No.a6fhc111

作成 2002.3

 

「ナチス製原爆」の謎

 

 

ベラスコ(高橋レポート)が指摘するように、広島原爆はナチス製だったのだろうか?

当館は、「ナチスの原爆開発」の実態を解明するため、とりあえず、このファイルを作ってみた。

新しい情報が入り次第、このファイルに追加していきたい。

 

 


 


「ナチスの原爆開発」の実態

 


ナチスの軍需大臣アルベルト・シュペーアは1942年、オットー・ハーンヴェルナー・ハイゼンベルクという原爆開発の基礎理論を作った二大ノーベル賞物理学者に、「原爆」開発の質問をした。

すると、「生産技術的には、遅くとも2年後には製造可能だろう」という返事を得たという。

 

 
(左)ドイツ人科学者オットー・ハーン。1938年に
「原子核分裂」を発見。1944年にノーベル化学賞を受賞。
(右)ドイツの理論物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルク。
1932年にノーベル物理学賞を受賞。大戦中は
ドイツの原爆開発に関わったとされる。

 

●が、シュペーアがそれをヒトラーに報告すると、彼は「それは、既に別の研究機関にまかせてある」と答えたきり、二度とふれようとはしなかったという。

「2200種類にものぼるヒトラーとの会談のテーマのうち、たった1回だけ『核分裂』が話題にのぼっただけだった」と、シュペーアは書き残している。

ヒトラーは原子爆弾の構造に全く関心がなかったという。

 

 
アルベルト・シュペーア

建築家出身で、建築好きのヒトラーに
気に入られ、1942年2月に軍需大臣に任命された。
合理的管理組織改革によって生産性を大幅に向上させ、
敗戦の前年の1944年には空襲下にも関わらず
最大の兵器生産を達成した。

 

●1939年12月に同盟国日本からドイツに留学し、第三帝国が崩壊するまでをつぶさに実見した哲学者、篠原正瑛氏(彼は当時、ギムナジウムで少年たちに日本語を教えていた)は、『ドイツにヒトラーがいたとき』(誠文堂新光社)の中で、次のように書いている。

「戦後の見方では、『ドイツは原爆の研究を進めてはいたが、技術的にはまだ完成の段階には達していなかった』という意見が大勢を占めているようだ。

しかし、私自身は、あの当時ベルリンで耳にした噂や情報などを総合的に考えてみると、どうもドイツは原爆完成の直前にあったのではなかろうか、という気がする。」



●では、なぜヒトラーは「原爆」に積極的な関心を示さなかったのか?

シュペーアはその手記『ナチス狂気の内幕』に、彼が軍需大臣になってから、ヒトラーが新兵器の開発や量産を故意に遅らせ、無意味な失敗を繰り返させた、と何度となく書いている。純粋に第三帝国の勝利のために全力を注いでいたシュペーアにとって、ヒトラーの態度は全く理解できないものだったという。

また、ヒトラーが「核物理学」を「ユダヤ的物理学」であるとして忌み嫌うようになったのは、

ヒトラー崇拝者の一人である物理学者フィリップ・レナード博士が、「ユダヤ人は核物理学と相対性理論で破壊的な影響力を持っている」と、ヒトラーに教え込んだせいだという。

 


アドルフ・ヒトラー

 

●ところで、軍事兵器に関する本を多く書いている小橋良夫氏は、著書『第二次大戦 殺人兵器』(銀河出版)の中で、ナチスの原爆開発に関して次のように書いている。

参考までに紹介しておきたい。

 


『第二次大戦 殺人兵器』
小橋良夫著(銀河出版)

 

ドイツが原子爆弾の研究を英米より2年も早く着手し、しかも相当進んでいることは英米側ではっきり確認されていた。

さしあたりドイツが占領していたノルウェーの重水工場の機能を奪って、貴重な重水を使わせないようにすることがイギリス戦時内閣の最大の課題であった。ノルウェーに潜入させていたスパイからの報告によると、重水の生産は急速に増加し、毎月ドイツに向かって輸送中だという。もう一刻も猶予はできなかった。

