した

 

1970年代はじめ、スタンフォード大学の物理学者ウィリアム・ショックリーは、アーサー・ジェンセンの研究にもとづき、黒人の知能の劣等性を主張する運動を展開した。ショックリーはトランジスターを発明してノーベル賞を受賞したが、彼はまた「社会工学」という基本的に優生学的な政策を提案したことでも知られている。

これは、強制的断種でも単なる自発的断種でもなく、財政優遇措置にもとづく断種で、知能の低い人間が自ら進んで不妊化手術を受ければ5000ドル(当時の邦貨にして百数十万円)の報奨金を受け取ることができるというものだった。

当時、黒人の出生率が高いためにアメリカの平均知能が引き下げられると予測していたショックリーは、社会工学的な政策によってそのような事態を防げると考えたのだった。

 


トランジスターを発明してノーベル賞を
受賞したウィリアム・ショックリー

黒人の知能の劣等性を主張
する運動を展開した

 

ショックリーの運動もジェンセンの研究と同じように、一部の人々の支持を得たものの、反対の声の方が高かった。批判の多くは、知能テストの成績における黒人と白人の違いは、何よりもまず生活環境に起因するものだろうと指摘していた。平均的な黒人は社会の貧困層に属しており、白人の市民階級に比べて、知的技能を学び、磨いていく上でより劣悪な環境に生きている。これでは黒人の子どもが知能テストで悪い成績をとるのも当然だというのである。


この論争はその後20年以上もたった1995年に再燃した。リチャード・ハーンスタインチャールズ・マレイ『ベル曲線』を発表したのである。

 

  
(左)リチャード・ハーンスタイン (中央)チャールズ・マレイ (右)『ベル曲線』

 

彼らはこの本の中で、貧困で大家族の家庭では知能の低い者が平均を上回って多いと論じた。一方、知能指数が最高レベルの人々(彼らはまた今日の技術社会では最上の階級に属していることが多い)は子どもの数がもっとも少ないとも指摘した。

ハーンスタインとマレイはさらに、別々の環境で育てられた一卵性双生児について行った知能の遺伝的研究を引用した。これらの研究は、人間の知能の40〜80%は遺伝的要素によるものだと結論している。

これらの研究や世界各地で行われた知能に関する研究をもとにして彼らは、知能指数の高い男女がより多くの子どもをもつよう奨励する一方、知能指数の低い男女の子どもの数がより少なくなるような何らかの政治的措置を講じないかぎり、アメリカ人の平均知能指数は10年ごとに約1%ずつ低下していくだろうと警告したのである。

ハーンスタインとマレイの議論は20年前のジェンセンやショックリーの主張と基本的に変わってはいない。ただ彼らは医学的な不妊を提言しているのではなく、貧困層の女性の出産に対するさまざまな補助を打ち切るべきだ──いいかえれば、福祉やその他の社会保障制度は廃止すべきだと言ったのである。

 

■■「集団の優生学」から「個人の優生学」へ


ゴルトンから約150年が経過したいま、優生学はおおむね失敗に終わったように見える──科学的にも現実の政策としても。多くの場合、優生学は政治的な目的や動機として利用されてきた。しばしばくり返される粗末な遺伝的議論が背後にある政治的意図を覆い隠すことは困難だった。

前出のダニエル・ケブルズによれば、優生学をとりわけ問題多いものにしているのは、そこに「個人やその家族の権利と必要性の上に押し上げられた抽象概念『人種』『集団』それに最近では『遺伝子プール』などが含まれているためだ」という。


「超人の血統の繁栄」をもくろむ積極的優生学は、いまではせいぜいユートピアとして残っているだけである。それは全人口の遺伝的構成の操作を必要とするため、たとえ可能だとしても、厳格な監視を前提とする警察国家でしか実現できそうにはない。またそれは何世代にもわたる長期戦略があってはじめてうまくいくのであり、比較的短期間で政権交代がくり返されるいまの世界で実行可能とは思えない。


だが、優生学が個人的に自らの意志によって行われるなら、とりわけ遺伝病と闘う上ではうまくいくかもしれない。

たとえばイタリアのサルジニア島やキプロス島の人々は、長い間サラセミアと呼ばれる重い貧血症候群に苦しんできた。これは赤血球中のヘモグロビンを十分に生み出せない血液の病気である。これらの地域では、結婚相手が病気の因子をもつかどうかを調べるために「婚前診断」が行われる。また「出生前診断」と、胎児が保因者であることがわかった場合には「選択的中絶」も行われている。結婚相手が保因者であることがわかると、約5分の1のカップルは婚姻をやめる。


これらの事例は、将来の優生学(もしこの言葉が将来も使われているなら)の方向性を示すものかもしれない。つまり、否定的な歴史をもつ優生学の考え方ではあるが、健康な子を産みたいと望む親の、“個人的選択”の上なら成り立つということである。

