No.a6fhe150

作成 1998.3

 

「日露戦争」と「日米対立」と

「日中戦争」の舞台裏

 

~イギリス、ロシア、アメリカの極東戦略の実態~

 

序章
はじめに
第1章
「アヘン戦争」と明治維新
第2章
「日清戦争」で日本を援助した
ユダヤ人マーカス・サミュエル
第3章
「日露戦争」で日本を援助した
ユダヤ人ヤコブ・シフ
第4章
「日露戦争」でユダヤ資本から
「恩」を受けながら、
満州の共同経営の約束を破った日本
~「ハリマン事件」の実態~
第5章
太平洋の覇権を狙うアメリカ
第6章
「日露戦争」後に
アメリカで広まった「黄禍論」
第7章
ヤコブ・シフと高橋是清の死
第8章
「河豚(フグ)計画」
~日ユ関係の回復を試みる~
第9章
支那事変(日中戦争)と
上海の「サッスーン財閥」
第10章
蒋介石(中国国民党)と
毛沢東(中国共産党)

追加1
20世紀前半の
日米の対立について
追加2
中国戦線のアメリカ軍総司令官は語る
「アメリカは敵を間違えた」
追加3
アメリカも第二次世界大戦の敗戦国
(勝者は毛沢東とスターリンだけ)
追加4
ホロコーストに匹敵する
スターリンの「国家犯罪」

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■■序章:はじめに


「日中戦争(支那事変)」勃発の背景(遠因)は、人によって様々な意見(見方)があると思うが、当館は20世紀初頭に起きた「日露戦争」(1904年)を抜きにしては語れないと思っている。

特に「日露戦争」直後に起きた「ハリマン事件」による日米関係の悪化(日米対立)は、その後の日本の運命を決定づけた、かなり重要な事件だったと感じている。(「ハリマン事件」については第4章で詳しく紹介します)。

また「アヘン」という麻薬の存在(利権争い)も、「日中戦争」の実態(深層部分)を知る上で、見過ごすことの出来ない重要な要素だと思っている。

 

 

●当館はユダヤ研究をメインにしているので、学校の教科書では絶対に触れることのない(であろう)開国維新後の「日本とユダヤの微妙な関係」に重心を置きながら、「日本がアメリカに占領されるまでの歴史」を少し違った角度からグローバルに考察していきたい。

もちろん、異論・反論あると思うが、何か参考になれば幸いである。

なお、「おまけ情報」や「追加情報」が多く、内容(情報)が重複している部分が多々あるので読みにくいと思うが予めご了承下さい。m(_ _)m

 

 


 

■■第1章:「アヘン戦争」と明治維新


●「アヘン戦争」は調べれば調べるほど、むごい戦争(汚い麻薬戦争)だったことが分かる。

1971年に「第25回毎日出版文化賞」を受賞した陳 舜臣氏の著書『実録アヘン戦争』(中央公論新社)には、次のような言葉が書かれてある。

『アヘン戦争』は、単にイギリスによるアヘン貿易強行のための中国侵略戦争以上の意味を持っている。この“西からの衝撃”によって、我々の住む東アジアの近代史の幕が切って落とされたのである。」

 


『実録アヘン戦争』
陳 舜臣著(中央公論新社)

 

「アヘン」は冒頭で述べたように、「日中戦争」の実態を知る上で、見過ごすことの出来ない重要な要素だと思うので、この章では「アヘン戦争」や「アヘン商人」の暗躍について簡単に紹介しておきたい。

 


ケシ(芥子)の花。アヘンはケシの実に傷をつけ、そこからにじみ
出てきた乳液から作られる薬である。昔から麻酔薬として使われてきた。

 

●まず、有名な「アヘン商人」といえば、中東出身のユダヤ人デビッド・サッスーンが挙げられる。

彼は1832年にインドのボンベイで「サッスーン商会」を設立し、アヘンを密売し始めた。イギリスの「東インド会社」からアヘンの専売権をとった「サッスーン商会」は、中国で売り払い、とてつもない利益を上げ、中国の銀を運び出した。

※ デビッド・サッスーンは「アヘン王」と呼ばれた。彼はイギリス紅茶の総元締めでもあり、麻薬と紅茶は、サッスーンの手の中で同時に動かされていたのである。

 


中東出身のユダヤ人 デビッド・サッスーン
(1792~1864年)

インドのボンベイで「サッスーン商会」を設立し、
アヘン密売で莫大な富を築いて「アヘン王」と呼ばれた。



1773~1842年の「三角貿易」体制

イギリスは、アジアとの貿易を行うため、1600年に
「東インド会社」を作った。アヘンを大量に送り込まれた
清国では、アヘンが大流行して社会問題となった。



(左)インドのアヘン倉庫内の様子 (右)茶やアヘンを運んだ「東インド会社」の船



中国では清の時代に、アヘンを薬としてではなく、タバコのように
キセルを使って吸うことが流行した。アヘンは吸い続けると中毒になり、
やがて「廃人」になってしまうという恐ろしい薬(麻薬)である。

 

●やがて、清国がアヘン輸入禁止令を出したことに端を発した「アヘン戦争」(1840年)が勃発。

敗れた清国は、南京条約により上海など5港の開港と香港の割譲、さらに賠償金2億1000万両を支払わされ、イギリスをはじめ列国の中国侵略の足がかりをつくることになる。

その意味では、「サッスーン財閥」はヨーロッパ列国に、第一級の功績を立てさせたアヘン密売人だった。

 


(左)清国と戦っているイギリスの商船。その頃の商船は大砲を持っていた。
(右)アヘン戦争で清国が敗北すると、ヨーロッパの国々は競ってアジアに進出した。
清国はイギリス以外の外国の国々とも不平等な条約を結ぶことになってしまった。
肝心のアヘンについては条約では一切触れられることなく、
依然としてアヘンの流入は続いた。



学習漫画『中国の歴史〈9〉アヘン戦争とゆれる中国』(集英社)は子ども向けの
本だが、アヘン戦争の実態を手っ取り早く知る上で最適な本である。
アヘン商人たちの「腹黒い姿」がしっかり描かれている。

 

●アヘン戦争以降、ユダヤ財閥たちは競って中国へ上陸していった。

「サッスーン財閥」はロンドンに本部を置き、上海に営業所を設け、英・米・仏・独・ベルギーなどのユダヤ系商事会社、銀行を組合員に持ち、「イングランド銀行」および「香港上海銀行」を親銀行に、鉄道、運輸、鉱山、牧畜、建設、土地・為替売買、金融保証を主な営業科目として、インド、東南アジア、インドシナ、中国に投資を展開していった。


●1930年には彼らの極東開発計画のため、上海に「サッスーン財閥」の本拠地を建設し、25億ドルの資本による「50年投資計画」を開始した。(毎年1億ドルの投資を25年間継続して、中国の経済と財政を完全に掌中に握り、後半期25年で投資額の4倍の利益を搾取する、というのが当時の彼らの計算であった)。

※ サッスーン一族については第9章で再び触れるので、頭のすみっこに記憶しておいて下さい。
(このファミリーは「日中戦争(支那事変)」で重要な役割を演じます)。

 

 

●ところで、鎖国時代における長崎・平戸のオランダ商館長は、すべてユダヤ系の人物だったと言われる。長崎にはシナゴーグ(ユダヤ教会堂)が作られていた。また、1853年7月8日に浦賀に来航して日本開国を迫ったペリー提督もユダヤ系だったという説がある。

幕末、幕府側を援助したのはフランスであり、近代兵器を提供することなく兵制を教えた。一方、倒幕派の薩摩や長州を援助したのはイギリスであり、海援隊の坂本龍馬などを通じて近代兵器を提供した。

外国人貿易商にとって、日本は武器輸出市場であった


●中国大陸において「サッスーン商会」と並んで二大商社の名を馳せたのは、「ジャーディン・マセソン商会」である。

この会社は、イギリス系商人のウィリアム・ジャーディンとジェームス・マセソンにより、1832年に中国の広州に設立された貿易商社である。

設立当初の主な業務はアヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出で、「アヘン戦争」に深く関わった。

 


(左)ウィリアム・ジャーディン (右)ジェームス・マセソン

彼らは1832年、中国の広州に貿易商社
「ジャーディン・マセソン商会」を設立した。


↑「ジャーディン・マセソン商会」のシンボルマーク

この会社の設立当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶の
イギリスへの輸出で「アヘン戦争」に深く関わった。
※ 1841年に本社を香港に移転した。

 

●この「ジャーディン・マセソン商会」は、日本では幕末・明治期の重要人物であるトーマス・グラバーが長崎代理店(「グラバー商会」)を設立したことで知られている。

横浜にも、1859年に英商ウィリアム・ケスウィックが支店を設立。商館は地元民から「英一番館」と呼ばれていた。

 


(左)坂本龍馬 (中)武器商人トーマス・グラバー
(右)『大英帝国の〈死の商人〉』横井勝彦著(講談社)

トーマス・グラバーは、1859年にイギリスから上海に
渡り「ジャーディン・マセソン商会」に入社。その後、開港後
まもない長崎に移り、2年後に「ジャーディン・マセソン商会」
の長崎代理店として「グラバー商会」を設立。貿易業を営みながら、
薩摩、長州、土佐の討幕派の志士を支援し、武器や弾薬を販売した。

幕末維新期の日本では、多くの外国人貿易商が諸藩への洋銃売り渡し
に関わっていたが、その中でも英商グラバーの販売量は突出していた。

彼はのちに「三菱財閥」の岩崎家の後ろ盾となり、キリンビールや
長崎造船所を作った。日本初の蒸気機関車の試走、高島炭鉱の
開発など、彼が日本の近代化に果たした役割は大きかった。

1908年にグラバーは「勲二等旭日重光章」という勲章を
明治天皇から授けられ、この3年後(1911年)に
亡くなった。墓は長崎市内にあり、邸宅跡が
「グラバー園」として公開され、長崎の
観光名所になっている。

 

※ この「明治維新」の舞台裏(坂本龍馬とグラバーの関係など)については、別のファイルで詳しく触れたい。



日本は、「アヘン戦争」以降のイギリス、フランスなどが清国に対して行使した軍事力の強大さに驚愕し、開国維新を断行して西洋近代文明への“改宗”を行った。

しかし、清国はいつまでも中華思想にとらわれて、現実を直視できず、やがては新興帝国である日本に敗北する(日清戦争)。

 


明治天皇
(第122代天皇)

幕末の大政奉還、王政復古、
戊辰戦争、明治維新、日清戦争、
日露戦争などを経験し、明治新政府
の最高権力者としてまつり上げられた。

新政府は「富国強兵」「殖産興業」の2つを国
の重要政策とし、八幡製鉄所の建設、鉄道の敷設、
輸出産業の育成など、欧米列強に対抗するために
一刻も早い近代化を目指し、国力の邁進に努めた。
また徴兵制を実施し、列強に対抗するために
近代的な軍隊の創設にも取り組んだ。

 

●新時代の政治体制と法制をつくったフルべッキ、民法の基礎をつくったボアソナード、大日本帝国憲法の生みの親ロエスレル、陸軍を育てたジュブスケ、近代海軍を整えたデュグラス。

また、外交の功績者デニソン、貨幣制度をつくったキンドル、銀行経営の道を開いたシャンド、殖産工業の推進者ワグネル、後の東大工学部を創設したダイエル、学校制度のモルディ、生物学の基礎をつくったモース、哲学・美術の父といわれたフェノロサ……。

これら日本の近代国家としての体裁を整えていった「外人お雇い教師」の多くはユダヤ人であり、日本はユダヤ人たちの力添えによって、近代国家へと脱皮をとげていったのである。

 

 


 

■■第2章:「日清戦争」で日本を援助したユダヤ人マーカス・サミュエル


●1894年に「日清戦争」が勃発すると、「シェル石油」の創業者であるイギリスのユダヤ人マーカス・サミュエルは、日本軍に、食糧や、石油や、兵器や、軍需物質を供給して助けた。

 


イギリス系ユダヤ人のマーカス・サミュエル
(1853~1927年)

世界初の「タンカー王」であり、
有名な「シェル石油」の創業者である

 

●そして戦後、日本が清国から台湾を割譲されて、台湾を領有するようになると、サミュエルは日本政府の求めに応じて、台湾の樟脳の開発を引き受けるかたわら、「アヘン公社」の経営に携わった。

日本が領有した台湾には、中国本土と同じように、アヘン中毒者が多かった。日本の総督府はアヘンを吸うことをすぐに禁じても、かえって密売市場が栄えて、治安が乱れると判断して、アヘンを販売する公社をつくって、徐々に中毒患者を減らすという現実的な施策をとった。

サミュエルは、これらの大きな功績によって、明治天皇から「勲一等旭日大綬章」という勲章を授けられている。

 


勲一等旭日大綬章

 

サミュエルは、イギリスに戻ると名士となった。そして1902年に、ロンドン市長になった。ユダヤ人として、5人目のロンドン市長である。

彼は就任式に、日本の林董(はやし ただす)駐英公使を招いて、パレードの馬車に同乗させた。

この年1月に「日英同盟条約」が結ばれたというものの、外国の外交官をたった一人だけ同乗させたのは、実に異例なことだった。この事実は、彼がいかに親日家だったかを示している。

※ ちなみに2台目の馬車には、サミュエルのファニー夫人と林公使夫人が乗った。

 


明治期の外交官、政治家
林董(はやし ただす)

駐英公使としてロンドンで「日英同盟」に調印した。

※「日英同盟」は1902年1月30日に結ばれた日本とイギリス
との間の軍事同盟である。林董(はやし ただす)駐英公使と
アーサー・ラウズダウン英外務大臣により調印された。

「日英同盟」は戦前日本にとって最高の同盟関係だった
といえる。この同盟関係を守りきれなかったことが
戦前日本の犯した最大の失敗だと思われる。


 

●サミュエルは1921年に男爵の爵位を授けられて、貴族に列した。その4年後には、子爵になった。

サミュエルは「どうして、それほどまでに、日本が好きなのか?」という質問に対して、次のように答えている。

「中国人には表裏があるが、日本人は正直だ。日本は安定しているが、中国は腐りきっている。日本人は約束を必ず守る。中国人はいつも変節を繰り返している。したがって日本には未来があるが、中国にはない」


●その後、ロンドンに、サミュエルの寄付によって「ベアステッド記念病院」が作られ、彼は気前のよい慈善家としても知られるようになったが、1927年に74歳で生涯を閉じた。

 

 


 

■■第3章:「日露戦争」で日本を援助したユダヤ人ヤコブ・シフ


「日清戦争」勝利後、日本は、帝国ロシア南下政策と中国の権益をめぐって「日露戦争」(1904年)を行った。しかし、日本はわずか1億7000万円の予算しか持っていないので、戦費を海外から調達しなければならなかった。

 


高橋是清(たかはし これきよ)

日銀副総裁。のちに蔵相、首相。
「ダルマ首相」と呼ばれて親しまれた。

 

●当時の日銀副総裁の高橋是清(たかはし これきよ)が日本の公債の買い手を求めて絶望的な気持ちで欧米を駆け回っていたとき、ロンドンで日銀創立の功労者であったシャンドと出会った。そのときシャンドは、ユダヤ系投資銀行「クーン・ローブ商会」を率いるヤコブ・シフを高橋是清に紹介し、ヤコブ・シフは当時2億ドル(現在の1兆円)の公債の引き受けをした。

その動機について、高橋是清は自伝の中で、「ヤコブ・シフは、帝政ロシアのもとで、ユダヤ人は差別を受け、国内を自由に旅行すら出来ず、圧制の極に達していた。そこで、日本に勝たせ、ロシヤの政治に一大変革を起こし、ユダヤ人がその圧制から救われることを期待していた」と述べている。

※ このヤコブ・シフと高橋是清の話は、司馬遼太郎の名作『坂の上の雲』(文藝春秋)の第4巻でも紹介されているので、知っている方は多いだろう。

 


(左)アメリカ・ユダヤ人の中心的存在だったユダヤ人金融業者ヤコブ・シフ。
日露戦争の時に日本を資金援助した。(中)「クーン・ローブ商会」
(右)司馬遼太郎が書いた歴史小説『坂の上の雲』(文藝春秋)
 (この本の第4巻にヤコブ・シフが登場している)。

