No.a6fhc600

作成 2002.1

 

ナチス・ドイツの科学技術を

奪い取った連合軍

 

~アメリカの「ペーパークリップ作戦」の実態~

 

「ペーパークリップ作戦」とは簡単に言ってしまえば、
優秀なナチスの頭脳をアメリカに運び出す作戦のことである。
この「ペーパークリップ作戦」の実態について詳しく触れたい。

 
第1章
ドイツ全土から科学的・技術的な
戦利品を奪い取った連合軍
第2章
戦後、ソ連に拉致されたナチスの科学者
(ソ連のロケット開発の舞台裏)
第3章
「オーバーキャスト作戦」と
「ペーパークリップ作戦」
第4章
「再審査」で元ナチスの科学者の
戦時記録を洗浄
第5章
大量のナチ戦犯を無罪放免にした
アメリカ人ジョン・マックロイ
第6章
戦後アメリカに多大な“貢献”をした
元ナチスの科学者たち

おまけ
幻に終わった「ゼンガー計画」と
「ダイナソア計画」
追加1
1946年にアメリカ軍は
V2ロケットを宇宙へ発射していた
追加2
英BBCが制作した
ドキュメンタリードラマの紹介

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■■第1章:ドイツ全土から科学的・技術的な戦利品を奪い取った連合軍


●第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの科学技術力は圧倒的だった。

当時、軍需大臣に昇進していたアルベルト・シュペーアは次のように書いている。

「1944年の段階では、ジェット戦闘機Me262だけが奇跡の兵器ではなかった。リモコンで飛ぶ爆弾、ジェット機よりも速いロケット戦闘機、熱線により敵機に命中するロケット弾、ジグザグコースで逃げていく船の音を探知し追跡・命中させる魚雷を我々は持っていた。地対空ロケットの開発も終わっていた。リピッシュ博士は、無尾翼の原理によって設計された戦闘機を開発していた。それは当時の飛行機製造の標準を遥かに超えたものであった」

 


世界初の実用ジェット戦闘機として実戦に投入された「Me262」

この機体は時速800キロ以上のスピードとその上昇能力によって、当時のどんな
航空機より遥かに優れていた(連合国側の主力戦闘機より150キロ以上も速かった)

 

●アメリカもイギリスも、通信とレーダーを除くほとんどすべての戦争関連技術においてドイツの技術が連合国のそれを上回っているという認識を持っていた。

武器技術におけるドイツ側の優越は、V2ロケットがイギリスに落とされるようになっていよいよ明らかになっていった。

イギリス人をどん底に叩き込んだV2ロケットは、約1トンの爆薬を弾頭につけ、マッハ4の超音速で飛び、自動制御装置で誘導されるミサイル兵器で、当時の世界にはこれに対する防御手段は全くなかった。

※ このV2の本来の名称は「A4」であったが、ナチの幹部は「A4」を勝手にV2と命名した。「V」はドイツ語の「報復兵器=Vergeltungswaffe」の頭文字である。

 


ナチス・ドイツが開発したV2ロケット(別名「A4」)

敗戦までに約6000発が生産され、3000発以上が実戦で発射された


1937年にドイツ陸軍のロケット研究班は、手狭になったクンマースドルフ実験場と
ボルクム島の発射場から、両方の機能が併設された新しい総合的な研究施設へと移転した。
それは、バルト海のポメラニア湾に面したウーゼドム島西端の「ペーネミュンデ」に所在した。
このペーネミュンデのロケット研究施設には、ドイツ空軍のV1飛行爆弾の研究班と試験発射場も
置かれ、働く科学者や技術者の数も、1943年には2000名をかなり上回るほどだったという。

1943年8月にイギリス軍による大規模な空襲があり、約730名の科学者や技術者が殺害された。
この空襲以降、ナチス・ドイツ軍はV1、V2の研究開発と生産のための施設をノルトハウゼンや
ブリーヘローデ(生産施設)、ガルミッシュ=パルテンキルヘン(研究・設計全般)、コッヘル
(風洞設備)などに分散させた。その後、V1は1944年6月13日に、またV2は同年
9月8日に、それぞれ最初の一発をイギリス本土に射ち込むことに成功している。

 

●大戦中、天才ロケット工学者のフォン・ブラウン博士らペーネミュンデの一党が、「A4(V2)」の実用化を経て最終的に到達したのが「A9/A10」の構想であった。

これは「A4」にほんの少し改造を施した上で(A9)、これをいっそう巨大な液燃ブースター・ロケット(A10)に載せた2段式とし、射程はなんと5000kmという当時としては法外な超長射程の誘導弾を実現しようというものであった。

 


左から「A4(V2)」「A4b(A9)」「A9/A10」(2段式)

※ もし「A9/A10」(2段式)が完成していたら、ドイツ
からアメリカ本土を直接攻撃することが可能であった

 

この重さ100トンの「A9/A10」(通称「ニューヨーカー」)は、その発想において世界初のICBM(大陸間弾道弾)構想と称することができる。またロケット弾の複数段化という発想も世界で初めてである。

この大型ロケットは完成する前にドイツが降伏したので使われなかったが、もし完成していたらドイツからアメリカ本土を直接攻撃することが可能であった。

※ これとは別に、「A11」というさらに強力なエンジンで「A9」をより遠距離に飛ばすという3段ロケット「A9/A10/A11」構想もあったという。

また「A4」が無人ロケットであったのに対し、「A9」は有人飛行を前提としたロケットであったという。

 


パイロット搭乗の「A9」ロケットの想像図

 

●この「大型ロケット計画」と並行して「ゼンガー計画」というものがあった。

これはロケット推進による「宇宙空間爆撃機」の開発計画で、オーストリア生まれのロケット工学者オイゲン・ゼンガー博士が考案したものである。

この「宇宙空間爆撃機」は、全長3キロのモノレールを専用のロケット式加速装置を用いマッハ1.5まで加速し、そこから宇宙を目指す。そして大気圏外に出たのち、大気との摩擦を利用してスキップしながら飛行距離を伸ばし、途中でアメリカ本土に爆弾を投下し、ドイツ本国に帰還するという計画であった。

もちろんこの計画は構想のままで終わったが大戦後、この資料を入手した米ソ両国はこの計画に大変な興味を持ったと言われている。

※ ちなみに1988年に、ドイツ宇宙開発機関は「宇宙往還機」の研究を開始したが、ゼンガー博士の研究にちなみ、機体は「ゼンガー2」と呼ばれた。

 


(左)ロケット工学者オイゲン・ゼンガー博士
 (右)彼が考案した「宇宙空間爆撃機(宇宙往還機)」


↑宇宙空間爆撃機「ゼンガー」の発射法 

全長28m、全幅15m、鋭い翼端を持つ直線翼に今日の
リフティング・ボディともいうべき形態を持つ機体は、全長3キロの
モノレール上を滑走し、一気にマッハ1.5まで加速して大気圏へ向け
発射される。機体は加速を増やすために使われる補助ロケット・
エンジンが取り付けられたカタパルトの上に載せられる。



パイロットが着ている宇宙服のようなものは、ナチスが
高高度飛行用に開発した気密服である

 

戦争が長引くにつれて、そして最終的な勝利が確実視されるようになるにつれて、アメリカが次に立ち向かう競争相手はソ連となるという見方が当時一般化しつつあった。

そして、やがては西側諸国に対して使われると予測される戦利品をできるだけソ連側に渡さないようにする必要があった。

1945年3月頃、陸軍省の複数のセクションでドイツの科学者に関する詳細なリストが作成された。このようなリストには、ドイツのロケット計画の立役者、造船技術や冶金工業の進歩に貢献した人々が数多く含まれていた。


