No.a6fhc107

作成 1998.1

 
ベラスコの告白
 

~20世紀情報戦争の舞台裏~

 

── 高橋レポート ──

 

■Part-1


ヒトラーから厚い信頼を得ていたトップ・スパイのベラスコによると、ナチス製原爆の完成はアプヴェーア(ドイツ国防軍情報部)長官のヴィルヘルム・カナリスと、SS情報部長官のヴァルター・シェレンベルクから直接耳打ちされた情報だったという。

そしてベラスコによれば、これまで歴史家が伝えるロンメル将軍の自殺の原因は、ヒトラー暗殺未遂事件のかどでとされているが、実際は「ナチス製原爆横流し」の罪だったという。

ベラスコからの報告書「原爆ノート」によれば、ベルギーに保管中の原爆の管理責任者はロンメル将軍で、彼が連合軍最高司令長官のアイゼンハワー将軍に原爆を渡した、とある。その裏切り行為が発覚してロンメル将軍は処罰されたという。

 


(左)“砂漠の狐”の異名をとるエルヴィン・ロンメル将軍
(右)ドワイト・アイゼンハワー将軍(後の第34代アメリカ大統領)

 

ベラスコが語る「ナチス製原爆」の真相を大雑把にまとめると、次のようになる。

 

──────────────────────────────

 

1938年12月、ナチス・ドイツの「カイザー・ウィルヘルム研究所」の科学者オットー・ハーンとシュラウスマンは、世界に先駆けて「原子核分裂」を発見した。1940年3月には、世界最初の「実験原子炉」がベルリン・ダーレムに設置された。

このように、ナチスの原子核研究はアメリカを遥かにしのいでいた。

 


ドイツ人科学者オットー・ハーン

※ 1938年に「原子核分裂」を発見し、
1944年にノーベル化学賞を受賞

 

1940年6月、ドイツ軍のパリ入城。この時にジョリオ・キューリー博士の「原子核研究装置」を没収し、ドイツによる原爆の完成は不動のものとなった。さらにドイツ軍は、ベルギー・オランダ・ルクセンブルグを攻撃し、地球上のウラン産出地域を占領したので、ウラン資源がアメリカ側に渡ることもなく原爆の製造条件は、全てドイツの手に独占されたのである。

ナチス製原爆のエレメント、すなわち爆弾の個々の部分と素材は、チェコのボヘミア地方の原生林に移送されて組み立てられ、1942年4月21日に段階的実験を大成功させた。この実験グループの統括責任者はハベルムール氏で、彼は当時最も革新的な兵器の開発研究者らで構成されたグループの統括責任者だった。

バルト海沿岸の「ペーネミュンデ基地」でナチス製原爆は最終的完成にいたり、その後ベルギーのリハエ郊外にある基地に移送保管された。「ゾンデルブーロー第13号」と称される極秘の爆撃機でロンドン、リバプールの上空で投下する予定だったが至らなかった。未投下の理由は、ヒトラーが「死体はもうご免だ」と言って、中止を命じたためだった。

 


アドルフ・ヒトラー

※ ヒトラーは核物理学を「ユダヤ的物理学」
であるとして忌み嫌っていたという

 

ナチス製原爆は、ドイツの英雄ロンメル将軍麾下のシュパイデル参謀長が管理した。

アフリカ戦線から撤退したロンメル将軍は反ヒトラーグループ「黒いオーケストラ」と内通し、ベルギーに根を張る国際金融資本のコネクションを通じて、ナチス製原爆を1944年半ばにアメリカのアイゼンハワー連合軍最高司令長官に引き渡した。ロンメル将軍は原爆の持つ政治的価値を全く理解していなかった。

 


ヘニング・フォン・トレスコウ少将

※ 彼は極秘裏にヒトラーを排除して連合軍との
講和を画策していたドイツ国防軍の反ナチス将校グループ
「黒いオーケストラ」の主要メンバーであった。1944年7月の
ヒトラー暗殺計画が失敗に終わると、次の日に彼は前線に出て手榴弾を
爆発させ自決した。当初は暗殺未遂事件への関与が知られていなかったため、
戦死者扱いで軍人墓地に埋葬されたが、事件への加担が明らかになると墓が
掘り起こされ、遺体はザクセンハウゼン強制収容所で焼却処分された。

 