 

ロシアは歴史を通じて、反ユダヤ主義が最も盛んだった国である。

歴代の皇帝はロシア正教に改宗しようとしないユダヤ人を圧迫した。19世紀末から20世紀初頭にかけて、帝政ロシアでは激しいユダヤ人虐殺(ポグロム)が進行した。

ヒトラーによるユダヤ人迫害が発生するまで、帝政ロシアは間違いなくユダヤ人が最も大量に殺された国であった(当時のロシアは、世界で最も多くユダヤ人が住む国であった)。「ポグロム」はロシアから東ヨーロッパにかけて大規模に広がり、この結果、多くのユダヤ人がアメリカへ逃げることになった。

 


↑1903~1906年の主なポグロム発生地

※ 黒海北岸で集中的に発生している。

19世紀末から20世紀初頭にかけて帝政ロシアでは
激しいユダヤ人虐殺が進行した。この帝政ロシアにおける
ユダヤ迫害は「ポグロム」と呼ばれ、このとき殺された
ユダヤ人のほとんどはアシュケナジムであった。



ポグロムで死んだ黒海北岸の都市オデッサのユダヤ人たち

 

1905年、「日露戦争」で東洋の島国・日本が勝利すると、全世界のユダヤ人が狂喜した。

今日のイスラエルの国歌「ハ・ティクヴァ(希望)」の歌詞を書いたユダヤ詩人ナフタリ・インベルは、日本勝利の報せをきいて、明治天皇と日本国民を称える詩を発表した。

有名なミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』の原作者であるユダヤ人文学者シャローム・アライヘムは、1905年にワルシャワで「日露戦争」に題材をとった喜劇を発表し、日本の勝利を称えた。

 


『屋根の上のバイオリン弾き』

このミュージカルは、帝政ロシア時代末期に
ウクライナで生活していたユダヤ人が、
ポグロムに遭遇する物語である。

※ この物語の原作者である
ユダヤ人文学者は「日露戦争」での
日本の勝利に大喜びし、「日露戦争」に
題材をとった喜劇を発表した。

 

●敬虔なユダヤ教徒であったヤコブ・シフは、後になって次のように述懐している。

「私はロシアにおけるユダヤ人虐殺に、深く憤っていた。ロシア帝国に対して立ち上がった日本が、ロシアを罰する“神の杖”であるにちがいないと、考えた。

「日露戦争後(1906年)、私は日本政府の招待によって、初めて日本を訪れた。明治天皇は私に親しく感謝を述べられた。皇居では完璧に西洋流の、美味な料理が供されたが、食卓の飾りつけも、西洋式にきわめて洗練されたものだった。明治天皇は健啖(けんたん)で、ユーモアに溢れていられた。ご自分の治世が始まったころの愉快だった逸話について、自由闊達に話された」

 


勲一等旭日大綬章

日本政府は「日露戦争」勝利の功績に
報いるため、1906年にヤコブ・シフを
日本に招いて、明治天皇が午餐会を催し、
シフ夫妻を拝謁。サミュエルと同じ勲章
「勲一等旭日大綬章」を与えている。

※ 明治天皇が民間人である
外国人に陪食を賜ったのは
シフが初めてだった。

 

●この明治天皇のユダヤ人への感謝の思いは、昭和天皇にも引き継がれていた。

外交評論家の加瀬英明氏は、次のように述べている。

「もし、日本が日露戦争に敗れていたとしたら、日本はロシアによって支配されていたから、今日の日本はありえなかった。他界されてしまったが、私はイスラエルのモシェ・バルトゥール駐日大使と親しかった。大使は1966年から5年にわたって、東京に在勤された。

私は大使からきいたが、着任してすぐに、皇居において信任状の奉呈式が行われた。その時に、昭和天皇から『日本民族はユダヤ民族に対して、感謝の念を忘れません。かつて、わが国はヤコブ・シフ氏に大変にお世話になりました。この恩を忘れることはありません』という、お言葉をいただいた。

大使は陛下の思いがけないお言葉に、驚いた。ところが、ヤコブ・シフという人物について知識がなかった。そのために大使館に戻ってから、急いで調べた。

昭和天皇は明治天皇を慕っていられたので、日本がヤコブ・シフとユダヤ人によって救われたことをよく知っていられた。

昭和天皇は日本国民のほとんど全員が、日露戦争について関心を失っていたというのに、日本の運命を決定した日露戦争を、昨日のことのように覚えていられたのだった。私は深く感動した。

 


(左)昭和天皇 (右)イスラエルの国旗

 

昭和天皇は、その後のイスラエル大使に対しても、信任状の奉呈式が行われるたびに、ヤコブ・シフとユダヤ人への感謝を述べ、その上で、新任の大使を労(ねぎら)われたという。

昭和天皇とユダヤ人(イスラエル)に関して、次のような逸話もある。


●1989年、昭和天皇が崩御された。

イスラエルのヘルツォーグ大統領は、「日本はナチスの友邦だったから参列するな」という国内の一部の反対を押し切って、大葬の礼に参列するために来日した。

東京のユダヤ人協会の歓迎の宴に招かれたヘルツォーグ大統領は、こう挨拶したという。

「先の大戦において、多くの国がドアを閉ざしていた頃、日本及び日本の管理地では数万のユダヤ人に避難場所が与えられました。我々は日本国民のこの行為を永遠に忘れません。ユダヤ人に対する日本の態度は、当時ヨーロッパで起きていた事とは全く対照的であり、ひときわ輝いています」

 

 


 

※ おまけ情報:「日露戦争に関与したユダヤ人」について


●20世紀初頭のロシアには全世界のユダヤ人の半分に当たる約500万人が住んでいた(これはロシア総人口の4%に当たる)が、「日露戦争」が勃発すると、ロシア軍兵士として戦ったユダヤ人がいた。

ヘブライ大学の有名なユダヤ人教授ベン・アミー・シロニー博士は、「日露戦争に関与したユダヤ人」について次のように述べている。

参考までに紹介しておきたい。

 


ヘブライ大学の
ベン・アミー・シロニー博士

大の親日家で、日本に関する本を多数出している。
イスラエルの国立大学「ヘブライ大学」で毎年500人を
 超える学生たちに日本の歴史と文化を講義している。

 

「19世紀末、ロシアではポグロム(ユダヤ人迫害)の嵐が吹き荒れていた。ポグロムは、ロシア政権の奨励と黙認により、押し進められていたのが現状だった。

1894年に政権を握った皇帝ニコライ2世は、彼の政権を脅かすほどの民衆の不信感に直面していた。その打開策として、彼は民衆の怒りを『内の敵(ユダヤ人)』と『外の敵(日本人)』に向けようとした」


「1904年、日露戦争が勃発すると、ヨーロッパのユダヤ資産家は、ユダヤ人を敵視していた帝政ロシアへの援助を拒否した。

この資産家たちの中には、『シベリア鉄道』へ多額の援助をしたフランスのロスチャイルド卿も含まれていた。ロスチャイルド卿がロシアのために働いたのは、戦争で負傷したロシア人を援助する機関に寄付することにとどまった。

ロシアに対する態度とは対照的に、他のユダヤ人資本家たちはみな日本を援助した。その中でも注目すべきは、ニューヨークの『クーン・ローブ商会』の経営者であるヤコブ・シフである」


「日露戦争は、ユダヤ人が兵士として、また様々な物語の生みの親として大いに関係した、近代における最初の大戦である(それまで国を失ったユダヤ民族は、戦闘経験はなかった)。

ユダヤ人は『シベリア鉄道』の建設に携わり、戦闘態勢を整えた点でロシアに大きく貢献し、また自らロシア軍兵士として戦った。(日露戦争に動員されたユダヤ人は3万3000人で、これは満州におけるロシア軍の約6.6%、このうち約3000人が戦死した)

しかしその一方、戦争でロシアを負かすために日本に援助を送り、日本の勝利を喜んだのもユダヤ人であった。

そして、戦時中に起きた革命の過程とその結末の中で随所に登場し、それと並行して同じ頃、ロシアからパレスチナへ移住するための重要な役割を担ったのも、またロシア系ユダヤ人であった」


『シベリア鉄道』はロシアの軍事・経済の拡大に大きな弾みをつけ、日本との対立を早める要因となった。この鉄道は、国外から巨額の資金調達によってまかなわれたが、その中の一つがフランスの『ロスチャイルド銀行』である。ロシア政府の奨励により、ユダヤ人事業家は『シベリア鉄道』の沿線に居住した。東地域の開拓につとめ、ロシアの存在を強めるためである。

中国の北東に位置する満州に、ロシアの町ハルビンが建設されたとき、ロシア政府は『シベリア鉄道』の中国部分と呼ばれる東清鉄道の地域と、その南部に当たる南満州鉄道の付近へ、在ヨーロッパユダヤ人の移住を促した。その場所に『ヨーロッパ人口』を増援するのが目的であった。

1903年、ハルビンのユダヤ人コミュニティで、請負業や商業に携わったユダヤ人の数は500人を数えており、その地でもユダヤ人は町の発展に大いに貢献していた」


日露戦争で負けたロシアは、ヤコブ・シフが日本を援助したことを許さなかった。

1911年、ロシアの大蔵大臣はアメリカの報道機関に対して、次のように述べている。

『ロシア政府は、あのユダヤ人シフが私たちにもたらしたことを決して許さず、また忘れることはないであろう……彼は一個人でありながら、日本のアメリカからの資金調達を可能にした。彼(ヤコブ・シフ)は、我々に立ち向かった最も危険な人物の一人である!』」

 

 


 

■■第4章:「日露戦争」でユダヤ資本から「恩」を受けながら、満州の共同経営の約束を破った日本 ~「ハリマン事件」の実態


ヤコブ・シフが日本を援助したのと同時に、戦後の満州経営について、日本政府とユダヤ財閥との間に秘密の取引きが行われていた。

東郷平八郎率いる日本連合艦隊が当時、海軍力世界2位のロシアのバルチック艦隊を破って以来、延びきった戦線のための補給にも苦しくなっていたところ、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領の仲介で1905年8月10日、ポーツマスで講和会議が開かれた。

 


第26代アメリカ大統領セオドア・ルーズベルト

 

●そして、秘密取引きの内容を具体化するために、ポーツマスで日露の講和会議が開かれている最中、ロックフェラー家と関係の深いアメリカの鉄道王エドワード・ハリマンが、クーン・ローブ・グループの代表として来日したのである。

当然、南満州鉄道の日米共同経営についての話し合いが目的だった。

 


アメリカの鉄道王
エドワード・ハリマン

裸一貫からアメリカを横断する鉄道網を作り上げた。
1905年8月、クーン・ローブ・グループの代表として来日。
(満鉄の経営についての話し合いが目的)

 

「ポーツマス講和会議」では、ロシアの代表ウィッテの巧みな外交戦術により、日本の代表小村寿太郎は、赤子が手をひねられるように屈し、戦勝国でありながら日本は、領地をほとんど手に入れることが出来ず、賠償も権益も得るところわずかであった。

交渉結果の知らせを聞いた国内では、「国賊小村」の声も上がっていた。

 


(左)小村寿太郎 (右)日露戦争後の「ポーツマス講和会議」(1905年)



学研まんが『世界の歴史〈13〉第一次世界大戦・ロシア革命と国際連盟の誕生』

↑これは子ども向けの漫画であるが、当時の日本国民の不満が非常に
 分かりやすく描写されているので参考までに載せておきたい(^^;

※ この時代の日本国民の生活は増税につぐ増税で
苦しいものだったし、戦死者の遺族の生活はどん底だった。

ポーツマスの日露講和条約に不満を持つ人々は、1905年9月5日、
東京の日比谷公園で大集会を開いた。群衆は集会を解散させようとする
警官と衝突し、政府高官の家や新聞社、交番、電車を焼き打ちに
したので、日本政府は軍隊の力を借りてこれを鎮めた。

◆◆ 焼き打ちの拡大 ◆◆

日露講和反対の大集会(約3万人)→ 日比谷焼き打ち →
→ 東京焼き打ち(東京が無政府状態)→ 東京に戒厳令

※ この騒動により死者は17名、負傷者は500名以上、
検挙者は2000名以上にも上った。戒厳令は
1905年11月29日まで続いた。

 

一方、ハリマンは、小村寿太郎が「ポーツマス講和会議」で留守中に、桂太郎首相南満州鉄道の日米協同経営の予備協定を10月12日に結んだ。

ハリマンは上機嫌のうちにサンフランシスコへ向かう船上の人となった。


●その後、10月15日に帰国した小村寿太郎は、桂内閣の予備協定の決定を聞くに及んで、烈火のごとくに怒った。

「日本が2年間に渡る大戦で血を流し財を尽くして獲得した報償は、まことに貧弱である。講和条約を不満とする愛国の至誠が、暴動とさえなっている。その上また、この貧弱な戦果の半ば以上の価値がある満鉄をアメリカ人に売り渡してしまい、満州そのものを外国商業との自由競争の場に委ねてしまおうというのは、とうてい忍ぶことができない」

 


桂太郎

第11・13・15代総理大臣。
公爵。元老。拓殖大学初代総長。

 

●桂内閣はこの小村寿太郎の要望を入れて10月23日、アメリカ側に予備協定の「破棄」を通告した。

ハリマンがサンフランシスコに着いたときに、彼を待っていたのは「破棄」を通告する日本政府からの電報であった。

今度はハリマンが烈火のごとくに怒り、ただちに翌年の8月に腹心のウィラード・ストレイトを奉天領事に送りこみ、徹底して日本の利権とアメリカ人の利権とを衝突させていったのである。

 


(左)エドワード・ハリマン (右)小村寿太郎

 

●この時、ハリマンは次のような言葉を言い放った。

「日本は十年後に後悔することになるだろう!」

※ これが有名な「ハリマン事件」である。屈辱外交官として、いったんは政治生命を絶たれた小村寿太郎は、この事件後、「南満州鉄道を救った男」として名誉を回復した。しかし、歴史はハリマンの予告通りに動いていく……。


これ以後、満鉄を中心として日本とアメリカの対立が深まり、その関係がこじれていった。

そして1921年の「日英同盟」破棄以降、両者の対立は決定的なものとなり、やがて日本は英米との関係を断ち切り、ドイツとの協定にのめりこんでいったのだった。



●このように、日米関係は「日露戦争」を境に一変したのである。

当時、セオドア・ルーズベルト大統領は次のような言葉(書簡)を残している。

「私は従来日本びいきであったが、ポーツマス会議開催以来、日本びいきでなくなった……」

 


第26代アメリカ大統領
セオドア・ルーズベルト

 

●この「ハリマン事件」について、テレビでおなじみの岡崎久彦氏(元・外務省情報調査局長/元・在タイ大使)は次のように語っている。

「あの時に日本がハリマンの提案を受けていたならば、20世紀の歴史はまるで変わっていただろう。

アメリカの極東外交は、単なる領土保全、機会均等というお経だけでなく、日本をパートナーとして共同で満州経営を行う形をとり、また日本では、伊藤博文が健在だった時でもあり、第一次世界大戦の国際情勢の中で、対露、対支政策について、日米英の協調路線ができていた可能性は小さくない」



●多数のベストセラーで有名な渡部昇一氏(上智大学名誉教授)も、「ハリマン事件」について次のように述べている。

※ 少し長くなるが、参考までに紹介しておきたい。

「日露戦争が終わった1905年10月、アメリカの鉄道王エドワード・ハリマンが来日し、日本がポーツマス講和条約によって獲得した南満州鉄道の経営に参加したいという申し出をした。このとき、ハリマンと会ったのは首相・桂太郎、元老・井上馨、同じく伊藤博文、財界の渋沢栄一らであったが、彼らはみな『ハリマン構想』に賛成し、合意の覚え書まで作られた。