●最も緊急にドイツ人の協力を必要としたのはアメリカのロケット計画である。

アメリカ陸軍の情報部G2は、V2ロケットの設計図が日本に流れているという情報をつかんでいた。1943年以来、アメリカ陸軍の軍需局でロケット部長を務めていたガーベイス・トリケル大佐は、ドイツの専門家を自分の計画に参加させる日に備えて準備を進めていた。

1945年5月、トリケル大佐は陸軍省次官のロバート・パターソンに対し、50人のロケット関連の科学者と技術者をドイツからアメリカに送りこみ、世間から隔離された施設に住まわせるという内容の詳細な計画案を提示した。この計画案は5月28日に承認された。

当時、イギリスでもアメリカとほぼ同じ目的のためにドイツ人を連れてくる計画を立てていた。アメリカ側がドイツのロケット分野の科学者に関心を示していたのに対し、イギリスが最も重視していたのは海運分野の専門家、とりわけ高度な技術で知られていたナチスの潜水艦(Uボート)計画の関係者だった。


大戦末期、連合軍によってナチスのノルトハウゼン地下工場が占領されると、アメリカとソ連による科学者争奪戦の口火が切られた。冷戦の始まる一つのきっかけである。

結果的にアメリカ側が獲得したノルトハウゼンの遺産は、ソ連側よりも多かった。途中まで組み立てられた何トンものロケット、約1200人のドイツ人ロケット専門家、技術資料……。技術資料だけ見ても、その価値は少なくとも4億ドルから5億ドルにのぼった。

もちろんアメリカはこれらのパテントやマイクロフィルムに一銭も支払う必要もなかった。

※ 戦後ドイツ人の多くが、これを史上最大のドロボー行為と呼んだという。

 


↑数多くの工作機械が並ぶドイツの地下工場 

強制収容所の収容者を利用してV2ロケットが
組み立てられていた。アメリカはドイツ軍が地下で
短い間にロケット製作を成し遂げたことに驚愕した。

※ ミッテルヴェルケをはじめとするドイツ軍の複雑な
巨大地下工場において、V2は生産数の実に93%が、
V1はその33%が生産されていた。大戦の終結時には
「X」プログラムの名で7つの「地下工場建設計画」が
あったが、後の調査によればこれらは極めて計画的な
もので重複するような工場施設はなかったという。



(左)地下工場で製作されたV1 (右)同じく地下工場で製作された
 He162ジェット戦闘機(大戦末、最優先生産機種となった機体である)

 

●ドイツ全土からかき集められた科学的・技術的な戦利品はさらにあった。

アメリカの確保したほんの一部だけ挙げても次のようになる。

シェーネベックにある「メッサーシュミット」工場からは技術者や専門家、そして当時世界で最も高性能だったMe262ジェット・タービン50基。「ジーメンス社」と「ツァイス社」から科学部門のスタッフをほとんど全員。「テレフンケン社」から化学や電気関係の技術者と設備。ヴァイダにある「物性技術研究所」からは科学者、ラジウム、そして原子力研究関係の資料すべて。ウンゼンベルクの「BMW」地下工場からは技術部門のスタッフと新型モーターの設計図。

※ アメリカ軍がドイツ全土で押収した科学的・技術的な戦利品は、貨車300台分に相当したといわれている。


●イタリアの作家、ピーター・コロージモは次のように述べている。

戦争が終わった時、連合軍の人々は34万ものドイツの特許を手に入れ、20万の国際特許を没収したといわれている。その書類の値は現在でいえば数十億ドルになると計算されるが、多くは何千億ドルのものを稼ぎだすことができるものであり、実際的には値など付けられないものであった。

ワシントンの特許局の役人は、アメリカの首都の記録保管室には『何トンもの書類』が詰められているといっている。少なくともドイツの100万の計画(特許やそれに類したもの)が、アメリカで実現されていると信ずるのも一理あることである。戦勝国全部に対していえばその数字は250万ほどになるだろう。ドイツの企業『I・G・ファルベン社』、『フーハスト社』といった会社だけでアメリカに5万以上の特許を提供しているのである」

 


アメリカ軍に奪われたナチス・ドイツのV2ロケット

戦争が終わった時、連合軍は34万ものドイツの
特許を手に入れ、20万の国際特許を没収したという

 

●一方、ソ連側は、ナチスがソ連内部で行った大規模な破壊行為の埋め合わせとして、ドイツのすべての富は自分たちが所有できると考えていた。

ソ連軍は占領地域内にあるとされた産業、科学施設を手あたり次第に確保した。

印刷機や化学実験室、事務所の備品、歯科医院の器具、病院、製鉄工場、鉄道の軌道、機械道具類など、少しでも価値のあるものが見つかると、すべて分解され、箱詰めされ、そして東へ輸送された。

また、彼らの占領地区にいた何千人というドイツ人科学者や技術者などは、「生ける戦利品」として家族とともにソ連に拉致された。

※ 少なくともアメリカは家族に手出しはしなかった。

 

 

ナチス・ドイツが開発していたBMW003ジェット・エンジンと、実用化されていたユンカース社のJumo004ジェット・エンジンは、ソ連が得た最良の戦利品の1つであった。

戦前からソ連の航空技術陣はジェット・エンジンに関心を持っていたが、大戦開始とともに開発は中止されていた。しかし、大戦終了後にソ連はBMW003とJumo004ジェット・エンジン、そして生産設備を手中にすることができた。

これらのドイツ製のジェット・エンジンは戦後、ソ連でコピー生産された。

 


↑ナチス・ドイツが地下工場で大量生産する 
予定だったBMW003ジェット・エンジン

戦後、スターリンの命令でソ連のミコヤン、イリューシン、
ヤコブレフ、スホーイの4つの航空機メーカーがドイツから得た
ジェット・エンジンをソ連機に載せる実験に取り組むこととなった。

ミコヤンはBMW003エンジンを搭載した「MiG9」を開発した。
イリューシンも全く同じエンジンを搭載した新型爆撃機「IL16」を製造
したが、後にこのエンジンはコピーされて「RD20」エンジンと呼ばれた。

また、ユンカース社のJumo004エンジンも「RD10」と改称されて、
ヤコブレフの戦闘機「YaK15」に搭載された。スホーイもこれと同じ
エンジンを2基搭載した新型の戦闘機「Su9」を製造した。

 

ところで、もしドイツ人の協力がなければ、ソ連のロケット開発は、5~10年遅れていたであろうと言われている。

ソ連は1947年10月30日にカザフスタンの実験場で、「A4(V2)」ロケットの発射実験に初めて成功した。これが1957年10月4日、世界初の人工衛星スプートニクを打ち上げた「R-7」の開発につながるのである。


●アメリカのホイト・ヴァンデンバーグ将軍は、1946年、ソ連軍が入手したドイツ軍からの戦利品の評価に関し、次のように明言していた。

ドイツ人は、ロケット技術に関し、我々より10年以上先行していた。

そしてこの先行期間を、我々の自由意志によって、みすみすロシア人にも許してしまったのである……」

 


ホイト・ヴァンデンバーグ将軍

アメリカ空軍の第2代参謀総長で、
ミサイル開発と宇宙開発に熱心だった。
現在カリフォルニア州には将軍の名前に
ちなんで命名された空軍基地が存在し、
ロケット兵器の射場となっている。

 

 


 

■■第2章:戦後、ソ連に拉致されたナチスの科学者 ─ ソ連のロケット開発の舞台裏


●大戦中、ロケットの要であるジャイロスコープの開発に携わり、戦後、ソ連に拉致されたナチスの科学者の1人であるクルト・マグヌス博士は、ソ連当局の大規模な作戦による拉致と抑留の歴史的な体験を、著書『ロケット開発収容所 ─ ドイツ人科学者のソ連抑留記録』にまとめて刊行した(1993年)。