シェレンベルク指揮下のV1−C−13のエージェントが、このロンメル将軍の裏切り行為をキャッチし、その事実はヒトラーに伝えられ、ロンメル将軍を処置するようヒトラーから命令が下った。ロンメル将軍はゲシュタポに検挙され、ヒトラー暗殺未遂犯らと一緒に適正処分された。

しかし時はすでに遅く、原爆横流しの対応策は得られなかった。ベラスコはアメリカの原爆の完成日と日本投下日までの微妙なズレなど、様々な状況証拠をもとに、ナチス製原爆はその後、日本投下に使用されたと断定する。

戦後、ナチス製原爆のいきさつを知る何人かのドイツ人が完成までの責任者の証言や、ベルギー移送後の極秘の事実を記録すべく調査に着手したものの、CIAはそれらを迅速な方法で妨害し、秘密は消滅したと見られている。不幸なことに、統括責任者ハベルムール氏はソ連軍によってブレスラウのミテ工場に留置されたのち、モスクワに移送され消息不明になっている。

 

 


 

■Part-2


以上がベラスコが語る「ナチス製原爆」の真相の全体像である。

ベラスコは、ナチス製原爆完成を信じ切っており、その原爆を日本に投下したアメリカを頭から疑ってかかっていた。

ベラスコは言った。
「広島に投下された爆弾が、即、ナチス製の完成品そのものとは思えない。多分そのナチス製の原爆にアメリカ国内でさらに工夫をこらして仕上げ、そして広島に投下したのだと思う」


私(高橋)は質問した。
「ナチス製の原爆は間違いなくアメリカに渡ったと断言できるのですね?」

ベラスコは答えた。
「まったく事実だ。しかしアメリカ側はこの事実を無視または否定するだろう。ナチス製の原爆がアメリカ国内に運びこまれるまでに、アメリカ国内で原爆は完成していなかったのだ。多分、この事実を知ったら日本人は、相当驚くだろう。しかもこの事実はビッグニュースになるだろう。それにこの事実が世界に知られたら、アメリカが作ってきた神話が崩壊するだろう」


ベラスコによれば、原爆投下は、戦後世界の覇権根拠に決定的役割を見据えての決定だったというが、それはさておき、なぜ他国の製品(ドイツ製)をわざわざ使用したのか。ドイツ爆弾の完成根拠、アメリカの転用投下の理由をめぐって、ベラスコとの論争は堂々めぐりになっていった。

そして袋小路に入ってしまったのであった。

※ ベラスコと初対面の時から数えて約2年目まで、毎月1回程度、彼と会い続けた。1回あたりが15分間以内の場合もあれば、延々3時間にも及ぶ時もあった。

 


ユダヤ系スペイン人(スファラディム)の
アンヘル・アルカサール・デ・ベラスコ

 

「もういいわかったよ。原爆の話はもうやめだ!」

ベラスコは私に打ち止めを宣言したことがあった。やめるわけにはいかない、と私は突っ掛かっていったものだった。正直のところ実は私は半分ほど、彼の肩を持ちたかった。だが具体的な裏付けと整合性がほしかった。

「誰かあなた以外にこの『ナチス製原爆説』を証明する人物はいないのですか? 資料・記録・メモ何でもいい。広島原爆がナチス製だったと証明できる手掛かりはないのですか?」

「一体、何回問えば気が済むのだ? すべてノーなのだ」

ついに彼は爆発した。

「お前は私のつぶやきまで疑うのか? 私には私の発言のための保証人など不要なのだ!」

「ではあなたは私がアメリカをすんなりと疑う人間にしたいのですか?」

「それはお前の勝手だろう。私は世界連邦主義者だ。どこの国に対しても愛するし、疑いもするのだ。文句はあるまい」

彼は顔を紅潮させ私をにらみつけた。

この時なぜか私はいつにも増して彼が好きになった。私の疑問は私が解く努力をすれば良いのだ。「原爆」はベラスコと私の関係を深める媒介になった。

 


 

■Part-3


興味深いことに、大戦終了後に設立されたNATO(北大西洋条約機講)の初代事務総長は、なんと敗戦国ドイツの西部方面司令官ロンメル将軍の参謀長ハンス・シュパイデルである。

ナチスの原爆の管理担当者が、戦争終了直後に、それまでの敵軍つまり連合軍側の形を変えた総合責任者になれたのは何故だろう。シュパイデルは連合軍にどんな貢献をしたのだろうか。

 


ロンメル将軍の参謀長だった
ハンス・シュパイデル

 

