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No.b1fha660
作成 1998.3
第1章 |
「化学兵器」 |
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第2章 |
第一次世界大戦は
世界初の「毒ガス戦」であった |
第3章 |
「毒ガス戦の父」
フリッツ・ハーバー博士 |
第4章 |
ナチス・ドイツで開発された化学兵器
~「タブン」「サリン」「ソマン」~ |
第5章 |
化学兵器の投入に前向きだった
ヒトラーの側近たち |
第6章 |
化学兵器を嫌っていたヒトラー
|
第7章 |
戦後にエスカレートした
化学兵器の開発 |
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■■第1章:「核兵器」より優れている点が多い「化学兵器」
●「化学兵器」の実態は、一般にはほとんど知られていないため、ともすると核兵器にのみ注意を奪われやすい。しかし、潜在的な脅威は核兵器のそれを遥かに凌ぐ。
使用効果、生産コスト、生産設備、取り扱いの簡便さなどの諸点から見ても、核兵器より優れている点が多いのである。
●例えば、使用効果。
核兵器は生物だけでなく建造物なども破壊しつくしてしまうが、「化学兵器」は生物のみを殺傷する。
奇襲戦や撹乱戦、謀略戦のほか、パニック挑発といった特殊用途の適性もある。加えて、完全な防御法がない。核兵器に有効な核シェルターも、化学兵器の前では無用の長物である。
さらに生産面でのメリットも大きい。安価に、大量に、簡単に生産できるのである。
化学兵器の種類と人体への効果
■■第2章:第一次世界大戦は世界初の「毒ガス戦」であった
■第一次世界大戦(1914~1918年)
●兵器として人類史上初めて使用された毒ガスは、紀元前5世紀、「ペロポネソス戦争」でスパルタ軍が使用した「亜硫酸ガス」であるといわれている。
中世には「ギリシアの火」と呼称されて、可燃性物質を燃やして煙や有毒ガスで敵をいぶし出す戦術がたびたび採られ、コンスタンチノープルがイスラム勢に迫られた時、この「ギリシアの火」で撃退したとの言い伝えもある。
●近代以降では、1915年4月22日、第一次世界大戦のイープル戦線でドイツ軍が使用した「塩素ガス」が最初である。
※ 1915年4月22日、ドイツ軍はベルギー領内のイープル付近の前線約5キロに沿って「液体塩素」の入ったシリンダーのバルブを開けた。このガスは雲状と化し、一挙に約1万5000人の連合軍兵士が被害をこうむった。
ドイツ軍が使用した毒ガス
※ 初めの頃は風を利用して敵陣に流された。
しかし後になると、砲弾に詰められ、大砲で
敵陣に撃ち込まれるようになった。
●これが世界初の毒ガス戦とされているが、厳密には、これは第一次世界大戦での最初の毒ガス攻撃ではなかった。
最初に使われた毒ガスは「ブロモ酢酸エステル」で、フランス軍が1914年8月からドイツ軍に対して西部戦線で使用した。これは現在の分類では催涙剤に分類されているが、毒性は「塩素ガス」より強い。
●イギリスはイープルでの体験の約5ヶ月後に、同じく「液体塩素」を使ってドイツに報復した。
1915年の12月には、ドイツが再びイープルで「ホスゲン」を初めて使用。これに対抗して、イギリスは「塩素」と「ホスゲン」の混合物で攻撃。
一方、フランスは「シアン化水素」の実験を進め、イギリスもまた、いくつかの研究所で最強の致死性ガスの開発をめざして、既知の化学物質15万種類の実験を急いだのである。
■「マスタードガス」や「ルイサイト」の誕生
●これに対してドイツは1917年に「毒ガス弾」を開発。