マグヌス博士がソ連に拉致されたのは1946年10月22日で、この日1日だけで、大戦中のロケット研究者をはじめ、ドイツの自然科学者、技師、職工、およびその家族約2万人が一網打尽にされ、ソ連占領軍の管理下にあった「中央製作所」の所在したブライヒェローデのほか、ベルリン、ドレスデン、ライプチヒ、ケムニッツ、イエナ、デッサウなど東独各地から、ソ連に拉致されたという。

 


(左)V2ロケットの科学者クルト・マグヌス博士 
(右)彼の著書『ロケット開発収容所 ─ ドイツ人
科学者のソ連抑留記録』(サイマル出版会)

※ この元ナチスの科学者はソ連滞在中、被抑留者
ドイツ人社会の取りまとめ役的存在であったという

 

●マグヌス博士によれば、ソ連に拉致されたナチスの科学者たちは、列車に積み込まれ、モスクワ近郊の町や、モスクワとレニングラード(現サンクトペテルブルグ)のほぼ中間に位置する、ゼーリガー湖の中の「ゴロドムリャ島」などで、10年近くロケットの開発に協力させられたという。

 

ソ連に拉致されたナチスの科学者たちは、隔離された
「ゴロドムリャ島」で収容生活を送ったという

 

●マグヌス博士は次のように述べている。

ゴロドムリャ島は、文字通り『垣で囲まれていること』を意味する。事実、湖岸線に沿って高い柵が設けられ、監視人が見張っており、番犬のいる場所もある。島はラーゲリ(強制収容所)そのもので、科学者、技師にとっては労働キャンプ、家族にとっては収容キャンプであった。

もともとこの島は、伝染病にかかった家畜が隔離され、口蹄疫研究所があった場所だ。病気の動物に代わって、我々を収容するとはよくぞ考えたものだ。これ以上適当な場所はないではないか」

「我々のグループでは、様々な未来プロジェクトについて研究させられた。この間ロシア人専門家は厳しく監視し、仕事を急がせ、頻繁に質問した。特にソ連のロケット開発と宇宙飛行の総責任者であるセルゲイ・コロリョフは、我々専門家と個別に議論するため、多くの時間を費やした。

若くて優秀で、やる気満々のロシア人が、しつこいぐらいにドイツ人科学者から知識を吸収しようとしていた」

 


セルゲイ・コロリョフ

 

●マグヌス博士によれば、スターリンはナチスの「宇宙空間爆撃機」(ゼンガー計画)に格別の関心を示していたという。

また、ソ連のロケット開発におけるドイツ人科学者の協力については、ソ連国内では1992年まで一切秘密にされていたという。

 


(左)ヨシフ・スターリン (右)オイゲン・ゼンガー博士

※ ゼンガー博士は終戦までドイツ空軍の研究・開発部門で働いていた

 

●マグヌス博士は次のように述べている。

「オイゲン・ゼンガー博士が考案した“周回軌道爆撃機(宇宙空間爆撃機)”と称する飛行物体を、ソ連はしばらくの間、真剣に研究しようとした。ゼンガー博士は、終戦までドイツ空軍の研究・開発部門で働いていたこともあり、ロシア人は我々がこの計画を実現可能と考えているかどうか知りたがった。かくして、外部から遮断された部屋で、厳しい監視の下、研究させられ、機密報告書を作成させられた。〈中略〉

ソ連滞在中、この『ゼンガー計画』の研究がどこかで続けられていたのか、全く情報はなかった。帰国後の50年代の半ば頃、ソ連より移民したグリゴリー・トカーエフという将校の話として、1947年11月、クレムリンで開かれたロケット技術の一層の開発に関する秘密会議で、スターリンは『ゼンガー計画』に格別の関心を示し、

『この飛行機に原子爆弾を積めば、世界の支配者になれる!』と叫んだ、という記事が出た。

この元ソ連将校の話はさらに続く。湯水のごとく金を使って、甘言、暴力、いかなる手段を使ってでもゼンガー博士を探し出し、ソ連に連れてこようとしたが、ゼンガー博士自身、フランスの研究所に就職していたため、この謀略は失敗した。第一支所での経験からみて、大いにありうる話だと思えた」

「ソ連は、ドイツ人の協力がなくとも同様のロケットを開発したと思われるが、多分別のやり方で、かつもっと時間がかかったものと思われる。

ドイツ人科学者の協力については、ソ連国内では1992年まで一切秘密にされていた」



1992年3月、ロシアの有力紙『イズベスチヤ』に、ソ連のロケット専門家チェルトクの回想に基づいた記事が掲載された。

記事のタイトルは「ソ連のロケットの勝利の初期の段階でドイツ人の存在があった」であり、チェルトクはこの記事で、ソ連占領地域にドイツ人科学者などを駆り集めるための特別司令部を設置し、これらドイツ人をソ連に連行した事実を初めて明らかにしたのである。

また10年のうちに、改良型A4(V2)である「R-1」から、最初の大陸間ロケット(ICBM)である「R-7」の開発にまでいたった経緯や、このロケットは今日でも宇宙飛行の技術に応用されていることなども明らかにされた。(1957年10月のスプートニクも、「R-7」によって打ち上げられた)。

そしてチェルトクは結論として、

「ドイツは、世界のロケット技術の進歩に、巨大な影響を及ぼした」と断言している。

 

戦後ソ連では、独自の研究の成果にドイツの
V2ロケット技術を吸収し、セルゲイ・コロリョフ
の主導によって宇宙ロケットの開発に力が注がれていた。

※ V2のコピーである「R-1」を延長して「R-2」が生まれ、
大型化して「R-5」になり、2段式の「R-7」が開発された。



1957年10月4日、世界初の人工衛星
となったソ連のスプートニク1号の本体

そのロケット技術にドイツ人科学者が
及ぼした影響は大きいという


機体の各部にV2ロケットの影響を色濃く
残している旧ソ連軍の「スカッド」ミサイル

V2ロケットのコピーである「R-1」をベースに
「SS1BスカッドA(R-11)」ミサイルが開発され、
これは「スカッドB(SS1C)」として改良発展した。

冷戦時代の旧ソ連政府は、当時の友好国への軍事援助として
多数の「スカッドB」を輸出し、このうち主として中東諸国で
スカッドは多数の実戦を経験しており、湾岸戦争ではイラクが
使用したことで知られている。ちなみに、「ノドン」ミサイルは
北朝鮮がスカッドをベースに改良して製造したミサイルである。

※ 基本的にスカッド・ミサイルはV2ロケットの改良型であり、
今日ではもはや旧式であるが、現在でも旧東側諸国、中東諸国を
中心に多数が実戦配備されており、パキスタンの「ガウリ」、
イランの「シャハブ」、シリア、リビアの独自改良型などの
多くのミサイルを生み出してきた。(このように戦後の
世界は「ナチスの亡霊」に支配されていると
 いっても過言ではない状態である)。

 

参考までに、スカッドを配備した国は以下の通り。

◆CIS構成国
ロシア、アゼルバイジャン、アルメニア、ウクライナ、カザフスタン、グルジア、トルクメニスタン、ベラルーシ

◆東欧諸国
スロバキア、セルビア、チェコ、ハンガリー、ブルガリア、ポーランド、ルーマニア

◆中東諸国
アフガニスタン、アラブ首長国連邦、イエメン、イラク、イラン、シリア、パキスタン

◆アジア諸国
北朝鮮、ベトナム

◆アフリカ諸国
アルジェリア、エジプト、コンゴ民主共和国、リビア

 

 


 

■■第3章:「オーバーキャスト作戦」と「ペーパークリップ作戦」


■「オーバーキャスト作戦」スタート


●1945年7月6日、アメリカの「国防省統合参謀本部(JCS)」は「我々が利用したいと思う優れた業績をあげた、選ばれた稀有な人材を活用する」機密作戦、暗号名「オーバーキャスト作戦」を承認した。