日本側が『ハリマン構想』に同意したのは、今日から見ても正しい判断であった。

そもそも戦争でロシアに勝ったとはいえ、シナ大陸からロシアの勢力が消え失せたわけではない。ロシア軍はなお北満州に展開し、南下の機会を狙っている。そのような状況下において、日本一国が南満州鉄道を維持するのは、軍事的に見ても、また財政的に見ても非常な負担であったから、日米合弁で鉄道経営をするということは、日本にとって一種の安全保障にもなるのである。もし、ロシアが南満州を狙って南下しようとすれば、アメリカ政府はただちにロシアに圧力をかけるに違いないからだ。

また、日米外交という面から見ても、『ハリマン構想』は意義あるものだった。当時、シナ大陸に進出していたのはイギリス、フランス、ドイツ、日本といった国々であり、シナに利権を有していなかったアメリカは切歯扼腕していたのである。ここで日本が南満州鉄道の利権を半分譲れば、アメリカも満足を覚え、日本との友好関係を重視するであろう。

こうした点を踏まえて、日本のトップ・リーダーたちは挙げて『ハリマン構想』に賛成したのであった。

ところが、そこにただ一人の、そして頑強なる反対者が現われた。それはポーツマス講和条約を無事締結し、意気揚々と帰国した外務大臣・小村寿太郎である。小村は『わが国の将兵が血を以て獲得した南満州利権をアメリカに譲り渡すとは何事か』と唱え、ついにハリマンとの覚え書を破棄させるに至った。

もし、『ハリマン構想』がそのまま実現していたら、その後の日本の運命は大きく変わっていたであろう。

戦前の世界において日米間に緊張が高まり、ついに大東亜戦争に至ったのは、結局はシナ利権問題であった。

西部地方の大開拓時代が終わり、その膨張欲を満たす対象を失ったアメリカにとって、広大なシナ大陸の利権はひじょうに魅力的に映った。だが、そのシナ大陸の主要な利権は、他の国々に握られ、アメリカが新たに獲得できる可能性はない。そこで彼らは『ハリマン構想』を日本に持ちかけ、シナ大陸進出の橋頭堡(きょうとうほ)にしようとしたのである。

だが、その『ハリマン構想』は土壇場で覆された。

この事件は、その後の日米関係に決定的な亀裂をもたらすことになった。

というのもアメリカは自分たちの欲求不満を『日本叩き』に向けたからである。彼らはアメリカがシナ大陸に進出できないのは、すべて日本人のせいだと考えるようになった。

戦前のアメリカ人が抱いていた日本に対する憎悪は、いま考えてもぞっとするほどである。まず標的にされたのは在米の日本人移民であった。日本人移民を徹底的に迫害する法律が諸州で作られたばかりか、『絶対的排日移民法』と呼ばれる連邦法までが成立し、日本人がアメリカの市民権を得ることはできなくなったのである。〈中略〉

歴史に『イフ』を持ち出すのは慎重でなければならないが、『ハリマン構想』が実現していれば、アメリカは日本移民をあれほどまでに敵視することはなかったろうし、それどころか満州国建国をもアメリカは支持したと考えられるのである。」(渡部昇一著『まさしく歴史は繰りかえす ~今こそ「歴史の鉄則」に学ぶとき~』クレスト社より)

 

※ 追加情報:「ハリマン事件」に関する記事(リンク集)

桂・ハリマン覚書(クリック20世紀より)
http://www.c20.jp/1905/10kakus.html

エピソード『小村寿太郎と桂・ハリマン覚書』(野澤道生氏の『日本史ノート』解説より)
http://www.geocities.jp/michio_nozawa/episode12.html

 

 


 

■■第5章:太平洋の覇権を狙うアメリカ


●少し時代を戻すが、アメリカは「日露戦争」(1904年)の数年前に、ハワイに海兵隊を奇襲上陸させて、当時、独立国であった「ハワイ王国」を占領して滅ぼし、アメリカの領土としていた

当時ハワイでは、日本人が人口の半分(2万2000人)を占めていたので、女王は明治天皇に援助を依頼してきた。しかし当時の日本にはアメリカと戦う力はなく、みすみす事態を見過ごすしかなかったのである。

 


「ハワイ王国」の最後の女王である
リリウオカラニ(1838~1917年)

彼女は音楽を愛好したことでも知られ、ハワイの
民謡として有名な「アロハ・オエ」は彼女の作である。

※ カメハメハ大王を始祖として、1795年に始まった
「ハワイ王国」を、1898年にアメリカは武力で併合した。
宮殿に掲げられていた「ハワイ王国」の国旗は下げられ、
代わりにアメリカの国旗が揚げられた。ハワイ住民
らはこのとき、悲しみの声をあげたという。

 

●ちなみに、彼女の兄であるカラカウア前国王は、世界で初めて日本を訪れた外国の国家元首だった。彼は「ハワイ王国」の安泰のため、明治天皇の甥に縁談を申し込んだことで知られている(1881年)。(もしこの縁談が実現していたら、「ハワイ王国」はもっと長く存続していたかもしれない……)。

 


カラカウア前国王
(1836~1891年)

彼はアメリカのハワイ進出を阻むために、
同じような状況にあったアジア諸国と連合を組み
立ち向かうための構想を持っていた。そして、それを
実現するためにアジア諸国を回ったが、一番最初の訪問国
であり絶対同盟を組みたいと思っていたのが日本であった。
(この構想は「大東亜共栄圏構想」の先駆的なプランだった)。

しかしこの壮大な構想は、維新まもなく国力増強優先の日本が
取り組むには余裕がなかった事もあり、実現しなかった。

 

「ハワイ王国」滅亡後、ここにアメリカの大軍事基地が築かれ、「太平洋艦隊」の根拠地として発展した。それが「パールハーバー」である。

そして、イギリスのシンガポール、ロシアのウラジオストク(ロシア語で「極東を征服せよ」の意)と呼応して、三大軍港が日本を三方から牽制するように取り囲む体制が次第に整っていくのである。


●この時代の世界といえば、「帝国主義」が全盛期だった。

当時の世界は「帝国か! 属国か!」に分かれる、まさに混乱の時代だった。

 

↑南北戦争から1912年までにアメリカが獲得
した主要な新領土およびその植民地

※ アメリカは中国大陸の利権を目指し、西へ西へと
そのエネルギーを伸張させていたことが分かる。膨張し
拡大するアメリカは、西へのフロンティアの開拓の夢と
その情熱的エネルギーが、ついに北米大陸を離れて
海上へ溢れ出した姿として理解できる。



↑当時作られたこの風刺画は、列強諸国がパイに
見立てた中国を分割しているところを描いたものである。

左からイギリスのヴィクトリア女王、ドイツのヴィルヘルム2世、
ロシアのニコライ2世。斜め後ろがフランスで、右端の武士が
日本である。背後で両手をあげている男性は清の大臣で、
「やめてくれ!」と悲鳴をあげている。

 

●開国維新後の日本にとって、最大の脅威はロシア帝国であった。ロシアは軍事力を傘に東アジア南下戦略を目指していた。

日本にとって「日露戦争」は、国家予算の6倍以上の戦費をつぎ込み、継戦不可能というギリギリで掴んだ“薄氷の勝利”であった。その戦費の約40%を調達したのが、第3章で紹介したユダヤ人金融業者ヤコブ・シフだった。

この男の助けがなければ日本は「日露戦争」に勝てなかった、と言っても過言ではなかった。

 


アメリカ・ユダヤ人の中心的存在だった
ユダヤ人金融業者ヤコブ・シフ

1847年にドイツのフランクフルト
で生まれ、1870年にアメリカに帰化した。

※ ヤコブ・シフの祖先はドイツのフランクフルトの
旧ユダヤ人街区にある一軒の家をロスチャイルド家と共有
して住んでいた。シフ(schiff)家の側には「船(schiff)」が、
ロスチャイルド(rothschild)家の側には「赤い盾(roter Schild)」
が描かれてあり、両家の姓はそこに由来していると言われている。

 

 


 

※ おまけ情報:ヤコブ・シフの「クーン・ローブ商会」とエドワード・ハリマンについて


●歴史研究家の田畑則重氏(東京大学新聞研究所修了)は、ヤコブ・シフの生涯(素顔)や日本支援の動機、そして叙勲のために招待された際の『シフ滞日記』を紹介した面白い本を出版した。

本のタイトルは『日露戦争に投資した男 ~ユダヤ人銀行家の日記~』(新潮社)である。

 


『日露戦争に投資した男
~ユダヤ人銀行家の日記~』
田畑則重著(新潮社)

 

●田畑則重氏は、この本の「まえがき」の中で次のように書いている。

「日露戦争は紛れもなく近代日本の大きなターニング・ポイントだった。

この日露戦争を論ずる際に看過されがちな視点は、あの戦争は日本とロシアが戦っただけでなく、日本の同盟国イギリスや、ロシアに対する最大の債権国フランスはもとより、1898年の米西戦争でキューバとフィリピンを手に入れて大西洋と太平洋の覇権を狙うアメリカ、さらに戦場となった清国と韓国、それにドイツや北欧諸国までが絡んでの一大国際戦争だった事実である。

最近になって、これら関係国の合従連衡、巨額の戦費、兵器のレベル、大軍の動員、陸海軍の連携、情報・宣伝戦などが第一次世界大戦のミニチュア・スケールながら、これ以前の戦争とは大きく様相が異なることから、

日露戦争を『第0次世界大戦』(World War Zero)と呼ぶ視点が欧米の研究者から出てきている

〈中略〉

日露戦争を国際的視点で理解するための地図の空白を埋めるキーパーソンが、以下に紹介するドイツ生まれのアメリカ人銀行家ヤコブ・シフである。

日本はもとより、今ではアメリカでさえ忘れられかけているが、当時、彼はウォール街を代表する投資銀行家であり、ヨーロッパの一大金融帝国・ロスチャイルド家とも緊密な関係を持ち、またアメリカ大統領にも直言する立場にあった。」


●参考までに、この本の中から興味深い部分をピックアップしておきたいと思う。

以下、抜粋。

※ 各イメージ画像は当館が独自に追加


◆ ◆ ◆


「クーン・ローブ商会」の創業者エイブラハム・クーンは、1839年にアメリカに来て、他のドイツ系ユダヤ人同様、行商人から身を起こし、10年後、インディアナ州で衣類の卸売業を経営していた時に、遠縁のソロモン・ローブを呼び寄せた。ソロモンは、エイブラハムの妹と結婚し、すぐに共同経営者となった。

クーンとローブがシンシナティに移って、総合小売業に転じると、南北戦争の軍用毛布需要が利益を生み、1867年、2人はニューヨークに移り、国債とのちには鉄道債券を取り扱う「クーン・ローブ商会」を設立した。クーンが早くに引退し、ローブの息子たちも金融界で働くことを嫌ったが、1875年にヤコブ・シフが加わった。

この年、シフは「クーン・ローブ商会」の共同経営者ソロモン・ローブの娘テレーズと結婚した。

 


「クーン・ローブ商会」

1867年にドイツ系ユダヤ人によって
ニューヨークに設立された

 

1885年、ソロモン・ローブの死去に伴い、シフが「クーン・ローブ商会」の代表となった。

この正直で若き銀行家は、地味ながら評価される「クーン・ローブ商会」の名声を築き上げていったが、社名に自分の名を冠しようなどとは考えもしなかった。

シフの時代のユダヤ人投資銀行家たちの結束は固く、血縁関係で結ばれた同族集団を形成していた。「クーン・ローブ商会」も例外ではなかった。

 


ヤコブ・シフ

1885年に共同経営者のユダヤ人
ソロモン・ローブの死去に伴い、彼は
「クーン・ローブ商会」の代表となった。
 (シフの妻はソロモン・ローブの娘だった)。

 

20世紀に入る頃には、「クーン・ローブ商会」は、アメリカでは「モルガン商会」に次ぐ地位を占めるようになっていた。その原動力は、鉄道事業への投資だった。欧州資本と組んで、1875年以降、国の大動脈に投資しているうちに、鉄道会社の再編を通して、「クーン・ローブ商会」自体が鉄道の経営に参画するようになった。

鉄道会社の再編と投資事業に先鞭をつけたのは、のちに日露戦争後の南満州鉄道買収をめぐって対立するJ・P・モルガンだったが、シフは数年遅れて追走することになる。

シフと「クーン・ローブ商会」は、この過程でエドワード・ハリマンのパートナーとなった。アメリカの東部と北西部の鉄道を縄張りとした「モルガン商会」に対抗して、ハリマンと「クーン・ローブ商会」は、南西部の鉄道を支配する立場に立った。

「モルガン財閥」に加え、鉄道界の大立者のジェームズ・ヒルおよびエドワード・ハリマンを巻き込んだノーザン・パシフィック鉄道の再編劇は、シフの名を一挙に全米にとどろかせることになった。

 


アメリカの金融王
J・P・モルガン

 

政治と距離を置いたJ・P・モルガンと違って、ヤコブ・シフはアメリカの政府部内に味方を増やす必要があった。日露戦争の直前、シフはロシアとルーマニアでのユダヤ人迫害に対してアメリカ政府が公式に抗議するよう嘆願していた。ビジネスマンとしては、ルーズベルトの反トラスト姿勢には同意しかねたが、ユダヤ人の指導者のひとりとしては、そんなことは言っていられなかった。ルーズベルトも、ユダヤ票を獲得するために、シフの意見に耳を傾けた。

「全米ユダヤ人協会」会長も務めるシフという人物が、ユダヤ同胞に圧政を敷くロシアに打撃を与えたいと考え、日本を支援したことには疑いを入れない。

しかし、フランクフルトからアメリカに来たドイツ系アメリカ人でありながらアメリカ金融界の頂点にたどり着いた男が、日本に肩入れすることにビジネス・チャンスを見出したとしても矛盾しない。


1999年にシフの伝記を書いたナオミ・コーエンによれば、1904年2月上旬、ニューヨークの五番街にあったシフ邸でユダヤ人指導者の会合が開かれた。シフは、「72時間以内に日露間で戦争が勃発する。日本の公債引受の問題が提起されているのだが、私が引き受けることでロシアの同胞にどんな影響が及ぶか、諸君の見解を聞きたい」と語った。

シフは日露開戦の情報を事前につかんでおり、公債引受の打診さえ受けていたのだ

この場の全員が一致して、シフが日本の公債を引き受けることに賛成した。当時、大統領のセオドア・ルーズベルトもアメリカの国内世論も日本支持に傾いており、シフが日本公債を引き受ける結果、ロシアに与える打撃に良心の呵責をおぼえる必要はなかった。

 


第26代アメリカ大統領
セオドア・ルーズベルト

 

(日露戦争後)そこに現れたのがアメリカの鉄道王エドワード・ハリマンだった。

彼には世界一周鉄道網の夢があり、南満州鉄道を1億円で買収し、シベリア鉄道経由でヨーロッパにいたるアジア大陸横断鉄道を構想したのだった。

彼は「ポーツマス講和会議」が始まった8月10日に息子のアベレルとローランドを伴ってニューヨークを発ち、16日にサンフランシスコを出港、31日に横浜に着いた。

事前に駐日公使グリスコムが動いて、日本政府は首相桂太郎はじめ、ハリマン提案に傾いており、閣議での反対者は逓信大臣大浦兼武ただひとりだった。背景には、莫大な戦費と賠償金を得られなかったことによる財政難があった。

元老井上馨などは、グリスコムに「この好機会を逸せしむるようでは愚の極である」とまで語った。財界も大御所の渋沢栄一が支持した。

 


(左)日露戦争後の「ポーツマス講和会議」(1905年)
(右)アメリカの鉄道王エドワード・ハリマン

 

ハリマンは戦時公債500万ドルの引き受け手でもあったから、話はとんとん拍子に進み、10月12日には、南満州鉄道に関する日米シンジケートを組織する予備協定覚書を交換し、意気揚々と帰国の途についたハリマンだったが、太平洋上ですれ違ったのが「ポーツマス講和会議」の日本全権小村寿太郎だった。〈中略〉

こうした背景があって、小村も強硬にハリマン案に抵抗、葬り去ることができたが、その結果、南満州鉄道が日本の独占経営となったことで、ルーズベルトのあとを襲ったタフト政権が期待した満州の門戸開放は実現されず、日米関係は悪化したまま、アジア太平洋戦争へと突入していく大きな端緒となった