シュパイデルはナチス製原爆をどうやってアイゼンハワーに渡したのだろうか。ベラスコの「ノート」にはなかった別情報によれば、ナチス製原爆はイスラエル独立運動家(シオニスト指導者)が仲介して英国へ持ち出した可能性があるという。そしてこのイスラエル独立運動家を支援したのが、英国特殊部隊(SOE)だったという。

大戦中に民間人と軍人が共同で作戦を実行した例は山ほどある。例えば、1944年のノルウェー人の抵抗運動家らと共同で作戦を成功させた。この話はドイツが原爆開発の夢を断たれた作戦として、戦後、本や映画でよく知られている。

ナチス製原爆の英国への極秘搬入作戦が事実とすれば、チャーチルをして神に祈らせた事だろう。というのは、チャーチルはヒトラーを最初、「ヨーロッパのジョージ・ワシントン」と呼んで絶賛した男だった。なのに、ニューヨークで自動車事故にあってからは、回れ右をしてヒトラー罵倒を始めた、つまり「賢くなった」男でもある。

 


イギリスのウィンストン・チャーチル首相

 

従って、戦争終結間際にヒトラーの原爆を極秘に運び出す為に、イスラエル独立運動家に自国の特殊部隊員を協力させる動機は充分にあった。つまり、シュパイデルとアイゼンハワーの間にはプロとアマの「仲介人」がいたとしても不思議ではない。

 


 

■Part-4


ヒトラーは原爆を持っていた──ベラスコのこんな突飛な発言を裏付ける人物と出会った。

その中国人亡命者とマドリードで会ったのは、ベラスコの発言から7年も後の1991年の事だった。

汪(仮名)と名乗るその人物は、脳溢血で倒れて麻痺した半身をいたわりながら、身寄りもなく1人で暮らしていた。アパートを訪ねてドアの呼び鈴を鳴らすと、がっしりして精悍な目付きの女性が現れた。歩行が難しいので代わって彼女にドアを開けてもらった、と汪は詫びながら、自分は元北京政府の駐ベルリン代表だと自己紹介した。

汪の舌は相当に麻痺しており、言葉が聞き取りにくかった。それを察したのか、汪はフランス語で話してもよいと気を配った。中国人特有の甲高い声質だった。汪は玄関に出た女性は、通いのメイドだと紹介した。汪は、不自由な身体を杖で支えながら、別室からアルバムを抱えてきて、自分の過去を見せてくれた。幼少期から第二次世界大戦中までの写真が混じっていた。

一族は親日家だったが故に、毛沢東の共産軍に全員処刑されたと言った。

汪は父親が北京政府の重要な人物で、自分は少年時代からフランスに疎開させられ、そこで教育を受けて終戦まで殆ど欧州に住み続け、欧州に居たために、こうして生き延びた。

終戦まで北京政府の駐ベルリン総領事を勤めたと言った。

ベルリン駐在日本大使の大島浩とも駐スペイン須磨公使とも親しくしていたと言いながら、汪はアルバムの中の2人の写真を探し始めた。兄は駐スペイン大使のまま終戦を迎えたが、マドリッドの路上でフィリピン人青年に殺害された。それで最後の身内を失ったのだ、と言った。

その用談が終わってから、ふとナチス製原爆を思い出して、汪に問いかけてみた。

すると汪はあっさりとナチス製原爆の存在を肯定した。

ベルリン陥落直前にヒトラーがナチス製原爆を所持していたという噂があるが?
「スィー、スィー」 汪は表情も変えずに質問を認めた。

ならば、その原爆をドイツはなぜ使わなかったのだろうか。
「当時のベルリンの空気は暗黒で、誰もが浮き足立っていて、それどころではなかったのだろう」と言った。

それは、ヒトラーが原爆使用を云々する状態ではなかったという意味か。
「その通りだと思う」、と汪。

では、あなたは誰からナチス製原爆の存在を聞いたのか。
「ベルリンの枢軸国外交官なら誰でも知っていたのではなかろうか」
汪は当然のように、そう答えた。

 


 


 

■Part-5


我々は一口に原爆というが、広島と長崎では別タイプ(威力も含めて)のものであることを忘れがちになる。広島に投下された原爆はウラン型だった。次の長崎は性格の違うプルトニウム型で、しかもこのプルトニウム型原爆は、長崎の次の目標地にも準備された型であった。