JCSは、主にドイツ、オーストリア出身の専門家350人を直ちに入国させるよう指令した。

これら“稀有な人材”には、潜水艦設計、化学戦、そしてもちろんロケット研究の専門家が含まれていた。ただし、これには厳しい条件が伴っていた。契約の延長は一度だけ、半年間に限って認めるとされていた。また、対象となるドイツ人は単身で赴任し、契約期間の終了時にドイツに帰国すると定められた。

 

 

「オーバーキャスト作戦」のもとでアメリカの情報機関員は、利用価値があるだろうと思われる専門家を採用する際、彼らが過去にナチやSSに加わっていたことを次第に無視するようになった。

1946年初頭までに、正確な数はわからないものの相当数にのぼるドイツ人の科学者と技術者がアメリカに連れてこられた。少なめに見積もっても150人はいたと思われる。この時期になるとすでに、というよりも彼らが到着してまもなく、彼らの専門知識がきわめて利用価値の高いものであることが明白になった。これはとリわけ、数ヶ月間でドイツ人の科学者が作戦の進展の鍵を握るようになってしまったロケット開発の分野で顕著だった。

ロケット関連以外で連れてこられたドイツ人には化学工業や冶金工業の専門家、航空医学や航空機設計、戦車設計の専門家が含まれ、さらに人数は特定できないが、化学や数学、物理関連の基礎研究に携わる者もいた。作戦推進派は、承認段階での「オーバーキャスト作戦」に明記されていた「短期間の雇用」という考えはアメリカの長期的な国益にそぐわないと確信するようになった。

 


戦後、アメリカで実施されたV2ロケットのテスト飛行の様子

※ 元ナチスのドイツ人科学者の協力を得て研究が続けられた

 

■「ペーパークリップ作戦」スタート


●1946年、国防省の「統合情報管理局(JIOA)」はドイツ人科学者利用作戦をさらに修正、拡大した。

JIOAは、かつては敵であったドイツの科学者を1000人要求した。さらに重要なことは、JIOAが、それら専門家を自らの作戦に引き寄せるために、彼らにアメリカ市民権を与える権限までをも要求したことである。

ドイツ人科学者や技術者は多くの場合、元ナチか元SSであったため、当時の移民法に抵触するので、JIOAはトルーマン大統領から直接に権限を委任される必要があった。

1946年9月6日、トルーマン大統領は「名前だけのナチ党員で積極的な支持者でなかったドイツ人に限り作戦参加を許す」として計画を承認した。

暗号名は「ペーパークリップ作戦」に改められた。これは、アメリカの捜査官が入国許可の出ている人々のファイルの束の表紙の上に“紙挟み(ペーパークリップ)”を置いて目印にしていたことに由来する名前である。

 


トルーマン大統領

 

●「オーバーキャスト作戦」では作戦に導入される科学者の上限を350人と定めていたが、「ペーパークリップ作戦」スタート以降、1947年初頭までにこれを上回る数のドイツ人科学者が入国するようになっていた。「ペーパークリップ作戦」には上限が設けられていなかったのだ。

けれども「ペーパークリップ作戦」を実施していく上で、大きな懸念材料があった。

既にアメリカに入国していた者も含めて、「永住権」承認の前に国務省と司法省から派遣された専門家による「身元調査」をしなければならなかったのである。それまで、最も基本的な経歴審査でも確実に入国を却下されたはずだと思われる多くのドイツ人科学者や技術者がアメリカに来ていた。この事実をJIOAはちゃんとつかんでいたが黙認してきたのだ。


●ナチ戦争犯罪を追及するジャーナリスト、クリストファー・シンプソンは著書『冷戦に憑かれた亡者たち ― ナチとアメリカ情報機関』(時事通信)の中で、次のように述べている。

 


(左)クリストファー・シンプソン (右)彼の著書
『冷戦に憑かれた亡者たち ― ナチとアメリカ情報機関』

戦後アメリカ情報機関は、元ナチを含めた元ナチ協力者を採用
する。深まりつつある冷戦の中で彼らの役割は…。情報公開法に
よって入手した豊富な資料を用いて、彼は1940年代後半
から50年代にかけての冷戦の裏側を描き出している。

 

「JIOA(統合情報管理局)のファイルの多くには、既にアメリカに入国していた数人のドイツ人が『熱烈なナチ信奉者』であることが示されていた。また、候補者が熱心なナチ支持者であったばかりか、一部にいたっては強制労働を利用した作戦や、通常ユダヤ人の囚人を用いて行われていた人体実験に加わっていたということが示されていた。

実際、数名の名前はニュルンベルクでの裁判用に作られた戦争犯罪人リストにも掲載されていたほどだった。JIOAの推した人間の少なくとも半分、あるいはそれ以上が、元ナチか元SSであった。」

 

 


 

■■第4章:「再審査」で元ナチスの科学者の戦時記録を洗浄


●アメリカ国務省はナチ信奉の科学者の入国に非妥協的だった。

1947年夏までに、国務省とJIOAは「ペーパークリップ作戦」関係の申請者の身元調査に関して激しいやり取りを行っていた。


●このままでは埒があかないとみたJIOAは、単純な解決策を思いついた。国務省が提出書類に承認を与えないのなら、JIOAが「再審査」を実施し、改めて申請書を提出しようというのである。

そこで、JIOAは既に存在するファイルを洗い直し、「ペーパークリップ作戦」の指針に基づけば候補者の長期契約が却下される根拠となりそうな情報の削除を行った。さらに、新たに作成される申請書には候補者の承認却下につながりそうな否定的な情報を記載しないように配慮したのである。

このようなJIOAによる「再審査」戦時記録を洗浄された人物の中には、「アメリカ宇宙計画の父」となり、人類を月に到達させることに関しては最大の功労者であったフォン・ブラウンも含まれていた。

 


ヴェルナー・フォン・ブラウン博士

天才ロケット工学者のフォン・ブラウン博士は
1912年にドイツ東部の裕福な貴族の家に生まれ、
1930年にベルリン工科大学に入学。19歳の時に
全長2mのロケットを高度1600mまで打ち上げ、
世界記録を作る。1938年に「ナチ党」に入党。
大戦中はヒトラーのためにV2ロケットの
製作を指揮した。元SS少佐。

 

第二次世界大戦中、フォン・ブラウンは、ナチスの同僚の中でも一番多くの勲章を授けられ、SS長官ヒムラーの命により親衛隊に加わったSS少佐であった。

彼はV2ロケット建造のために、ドイツ中部ノルトハウゼン近郊の「ドーラ収容所」の収容者に奴隷労働を強いた中心人物であり、製造に駆り出された6万人のうち、飢えや病気や処刑などにより2万人を死亡させたとされている。また彼は、敗戦の日までナチス・ドイツのために熱心に働き続け、高性能爆薬を搭載したV2ロケットがロンドンに命中する率を高めた。

 


↑解放された「ドーラ収容所」には、奴隷的な労働の末に
殺害された大量の遺体が放置されていた。フォン・ブラウンは
 この収容所の収容者に奴隷労働を強いた中心人物だとされている。

※ ちなみに、この「ドーラ収容所」はユダヤ人専用の収容所
ではなく、この収容所での強制労働で死んだ者の多くは
フランスやソ連の戦争捕虜、政治犯だった。

 

●JIOAによる戦時記録の洗浄で、「フォン・ブラウンはSSの将校で、安全保障上脅威となりうる人物である」という部分が削除されて、「フォン・ブラウンは好ましい人物で、名目上のナチ党員にすぎなかった」と修正された。

もっとも、戦後フォン・ブラウンは、「ナチズムには当時から反対だった」と主張している。ナチスのロケット計画に荷担した本当の理由は、自分の研究が将来、宇宙飛行に役立つのではないかと考えたからだ、と言っている。


●この件に関して前出のジャーナリスト、クリストファー・シンプソンは次のように指摘している。

「フランス人レジスタンス活動家だったイヴェス・ベオンによれば、V2ロケット建造に使役する奴隷調達のためにSSが雇われたが、この命令を下したのはフォン・ブラウンとワルター・ドルンベルガー将軍だったという。