そのガス弾には、のちに「マスタードガス」(別名「イペリット」)として知られるようになった茶色の液体「硫化ジクロロエチル」が詰められていた。この化学剤の持続性とその効果はすさまじく、数ヶ月間のイギリス側の死傷者は18万5000人に達した。
この数字は、第一次世界大戦での毒ガスによる死傷者総数の70%に相当するほどである。
●イギリスとフランスはドイツに対抗して、独自に「マスタードガス」を開発。
アメリカでも大規模な研究活動を急ピッチで進め、マスタードと同じような効果をより速やかに発揮できる化学剤「ルイサイト」の開発に結びつけた。
第一次世界大戦中、毒ガスに対して防毒マスクを用いた兵士たち
※ 毒ガスの開発と同時に「防毒マスク」も急ピッチで進化した。最初は
薬液を浸して、手で口と鼻を押さえるだけの麻くず一包みであったが、
その後すぐに目綿布による覆面が出現。その後どんどん改良が進み、
鼻と口を覆うだけのものから、ガラスの目窓が開いていて頭
の前部をすっぽりと覆うスタイルに変わっていった。
■■第3章:「毒ガス戦の父」フリッツ・ハーバー博士
■ドイツの毒ガス戦を指揮した天才科学者
●第一次世界大戦中、ドイツ軍司令部は「陸軍省化学局」を新設し、その局長にフリッツ・ハーバー博士を任命した。
このハーバー博士は、化学史上屈指の大発見、大発明を遂行したことで知られる天才科学者であるが、大戦中は毒ガス開発に携わり、前線監督官として毒ガス戦を指揮したのである。
(左)フリッツ・ハーバー博士 (右)前線監督官
としてドイツ軍の毒ガス戦を指揮するハーバー博士
ハーバー博士はドイツの化学者で、アンモニア合成法の
「ハーバー・ボッシュ法」で知られる。第一次世界大戦中は
毒ガス開発に携わり、毒ガス戦を指揮した。1918年に
ノーベル化学賞を受賞。(ちなみに博士の妻は夫が
毒ガス戦に関わることに抗議して自殺した)。
●化学兵器に詳しい常石敬一教授は、ハーバー博士についてこう述べている。
「毒ガス戦の父と言われるのがフリッツ・ハーバーだ。彼は毒ガスの大規模使用のアイデアを出し、それを実行した。ハーバーは、相手陣地があたかも雲で覆われたかのような外観を呈する状況を作り出すべきだと主張した。彼が選んだ化学剤は、ドイツが他国に先駆けて大量生産に成功した塩素だった」
◆
●医療ジャーナリストの宮田親平氏は、ハーバー博士についてこう述べている。少し長くなるが参考までに紹介しておきたい↓
「第一次世界大戦で毒ガスに使用された化合物の種類は40以上に達したといわれ、生産された総量は15万トン。うちドイツが6万8000トンである。〈中略〉
ハーバーが先頭に立たなければ、これほどまでに毒ガス戦が拡大、深刻化しなかったのは、なによりも真実である。
彼は人類の化学史上、屈指の業績となる空中窒素固定によるアンモニア合成法の成功で声価を得た、ドイツ化学界最大のスターだった。しかも彼の研究がボッシュに引きつがれて工業化に成功したことによって、その勢威は学界だけでなく化学工業界にもおよんでいた。
だからこそ、『戦争をこれによって早く終結させることができれば、無数の人命を救うことになる』の一言で、たとえしぶしぶながらでもヴィルシュテッター、フィッシャー、ヴィーラント、フランクらのノーベル賞学者たちが知恵を貸し、またBASF、バイエルなどの化学工業会社を糾合させることができたのである。
その結果、彼の『盲目的な愛国心』は『無数の人命を救う』のとは反対に、やたら無益に戦争を引き延ばすことに一役買ってしまったのだ」
■第一次世界大戦後、化学兵器は一躍、軍事的比重を高めた
●第一次世界大戦での毒ガス使用の体験は当然のことながら、巻き込まれた国々の市民を恐怖に陥れた。大戦中に、市民も含めて100万人もの人たちが毒ガスを浴び、10万人が死亡という悲惨な結果となったのである。
にもかかわらず、大戦終了後、化学兵器の研究は急ピッチで進歩した。