 


小村寿太郎

 

1905年の「ハリマン構想」は挫折し、日本政府の恩を仇(あだ)で返すような態度にヤコブ・シフは激怒し、その怒りを高橋是清にまでぶつけた。

しかし、シフはほかの取り引きで見せたように、決してあきらめなかった。

 


高橋是清
(たかはし これきよ)

日銀副総裁。のちに蔵相、首相。
「ダルマ首相」と呼ばれて親しまれた。

 

1909年春、ハリマンは再び動いた。3月、ルーズベルトに代わってウィリアム・タフトが大統領に就任すると、アメリカの対日政策は、反日に変わった

タフトは、ハリマンの娘婿ウィラード・ストレイトを東アジア部長に任命した。

タフト政権の東アジア政策に中心的役割を果たしたのは国務次官のウィルソンとストレイトだった。ウィルソンは、満州の門戸開放を持続させるための唯一の方法は日本に対し、強圧をかけるほかないと確信していた。ストレイトは、旧来の政策では、満州でのアメリカの未来は暗く、アメリカ製品の市場拡大には満州に鉄道建設と資源開発の大規模投資をすることが必要だと主張した。

ハリマンは自己の経済的目的のため南満州鉄道を支配しようとしたが、ストレイトの場合はさらに、国際戦略の見地から、アメリカ資本を満州へ投入する図を描いたのだった。

 


(左)第27代アメリカ大統領ウィリアム・タフト
(右)タフト政権の東アジア部長ウィラード・ストレイト

 

タフトは、国務長官にノックスを選任した。1909年12月、ノックスは、満州における列強の鉄道権益を清国に返した上で列強の共同管理にするという南満州鉄道中立化を提案したが、戦後に協調に転じた日本とロシアの反対で成立しなかった。

敗戦により目を東から西に転じたロシアと日本の協商体制が進むなかで1910年、アメリカは5000万ドルの借款を清国に与え、英独仏と4ヶ国借款団を組織、強力なドル外交で日本に対抗し、

太平洋をめぐる日米両国の覇権争いが激しさを見せはじめる


※ 以上、田畑則重著『日露戦争に投資した男 ~ユダヤ人銀行家の日記~』(新潮社)より

 

 


 

■■第6章:「日露戦争」後にアメリカで広まった「黄禍論」


「日露戦争」は、国際社会のほとんどが大国ロシアの勝利を予想していたにもかかわらず、アジアの小国・日本が勝利した戦争だった。

 


↑開戦直後にフランスの新聞に載った「日露戦争」を
あらわした『危険な冒険』という風刺画

※ もし日本がロシアに負けていたら、中国みたいに
列強に分割されてしまう可能性が非常に高かった



(左)コサック騎兵と戦う日本騎兵 (右)「奉天会戦」の地図

※ 奉天会戦=1905年3月に行われた日露戦争最後で最大の陸上戦

日本軍とロシア軍が奉天(現在の瀋陽)でぶつかり、激しい戦いの末、日本軍が
ロシア軍を破った。この「奉天会戦」に投入された兵力は、日本が約25万人、ロシアが
約32万人だった。参加兵力だけでなく、戦闘期間も24日と戦史上かつてない
規模で、日本軍だけで約7万人の死傷者を出した。(この戦いで日本は
兵力と砲弾を使い果たし、戦争を続けていく力を失っていた)。

※ この「奉天会戦」はものすごい激戦で、あまりの
 すごさに発狂したロシア軍将校もいたという。



ロシアの誇る「バルチック艦隊」に接近して正確な猛射を浴びせる「日本連合艦隊」

※ 日本海海戦=日露戦争の勝敗を決めた海戦で、1905年5月27日に
行われ、次の日、日本艦隊の勝利に終わった。この「日本海海戦」に参加した
38隻のバルチック艦隊のうち、19隻が撃沈され、5隻が日本軍に捕らえられた。

※ ウラジオストクに逃げのびたロシアの軍艦はわずか3隻だけだったという。

 

●日本の勝利は、帝国主義時代における有色人種の初勝利だったため、インドをはじめアジア中近東諸国の反植民地、独立運動に大きな影響を与えた。

 

 

●しかし、欧米人の間では、日本人に対する警戒心が噴出し始めた。

いわゆる「黄禍論」(こうかろん)である。


「黄禍論」(Yellow peril)はアジア人を蔑視し、差別した考え方(人種差別の一種)であり、もともとは「日清戦争」後にヨーロッパ諸国に広まったもので、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が主な論者だった。

1905年に「日露戦争」でロシアが敗れると、ヴィルヘルム2世は「黄禍論」を下地に、「白人優位の世界秩序構築」と、そのために日本をはじめとする「黄色人種国家の打倒」を訴えた。

 


(左)ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世
(右)ドイツ帝国(いわゆる「第二帝国」)の国旗

ヴィルヘルム2世の母はイギリスのヴィクトリア女王の娘だった。
そのため彼は生涯、イギリスには好意的だった。しかし、その旺盛な
海軍力増強姿勢はイギリスの警戒心を刺激し、イギリスをフランス陣営
に追いやることになった。ちなみに、彼の立派な口ひげ(端がピンと
はね上がった口ひげ)は「カイザー(皇帝)ひげ」と呼ばれた。

 

●このドイツ皇帝は1908年、『ニューヨーク・タイムズ』とのインタビューでこう語っている。

「ロシアが白色人種の利害を代表して日本と戦ったことは、誰もが認めている。しかしロシアの戦い方はひどくまずいものであった。ドイツ軍なら日本軍を撃破していたであろう。

ロシアが黄色人種に弱点をさらけだした今、今度はドイツが黄禍の拡大に歯止めをかける番になったのだ。我がドイツはアメリカと協力して中国を応援する取り決めを行ったが、これは日本の進出を抑え、極東における勢力均衡を保つためである」



●またこのドイツ皇帝は基本的に「親英主義者」だったが、イギリスと日本の同盟関係(日英同盟)を危険視しており、同年ベルリン駐在のアメリカ大使に対してこう言い放っている。

「ドイツは近い将来イギリスと戦火を交えることになるかもしれない。なぜならば、イギリスは白色人種の裏切り者だからであり、日本と結んだ同盟がなによりの証拠である。日本は中国に領土的野心を抱いているが、その後ろで糸を引いているのはイギリスである」


●第一次世界大戦でドイツは敗れ、皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命するが、亡命先においても彼は、ドイツ帝国の極東政策を弁護し、黄禍に対する警告を繰り返し発している。

「私はかねてより、白色人種は一致団結して黄色人種を叩かねばならないと主張していたのに、イギリスはそのように行動せず日本と同盟を結んだ。だがもしも日本が、『アジアをアジア人の手に』というスローガンを実現し、中国とインドを支配下に置くようなことになったなら、そのとき初めてイギリスは、ドイツとその艦隊に助けを求めることになるだろう。

強大化する日本に対して、ロシア皇帝ニコライ2世は大きな不安を抱いていたが、私はこうした彼の不安を利用できるだけ利用しつくして、ドイツとヨーロッパ文化を守ろうと努めたのである」

 


『黄禍論とは何か』
ハインツ・ゴルヴィツァー著(草思社)

帝国主義国家として空前の経済的繁栄を
謳歌していた欧米各国は、それまで劣等民族
と信じて疑わなかった黄色人種の台頭に限りない
不安を抱き(自らの「没落の予感」と結び付いて)
「黄禍論」はやがて政治的スローガンとなっていく。

本書は膨大な資料をもとに、政治、経済、文化、
宗教など様々な角度から「黄禍」をめぐる言説
を考察した歴史ノンフィクションである。

 

この「黄禍論」はアメリカでも広がり、日本人労働者の就職妨害や排斥、学童の隔離教育、太平洋沿岸州議会のハワイからの転航移民禁止などとして具体化し、「排日気運」を激化させていったのである(=「太平洋戦争」の遠因)。

 


『人種偏見 ─ 太平洋
戦争に見る日米摩擦の底流』
ジョン・ダワー著(TBSブリタニカ)

あまり語られることのない「人種戦争」の真相。
太平洋戦争における日米両国の憎悪の構造を分析し、
「人種主義」再生の危険性に警鐘を鳴らしている。

 

ところで、アメリカは日本が「日露戦争」に勝った直後に、日本を第一仮想敵国とした「オレンジ計画(対日侵攻戦略)」を作成していたが、後の日米戦争におけるアメリカ側シナリオは、すべてこの「オレンジ計画」によるものである。

驚くべきことに、すでに日米開戦の30年以上も前から、アメリカは日本を第一仮想敵国と考え、日本打倒のプランを練っていたのである。

 

 


 

※ おまけ情報:アメリカの「対日圧迫政策」について


●この時期の日米関係(摩擦)について、帝京大学教授の高山正之氏は次のように鋭く述べている。

参考までに紹介しておきたい。

 


第26代アメリカ大統領セオドア・ルーズベルト

 

セオドア・ルーズベルトを多くの日本人は親日家だと信じている。ホワイトハウスに畳を入れて柔道をやったとか、『日露戦争』では継戦能力のない日本のために講和の労を取ってくれたとか。

しかし彼の本音は全く違い、日本を叩き潰すことにあった。

そのきっかけは1893年、米国のハワイ王朝乗っ取りだった。

米戦艦ボストンがリリウオカラニ女王の宮殿に砲口を向け、彼女を退位させた直後、日本の巡洋艦『浪速』と『金剛』がホノルルに入り、米戦艦をはさむように錨を下ろした。

米国の横暴を牽制したもので、米国はハワイの併合を断念、ハワイ共和国という体裁を取った。巡洋艦の艦長は東郷平八郎といい、彼は翌年もホノルルにやってきたが、同共和国の建国1周年を祝う礼砲要請を『その要を認めず』と断った。

『錨泊中の他国の艦船も彼に倣(なら)いホノルル港はあたかもハワイ王朝の喪に服したようだった」と地元紙が報じている」


「共和国は報復に日系移民の帰化を拒否した。東郷の行動を見た米海軍省次官ルーズベルトは1897年3月、友人に『できることなら今すぐにハワイを併合し、ニカラグア運河を完成させ、日本を凌ぐ軍艦を建造したい。私は日本の脅威をひしひしと感じている』と書き送っている。

そのために彼は新聞王のウィリアム・ハーストと組み、世論を焚きつけて翌98年に『米西戦争』を起こし、グアムフィリピンを手に入れた。

大統領に就任するとすぐパナマを独立させ、運河建設に取りかかった。

脅威の日本人を米国から追い出す作業も始めた。

その1つが、米国に併合を済ませたハワイの日系人の本土移住の禁止措置だ。

ハーストの新聞も一役買って反日キャンペーンを展開する。『日本人は怠け者で売春や賭博にふける』とか『白人の知恵を盗む』とか『貯蓄して米社会に還元しない』とか思いつく悪口をすべて並べ立てた。

結果、日系人の子弟は学校から締め出され、土地所有を禁じられ、市民権の取得も拒否された。

 


アメリカの新聞王
ウィリアム・ハースト

反日キャンペーンを展開した

 

「しかし駐米大使の珍田捨己は米国人の善意を信じることから始めた。〈中略〉『まず相手を信じ、反省する』──この珍田方式が以降、日本外交の基本姿勢となる。

そんな馬鹿をしているからロシアから一銭の賠償も取れない講和を押し付けるルーズベルトを本気で『恩人』と思ったりする。

ルーズベルトの思いは一つ。米国にとって脅威の日本が賠償獲得でより強力にならないようにすることだった。


彼を継いだウッドロー・ウィルソン日本を弱体化するために国際社会からも締め出そうとした。

彼は第一次世界大戦の『パリ講和会議』で五大国委員会を解散し、日本を追い出して英米仏伊の四ヶ国委員会にして日本の発言力を弱め、彼の後を継いだハーディング大統領は『ワシントン会議』で日英同盟を破棄させ、日本を孤立に追い込んだ。

しかし当の日本は、ウィルソンはいい人で、この会議も海軍の軍縮会議だと今でも信じている。〈中略〉『相手国の善意』を信じた珍田外交が、日本を滅ぼしたことを忘れてはなるまい」

 


第28代アメリカ大統領ウッドロー・ウィルソン

※ 1919年に第一次世界大戦の戦後処理を行うために開催
された「パリ講和会議」で、日本は「人種差別撤廃」を強く提案した。

会議では人種平等の理想論には表向き反対できないので、投票の結果、過半数の
賛成を得られた。ところが、議長のアメリカ大統領ウィルソンはイギリスと組んで、
このような重要な決定は全員一致でなくてはならないと難癖をつけて、可決したはずの
提案を否決してしまった(植民地を多く持つ白人列強に都合の悪い提案だったため)。

日本の提案が可決されるのを心待ちにしていた世界各地の植民地民族は、「否決」と
聞いて、改めて白人の横暴を非難し、日本に同情した。これは「パリ講和会議」
において盛んに強調された「人権」「民族自決」という考えが、そもそも
「白人」だけを対象としたものであり、有色人種は始めから埒外に
置かれていた当時の状況を伝えるエピソードである。

 

●「ハーバード大学国際問題研究所」の研究員で、現在、国際政治学者として活動している藤井昇(厳喜)氏は次のように述べている。

アメリカが国際政治に、一人前のプレーヤーとして登場するのは、セオドア・ルーズベルトが日露戦争の仲介を買って出た『ポーツマス講和会議』(1905年)をもってである。

これ以前のアメリカは、ヨーロッパ各国から国際政治上の一人前のプレーヤーとは見られなかった。そして、第一次大戦で疲弊したヨーロッパを横目に、第一次大戦後の世界でアメリカは大国の地位を揺るぎのないものにしていく。



●千葉大学名誉教授の清水馨八郎氏は次のように述べている。

「日露戦争直前に結んだ『日英同盟』(1902年)は、戦争に実に有効に機能した

バルチック艦隊の長路の日本遠征では、途中のイギリス領関係の港での寄港を拒否、妨害され、食料補給、給水などに支障をきたした。これは、ロシア軍にとっては大変な痛手となった。

日露戦争後、日本を仮想敵国とする戦略を明確にしていたアメリカは、友邦のイギリスを日本から切り離しておかねばならないと考えた。そこで『ワシントン会議』を機に、『日英同盟』の廃案を両国に迫った。日本政府は反対したが、イギリスはすでにその使命が終わったとして、アメリカの提案に賛成した。

その頃から、米英は協力して日本の勢力拡大を抑える反日の姿勢を明らかにしていったのである」


「アメリカの日本叩き、日本いじめ政策の第一弾が、1924年の『排日移民法』の制定である。元来移民歓迎を国是とする移民受け入れ大国が、日本移民だけを締め出したのである。さらに日本の在米資産を凍結する挙に出た。

後に昭和天皇は後日談の中で、この『排日移民法』の制定が大東亜戦争の第一の遠因であると述懐されておられるほどである」

 


1921年11月から翌年2月まで開かれた「ワシントン会議」

第一次世界大戦後の1921年にアメリカのハーディング大統領の提唱で
 ワシントンで開かれた国際会議で、この会議によって「日英同盟」が破棄され、
 東アジア太平洋地域での新たな国際秩序となる「ワシントン体制」が発足した。

 この会議により形成された体制は、ヨーロッパの「ヴェルサイユ体制」と並んで、
第一次世界大戦後の国際秩序を確立することになった。この会議を主催して
指導したアメリカは外交的勝利を収め、国際的指導者の地位についた。


これは国際社会の主導権イギリスからアメリカに移った会議であった。

 

 


 

■■第7章:ヤコブ・シフと高橋是清の死


「ハリマン事件」後、少しギクシャクする時期があったが、ヤコブ・シフ高橋是清の交友関係は続いた。ヤコブ・シフは終生、高橋是清と家族ぐるみで親しく交わった。高橋是清の長女のわき子を、ニューヨークの自宅で3年間にわたって預かったほどだった。

ヤコブ・シフは1920年に73歳で亡くなった。

その16年後(1936年)、高橋是清「2・26事件」で青年将校達に射殺(暗殺)されてしまった。享年81歳だった。

この2人の死によって、日本とユダヤの関係は新たな局面を迎えることになる……。

 