もっとも、この2人は、無理やり命令に従わされていたのだと弁明しているが、当時、フォン・ブラウンが他のSS高官とともに奴隷労働者集めの会議出席していたことは証拠づけられている。」

 


戦時中に撮影されたフォン・ブラウンとナチスの幹部たち

※ 左端の人物はロケット工学者のワルター・ドルンベルガー将軍。
V2ロケットの開発責任者で、フォン・ブラウンの恩師にあたる(後述)

 

●このような例は他にも数多くあった。

特に目立ったのは、V2ロケット組立工場の生産責任者だったアーサー・ルドルフと、ドイツの航空医学の発展に多大な貢献をしたヒューベルタス・シュトルグホルト、そしてナチスのロケット計画全体の組織に大きな役割を果たしたワルター・ドルンベルガー将軍の3人である。

この3人は、ヒトラー政権のもとで、ぞっとするような経歴の持ち主だったが、JIOAによるごまかし(戦時記録の洗浄)によって、アメリカ国務省に入国を許可してもらえるような人物に変貌し、アメリカで働くことができたのである。


※ 以下、この3人の男について詳しく紹介したい。

 

 

アーサー・ルドルフは、フォン・ブラウンと同じぐらいアメリカのロケット計画にとって貴重な人物となった。

1951年から1960年にかけてレッドストーン軍需工場の初代開発部長を務め、その後はパーシング型ミサイルの開発部長、アメリカ宇宙飛行士を月に送ったサターンV型ロケット計画の主任技術者などを歴任した。

彼はこの月旅行計画の成功後にNASA(アメリカ航空宇宙局)を退職し、最高の栄誉である殊勲章を与えられたのだった。やがて彼はカリフォルニアで、高給取りのコンサルタントになった。

しかし、彼は1984年にひそかに西ドイツに移住した。

その理由は数千名の収容者が死亡した「ドーラ収容所」のV2ロケット地下工場での奴隷労働者迫害に彼が果たした役割を、アメリカ司法省の特別調査局が発見し、市民権剥奪の手続き開始を通告したことによる。

※ これは「ペーパークリップ作戦」がらみで始められた手続きとしては、唯一のものであるとされている。

 


V2ロケット組立工場の生産責任者だったアーサー・ルドルフ

彼は戦後、NASAのサターンV型ロケット計画の主任技術者を
務めた。しかし、その後にナチス時代の罪を追及され、
1984年にひそかに西ドイツに移住した。
(1996年に89歳で死去)。

 

ヒューベルタス・シュトルグホルトは、「ペーパークリップ作戦」関連の入国者のなかで最も成功した者に数えられている。

彼はアメリカ空軍の医療研究部門の責任者と航空宇宙局の特別コンサルタントを務めた。過去20年の「宇宙医学」の発展の多くは、彼の研究の成果であったといわれている。

彼の場合もアメリカ司法省の特別調査局が1980年代初頭から調査を行い、彼がダッハウでの囚人を用いた残酷な人体実験に関与していた十分な証拠をつかんでいた。

しかし、なぜかそれ以上の追及はなかった。

 


ヒューベルタス・シュトルグホルト

元ナチスの彼は戦後、アメリカにおいて
「宇宙医学」と呼ばれる新しい分野を開拓した



「ダッハウ収容所」でソ連軍捕虜に対して行われた人体実験

極めて高い高度での人間の持続と限界を調査するために、
囚人は低圧室に閉じ込められ、高度2万mに匹敵する低気圧にさらされた
(やがて囚人は意識を失って死んだ)。ヒューベルタス・シュトルグホルトが関与した、
こうした人体実験のデータは戦後の医学の“発展”のために利用されたという。

 

ワルター・ドルンベルガー将軍は、軍需局のロケット計画の一員として働き、1951年にはニューヨーク州バッファローのベル航空会社の職員とCIAの特別コンサルタントを兼務するようになった。やがて、彼は複数の航空機メーカーで取締役を務めた。

彼は1959年にはアメリカ・ロケット協会の「宇宙航空科学賞」を受けるなど、数多くの栄誉に恵まれた。1980年6月、彼は安らかに死んだ。

ちなみに、彼の弟子であるフォン・ブラウンは渡米して最初の頃、恩師であるこのドルンベルガー将軍が釈放されない限り、アメリカのロケット計画には携わらない、という立場を貫き通していたため、戦争犯罪人として6000人の捕虜を殺害して吊し首にした罪を問われていたドルンベルガー将軍は、ジョン・マックロイによって無罪放免となったのである。

 


(左)V2ロケットの開発責任者だったワルター・ドルンベルガー将軍 
(右)彼の弟子であるフォン・ブラウンとのツーショット

 

●前出のナチ戦争犯罪を追及するジャーナリスト、クリストファー・シンプソンは、このドルンベルガー将軍について次のように述べている。

「ナチスはノルトハウゼン地下工場の建設に、近くのドーラ強制収容所の囚人を使った。作業開始からわずか15ヶ月にも満たない期間に、囚人たちはSSの命令で、廃坑になった岩塩坑の中に長さ1マイルにものぼる洞窟を掘らされた。工場施設を収容するためである。飢えと重労働のため、2、3ヶ月も経たないうちに、奴隷労働に駆り出された囚人たちは次々に死んでいった。

工場が完成した後、ロケット生産に携わった労働者に対する扱いも似たようなものだった。

ロケット計画では少なくとも2万人の囚人が、ノルトハウゼンとドーラで死んでいる。飢えや病気、それに処刑されたためだ。彼らの多くは、教養に目をつけられてロケット生産のために選り抜かれた優秀な技術者であった。これら犠牲者に対する責任を、一体誰が引き受けるのだろうか。〈中略〉

ドルンベルガー将軍が戦後に著わした自伝は、評論家によって西側でかなりの称賛を受けた。自伝にはロケットの試験や官僚組織内部の闘争、そして技術上の業績に関する逸話が数多く語られている。

……しかし、生命を犠牲にしてロケットを組み立てた囚人たちには、感謝の言葉は一言も述べられていない。まるでロケットが途中の工程なしに図面から一気に空中に飛び出したかのように。まるでロケットがひとりでに組み上がってしまったかのように。

 

 


 

■■第5章:大量のナチ戦犯を無罪放免にしたアメリカ人ジョン・マックロイ


●ところで、このドルンベルガー将軍を無罪放免にしたアメリカ人ジョン・マックロイという男は、かなりいかがわしい経歴の持ち主である。

彼は大戦末期に「ポツダム宣言」を起草し、1953年にロックフェラー財団の理事、のちにロックフェラー系「チェースマンハッタン銀行」の頭取、「セブン・シスターズ」の法律顧問、CFR議長になり、ケネディ暗殺時には、政府の隠蔽工作のため、アレン・ダレスと組んで「ウォーレン委員会」にも尽くした。

そして、戦後ナチスを一掃するはずの時期に、ジョン・マックロイは戦犯に問われていた大量のナチ党員を無罪放免にしたのである。

 


大量のナチ戦犯を無罪放免にした
アメリカ人ジョン・マックロイ

※ 余談になるが、第二次大戦中に陸軍次官補
だった彼は、1945年6月18日に開かれた
「対日戦略会議」において、日本への原爆使用は
事前に警告した上で使用するべきだと主張して
「無警告」による原爆投下に反対していた。

 

●また、このジョン・マックロイはあの有名なダレス兄弟と同じく、アメリカ企業とナチスのパイプ役を務めていた。

このつながりは、第一次世界大戦後、彼がドイツの大企業「I・Gファルベン社」に法律家として雇われた時にまで遡る。

1936年のベルリン・オリンピックのとき、ジョン・マックロイはヒトラーと一緒に特別席に座り、1941年、イギリスに渡る前にルドルフ・ヘスとも接点をもっていた。

ヒトラーの秘密再軍備を財政面で支えた「ドイツ国立銀行」総裁シャハト(ナチス経済相)は、戦後すぐにジョン・マックロイによって、8年の禁固刑を免除された。

 