1942年10月、イギリスは2機の爆撃機と奇襲空挺隊をのせたグライダーをノルウェーに向けたが、不幸にして2機とも墜落し、全員が死亡してしまった。さらに悪いことには指揮官の死体から重水工場のあるヴェルモク町に赤い線を書き入れた地図が発見されてしまった。

時を移さず、ナチス親衛隊は付近の親英分子を片っ端から捕縛して、防備体制を固めてしまった。

その後、スイスの情報機関を通じて入手した情報では、すでにドイツの研究は核連鎖反応の段階に達していることがわかった。もう猶予は許されなかった。

〈中略〉

1943年末、アメリカの第8空軍の爆撃隊は、自慢のレーダー照準装置にものをいわせて夜間空襲を敢行し、この工場の発電所と電解工場を破壊してしまった。その後も執拗に破壊工作は続き、ドイツ側がノルウェーの重水設備と貯蔵品の全部をドイツの奥地の地下に移動することを決定したことを地下組織によって知ると、徹底的に移動の情報を探った。

1944年2月、秘密裏に貯蔵重水を積み込んだ貨車がハンブルクまで来て、テインショ湖を横断する連絡船に積まれたところを、連合軍のスパイが爆破。貴重な重水3500ガロンは湖底に沈んでしまった。 〈中略〉

この間に連合国側原爆の研究を進め、翌年8月6日、人類最初の核爆弾の攻撃が広島に向けられたのである。

 


↑ナチスが計画した原子炉 

核分裂は1938年12月、ナチス政権下のドイツ
「カイザー・ヴィルヘルム研究所」において発見された。

その衝撃的なニュースは、翌年1月に学会参加のため
渡米したデンマークの原子物理学者ニールス・ボーアによって
アメリカの関係者に伝えられた。その伝聞は直ちにアメリカ国中に
広まり、各地の大学で「核分裂」に関する研究が一斉に開始された。

一方、ナチス・ドイツは1939年4月末に「核分裂」の研究を本格化
させた。「カイザー・ヴィルヘルム研究所」に大型の原子炉が
造られて、原子力の可能性が探られるようになった。

 

●ちなみに、ドイツの著名な歴史研究家であるセバスチャン・ハフナー(ユダヤ人)は、著書『ヒトラー注釈』の中で次のように述べている。

ヒトラーの反ユダヤ主義によって、ドイツの科学がこうむった頭脳の流失は相当のものだった。

アインシュタインを初めとしてユダヤ人の科学者が亡命しただけではなく、ユダヤ人でない著名な科学者もユダヤ人の同僚や教師のあとを追った。そしてそれまで群をなしてドイツ参りをしていた外国の科学者も来なくなった。

ヒトラー以前には核物理学の研究では世界の中心はゲッティンゲンだった。それが1933年にアメリカに移った。

ヒトラーの反ユダヤ主義がなかったら、アメリカではなく、ドイツが最初に原子爆弾を開発する国になったかもしれないというのはなかなか興味をそそる推測である。」

 

 
(左)ユダヤ人ジャーナリストであるセバスチャン・ハフナー。
(右)彼の著書『ヒトラー注釈』。この本以外にも、
彼は数多くの歴史書を書いている。

 

●結局のところ、ナチスの原爆開発がどの程度まで進んでいたか不明である。

しかし、戦後、連合国側が捕らえた科学者たちの証言では、「最も難解な過程」は乗り越えていたらしい。

イギリス情報局もこの証言を裏付けるような情報を得ていたという。


●例えば、次のような情報がある。

「『カイザー・ヴィルヘルム研究所』で原爆リサーチを行っていたナチスの科学者たちは、戦後イギリスへ連れて行かれ、『ファーム・ホール刑務所』へ一時的に拘留された。

その時、イギリス情報局は当然これら科学者の監房に盗聴器を仕掛けておいた。

1945年8月6日に広島に原爆が落とされた時、そのニュースはラジオを通じてこれら科学者たちにも知らされた。

彼らの反応が興味深かった。

盗聴されているとは知らずに彼らは広島に落とされた原爆についていろいろな反応を示したが、ひとつだけ一致した反応があった。それは『なぜドイツが作った原爆が友好国日本に落とされたのか』という驚きの反応だった。