広島投下1ヶ月前の1945年7月16日、アメリカは、ニューメキシコ州アラモゴードで初の原爆実験に成功する。この時の原爆もプルトニウム型であった。ここで重要なことは、ウラン型原爆は現在でも開発されていないということである。つまり広島に投下された原爆(ウラン型)は実験済みの原爆ではなくて、人類に対する最初にして最後の原爆だったのだ。

 


(左)ウラン型原爆「リトル・ボーイ」(右)プルトニウム型原爆「ファット・マン」

 

なにゆえに、日本に2つのタイプの原爆が投下されたのだろうか。

今でもアメリカの原爆の開発計画と日本への投下計画は最高機密であるが、ベラスコの証言の信憑性が高いことは、次の一端だけでも理解できよう。

広島に投下されたウラン型原爆は、テスト実験もなく、いきなり本番の兵器として使用され、現在まで幾多の核実験を含めて一度も使用されていない。長崎に投下されたプルトニウム型原爆は科学者主導で研究開発され、記者や科学者を爆撃機に搭乗させて大々的にアピールされた。しかし広島行きのエノラ・ゲイ号の「リトル・ボーイ」は一部軍人以外、科学者の目には触れさせないようにして投下されたのだ。

 


広島に原爆を投下したB29「エノラ・ゲイ号」

 

当時、ローレンスという名の記者がいたが、この男は世界でただ1人、アメリカ政府によって原爆計画の取材を許可されたジャーナリストであった。しかし、ローレンス記者はエノラ・ゲイ号に世界初の目撃者として搭乗させてもらえなかったばかりか、搭乗員との接触、そして原爆の搭載にも立ち合わせてもらえなかった。しかし2番機の長崎爆撃の際には、ローレンス記者は搭乗し、しかも出発前の原爆搭載風景、パイロットの心境その他、多くの場面を目撃させられている。それはなぜなのか。なぜ1番機のエノラ・ゲイ号には一切触れさせてもらえなかったのか。20億ドルの巨費を使ったプロジェクトにたった一人の目撃者作りという、慎重な検討を感じさせる当局側の意図によって前線記者として狩り出された意味は一体何なのか。彼は何に対して目をふさがれたのか。

また、1978年に「オークリッジ国立研究所」が放射能の影響を調査するため、国防総省核防衛局に広島型(ウラン型)の核実験を要請するも「広島型原爆は1個も存在しない。作るのは危険であり同じものはない」との返答だった。ところが、1981年5月になってHNK取材班がロスアラモス研究所付近の倉庫に3個の「リトル・ボーイ」(ウラン235型)が保管されていることを発見したのである。この事実を知る者はアメリカ原子力機密法に触れるため、誰にも喋れなかったというが「ない」はずのウラン235型が「あった」のだ。その理由について正式な回答は今もってない。

これらの謎は、「リトル・ボーイ」がナチス製原爆だったとすれば全て納得できることである。

 


「リトル・ボーイ」の搬送経路

 


 

■Part-6


原爆に関して、さらにもう1つ大きな謎が残されている。

1943年5月5日、原爆投下目標地点を決定するアメリカ政府の暫定委員会は、自国の原爆がまだ未完成でしかもヒトラー・ドイツと戦っているにもかかわらず、なぜか早々と最初の原爆投下目標地点を決定した。戦後になってその投下目標地点名を記入した議事録が、「アメリカ国立公文書館」で戦史公開資料として一般公開された。

それによると、最初の原爆投下目標地点は太平洋のトラック諸島、つまり「日本軍」と記されていた。奇妙な決定だ。この決定に、当時の原爆開発者から怒りの声が上がるという経緯があった。なぜ日本軍に対して原爆を使うのか?というわけだ。

ドイツから命がけでアメリカに駆けつけて原爆開発に粉骨砕身したのは、ヒトラーのナチズムをつぶして、一日も早く祖国欧州の危機を救うためだった。なのにこの決定はなにごとか。原爆開発に専念してきた物理学者らは政府に断固抗議した。だが政府は、抗議を無視した。

 

 

戦後、アメリカ政府はこの「投下目標地点決定議事録」を一般公開した。戦史研究家らはその公開資料から、原爆の最初の投下目標先をトラック諸島の「日本軍」に設定していた事実と原爆開発者たちの非難事実をあわせて知った。

奇妙な出来事はさらに続く。なんとアメリカ政府は、いったん公開したその資料を回収、再び非公開にしてしまったのだ。むろん現在もその状態が続いている。これはどうしたわけか?