(左)アレン・ダレス (右)ジョン・フォスター・ダレス

このダレス兄弟はヒトラーが第二次世界大戦を起こすまで、
ナチス・ドイツとアメリカを結ぶ資金ルートに深く関与していた。
戦後の冷戦時代にアレン・ダレスはCIA長官に就任し、実弟の
ジョン・フォスター・ダレスはアメリカ国務長官に就任した。

※ このダレス兄弟に興味のある方は、当館作成のファイル
 「シュローダー男爵とダレス兄弟の暗躍」をご覧下さい。



ドイツの巨大企業「I・G・ファルベン社」(1935年)

 

●既におなじみのジャーナリスト、クリストファー・シンプソンは著書『冷戦に憑かれた亡者たち ― ナチとアメリカ情報機関』(時事通信)の中で、このジョン・マックロイについて次のように述べている。

 


ナチ戦争犯罪を追及するジャーナリスト
クリストファー・シンプソン

 

朝鮮半島の危機は、地球の裏側で起こったある出来事を促進するものであった。その出来事は、当時のアメリカの安全保障政策が、いかにナチの犯罪性を隠蔽するものであったかを明らかにしている。アメリカは差し迫ったソ連の侵攻から西欧を防衛する要として、西ドイツの軍事力と鉄鋼業を手に入れたかった。西ドイツ政府がアメリカとの同盟に協力する代償として求めていたのは、有罪判決を受けて、ミュンヘン近郊の『ランツベルク刑務所』に服役中のナチ戦争犯罪人を釈放することであった。〈中略〉

ドイツにおけるアメリカ高等弁務官ジョン・マックロイは、ランツベルクの囚人に関するアメリカと西ドイツの紛争解決に向けて直ちに行動を起こした。マックロイは、囚人の減刑について勧告させる『再審査委員会』を設置し、そこで半年をかけて、囚人の恩赦を求める様々な請願や要請を検討させた。しかしマックロイの委員会は、ニュルンベルク継続裁判のアメリカ人検察官とは全く接触せず、裁判で明るみに出たナチの犯罪行為を裏づける証拠書類を再検討することはしなかったのである。

 

 

●さらに彼は、朝鮮戦争の期間中にジョン・マックロイが無罪放免にしてしまったナチ戦犯の人数について具体的な数字をあげている。

「マックロイは1951年1月、ソウルが陥落したほんの数日後に、彼の委員会の勧告を発表した。彼はまず、ランツベルクの囚人が犯した罪の非道さを認め、厳しい処置が必要であるとした。しかし続いて彼は、場合によっては『減刑すべき法律上の根拠』がある、と主張した。マックロイは、囚人のうち行動部隊の司令官オットー・オーレンドルフと、強制収容所を統括していたSS経済管理本部長官オズヴァルト・ポールを含めた5人には死刑の裁定を下した。次に彼は、それ以外のナチ戦争犯罪人79人の禁固刑を大幅に減刑し、その大半はこの裁定から数ヶ月のうちに釈放された。

マックロイによって恩赦を受けたのは次のような人間である。

有罪判決を受けた強制収容所の医師(医師裁判)全員、ナチの『特別法廷』などの抑圧機構を管理した首席裁判官(法律家裁判)全員、行動部隊と強制収容所管理に関する裁判(ポール裁判)で有罪判決を受けた15人中14人(うち7人は即時釈放)、行動部隊の大量殺害を扱った裁判(行動部隊裁判)の被告20人中16人、そしてクルップによる奴隷労働を扱った裁判(クルップ裁判)で有罪判決を受けた全員(全員即時釈放)。

ランツベルクの囚人にマックロイが恩赦を下したことは、続く5年間に、数百人ものナチ戦争犯罪人が釈放される事態を招いた。

有罪判決を受けた『I・Gファルベン社』の役員フリッツ・テル・メールは、マックロイの恩赦の数日後にランツベルクから釈放されると、事態を一言でこう評している。『朝鮮半島を手中に収めた今では、アメリカ人はずっと友好的になった』と。」



●ちなみに朝鮮戦争は、ナチス・ドイツが開発していた戦闘機のコピー同士が対戦した戦争であった。

 


メッサーシュミット「P.1101」


(左)ベル「X-5」(右)米軍戦闘機「F-86」


(左)フォッケウルフ「Ta183」(右)ソ連軍戦闘機「MiG15」

ベル「X-5」は、ナチス・ドイツが開発していたメッサーシュミット
「P.1101」の技術を基にアメリカで作られた実験機である。「P.1101」
の先進的デザインはその後、朝鮮戦争で死闘を繰り広げた米軍戦闘機「F-86」にも
受け継がれた。同性能のソ連軍戦闘機「MiG15」は、ナチス・ドイツが開発していた
フォッケウルフ「Ta183」のコピーである。したがって朝鮮戦争はナチス・ドイツ
の戦闘機のコピー同士が対戦したのである(これは史上初のジェット戦闘機同士の
空中戦であり、両機とも当時の戦闘機中最高性能を誇っていたのだった)。



↑ソ連軍戦闘機「MiG15」と米軍戦闘機「F-86」 

※ 朝鮮戦争で、フォッケウルフ「Ta183」のコピーである
ソ連軍戦闘機「MiG15」に唯一対抗できたが、メッサーシュミット
「P.1101」のコピーである米軍戦闘機「F-86」だった。

 

 


 

■■第6章:戦後アメリカに多大な“貢献”をした元ナチスの科学者たち


1946年から1955年までに「ペーパークリップ作戦」を通じてドイツ人科学者が数千人入国したとされている。さらに約700人が、ドイツ人科学者をソ連の手に渡さないことを目的として策定された「プロジェクト63」のような計画を通じてやって来たといわれている。


「ペーパークリップ作戦」について膨大な研究をしたクラレンス・ラズビー教授によれば、これらドイツ人科学者の少なくとも半分、あるいは80%が元ナチか元SSであったという。

「ペーパークリップ作戦」でナチスの科学者が渡米してきた頃、『シカゴ・ヘラルド・トリビューン』紙は、アメリカで「徹底的に調査され」ヒトラーに加担しなかったことが証明されたはずの者たちが、実はそれ以前にドイツで「徹底的に調査され」ヒトラーに加担したのと同じ者たちだったことをスッパ抜いた。

 


「ペーパークリップ作戦」を通じてアメリカに入国したドイツ人科学者たち

 

元ナチスの科学者たちは、ラジオ・リバティー、ボイス・オブ・アメリカ、アメリカ陸軍歴史部などドイツの安全保障に役立つ組織にも雇われたばかりか、アメリカ国防総省やトップ産業の役職を埋めるのにも使われた。

アメリカのロケット計画においては、主要な研究所や支局の1つ1つで、元ナチスの科学者が主任ないし副主任の地位に抜擢された。

 


(左)クルト・デーブス博士 (右)フォン・ブラウンとのツーショット

クルト・デーブス博士は元ナチスの科学者で、大戦中はV2ロケットの
可動式発射台などを監督していた。戦後は「ケネディ宇宙センター」の
初代所長に就任し、アメリカの宇宙開発に多大な貢献を果たした。
(現在も「クルト・デーブス賞」という彼の名前に由来する賞が
 存在し、宇宙開発に貢献した人々に与えられている)。



(左)ハンス・フォン・オハイン博士 (右)世界初のターボジェット推進機「He178」

彼も元ナチスの科学者で、大戦中に世界初の実用ターボジェットエンジンを開発。
戦後はスタッフと共に渡米し、「ライト・パターソン空軍基地」の航空研究所の
所長を務めた(戦後30年を経た1975年には、航空機を含む米空軍の
大気圏内飛翔体の全研究プロジェクトを統括する地位にあった)。