1918年の終戦の後、アメリカ、イギリス、フランスは、ドイツの化学工業の進歩から多くのことを学び、さらに新しい化学剤の研究につき進むことになる。
第一次世界大戦での死傷者数から判断して、化学兵器はかなりの軍事的価値を持つことが実証されたからである。
●特に、イギリスは化学剤をテストする好機に恵まれていた。
1919年、ロシア革命に続く内戦の期間に、アルハンゲルスク付近の森に、飛行機から散弾筒を投下し、雲状の煙を生じさせ、さらに同じ年、イギリス空軍は、「ホスゲン」と「マスタードガス」をアフガニスタンで使用。高原部族に対して、繰り返し攻撃を加えたのである。
■■第4章:ナチス・ドイツで開発された化学兵器 ─「タブン」「サリン」「ソマン」
■「タブン」の誕生(1936年)
●1925年から1945年の20年間は、多くの国で新しい化学剤の研究が飛躍的に進んだ。
なぜなら、その化学剤を実験するチャンスが数多く生まれたからである。
例えば、イタリアは、1935~36年にかけてエチオピアを併合しようとして戦争を仕掛け、「ホスゲン」、「催涙ガス」、「マスタードガス」を散布。多大な効果をあげた。さらに、「ルイサイト」と「マスタードガス」が中国の山東省の前線で、日本軍によって使用されたといわれている。
●これらの実験が積み重なった結果、化学剤の研究は大きく進歩し、その運搬手段にも精巧なものが開発された。“化学兵器”としての体裁が整えられ、同時に新しい種類の化学剤が開発されたことでさらにエスカレートする。
それは新型の殺虫剤の研究から始まった。
新型の殺虫剤を研究していたドイツの「I・G・ファルベン社」の研究スタッフが、虫だけでなく、人間にもきわめて有害な作用をもつ化合物を発見した。1936年のことである。
「タブン」と名づけられたそれは、殺虫剤としてはあまり有用でないが、軍事的な可能性を秘めていたのである。
ドイツの巨大企業「I・G・ファルベン社」(1935年)
※ この会社はドイツの化学工業をほぼ独占し、ナチスに対して巨大な財政援助をした
●「タブン」は、他の毒ガスとは異なり、皮膚から吸収されて体内に入ることができる。その作用はきわめて特異なもので、アセチルコリンエステラーゼという、重要な酵素の生成を抑制して、神経系の機能を混乱させるものだった。
これを人間に用いるとどうなるか?
心臓や肺の筋肉をけいれんさせて、呼吸をできなくし、窒息させてしまうのである。
このような作用をする「タブン」は、塩素にくらべて100~1000倍も有毒であり、「マスタードガス」、「ホスゲン」、「ルイサイト」、あるいは「シアン化水素」に比べると10~100倍も強力で、ピンの頭ぐらい(数千分の1g)で致死量となる。
↑「タブン」の構造式
「タブン」は1936年にドイツの化学者ゲルハルト・シュラーダー博士
率いる研究チームによって開発された毒ガスである。無色~茶色がかった
液体または無色の蒸気で、わずかに果実臭がある。非常に作用が速く、
吸入暴露、皮膚暴露、経口摂取によって、全身症状を呈する。
■「サリン」の誕生(1938年)
●ナチスは「タブン」を開発した化学者シュラーダー博士を特別ベルリンに招き、いっそう協力して毒ガスを開発するように命じた。
その2年後(1938年)、「I・G・ファルベン社」では、「タブン」の2倍の毒性を持つ化合物「サリン」の合成に成功した。
「サリン」はシュラーダー博士を初めとし、開発に当たった4人の研究者の名前のそれぞれ一部を組み合わせて命名されたもので、ほとんど無色無臭で即効性があり、都市に投下するなら数分間で「死の町」とすることができる猛毒の毒ガスである。
↑「サリン」の構造式
「サリン」は1938年にナチス・ドイツで開発された「毒ガス兵器」である。
「サリン」という名称は、開発に携わったドイツの化学者シュラーダー (Schrader)、