「回収は当然だ」ベラスコの感想はただそれだけだった。

そして別の日、ベラスコは次のように語った。

「ほぼ完成したナチス製の原爆を広島に投下させたニューヨークの商人連中は、戦後、ソビエト・ロシアにも原子力発電所を売りさばいた。その裏取引の実態は、はしなくもチェルノブイリ原発事故で明らかになった。事故が発生するや、ソビエトの専門家より先にアメリカの原発専門家が現地に到着して、ソ連の原発行政の裏をのぞかせてしまったのである」

 


      

 


 

■Part-7


ベラスコによれば、「原爆投下」の謎解きのカギは第一次世界大戦あたりまで戻って考える必要があるという。また彼によれば、「原爆投下」は、戦後世界の覇権根拠に決定的役割を見据えての決定だったという。

ベラスコは言う。
「アメリカ側に原爆が渡ったために、イギリスはアメリカに依存せざるを得なくなったのだ。アメリカにとっては商売になったが、イギリスは商売にならなかった。この第二次世界大戦での真の意味の敗戦国はイギリスだろう。大帝国を失ったではないか!」

 

 

私はベラスコに質問した。
「あなたはナチス・ドイツの反ヒトラーの動きの中で、反ヒトラーの人々との接触もあったのですか?」

「いや、接触はなかった。最初、そんな反ヒトラーの動きを知らなかった。もしも知っていたら、抵抗して動きを抑えにかかったと思う。しかし軍部内での反ヒトラー気運は1941年の末には始まっていた。

それはソ連をドイツ軍が攻撃した時点では既に勝ち越せるほどの軍事力をドイツ軍が備えてはいないのに、対ソ連攻撃をしてしまったという見当違いへの批判が背景になって、反ヒトラーの流れになっていたと思う」

 

ソ連西部の都市「スターリングラード」の戦いで、ソ連軍はドイツ軍に
決定的な打撃を与え、以後の戦局に大きな影響を及ぼした。
 (この戦いは第二次世界大戦の決定的な転機となった)。

9万1000人のドイツ軍捕虜のうち、戦後シベリアの
収容所から生きてドイツに帰った者は、
わずか6000人だった…。

 

ベラスコは話を続けた。

「実は、ナチ(NAZI)という語は、ヘブライ語ユダヤ人らの言葉であり、ドイツ語ではないのだ。民族主義の気運をドイツ国内に作り出したのはユダヤ人らであった。現在私と共同執筆中のロマノネス・コンデ伯爵夫人(本名ラテボーロ妃)は、イギリス側とコンタクトのあったアメリカのスパイだったが、彼女は2つの情報機関に属していた。その1つはドイツの国防軍情報部に。他の1つは日本の憲兵隊にであった。当時私は実際に東京宛に反ヒトラー、反ナチズムの動きを知らせておいた」

「結局、その反ナチズム反ヒトラーの気運が連合国側に原爆を渡す理由になったと解釈すべきなのですか?」

「その通りだ」


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※ おまけ情報 :

「ナチ党」の正式名称は「国家社会主義ドイツ労働者党 (NSDAP)」である。

一般に「ナチ (NAZI)」という呼称は、当時の政敵、後には連合軍が使った蔑称であると説明されている。

しかし別の裏情報によると、「ナチ (NAZI)」の本当の意味(正式名称)は、
「国際シオニスト連盟 (National Association of Zionist International)」だという。
「Zionist(シオニスト)」とは、イスラエル回帰を求めるユダヤ人の原理主義者の集まりである。

なお、ナチスとシオニストの協力関係(裏取引)については、
当館は昔から独自に研究を進めている。興味のある方は
下のリンク先を参照して下さい↓

 


(左)反シオニズムの著名な歴史研究家である
レニ・ブレンナー(ニューヨーク生まれのユダヤ人)
(右)彼の著書『Zionism in the Age of the Dictators』

※「ナチスとシオニストの協力関係」を暴き出した本書は
 現在、法政大学出版局から日本語版が出版されている

 


 

■Part-8


ベラスコは語る、「日本はアメリカに完勝していた」と。

ベラスコによれば、太平洋戦争は日本海軍の大勝利のはずだったという。

日本海軍がアメリカ海軍を徹底壊滅させて戦勝国になる機会が少なくとも4回あったという。広い太平洋海戦の勝利は間違いなかったと断言する。たとえ情報が敵側から完璧にキャッチされていたにせよ、物量、装備、士気などが英米海軍以上に優れていた初期の日本海軍機動部隊は、普通の参謀が指揮しても開戦初期から一挙に敵をつぶせたというのだ。

その理由の1つは、「TO諜報機関」(ベラスコが創設した対英米スパイ機関)の情報が連合軍側の情報機関と同質の軍事情報を日本政府に届けていたからだという。

だが、日本は、日本民族固有の思考と価値観でTO情報を分析解釈してしまったとベラスコは悔しがる。つまり戦争準備も整わないのに戦争を開始した発想もその一例だが、そうであったとしても、日本海軍は初期の作戦で一気にアメリカ軍をつぶせたと繰り返し断定していたのである。

では、ベラスコのいう日本海軍4回勝利説の戦場はどこか?