(左)1920年に亡くなったヤコブ・シフ
(右)1936年に亡くなった高橋是清

※ 高橋是清は有名な「2・26事件」で
 青年将校達に射殺(暗殺)されてしまった…

 

●参考までに、前出の渡部昇一氏(上智大学名誉教授)は、高橋是清の死について次のような興味深い意見を述べている。

明治の日本が日露戦争のときに得たユダヤ・コネクションを、もしも上手に活用していれば、日本には重要な情報がたくさん入ってきただろうし、またユダヤ資本と協力してさらに産業も大きくできたかもしれない。たとえば満州の重工業にユダヤ資本を参加させていたら、イギリスやアメリカの満州国に対する態度は、別のものになっていたはずである。

だが、現実はまったく逆であった。

戦前の軍部は、ユダヤ人を迫害したナチス・ドイツと同盟を結んでしまった。これでは日本の運命が悪くなるのも当然と言わざるをえない。

1940年(昭和15年)9月、日独伊三国同盟が締結された。この年の終わり頃、クーン・ローブ銀行の紹介状を持った2人のカトリック神父がやってきた。その目的の一つは、ユダヤ排撃を政策として打ち出しているヒトラーと日本との同盟に関係したものであったに違いない。

その時、もし高橋是清が生きていたら、シフの銀行の紹介ということで対応も違っていたであろう。

しかし、高橋はその4年半前に2・26事件で青年将校に殺されていたのである。嗚呼(ああ)

事実、三国同盟締結と時を同じくしてアメリカは蒋介石の重慶政権に1億7500万ドル、イギリスも1000万ポンドの借款を与えているのだ。このカネがユダヤ人と関係しているのは明らかである。蒋介石は外貨に不自由しなくなったのである。

対米戦争を始めることになったのも、もとはといえば日本がアメリカから石油禁輸を受け、にっちもさっちも行かなくなったからだが、アメリカ経済に隠然たる力を持つユダヤ人を味方に付けていれば、そこまでアメリカは日本をいじめることもなかったのではないか──今さら悔やんでも仕方のないことだが、私には残念でならないのである。」(渡部昇一著『まさしく歴史は繰りかえす ~今こそ「歴史の鉄則」に学ぶとき~』クレスト社より)



余談になるが、金融の天才だったヤコブ・シフの死後、「クーン・ローブ商会」は支配力を次第に失い、1929年の世界大恐慌で打撃を受け、没落していくことになる。

現在は同じドイツ・ユダヤ系の投資銀行「リーマン・ブラザーズ社」と合併している。

※ この「リーマン・ブラザーズ社」はドイツからアメリカへ移民したユダヤ人のヘンリーとエマニュエルとマイヤーのリーマン3兄弟によって、1850年に設立された投資銀行である。日露戦争中にヤコブ・シフの呼びかけに応じて、日本の国債を購入している。

 

ヤコブ・シフの「クーン・ローブ商会」は1977年に同じ
ドイツ・ユダヤ系の投資銀行「リーマン・ブラザーズ社」と合併した

 

 


 

■■第8章:「河豚(フグ)計画」─ 日ユ関係の回復を試みる


●「日露戦争」でユダヤ資本から「恩」を受けながら、満州の共同経営の約束を破った日本は、独自の満州経営に乗り出し、あげくの果ては1931年の満州事変に至るドロ沼にはまりこんでいった。

 


満鉄超特急「あじあ」号は、1934年11月1日に運転を開始した。最高速度は
時速120キロで、蒸気機関車として世界のトップレベルを誇った。この「あじあ」号を
造りあげた日本の技術力は全世界の注目を浴びた。「あじあ」号の存在は、当時の
日本人の“夢”の象徴だった。しかし、それは敗戦とともに露と消えた。

 

●だが、実はこの時代に、日ユ関係を回復する大きなチャンスがめぐってきていた。

そして日本内部にも、このチャンスを生かすべきだろうとする意見があり、そこへ向けての活動が少なからずあったのである。

 


安江仙弘(やすえ のりひろ)

陸軍最大の「ユダヤ問題専門家」。
1938年、大連特務機関長に就任すると、
大陸におけるユダヤ人の権益擁護に務め、
ユダヤ人たちから絶大な信頼と感謝を受けた。

 

●1930年代、ドイツで迫害を受けたユダヤ人達が、シベリアを経由して満州へ洪水のごとく流れてくるという事件が起きた。日本政府は、アメリカからの工作機械やその他の輸入を全く受けられないため、日本の満州経営は大きな壁にぶつかっていた。そのために、欧米のユダヤ財閥資本と経営技術を必要としていた。

そこで、ユダヤ資本との対立関係を回復する為に、この難民ユダヤ人達を保護し、満州にユダヤ国家を作る計画があった。この計画は「河豚(フグ)計画」と呼ばれた。

 


極東アジア地域へのユダヤ人の亡命(~1945年)

1930年代、ドイツで迫害を受けたユダヤ人達が、
シベリアを経由して満州へ洪水のごとく流れてきた



(左)満州国の国旗 (右)イスラエルの国旗 

満州国の国旗である「五色旗」は黄、紅、青、白、
黒で日・満・漢・朝・蒙の五族協和を象徴している。

一方イスラエルの旗は1891年にシオニズム運動の
運動旗としてダビデ・ウルフゾーン(リトアニア
出身のユダヤ人)が考案したものである。

 

新興日産コンツェルンを率いていた鮎川義介は、1934年に、外務省より『ドイツ系ユダヤ人5万人の満州移住計画について』という論文を発表した。彼は、ドイツ系ユダヤ人5万人を満州に受け入れ、最終的には100万人を移住させ、満州にユダヤ国家を作ることで、アメリカの歓心を買い、対ソ連への防波堤にしようと考えていたのである。

1936年、鮎川義介が関東軍の後援で渡満し、「満州重工業開発株式会社」を設立したことにより、「河豚計画」は国策レベルに浮上した。

 


(左)鮎川義介。大正・昭和期に活躍した実業家。
「日産自動車」の実質的な創立者。満州重工業開発総裁。
(右)「河豚計画」の舞台となった町ハルビン(Harbin)は
上の地図の右上に位置している。

 

●ユダヤ人との間に対話の場を設けて関係を強めることを考えた日本の軍部は、1937年から1939年にかけてハルビンで3回の「極東ユダヤ人大会」を開催した。第1回の会議には、陸軍の安江仙弘大佐や、関東軍情報部長の樋口季一郎、谷口副領事などが出席し、1000人近いユダヤ人が会議を傍聴した。

直前に組織として結成された「極東ユダヤ人会議」の議長には、ユダヤ人アブラハム・カウフマン博士が選出され、極東の上席ラビにはアロン・モシェ・キセレフが選ばれた。

 


(左)ハルビンに作られたユダヤ教会堂 (右)満州のユダヤ人たち

満州のユダヤ人の活動の中心地は黒竜江省のハルビンであった。
この町には20世紀初頭から、ロシア系ユダヤ人を主とする小さなコミュニティーが
あったが、日露戦争の影響と1905年のポグロムの結果、多数のユダヤ人が流入したため、
1908年にはその規模は8000人以上に膨れ上がった。その後、ロシア革命とウクライナでの
迫害を逃れてさらに何千人もが満州に入ってきたので、ハルビンのユダヤ・コミュニティーも
1920年には1万人を数え、満州国建国の頃は1万5000人にもなっていたのである。
「ハルビン・ヘブライ協会」が設立され、ラビのアロン・モシェ・キセレフと
アブラハム・カウフマン博士がその代表的存在だった。

 

●1937年12月26日にハルビンで開かれた第1回の「極東ユダヤ人大会」で、樋口季一郎(陸軍少将・のちに中将)は、次のように演説した。

「ヨーロッパのある一国は、ユダヤ人を好ましからざる分子として、法律上同胞であるべき人々を追放するという。いったい、どこへ追放しようというのか。追放せんとするならば、その行き先をちゃんと明示し、あらかじめそれを準備すべきである。当然とるべき処置を怠って、追放しようとするのは刃をくわえざる、虐殺に等しい行為と、断じなければならない。私は個人として、このような行為に怒りを覚え、心から憎まずにはいられない。

ユダヤ人を追放する前に、彼らに土地をあたえよ! 安住の地をあたえよ! そしてまた、祖国を与えなければならないのだ!

この樋口季一郎の演説が終わると、凄まじい歓声が起こり、熱狂した青年が壇上に駆け上がって、樋口季一郎の前にひざまずいて号泣し始めたという。協会の幹部達も、感動の色を浮かべ、次々に握手を求めてきたという。

 


樋口季一郎・陸軍中将

ハルビンで開かれた
「極東ユダヤ人大会」では多数の
作業計画が採択されたが、その基本理念を
定めたのは樋口中将の基調演説だった。彼は、
日本人は人種偏見を持っておらず、親ユダヤ的だと
強調し、日本はユダヤ人と協力し経済的接触を
保つことに関心があると述べたのである。



「極東ユダヤ人大会」で挨拶を述べるユダヤ人
 アブラハム・カウフマン博士(議長)

この「極東ユダヤ人大会」には、ハルビンのほか、
奉天、大連、ハイラル、チチハル、天津、神戸など、
極東各地のユダヤ人社会から代表が出席した。

※ ちなみにこの「極東ユダヤ人大会」に参加
したのはアシュケナジー系ユダヤ人ばかりで、
 スファラディ系ユダヤ人は参加していない。

 

●この「極東ユダヤ人大会」の主要な結果は、カウフマン議長名でニューヨーク、ロンドン、パリのユダヤ人組織に打電され、数多くのメディアに通報された。

しかし、メディアの反響は期待を遥かに下回るものだった。

満州のユダヤ人たちは日本と協力する用意があったのに対して、「米国ユダヤ人会議」の議長スティーブン・ワイズ博士率いるアメリカのユダヤ人は反日的であった。ワイズ博士は、日本が世界のファシズムの最も危険な中心の一つだと考えていたのである。

ハルビンの「極東ユダヤ人会議」の議長だったアブラハム・カウフマン博士は、アメリカのユダヤ人のスポークスマンに対して「日本をもっと好意的に見るように」と説得したが、ルーズベルト大統領の側近だったワイズ博士は日本を全く信用せず、ユダヤ人の満州移住構想(河豚計画)には賛成しなかったのである。

 


スティーブン・ワイズ博士

彼はアメリカのユダヤ指導者階級の
中心人物のみならず、全世界のユダヤ人の
指導者ともいうべき人だった。ルーズベルト大統領の
ブレーンの中でも随一であり、大統領ある所には、
必ず影のように彼がついていたと評され、その
政策を左右する実力を持っていた。

しかし彼は基本的に「反日主義者」で、
日本との協力に消極的だった。

 

●この「河豚計画」について、ユダヤ人のラビ・マーヴィン・トケイヤーは著書『The Fugu Plan(フグ計画)』の中で次のように語っている。

 


(左)ラビ・マーヴィン・トケイヤー。1967年に
来日、「日本ユダヤ教団」のラビとなる。
(右)彼の著書『The Fugu Plan』

 

「1930年代、『河豚計画』は日本がまさに求めていたものを提供するはずだった。膨張を続ける日本の版図は、ロスチャイルドやバーナード・バルークやヤコブ・シフなどユダヤ財閥の資本と経営技術を必要としていた。資本と技術を持った人々を、日本が中国から獲得したばかりの植民地、満州国に定住させ、一日も早くソ連という北方の脅威との緩衝地帯にしなければならなかった。……

ユダヤ人を利用する代償として、日本はユダヤ人たちに夢を約束した。ヨーロッパの荒れ狂う迫害の嵐からユダヤ人を救い、安住の地を与えようというのである。ユダヤ人迫害は、キリスト教と密接な関係があるが、神道を国家信教とする日本には、ユダヤ人を排斥しなければならない理由はなかった。つまり、もし『河豚計画』が成功していれば、完全な両方得が成功するはずであった。」



●この「河豚計画」の推進には、海軍の犬塚惟重大佐「犬塚機関」の活動があった。

「犬塚機関」は、著名ユダヤ人と広い交際を持っていた田村光三(マサチューセッツ工科大出身の東洋製缶ニューヨーク出張所勤務)の協力を得た。

 


(左)犬塚惟重・海軍大佐 (右)田村光三



上海市街の租界(第二次世界大戦期まで)



上海の共同租界、虹口(ホンキュー)地区の風景(1937年)

日本海軍が警備していた虹口(ホンキュー)地区(通称「日本租界」)は、
「バンド」と言われるビルの立ち並ぶ上海の中心地区からガーデン・ブリッジを
渡って北東へ行った場所にあった。日本の本願寺や商社・旅館、商店などが
軒を並べた租界の中でもどちらかというと、庶民的雰囲気の漂う下町
だった。海軍大佐の犬塚惟重は、日本人学校校舎をユダヤ難民
の宿舎にあてるなど、ユダヤ人の保護に奔走した。

 

「犬塚機関」は、ナチス・ドイツによって迫害されているユダヤ人たちを必死になって助けようと動いた。そして、助けることによって日本の安泰を図ろうとしたのであった。1939年春のできごとであった。

しかし、1940年9月27日に「日独伊三国軍事同盟」が締結されるに及んで、アメリカのユダヤ人組織から「犬塚機関」と田村光三に対して、次のような通告が送られてきたのである。

「日本当局が、上海その他の勢力範囲でユダヤ人に人種的偏見を持たず、公平に扱かって下さっている事実はわれわれもよく知り、今回のクレジットでその恩に報い、われわれの同胞も苦難から救われると期待していましたが、われわれには、今回のアメリカ政府首脳および一般のアメリカ人の反日感情に逆行する工作をする力はない。非常に残念だが、われわれの敵ナチスと同盟した日本を頼りにするわけにはいかなくなってしまいました」

 


(左)1940年9月、「日独伊三国軍事同盟」がベルリンで結ばれた。日本代表は
松岡洋右外相。来栖三郎駐独大使、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ独外相、
チアノ伊外相がこれに署名した。(右)三国軍事同盟祝賀会の様子。

 

●この通告を受けとった東條英機(陸相)は、安江仙弘(大連特務機関長)を解任し、予備役に編入。

そして、この年(1940年12月末)に予定されていた「第4回極東ユダヤ人大会」に対して中止命令を出したのであった。

 


安江仙弘(やすえ のりひろ)

陸軍最大の「ユダヤ問題専門家」。
1938年、大連特務機関長に就任すると、
大陸におけるユダヤ人の権益擁護に務め、
ユダヤ人たちから絶大な信頼と感謝を受けた。

安江大佐が、大連特務機関長の職を解かれ、
予備役に編入されると、大連ユダヤ人社会は更迭
された安江大佐のために1940年12月14日、大連
のユダヤ人クラブで「送別会」を催して彼を慰労した。

安江大佐は、予備役編入後も、ひきつづき大連に
とどまってユダヤ人のために尽くした。

 

●こうして、安江仙弘大佐と在東京ユダヤ人キンダーマンによって、水面下で進められていたアメリカ政府との直接交渉は、実現を目前にして潰えてしまったのである。

そして日本は、翌年12月8日に真珠湾を攻撃して日米戦争へ突入していったのである……。

 

 

※ 大連市の自宅で、日米開戦のニュースをラジオで聞いた安江大佐は、一言「しまった!」と叫んだという。

 

 


 

■■第9章:支那事変(日中戦争)と上海の「サッスーン財閥」


1937年から始まった支那事変(日中戦争)は約8年にもおよんだ。

当時貧しかった中国にあって、中国国民党・蒋介石軍は強大な軍事力を投入する日本軍とよく戦った。

それは、蒋介石軍の兵器、装備、兵たん部が充実していたからであり、それら大部分の戦費が、ほぼすべてユダヤ財閥「サッスーン」から出されていたからである。

※ 蒋介石夫人の宋美齢の一族・宋家(浙江財閥)もユダヤ資本と友好関係にあった。

 


(左)蒋介石 (右)中国国民党旗「青天白日旗」

 

