No.a6fhb803

作成 1998.1

 

チフスにかかって病死した
アンネ・フランク

 

 

●かの有名なアンネ・フランクは、「アウシュヴィッツ収容所」で「ガス殺」されたと思い込んでいる人が、時たまいる。しかし、これは正しくない。

実際は、彼女はソ連軍の侵攻の前に「アウシュヴィッツ収容所」から「ベルゲン・ベルゼン収容所」に移送され、そこでチフスにかかって病死したのである。収容所がイギリス軍に解放される約2ヶ月前の1945年3月のことだった。(「ベルゲン・ベルゼン収容所」は絶滅収容所ではない)。

 


アンネ・フランク

1945年3月、
「ベルゲン・ベルゼン収容所」で
チフスにかかって病死した

 

●アンネ一家4人のうち、アンネの母親はアウシュヴィッツで死んだ。アンネと姉の2人はベルゲン・ベルゼンに移送され、チフスにかかって病死した。父親のオットーは、アウシュヴィッツでチフスにかかったが、入院して回復。1980年にスイスのバーゼルで死ぬまで、91歳の寿命をまっとうした。

 


父親のオットー・フランク

アウシュヴィッツに収監後、解放され、
1980年にスイスのバーゼルで死ぬまで、
91歳の寿命をまっとうした

 

●現在、資料館になっている「ベルゲン・ベルゼン収容所」の入口には、アンネの写真とともに明確に彼女がチフスで亡くなったことが示されている。「ベルゲン・ベルゼン収容所」の資料センターの歴史家トーマス・ニーエは次のように語る。

「アンネがどの棟にいたか、正確にはわかっていない。アンネが死んだ3月、チフス感染で1万8000人が死んだ。死者は合計5万人、解放時の生存者は6万人だった。」

 


「ベルゲン・ベルゼン収容所」跡地
にあるアンネ・フランクの墓碑

 

●アンネ一家からもわかるように、当時の収容所では発疹チフスが大流行していた。収容所の中には多くのシラミがいて、そのシラミが媒介となって発疹チフスが伝染し、弱っていた人びとを死に追いやっていった。アウシュヴィッツ以外の収容所でも、戦争末期には発疹チフスなどの感染症が多発し、それらの病原体を媒介するシラミの駆除が大問題になっていたのである。

『世界大百科事典』(平凡社)の「発疹チフス」の項目には、「シラミが寄生するような衛生状態の不良なところに流行が発生し、〈戦争熱〉〈飢饉熱〉〈刑務所熱〉〈船舶熱〉などの別名でも呼ばれた」とし、「第二次世界大戦でも発疹チフスは将兵をおそい、多くの日本軍兵士の命を奪った。さらにアウシュヴィッツなどのナチスの捕虜収容所でも大流行」したと書かれている。

 



戦争末期には発疹チフスなどの感染症が多発し、それらの
病原体を媒介する「シラミ」の駆除が大問題になっていた

 

●「ダッハウ収容所」から運よく生還したユダヤ人ソリー・ガノールは、この時の悲惨な体験を、著書『日本人に救われたユダヤ人の手記』(講談社)にまとめているが、「ナチとその追随者の次には、シラミこそが我々の第二の大敵にほかならなかった」という。

 

 
(左)リトアニア生まれのユダヤ人ソリー・ガノール
(右)彼の著書『日本人に救われたユダヤ人の手記』(講談社)

 

●この本には次のような記述がある。

「囚人服はシラミだらけだった。この害虫に慣れてきていたとはいえ、陽光の中をうごめく数千のシラミには吐き気をもよおした。ナチとその追随者の次には、シラミこそが我々の第二の大敵にほかならなかった。 〈中略〉

状況があまりにもひどくなったため、ドイツ側もなんとかしなくてはいけないと気付いた。このままでは、奴隷労働そのものが崩壊しかねないありさまだったのである。 〈中略〉

12月中旬のある真夜中、私たちは全員、寝棚からたたき出された。バラックに走りこんできたSSの警備兵とカポ(囚人の間から登用される統制者)たちが、ひとり残らず服を脱げとわめいた。ぐずぐずしていると、こん棒とムチがふってくる。脱いだ衣服は、消毒のため持ち去られ、素っ裸の私たちは、そのまま雪の戸外へ追い出され、シャワーの場所まで走らされた。冷たい風が吹きつけ、骨までつき刺してくる。そのうえで、なんと、水のシャワーを浴びさせられた。SSの兵士たちはどなりっぱなしである。