彼は語る。

「ミッドウェー、ガダルカナルは完全勝利の場だった。『TO諜報機関』は事前にその戦場と戦闘規模を日本政府に打電した。たとえ、その暗号電文が解読(盗聴)されていたとしても、文面の裏を読み取れば敵の作戦目的がつかめる情報に整理して日本側に渡した」

また大戦中、熱心に原爆情報の収集に取り組んでいたベラスコは、「巨大な絶滅兵器をアメリカ軍が日本に落とそうとしている」と暗号無線で日本に知らせたが、精神主義官僚主義でコリ固まっていた日本の政・軍の上層部はそれを無視し続けたという。

 


連合艦隊司令長官
山本五十六大将

 

ところで、ベラスコにとって、山本五十六海軍大将は尊敬に値する人物だったが、「謎」の多い人物でもあったようだ。

一部の研究家の間では、山本五十六は開戦前はかなりの親米家で、アメリカに通じる「国際組織(メイソン系)」に所属していたという説が唱えられているが、ベラスコはどう考えているのだろうか。

ホテルのベッドの上に両足を投げ出したベラスコの足先をもみほぐしながらたずねてみた。

「おそらく……」

そう肯定しかけて、ベラスコは目と口を閉じてしまった。

 


 

■Part-9



『広島原爆はナチス製だった』
高橋五郎著(スコラ)1986年出版

 

日本に落とされた2つの原爆は、それぞれ、扱われ方に明確な違いがあった。

広島型の投下は完全に軍人主導の作戦であったが、長崎型は科学者主導であった。広島に、たった一回きりしか使わない爆弾をなぜ最初に使ったのか?

この疑問こそ、私(高橋)が上の本を書く動機の大きな要素であった。テストなしのぶっつけ本番の投下が何を意味したのか、その答えこそ、私が400余枚を費やしてきたその意味の中にある。

「広島に投下された爆弾がなぜウラン型だったのか」ではなくて「ウラン型爆弾がなぜ広島に投下されたのか」なのである。この答えはこの本の中で明らかにしているつもりであるが、それを実証すべきものはベラスコ証言と私の推理以外には、いま世界の何処にもない。

 


 

── 追加情報 ──


↓新しい情報が入ったので追加しておきます



2005年3月16日『東京新聞』


── この記事の内容 ──

 

「ナチスが核実験」

 

独歴史家が新説


【ベルリン=熊倉逸男】ナチス・ドイツが核兵器開発を実用化直前まで進め、核実験も実施していた──との新説を紹介した本『ヒトラーの爆弾』が2005年3月14日、ドイツで出版され、信憑性をめぐり論議を呼んでいる。

著者のベルリン・フンボルト大学講師の歴史家ライナー・カールシュ氏によると、ナチスは1944年から45年にかけてベルリン近郊に原子炉を設置し、濃縮ウランを使った小型核兵器を開発。1945年3月3日、ドイツ東部テューリンゲンで核実験を行った。被害は半径約500mにわたり、近くの強制収容所の収容者ら約500人が犠牲になった。

開発は、ヒトラーらナチス指導層も承知していたという。新たに発見された旧ソ連軍の史料や証言記録、実験場所とされる土壌から放射能が検出されたことなどを「核実験説」の根拠としている。

ドイツでは1930年代から核開発が進められたが、ナチスは兵器化に熱心ではなく、ナチスの核兵器保有を懸念した科学者らの訴えを聞いた米国が先んじて、原爆を開発した──というのがこれまでの定説だった。独メディアは新史料発見を評価する一方、「核実験説」の説得力不足を指摘している。

 


ナチスの原爆開発についての本を書いた
ベルリン・フンボルト大学講師の
歴史家ライナー・カールシュ

 

 



── 当館作成の関連ファイル ──

「ナチス製原爆」の謎 

 


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第7章

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