アンブロス (Ambros)、ルドリゲル (Rudriger)、ファン・デル・リンデ (Van der LINde)
の4つの名前を取って名付けられた。「サリン」は無色無臭の液体で殺傷能力が非常に
強く、経口からだけでなく皮膚からも吸収され、直ちに神経に障害を起こす。
●これら一連の化合物は軍事的には、「神経ガス」という全く新しいタイプの毒ガスとして利用されることになる。
ナチス・ドイツ軍部はシレジアのブレスラウ付近に「神経ガス工場」を建設するため、1億マルク以上をつぎ込んだ。
ここでの「タブン」の月間生産能力は3000トン。この液体化合物は広い地下工場内で航空機用の爆弾や砲弾に詰められた。
■「ソマン」の誕生(1944年)
●さらにナチス・ドイツは、1944年に「タブン」と「サリン」と同類だが、「ソマン」と呼ばれる史上最強の毒ガス兵器を完成させた。
↑「ソマン」の構造式
「ソマン」は1944年にドイツの化学者リヒャルト・クーンによって開発
された「毒ガス兵器」である。無色~茶色がかった液体で、速やかに蒸発する。
わずかに果実臭、カンフル臭がある。非常に作用が速く、吸入暴露、皮膚暴露、
経口摂取によって、全身症状を呈する。この「ソマン」の存在は極秘中の極秘
だったために、第二次世界大戦後まで発見されなかった。ある鉱山中に貯蔵
してあるのをソ連軍が見つけ、その存在が確認されたといわれている。
●この時期までにドイツは、月産1万トンの毒ガスを生産できる能力をもつ工場を20ヶ所も所有し、戦争終了時までには毒ガスの備蓄の推定量は7万~25万トンに及んでいたのであった。
驚くべきことにナチス・ドイツは大戦中、
史上最強の毒ガス兵器を完成させていたのである
●これらナチス・ドイツで開発された猛毒の毒ガスは第2世代の毒ガスである。
戦後アメリカでは、タブン、サリン、ソマンは「German gas(ジャーマン・ガス)」の頭文字をとって「Gガス」(G剤)と呼ばれ、開発順に「GA」、「GB」、「GD」というコードネームがつけられた。
※ 念のために書いておきたい。
どうして「GC」が抜けているのか?
なぜ、ソマンは「GC」ではなく「GD」なのか?
このような疑問を持たれた方がいると思うが、「GC」は
すでに医薬品の略号として用いられていたためである。
■■第5章:化学兵器の投入に前向きだったヒトラーの側近たち
●この新しいタイプの化学兵器は、ナチス・ドイツ軍部によって厳重にその秘密が守られ、連合国はその存在すら知らなかった。
が、もちろん、毒ガスの生産はイギリスやアメリカでも盛んに行われていた。
両国とも、1945年までに、主として「ホスゲン」と「マスタードガス」500万トンを備蓄していた。アメリカでは1942年から1945年の間に多くの「化学兵器工場」が建てられ、その中で最も規模の大きい工場は、アーカンソー州のパイン・ブラッフにあった。この工場は現在も存在し、アメリカの毒ガス生産の新しい中心地となっている。
第二次世界大戦中に公開された防毒マスク
(左はフランス製で、右はイギリス製のマスク)
※ これらの防毒マスクは第一次世界大戦の時とは
違って一度も実戦で使用されることはなかった
●しかし、これらの化学兵器は第二次世界大戦中はほとんど使用されなかった。
「サリン」の量産工場は完成しなかったが、ナチス・ドイツは敗戦までに7000トン以上の「サリン」を貯蔵していた。これはパリのような大きさの都市を30回、もしくはそれ以上の住民を全滅させてしまうのに、充分な量だった。
「当時の毒ガスは現在の核兵器と同じ扱いでした。この兵器が投入されたら大惨事だったでしょう」
↑ドイツ公共放送局(ZDF)の取材に応じて、ナチス・ドイツが製造していた
化学兵器について証言するモーデル元帥の副官G・ライヒヘルム(1998年)