『このシラミ野郎! うす汚いユダヤめ、さっさとしろ!』

多数の年輩者、おおぜいの骸骨人間がコンクリートの床にくずおれた。ユダヤ人のシラミ退治のために、雪嵐の最中に暖かいベッドを離れねばならなかったことで、監視兵たちは不機嫌そのものだった。すそまであるロング・コートでがっちり身をくるみ、帽子を目深にかぶり、手袋をはめた彼らの姿を見あげて、こいつらは人間なんだろうかと、私は改めていぶかった。」



●ところで、アメリカ軍が「ダッハウ収容所」を解放した時、「毒物」の所在を示す「ドクロマーク」がついた部屋を発見した。そして、その部屋の中には、これまたドクロマークのついたシアン化合物「チクロンB」の缶が、大量に残されていた。驚いたアメリカ軍は、「ガス室」の決定的証拠として、このドクロマークの付いた部屋の「写真」を世界に発表した。

しかし、のちにそれは「消毒室」だったと訂正された。ドクロマークの付いた部屋はチフスを媒介するシラミを退治するための「消毒室」だったのである。この「消毒室」では、衣類やマットなどからチフスの病原体を媒介するシラミを駆除するために、「チクロンB」が使われていたのだ。

 


「ガス室」の証拠として
アメリカ軍が発表した写真

のちに「消毒室」だったと訂正された

 

●「チクロンB」という名前の響きから、オウム事件で使われた「サリン」と同じように、殺人用に開発された毒物だと思ってしまいがちだが、当時のドイツ社会では「チクロンB」は一般に生産・販売され、殺虫作業などに広く使用されていたことで知られている。「DDT」を持たなかったドイツ軍は、この「チクロンB」をシラミ駆除の殺虫剤として使用していたのである。(「チクロンB」は1923年に開発された)。

結局、ガス殺があったとされる「ダッハウ収容所=絶滅収容所」説は、戦後15年たってから公式に否定されたのだが、「ダッハウ収容所」と同じタイプの「消毒室」は、「アウシュヴィッツ収容所」にもあった。アウシュヴィッツでも、シラミ駆除のために「消毒室」で「チクロンB」が使用されていたのである。これは公式に認められている事実である。

 


「チクロンB」

当時のドイツでは「殺虫剤」として
オフィスや一般家庭でも広く使用されていた


 
ユダヤ人化学者フリッツ・ハーバー博士 (1868〜1934年)

「チクロンB」は1923年、彼によって偶然開発された。

※ 彼はアンモニア合成法の「ハーバー・ボッシュ法」で
知られる。1918年にノーベル化学賞を受賞。ユダヤ人
だった彼は、ヒトラー政権誕生後、祖国ドイツから追放
され、翌1934年に異国スイスの地で客死した。

 

●するとここで疑問が起きてしまう。

ダッハウの「チクロンB」は殺人用ではなく消毒用に使用されていたのだから、アウシュヴィッツでも同じように使用されていたのではないか、と。

もちろん、一般的には、アウシュヴィッツの「チクロンB」は、人間を大量に殺すために「転用」されていたと説明されている。しかし、この「チクロンB」の「転用」に関して、世界的に大きな議論が起きている。肯定派と否定派の意見はまっぷたつに割れている。

もし「転用」されたのであるならば、どの場所(部屋)で「転用」されたのかが問題となる。「消毒室」は非常に狭く、何人も人間が入れない。目標「1100万人」、実績「400万人」と称される計画的な大量虐殺の現場としては、あまりにも不適当である。

そのため肯定派(正史派)は、収容所の中に存在する防空シェルターとして使われたことのある「半地下室」こそが、大量虐殺のための「ガス室」だと主張しているのである。


●一方、否定派(懐疑派)は、アウシュヴィッツでは「チクロンB」によって殺害された遺体は、一体も発見されていないという事実を挙げる。

更に「半地下室」を「ガス室」として使用するには、科学的に問題がありすぎるとして、「アウシュヴィッツ収容所=絶滅収容所」説を完全否定。「チクロンB」はシラミ駆除のためだけに使われたとして、次のように主張する。