●日本軍が上海のサッスーン一族の「キャセイ・マンション」や外国人クラブを接収すると、彼らは日本に対して猛然と対抗意識を燃やし始めた。

「サッスーン家」は第1章で紹介したように、アヘン密売で莫大な富を築いた一族で、並みいるユダヤ財閥の中でも、ケタはずれの財産を保有する屈指の財閥であった。(サッスーン家は英ロスチャイルド家の東アジア代理人であった)。

彼らは当時、上海を東洋進出への最大の本拠地と考えていた。だからこそ、莫大な資金をつぎこんで蒋介石軍を支え、日本を中国大陸から追い出そうとしたのである。

「上海キング」と呼ばれていたビクター・サッスーンは、日本の「河豚計画」に協力するのを断固拒否し続けた。

※ ビクター・サッスーンはイギリス育ちで親英主義者であり、反日的であった。

 


ビクター・サッスーン(1881~1961年)

「上海キング」と呼ばれていた彼は 
極東で一、二を競うユダヤ人大富豪で、
上海のユダヤ人社会のリーダーであった。

※「サッスーン家」は、もともとは18世紀に
メソポタミアに台頭したユダヤ人の富豪家族で、
トルコ治世下にあって財務大臣を務めるほどの政商
であった。1792年にこの一族の子として生まれた
デビッド・サッスーンは、アヘン密売で莫大な
富を築き、「アヘン王」と呼ばれた。



(左)中国の地図 (右)「サッスーン財閥」の拠点だった上海(Shanghai)

上海は元は寂しい漁村だったが、「アヘン戦争」の結果として
イギリスの対外通商港となり、一挙に中国最大の都市に成長した。
繁栄をきわめ、「魔都」とか「東洋のニューヨーク」と呼ばれた。

※ 右の画像は1930年頃の上海の風景であるが、あたかも当時の
アメリカのニューヨーク、イギリスのロンドンかと錯覚を覚えて
しまう。これらの建築物は「サッスーン財閥」に代表される
ユダヤ資本によって建てられたものである。

 

●支那事変の全期間を通じて、日本は「サッスーン」をはじめとした欧米のユダヤ財閥を向こうに回して戦争をしていた、といっても言い過ぎではなかった。

ドイツのボン大学で日本現代政治史を研究し、論文「ナチズムの時代における日本帝国のユダヤ政策」で哲学博士号を取得したハインツ・E・マウル(元ドイツ連邦軍空軍将校)は、著書『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版)の中で次のように書いている。

 


(左)ハインツ・E・マウル(元ドイツ連邦軍空軍将校)
(右)彼の著書『日本はなぜユダヤ人を迫害
しなかったのか』(芙蓉書房出版)

 

「当時、ビクター・サッスーンは日本にとって上海のユダヤ財閥の代表格であったが、日本の計画(河豚計画)には関心がなく、それどころか1939年2月のアメリカ旅行の際に反日発言を繰り返した。日本の中国大陸での冒険を終わらせるために、米英仏は日本を事実上ボイコットせよというのである。日本の陸戦隊本部は、サッスーンは自分の権力と影響力を失いたくないので日本軍を恐れているのだと見ていた。」

 


この建物は「サッスーン財閥」の居城だった「サッスーン・ハウス(現・和平飯店)」である。
頭頂部のピラミッドを思わせる塔が特徴であり、当時は「東洋一のビル」と称えられた。
10階から上のペントハウスはサッスーンの住居である。1929年に建設された。


上の家系図は広瀬隆氏が作成したものである(『赤い楯』より)。
「サッスーン財閥」は、アヘン王デビッド・サッスーンの死後、アルバート・サッスーン、
次いでエドワード・サッスーンが相続し、三代の間に巨富を築いた。
(「サッスーン家」は「ロスチャイルド家」と血縁関係を結んでいる)

サッスーン一族の繁栄の最盛期を具現化したビクター・サッスーンは、
不動産投資に精を出し、破綻会社の不動産を買い叩き、借金の担保の
不動産を差し押さえた。そして彼は、「グローヴナー・ハウス(現・錦江飯店中楼)」、
「メトロポール・ホテル(現・新城飯店)」、「キャセイ・マンション(現・錦江飯店北楼)」
などを次々と建築した。中でも彼の自慢は、上の「サッスーン・ハウス(現・和平飯店)」で、
サッスーン家の本拠とすべく建設したものであった。その後、貿易、運輸、各種軽工業
などにも事業展開していったビクター・サッスーンの最盛期の資産は、上海全体の
20分の1もあったと言われている。彼は「東洋のモルガン」の異名を持っていた。



(左)上海のユダヤ教徒 (右)上海のユダヤ人学校の生徒たち

 

●明治大学教授の阪東宏氏によれば、1939年2月にアメリカを訪問したビクター・サッスーンは、ニューヨークで記者会見を行い、次のような趣旨の発言(反日発言)をしたという。

「日本軍による対中国作戦と中国側の焦土作戦の結果、中国大陸では来年大飢饉を免れないであろう。『日支事変』後の日本の中国経済開発事業は、アメリカ、イギリス、フランスの財政支援なしには不可能であろう。

日本の戦略物資の70%を供給しているアメリカ、イギリス、フランスが対日輸出禁止を実施すれば、日本は中国大陸から退却せざるをえない。また、日華戦争の経費負担の増加のため、日本は中国よりも赤化する可能性がある。なお、アメリカ、イギリス、フランスの対中国投資は、今後も安全が保証されるであろう」

※ この「反日発言」に神経をとがらせた日本の外務省は、在ニューヨーク、上海の総領事館あてにサッスーンの言動をさらに調査、報告するよう指示したが、意味のある調査結果は得られなかったという。



●海軍の犬塚惟重大佐の「犬塚機関」は、サッスーン家が反日的姿勢を改め、日本に協力してくれることが何よりも重要だと考え、1939年夏、ビクター・サッスーンを上海の虹口地区(通称「日本租界」)に招いて会食を開いたりした。

しかし努力むなしく空振りに終わってしまった……。

 


犬塚惟重(いぬづか これしげ)海軍大佐

海軍の「ユダヤ問題専門家」で、
上海を拠点にユダヤ問題の処理に当たった。
戦後は「日ユ懇談会」の会長を務めた。



1939年夏、「犬塚機関」の招待に応じて会食に出席した
ビクター・サッスーン(右から2人目)。右端は犬塚惟重大佐。

 

●ところで、在米の「チャイナ・ロビー」、すなわち戦前から戦中、戦後にかけてワシントンに「親中国」、つまり蒋介石を支援して「反日」という基軸で戦った一群の人たちがいたが、

その中心人物はヘンリー・ルースというユダヤ人であった。

 


ヘンリー・ルース

中国で生まれ育った改宗ユダヤ人で、ラジオ・
映画ニュースにも大きな影響力を持っていた彼は、
1930年代から「親中国・反日」の一大キャンペーンを
張り、アメリカのアジア外交、特に対中国外交に
大きな影響を及ぼしたことで知られる。

 

ヘンリー・ルースは雑誌『タイム』『ライフ』『フォーチュン』『スポーツイラストレイティッド』をつくり、ことごとくアメリカの雑誌文化の原点を築き、「一代でアメリカの雑誌ジャーナリズムを築いた男」と評されていた人間である。

中国山東省で生まれ育った彼は、大戦中、「チャイナ・ロビー」のボスとして、その資金源となって懸命に中国を支援した。蒋介石夫妻を「自由中国」の象徴として絶賛し、蒋介石夫人の宋美齢をアメリカに呼んで一大ヒロインに祭り上げるなどして、親中国・反日のキャンペーンを大々的に展開し続けたのである。

 

 

●1936年に彼が創刊した『ライフ』は、フォト・ジャーナリズムを駆使した斬新な手法で、創刊とともに世界中のジャーナリズム界に衝撃を与えていたが、

1937年に日中戦争が始まると、日本を悪玉にする有名な写真=「ガレキの中にたった一人ポツンと取り残された赤ん坊」(上海で撮影)を掲載し、この写真は何百回とコピーされ、欧米社会に「日本=悪」のイメージを定着させた。

 

↑これはアメリカの雑誌『ライフ』に
掲載されて世界的に大反響を巻き起こした写真=
「ガレキの中にたった一人ポツンと取り残された赤ん坊」
である。この写真を見た世界中の人々は日本の「虐殺」を
激しく非難した。日本の運命を決定した一枚である。

◆ ◆ ◆

しかしこの写真には下のような別物があり、
すぐ横に保護者となりうる大人がいて別の子供も
立っていたのである。わざわざ一人ぼっちの写真を
撮って「反日感情」を盛り上げたのであった。


※ 赤ん坊の写真は、中国国民党宣伝部配下の
プロカメラマンが日本軍に非難の目を向けさせる
 ために細心の注意をもって「制作」したもので、
 宣伝部の中では傑作と評価されたという。

 

また、彼が創刊した『タイム』は、蒋介石夫妻を1937年度の「パーソン・オブ・ザ・イヤー」に選出し、徹底して親中国・反日の世論を煽り、ほとんどの新聞・雑誌がそれに追随した。

「この男(ヘンリー・ルース)によって、1930年代から『真珠湾』に向かうアメリカの世論『親中国・反日』に変えられたといっても誇張ではない」といわれている。

 


戦時中、アメリカの雑誌『タイム』の
表紙を飾った蒋介石と宋美齢夫人

※『タイム』はユダヤ人ヘンリー・ルースが 
1923年に創刊したアメリカの週刊誌であり、
世界初の「ニュース雑誌」としても知られている。

この週刊雑誌は、蒋介石夫妻を1937年度の
「パーソン・オブ・ザ・イヤー」に選出し、
親中・反日の世論を煽った。

 

※ 余談になるが、ヘンリー・ルースが創業した「タイム・ライフ社」は、1989年に「ワーナー・ブラザース」を吸収合併し(「タイム・ワーナー」の誕生)、現在、世界最大の総合メディア企業になっている(売上高268億ドル、社員数7万人)。



●ちなみに、ルーズベルト大統領も強烈な「親中反日主義者」で、中国を溺愛し、日本人を“劣等人種”として激しく差別していたことで知られているが、彼の母方の実家であるデラノ家は、サッスーン家と同じく中国へのアヘン貿易で財をなしたファミリーであった。

また、ニューヨークのマンハッタン島の不動産を買い占めたアスター家も同様である。

 


第32代アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト

彼はセオドア・ルーズベルト大統領の甥であり、
強烈な「親中反日主義者」だったことで知られている



フランクリン・ルーズベルト大統領の祖父
ウォーレン・デラノ・ジュニア

↑この男は全米最大のアヘン取り引き業者で、
中国へのアヘン貿易で巨利を築いていた

 

●ところで、1936年に中国で突然「貨幣改革」が断行され、蒋介石率いる南京政府発行の紙幣以外は中国の紙幣ではないと宣言されたが、この大改革も中国の「サッスーン家」などのユダヤ財閥によってもたらされたものであった。

彼らは、この紙幣によって中国の統一をはかろうとしたのである。それはまた、この紙幣を使えない日本軍占領地のあることを、世界に訴えるということでもあった。(この一連の交渉にあたったのがポーランド系ユダヤ人で、イギリス政府の最高財政顧問として有名であったリース・ロス博士である)。


※ この「貨幣改革」によって、中国の銀は奔流のような勢いで海外に流出した。もっとも、中国政府は輸出銀に対して関税を課して、一挙に二重の利を得た。そして、中国での1円の銀は海外銀行に預けられ、ユダヤ系銀行はこれをロンドン、ニューヨークの市場に1円80銭で売り飛ばして莫大な利益をあげ、それを蒋介石一派と山分けにしたのである。イギリス政府は、中国に対して銀を預かる代わりに新紙幣に保証を与えたが、もし中国側がイギリスの意に反すれば、紙幣は紙切れになるしかなかった。

「サッスーン財閥」はこの中国銀準備を担保にして、日本との戦争のための大量の武器を蒋介石政府に買わせた。

※ サッスーン財閥系列の「香港上海銀行(HSBC)」は、この銀回収を利用して3億元の巨利を占めたといわれている。

 


↑1865年にロスチャイルド一族のメンバーであるイギリス系 
ユダヤ人のアーサー・サッスーン卿によって香港で創設され、
 1ヶ月後に上海で営業を開始した「香港上海銀行(HSBC)」

※ この銀行の設立当初の最大の業務は、アヘン貿易で儲けた
 資金を、安全かつ迅速にイギリス本国へ送金することであった。

この銀行は第二次世界大戦前、上海のバンド地区を中国大陸の本拠と
していたが、1949年の中国共産党政権成立後の1955年に本社ビル
を共産党政権に引き渡した。その後、中国各地の支店は次々に閉鎖された。

しかし現在、この「香港上海銀行」は英国ロンドンに本拠を置く世界最大級の
銀行金融グループに成長している。ヨーロッパとアジア太平洋地域、アメリカを
中心に世界76ヶ国に9500を超える支店網をもち、28万人の従業員が働き、
ロンドン、香港、ニューヨーク、パリ、バミューダの証券取引所に上場している。

時価総額規模ではアメリカの「シティグループ」「バンク・オブ・アメリカ」に
次ぎ世界第3位(ヨーロッパでは第1位)である。現在、香港の「中国銀行」
及び「スタンダード・チャータード銀行」と共に香港ドルを発券している。

 

「サッスーン財閥」は貨幣改革を第一弾として、さらに第二弾を計画した。

それは上海を起点として、杭州、南昌、長沙、雲南を経てビルマ(パーモ)に達する約3000キロの「鉄道敷設計画」である。これを欧米のユダヤ資本が分担し、「サッスーン財閥」が現地で維持する、という大構想であった。このときの膨大な費用も、ユダヤ系銀行団を通してイギリス政府から供給されたものだった。

 


華中~華南横断鉄道路線図


※ この鉄道計画が完成すれば、それは日本締め出しの策ともなる。華南、華中をかためた上で、華北から日本を駆逐するという手順となる。

この鉄道が完成すれば、北部ビルマのパーモで、既成のビルマ鉄道に連結し、これによって東シナ海とインド洋を回るしかなかったものが、陸路、最短距離で接続する。そしてもちろん、当時ビルマは大英帝国の領土であり、上海は「サッスーン財閥」の牙城である。そして、この鉄道開通に続く開発が進めば、中国経済の中心は一部、南昌(江南省)に移るものと観測された。

 

 


 

■■第10章:蒋介石(中国国民党)と毛沢東(中国共産党)


●「サッスーン財閥」が支配していた「香港上海銀行」の本拠地が日本軍によって踏みにじられると、日本を倒す新たな反撃のため、欧米のユダヤ資本と華僑の地下連合組織が強力な網の目を張りめぐらしていった。

こうしたゲリラによるレジスタンスの構造が、今日の華僑財閥の母体になったのである。


しかし、その後、欧米のユダヤ資本による中国大陸の利権支配はうまくいかなかった。

中国国民党の失政によって、蒋介石は大陸を失い、台湾に逃げ込む始末となり、ユダヤ資本は断腸の思いで上海を明け渡さなければならなかった。

「サッスーン財閥」の在中国資産は、あらかた中共(中国共産党)政権によって没収されてしまったのである。

 

 

●この蒋介石とルーズベルトの関係について、ある歴史研究家はこう鋭く述べている。

「結局、アメリカは中国の利権を狙い、蒋介石に莫大な投資をしたのに、その多くを蒋一族に着服された揚げ句、中国の天下は毛沢東に取られ、アメリカには1セントの利益も入らなかった。

日本を徹底的に打ち砕いた結果、アメリカ日本からぶん盗ったもの、それは日本が中国・満州・朝鮮で長年背負ってきた『共産主義との対決』という重荷だけだった。

そのためにアメリカは、朝鮮戦争ベトナム戦争を戦わざるを得なくなってしまったのである。

『戦争は政治の手段』という大原則に照らせば、ルーズベルト政権は蒋介石にだまされ、スターリンにだまされ、国益にならないどころか、朝鮮戦争・ベトナム戦争を誘発し、自国民を犠牲にする禍根まで残した『太平洋戦争』をやらかした全く無能な政治家、単なる『戦争屋』だったことになる」

 