●このG・ライヒヘルムによれば、ドイツの敗戦が濃くなった頃、ヒトラーの側近だったヨーゼフ・ゲッベルスは化学兵器の投入を主張したという。また、国防軍最高司令部総長カイテル陸軍元帥も、戦局を打開するために化学兵器の投入に前向きだったという。
しかし、ヒトラーは彼らの進言を全く聞き入れず、化学兵器を実戦で使用することも、ユダヤ人の殺害に使用することもなかったのである。
(左)ヨーゼフ・ゲッベルス宣伝大臣
(右)ヴィルヘルム・カイテル陸軍元帥
この2人は化学兵器の実戦投入に前向きだったが、
ヒトラーは彼らの進言を全く聞き入れなかったという
●もっとも、ザクセンハウゼンの「収容所」などでは、囚人の腕に「マスタードガス」を塗って、その効力が実験されてはいた。
しかし、それが「化学兵器」による大量虐殺へ発展することはなかった。
また、「アウシュヴィッツ収容所」でユダヤ人の殺害に使われていたとされる「チクロンB」は、「サリン」とは違って、殺人用に開発された「化学兵器」ではない。
「チクロンB」は、当時のドイツ社会では一般に生産・販売され、殺虫作業などに広く使用されていたことで知られている。「DDT」を持たなかったドイツ軍は、この「チクロンB」をシラミ駆除の殺虫剤として使用していたのである(「チクロンB」は1923年に開発された)。
「チクロンB」
当時のドイツでは「殺虫剤」として
オフィスや一般家庭でも広く使用されていた
※ この「チクロンB」の謎に関しては、
「チフスにかかって病死したアンネ・フランク」で
詳しく触れているので、興味のある方はご覧下さい
●なお、この「チクロンB」を開発したのは、第3章で紹介したドイツの化学者フリッツ・ハーバー博士である。
彼は「アンモニア合成法」の発明で、ドイツの第一次世界大戦遂行に最も寄与したばかりでなく、毒ガス戦の陣頭に立ち、ドイツ人以上にドイツに忠誠を尽くした化学者であったし、戦後の荒廃の中で、彼の研究は少資源国ドイツを支え続けていた。
フリッツ・ハーバー博士(1868~1934年)
※「チクロンB」は1923年に、博士によって
偶然開発されたシアン化合物系の「殺虫剤」だった
●しかし彼はユダヤ人の血を引いていたので、1933年にヒトラー政権が誕生すると、ドイツ人の手によって祖国ドイツを追われてしまったのである。
※ 参考までに、第一次世界大戦で10万人のユダヤ人が「ドイツ兵」として戦い、そのうち4万人が志願兵だった(第一次世界大戦でドイツは200万人が命を失った)。1933年にドイツ国内で始まったユダヤ人科学者パージの嵐により、全科学者の4人に1人が、物理学者では3人に1人が大学、研究所から追放されていった。
『栄光なき天才たち〈2〉』 作:伊藤智義/画:森田信吾(集英社)
フリッツ・ハーバー博士は、祖国ドイツに莫大な富をもたらし、ドイツ人
以上にドイツに忠誠を尽くした。しかし彼はユダヤ人だったので、ヒトラー
政権誕生後、ドイツから追放され、翌1934年に異国スイスの地で
客死した。その死に際して、ドイツ科学界はヒトラー政権の
制止をも振り切って盛大な告別式を行ったという。
●ちなみにハーバー博士は、死の10年前(1924年)に日本を訪問している。
第1の目的は、星製薬社長・星一氏が戦後のドイツ学界の経済的苦境を救うために、多額の資金を提供したことに対する返礼にあった。第2の目的は、半世紀前に函館で横死した叔父(ドイツの初代函館領事)の記念碑の除幕式に参列するためであった。
約2ヶ月の滞在中、ハーバー博士は日本の伝統文化に深い関心を示し、帰国後は「日独文化交流協会」をベルリンに設立するなど、日独間の交流のために力を尽くしたのであった。
■■第6章:化学兵器を嫌っていたヒトラー
●ところで、なぜヒトラーは「サリン」などの化学兵器を使用しなかったのか?