これによってイギリス側はドイツの原爆開発がいかに進んでいたかをつかんだのである」

 


広島に投下されたウラン型原爆 「リトル・ボーイ」


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



『広島原爆はナチス製だった』
高橋五郎著(講談社・1986年出版)

 

 


 

■■追加情報: 「リトル・ボーイ」の謎


『ウィキペディア(Wikipedia)』に、「リトル・ボーイ」について
興味深いことが書かれている。参考までに紹介しておきたい。

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リトル・ボーイ

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

 


リトル・ボーイ


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


■概要

全長3.12m、最大直径0.75m、総重量約5t。番号はMk.1。ウラン235を用いており、二分されたパイプの両端に置かれたウラン235の塊の一方を火薬の爆発力でもう一方のウラン塊にぶつけ、臨界量を超過させて起爆するガン・バレル方式である(ガン・バレルとは、銃の弾の通る部分のこと。)



■開発

ガン・バレル方式の原子爆弾がどのように設計されたは一切不明である。

開発の経緯そのものが米国政府から機密扱いを受け、いまだ公表されていないからである。

その為に近年では、ガン・バレル方式の原子爆弾の設計図そのものの出所が、実際には1945年5月14日に投降したドイツ海軍潜水艦U-234の積荷ではないかと言われている。

これはその設計思想が「ファットマン」型に採用されたような、プルトニウムを使う爆縮型原子爆弾からかけ離れており、またウラン濃縮に要する技術が非常に高度であり、米国で当時唯一のウラン濃縮法であったガス拡散法に比べ、高濃縮ウラン製造に格段に有利な遠心分離法が、当時ではドイツ国内のカイザー・ヴェルヘルム研究所においてしか行われていなかったこと、またそれらの遠心分離装置も1942年まで完成していなかった事などからも伺える。

それに加え、その生硬なデザインにも拘わらず、マンハッタン計画の歴史においてもガン・バレル方式の原子爆弾の開発経緯がなぜか秘密であり、その実態がほとんど明らかになっていないことからも言えよう。


■実験

1945年当時、このガン・バレル方式の検証のための核実験は行われていない。

核実験による検証を経たのは、プルトニウムを使った爆縮方式のものが1945年7月16日、米ニューメキシコ州アラモゴード近郊のアラモゴード爆撃試験場(現ホワイトサンド・ミサイル試射場内「トリニティ・サイト」)で行われたのみである。

〈後略〉

 

 

 


 

■■追加情報 2: 「ナチスが核実験」説


2005年3月16日の朝刊に、興味深い記事が掲載された。

参考までここに掲載しておきたい↓

 


2005年3月16日 『東京新聞』

 

 

《ナチスが核実験》


独歴史家が新説


【ベルリン=熊倉逸男】

ナチス・ドイツが核兵器開発を実用化直前まで進め、核実験も実施していた──との新説を紹介した本『ヒトラーの爆弾』が14日、ドイツで出版され、信憑性をめぐり論議を呼んでいる。

著者のベルリン・フンボルト大学講師の歴史家ライナー・カールシュ氏によると、ナチスは1944年から45年にかけてベルリン近郊に原子炉を設置し、濃縮ウランを使った小型核兵器を開発。

1945年3月3日ドイツ東部テューリンゲンで核実験を行った

被害は半径約500mにわたり、近くの強制収容所の収容者ら約500人が犠牲になった。

開発は、ヒトラーらナチス指導層も承知していたという。新たに発見された旧ソ連軍の史料証言記録、実験場所とされる土壌から放射能が検出されたことなどを「核実験説」の根拠としている。

ドイツでは1930年代から核開発が進められたが、ナチスは兵器化に熱心ではなく、ナチスの核兵器保有を懸念した科学者らの訴えを聞いた米国が先んじて、原爆を開発した──というのがこれまでの定説だった。独メディアは新史料発見を評価する一方、「核実験説」の説得力不足を指摘している。