「ダッハウで発見された死体の山の死因のほとんどがチフスだったという事実は、一般に無視されている。アウシュヴィッツでもチフスが大流行していて大きな問題になっていた。そのため、裸の人の群れだとか、衣服や髪の毛の山だとか、これまでに何度も見た写真などの各種の資料について、次のような説明が自然に思えてくる。──『発疹チフスの流行下でユダヤ人を大量に強制移送したドイツ軍は、彼らを収容所に入れる前に、それまで着ていた衣服を全部ぬがせ、シラミの卵がうえつけられている可能性の高い髪を刈り、シャワーを浴びさせた。衣服は別室にまとめ、殺虫剤チクロンBで薫蒸することよってシラミを駆除した。チクロンBと薫蒸室には、毒物の危険を知らせるために、ドクロマークがつけられた。戦争末期にアウシュヴィッツで発見された死体の山の主な死因は、ダッハウと同じチフスだった』──。」



●興味深いことに、否定派(懐疑派)の中にはユダヤ人学者もいる。

プリンストン大学の歴史学者アーノ・メーヤー教授である。メーヤー教授は、子供の頃ナチスの迫害を受けアメリカに渡ったユダヤ人の1人で、現在は左翼思想の持ち主であるという。そんなメーヤー教授が、「ナチスの多くは殺戮より労働力としてユダヤ人を利用することに関心を持っていた」とし、「自然死(疫病死)」のほうが多かったと主張しているのである。

このことは1989年6月15日号の『ニューズウィーク』日本版でも取り上げられ、現在、メーヤー教授の主張を巡ってアメリカの歴史学会は揺れているという。

 


プリンストン大学

ユダヤ人学者のアーノ・メーヤー教授は、
アウシュヴィッツのユダヤ人の死者の多くは
「自然死(疫病死)」だったと述べている

 

●果たして、アウシュヴィッツでは「チクロンB」の「転用」による大量ガス殺はあったのか?

この議論は多くの人々の関心を呼んでいるが、危険な問題をはらんでいるテーマでもある。この議論に便乗して、欧米のネオナチたちが自分たちの主張を押し通そうとしているからだ。いわく、ヒトラーによるユダヤ人虐殺はなかった、と。

もちろん、ネオナチたちは否定派の中の一部の人間である。その他の否定派は、このような極端な主張はしていない。彼らの言い分を冷静に分析してみると、先にあげたユダヤ人学者のように、強制収容所の存在や、ユダヤ人の死を否定しているわけではないことに気付く。彼らは主に「アウシュヴィッツ収容所=絶滅収容所」説を否定しているのである。

(※ 雑誌『マルコポーロ』にガス室否定の記事を載せた医師・西岡昌紀氏は、「ガス室大量殺人」を完全否定しながらも、「ドイツが罪のないユダヤ人を苦しめたことは明白な歴史的事実である」と書いている。参考までに)。

 


アウシュヴィッツの所長
ルドルフ・ヘース

副総統のルドルフ・ヘスとは別人。
戦後、1946年3月、フレンスブルクから
遠くない農場で働いているところをイギリス軍に
発見された。彼はイギリス軍からポーランド当局に
引き渡され、「死刑」を宣告されて絞首刑になった。

 

●さて、最後になるが、私個人としては、「チフス」だろうと「ガス殺」だろうと、多くのユダヤ人がアウシュヴィッツで死んだのは間違いない事実であると考えている。ナチスの犯した罪は重い。これは否定できない。

だが、彼らはどのようにして死んでいったのか、あるいは殺されていったのか。そしてそれはどれほどの規模だったのか──。

これは歴史を研究する上で、厳密に、正確に知りたい事柄である。


●しかし、欧米ではこのような事柄を学術的に「徹底検証」することは、現在、極めて困難な状況になっている。

特にドイツは戦後、「ナチズム」の教訓から、「ネオナチ」はもとより「ホロコースト」についても言論を統制し、疑義を挟む事さえ、法律で「禁止」してしまった……。


●ホロコースト論争は、様々な政治的波紋を巻き起こしながら、まだまだ続きそうである……。

 

 

 


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