●その理由として、ヒトラーは「報復」を恐れて化学兵器の使用をためらったと言われている。ヒトラーは第一次世界大戦のように毒ガスを使用すると、たちどころに同じような毒ガスで報復を受け、惨憺たる結果を招いてしまうことを恐れていたという。
※ しかし当時、連合国側は「サリン」のような殺傷能力の強い「神経ガス」の開発には成功しておらず、そのことをドイツ軍部は知らなかったのである。
●またヒトラー自身、若いころ第一次世界大戦でイギリス軍の毒ガス攻撃を受けて負傷(失明の危機を経験)しており、化学兵器はヒトラーが最も嫌った兵器であったとも言われている。
アドルフ・ヒトラー
“20世紀最大の悪魔”とも称せられるこの男が
意外にも「化学兵器」の使用をためらっていたのは、
青年時代に従軍した第一次世界大戦で、毒ガスによる苦い
体験をしていたことが大きな要因になっていたと言われている。
もしもヒトラーが自暴自棄になって、最凶最悪の「化学兵器」を
躊躇(ちゅうちょ)なく使用していたらどうなっていたで
あろうか? 世界は想像を絶する「地獄」を見ていた
ことだろう。考えるだけでも恐ろしい…。
■■第7章:戦後にエスカレートした化学兵器の開発
●結局、実戦で使用されないまま終戦を迎えた「タブン」「サリン」「ソマン」の“三兄弟”──。
これらのナチス製「神経ガス」は、戦後の調査で、連合国の科学者を大いに驚かせた。
●戦後、連合国に差し押さえられたナチス・ドイツの軍事用化学剤のストックは、そのほとんどが世界の海のどこかに投棄された。
しかし、「神経ガス」については、その保管物、製造工場、技術者たちを含めほとんどそのままソ連の手中に落ちた。
ソ連のヨシフ・スターリン
●一方、アメリカとイギリスも、「神経ガス」の開発スタッフを捕虜としてとらえ、本国に連れて行った。
彼らナチスの科学者たちは、アメリカとイギリスの「神経ガス」の研究・開発において重要な役割を果たすことになる。この結果、第二次大戦終了後の米・ソ冷戦構造の中で、化学兵器の軍拡競争が猛烈な勢いでエスカレートしていくことになる。
ナチス製の神経ガス「タブン」「サリン」「ソマン」は米・英・ソ連に広がり、「Gガス(G剤)」(前述)と呼ばれるようになった。
戦後、「ペーパークリップ作戦」を通じてアメリカに入国したドイツ人科学者たち。
1946年から1955年までに数千人がアメリカに入国した。そのうちの
半分、あるいは80%が元ナチか元SSであったという。
※ この「ペーパークリップ作戦」の詳細は当館作成のファイル
「ナチス・ドイツの科学技術を奪い取った連合軍」をご覧下さい。
●ちなみに「ソマン」以上に強力な神経ガス「VX」が開発されたのは、1952年のイギリスにおいてである。
このガスは第3世代の毒ガスであり、「Gガス」と比べ毒性はさらに一桁強く、持久力のない「Gガス」とは異なり、持久性も兼ね備えた毒ガス兵器だった。
↑「VX」の構造式
「VX」は1952年にイギリスで開発された第3世代の毒ガスで、
常温常圧では無色ないし琥珀色の「油状液体」で無臭。高濃度のものは
蜂蜜のように粘度が高い。サリンなどと異なり化学的な安定性が高いため、
撒かれた後、数週間は地上に残存するとされる。主に液体の状態で用いられる。
アメリカでは1959年に「VX」の工場が作られ、1961年に生産開始。
8年後に生産が中止されるまでに数万トンが生産されたといわれている。
※ ちなみに「吸入半数致死量(LCt50)」で表される毒性は、
VX>ソマン>サリン>タブンの順に強い。
●ところで、1988年の「スウェーデン国立平和研究所」の資料によると、第二次世界大戦後に毒ガス、化学的枯葉剤、それに生物兵器が使用された件数は20件以上にものぼっている。
その最初は1951年5月、アメリカ軍の「B29」が北朝鮮西部の南浦市を「毒ガス弾」で攻撃。1000人が被害を受け500人が窒息死したという。
(左)ベトナム戦争で大量の「枯葉剤」を散布するアメリカ空軍機