(左)アレクサンダー・リピッシュ博士 (中)世界初のロケット戦闘機「Me163コメート」
(右)リピッシュ博士が設計した、アメリカ空軍初となるデルタ翼ジェット機「XF-92」

彼も元ナチスの科学者で、大戦中に世界初のロケット戦闘機「Me163」を開発。
戦後渡米してアメリカの「コンベア社」を主導。数々のデルタ翼機を設計した。

※ リピッシュ博士が大戦中に開発していたデルタ翼機「DM1」は、
戦後、アメリカへ輸送されて「風洞実験」などによる徹底的な
調査を受けたが、「全米航空諮問委員会(NACA)」
は「デルタ翼」が基本的に高速の航空機に適した
形態であることを確認したという。

 

●ところで、フォン・ブラウン「ナチス」という暗い過去を背負っていたが、戦後、彼がアメリカという新天地で「科学の進歩」に多大な貢献をしたことは否定できない事実である。

1975年、フォン・ブラウンはアメリカ科学界最高峰の栄誉とされる「アメリカ国家科学賞」を受賞している。

 

元SSのフォン・ブラウンは、1955年にアメリカ国籍を取得し、1960年に
NASAが新設した「マーシャル宇宙飛行センター」の初代所長となり、
「アポロ宇宙計画」に携わった。1970年にワシントンDCに移り、
NASA本部の企画課長を務め、1977年に65歳で死去。



左の人物は「アポロ宇宙計画」を推進したジョン・F・ケネディ大統領

 

●なお、ナチスの科学者たちは、メリーランド州のエッジランド兵器庫、メリーランド州フォードホラバードの陸軍諜報基地で、アメリカ人下士官を対象に実施された陸軍・CIA合同の心理化学実験にも関わっていた。そして、これがCIAの有名な「MKウルトラ心理操作実験」の始まりとなった(この実験を許可したのはアレン・ダレスである)。

幾つかのケースでは、7000人を超すアメリカ兵が、同意も得ずに実験にかけられた。タブン、サリンといったナチスの致死化学物質を含む神経ガス、それにLSDを含む精神化学薬品類が何も知らぬ志願兵にテストされ、これによって死亡した者や、生涯不具になった者までいる。

※ この「MKウルトラ心理操作実験」の実態については、別のファイルで詳しく触れたい。

 

─ 完 ─

 


 

■■おまけ情報:幻に終わった「ゼンガー計画」と「ダイナソア計画」


●第1章でも紹介したが、ナチス・ドイツはロケット開発と並行して「ゼンガー計画」を進めていた。

これはロケット推進による「宇宙空間爆撃機」の開発計画で、オーストリア生まれのロケット工学者オイゲン・ゼンガー博士が考案したものである。

 


(左)ロケット工学者オイゲン・ゼンガー博士
 (右)彼が考案した「宇宙空間爆撃機(宇宙往還機)」

 

●戦後、ソ連に拉致されたナチスの科学者の1人であるクルト・マグヌス博士によれば、スターリンはこの「ゼンガー計画」に格別の関心を示していたという。

ソ連と同じく戦後に「ゼンガー計画」の資料を入手したアメリカも、この計画に多大な関心を示していた。

 

 

1959年11月9日、アメリカ空軍「宇宙往還機構想」の実現性を確かめるため、「ダイナソア計画」を開始した。

※「ダイナソア(Dyna-Soar)」とは、「ダイナミック・ソアリング(Dynamic Soaring)」の略称である。

 


「X-20」ダイナソア機

アメリカは戦後、ゼンガーの研究を
ベースに「ダイナソア計画」を進めていた

 

この計画は、デルタ翼を持つ全長11m足らずの機体「X-20」を大型ロケットで大気圏外へ打ち上げ、偵察や救助、爆撃などの任務を果たした後、飛行機のように滑空し帰還するというものだった。

「X-20」の機体はボーイング社が設計し、1961年にモックアップ(実物大模型)が完成した。翌年6人のテスト・パイロットが選抜され、1963年に滑空テストを行い、1966年に実機を軌道上に打ち上げる予定だった。

 


1962年に選抜された6人のテスト・パイロットと「X-20」のモックアップ

 

●しかし、NASAが進めていた有人宇宙飛行計画=「マーキュリー計画」(1959年~)の煽りを受けて予算を獲得することができず、

1963年12月10日、マクナマラ国防長官の命令で「ダイナソア計画」中止された。

 

 

●結局、「ダイナソア計画」は「実機」を作ることなく終了してしまったのであるが、この計画はスペースシャトルの元になったと言われている。

 


1981年に登場した「スペースシャトル」

NASAが開発した世界初の「再使用型宇宙往還機」で、
「軌道船」「外部燃料タンク」「固体燃料補助ロケット」の3つの 
部分によって構成されている。滑空飛行などの試験用に作られた
機体を合わせ、合計6機のスペースシャトルが製造された。

 

 


 

■■追加情報:1946年にアメリカ軍はV2ロケットを宇宙へ発射していた


●1946年10月24日、アメリカ軍はドイツから捕獲したV2ロケットをニューメキシコ州の「ホワイトサンズ・ミサイル実験場」から発射したが、このV2ロケットは高度65マイル(約105km)に達し、「宇宙」に到達していた。

※ 参考までに「国際航空連盟」は高度100kmから上を「宇宙」と定義している。
(なお、アメリカ空軍は高度80kmから上を「宇宙」と定義している)。

 


1946年にアメリカ軍が発射したV2ロケットの映像

 

●また、このV2ロケットは「ジョンズ・ホプキンズ大学」の応用物理学研究所によって提供された特製の35ミリカメラを搭載しており、宇宙空間に達するまでの映像を撮影していた。

 

↓V2ロケットに搭載したカメラで宇宙空間から初めて撮影された地球(1946年)

 

 

First Photo From Space - Air & Space Magazine
https://www.airspacemag.com/space/the-first-photo-from-space-13721411/

 

 


 

■■追加情報 2:英BBCが制作したドキュメンタリードラマの紹介

 


ドキュメンタリードラマ
『宇宙へ ~冷戦と二人の天才~』

制作:英BBC(2005年)/原題:Space Race

 

●この作品は、英BBCが制作したドキュメンタリードラマ(全4話)である。

日本でもNHKで放映され、大きな好評を博した。


◆第1話:「ロケット開発」(RACE FOR ROCKETS)

◆第2話:「衛星開発」(RACE FOR SATELLITES)

◆第3話:「有人宇宙飛行」(RACE FOR SURVIVAL)

◆第4話:「月面着陸」(RACE FOR THE MOON)

 

第1話は大戦末期のナチス・ドイツが舞台で、アメリカとソ連がV2ロケットの存在を知り、「戦利品」としてV2ロケットの技術を手に入れようと血眼になる姿が描かれている。

第2話以降は、フォン・ブラウンとコロリョフという2人の天才科学者を通して、米ソのロケット開発競争がリアルにテンポ良く描かれている。

 


作品中に登場するV2ロケットとフォン・ブラウン

 

●この作品は、V2ロケットの製造過程で多くの人間(ナチ強制収容所の収容者)が犠牲になったという闇の部分や、戦後アメリカに渡ったフォン・ブラウンが、元ナチ党員でありSS少佐だったという自分の過去で苦しむ姿なども丹念に描かれている。

また、ソ連で活躍したコロリョフの人物像も丁寧に描かれており(とても魅力的な人物として描かれている)、ストーリー全体に重厚感があり、バランスの良い作品に仕上がっていると思う。

 


作品中に登場する
ソ連の天才科学者コロリョフ

 