第32代アメリカ大統領
フランクリン・ルーズベルト


●ルーズベルトには「共産主義」への警戒心がほとんどなく、第二次世界大戦中は、ソ連と同盟を組み「蜜月時代」を築いた。ルーズベルト政権の中枢にはソ連のスパイ網が広がり、暗躍を続けていた。この件に関しては、別のファイルで詳しく触れたい。

 


日本に突き付けて日本を挑発した
『ハル・ノート』を書いた張本人である
ハリー・デクスター・ホワイト財務省特別補佐官

※ 後に彼はソ連のスパイとして糾弾されただけでなく、
ソ連KGBの元諜報員ピタリー・パブロフの証言によって、
『ハル・ノート』そのものがソ連で作成され、彼に提供
されたものであることが明らかになっている。

 

「サッスーン財閥」についてだが、「日本上海史研究会」が1997年に出した『上海人物誌』(東方書店)によると、

「第二次世界大戦後、租界が回収され、中国の民族意識が高まると、上海はもはや冒険家の楽園ではなくなった。上海のサッスーン財閥直属企業はすべて香港に移り、上海には支社のみを残して業務を大幅に縮小した。そして1948年には第二次撤退を断行し、不動産を一斉に投げ売りし、バハマに移転した。残った不動産も1958年に至り最終的に中国に接収され、『サッスーン財閥』は中国から姿を消した」という。

 


『上海人物誌』(東方書店)
日本上海史研究会[編]

 

●ところで第二次世界大戦後に「朝鮮戦争」に参加したマッカーサーは、この極東ユーラシア大陸での戦略面での困難さを体験したとき、日本のかつての“アジア侵略”を顧みて、

「日本のアジア侵略は“自衛”のための戦争であった」という見解を示している。

※↑1951年5月3日の米国上院の外交委員会での証言

 


ダグラス・マッカーサー

1945年8月30日から約5年半、
GHQの最高司令官として
日本占領に当たった

 

●この件に関して、ある歴史研究家は次のように解説している。

「東京裁判のわずか2年後に朝鮮戦争が勃発した。その途端にマッカーサーは、戦前の日本が心から怖れた『北からの脅威』の本当の意味がわかったのである。共産軍の侵攻を放置すれば朝鮮半島が取られる。朝鮮半島が取られれば日本が危ない。そこで彼は全力を挙げて、朝鮮半島を守ろうと決意して戦った。

結局、アメリカ側は太平洋戦争にも匹敵するほどの死者を出すことになった。

戦い始めてマッカーサーがすぐ気づいたのは、ソ連や中国がバックに控えた北朝鮮軍と戦う場合、朝鮮半島だけを考えては勝てないということであった。その弾薬や武器は中国やソ連から湯水のように補給されているのだから、その補給線を絶たないかぎり、相手はけっして降伏しない。勝つためには補給基地となっている満州を空襲しなければならない。また、東シナ海に面した中国の港を海上封鎖しなければならないということは明白であった。

そこでマッカーサーは戦争中、その考えをトルーマン大統領に進言したが、これを拒否されてしまった。トルーマンが、ソ連と原爆戦争に突入することを恐れたからであった。そのため、マッカーサーは朝鮮半島を守りきることができず、アメリカは北緯38度線から北を敵に渡して、休戦協定を結ばざるをえなかった。

この体験を通じてマッカーサーは、戦前の日本軍がなぜ、あれほどまでに満州に執着を見せたのか、
また『北からの脅威』とはどんなものなのかを明瞭に理解した
のである」



●ちなみに、冷戦時代の1962年、キューバへミサイルを持ち込もうとしたソ連に対し、「戦争瀬戸際政策」をとって阻止したアメリカのケネディ政権の司法長官であったロバート・ケネディは、著書の中で「キューバ危機を体験して初めて、なぜ東條英機が真珠湾を攻撃したのか理解できた」と述べている。

 


JFKの実弟、ロバート・ケネディ

 

●さて、最後になるが、毛沢東は数人のユダヤ人顧問団を持っていた。その中の一人は、1946年から1976年まで毛沢東の側近として密着していたシドニー・リッテンバーグである。

※ この毛沢東と「中国共産党」の実態については、別のファイルで詳しく触れたい。

 


毛沢東

中国共産党はいまだに毛沢東を
「抗日戦線リーダー」として崇めている。
しかし毛沢東は、実際には日本とは戦わなかった。
むしろ、中国が日本に占領されることを歓迎していた。
蒋介石政府を打倒するために、日本を利用したのである。
毛沢東は「中国で実権を握れたのは、日本の侵略の
おかげ」と感謝さえしていたのである。

 

─ 完 ─

 


 

■■追加情報:20世紀前半の日米の対立について


●ここから下は追加情報(補足情報)である。

昭和史に詳しいある学者は、「20世紀前半(日米開戦前)の日米の対立」について、次のように説明している。

今まで紹介してきた内容と重複しているが、参考までに紹介しておきたい。

 


日露戦争後の「ポーツマス講和会議」(1905年)

 

◆米国にとってまず阻止すべきは、世界の列強ロシアが満州を独占することだった。ロシアが日本に勝った場合、満州が完全にロシア領になり、米国の介入の余地がなくなることは明らかであったからである。

米国の立場からすれば、日露戦争後の『ポーツマス講和会議』において仲介の労をとったことは、米国自身の満州介入のためのワンステップだったのである。

 


第26代アメリカ大統領
セオドア・ルーズベルト

 

◆それゆえ従来から満州に対して強い関心を持っていた米国の鉄道王ハリマンが、日露戦争直後、早速日本に南満州鉄道を合弁事業とするよう申し入れている。このハリマンは、またさらに日本政府が日露戦争での軍費のために行った外国借款(しゃっかん)の返済に苦慮するであろうことを見越して、その買収を申し込んだりした。

もちろん、満州を再び列強角逐(かくちく)の地にしたのでは、多大の犠牲を払って日露戦争を戦ったことが無意味となるため、日本政府は最終的にこれを拒否し、米国の介入意図は失敗に終わったのである。

 


アメリカの鉄道王
エドワード・ハリマン

 

◆明治42(1909)年には、ノックス国務長官が、満州における日露協調体制を壊すために、満州諸鉄道の中立化を提案している。

この提案の狙いは、日露両国によって独占されていた満州における鉄道権益を喪失させ、米国も含めた国際管理に移行させようとしたものである。またそれが無理な場合には、清朝発祥の地である満州で日本が勢力を伸ばすことを好まない清国をたきつけて日本側に対抗しての米資本による満鉄併行線の建設を計画した。

しかしながらいずれも、米国の主張より日本の立場を認めた列国の反対で失敗に終わったのである。


◆その最初の結実が、1921年(大正11年)の『ワシントン会議』の招集であった。

この『ワシントン会議』の狙いは、明らかに日露戦争及び第一次世界大戦によって日本が築き上げた成果を米中連携のもとに否定してしまうことにあったと言ってよい。

会議における決定事項に次のようなものがあったからである。

【1】日英同盟の廃棄
【2】日本海軍の軍備制限
【3】日本の満州における権益の存在を認めた石井=ランシング協定の破棄


これらは米国と中国政府とがいわば反日同盟を結び、それが外交的勝利をおさめたということを意味する。米国の狙いは、『日本の中国における影響力の全てを、一度に排除することは不可能なことであり、一枝ずつ徐々に折り捨てていかなければならない』(後の米国務省顧問・ホーンベック)にあった。

『ワシントン会議』は日米の『政治的決闘』の場であり、その勝利者となったのは米国であった。

 


1921年11月から翌年2月まで開かれた「ワシントン会議」

※ 国際社会の主導権がイギリスからアメリカに移った会議であった

 

◆米国は、『ワシントン会議』において日英同盟を英国に圧力をかけて解体させ、次いで日本と条約を結んでいた中国の北京政府ではなく国民党政府を支援して、日支条約の否認、日本の満州権益の即時回収を叫ばせた。

一方、ロシア革命によって成立したソ連に対しても、米国はイデオロギー的には不仲であったにもかかわらず、米ソ協調路線をとり、日本の満州権益をめぐる「反日包囲網」を組み入れていったのである。

後に行われたABCD包囲網による経済圧迫こそが、わが国の大東亜戦争開戦決意の導火線とされているが、実は、以前から米国を中心として中国より日本を追放するための「反日包囲網」が順次形成されていたのである。

昭和16(1941)年になると、大統領秘密命令で中国側に米航空隊軍人を義勇軍(フライング・タイガース)という名目の下に大量の飛行機と共に投入した。この事実は、日本の真珠湾攻撃以前に、米軍が中国への武器援助を通して、支那事変に介入するのみならず、実質的に参戦していたことを如実に示しているのである。

 


アメリカ義勇航空隊「フライング・タイガース」
(ウォルト・ディズニーがデザインした)

表向きは「義勇軍」だが、実質はアメリカのエリート
パイロットがほとんどで、アメリカ政府肝いりのれっきとした
陸軍の正規部隊であり、そのことは今日、アメリカ政府が認めている。

「フライング・タイガース」は大戦を通じて、日本軍の航空機を296機
撃墜し、1000人以上のパイロットを戦死させたとされる。
(中国・蒋介石政権がアメリカに借金する形で資金を
負担、弱体の中国航空部隊を裏で支えた)。

この「フライング・タイガース」の歴史は、日本の真珠湾
攻撃以前に、中国・蒋介石政権の工作によって、
アメリカが対日戦争に踏み切っていた
ことを白日の下にさらす。

 

◆ここまで改めてまとめ直して見ると、米国が中国全土を含むアジアの制覇を目指し、その第1段階として日本の満州権益への介入を繰り返し試みた。その手段として重要視されたのが、満州諸鉄道中立化計画に代表される直接介入ではなく、

第1に中国の反日ナショナリズムを育成し、これを代理者として日本とぶつからせる、第2に明治以来の日英同盟の廃棄を始めとする日本の国際的地位を保障していた様々な基盤を堀り崩す外交戦略の展開という間接介入の方法であった。

米国がこの基本戦略をトータルな形で展開し始めたのは、実に第一次世界大戦からであった。

そういう意味では、昭和史を理解するには、大正年間の『ワシントン会議』前夜からの日米関係から始めなければならない。まさに昭和天皇の御指摘になられたように、大東亜戦争の遠因は、この時代における米国の露骨な対日圧迫政策とこれに対する日本側の不信にある。

 


昭和天皇

 

◆昭和史とは、この確立された米国の極東政策を中心に対立を深めた日米関係が破局に向かって驀進(ばくしん)していった歴史であったと言うことができよう。すなわち、満州を国防上の生命線と考えた日本は、それを守るためには武力発動をも辞さない覚悟を世界に示した。

ところが、米国は、日本を共産主義ソ連の南下からアジアを守る安定勢力としてではなく、アジアの侵略者と見る立場から中国側(蒋介石)への軍事援助と対日経済制裁という手段によって日本を屈服させようとしたのである。

日本さえ中国大陸から駆逐すれば、アジアに平和が回復し米国はその中で商業的利益を独占できると考えたからである。

 


(左)蒋介石 (右)ルーズベルト大統領

 

◆この日米の亀裂は、欧州大戦の勃発とともにさらにエスカレートして行く。

米国の識者の中には、日本の立場に理解を示し、このまま米国の政策を変更しなければついには日米戦争に至るとの警告を行った者もいたが、こうした声は米国外交には反映されることがなかった。中国側への軍事援助を増大させながら、一方では日本に対する経済制裁を次第に強化していったのである。

米国に代わる戦略物資の安定供給先を求める日本は、南部仏印に進駐し、一方米国はひそかに中国戦線への航空隊派遣に踏み切り、次いで石油の全面禁輸政策を発動したのである。

こうして日本を圧迫して戦争に引きずりだした米国は、日本駆逐という所期の目的を達成したのであった。

 

 


 

■■追加情報 2:中国戦線のアメリカ軍総司令官は語る「アメリカは敵を間違えた」


●アメリカの孤立主義の指導的代表者だったハミルトン・フィッシュ(元下院議員)は、著書『日米・開戦の悲劇 ─ 誰が第二次大戦を招いたのか』(PHP文庫)の中で、次のような日本を擁護する言葉を残している。

 


(左)ハミルトン・フィッシュ (右)彼の著書
『日米・開戦の悲劇』(PHP文庫)

… ハミルトン・フィッシュの略歴 …

ハーバード大学を卒業し、第一次世界大戦に
従軍の後、1919年、米国下院議員に選出され、
1945年まで12回にわたり選出される(共和党員)。
アメリカの孤立主義の指導的代表者であり、ルーズベルト
大統領の外交政策を鋭く批判した。1991年没。

 

「アメリカ国民の85%は、第二次世界大戦はもとより、いかなる外国における戦争に対しても米軍を派遣することに反対していたという現実にも関わらず、ルーズベルトは、欧州戦争の開始当初から、米国は同戦争に参戦すべきであると確信していた。この大戦は、結果として、30万人の死亡者と70万人の負傷者、そして5000億ドルの出費を米国にもたらしたのである。〈中略〉

日本はフィリピンおよびその他のいかなる米国の領土に対しても、野心を有していなかった。しかしながら、ひとつの国家として、日本はその工業、商業航行および海軍のための石油なしに存立できなかった。

非常な平和愛好家である首相の近衛公爵は、ワシントンかホノルルに来てもよいからルーズベルト大統領と会談したい、と繰り返し要望していた。彼は、戦争を避けるためには、米国側の条件に暫定協定の形で同意する意思があったが、ルーズベルトは、すでに対日戦および対独戦を行うことを決意していたというだけの理由で、日本首相との話し合いを拒否した。

駐日米国大使であったジョセフ・グルーは、日本がどれだけ米国と平和的関係を保ちたいと希望していたかを承知しており、かかる首脳会談の開催を強く要請した。しかしルーズベルトおよびその側近の介入主義者たちは、策謀とごまかしとトリックを用いて、全く不必要な戦争へ我々を巻き込んだのである。」

※ 念のために書いておくが、ハミルトン・フィッシュ自身は「孤立主義者」という言葉は、ルーズベルトがプロパガンダのために捏造した不正確な表現で、本当は自分は「不干渉主義者」だと言っている。



●ところで、第二次世界大戦の「中国戦線」のアメリカ軍総司令官で、蒋介石の軍事顧問を兼任したアルバート・ウェデマイヤー大将は、戦後に出した『回想録』の中で「アメリカは敵を間違えた」と述べている。

参考までに紹介しておきたい↓

 


(左)アルバート・ウェデマイヤー大将
(右)彼の回想録『第二次大戦に勝者なし』

ウェデマイヤー大将は大戦中、連合軍東南アジア副司令官、
中国戦線米軍総司令官兼蒋介石付参謀長を歴任。第二次大戦後期の
戦闘においてアメリカ陸軍と国民革命軍を指揮して日本軍と対峙したが、
終戦時に中国大陸に取り残された390万人の日本軍将兵と在留邦人の日本
本土への早期帰還に大いに尽力した(彼は本国政府を大変な思いで説得して
輸送船や物資をかき集め、日本に送り届けてくれたのである)。大戦後の
冷戦期では、ベルリン封鎖に対する空輸作戦の主要な支持者となり、
反共主義者の大物の1人としてもてはやされた。1951年に
退官し、1989年に92歳で亡くなった。

 

ルーズベルトは中立の公約に背き、日独伊同盟を逆手に取り、日本に無理難題を強要して追い詰め、真珠湾の米艦隊をオトリにしてアメリカを欧州戦争へ裏口から参加させた。〈中略〉

米英は戦閾には勝ったが、戦争目的において勝利者ではない。イギリスは広大な植民地を失って二流国に転落し、アメリカは莫大な戦死者を出しただけである。

真の勝利者はソ連であり、戦争の混乱を利用して領土を拡大し、東欧を中心に衛星共産主義国を量産した。

アメリカは敵を間違えたのだ

ドイツを倒したことで、ナチス・ドイツ以上に凶悪かつ好戦的なソ連の力を増大させ、その力はアメリカを苦しめている。また日本を倒したことで、中国全土を共産党の手に渡してしまった。やがて巨大な人口を抱える共産主義国家がアジアでもアメリカの新たな敵として立ちふさがるであろう。」

 

 

 


 

■■追加情報 3:アメリカも第二次世界大戦の敗戦国(勝者は毛沢東とスターリンだけ)


●『新・文化産業論』や『失敗の教訓』など数多くのベストセラーを世に出している日下公人氏(東京財団会長)は、日中戦争の実態について、著書『人間はなぜ戦争をするのか』(三笠書房)の中で次のように鋭く述べている。

参考までに紹介しておきたい↓

 


『人間はなぜ戦争をするのか』
日下公人著(三笠書房)

 

「日本と中国は1937年以降、戦火を交えていたが、大日本帝国も中華民国もお互いに『宣戦布告』をしていなかった。

なぜか?