(右)「枯葉剤」により破壊された森(かつてマングローブ
だった場所は焼け野原のようになってしまっている)
※ ベトナム戦争がエスカレートすると「ランチハンド作戦」という名の
枯葉剤作戦が容赦なく実行された。ダイオキシンをはじめとする高濃度の
有害物質を含む枯葉剤が見境もなく広大な森の上に何度も繰り返し散布され、
森林は広範囲にわたって破壊された。(ベトナム戦争においてアメリカ軍は
4万5000キロリットルもの枯葉剤を化学兵器として軍事利用した)。
↑現在もベトナムには後遺症(奇形児の発生など)が残されている
※ 枯葉剤はベトナムの森林や田畑を丸裸にしただけでなく、薬剤を浴びた
住民や兵士にも深刻な健康被害を与え、影響は今も続いている。製造したのは
「ダウ・ケミカル社」や「モンサント社」などのアメリカの化学メーカーで、
これらの企業は今日では作物の「遺伝子組み換え技術」で有名である。
●1960年代のベトナムでは、「オレンジ剤(エージェント・オレンジ)」と呼ばれるアメリカ軍の「枯葉剤」の使用が最も大規模なものとしてよく知られているが、1970年代から1980年代にかけても、数多くの化学兵器の使用例が申し立てられている。
例えば、1978年にはアンゴラで南アフリカ空軍が使用。1980年にはエチオピア軍がエリトリアとの戦闘で使用。
同じく1980年にはイラン・イラク戦争でイラク軍が使用。1981年にはエルサルバドルでサルバドル軍と州兵が使用。
レバノンでは1982年にイスラエル軍が化学兵器を使用したといわれている。
●このデータを見ただけでも、使えない核兵器よりも、化学兵器のほうがはるかに実戦的で恐ろしいものであることが分かるだろう。
※ なお、化学兵器の使用に関しては、敵対する立場の国(政府関係者)が化学兵器の使用を誇大、あるいは虚構のままプロパガンダする場合があるので、我々は常にこのような報告には「政治的思惑」が計算に入れられていることが多い、ということを念頭に置かねばならないだろう。
●化学兵器はわずかな資金と少数の人間によって作ることができるため、生物兵器と合わせて「貧者の核兵器」とも呼ばれており、核兵器を持たない国やテロリストが関心を持っていると言われている。
日本では「オウム教団」が1994年6月に「松本サリン事件」を、さらに翌年3月に「地下鉄サリン事件」を起こし、世界を震撼させたのはまだ記憶に新しい。
これは化学兵器を使用した世界初の「化学兵器テロ事件」であった。
「オウム教団」の教祖である
麻原彰晃(本名:松本智津夫)
1995年3月20日に起きた「地下鉄サリン事件」
※ 営団地下鉄の日比谷線・千代田線・丸の内線の
3路線(5本の電車)に猛毒の「サリン」が撒かれた
乗客や駅員ら13人が死亡し、5510人が中毒の被害にあった
●現在、化学兵器は国際的には1997年に発効した「化学兵器禁止条約(CWC)」によって使用のみならず、製造・保有も禁じられている。
しかし、北朝鮮など条約未署名国もある。
●この化学兵器はある程度の知識と資金があれば、いつでも誰でも作ることが可能な兵器なので、この地球上から完全に無くすことはできないと思われる。今後、化学兵器を躊躇なく使用する国家(独裁者)やテロリスト集団が出現しないことを切に祈りたい。
─ 完 ─
■■ 関連書籍 ■■
左から、『生物・化学・核テロから身を守る方法』アンジェロ・アクイスタ著(草思社)、
『生物化学兵器の真実』エリック・クロディー著(シュプリンガーフェアラーク東京)、
『化学兵器の全貌 ~ 再燃する大量破壊兵器の脅威』村上和巳著(アリアドネ企画)、
『生物兵器と化学兵器 ~ 種類・威力・防御法』井上尚英著(中央公論新社)、
『母は枯葉剤を浴びた ~ ダイオキシンの傷あと』中村梧郎著(岩波書店)、
『アメリカの化学戦争犯罪』北村元著(梨の木舎)
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