それには新しい生殖遺伝子技術、たとえば精子の幹細胞(胚の中の、いずれ精子になるはずの原細胞)の移植、あるいは精子や卵子の遺伝テスト(胚バイオプシー)が役立つことになるだろう。


この種の個人優生学についてもさまざまな議論が行われていることは確かである。だが、アメリカの高名な生命倫理学者アーサー・カプランの次の言葉はおおいに参考になるのではなかろうか。

「われわれは自分たちの子どもを環境要因によって(親の期待する人間になるように)形作ろうとしている。ピアノを習わせたり、ほかにもあらゆる勉強や稽古ごとをさせて。私は、それが誰かを傷つけるのでないかぎり、そこに遺伝学を利用しても誤りであると考えることはできない」


◆ ◆ ◆

 

 


 

■■おまけ情報: 「優生学」の歴史(年表)


ついでに(参考までに)、「優生学」の歴史の年表を載せておきます↓

 

■前4世紀、古代ギリシアの哲学者プラトンが「理想社会の支配者ガーディアン(守護者)は、“望ましい男女”が交合するようにひそかに手配すべし」と示唆した。

■ローマ時代の人々は、著しい奇形や不治の病をもって生まれた赤ん坊を崖から投げ落とした。

■中世ヨーロッパのキリスト教社会では“望まれない子”を公共の場に遺棄した。正常な子どもは拾われることもあったが、障害をもつ子どもは置き去りとなった。

■1883年、イギリスの科学者フランシス・ゴルトンが「優生学(eugenics)」という言葉を作り出した。

■1895年、ドイツの優生学者アルフレート・プレッツが『民族衛生学の基本指針』を出版。「民族衛生学」という言葉が初めて用いられた。このプレッツの著書はドイツ優生学の出発点となった。

■1905年、ベルリンに世界最初の優生学会「民族衛生学協会」が誕生。同様の優生学会はイギリスやアメリカにも相次いで誕生した。

■1907年、アメリカ、インディアナ州で最初の「断種法」が成立、その後約30の州で同様の法律が成立した。

■1912年、ロンドンで「第1回国際優生学会議」が開かれた。

■1913年、アメリカの28の州が異人種間の婚姻を禁止した。

■1924年、アメリカの「移民法」が成立し、西欧・北欧以外の人々のアメリカヘの移住が著しく制限されるようになった。

■1929年、デンマークで「断種法」が成立。その後1937年までにノルウェー、スウェーデンなどヨーロッパの数ヶ国が同様の法律を成立させた。

■1933年、ナチス・ドイツで「断種法」(「人種衛生法」)が成立した。

■1935年、ナチス・ドイツのSS長官ヒムラーが北欧系/アーリア系の人種的イメージに合う子どもの出産を奨励する「レーベンスボルン計画」を開始した。

■1939年、ナチス・ドイツが精神障害者や身体障害者を殺害する「安楽死計画」(=暗号名「T4作戦」)を開始。1941年までに7万人以上が虐殺された。

■1948年、日本で「優生保護法」が成立した。

■1963年、チバ財団のシンポジウムで世界中の生物学者が優生学について議論、高名な科学者たちが優生学を支持する発言を行った。

■1969年、アメリカのアーサー・ジェンセンが黒人の知能指数は白人より低いが、その一部は遺伝的な要因によるかもしれないと発表した。

■1979年、アメリカで最初の「精子銀行」が設立された。当初この銀行への精子提供者はノーベル賞受賞者、また提供を受けられる女性はIQ140以上に制限された(後に男女とも資格がゆるめられた)。

■1995年、アメリカのリチャード・ハーンスタインとチャールズ・マレイが大著『ベル曲線』を出版し、知能の低い人間が比較的多い貧困層に対しては社会保障制度を打ち切るべきだと提言した。

■1990年代後半、遺伝子科学の爆発的発展により、人間の受精卵の遺伝子を子宮着床前にチェックし、問題のある受精卵を廃棄することが医療分野で始まった。


※追記

■2000年、日本のノーベル賞科学者である江崎玲於奈氏は、教育改革国民会議で「いずれは就学時に遺伝子検査を行い、それぞれの子供の遺伝情報に見合った教育をする形になって行くだろう」と発言。「優生学」の観点に前向きな姿勢を示し、物議を醸した。

 

 


 

★関連記事(リンク集)

「生命誕生の現場」(全3回) / NHK ETV特集 / TV番組 1998(MINEW's Life Page)
http://www.asahi-net.or.jp/~PW2T-MNWK/Life/Eugenics.html

 


 

ナチス・ドイツの「優生政策」に興味のある方は、当館作成の
別ファイル「ナチス・ドイツの優生政策の実態」をご覧下さい。

 


 


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