あまり人の知らない事情を言うと、当時アメリカには『中立法』があって、交戦国に対する融資や武器輸出を禁じていた。交戦国の旅客船にアメリカ人が乗船することも禁じていた。第一次世界大戦の時、ドイツ潜水艦が撃沈したイギリス船ルシタニア号にアメリカ人の乗客が数百人いて、その被害が戦争参加原因になったという反省から議会が設けた“しばり”である。

したがって、日中両国はもしも宣戦布告をすると、アメリカから武器を輸入できなくなる。同様に、日中両国からの大量注文で大不況からの立ち直りを果たしつつあったアメリカの武器メーカーも困る。

実際、ボーイング、ロッキード、ダグラス、カーチスなどの航空機メーカーは日中戦争のおかげで倒産寸前を助かっている

だから、アメリカは支那事変を戦争とは認定せず、武器輸出を続けた。しかし、アメリカは戦後の東京裁判ではこれは『侵略戦争』だと日本の責任を追及した。アメリカは矛盾していると中村粲氏は『大東亜戦争への道』(展転社)に書いておられる。

そのようにアメリカは日本の軍備拡張を援助することで利益を上げながら、他方、日米交渉では日本が飲めないような強硬条件を突きつけて、日本が対米戦に立ち上がることを期待していた。そして1941年が暮れる頃、ついに12月8日がやってきて、日本はパールハーバーを急襲し、その日以降、アメリカは晴れて戦争ができるようになったのである。〈中略〉

ちなみに、イギリスのチャーチルは、日本がパールハーバーを攻撃したとの報を受けて大喜びした

これでアメリカはイギリスの側について戦ってくれることがハッキリしたから、この戦争は勝利でイギリスは救われたと思ったのである。その夜、チャーチルは感謝に満ちて眠ったという。」

 


(左)アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領
(右)イギリスのウィンストン・チャーチル首相

 

「ところで、1937年の時点で、世界で最もファシズム路線の国は中華民国である。蒋介石が一番ファシストだった。ヒトラーもムッソリーニも、その当時の蒋介石に比べれば、ファシストとしてはまだまだ可愛いものだった。

だから、アメリカの上下両院は、蒋介石を連合国陣営に加えることに大反対した。この戦争は軍国主義に対する戦いなのに、蒋介石はファシストではないか、というわけだ。

蒋介石はそれを知って、宋美齢夫人を派遣して、『日本のほうがもっと軍国主義である。弱い中華民国を助けてくれ、私の夫を助けてくれ』とPRした。

その費用は、アメリカからもらった対中国援助の中から払った。宋美齢はPRのためのパーティーで、参加者に中国の高価な書画骨董をはじめ、いろいろなものをプレゼントした。

彼女はアメリカの税金で、アメリカの国会議員を買収していた。日本にしてみれば、宋美齢一人にやられたようなものである。ロビーイングの元祖はマダム・チャンなのである。〈中略〉」

 


『タイム』の表紙を飾った蒋介石と宋美齢夫人

 

「……アメリカもまた、第二次世界大戦で国益を見失っていた。ドイツと日本に勝つことに執着したが、勝利の結果は、かえって大きな負担を背負いこむことになった。

アメリカは、日本を占領して初めて、日本が明治時代からしていたのは南下してくるソ連(ロシア)を食い止めることだったと知った。

日本は、中国大陸や朝鮮半島がロシア化または共産化することを懸命に防いでいた。そのおかげでフィリピンがアメリカのものになった。

その日本をアメリカは後方から攻撃したのだから、これほど愚かなことはない。


「戦争が終わり、アメリカは日本を武装解除して“平和第一主義”を教えたところ、日本人は大喜びして、日本は本来の平和愛好国になった。その結果、ソ連の南下を食い止めるのはアメリカの仕事になって、朝鮮戦争では日本の代わりにマッカーサーが38度線で戦って、200億ドルの戦費3万5000人の損害を出した。

さらにマッカーサーは38度線を確保するため、北上して平壌を陥とし、鴨緑江まで進出するが、これはかつて日本がしたことと同じである。アメリカは日本に対して、それを『大陸への侵略』だと言ったが、自分も同じことをするハメに陥った

アメリカが中国国境に迫るのを見た中国は、“抗美援朝、保家街国”(アメリカに対抗し、朝鮮を援助し、家や街や国を守る)のスローガンで18個師団を送り、米軍を押し戻してソウルを奪還した。そこで頭にきたマッカーサーは、『原子爆弾約20発、中国とソ連の都市に使いたい』と言ったら、トルーマンに解任されてしまった。

このように、昔は日本がやっていたことを、アメリカが引き継がなければならなくなったので、『ルーズベルトの戦争目的は、日本の代わりにソ連と戦争することだったのか』という批判が出てしまった。」


アメリカが日本と戦争したのは、実は中国貿易の利権を手に入れるためだった。

戦争が始まる前、中国にモノを売っている国は、イギリスと日本だった。そこへ参入したかった。当初は、門戸開放・機会均等のスローガンを主張していたが、やがてエスカレートして、日本は中国から手を引け、ということになった。

そこで日本を追いつめて全面戦争をしたが、この戦争目的は達成されなかった。戦争が終わって中国を手に入れたのは、アメリカが支援した蒋介石政権ではなく、ご存じのとおり毛沢東政権だから、アメリカは日本との第二次世界大戦ではくたびれもうけの惨敗である。

この意味ではイギリスも負けている。中華民国も同じで、第二次世界大戦で勝った国は、毛沢東の中国共産党スターリンのソ連だけだったと言える。」

 


※ 以上、日下公人著『人間はなぜ戦争をするのか』(三笠書房)より

 

 


 

■■追加情報 4:ホロコーストに匹敵するスターリンの「国家犯罪」


●ソ連のヨシフ・スターリン(グルジア人)は、一応、有能なユダヤ人を将兵として重用してはいたものの、他方では虐殺や粛清の手をゆるめようとはしなかった。ユダヤ人であろうと非ユダヤ人であろうと、スターリンにとって自分を否定するものは誰もが敵となった。

スターリンの粛清は1934年の党幹部の暗殺をきっかけに始まった。「狂犬は殺せ」のかけ声のもと党の幹部たちが次々に刑場へ消えていった。共に戦ってきた同志を次々に抹殺していった。

スターリンは自らの偉大さをアピールし、正当化することが仕事となった。モスクワはいたるところ、スターリンの肖像画、彫像で覆われていった。自分の前に神があってはならなかった。宗教儀式は禁止された。

 


ヨシフ・スターリン

 

粛清はクレムリンからロシア全土に広められ、ユダヤ人、外国人、知識人たちが次々と「敵」の烙印を押されていった。全土に200もの「強制収容所(ラーゲリ)」が作られ、無差別に大勢の人間が逮捕され、理由もなく処刑された。

助かったものには強制労動の生き地獄が待っていた。全土に監視と密告制度が、網の目のように張りめぐらされていった。知らないうちに人が消えていった。家庭の中でさえ密告が横行し、人々は疑心暗鬼になった。

 


雪原に残る「強制収容所(ラーゲリ)」跡

ロシア全土には200もの「強制収容所」が作られ、
無差別に大勢の人間が逮捕され、理由もなく処刑された。
スターリニズムによる死亡者数は1800万人ともいわれる。

 

●ポーランドで生活していたユダヤ人メナヘム・ベギン(後のイスラエル首相)は、1940年9月、リトアニアのビリニュースにいたところをソ連の秘密警察に逮捕され、ルキシキの牢獄から極北ペチョラの収容所へと辛苦の遍歴生活を送った。(1941年に独ソ開戦にともなって、その冬、ポーランド市民に特赦が発せられ、彼は釈放された)。

彼が書いた『白夜のユダヤ人 ─ イスラエル首相ベギンの手記』(新人物往来社)という本は、彼が「ラーゲリ」で体験したことを赤裸々につづった自伝的回想録である。興味のある方は一読を。

 


(左)第6代イスラエル首相メナヘム・ベギン
(右)彼の手記『白夜のユダヤ人』(新人物往来社)

 

●第二次世界大戦中、ソ連在住のユダヤ人のうちほとんどはシベリアに連行された。15%以下がドイツ軍の手に落ちた。赤軍中で、あるいは「強制収容所」で少なくとも100万ものユダヤ人が死亡した。

最近の研究によって、スターリンもまたヒトラーと同じように、ユダヤ人問題の「最終的解決」を図ろうとしていたことが明るみに出ている。つまり、スターリンはユダヤ人たちの集団流刑の計画を立てていたのである。ロシア文学の大家トルストイの子孫である歴史学者ニコライ・トルストイは、その著『スターリン』(読売新聞社)の中で次のように述べている。

「1953年には、各大学からユダヤ人の徹底的な追放が行われた。そしてとどのつまり、スターリンはユダヤ人問題の最終的解決を準備していたのであった。ロシアのユダヤ人は、すべて北カザフスタンの荒野に放逐されるはずであった。スターリンの死によって、初めてこのヒトラーばりの課題の完遂は妨げられたのである。」

 


(左)歴史学者のニコライ・トルストイ
(右)彼の著書『スターリン』(読売新聞社)

※ 彼は文豪レフ・トルストイを生んだロシア貴族の名門
トルストイ伯爵家の直系の子孫で、現在はロシアとイギリス
 の二重国籍を有し、英王室文学協会の会員として活動している。

 

●第二次世界大戦中、占領されたドイツや東欧諸国の捕虜や市民も、スパイ容疑で無差別に根こそぎ連れ去られた。ソ連軍に占領された地域は、ソ連兵によるレイプ・略奪の地獄絵図となった。

レイプはソ連軍が1944年に東プロシアとシレジアに入った時に始まった。多くの町や村では10歳から80歳までの全ての女性がレイプされた。女性はソ連兵に見つかり次第レイプされた。町のいたるところにレイプされ斬殺されたドイツ女性の死体がころがった。

進軍するソ連軍部隊は、強制収容所においても、ドイツ女性と同様、ものすごい数のロシア女性、ポーランド女性をレイプした。スターリンと彼の司令官たちは、レイプをドイツ女性ばかりか、同盟国のハンガリー、ルーマニア、クロアチアの女性に対しても許すか、正当化さえしたのだ。

 


(左)激戦の末、ベルリンの帝国議会のドームに翻ったソ連の国旗(1945年4月末)
(右)勝利を祝ってブランデンブルク門の前で踊りながら歓喜するソ連兵たち

 

ソ連軍がベルリンに突入して制圧した際、スターリンは兵士に対し「ベルリンはおまえたちのものだ」といい、3日間の“祭り”を許可した。ベルリンのドイツ女性のほとんどがソ連兵によってレイプされ、連合軍に届けられたものでも10万件を越えた。また暴行による自殺者は6000人を数えた。

レイプの規模は、1945~48年の間、毎年200万のドイツ女性が非合法に妊娠中絶した事実から暗示される。ドイツ全体で少なくとも200万のドイツ女性がソ連兵にレイプされた。ソ連軍の強姦率は80%だった。ソ連当局が病気のまん延を心配し、敵との親交に対し、東ドイツにいるソ連軍兵士に重罰を課すようになったのは、1946年から47年の冬になってからのことであったという。

 


『1945年・ベルリン解放の真実』
ヘルケ・ザンダー著(パンドラ)

ベルリン陥落の時、ソ連軍の兵士たちに200万人の
ドイツ女性がレイプされた。精神障害を負うことになった彼女らの
証言を集め、ジェンダーの視点から、彼女らの個人的記憶を世界中の
人たちの集団的記憶として共有することを試みた書物である。

 

1945年8月9日、スターリンは突如「日ソ不可侵条約」を破って日本に戦争を仕掛け、北方領土を奪い、満州に侵入した。

この満州でもソ連軍はレイプしまくった。

日本の連合軍への降伏により、日本軍は38度線を境に、南鮮はアメリカ軍、北鮮はソ連軍へ降伏するように指令された。南鮮の日本人は終戦の年の暮れまでにほとんどすべて引き揚げたが、北鮮では31万の日本人がそのまま残っていた。もともと北鮮に住んでいた27万と、満州から戦火をさけて逃げてきた4万人である。

北鮮にはいってきたソ連軍は、満州におけると同様、略奪、放火、殺人、暴行、レイプをほしいままにし、在留日本人は一瞬にして奈落の底に投じられることになった。

白昼、妻は夫の前で犯され、泣き叫ぶセーラー服の女学生はソ連軍のトラックで集団的に拉致された。反抗した者、暴行を阻止しようとした者は容赦なく射殺された。虐殺・餓死・凍死などで無念の死を遂げた民間人は20万人にも達した。

 


『ソ連が満洲に侵攻した夏』
半藤一利著(文藝春秋)

中立条約を平然と破るスターリン、
戦後体制を画策する米英。関東軍総司令部は
なすすべもなく退却し、混乱の中で女性や幼児を
含む大勢の民間人が見殺しにされた。このソ連の
侵入を重層的にとらえた迫真のドキュメント。

 

また、ソ連は60万人にものぼる日本人を捕虜にして連行し、極寒のシベリアで強制労働をさせ、7万人近くを死亡させた。

※ 最近の研究によれば、シベリア抑留者は100万人を超え、そのうち40万人が死亡したという。

 

 

●1997年11月6日、モスクワ放送は「10月革命の起きた1917年から旧ソ連時代の1987年の間に6200万人が殺害され、内4000万が強制収容所で死んだ。レーニンは、社会主義建設のため国内で400万の命を奪い、スターリンは1260万の命を奪った」と放送した。

旧ソ連のノーベル文学賞作家アレクサンドル・ソルジェニーツィンは、この膨大な「強制収容所(ラーゲリ)」の群れをいみじくも「収容所群島」と呼び、その恐るべき実態を明らかにしている。ソルジェニーツィンによれば、囚人の総数は1500万人に達する。もっとも4000~5000万という説もあるが、実数はもはや確かめようにない。規模の大きさからいって、ドイツのホロコーストに匹敵する「国家犯罪」であることは確かだ。

だがホロコーストへの糾弾に比べてスターリンの「強制収容所」の犯罪が追及されないのはなぜだろうか。理由ははっきりしている。アメリカの原爆投下の犯罪が糾弾されないのと同じで、ロシア(旧ソ連)は“戦勝国”だからである。

 


ヨシフ・スターリン

1945年8月9日、ソ連は当時まだ有効
だった「日ソ不可侵条約」を一方的に破って、
満州に侵攻した。そして侵攻した先々で、子供や
老人を含む、多くの日本の民間人を、無差別に殺戮した。

多くの日本人女性を、やって来たソ連軍の兵士たちは、
至るところでレイプした。反抗した者、暴行を阻止
しようとした者は容赦なく射殺された。

 

※ 終戦直後にスターリンは「日露戦争の復讐を果たした!」と言い放ち、盛大な祝賀会を開いたという。

 

 



■関連記事(リンク集)

日米開戦の真相 ─ 歴史学の権威であるチャールズ・ビアード博士は語る
「戦争責任を問われるべきは日本ではなく、ルーズベルト大統領だ」
http://www.kcn.ne.jp/~ca001/F15.htm

1941年・幻の東京空爆計画 ~日本を敗戦に導いた宋美齢の生涯~
http://www.tanken.com/birei.html

 



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ヘブライ大学のユダヤ人教授は語る「大戦中、日本は世界一の民主国だった」 

アメリカの原爆開発計画と「原爆ホロコースト」の実態 

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