 


ナチスの原爆開発についての本を書いた
ベルリン・フンボルト大学講師の
歴史家ライナー・カールシュ

 

 


 

■■追加情報 3: 「ナチスが核実験」説 ◆ パート2


このドイツの歴史学者ライナー・カールシュは、主にロシア、旧東ドイツ、西側などの公文書館で発見した「新史料」に基づいて本を書いたとのことである。

彼の説の概要は、以下のようなものであるという。

 

ドイツの「核兵器開発計画」は主流派のハイゼンベルクよりも、非主流のディープナーの下の小グループの手でより実り多く進められていた。

ベルリンの南、ゴットウ村の陸軍研究施設に建設されたディープナーの原子炉が運転を開始した。

1944年10月、バルト海リューゲン島で核実験が行われた。

1945年3月、テューリンゲンのオードルーフ演習場で核実験が行われ(「閃光と高熱、放射能」を伴う2回の爆発)、捕虜数百名が死亡した。

ドイツが核兵器を実戦に投入しなかった理由は、量産が困難だったことと、起爆装置運搬手段に重大な問題が残されていたためである。

 


ライナー・カールシュ

 

■さらに追加情報↓


「ナチスの核兵器 図面あった」 独の歴史家らが発表

【ロンドン=岡安大助】

第二次大戦中にナチス・ドイツが開発した核兵器の図面を発見したと、ドイツの歴史家らが1日発表した。

粗いステッチのため実際に組み立てられたか不明。実用化の段階に達していたとはいえないが、「これまで考えられていたよりナチスの研究は進んでいた」としている。発表したのは、ベルリンに拠点を置く歴史家ライナー・カールシュ氏ら。

英科学誌『フィジックス・ワールド』6月号に掲載された論文によると、図面はドイツかオーストリアの科学者が1945年5月のドイツ降伏後、個人的に書いたとみられる文書の中から見つかった。

この文書は核開発に関するリポートだが、タイトルや執筆した日付は記載されていない。カールシュ氏らは「水爆研究に取り組んでいたことは明らかだ」と指摘している。

同氏は今年3月、旧ソ連軍の史料などを基に著書『ヒトラーの爆弾』を出版。「ナチス・ドイツが核実験をしていた」という新説を主張し、信ぴょう性をめぐって論議を巻き起こした。

これまでは、ドイツの核開発は1930年代から進められたが、ナチスは兵器化に熱心でなく、米国が先んじて原爆を開発したとされている。

(東京新聞 2005年6月3日)

 

 


 

■■おまけ情報: 『日本・原爆開発の真実』(祥伝社)

 



『日本・原爆開発の真実』

米国を戦慄させた破壊力と
昭和天皇の決断

 

『日本・原爆開発の真実』について (←この本の内容を簡単にまとめておきました)

 

 


 

■■おまけ情報 2: なぜヒトラーは「化学兵器」を使用しなかったのか?

 


ナチスは、第2世代の毒ガス「タブン」 「サリン」 「ソマン」
世界に先駆けて完成させていた。しかし、ナチスはこれらの毒ガスを
 戦争で使用することも、ユダヤ人の殺害に使用することもなかった。

 なぜヒトラーは「サリン」などの「化学兵器」を使用しなかったのか?


詳しくは下のファイルをご覧下さい

↓↓↓

ナチスの「化学兵器」
第1章
「核兵器」より優れている点が多い
「化学兵器」
第2章
第一次世界大戦は
世界初の「毒ガス戦」であった
第3章
「毒ガス戦の父」
フリッツ・ハーバー博士
第4章
ナチス・ドイツで開発された化学兵器
「タブン」・「サリン」・「ソマン」
第5章
「化学兵器」投入に前向きだった
ヒトラーの側近たち
第6章
「化学兵器」を嫌ったヒトラー
第7章
戦後、エスカレートした
「化学兵器」の開発
■読む■

 

 


 


「原爆ホロコースト」の実態

 


 


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