★参考までに、この作品の前半(第1話)で印象に残ったシーン(言葉)を紹介しておきたい。


※ 以下、ネタバレ注意。


── ─ ── ─ ── ─ ── ─ ── ─ ── ─ ── ─ ──


■アメリカ軍の兵士たちがV2ロケットのフィルムを見ながら話し合う場面


●アメリカ情報部のステイバー少佐が、V2ロケットについて質問する。

◆ステイバー少佐:「この計画の責任者は誰ですか?」

◆情報通の男:「ヴェルナーです。名前はヴェルナー・フォン・ブラウン博士

◆ステイバー少佐:「ロケットの基地はどこです?」

◆情報通の男:「フォン・ブラウン博士が、バルト海沿岸にあるペーネミュンデで指揮をとっています。この8月にも爆撃しましたが、壊滅できませんでした。しかし、再度攻撃せずとも間もなくソ連がペーネミュンデを制圧するでしょう」

◆情報通の男:ナチスのV2ロケットの完成度は高い。我々のロケット技術より25年は先をいっています


●その後、ナレーターはこう語る。

「アメリカの技術情報を担当するトフトイ将軍には、V2ロケットを奪えとの命令が下されていました。もし、フォン・ブラウンのロケットと、アメリカが開発中の極秘新兵器・原爆を組み合わせれば、史上最も恐るべき兵器を手に入れることができる。アメリカの狙いはそこにありました」

 


 

■V2ロケット製造工場と「ドーラ収容所」の惨劇が暴かれる場面


●ナレーターはこう語る。

「(ここは)ロケット工場に労働力を供給するため、ナチス親衛隊(SS)が運営していた収容所です。6000もの遺体が埋葬もされず放置されていました。

のちに共同墓地を調べた結果、死者の数は2万5000人にのぼることが分かりました。皮肉なことにV2ロケットによる攻撃で死んだ者より、V2ロケットを作る過程で死んだ者のほうが多かったのです」

 


V2ロケットの組み立てに携わっていた
「ドーラ収容所」の囚人たち

 

■フォン・ブラウンがアメリカ軍に投降し、その場で尋問を受ける場面


●フォン・ブラウンは尋問官(アメリカ情報部のステイバー少佐)に対してこう語る。

「ペーネミュンデでのロケット開発は……、戦争のためではあった。しかし、兵器としてのV2ロケットは技術の応用の一形態にすぎない。我々はもっと先を見ていた。他のロケットの開発も進めている。

設計図を描き終えたA9ロケット有人ロケットで、600kmを17分で飛び、大気圏上層部から目標の地点に着陸する。キャビンにクルーを乗せ、2段か3段のブースターロケットを付ければ、地球の重力を振り切るだけの充分な速度を出せる……。紙をもらえます?」

 


(左)アメリカ情報部のステイバー少佐
(右)尋問を受けるフォン・ブラウン

※ この尋問はドイツが無条件降伏した
 1945年5月に行われたという

 

●紙と鉛筆をもらったフォン・ブラウンは、イラストを描きながらやや興奮気味に語り続ける。

カプセルは地球の周りを回る。動力源は必要ない。月と同じ理屈だ。軌道を一周するのにかかる時間は90分。科学的調査、天文学……、導き出される結果は無限だ」

宇宙ステーションは絶対に必要。もちろんドッキング・ステーションも建設する。さもなければ、地球の軌道を離れ、他の惑星の探査へとおもむく。火星金星……。ロケットを正しく発展させていけば、文明にとって革命的な結果を手に入れられる」

 


地球の周りを回るカプセル(人工衛星)などを描きながら
「宇宙ステーション」の建設や「宇宙探査」
について熱く語るフォン・ブラウン

 

●フォン・ブラウンの「ロケット話」を静かに聞き終えたステイバー少佐は、冷たい表情でこう質問する。

「あなたはナチ党に入っていましたか?」


●フォン・ブラウンは少し当惑した表情を浮かべながら質問に答える。

(以下、2人のやりとりである)

◆フォン・ブラウン:「ああ、入っていた…」

◆ステイバー少佐:親衛隊(SS)には?」

◆フォン・ブラウン:「ああ、戦争末期にはSS少佐だった…。しかし制服を着たことはない。それに私は技術者で…」

◆ステイバー少佐:「でも親衛隊員だった(のだから)、会ったこともありますよね? ハインリヒ・ヒムラー(SS長官)アドルフ・ヒトラーに」

◆フォン・ブラウン:「確かに、何回かはある…」

◆ステイバー少佐:「V2ロケットの大量生産工場が、ここにあったことは知っていましたか?」

◆フォン・ブラウン:「私は関わっていない。ずっとペーネミュンデの開発部にいて、数週間前にここへ異動させられた…」

◆ステイバー少佐:「でも、(囚人たちの悲惨な)状況を知っていたでしょう?」


●フォン・ブラウンは深いため息をつきながら、こう答える。

私がしなかったら、ほかの誰かが同じことをしたよ


●ステイバー少佐は冷たい表情のまま、フォン・ブラウンをしばし無言で見つめる。

その後(場面が変わり)ナレーターはこう語る。

「アメリカはフォン・ブラウンの戦争犯罪を追及するのはやめ、彼と彼の側近チーム、そしてV2ロケット100発分の部品をアメリカへ移すことにしました」


── ─ ── ─ ── ─ ── ─ ── ─ ── ─ ── ─ ──


■フォン・ブラウンがアメリカへ渡った時の場面


●ナレーターはこう語る。

「フォン・ブラウンは100人以上の幹部技術者とともにアメリカへ渡りました。(1945年10月29日)、軍の監視下でテキサスの砂漠の中にある陸軍の基地フォートブリスへ移動していました。

ドイツの技術者たちがアメリカへ来たことは、世論の怒りを呼びました。ある上院議員はこう抗議しました。『国を守るためにナチの人殺しを輸入するとは! 何人かは絞首刑になったナチ党員よりも深刻な戦争犯罪を犯しているのに!』」


── ─ ── ─ ── ─ ── ─ ── ─ ── ─ ── ─ ──


■フォン・ブラウンがアメリカの宇宙開発をテーマにした講演を開いている場面


●聴衆の中の一人の男が突然立ち上がって、フォン・ブラウンに鋭く質問する。

(以下、2人のやりとりである)

◆インテリ男:「すみません、フォン・ブラウン博士。フォン・ブラウン博士! あなたはドイツへ帰国すべきだというアメリカの科学者たちの意見をどう思いますか?」

◆フォン・ブラウン:「ここはそういう質問を受ける場ではありません」

◆インテリ男:「あなたはナチ党員で、ドイツでは収容所の囚人を働かせたとか…。どうなんですか、博士!」

◆フォン・ブラウン:「皆さんは今日はそんな議論を聞くためではなく、宇宙におけるアメリカの未来について聞きにいらしてるんです」

◆インテリ男:「でも、カネを払って来てるんですから、真実を知る権利があります!」

◆フォン・ブラウン:「私は過去よりも未来を見ています。一般市民でも宇宙旅行ができる日を──」


●ここで聴衆から大きな拍手が起こり、インテリ男は憲兵(MP)によって会場の外へひっぱり出される。

その後、ナレーターはこう語る。

「のちにフォン・ブラウン自身が、囚人を工場で働かせると決めたことが明らかになりましたが、アメリカ国民には知らされませんでした」


── ─ ── ─ ── ─ ── ─ ── ─ ── ─ ── ─ ──


●以上で、この作品の紹介は終了です。m(_ _)m

何回見ても、この作品は面白いです(傑作だと思います)。

ここでは詳しく紹介しませんでしたが、コロリョフ(を演じている役者)がかなり渋いです(^^;

V2ロケット宇宙開発に興味のある方にオススメの作品ですね。

 

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── 当館作成の関連ファイル ──

ナチス・ドイツで開発された化学兵器「タブン」「サリン」「ソマン」の謎 

ヒトラーの「究極兵器」と「マインド・コントロール計画」 

ナチスとアメリカ企業の協力関係 

 


 

 


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